アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements*   作:トライブ

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 超長くなってしまいましたが、短編集みたいなものです。


第10話「言わなきゃ、何も伝わらない」

 どうやら遅かったらしい。というのが、千鳥の所感だった。

 美海を待ち構えていたつもりだったのだが、帰ってきたのは泣きじゃくる沙織だった。目元を腫らして涙を流す彼女が余りにも痛々しかったので、急いで自分の部屋に上げた。相部屋のプログレスは外出中だが代わりに隣には絵麻がいる。話を聞いた絵麻は、生徒会副会長として! という理由で、寮生でもないのに満月寮に来ていたのだ。

「どしたの、沙織ちゃん。泣かないで」

「そだよー。泣くと余計悲しくなっちゃうよー?」

 こんな時でも絵麻は相変わらず間延びした喋り方だが、逆にそれが沙織の気分を落ち着かせたのか、彼女はしゃくり上げながらも泣き止んだ。実は、沙織と絵麻は現在とあることのために一緒に活動しており、その際に色々と助けてもらったことで、絵麻に対する安心感があるのだった。

「美海ちゃんと希美ちゃんが……喧嘩してて……目の前で言い争ってたから、思わず叫んじゃって……バトルもステージも近いのに、何してるのって……それだけなら良かったのに、2人に、大嫌いって言っちゃった……!」

 沙織は、その場の空気で言ってしまったことを心底後悔しているようだった。

「にしてもあの2人、なーんかおかしいと思ってたら喧嘩してたのね……」

「どうりで最近、希美がイライラしてるのかなーと思ってたー」

 喧嘩していた癖に、表面上それを取り繕っていたのなら、結構な負担になるはずだが、それがついさっき爆発したので、目の前でそれを見ていた沙織は耐えられなかったのだという。優しい彼女からすれば、いきなり仲の良い親友2人が言い争いを始めたら、混乱するのも当然だろう。

「沙織はどうしたいのさー? 仲直り、したい?」

 絵麻がそう聞くと、沙織は当然頷いた。だが、

「もちろん、したいです。でも……喧嘩し続けるなら、嫌……」

 思ったよりも、沙織の思いは固いようだった。

 千鳥は、一気に複雑になった現状に頭を悩ませる。

 美海のことを見ておくと言ったのは千鳥自身だが、仲直りさせなければならない2人は、まだ寮に帰ってきてはいない。しかし、ここで沙織を放り出しておくわけにもいかない。電話をするという手もあるが、突然先輩から電話がかかってきて「仲直りしろ!」なんて言われたら、例え沙織の名前を出したとしても、余計に警戒心を抱かせるだけではないか。寧ろ、お互いに納得していないのに、沙織のために表面上だけ仲直りした振りをさせてしまう可能性もある。それは一番いけない。下手に動くよりも、2人が帰ってくるのを待つほうが早いが、2人が仲直りしてくれる保証はどこにもない。このままでは、春樹やカレンに会わせる顔がなくなってしまう。

 だが、今はできることをするだけだった。

「……とりあえず、甘いものでも食べて落ち着きましょうか」

 千鳥はそう提案して席を立った。それでいいのかは全然分からなかったが。

 

…………

 

 とぼとぼと行くあてなく歩く美海。日が傾き、そろそろ夕方だ。これから空が(あか)くなっていくだろう。

 寮に戻りたくなかったのは、恐らく沙織が帰っているだろうという推測からだった。「大嫌い」と言われた手前、すぐに顔を合わせたくないと思うのは当然だろう。

「……そうだ」

 こんな悩ましい時には、あそこに行こう。大好きな人と最初に出会った、あの場所に。

 

 自然と足が動き、美海は「そこ」にたどり着いた。

 白い灯台。

 青蘭島の北東に位置する、人があまり来ない岬に立っている灯台。ここなら誰にも邪魔されずに考え事をできる。……と思ったのだが、意外なことに先客がいた。

「……冬吾先輩?」

「ん? ああ、美海ちゃん」

 そこに腰掛けていたのは、冬吾だった。美海を見るなり笑顔になったが、その顔には消しきれない寂寥感が残っていた。

「どうしたんですか? その……」

「……ん。その、お恥ずかしながら、セニアと大喧嘩しちゃってね」

 冬吾は自嘲気味の口調で呟いた。

「そういう美海ちゃんこそ。ここに来るってことは、なんか悩みがあるの?」

「……私も、喧嘩しちゃったんです」

 美海は無理やり微笑むと、冬吾の側に寄った。

「隣、いいですか?」

 冬吾は返事するでもなく、無言で促した。美海が腰掛けるなり、

「誰と喧嘩しちゃったの? 春樹じゃないよね」

 と聞いてきた。

「はい。寮で一緒の友達です。希美ちゃんと、沙織ちゃん」

「あー……気まずいよね」

「しかも沙織ちゃんは相部屋だから……」

「そっか。仕方ないね」

 冬吾は同情するように微笑むと、意外なことを言った。

「でも、なんか安心したかも」

「え?」

「ほら、美海ちゃんって誰にでも優しくて、元気に接するじゃない。そんな君でも、普通に、人並みに喧嘩するんだなって思ったら」

「それを言うなら、冬吾先輩もですよ。先輩だって人畜無害で紳士な感じじゃないですか。どうして、その……セニアちゃんと喧嘩しちゃったんですか?」

 美海が一歩踏み込んだことを聞くと、冬吾は少しの間黙り込んだ。だが、まずいと思った美海が謝ろうとする前に。再び口を開いた。

「……セニアってね、生まれてからは5年経つんだけど、実際に動いていた期間はたったの1年間なんだよね。知ってた?」

「いえ……そうなんだ」

「うん。でね、セニアったら最近、承認欲求が目覚め始めたみたいで、やたらと僕に認めてもらいたいって思うようになったらしいの。一人前としてね」

「一人前……」

「でもね、僕は正直、セニアのことをほっとけないんだ。だってあの子はまだ()()()で、理不尽な悪意にも触れたことがない、純粋な子なんだ。第一、僕だってまだ一人前じゃない。だから、セニアのことを一人前だと認める事はできないよ、って言ったらね。まあ怒られたよ。で、マスターのことなんか嫌いです、って言われちゃって……」

 冬吾は夕日に照らされる海を眺めながら、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。その横顔を眺める美海は、深い苦しみと悲しみを見て取ると共に、非常に場違いながら、彼の整った横顔にしばし目を奪われていた。春樹もとてもかっこいいし、実際に美海の好みなのは春樹の方なのだが、彼はまるで役者にように完成された美貌の持ち主なのだ。

「美海ちゃんは?」

「私、私は……その、希美ちゃんとのすれ違いで。なんていうか、ですね。私、実は希美ちゃんと同じ小学校に通ってたんです」

「そうなの? 珍しいね」

「はい。その頃から希美ちゃんはアイドルを目指してて、たくさん練習してたんです。で、時々私と遊ぶ時に、アイドルのまねっこしてたんですよ。その時に、私は何の練習もしてないのに、希美ちゃんよりも上手くターンしたりすることがあって、それが希美ちゃんは羨ましかったみたいだったんですよね。

 それで、今ね、ちょっと本格的にアイドルのまねっこをするチャンスを貰って、その練習をしてた時に、また私、希美ちゃんよりも上手くやっちゃって、彼女を怒らせちゃったんです。練習してもいないあんたが、必死で練習してきた私よりも上手いのはズルい、って感じで」

「まあ……ちょっと理不尽だけど、分からなくもないかな」

「そうですよね? でも、それだけで終わっておけば、まだ良かったんです」

「と言うと?」

「私も、反撃しちゃったんです。

 希美ちゃんのご両親はとっても優しい人で、彼女が中等部から青蘭学園に入学できたのもそのおかげだったんです。でも、私は……その、あまり、両親に恵まれなくて……彼女の暖かい家庭が、とっても羨ましかったんです。そのことを、言ったんです。全然関係ないのにね。優しい両親を持つことが、どれだけ素晴らしいことか知らない希美ちゃんのことを、ずっとズルいって思ってたって」

