アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
名前は岸部アイ。
年齢は16歳。女。出身地は不明。
「ゆーま、おなかすいた」
「今食ったばっかだろ、我慢しなさい」
そんなパーソナルデータの彼女、岸部アイは、保護者である岸部雄馬に訴えかけた。が、まだ昼食を摂ってから30分足らずの時刻だ。彼は呆れるだけで、食べ物はくれなかった。
「ハレはくれるもん、ドーナツ」
「そうか。ハレ、お前甘やかしすぎだぞ」
「いいじゃないですかぁ。アイちゃん、甘え上手なんですもん」
「そうかぁ?」
雄馬が台所で片付けをしている女性に声を掛けると、彼女は弱ったような声を上げた。少し色の抜けた黒髪を伸ばした、綺麗な女性だ。名前はハレ。雄馬の式神・護法童子で、普段は彼を守護しているが、家にいる時は主に家事をやっている。少し弱気なところもあるが、非常に優秀な式神らしい。
……というのはアイがみんなから聞いた情報であり、アイにしてみればハレは「甘えやすい相手」のようなものだ。
「でも、来た当時に比べれば、本当に良くなったじゃないですか。たまにはご褒美をあげてもよろしいのでは?」
「ん~……そうだなぁ」
「もう。どうしてご主人様は、基本女の子には甘々なのに、アイちゃんには結構厳しいんですか?」
「そりゃあ、こいつが娘みたいなもんだからだろ。しかも、生まれたばっかりの。甘やかすだけが愛情じゃねえんだぞ」
「ゆーま、きびしい。お菓子たべたい」
「後でな。言ったろ、おやつは3時って。それまでは我慢、な?」
「んもう」
どうせ言っても聞く耳持たずなので、アイは諦めてソファに座ってパズルのゲームを始めた。かれこれ数ヶ月間、同じゲームをしているが、あまりに新鮮でかつクリアできないので、まったく飽きていない。
「この辛抱が、どうして他に活きないもんかな」
「いいじゃありませんか。アイちゃん、すっかり良くなりましたよ」
「それも、そうだな……」
雄馬はそう呟いて、雑誌を手に取って読み始めた。そんな雄馬とアイを、ハレはまるで母親のような眼差しで見ていた。
…………
アイと初めて出会ったのは、今年の1月の下旬だった。
「うーさぶ……この季節は流石に寒いな」
暑がりの雄馬も、寒波には負けるもので、コートの前面をしっかりと閉めて夜道を歩いていた。仕事で帰りが遅くなるのはいつものことだが、バスの時間を逃したのは痛かった。
彼の自宅は、青蘭学園生の寮が点在する東居住地区ではなく、経済・行政地区にほど近い西居住地区にあった。東よりも静かなのが利点だが、学園特区との交通の便はそれほど良くない。何せ、経済・行政地区をまるごと横切らなければならないからだ。じゃあなぜ東居住地区に住まなかったのかというと、これには彼の仕事が大きく絡んでいた。
雄馬は、青蘭学園教務課に務める、全部で7人しか認められていない『
『権限者』とは、学園内の自治を行っている教官、その中でも特殊な性質を帯びたαドライバーを指す呼称である。無論、一般の生徒はこれの存在を知らないが、生徒会長や風紀委員長などはこのことを知っている。
業務内容は、平時は教官として働きながら、学園内のプログレスではどうしようもない事件が起きた時に出動し、事件を沈静化させる。事件の内容は様々だが、最も多いのはプログレスがエクシードを暴走させることだ。それを鎮圧するのが仕事のため、非常に高度な戦闘能力が求められる。
求められる能力は多岐に渡る。1人で複数の暴走状態のプログレスを鎮圧することなど、当たり前のようにできなければならない。
彼らは分類上、青蘭庁の学園運営部に務める公務員に当たる。学園運営部とはいうが、彼らの出番は学園内だけでなく、学園の外にも及ぶ。プログレス絡みならば、青蘭諸島のどこで、どんな事件が起こっても、それをどうにかするのが彼の仕事なのだ。
そういう仕事の関係上、彼は西居住地区担当になり、そこに住まざるをえなくなってしまったのだ。
(まあ、住み心地の良い家はもらったし、賢緑島まで帰んなきゃいけない海斗に比べりゃましだけどさ……)
声に出さないちょっとした文句をぶちぶちとやっていると、不意に光を感じた。妙な光を。
「ん……?」
