アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements*   作:トライブ

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4話 御影葵は甘党である。

 6月某日。

 葵は、目の前のテーブルに置かれた、緩やかに湯気を立たせる焦げ茶色の液体にうっすら映った自分の瞳を見つめた。

「さあ、飲んで」

「うぐ……」

 我ながら女子らしくない呻き声が出たという自覚はあったが、そんなことはどうでもよかった。

 マグカップを取り上げ、何度も息を吹きかけて冷ましてから、そっと一口……ほんの一口だけ、その液体を口に含んだ。

 (にが)い。

 超苦い。

 なので、なんとか喉に流し込んでどうにかした。だが口内の苦味は全然消えないので、たまらず横に用意しておいたグラスから水を飲んで、後味を消しにかかった。

「む……無理……っ」

「もう、だらしない。お兄さんが悲しんじゃう」

「べ、別にいいもん……!」

 向かいに座っている(じゅ)()はやれやれと首を振った。悔しいが、流石にこればかりは好みの問題である。でもやっぱり悔しい。

 

 御影葵は、コーヒーが大の苦手だった。

 

 

…………

 

「大体、なんであんたが付いてくるのよ」

「お兄さんが、いいお豆があるから取りにおいでって言ってくれたから」

「はぁ……甘いんだから」

 数日前。

 葵と樹理は、葵の兄の家へと向かっていた。葵は「たまには遊びに来て欲しい」と兄からメールを貰ったので仕方なく、本当に仕方なく行ってやることにしていたのだが、樹理の方は明確な目的があるらしい。

(呼び出す口実くらい、考えておきなさいよね)

 と心の中で叱責するのも馬鹿らしいが、やたらと気が利くくせにそういうところに鈍感なのは、昔から兄の数少ない欠点であった。

 隣を歩く(ふる)()樹理は、小さい少女だった。短く切り揃えられた髪と、丹精な顔立ち、それに薄く小柄な体躯は、精緻な人形を思わせる。そんな素体の良さを隠すかのごとく、明らかにぶかぶかなパーカーと、どう見ても男物のカーゴパンツを着用している。パンツの方はまだしも、パーカーは袖を持て余すレベルでぶかぶかだ。遠目からなら少年にも見えるだろう。服装のセンスが皆無なのか、はたまたこれを気に入っているのかは不明である。試しに聞いてみたところ、「これ? いいでしょう」としか返ってこなかった。もっとも、今日の葵も白のワイシャツにデニムパンツを合わせている。彼女も彼女で男っぽい格好だが、こちらはただの私服の好みであった。

 樹理は普段から無表情で口数も少なく、何を考えているのかよくわからないところもあるが、寂しがり屋なのは確かで、よく猫のようにスルリと誰かのそばに寄って行っては甘やかしてもらっている。そんなところも総合して、大いに不思議な少女だ。

 そんな彼女は、ちょっとびっくりするほどのコーヒー好きである。自前のミルとサイフォンを持っているほどだ。こんなに可愛らしい見た目(服装は除く)なのに、よくあんなに苦いものを……と思う葵だったが、それもまた、人の好みであろう。

 青蘭学園に国語の講師として勤務している葵の兄の家は、葵と樹理が住む満月寮と同じく、青蘭島の東居住区に位置している。それほど遠くはないが、だからといって頻繁に顔を出すかといえば、どうせ学校で会うんだし、と葵は敢えてそこに行くことはなかった。ところが、向こうが先に音を上げたので、仕方ないから行ってやろう、ということだった。生まれてこの方、あの兄に何かしらでも勝てたことはほぼ無いに等しかったが、今回は珍しく勝てた。

 もちろん、楽しみだった。

 

 兄の家は一軒家である。青蘭島はなんだかんだで土地が余っているので、地価がそこまで高くない。とはいえ、26歳で一戸建てを買うとは、彼がとんでもなく稼いでいる証拠だった。ただの講師でここまでお金が稼げるとは思えなかったが……。