「……そっか」

 冬吾は深く同情したように言った。同情できたのは、彼もまた両親からの愛に恵まれなかったからだ。

「それで、沙織ちゃんの前で希美ちゃんと言い争ってたら、沙織ちゃんが2人とも嫌いだって。彼女は、優しいから」

「……確かに、目の前で親しい友達が喧嘩してるのを見るのは、辛いよね」

 冬吾は少しの沈黙の後、決心したかのように口を開いた。

「僕と美海ちゃんは、似てるね」

「え?」

「僕も。両親からの愛情なんて、あんまり受けてこなかったんだ」

「そうなんですか?」

「うん。うちの両親は結構な青蘭アンチでね。僕が青蘭に行きたいって言ったら猛反対されて……でも押し切って来た。勘当同然の扱いになっちゃったけど。もう、本土に僕の帰る場所はないんだ。ここが僕の、永住地さ」

「……私も、そうなのかな。お父さんもお母さんも、私が特待生扱いだって聞いたら、学費払わずに済むって言って喜んでましたもん。厄介払いができるって。

 そう考えれば、冬吾先輩のご両親は、先輩に反対しただけ、愛情があったんじゃないですか?」

「……今考えれば、そうかもと思うこともあるよ。でも、もう遅いんだ」

 しばらく、沈黙が続いた。波の音と風の音が、耳を優しく撫でていく。不意に、冬吾が沈黙を破った。

「ねえ。美海ちゃんは、どうしたいの?」

「え?」

「仲直り、したいの? 希美ちゃんとも、沙織ちゃんとも」

「それは……したいに決まってるじゃないですか。でも、許してくれるかどうか分からなくて……不安で……」

 相手があまり関わりのない、それでも八方美人で通っている冬吾だったからこそ、美海は不安を口にできていた。これが春樹だったら……恐らく、見栄やらプライドやらが先行して、ここまで心の底を吐露できなかっただろう。

「じゃあ、ちゃんとそれを言わなきゃ。言わなきゃ、伝わらない。多分、僕もそうなんだと思うけど」

「え?」

「セニアの前では、どうしても建前を優先しちゃうっていうか……そもそも、僕ってそういう、本音よりも建前を強く伝える癖があるんだよね。多分、悪い癖。だから、どうしてもセニアに伝わらなかったのかもしれない」

「なるほど……」

「それでもセニアが僕のことを嫌いだっていうなら、それは仕方のないことなのかもしれないけど……それでも、伝えずにずっとこのまますれ違い続けるよりは、ちゃんと話してぶつかった方がいい」

「……ですね」

 美海は神妙に頷くと、海を眺めた。朱く染まった海。希美の告白が浮かんだ。沙織の涙声が蘇った。怖い。誰かと話すことが、こんなに怖かったなんて。

 それでも、進まなきゃいけない。例え仲直りできなくても。例え聞いてもらえなくても。この思いを胸に抱えたまま生きるのは、嫌だ。

「……私、中学に入っても、希美ちゃんのような友達は1人もできませんでした。みんなどこか警戒してて……プログレスだったからなのかな。だから……仲直りしたい。もう1度、やり直したいです」

「そう。じゃあ、それをちゃんと言おう。きっと理解してくれるよ」

「はい。それと、冬吾先輩も」

「ん?」

「セニアちゃんは、ちゃんと分かってくれますよ。彼女は……いい子だと思いますから」

 入学前。3月にショッピングモールで迷子になっていたセニアを、美海は保護したことがある。その時から2ヶ月経ち、セニアはどんどんと成長している。そんな彼女なら、絶対に冬吾の思いを理解してくれる。美海がそう確信を持って言うと、冬吾はどこか寂しそうな表情に、ほのかな笑みを混ぜた。

「ありがとう。背中押してくれて」

「いいんですよ。春樹くんのライバルですもん」

「そうだね。またそのうち、やってみたいな」

「次は、絶対に勝ちますよ!」

「ふふ。僕のセニアがそれを許してくれるかな?」

 2人は笑い合うと、それぞれ一歩踏み出すために立ち上がった。

 

…………

 

「ははぁ。それでハイネと喧嘩したわけか」

「ちょ、アルマ兄! 声が大きいわよ!」

「学校じゃカミュオン先生と呼べって言ってるだろ」

「ハイネくん、頑張ってるのになぁ」

「それはっ……悪いと思ってるわよ」

 放課後の講師室で、ソフィーナはアルマに相談をしていた。そして、たまたまそこに居合わせたエミルも、その相談を聞いている。

 講師室には都合のいいことに3人しかいない。相談するには打って付けの場所だった。

 内容はもちろん、先日喧嘩をしたハイネのことだ。

「だからっ! 私はどうしたらハイネとその……仲直りできるのかしら。あと……ついでにリゼとも」

「ついでとはまたリゼも可哀想なもんだが……普通にそれを言えばいいだけなんじゃねーの? 「ハイネのことが好きなの! だからずっと一緒にいて!」って」

「だ、だだだだだ大好きだなんて、言ってないじゃない!?」

「いや、お前らがこーんなチビだった頃から知ってたわ。お前、いっつもハイネの手を引いて探検とかしてたもんな」

「へぇ~、可愛い!」

「そ、そんなことはどうでもいいのよ!」

 2人にからかわれて、この2人は失敗だったかと反省しかけていたが、そうする前にエミルが口を開いた。

「でもね、私と一緒に魔術を練習してる時のハイネくんって、とっても真剣だったわ。でね、1回だけ「どうしてそんなに真剣なの?」って聞いてみたことがあったの。そしたらね、彼はこう言ったの」

 

 ――俺、どうしても追いつきたい子がいるんです。今は黒の世界にいるんですけど……その子はとっても優秀で、俺なんかじゃ全然敵わない、天才なんです。

 

 ――俺、ずっとその子のことが好きで……だから、そんな彼女の目に俺がはっきり映るように、頑張るんです。強くなれば、あの子は俺を見てくれるはずだから。

 

 ――十二杖の息子って肩書きだけを持ったボンクラにだけは、絶対になりたくないんです。

 

「……あれは、ソフィーナちゃんのことだったのね」

 それを聞いたソフィーナはハイネに対して申し訳ない思いでいっぱいになった。彼はそこまで気を張り詰めて頑張っていたのに、自分はそれを蔑ろにするようなことを平気で言っていたのだ。

「どうしよう……どうすればいいのかな」

 気弱になったソフィーナが問いかけると、アルマは特に気負うでもなく、平然と、

「昔みたいにやればいいじゃん。手を引いてやれば」

「じゃあ、リゼは?」

「あいつは単に面白がってるだけだろ。とりあえず謝っといて、それでもしダメなら、俺から話をするからさ」

「うん……」

 どうして自分はハイネやリゼリッタのこととなると、こうも冷静でいられなくなるのか。

「ねえ、もしダメだったら、どうしよう……」

「んなことあり得るかよ。ハイネはお前がいない10年間、お前に見てもらうことだけを考えて自分を鍛え続けてたんだぞ。こんなくらいで折れるなら、俺が殴ってやるさ」

 困った時にはいつも助けてくれたアルマは、10年前と全く同じように歯をむき出してニッと笑った。

 

…………

 

 琉花の血を吐くような独白に完全に打ちのめされてしまった春樹は、茫然自失のまま居住地区を歩いてた。

 春樹のショックは、琉花が過去にしたことよりも、無意識のうちに自分が彼女を傷付けてしまったことが原因だった。もっと言えば、あの時に琉花が発した言葉が、過去に自分に向けられたそれと、ほぼ同じだったからだ。

 

 ――偽善者。

 

 家に帰ろうか、それとももう1度説得しようか悩んでいたが、圧倒的に前者の気持ちの方が強かった。帰って、風呂に入って、寝る。それが非常に魅力的なものに思えた。それに、例え後者を選んだとしても、1度彼女を傷付けた自分を、もう1度受け入れてくれるだろうか。話さえしてくれないだろう。