現在雄馬がいるのは『青蘭スポーツの森』の中だ。体育館や陸上トラック、マラソンコースやテニスコートなど、陸上スポーツならなんでもござれな巨大な公園で、帰宅ルートの中に入っている。当然そこには、ブルーミングバトルを行うためのコロシアムもあった。そして、彼は今、ちょうどその横を通りかかったのだが……。
「なんだ……緑の光なんて」
コロシアムから、緑色の光が漏れているのが見えた。絶対に何かある。そう確信した雄馬は、すぐに入口をカードキーで開け、コロシアムの中に入った。
コロシアムの中央には、少女が1人、佇んでいた。
見たこともない少女だ。暗くてよく見えないが、月明かりに映える銀髪だ。それに、見覚えのない黒い軍服を着ている。彼女は何が起きたのかさっぱり分からない、という風に呆然と辺りを見回していた。
その赤い眼が、雄馬を捉えた。無感情な眼差しだった。
一瞬、悩んだ。彼女は何なのだろう。彼を見ても、そこに何の新鮮さも映さない瞳が、いやに不気味だった。
だが、友好の道があるなら、それを選ぶに越したことはない。
「やあ、君――」
そこで言葉を切ったのは、ナイフが1本飛んできたからだ。まっすぐに心臓を狙っていた。だが雄馬も(まだ未熟とは言え)権限者だ。胸にナイフが突き立つ直前で、その刃を指で掴み取った。
――こりゃ、久々に
若干冷や汗をかきながら、雄馬はコートを脱いで、そのへんに放った。向こうがその気なら、こっちもその気で行く。そうしなければ――殺されるのは目に見えている。
「おいおい、いきなりそれはねえだろ。君がそういう手合いなら、俺もそうするが――」
「――壊す」
か細い、風に乗って消えてしまいそうなほど薄い、しかし強い声。少女はその一言だけしか放たなかった。しかし、それで十分だとすぐに分かった。
彼女を取り巻くように現れた、数十本のナイフ。先ほどのものと全く同じだ。それが、まるでガトリングガンのように雄馬めがけて発射された。
「――ハッ! いいねぇ」
だが、そんな状況にも、雄馬は動じない。太々しく笑い飛ばすと、ぐっ、とコロシアムの地面が抉れるくらい強く踏みしめ、横っ飛びに避けた。
しかも、避ける刹那。飛んできたナイフの、今度は柄を掴み、それを少女めがけて投げ返した。久々に暴れられそうで、筋肉が、心が、魂が喜んでいる。投げ返されたナイフは、明らかに少女が撃ってきた速度よりも速い。
暗さのせいか、少女は反応できなかった。恐らく、自分のナイフが投げ返されることを想定していなかったのだろう。ナイフは少女の右肩に突き刺さる――どころか、その勢いのせいで周辺の肉を抉り飛ばした。鮮血が散り、少女は痙攣したように身体をビクつかせる。痛覚は感じるのだろう、少女は肩を抑えて俯いた。
「どうだ、やめるか?」
雄馬が声を掛けると、少女は再び雄馬を見た。今度は明確な感情が宿っている。それは、驚きだった。まるで、抵抗されるということ自体が新鮮であるかのように。
「――壊す」
その掛け声と同時に、今度はナイフが数百本現れた。コロシアムから見える空を埋め尽くさんばかりの量に、流石の雄馬も瞠目する。
「――行け、《ミリアルディア》」
――マズイな。
右肩を抉られたダメージは相当なものだろう。だが、少女はまるで戦闘意識を捨てない。恐らく意識を絶たないと駄目だ。だが、ナイフを投げ飛ばしてでの攻撃では意識を奪えない。痛覚のショックで気絶させるという手が頭を過ぎらなかった訳ではないが、そうしたら彼女の生死に関わる。
――ぶん殴るしかねえな。
雨のように、しかも雨よりも速いスピードで降ってくるナイフを、避ける。避けながら、少女に近づいていく。
当然、避けきれるはずがない。腕に、脚に、ナイフが刺さっていく。しかも、地面に落ちたナイフを操作したのだろう、背中にも刺さった。だが、絶対に急所だけは狙わせない。頭も心臓も、未だ無傷だ。
まるで泥の中を這い進むかのようだった。しかし、こんな状況でも雄馬は
「手間、掛けさせんな」
そしてついに、雄馬の拳が少女に届いた。空気を震わせるほどの鉄拳が少女に突き刺さり、彼女は意識を絶たれた。予想通り、ナイフの雨は止み、体中に刺さったナイフも消滅した。
「あっ、マズい……」