 インターホンを鳴らすと、「はーい」という声の後、重い扉が開かれた。

「2人とも、いらっしゃい。待ってたよ~」

「はいはい、そういうのいいから」

「もう、葵ちゃんは冷たいなぁ」

「お兄さん、こんにちは」

「こんにちは、樹理ちゃん。さあ、2人とも上がってね」

 にこやかな表情で出てきたのは、葵の兄・()(かげ)(りょう)()である。物腰が柔らかく、誰にでも優しい男で、11個も年が離れている葵は、この兄に甘やかされて育ってきた。年齢が大きく離れている上、性格は聖人なので、もちろんいじめられたこともない。どんなに口ではどうでもいい風を装っていても、彼に懐いているのは否定できなかった。

 それはそれとして、この兄は少々特殊な趣味を持っていた。

 それが、今の彼の格好である。

 まず、上半身に着ているのがクリーム色のVネックのカットソーだ。しかも、明らかに女性物である。下は黒か紺のガウチョパンツ……が普段なのだが、今日は正真正銘、黒のアシメ(左右非対称な)スカートだ。その下に同じ色のズボンを穿いている。葵と同じく艶やかな長い黒髪も、いつもは背中側で緩く束ねるだけなのに、今日は頭の真後ろより若干左でひと纏めにしていた。その上で、前髪はピンで右側に寄せている。最後に、本人は背がすらりと高く、メイクなど一切していないくせに役者のように整った美形の優男。

 はっきり言って、女性にしか見えなかった。

 凌雅の最大の欠点として、女装を好む、というものがあった。講師として勤めている時は流石に抑えている(それでも中性的よりかは女性寄りに見える)が、今日の彼はまるきり女性だ。今の今まで知らなかったが、普段こんな格好で外を出歩いているのなら……表情には出さなかったが、葵はこっそり冷や汗をかいた。そして、こんな格好でも女子ウケがいい、というかそれも彼の性格の良さゆえだろう。

 葵と樹理を合わせて、この場にいる3人の中で最も女性らしい格好をしているのが凌雅だった。そう考えると、結構複雑である。

「お兄さん、そのスカート可愛い」

「そう? つい買っちゃったんだよね~。ありがとう」

 樹理は凌雅のことを「お兄さん」と呼ぶ。葵の兄だからお兄さんなのか、それとも本当に兄だと思っているのかは分からないが、仲良くなったきっかけはコーヒーショップで出会ったかららしい。彼女は甘えん坊だからか、甘やかし屋な凌雅との相性は良く、学校でもよく甘えている。今も凌雅に頭を撫でてもらって、幸せそうに頬を緩ませていた。

 彼の家は、とても清潔だった。フローリングは磨き上げられ、センスの良さを感じるインテリアの数々は整頓されている。テーブルの上には、皿に何やらおしゃれなクッキーが盛られている。

「クッキー焼いたんだ。葵ちゃん好きでしょ? 樹理ちゃんもよかったら食べてね」

 それは女の子が言うセリフだろうと思ったが、彼がお菓子を作るのが好きで、小さい頃はよく彼の作ったものを食べていたのを覚えている葵は、それをひとつ手に取って口に運んだ。葵が大好きな、甘くて懐かしい味だった。

 葵は甘党である。幼い頃から凌雅が作ってくれたお菓子を食べていたから、というのもあるが、単純に甘いものが好きなのである。クールで通っているから普段はそれほど表には出さないが、寮でお菓子の話をしていると結構話し込んでしまう。そういう点では、所属している剣道部のマネージャー・アウロラとは話が合う。時折、休日に彼女の食べ歩きに付き合うこともあった。