 そうして浮かない足取りで帰路を辿っていると、通りかかった公園の中に、見慣れない顔があった。

「……アウロラ?」

 ベンチに腰掛けていた彼女は、沈んだ顔で俯いていた。彼女にαドライバーがいなかった時期は、よくこういう表情を見たが、俊太という彼女にとって最高のαドライバーが出来たにも関わらず、あの表情は少しおかしいと思った。今日も、教室では普通だったはずである。

 とはいえ、じゃあそのまま慰めに行くかと言えば、そう簡単には考えられなかった。何せ、数十分前に別の女の子を傷付けているのだ。普段の自分ならまだしも、今のメンタリティでそう考えられる者など、そうはいないだろう。

「……いや、でもほっとくのは、良くないよな……」

 他人本位で物事を考える癖がある春樹は、やはりアウロラの方へと足を向けた。少なくとも彼女は不登校になるほど気に病んでいるわけでは無さそうだし……という状況分析の元。

「アウロラ? どうしたの?」

「え? あら、春樹くん」

 春樹が声を掛けると、アウロラは一瞬驚いたような顔になったが、すぐにいつもの柔らかい笑顔を浮かべた。しかし、先程までの沈んだ表情の残滓は、疲れのように見てとれた。

「うん……あのね。私……俊くんと、ぎくしゃくしちゃって」

「俊太と? またどうして」

「それは……」

 アウロラは言葉にしづらそうに、ぽつぽつと説明を始めた。自分の無配慮から、俊太を傷付け続けていたことを。

「どうして、格好良いって言ってやらなかったの?」

「だって……初めてだったんですもの」

「何が?」

「その……誰かに、恋をするってことが……」

 アウロラは頬を赤らめながら、それでも沈んだ表情で答えた。

「私、変なの……普段は余裕を持って物事に接してるはずなのに、彼にだけは余裕でいられないの……こんなんじゃ嫌われちゃうって思って、それでも恥ずかしくて、結局濁して可愛い可愛いって言ってきたけど……それが彼を傷付けてたの……」

 聞けば聞くほどもどかしい関係に思えた。俊太がアウロラに恋していることなど(本人に言ったら大変失礼だが)バレバレだし、アウロラも俊太が入学してから突然剣道部のマネージャーを始めるなど、傍から見れば付き合っていて当然の関係のようにも思えるのに、実際はすれ違い続けている。俊太は少し屈折したところがあるので、仕方がないと思っていたが、アウロラの側にも問題があったとは知らなかった。

「私……嫌われちゃったのかな……?」

「いや、そんなはずないと思うけど……」

 寧ろ、その質問は俊太の方がしたがってそう、とは、敢えて言わなかった。確証はないわけであるので、適当なことは言うべきではない。

「……やっぱり、思ってるだけじゃ、ダメなのよね。言わなきゃ、何も伝わらないのよね」

「そうだね……」

 さっき、春樹は琉花に伝えたいことを伝えられなかった。本当に伝えたいという意志があれば、例え琉花の慟哭を遮ってでも、伝えることはできたはずだった。

(できたはず、だった)

 でも、春樹はできなかった。打ちのめされてしまったのもあるが、一番の理由は、彼自身が琉花を()()()()()ことにあるのだろう。

(そう、舐めていた。悩みなんか俺が全部取り払ってやるっていう、自惚れがあったんだ)

 自惚れ。あるいは過信、油断、傲慢。()()()()()()()()()()他人もそうだろうという先入観。そう考えれば、琉花が――少なくとも、未だに自分のしたことを引きずっている彼女が――怒らないわけがなかった。

 では、そんな部分をありありと見せつけた自分を、彼女は受け入れてくれるだろうか? 先程までの曖昧な予感は、より実体を強く伴った不安と化していた。

「伝えようとしなけりゃ、伝わらないよな」

「そうね。私は……伝えたかったけど、口にするのが怖かった。もう少しだけでも、この曖昧なぬるま湯に浸かっていたいって思ってたわ」

 アウロラは頷きながら、自分に言い聞かせるように呟いた。それから、

「ありがとう、春樹くん。悩んでいたことを口に出せて、少しすっきりしたわ。ごめんなさいね」

「いや、いいよ。とりあえず前向きになってくれたなら、それで」

 寧ろ、春樹の方が余計に悩みを深めたのだが、注意深く行動できるようになったと考えれば、一概に後退とはいえない。……踏み出しづらくなったのは事実だが。

 去っていくアウロラの背を、春樹はぼんやりと眺めていた。

 ――言わなきゃ、伝わらない。

 ――でも、聞いてくれるのだろうか?

 そんなことを考えていると、携帯が鳴った。カレンからの電話。

「もしもし」

『春樹、今どこにいらっしゃるのでございますか?』

 春樹が現在地の公園を伝えると、彼女は、

『そこで待っているのでございますです』

 と言って電話を切った。

「……もしかして、今のでバレたかな」

 だが、こういう時に頼れるカレンを、彼の心は大いに欲していた。

 

…………

 

「何、あんたまだ落ち込んでるの?」

「逆に、全く凹まないお前が羨ましいよ」

 アルマの家の地下、彼自前の魔術工房の中で、ハイネは魔術式を書いていた。隣にはリゼリッタがいる。

 書く、といっても、空中に描いた魔術式を羊皮紙に焼き付ける、というのが正しい。羊皮紙に焼き付けた魔術式は、魔導具を作成したり魔法薬調合をサポートさせるのに便利なのだ。ただ、今日はどうにも上手くいっていなかった。

「後悔してる?」

「……そりゃ、もちろん」

「謝る気は?」

「……分かんない」

 逆上した自分も悪いが、原因はソフィーナにある、というのがハイネのスタンスだ。実際、その通りである。だが、リゼリッタはそれを良しとしなかった。

「……置いて行かれたのは、あんただけじゃないのよ」

「え?」

「あんたはソフィーナだけに置いて行かれたわね。でも私は、あんたにも置いて行かれた」

「…………」

 リゼリッタは、常にない沈鬱な表情で告げた。

「11年前に、ソフィーナは私たちの前を去ったわ。でもね、私は5年前にあんたにも去られてる。寂しかったわ。からかう相手も可愛がる相手もいない。あの村に子供は私だけ。残ったのは私の一家と、ネロ(ねえ)の両親だけだった。寂しかったけど、頑張ってたのはあんただけじゃないわ」

 彼女は淡々と事実を告げる。置いて行ったことに対して無配慮だったのは、ソフィーナだけではないと。

「……ごめん、リゼ。俺……」

「いいの。もう過ぎた事よ。ここは毎日が楽しい。同じ年代の子がいっぱいいるし……何よりも、あの村にいたみんながいる。アルマ兄もアビーもソフィーナも、あんたも」

「……そうだな」

 珍しく、毒のない微笑みを見せるリゼリッタは、一番言いたかったことを告げた。

「あんたの今の心は、きっとソフィーナのものと同じはずよ」

「……そうかな。俺とソフィーナは違う。彼女は俺と違って、プライドが高い……」

「あら? あんたも似たようなものでしょ? だってあんたはソフィーナにキレたじゃない」

「それも、そうか……」

 ハイネはここ数日感でそうなかった新鮮な気持ちで宙を眺めた。そして、もう1度魔術式を描き、羊皮紙に焼き付けた。

「……大丈夫みたいね」

「うん。俺、今からソフィーナの所に行ってくる。どうせまたあそこにいるだろうし」

「ええ。行ってらっしゃい。あと、あの子がちゃんと反省してたら、よろしく言っておいてね」

「わかった」

 ハイネは立ち上がると、地上への階段を駆け上がっていった。

「……ホント、誰も、何も変わらない」

 取り残されたリゼリッタは、嬉しそうに呟いて羊皮紙を片付け始めた。

 

…………

 

 アウロラと話をすることさえしていない日々が続き、俊太は精神的に参っていた。まさか、自分の中でアウロラがあれほど大きな存在を占めていたとは、全く気付いていなかったのだ。

