アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
時刻は午後7時を過ぎ、辺りはもうすっかり暗くなっていた。6月も中盤に差し掛かっている。太平洋上に浮かぶ青蘭島は梅雨前線の影響を受けないものの、ここ数日間は雨の日が続いていた。これから暑くなってくると、今度は台風の驚異に曝されることになる。まったくもって陰鬱な気候が続いていた。
今日は朝から珍しく快晴だった癖に、昼頃からは結局、しとしとと雨が降り出していた。
そんな静かな雨に打たれる青蘭学園の剣道場に、1人の少女がいた。それなりに広い道場の片隅にだけ明かりを付けて、何か奇妙な箱の前で正座している。少女は艶やかな黒髪を侍のようにポニーテールにして、剣道着に剣道袴を着ていた。既に竹刀の素振りを終え、面や籠手、垂に胴といった防具は全て外され、彼女の横に竹刀と一緒に置かれている。その辺に放り投げられたタオルは、既に彼女の汗を吸ってびしょびしょだ。
少女は剣道部に所属する青蘭学園高等部の1年生だが、今日は部の活動が無い日だ。それでも彼女は時々ここにやってきては、自主トレーニングに励んでいる。だが、今彼女が励んでいるのは剣道のトレーニングだけではなかった。
正座する少女の目の前に置かれた、様々な紋様が刻まれた1辺1メートルほどの立方体の箱の中には、大量の砂が詰まっていた。
「よし……いくぞ」
今まで目を閉じて瞑想していた少女はその両手の平を、意識と共に箱の中に敷き詰められた砂へと向ける。彼女がぐっと力を込めると、急に砂がざわめきだした。少女は意識を集中したままゆっくりと手を上に持ち上げていくと、ざわめいていた砂が彼女の手の動きに連なって上へと持ち上がり始める。だが、その動きはどこか鈍く、ぎこちない。未練たらしく重力にしがみついている。
少女の息が荒くなり始めた。集中するあまり眉間に皺が寄り、額には玉のような汗が浮かぶ。しかし彼女は尚も気を緩めない。前に突き出していた手のひらを、徐々に合わせるように閉じていく。すると、柱のように立ち上っていた砂が1本の棒状へ収束していった。そのまま力を流し込み、棒状の砂から1本の棒へと変化――
「――ッ」
させていく途中で、張り詰めていた糸が遂に切れるが如く、息が途切れてしまった。少女が弾かれるように板張りの床に転がると、立ち昇っていた砂は一瞬にして崩れ、サラサラと音を立てて箱の中へと戻った。
少女は荒い息を吐きながら起き上がると、箱の中の砂を忌々しげな視線で睨んだ。今日失敗したのはこれで5回目。1時間ほど前から、チャレンジしては力を使い果たし、少し休憩してはまた挑戦しているが……毎回毎回、ロクに力が整わないまま挑戦しているため、何度も失敗するという悪循環に陥っている。
もっとも、忌々しいのは自分自身だ。何時まで経っても進歩できない自分自身が、たまらなく恨めしい。
――今日は、もう止めようか……。
と、そこに、道場に入ってくる人影がいた。
「ご精が出るわね、葵ちゃん」
驚いて振り返った先には、背の高い1人の少女が立っていた。傘をさしても少し雨に濡れてしまったせいか、たおやかに揺れる緩いウェーブのかかった髪にはしっとりと水気が滲み、同じ女性の視点から見てもドキッとするような、艶かしい色香に満ちている。体つきもグラマラスで、整った顔立ちに浮かぶ表情も柔らか。非の打ち所がない。
1学年上のアウロラ・エオースという、赤の世界から来たお嬢様だった。剣道部のマネージャーをしている。
「あ、アウロラ先輩?」
御影葵はアウロラの方に向き直ると同時に、崩していた足を正座に戻した。それを見たアウロラは「そんな気を遣わなくていいわよ」と苦笑しながら靴を脱いで畳に上がると、葵のそばに近づいた。そして、葵の背後にある箱の中身を見るや、その顔に浮かぶ苦笑に僅かな『心配』の色が刺した。
「エクシードの特訓?」