 そして逆に、苦いものや辛いものは苦手だった。だから、

「はい、コーヒーですよー。あとでこれのお豆あげるからね」

 この、コーヒーという苦いだけの液体が大の苦手であった。

 しかし、凌雅が持ってきたコーヒーは樹理の分の1杯だけだった。なにか嫌な予感を抱いた葵は……それがあっという間に的中してしまったのを知る。

「葵ちゃんのは、こっちね。ブラックは飲めないから、ミルクとお砂糖たっぷりのカフェオレ。好きだったでしょ?」

「え、えぇっ!?」

「葵、コーヒー、ブラックで飲めないの?」

 樹理の冷たい視線。

 普段はクールで通している葵が、ブラックコーヒーを飲めないなんて~。

 と如実に視線が語っているような。

 とりあえず、そ、そんなことないわよと反論しようとした(嘘をつこうとした)が、さらにその前に、

「葵ちゃんったら、昔から苦いもの苦手なんだよね~。コーヒーだけじゃなくてピーマンとかも……」

「ちょ、黙ってなさいバカ!」

 凌雅はさらっと葵の秘密を暴露していった。このクール極まる(ように見える)葵、その実態はただの甘党? だなんて格好が付かなすぎる。特にこの樹理の前では。

 だが、下手に足掻くのはもっとみっともない気がした。それも、この樹理の前では特に。

「でも、寮のご飯でピーマンとか入ってても、葵残さないよね?」

「さ、最近はそうでもないし」

 観念してそう言うと、凌雅は嬉しそうに笑った。

「そうなんだ! 葵ちゃん、成長したね~。昔の葵ちゃんは欠片でもピーマンが見えると、ものすっごい真剣な表情になって全部選り分けて残しちゃうから、隠すのが大変だったのにね」

「こ、これ以上変なこと言わないでよ!」

 真っ赤になった葵は、顔から湯気を出しながら俯いてしまった。そんなところで真剣になってどうするんだ昔の私! などと思っていたが後の――というか今の祭りだった。

 それに、ピーマンとかなら別に最近は普通に食べられるようになったのは成長だと思う。幼い頃は、こんなもん一生食べない! と意地を張っていたが、今では――あまり好まないとは言え――食べられる。

 それでも、どうしても乗り越えられないものが1つだけあった。

 

 それが、今目の前で湯気を緩やかに立たせている液体、コーヒー。

 

 今は砂糖とミルクたっぷりで甘くなっているが、この苦いだけの液体をどうして人は好むのか、またなぜこんなものを飲めるのか、というのは、葵の中でも永遠の疑問の1つだ。甘党と同じく、苦党とかいうものも存在するのだろうか。何かの罰ゲームなのか。その理由がまるで理解できなかった。

 凌雅を見ていれば、歳を重ねればそのうち飲むようになるのかなーと考えていたこともあったが、それは目の前の樹理に打ち砕かれた。聞けば、小学5年生くらいの頃にハマったらしい。はっきり言って味覚障害だと思うが、まあ違うのだろう。

 凌雅は、葵が物心着いた頃から既にコーヒーをブラックで飲んでいた。彼の真似をしてみたかった幼い頃の葵は試しに1回飲んでみたが、あまりの苦さに思わず泣いたレベルだった。それがきっかけで、凌雅は彼女にミルクと砂糖たっぷりの甘いカフェオレを飲ませてあげるようになったのだ。

 今回のカフェオレも、一口含んでみると、豆が違うからか風味が異なるものの、葵好みの暖かい甘さだった。

 

 それが何となく腹立たしかったのか、はたまた樹理が凌雅と仲良さそうに話しているのが気に食わなかったのか……自分でも分からないまま、葵は終始むすっとしたままだった。

 そして、凌雅が気を遣ってくれてもぶっきらぼうな返答しか出来ない自分が嫌になった。

 

 

…………

 

 それが嫌だったからこそ、葵は今こそ苦手克服の為に、樹理に協力を要請してコーヒーをブラックで飲めるようにしたかったのだが……。

「樹理。人間には、得手不得手があるんだ」

「言いだしっぺはあんたでしょうが」

 樹理は、葵が飲めないと判断したコーヒーを勝手に飲みながらすまし顔で返した。言いだしっぺのくせに泣き言を言ってしまうことは屈辱だったが、だからといって苦いだけの液体をコップ1杯飲めるわけではなかった。

 テーブルに突っ伏す葵を、頬杖を突いて眺める樹理は、しばらく黙った後、沈黙を破った。

「そもそも……どうして葵はコーヒーをブラックで飲めるようになりたいの? 別にいいじゃん。クールキャラのくせに甘党でも。私も好きだよ、甘いもの」

 そう聞かれて、葵はすぐに返答できなかった。

 もちろん、理由はある。でも、それがうまく纏まらなかった。素直になれない自分が嫌だから? 樹理と凌雅の仲に嫉妬したから? 何もかもお見通しなのが腹立たしいから?