 ――剣道で、精神は鍛えたつもりだったんだけどな。

 剣道で鍛えた精神はあくまでも誠実さとかそういった類のものであり、恋煩いへの耐性は特に得られていなかったらしい。

 だが、気分が沈みっぱなしでは何も手につかないので、気分転換に少し遠回りして帰ろうと考えた。

 青蘭島の居住区と砂浜の間には防砂林が植えられている箇所があるが、その中に林道のような細長い公園があるのだ。緑に囲まれて少し歩けば、きっと気分がいいだろう。幸い、学園特区からすぐに行ける位置にある。

 ――そういえば、初めてアウロラと出会ったのも、こんな自然の中だったよな。

 実際には、島の東側にある花畑で、なのだが。そんなどうでもいいことを考えながらブラブラと公園の中を歩く。防砂林の中にある公園は林道なので、他所のものとは違い、地面が土だ。懐かしい土の感触を足に感じながら歩を進めていると……珍しい顔を見つけた。ベンチに座っていた、セニアである。

「あれ、セニア?」

「あ……俊太様」

 無表情ながらも浮かないとはっきり分かる表情でつま先を見ていたセニアは、ハッと顔を上げた。

「あの、何かセニアに御用でしょうか」

「いや、なんだか寂しそうにしてたから」

 俊太が率直に言うと、セニアはまた浮かない表情に戻った。

「……俊太様。ご相談があるのですが」

「俺でよければ、聞くよ。どうしたの?」

「実は……マスターと言い争いの喧嘩をしてしまったのです」

「え? どうして?」

 俊太は驚いて、俯いたままのセニアを見た。彼が初めてセニアと話した時、彼女に対して感じたあの《芯》はどこかに失せ、そこにいたのは、小さな、ただの悩める少女だった。

「セニアは、マスターに認めてもらいたかったのです。セニアは一人前で、1人でなんでもできます。そう伝えたら、マスターはダメだと仰りました」

 それは、形こそ違えど、俊太がアウロラに対して抱いていた思いとよく似ていた。奇妙な偶然もあるものだ、とより傾聴する。

「4月に、春樹様にも似たような質問をしました。その際、彼は、マスターは心配性だから、セニアが傷付くのを見たくないからだ、と仰られました。セニアはあれから、頑張ってきました。だから、認めてもらいたいのです」

「そっか。認めてもらいたいんだね」

「はい。でも……」

「ん、まだ何かあるの?」

「はい……セニアは、マスターが尚も認めないと仰られまた時、つい感情的になって、口にしてはいけないことを言ってしまったのです」

「何て言ったの?」

「……マスターなんか嫌いです、と」

「……そっか。でも、キツいもんね。頑張ったのに、認めてもらえないって」

「怒らないのですか?」

「うん。なんていうか……俺も同じようなことで悩んでてさ。こんなに頑張ったのに、どうして結果が出ないの、って思うことは普通だよ。まあ、その……大嫌いは言い過ぎかもしれないけど」

 そう言うと、セニアは余計に落ち込んでしまったようだった。そこから気を離させるべく、俊太は1つ質問を投げかけた。

「ねえ、セニア。セニアはどうして、冬吾先輩に認めてもらいたいの?」

「え?」

「俺はね、アウロラに認めてもらいたかったんだ。その理由は……内緒だよ? 俺がその、アウロラのことが大好きだからなんだ」

「はぁ……」

「なんかよく分かってなさそうだね……まあいいや。でも理由はそれだけじゃなくて、認めてもらえないままだったら、彼女がどこかに行っちゃうかも知れない、っていう不安からでもあるんだ」

「不安、ですか?」

「うん。恥ずかしい話だけど……」

 俊太が頬を赤らめながら告白すると、セニアはやや考え込んでから、

「セニアが、マスターに認めてもらいたい、その理由は……マスターを、取られたくないから」

 彼女は、自分の中の感情を整理するように呟く。

「マスターの元には、セニア以外にもアンドロイドがいます。セニアは、その誰にも、負けたくない。マスターに知ってほしい。セニアにしかできないことがあるのだと。他のアンドロイドの下位互換ではないと」

「いいじゃん。じゃあ、それを伝えなよ。自分には、他の誰にもできないことがあるから、そこだけでも認めてくれって」

「……はい」

「でも、それだけで満足しちゃダメだよ。いつか、自分全体を認めてもらえるように」

「はい。努力します」

 セニアはどこか晴れやかな表情になっていた。

 対する俊太も、自分の中のモヤモヤが、少し晴れているのに気付いた。

 ――そう。俺だって、アウロラに認めてくれって言ったことはなかった。なのに、行動だけで認めてほしいって、それはちょっと都合が良すぎる。

 ――伝えよう。俺の心の内を。そうすれば……。

 木々の間から見える夕日がこんなに美しかったことに、俊太は初めて気付いた。

 

…………

 

「琉花の説得に失敗したようでございますですね」

 カレンは春樹の前に立つなり、そう断言した。

「……どうしてわかるの?」

「成功していたら、少なくとも隣に琉花がいるはずでございましょう。でなければ、こんな場所でぼけっとしているなんておかしいのでございます」

「……そうだよ。失敗した」

 春樹は観念して、ことの成り行きを洗いざらい話した。

「……そこで躊躇ったのが決定的だったわけでございますか」

「うん。だって、液体を毒に変えて誰かを傷付けたことがあるって言われた直後に、琉花のエクシードの影響を受けた水を飲めるか、って話」

 どうにも言い訳がましくなってしまったが、そこで「だから何?」と言って平然と水を飲み干せば、何かが変わったのだろうか。いずれにせよ、過ぎたことであるが。

「俺……どうしよう。今の琉花に、俺の声が届くのかな。俺は琉花のいいところばっかり見てて、悪いところを見せられた時に怖くなった。そんな根性無しの言葉を聞いてくれるのかな」

 3年間の付き合いがあるカレンを前にすると、どうしても気弱になってしまう。自分の弱さが、彼女の澄んだ瞳の前にむき出しになるみたいで、怖くなる。

 そのカレンは、春樹の質問に質問をぶつけた。

「春樹。貴方様は、琉花を愛しておりますですか?」

「あ、愛して? え、と、それは……」

「質問を変えましょう。貴方様は今でも琉花をチームに戻したいと考えていらっしゃいますか?」

「それは当然だ!」

「では、その理由は?」

「理由……不登校のままだと心配だし、琉花の秘密を聞いたあとでも、俺は……彼女と仲良くしたいから」

 ぐるぐるとこんがらがった思考の糸を1本1本手繰り寄せて、琉花を助けたい……その根底に有る理由を見つけると、カレンはフッと微笑んだ。

「それが、貴方様が琉花のことを愛している証拠でございます。愛する人の良い点も悪い点も認め、その先へと歩いて行きたい。それは紛れもなく、愛があるからでございます」

「愛……か……」

 春樹はイマイチ実感が湧かないが、カレンが言うにはこれこそが「愛」であるらしい。

「俺は、どうすればいいのかな。愛があっても、変わらないでしょ」

「いいえ、変わります。愛は、どんなに分厚い心の壁さえも軽々と打ち砕き、どんなに遠く離れていようとも一瞬で打ち抜ける、最強の武器だからでございます。それは決して、恋とは異なる想いでございます」

「恋とは、違う……?」

「そう。妄執のような、(でい)(ねい)のような、灼熱のような恋とは異なり、愛とは、今の春樹が抱いているような、もっと崇高で、清いものでございます。全く無欲の、ただその人の助けになりたいという感情。そして、愛ならば、無責任に押し付けても良いのでございます」

「いや、それはダメだと思うけど……」

 春樹が至極まっとうな反論をすると、

「ならばよろしい。私が今からお手本を見せて差し上げるのでございます。よく、見ておくのでございますよ」

 カレンは、そう前置きした後、春樹の両の頬を、その白魚のような手で挟んだ。

「何を――」

 その後の言葉は、発せなかった。

 唇が塞がれたからだ。

 

 カレンの唇で。

 

 目の前に、目を閉じたカレンの美貌があった。何が起きたか理解できない春樹は、その美貌を食い入るように見つめることしかできなかった。

 どのくらいそうしていただろう。カレンの顔が離れ、その瞳が熱烈な意志を伴って春樹の目を貫く。

「愛しています、春樹。ずっと、愛しておりました」

 カレンの唇が、囁くように言葉を紡いだ。心なしか頬は紅潮し、口元には微笑が浮かんでいる。

「辛いのでございますね。それは重々承知の上でございます。なので今晩は……私が全て、忘れさせて差し上げるのでございます」

 蠱惑的な表情。魅力的な言葉。今抱える全てを投げ出して、彼女の愛に埋もれたい。

 だが、

 

 ――偽善者!