「は、はい。でもどうしてアウロラ先輩が……?」
アウロラは剣道部のマネージャーではあるが、活動のない日にわざわざここに来るのは不自然だ。葵が当然の疑問を投げかけると、アウロラは剣道場の外を指差して、
「ここの外、もう紫陽花が咲いているでしょう?」
「そうですね」
「先日までは咲いてなかったけれど、フローリアが、綺麗だったよーって言うものだから。それを見に来てみたら、まだ明かりが点いていて。それで、もしかしたらって思ったの。急にお邪魔してごめんなさいね」
「ああ、それで……」
葵は納得したように頷いた。アウロラの友達に花から生まれた妖精・フローリアがいることは知っているし、実際に会ったこともある。それを除いて、そういうことに疎い葵でも、確かにここの外に咲いている紫陽花の青さたるや見事なものだと分かる。
「隣、いいかしら?」
「ええ、どうぞ」
葵は正座を崩して胡座をかきながら自分の隣を差した。少し無礼かもしれないが、葵の顔に浮かんでいる笑顔は、親しい友人に対するそれだ。アウロラはその意図を汲み取って、彼女もまたイタズラっぽい笑顔を浮かべて葵の隣に座った。
もっとも、どちらの笑顔もすぐに消えてしまった。葵は先程までの恨めしげな表情に、一方のアウロラは心配の表情に変わった。優しい先輩はうつむき気味の後輩の背中を撫でて、そっと声を掛ける。
「特訓、あまり上手くいっていないのね」
「そう、です」
葵は言葉少なに返す。そんな彼女の頭を、アウロラはよしよしと撫でた。
「もしかして、焦ってるの? だとしたら良くないわ。焦ったらどんどん、自分を見失っちゃうわ。剣道も、エクシードも」
「……でも、私は、早く強くなりたいんです」
「どうして? ……なんて、聞くだけ野暮というものかしら?」
「もちろんです。私は弱いし、私には、勝ちたい奴がいっぱいいますから」
葵は自嘲めいた響きでそう口に出す。アウロラは彼女の頭を撫でる手を止め、次いでポンポンと頭を叩いた。
「葵ちゃんは弱くないわ。こんなに頑張っているんだもの。弱いはずがないわ」
「それでも私は、未だにロクにエクシードが操れない自分が恨めしいです。彼女は……あの子はもう、操っているというのに」
「そうね……」
アウロラは葵に伸ばしていた手を引っ込めた。その顔には、優しい苦笑が浮かんでいる。
――あなたはこんなにも魅力的で、格好良くて、何よりも頑張っているのに。あなたは、自分の良いところに気付けていないのね。
彼女はその思いをどう伝えたものかと少し思案し、その末にこう言った。
「ね、葵ちゃん。私の前でエクシードを使ってみてくれないかしら?」
「え!? いやでも、私のエクシードはまだ人に見せられるようなものじゃ……!?」
「大丈夫よ。私とあなただけの秘密。ね?」
アウロラは葵に顔をぐいっと近付けると、思わずドキドキしてしまうような艶かしい笑顔になった。対する葵は、うう、とか、あう、とか言いながら、渋々といった感じで砂の詰まった箱に向き直った。
「これ、ただの砂じゃないわね? 魔力が宿ってる」
「はい。アルスメル先生に用意してもらいました。私のエクシードが通りにくくなってるんです」
「なるほどねぇ。それで、普段からこういうもので練習しておけば……」
「はい。他の物ではもっとやり易いはずです」
葵は正座に戻ると、深呼吸して背筋を伸ばし、先ほどと同じように手の平を前に突き出した。アウロラは、そんな葵の背中をそっと撫でる。
「焦ってはダメよ。気を張り詰めるのではなく、気持ちを解き放って。絶対に出来るわ」
「…………はい」
葵はもう1度深呼吸をすると、両手に力を込めた。アウロラの優しいオーラに当てられたためだろうか。はたまた単に疲れから、適度に力が抜けているためか。先ほどよりもずっと優しく、そっと力を込めていく。口をすぼめて細く長く息を吐くように、途切れることなく力を注ぎ込む。すると砂は、さっきのようにざわめくのではなく、サラサラと躍るように動き出した。