 認めたくはないが、どれも正解だった。だが、それだけではなかった。

 頭の中で、凌雅の笑顔が浮かんだ。幼い頃から全く変わらない、葵を安心させたいという思いから来る笑顔。

 不意に、先日アウロラと話したときの自分の言葉を思い出した。

 

『兄だけには、是非とも勝ち越したいです』

 

 考えてみたところ、結局()()に行き着いてしまった。自分が兄に反抗したい理由なんて、結局それしかないのだ。

 剣道で負け続けた。何もかも見通されている。ただそれが気に食わないだけなのだ。

 裏を返せば、剣道が弱くて、何もかも見通されているような薄い自分が嫌なのだ。

 

 葵はがばっと起き上がると、携帯を取り出し、兄に電話を掛けた。

『もしもし? どうしたの葵ちゃん』

「今どこにいるの?」

『家だけど』

「じゃあコーヒー入れて待ってなさい。10分で行くわ」

『いいけど……』

「それから、ミルクも砂糖も抜きでね」

『えっ? 葵ちゃん、それ飲めるの?』

 それには返事をせずに通話を切った。それから樹理に、

「悪いわね、ちょっと出てくるわ」

「へぇ、強気」

 にやっと返されてしまった。どうやら樹理にさえ葵の考えはお見通しのようだ。だが、今はどうでもよかった。

 葵はパッと私服に着替えると、最低限の荷物を持って部屋を飛び出した。

 

…………

 

 凌雅は、普段と何も変わらない様子で葵を出迎えた。急だったので、髪は雑に纏められていたが、服装は女物ではなかった。中性的ではあったが。

「いらっしゃい、葵ちゃん。また来てくれて嬉しいよ」

「お邪魔します」

 リビングに入ると、葵の言ったとおり、テーブルの上でコーヒーが湯気を立てていた。黒に近い茶色。紛れもないブラックコーヒー。砂糖が入っていないとは言い切れなかったが。

「で、どうしたの葵ちゃん。ものすごい急だったけど。それに、コーヒーをブラックで入れろだなんて、らしくもない」

「いいの。見てなさい」

 葵はそう啖呵を切ると、目の前のマグカップを口元へ持っていき、それに口を付けて、一口含んだ。

 案の定だ。苦い。だが、意地でもそれを顔には出さない。頑張って飲み込む。口の中が空になると、また一口。また一口。幼い頃を思い出して泣きたくなるが、我慢する。我慢して、飲み干す。この男を打ち負かすのだ。もうブラックコーヒーを飲んで泣いていた御影葵ではないぞ。

 何時間も経ったかと思うほどの回数、口の中を空にすると、マグカップの中が空になっていることに気付いた。それを認識すると、葵はマグをテーブルに戻し、不敵に微笑んだ。

「どう? もう私はブラックでコーヒー飲めるのよ」

「涙目だよ。葵ちゃん」

「あ、熱かったからよ!」

 思わずムキになってしまった。凌雅はしばらく葵を見つめると、急に悪戯っぽい表情になった。

「なんか葵ちゃん、随分と急いで飲んじゃったけど、もう少し味わって飲んでね。これ、僕の特製ブレンドなんだから」

「え?」

「コーヒーは味わってナンボだからね。はい、もう1杯」

 そう言うなり、彼はサイフォンからもう1杯をマグに注いだ。それが、葵の目の前にトン、と音を立てて置かれる。

 

 流石にお手上げだった。この男には勝てない。

 

 葵はそう結論付けるしかなかった。

 

…………

 

 凌雅は別にサディストではないので、からかうために入れたもう1杯のコーヒーは自分で飲んだ。

「ね、葵ちゃん、こっちおいで」

 負けて傷心の葵は、言われるがまま凌雅の指すソファに身をうずめた。その隣に彼も座る。普段だったら、近すぎるだとかあっちいけだとか言って強がる葵も、今は何も言わなかった。

「……私、あんたには勝てないわ」

「そりゃ、歳が11個も違うからね」

 凌雅の声はどこまでも穏やかだった。昔から聞いてきた、葵が1番落ち着く声。

「私、弱いな」

「んー……どうだろうね」

 彼は否定もしなければ肯定もしなかった。しばらく言葉を選んでから、でも、と続けた。

「でも、葵ちゃんは我慢してブラックコーヒーを1杯飲み干したよね」

「それが何よ……」

「我慢できたでしょ? それは偉い。よく頑張ったね」

「……うるさい」

「聞けば、エクシードの特訓も頑張ってるみたいじゃない。それも偉いよ」

「うるさいってば」

 素直に褒めてもらうのが恥ずかしかった葵は、それでも嬉しさを表現するために、彼に寄りかかった。昔の葵は、そのまま眠ってしまうのが好きだった。そして、しょうがないなぁとぼやく凌雅の腕に抱かれて、布団に連れて行かれるのが好きだった。