 

「ダメだ」

「残念でございます」

 カレンはあっさりと無表情に戻った。数十秒前までキスしていた男の前にいるとは思えないほどの急変化に、流石の春樹も驚いた。

 そんな彼などお構いなしに、カレンは淡々と言う。

「これが、愛を押し付けるということでございます。私は今、私自身の中にある愛を、接吻(せっぷん)という形で貴方様に押し付けました。貴方様は拒絶なさりましたが、私の想いは伝わりましたでございましょう?」

「……うん」

「ならば貴方様は、その胸に秘めた愛を、彼女に言えなかったことに乗せて、押し付けるのでございます。よろしいですか?」

「……わかった。ありがとう、カレン」

「今すぐ行きなさい。まだ、時間はあるのでございます」

「うん」

 春樹は立ち上がると、そのまま公園を出ていこうとして、振り返った。

「あの……カレン?」

「はい、なんでございましょう」

「その、本気なの?」

「何が?」

「いや、だから、俺のことをその……」

 春樹が言葉を選んでいると、カレンは非常に珍しく――可笑しそうに笑った。

「当然でございます。少し前に言ったでしょう。一だけ知って残りを足掻こうとする貴方様は魅力的だ、と」

「そ、そうだったね」

 カレンは春樹に駆け寄ると、その背中を、バン、と音がするくらいに強く叩いた。

「今回の貴方様は少々知りすぎでございます。だから残りは、しっかり足掻きなさい」

「……おう」

 それは、彼女なりの激励だったのだろう。春樹は、もう振り返らなかった。

(愛を、言葉に乗せて、伝える)

 アウロラの言葉とカレンの言葉が重なり、ひとつの答えが照らし出された。自分の中にある、琉花への想いを、はっきりと伝えるべく、言葉にする。

 聞いてくれるかどうかではない。聞かせるのだ。無理矢理にでも伝えるのだ。拒絶されたとしても構わない。伝えなければ、何も始まらない。

 先月のことを思い出した。春樹のことを殴った冬吾。彼の想いは、文字通り痛いほどの勢いで叩きつけられた。あれもまた、愛なのだろうか。愛を、拳に乗せて、押し付けたのだろうか。

(見てろよ。もう俺は、迷わないぞ)

 夕日の中、春樹は進んでいる。

 だが、締まらないことに、あのキスの感覚を完全に吹っ切れてはいなかった。

 

…………

 

「希美。お前、今日はステージの練習じゃなかったっけ?」

「…………」

 悠馬の問いかけに、希美は答えなかった。答えず、ただひたすらにサンドバッグを殴っている。その必死さは、まるで何かから逃げているかのようだ。

 場所は、彼女が体術の練習のために通っているボクシングジム。本来なら雄馬が先に来ていて、もう少し後で希美が合流するはずだったのだが、来てみれば既に希美がサンドバッグを殴りつけていたのだ。

「おい、希美」

「……なに」

「一旦手ぇ止めろ」

「…………」

 希美は答えなかったが、ガツン、と音を立てて、サンドバッグを止めた。

「どうした。なんでこんなに早くからいるんだ」

「……もう、いい」

「なんだと?」

 希美は雄馬を見上げた。その瞳には、涙が光っている。

「もういいの。美海とまた言い争ったし、今度は沙織とも喧嘩した。もうおしまいだよ」

「それで……お前はそれでいいのか?」

 雄馬の質問に、希美は首を小さく縦に振って肯定した。だが、目を合わせようとはしなかった。

 そんな希美を見て……雄馬は、これではダメだ、と感じた。

 だから。

「――っ!?」

 乾いた音がジムの中に響く。雄馬が希美の横っ面を叩いたのだ。

「ゆ、雄馬、くん?」

 今まで、どこまでも優しかった雄馬の顔は、凍えるほどの怒りに彩られていた。

「お前……それは、だめだろ。人として、だめだ。約束を破るな」

「……でも」

「でもじゃない」

 希美の反論を封じると、いよいよ彼女は泣き出してしまった。

「でも! どうしていいかわかんないよ! 美海は私のことを許してくれない! 私、美海に意地悪したもん! 沙織の目の前で喧嘩したから、2人とも大嫌いって言われたんだもん! もう無理だよ! 仲直りしたいのに、どうすればいいか、全然分からないよ!」

 しゃくり上げながら気持ちの濁流を吐き出す希美。ぺたんと座り込んで泣きじゃくる彼女の頭を、雄馬はそっと撫でた。彼の顔に、既に怒りは無い。

「ほら、仲直りしたいんじゃん。じゃあそう言え。仲直りしたい、意地悪してごめんなさいって」

「……でも、聞いてくれるわけ無い……」

「そう思ってるから、マイナス思考になるんだ。もっと明るいことを考えろ」

「そんなの、無理だよ……」

 尚も弱気な希美の背を軽く叩いた雄馬は、彼女の隣に座って口を開いた。

「なあ、希美。ずいぶん前に、俺言ったよな? 影での努力は立派だが、誰にも見せないのは良くないって」

「……うん」

「理由、覚えてるか?」

「……誰かに見られてないと、怠けちゃうから」

「そう、怠けるんだ。自分1人だけで頑張り切れる奴なんかそうそういない。大方のそういう連中は、大して成長できていないのに、できた気になってる。結果を出すことよりも「努力してる自分」が大事なんだよ。結果の出ない努力に何の意味がある? 言い方は悪くなるけど、監視の目が無い努力なんか、俺に言わせりゃ1人よがりの『努力ごっこ』さ。だから努力し続けるには、周りの連中に「自分は努力してます」って言いふらして、実際にその姿を見せれば、引くに引けなくなって努力し続けなきゃいけなくなる。自分を追い込んで、本気を出す……それが本当の努力ってもんだ」

「…………」

「だけどな、もっと重要なのは、自分の心身の負荷に気付ない奴が、それで壊れるからなんだよ」

「壊れる……?」

「ああ。自分の身体や心に傷が付いてるのに、まだ頑張れるって思い込んで、それで過負荷を掛けて壊しちまう。でも、傍から見てる奴は、明らかな異常を指摘してくれる。で、今のお前が正にそれだ」

「え?」

「お前、自分がどんだけストレス溜め込んでるか、誰かに話したことあるか?」

「……ない」

「だろ? それは、お前自身がそれに気付けてなかったからなんだよ」 

 雄馬は彼女の背中を軽く叩いて慰める。

「今までは、俺結構気を使ってお前のストレスを管理してやってたけどな、お前ももう高校生だ。そろそろ、自分でそういうことをできるようになったほうがいい。……って思って、少しほっといたんだけど、ちょっとまだ早かったかな……」