今までは、力を込めすぎてすぐに力を使い果たしていたが、今回は違った。焦らずに、深く息を吸い込んで細く長く吐き出すというサイクルを繰り返して呼吸を安定させ、箱の中の砂全体に自分のエクシードを浸透させていく。それからゆっくりと突き出した両手を上へ持ち上げていくと、砂は先ほどとはまるで違う様子で葵の思い描いた通りの姿に収束していく。1本の棒の形をとり始める。
最後の締め。葵は手の平をゆっくりと合わせ、そこに力を注ぎ込み――棒状の砂から、1本の棒へと錬成する。
終わった、という感慨は無かった。成功したことが分かったのは、隣で息を呑んでいたアウロラが喜びの声を上げたからだ。
「すごい、ちゃんと棒になってるわ! やったわね、葵ちゃん!」
「え? は、はぁ……やった……」
確かに、エクシードを切り上げても形が崩れない。成功だ。
不意に、ぐらり、と視界が傾いた。この挑戦は今日で6回目。とても静かに力を吐き出していたが、気づかぬ内に力を使い果たしてしまっていたのだ。気付けば葵は、アウロラの膝に倒れ込んでいた。
「あ、葵ちゃん!? 大丈夫!?」
「は、はい……でも、疲れました……」
アウロラは喜びと心配が入り混じった表情で、ハンカチを取り出して葵の顔の汗を拭いていく。
「でも、よく頑張ったわね。えらいえらい」
「ありがとう、ございます……でも、目標は刃にすることなんですよね」
「そうなの? でも、無理は禁物よ」
体に力が入らない葵は、アウロラの魅力的な柔らかさを持つ太ももに頭を預けたまま、目を閉じて深呼吸を繰り返した。
「ねえ、葵ちゃん。さっきも言ったけど、葵ちゃんは全く弱くなんかないわ。私、ずっとあなたを見てきたわ。葵ちゃんは一生懸命頑張ってる。その努力は、絶対にあなたを裏切らないわ。例え、今満足に結果が出なくても、いつか必ず実を結ぶ。そういう風にできてるの。だから焦る必要なんかないの」
「……はい」
アウロラの優しい口調は、葵の胸にゆっくりと染み入るように彼女を満たしていった。焦る必要はない。その事実は、頑固者の葵にもはっきりと理解できた。今、アウロラが教えてくれたから。そのお陰で、エクシードを操り切ることが、まあ一応とはいえできたから。
「何よりも、一生懸命頑張っているあなたは、とっても格好いいわ」
「そういうのは俊太に言ってやるべきなんじゃないですか? でもまあ、ありがとうございます」
そこで一旦言葉を区切った葵は、小さく深呼吸して、再び口を開いた。
「……先輩。さっき私、勝ちたい奴がいっぱいいるって言いました。でも、ただ勝ちたいんじゃないんです」
「?」
葵は目を開けると、澄んだ水晶のようなアウロラの目を見つめた。その瞳の奥の柔らかい光に囁きかけるように、己の心の裡を口に出していく。
「打ち負かしたいわけでも、勝ち越したいわけでもない。負けて、勝って、また負けて、また勝って。そういう風にしながら、みんなで強くなっていけたらいいなって、思うんです」
「……そうね。それはとても素敵な関係ね」
アウロラは変わらない口調で――しかし、ほんの少しの寂しさの滲む声で同意した。その声音に気づいたのか、葵は少し口元を挑戦的に釣り上げて、
「もちろん、アウロラ先輩もですよ。いつかバトルする機会があったら、その時は負けません」
そう言った。それを聞いたアウロラは、もう、とでも言いたげに苦笑した。
「あら、それなら私も負けないわ。私も頑張ってるんですからね。その時はいい勝負をしたいわ」
辺りは既に真っ暗だが、剣道場の明かりが外に漏れ、真っ青な紫陽花を柔らかく彩っている。
先輩と後輩であり、互いに親友でもある二人の少女の笑い声は、暗闇の中、雨音に優しく溶けていた。
「ああ、でもさっきの発言はちょっと撤回ですね」
「?」
「私の兄だけには、是非とも勝ち越したいです」