「……昔みたいに、そのまま寝ないでね」

「分かってるわ」

「そっか。ちょっと残念」

「どっちなのよ」

 なんだか可笑しくて、2人はしばし笑った。その後の柔らかな沈黙を、凌雅は優しく破る。

「……葵ちゃん。今まで言ってなかったけどね。僕が女装好きになったのは、葵ちゃんのためだったんだよ」

「どうして?」

 驚いて彼を見上げると、彼は憂いの表情を浮かべていた。

「……葵ちゃんの、お母さんになってあげたかったから、かな」

「…………」

 葵には、母親がいない。葵の出産に耐えられず、彼女の誕生から1年後、体調が優れぬままにこの世を去った。写真でしか見たことのない母親は、自分にそっくりだった。そして、凌雅にも。

「お母さんみたいに、甘えて欲しかったんだ。僕は、葵ちゃんのお母さんになってあげたかったんだ。それで、お母さんの着ていた服を着て葵ちゃんの前に出た時、葵ちゃん、何してんのって言ってたっけ。あれはショックだったなぁ」

 僕、結構勇気出したのにね。と寂寥感の滲む笑みを浮かべながら凌雅は語った。その表情を見て、葵は急に申し訳ない思いでいっぱいになった。葵が1歳になる頃に母は他界した。――それは、凌雅にとって、12歳で母を失うことでもあった。辛かっただろう。苦しかっただろう。悲しかっただろう。それでも彼は、残された葵を悲しませないために、自分に出来ることを探した。それが『母になる』ということだったにも関わらず。

 葵はそれを、何も思わずに否定したのだ。

 その事実に行き着いた葵は、当然自分の言動を謝ろうとした、が、それよりも前に。

「でも、それから僕自身が女装そのものにハマっちゃうんだからどうしようもないよね。実際カワイイでしょ?」

「は、はぁ!? 本気でカワイイと思って女装してるの!?」

「え、カワイくないの?」

 むしろ美人すぎる。というのが本音だったが……

 彼はきっと、そんな謝罪など粒ほども望んでいないのだろう。なぜなら――

 

「ずぇーーんぜんっ、カワイくないわ」

 

 と笑顔で言い放ってやった。それを見た凌雅は、それはそれで嬉しそうだった。

 

 

…………

 

 辺りが朱く染まる夕暮れ時に、葵は凌雅の家を出た。

「じゃあ、また学校でね」

「ええ、また」

 クッキーのお土産を渡された葵は、紙袋を手に後ろを向こうとした。が、凌雅がその肩を掴んだ。

「ね、葵ちゃん」

「何よ」

 彼は笑顔を浮かべていた。葵を1番安心させる、笑顔を。

「今じゃなくていいよ。いつか、僕の特製ブレンド、味わってね」

「……うん。今日はありがとう。()()()()()

 凌雅は、葵の口から自然にこぼれたその単語を聞き取るなり、殊更嬉しそうな笑顔になった。

「すっごい久しぶりだね、葵ちゃんが僕のこと、お兄ちゃんって呼んでくれたの」

「え? ……あっ、わ、忘れなさい!」

 

「やだねーん。だって僕、葵ちゃんの()()()()()だもん」

 

 その笑顔は、どこまでも晴れやかだった。

 

…………

 

 兄も、私の母親になりきれない自分を責めていたのかもしれない。

 

 でも、その笑顔は本物だった。兄は、私の兄であることを誇っていた。

 

 だから、私も誇ろう。御影凌雅の妹であることを、誇ろう。

 

 同時に、自分に足りない物を何もかも欲しがるのも止めよう。自分で言ったことだが、人間には得手不得手がある。

 

 彼の言うとおり――『いつか』でいい。いつか、お兄ちゃんの特製ブレンドコーヒーを味わえれば、それでいい。

 

 今の御影葵は甘党である。

 

 だから、帰ったら飲もう。ミルクと砂糖たっぷりのカフェオレを。


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