「は、早くない!」

 その言葉に、失望のニュアンスを受け取った気がして、思わず声を上げてしまう希美だったが、雄馬は寧ろ微笑んだ。

「いやいいんだよ。失敗なんて誰でもするし。若いうちなんて失敗して当然だよ。これも数ある失敗のひとつってことで、それを踏まえて前進しよう」

「前進?」

「そう。お前、今から美海のところ行って謝ってこい」

「え!? でも、無理だよ……」

「例え無理でもぶつかるんだ。扉が鉄製なのか紙製なのかなんて、叩いてみなきゃわかんないだろ? 文句を言うなら、美海に振られた後にするんだな」

 それでも、やや煮え切らない様子の希美。3年間、彼女のそばにいた雄馬は、仕方がないなぁと頭を掻いた。

「……希美。いいことを教えてやろう。人を努力させるための3つのポイント」

「努力……させる?」

「そう。1つ目はさっき言った、周りの目を作ること。見られていると思えば、人は自然に努力できる

 2つ目は、期限を設けることだ。宿題に提出期限があるのはそのせいで……これも他言しておくと効果アップだ。

 3つ目、なんだか分かる?」

「…………分かんない。なに?」

「うん。めっちゃ単純な話なんだけどな。3つ目は、ご褒美を用意すること」

「ご褒美?」

「そう。そして俺は今から後者2つを設けるぞ。まず、今日中に美海と話をしろ。そして、成否に関わらず、それが達成できたら、ご褒美をあげようじゃないか」

「な、何をくれるの?」

 希美がおずおずと訊ねると、雄馬は、

「何でも。まあ、俺が叶えてやれる範疇での話だけど」

「な、何でも」

「そうだ。さあ、何が欲しい?」

「そ、そんないきなり言われても……後でじゃダメ?」

「ダメ。明確な目標を目指すことで、自然と努力できるからな。曖昧じゃ効果が薄い」

「うーん……」

 希美はしばらく考え込んだ上、頬を赤らめて問いかける。

「その……変なお願いだけど、いいかな?」

「なんだ、言ってみな」

「……デートして。1日間」

「そんなことか? もちろんOKだよ。寧ろ、そんなんでいいのか?」

「……うん。これがいい。もう高校生になったんだし」

 希美は頬を紅く染めたまま自問自答し、これで良いという結論になったらしい。

「よし分かった。じゃあ俺も、とびっきりのデートコースを考えておこう。どこがいいかなぁ」

「……ホントにいいの? その、生徒と先生なのに……」

「俺はあくまでも講師だからな。学校外に出れば、ただのおっさんだよ。とはいえ、美海の方もどうにかなるだろ」

「なんで?」

「だって、俺をデートに誘えるんだからさ。言いたいこと、全部言えるさ」

「……そ、そうかな?」

「おう。お前は出来る子だ。大丈夫。自分のしてきた努力を、ちゃんと自信に変えるんだ。いいな?」

「うん」

 希美が決心を固めた様子を見て、雄馬は、やっぱりこの子はいい子だ、と思う。それから、先ほど叩いた彼女の頬に手をやり、優しく撫でた。

「ひゃっ!?」

「さっきはゴメンな、いきなり叩いて」

「……うん。痛かったし、びっくりした」

「ゴメンな。でも、お前に自分が今どうなってるのかを知ってもらうには、こう、ちょっとしたショックがいるんじゃないかって思って……でも、早計だったかもな」

「ううん。いいの。なんていうか、気合入った。もう1回やって?」

「いや、やだよ。でもまあ、このくらいなら」

 雄馬は希美をこちらに向かせると、その両の頬を両手で挟むように、優しく叩いた。

「あ、あと監視も一応付けるからな。これで万全だ。もう後はないぞ。さあ、行ってこい」

「……うん」

 監視の目がある。引くに引けない。期限を設けた。これも監視されている。そして、ご褒美がある。それを思えば、プラス思考になる。

 それを教えてくれた雄馬に、

「……雄馬くんって、どうしてそんなにいつも元気でいられるの?」

 昔から気になっていたことを訊ねると、彼は常のような快活な笑みを浮かべて答えた。

「元気でいると、女の子にモテるからな。そのためさ」

 

…………

 

 今日2人目の来客だった。

「よっ。あらあら、そんな顔しちゃって」

 その来客は、恐々とドアを開けた琉花の顔を見るなり洗面所へ引っ張っていき、顔を洗わせて櫛とドライヤーで髪を整えた。

「うん。少しマシになったね」

「なんなんですか……」

 来客――成瀬朝子はニッと笑った。琉花は辟易したような声を出したが、不思議とそこまで不快感がなかった。

 今日はもう誰とも話さないと決めたのに、(密かに)憧れていた朝子が来たと聞いて、ドアを開けてしまった。

「なんで来たんですか?」

「んー。まあ率直に言うと、紗夜の差金かな」

「紗夜先輩の?」

「うん。なんか琉花ちゃんがまずいことになってるって小耳に挟んだらしくて。で、あいつが相談役にぴったりだって考えたのが私、ってわけ。どうしたの。なんかたくさん泣いた後だったっぽいけど」

「…………実は」

 琉花がつい先ほど春樹にしてしまったことを話すと、朝子はうんうんと頷いた。しまいには、また涙が出てきて、

「私……本当にハル先輩にひどいこと言っちゃった……」

 と自分を責めようとしていたら、朝子が側に寄ってきて、琉花の頭を抱いた。

「うぇ?」

「うんうん、キツいよね。その場のノリで誰かを傷付けちゃうってこと、結構あるんだよ。そんで後からぐるぐるぐるぐる考え込む……うん、学生なら誰にだってそういう経験はあるもんだよ。もちろん、私にもね」

「そうなんですか……?」

「ああ、そりゃあひっどいノリで紗夜と大喧嘩したもんさ。行くとこまで行って、もうお互いの欠点という欠点をぶちまけて……最終的には殴り合いまでしてさ。絶交もんだと思ってたよそん時は。でもま、なんだかんだで仲直りして、今や大親友って感じだけどね」

「……どうして仲直りできたんですか?」

「んー、そん時はメディ――あ、ゴメンね。私と紗夜にはもう1人親友がいるんだけどさ、その子が間でこそこそとやってて……せっかく作ってもらった仲直りするための機会も3回くらいぶっ飛ばした挙句、なんだか喧嘩してんのにバカバカしくなっちゃってさ。「もういっか?」て聞いたら、「もういいわ」って言われて……まあ、そんな感じ」

「……運が良かっただけじゃないですか?」

 そんな好都合はそうそうない、と感じたままを言うと、朝子は苦笑した。

「そう言われちゃあそうとしか言えないね。でも、相手は春樹くんでしょ? 言った内容も、偽善者、ムカつく、引け腰――」

「く、繰り返さないでくださいよ!」

「んっふふ。ゴメンゴメン。でも大丈夫だと思うよ。私が紗夜に言ったのよりも全然マイルド。それに、琉花ちゃんが過去にしたことも、全部」

「え……?」

「小さい頃にエクシードで起こした事件がトラウマになっちゃってる子って、探せば結構いるもんなのよ実は。でさ、私はそういう子を何人か見てきたけど……言えることは「気にするな」ってことだけかなぁ」

「そんなの……無理です」

「まあまあそう言わずに。じゃあ、今後悔しまくって登校拒否して、それで昔やらかした事実が変わるのかい?」

「それは……違いますけど」

「でしょ? やらかした過去は過去。それは、今を全力で生きない理由にはならないよ。まあ、少しくらい休憩してもいいけどさ。そろそろ終わりにしよう」

「先輩は……何も知らないから……!」

「うん。私は何も知らないよ。だから、琉花ちゃんはここまでぶっちゃけてるんでしょ? それは、ちょっとした足掻きなんだよ。今キツイって思ってるなら、それはもう少し踏み出してみれば、楽になるもんだよ。バトル、近いんでしょ? じゃあ、それに向けて走ろう。そうすればきっと、()()()()()()()()よ。

 結局のところ、人間、どうにもならない過去をどうにかしようとするより、どうにでもなる現状をどうにかしてる方が楽なのさ」

 頭を撫でられながら、言葉をすり込むように言われると、本当にそういう気がしてくる。

 どうして私は今、完全に立ち止まっているのだろう。結局、私は私がしたことから逃げ続けているだけなのではないか? あの事件を、真正面から受け止めたことはあっただろうか。

 そう考えていると、ドアがノックされた。

 

…………

 