ナイフが消えたということは、全身から出血し始めたということだ。彼は慌ててポケットから携帯電話を取り出すと、とりあえず目に付いた電話番号に掛けた。それと同時に、失血によりめまいが起きて、コロシアムの地面に倒れた。
『――――……もしもし、雄馬くん。どうしたの、こんな遅くに?』
「凌雅か……スポーツの森のコロシアムに……来い……あと救急車呼んで……」
『な、何があったの!?』
「やべえのと戦って……し、死に、そう……――――
…………
「容態は?」
「お前は大丈夫なのかよ?」
「俺はすぐに治るから。で、彼女は」
「安定してるよ。手術は無事成功。外傷も治ったし、胸部に埋め込まれていた装置も摘出できた。今は、そっちの調査を進めてる」
「その、各部位アンドロイド化については……」
「それも成功。一部臓器と骨格、それから脳を少し、アンドロイド化できた。これまでの彼女の通りに動けることだろう。とはいえ、まさかミハイルだけじゃなく、エスナまで来るとは」
「エスナ……って、確かE.G.M.A.の直轄アンドロイドとかいうやつ?」
「そうだ。少し喧しいが、腕は確かだったぜ。しかし、危なかったな。エスナがいなきゃ、エクシードの移植までは上手くいかなかっただろう。移植っつう言い方はちょっと語弊があるが……どっちにしろ人間には荷が重い作業だった」
「じゃあ彼女は、今まで通りにエクシードを使えるんだな?」
「そうだ。だが、少し出力は落ちるだろうってエスナは話してた。まあ、これは使い込んでいけば元に戻るだろうとも言っていたが。それと、脳を調べる過程で、彼女に掛かっていた洗脳も解いた」
「やっぱり洗脳されてたのか」
「ああ……だが、薬物で洗脳した影響で、恐らく改造される以前のものであろう記憶は完全に破壊されていた。それは復元できなかったんだ。済まない」
「謝るなよデルタ。お前のせいじゃない」
「ありがとう。それと、彼女から改造後の記憶を取り出した。それの検証もしないといけない」
「あの子、どの世界から来たんだろう」
「恐らく、黒でも赤でも白でもない。何せ、装置の原動力になっていた水晶の色は
「そういえば、あの子を見つける直前、緑色の光が見えたんだ」
「緑の世界……そんな世界があったとして、あの子のような改造プログレスを作ってるんだとしたら……まるでブルーエデンの再来みたいじゃないか」
「聞きたくない名前だ」
「僕もだよ。だが、その世界が近づいているのは、明らかなんだ。彼女は、きっと予兆に過ぎない」
「予兆、か……何事も起きないといいが」
「そうはいかないのがこの世界ってもんだ。お互い、覚悟を決めるしかないな」
…………
目が覚めると、見たこともない真っ白な天井が目に入った。
「……ここ、どこ?」
感じたことのない涼しい気分が、胸の中を満たしているようだった。窓から入ってくる冷たい風、そして、ざあざあという、聞いたことのない音。
音だらけなはずなのに、不思議と、静かに感じた。
「……寝覚めはどうかな、君」
その声に、少女の意識はハッと覚醒した。ナイフを呼び出そうとした。だが、出ない。
「大丈夫だ。俺は君の敵じゃない。大丈夫だよ」
優しい声だった。見上げると、あの夜に戦った相手の男が、ベッドの脇でニコニコしながら立っていた。
「……だれ?」
「俺は、岸部雄馬。雄馬って呼んで」
「……ゆーま」
「うん、いい子だ」
雄馬は手を伸ばして、少女の頭の上に置いた。その時、少女は何もできなかった。それで初めて気づいた。
「……こえ、聞こえない」
「え、聞こえてないの?」
「ちがう。あたまの中が、静かなの」
「……そっか。大丈夫だよ」
雄馬は少女の頭の上に置いた手を、そのまま動かした。髪がかき混ぜられて、妙な気分になった。滅多に覚えない気分だ……。
「……きもちいい」
「だろ? 頭を撫でられるのは、気持ちがいいもんだ」
雄馬は、しばらく少女の頭を撫でていたが、不意にかがみ込んで、お互いの目線の高さを合わせた。
「君、名前はなんていうの?」
「……アインス。アインス・エクスアウラ」
「アインスね。長いから、アイでいいや。アイって呼ぶよ。分かるかな?」
「……アイ。うん。アイは、アイ。わかったよ」
「えらいな、アイは」