 ここに戻ってくるのはついさっき振りだが、やはりドアの前に立つと緊張した。しかし、その気持ちを押しつぶしてドアを叩く。

 ちょっとの間が有り、ドアが開かれた。

「よっ、春樹くん」

「え、朝子先輩!? なんでここに……」

「ま、先輩からのちょっとした親切、かな。思ってたよりも早かったけど」

 朝子は快活な笑顔になって、部屋の中に呼びかけた。

「そんじゃー、そろそろ私はお暇するよ。あとは頑張ってね」

「は、はい」

 部屋の中から琉花の声が返ってきた。心なしか、先ほど話した時よりも元気になっているようだ。

 春樹と入れ違いで部屋から出ていこうとする朝子は、すれ違い様に耳元でこっそり囁いた。

「ちょっと壁崩しといたから、まあ頑張りな」

「……はい、ありがとうございます」

 朝子はふふっと笑うと、春樹の背中を叩いて、今度こそ出て行った。それと入れ替わるように、もう1度、部屋の中に踏み込む。

 琉花はさっきと同じ場所に座っていたが、表情は暗いとはいえ先ほどと比べれば幾分か明るく、また同時に緊張してもいるようだった。

「座るよ?」

「う、うん」

 春樹は了承を得て、彼女の正面に座った。そして深呼吸をしてから、思い切って口を開いた。

「まず、さっきはごめん。俺、その気は無かったけど、琉花のこと傷付けた。琉花が俺に言ったこと、全部その通りだったよ」

「そ、そんなことない。私も……言いすぎたから。その、ごめんなさい」

 琉花の反応はかなり良い。拒絶全開オーラでは無くなっている。春樹は、言いたかったことに愛を乗せて、琉花にぶつけにかかった。

「俺には、琉花が必要なんだ。ブルーミングバトルにもだけど、後輩として、友達として、大事なパートナーとして」

「……本当?」

「もちろん。お前の秘密を聞いた後でも、思いは全然変わってない。必要だって以上に、今まで通り、仲良くしたいんだ」

「……でも、私はハル先輩のことも、チームのみんなのことも、傷付けるかもしれないんだよ?」

「それでも構わない。苦しんでたら助けになりたいし、悲しんでいたら慰めてあげたい。俺は、琉花とずっと一緒にいたい」

 そう言うと、琉花は下を向いて少し黙った後、ぽつぽつと語りだした。

「……私、ずっと逃げてた。なかったことにしてた。だからあれだけショックを受けたんだと思う。でも、思い出して罪の意識を感じたからって、今更どうすることもできないって、朝子先輩に言われたんだ。それよりも、今をどうにかしろって。そっちの方が、ずっと良くなるからって」

 琉花は顔を上げて春樹の目を見つめた。彼女の瞳の奥に不安が見えた。水がたくさん入った器が揺らされて、今にも水がこぼれそうになっているかのように。

「私……いいのかな? 全部置いて、楽になっても。許されるのかな……?」

「それは……許すとか許されるとかそういう話じゃないでしょ?」

「え?」

「事件を忘れないでいつか償いをするにしても、それをするのが今じゃないなら、今は、全力で生きなきゃ。全力で生きて、その先に何を選ぶのかは、琉花の自由だと思うよ。……ごめん、上手く言えなくて」

「……うん、分かった」

 琉花は微かに震える声で答えた。その答えをしっかりと聞き届けた春樹は立ち上がり、琉花の前に立って手を差し出した。

「……?」

 なんだかよくわからないその手を掴むと、春樹は手を引いて琉花を立たせた

「行こう、琉花」

「え? どこに?」

「海。お前、エクシードの練習上手く行ってなかったろ? 今からやるぞ!」

「え、今から!?」

「そうだよ! さ、行こうぜ!」

「ちょ、ちょっと待ってよ! 私、着替えなきゃ……」

「大丈夫だって! 海なんてすぐそばじゃん。誰も気にしないよ!」

「え、えぇ……!?」

 春樹は琉花に靴を履かせると、そのまま手を引いて琉花を連れ出した。

「……デリカシーなさすぎ」

「え? なんか言ったか?」

「ううん、なんでもない!」

 返ってきた琉花の声は、普段の快活さを取り戻しつつあった。

 

…………

 

 春樹と琉花が寮を出た数分後。

 美海が寮の前に戻るのと同時に、希美も寮に戻ってきた。

(――っ)

 美海は一瞬たじろいだ。が、それは希美も同じだった。2人して、言いたいことを胸に秘めたまま立ち尽くす。

 先に口を開いたのは希美だった。

「あ、あのね。私……美海に言わなきゃいけないことがあるの」

 それを聞いた美海も、口を開く。

「わ、私も同じ。言わなきゃいけないこと、あるよ」

「あんたが先でいいわよ」

「ううん。先に言い出したから、希美ちゃんから」

「……分かった」

 希美は頷くと、やっとの思いで言葉を紡ぎだした。

「私ね、ずっとあんたが羨ましかったよ。妬ましかったって言ったよね。あれはホントのことで、今でもそう思うほどだった。そこは、否定しない。私はあんたが羨ましい。

 ……でもね。ここに来て初めて分かったの。私のことをずっと照らしてくれてたのは、あんただったってことにね。誰かに話しかけるのが怖かった。あんたの光に照らされたないと、不安で堪らなかった。

 私はずっとあんたが嫌いだった。でも、あんたの光に照らされたくて堪らなかった。あんたが、優しく輝いてる美海が、ずっと大好きだった」

 希美は自分の心の内を全部さらけ出す。その中には汚い感情もあった。それでも全てを明かしたかったのだ。

 そして、それに美海は答える。

「……私は、ずっと希美ちゃんのことが嫌いだったよ。暖かいお父さんとお母さんに囲まれて、それが幸せだってことに気付いていないあなたが、心底妬ましかった。私もそういう暖かさが欲しいって、ずっと思ってた。今でも、そう。

 でも、希美ちゃんが行っちゃってから、私には友達ができなくて、ずっと寒い思いをしてきたの。それでようやく分かったんだ。いつも側にいてくれた希美ちゃんが、ずっと私のことを暖めていてくれたんだってことに。寒くて寒くて……青蘭島に行けるって分かった時、一番に希美ちゃんに会いにいくことが頭に浮かんだくらい。

 ずっと嫌いだったけど……希美ちゃんの暖かさが忘れられなかった。私は、希美ちゃんの優しい熱が、ずっと大好きだったんだよ」

 美海もまた、希美がしたのと同じように、溜め込んだ感情を洗いざらい吐き出した。

 2人は夕日の中、見つめ合う。

「ねえ、希美ちゃん。私、希美ちゃんの友達になりたい。いいところも、悪いところも、全部受け入れて……私は、希美ちゃんの友達になりたいの」

「……いいの? こんな私を、受け入れてくれるの? これから先も、あんたのことを妬むかも知れないのに?」

「うん。妬んでもいい。嫌ってもいい。それは私だって同じだよ。希美ちゃんの家族のこと、羨ましいって思っちゃうかも知れないよ」

「そんなの、別に大したことじゃないわ。でも……」

 希美が二の句を継ぐ前に、美海は希美に抱きついた。

「ごめんなさい! ずっと妬んで、ひどいこと言って、ごめんなさい!」

「私も……ごめんね。ひどいこと言って、意地悪して、本当にごめん!」

 2人は自身の言いたかった最後のことを――謝罪を――言った。

「ねえ、いいかなぁ? 私、希美ちゃんの友達になれるかな?」

 耳元で囁く美海の声は、涙に濡れている。それが分かったとき、自然と希美の目からも涙が溢れ出した。

「私も……美海の友達になりたい。こんな醜い私でも、あんたの友達になれる?」

「希美ちゃんは醜くなんかないよ。それを言うなら私のほうが……」

 そんな卑下合戦をしていると、急にバカらしくなって、どちらからともなく声を上げて泣き出した。2人はお互いの身体を、きつく抱きしめる。もう離さないという意志を、より強く相手に伝えようとするかのように。