「でも……こえが、聞こえない。あたまの中で、ああしろ、こうしろ、って言ってたこえ、聞こえない。アイ、どうすればいいのかな」
「どうにでもできるさ。俺に任せろ」
少女――アイは、嬉しそうに微笑む雄馬の顔を見て、また不思議な気分になった。
壊すって、いったいなんだったのだろう。
…………
それから、2ヶ月が経った。
「風呂で寝るなって言っただろ? ほら、こうやってのぼせることになる」
「うぅ……」
「他は割といい子なのに、なんでこれだけは守れないもんかね」
「ごめん、なさい……」
アイは、これで12回目の注意を受けているところだった。
身元不明の彼女は『岸部アイ』と名付けられ、雄馬が引き取ることになった。あまりにも常識知らずの彼女は、雄馬の教育によってこの世界に馴染みつつあった。まだ家から1人で出ることは許されていないが、時々なら雄馬同伴で外出できるようにもなっている。
「ほら、水飲んで」
「ん……ありがとう」
「どういたしまして」
アイはこの世界の文化をえらく気に入ったらしく、雄馬が家に持って帰ってくるもの、そして元から家にあるもの全てに興味を示した。青の世界の中でも日本ならではの『湯浴み』という文化も、彼女が気に入ったものの1つだ。だが、適温での入浴があまりにもリラックスできるようで、彼女は放っておくと湯船の中で眠ってしまうのが問題だった。アイが湯船の中で寝ているのに気付く度に、ハレはアイを湯船から引き上げる必要がある。当然アイはのぼせているので、身体拭きから服を着せるまで、全部ハレの仕事に追加だ。最近になって頻度は落ちてきたが、そろそろ大丈夫かなと思ったタイミングでやらかすものだから、ハレとしては溜まったものではない。
その他で言うと、特に甘味の類への食いつきはすごく、雄馬はこれをご褒美にすることで教育のスピードを高めていた。
中でも不思議な反応を示したのは、ドーナツである。
「これ、ドーナツ」
「知ってるのか?」
「うん。ユニとナイアが、くれた」
彼女の言う、ユニとナイアという人物が誰だかは知らないが、とにかく彼女が元いた世界では、青の世界に近い製菓の文化があったようだ。そして、彼女にとって思い入れのあるらしい数少ないそれは、彼女の大好物になっている。
「ねぇ、ゆーま」
「どうした、アイ?」
「アイね、いつかゆーまと一緒にたたかいたい」
「一丁前に宣言か、いいね。まずは俺とそれなりに渡り合えるようになることから、だけどな」
「むぅ……ゆーま、ほんとうにつよい。追いつきたい」
アイは、時折こういう風に、雄馬と共に戦うことを望んでいるようなことを言うことがあった。彼は彼女に、戦闘の訓練もつけている。アイは常識知らずだが、戦闘に関しては天性のセンスがあるようだった。だが、前の世界のやり方では、その才能をまるで引き出せていないようで、雄馬は勿体無く感じるとともに、こんな素晴らしい子を、しっかり鍛えた上で部下にできれば、少し仕事が楽になるかなー、と考えていた。
だが、それよりも彼は、アイがちゃんとした『人間』になることを望んでいた。
「追いつけるさ、必ず」
…………
「ゆーま、3時。おやつの時間だよ」
「まったくお前ってやつは、おやつのことになると、体内時計が倍増しで正確だな。ハレ」
「はいはーい。アイちゃんおいで~。はい、ちゃんと椅子に座ってね」
「うん」
ハレの用意するお菓子に釣られて、非常に素直にテーブルにつくアイ。無表情ながら、その目は明らかにキラキラしている。
雄馬はそんな彼女を眺めながら、ふと思った。この子は、まだ我々が知らない世界を知る、重要な鍵だ。実際、彼女を捕獲した際に取り出した記憶から、その世界における彼女の所属国が戦争状態にあることも、既に判明している。そこで彼女が、どういう風に働かされていたかも。
アイは、まるで道具のように使われていた。感情を持たない殺人マシーンとして。
だが……いや、だからこそ、なのだろう。その束縛から解き放たれた彼女が今、こうして様々なことに興味を示し、自分の意思を持って行動しているのは。
「……人間、か」
雄馬はそう呟くと、アイを改めて見る。ドーナツを頬張る彼女は、この上なく満たされているように見えて、それを見た雄馬も、自然と心が暖かくなったのを感じた。