「――美海ちゃん、希美ちゃん」

 そこに、声がかかった。2人は飛び上がって離れて声の主を見ると、寮から沙織が出てきていた。

「仲直り、した?」

「え? う、うん。その……そうで、いいんだよね?」

「そ、そうね。ええ。仲直り、した」

 2人が涙を拭いながら答えると、今度は沙織が泣き出した。

「もう! 2人ともバカ! 本当に大バカ! 私に内緒で喧嘩なんかして! 言ってくれれば、いくらでも間を取り持ったのに!」

 その大音声に度肝を抜かれた2人は慌てて沙織を慰めようと、

「さ、沙織ちゃん。もう大丈夫だから。ごめんね、心配させたくなくて」

「そ、そうよ。黙ってたのは沙織を気遣ってのことで、悪気があったわけじゃ……」

 そんな2人を、沙織は出し抜けに抱きしめた。息が止まるほどの圧迫感が2人を襲う。

「げぇ!?」

「ぅぐ!?」

「大好き……2人とも大好き! これからもずっと一緒! 喧嘩しても同じだからね! 分かった!?」

 声を張り上げて泣く沙織の背を、美海と希美は優しく撫でた。2人もまた、涙に顔を濡らしていた。

 1度は分たれた3人の影は、朱い夕日の中で1つに溶け合っていた。

 

…………

 

「はぁはぁ……もう! 私、靴下履いてないんだよ!?」

「あっはは、ごめんごめん」

 寮から砂浜の波打ち際まで一気に駆けてきた2人は、そこでようやく立ち止まって、荒い息を整えた。特に琉花は、ここ数日感外に出ていない上、ロクに食事も摂っていないため、運動が得意とは言えど流石に息が上がっていた。

「なあ、綺麗だろ?」

「え? うん、そうだね……」

 春樹が見つめる海は、夕日を反射し、朱く染まっている。水平線に太陽は沈みつつあり、東の空は藍色に変わりつつあった。

「さあ、やるか。水はいっぱいあるから、好きなだけやれ」

「え、でも何をすれば……」

「ん? まあ、やりたいようにじゃない?」

 春樹はそう言うと、琉花の手を掴んだ。

「え!?」

「あ、いや、いきなりごめん。ほら、リンクするからさ」

「そ、そう……分かった」

 琉花は戸惑いながらもリンクの姿勢に入った。目を閉じ、心を落ち着かせる。その耳に、春樹が囁いた。

「大丈夫。()()()()よ」

「……うん。ありがとう」

 春樹の心が分かった。合わせる、という言に偽りは無いようで、その心は穏やかだった。

 その暖かさを感じた。琉花の全て――良いところも悪いところも含めて――を包もうとする優しい熱。

(ああ、この人は、こんなに暖かい心で、私を受け入れてくれるんだ)

 そう思ったら、不思議と恐怖が薄れてきた。

 

 心は自然と重なり……そして繋がる(リンクする)

 

「……よし」

 琉花は自分に前置きをして、春樹と繋いでいない方の手を前に突き出した。そこに力を込め、目の前の海に作用させる。

「おおっ、今までで1番凄くないか?」

 春樹が感嘆の声を上げた。気付けば琉花は、今までの限界量の3倍程度の海水を一気に持ち上げていた。それを砂浜の上、自分たちの真上まで移動させてみる。しかも恐ろしいことに、まだ余裕があった。

 彼との生リンク(バトルフィールド以外でのリンク)はかつて1回だけ、美海を奪還するときだけ結んだことがあったが、その時でもこれほどではなかった。

(すごい。力が、いくらでも湧き出てくる)

 胸の奥から、春樹を通じて力が湧いてくる。まるで、その太い繋がりを祝福するかのように。

「じゃあ、試しに1回やってみようか」

「な、何を?」

「水質変化」

「だ、ダメだよ!」

 流石にそれには反応するが、春樹は寧ろ笑い飛ばした。

「大丈夫だ。俺が付いてる」

 彼は手を持ち上げて、繋いだままのそれを琉花に見せつけた。

 琉花はそんな彼を見て……少しイタズラしたくなった。

「そんなんじゃダメ」

「え?」

「後ろから抱きしめて」

「え!? ……でも、それなら出来るの?」

 戸惑う春樹が、どこか可愛らしくて。琉花はニッと笑った。

「やってみるさ」

「……よし、分かった」

 春樹は繋いでいた手を離すと、琉花の後ろの回り込み、背中から腕を優しく前に回した。

 彼の熱を背中全体に感じる。琉花を後押しするかのように、優しく鼓動する春樹の心。

「さ、あれを、真水にしてみて」

「……うん」

 琉花はもう片方の手も突き出して集中。

(あの時は、そういう憎しみとか怒りが、毒を生み出したんだ。なら、真水にするには?)

 答えは余りにも簡単だった。琉花は自分の心を極限まで落ち着かせ、繋がっている春樹の心と合わせる。彼の、清い想いを抱く心と。

(これが、ハル先輩がずっと私に伝えたかったことなんだ)

 いつの間にか、彼女は微笑んでいた。彼と一緒なら何でも出来る。どうにだってなる。罪の意識は消えていないものの、今までのように琉花を苛む毒ではなく、心の片隅の闇に――誰でも普通に持っている物に――なりつつあった。

 どこまでも透き通った想いを、両手の先から、浮かべた水の塊に放出する。まるで心が解き放たれたかのように、どこまでも自由に。

 しかし、消耗は存外激しかったらしい。

 ふっ、と力が抜け、頭上の水の塊が落ちてきた。

「うぉわっ!?」

「きゃぁ!」

 ばっしゃーん、と音を立て、2人ともずぶ濡れになった。

「いってー!」

 特に春樹はリンクしていて琉花が受ける痛覚まで受けたため、頭が2重に痛い。

「ご、ごめん!」

「え? あはは、別にいいよ。痛みを引き受けるのがαドライバーの仕事だからな! それより……」

 春樹は頬に付いた水滴を指先で取ると、それを躊躇なく口に入れた。

「ちょ、ハル先輩!?」

「あ、すごい。真水になってるよ!」

「それ、私のエクシードが……」

 その言葉は、春樹の満面の笑顔に出会って立ち消えた。

「大丈夫だって。琉花の心、すっごく綺麗だったから」

「……ありがとう」

 春樹と琉花は少しの間笑い合っていた。シャツもズボンもびしょ濡れで、靴の中も下着も濡れて非常に気持ち悪かったが、彼の笑顔を見ていると、それもどこか心地よかった。

 すると、急に春樹がぎょっとなってジャケットを脱いで、それを琉花に差し出した。本人は海の方を向いた。今の琉花は、プリント付きとはいえ白Tシャツ1枚。それで、彼の言わんとするところを察した。

 琉花はジャケットを受け取って羽織りながら、

「……み、見た?」

「えーと、そうだな……可愛いブラだね」

「さ、サイテー!」

 これでブラさえ付けてなかったら、今すぐ砂に穴を掘って埋まりたくなっていただろう。

 借りたジャケットの前を念入りに閉めていると、春樹が呟いた。

「なあ、怖くなんかないよ。琉花。俺さ、去年プログレスを一気に失ってから、毎日が怖くてたまらなかった。誰も助けてくれないって、さっきの琉花以上に引きこもってたし、荒れてた。もう誰も、大事なやつなんか作らないって決心してた。

 でも、お前たちが俺を、また信じさせてくれた。信じていいんだって思わせてくれたんだ。

 だから今度は、俺がお返しする番だって。……ちょっとカッコつけすぎかな」

「ううん、そんなことないよ。カッコいい」

 感慨に浸った声音と言葉に混ぜられた冗談に、琉花は笑って答えた。それから春樹の隣に立って、同じように海を眺めた。

「琉花。俺らはまだ、全然頑張れるよな。だって、あんなに強く繋がれたんだからさ」

「……そだね」

 どちらからともなく手を差し出し、互いの手を握った。

「一緒に頑張ろう、琉花。あんま時間ないけど、そんなもんどうにでもなるさ。そんで勝とうな。一緒に」

「……うん。一緒に」

 太陽は水平線に沈み、新たに地上を照らすは数多の星々と3つの(ハイロゥ)の光。

 光は繋がった2人と海を、優しく照らしていた。

 


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