アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements* 作:トライブ
琉花が不登校になった。
その少し前から美海も、どこか様子が変だ。
春樹は悩んでいた。いったいどちらを優先すべきなのだろう。不登校になってしまった琉花? それとも、相談すればなんとかなりそうな美海?
「どうしたのでございますか、春樹」
「……カレン」
「もー、また辛気臭い顔してるよ」
「千鳥も」
琉花が学校に来なくなった次の日の昼休み。春樹が難しい顔をしてパンを頬張っていると、左右から声を掛けられた。中等部の頃からの仲間。そして、密かに――
――確かに、相談するなら、確かにこの2人かもな。
1人であれこれ悩んでいても、いい回答なんて出てこない。カレンも『貴方様は誰でも頼れるのでございます』と言っていた。
春樹はお茶を一口飲むと、「あのさ……」と話し始めた。
「……なるほど。先にどちらの対応をすれば良いのか、ということでございますか」
「琉花のことはもちろん心配なんだけど、美海も何か隠してそうで不安なんだ」
「確かに、最近の美海、なんか変なのよね。普段はよく騒いでるのに、妙に静かっていうか、上の空っていうか」
どうやら、最近春樹が美海に対して感じている違和感は、他の人も感じるらしかった。寮でも上の空だというなら、いったい何が原因なのだろう?
「美海のことも心配だけど、琉花のことだって心配してる。でも、どっちから手をつけたらいいのか、分からなくて……」
「……ふむ」
カレンは顎に手を当てて考え込んだ。
「普通に考えれば、優先すべきは琉花だよね」
千鳥は至極まっとうな意見を出す。
「しかし、美海のことも心配だ、と」
「そう」
「私も、琉花を優先すべきだと思いますです」
「……でも」
心配気味な表情になる春樹。だが、カレンは冷静に分析する。
「美海は不登校になってはおりません。現状はそれなりに耐えられているのでございましょう。なれば、明確に耐えられていない合図を出している琉花が先決でございます」
「……そうだね」
苦しい顔で同意する春樹。その背中を、千鳥が叩いた。
「心配しなくても大丈夫だって。あんたが琉花に取り掛かってる間は、私が美海を見ておくよ」
「本当?」
「もちろん。困った時はお互い様でしょ?」
その言葉を聞くと、彼は幾分か安心した様子になった。
「でも、バトルまでそんなに日がないでしょ? さっさと片付けちゃいなさい」
「難しいのは承知の上でございます。ですが、貴方様ならきっとできる、と私は信じておりますです」
千鳥とカレン、2人に背中を押され、春樹は立ち上がった。
…………
「琉花ちゃんの様子を?」
「うん。見に行きたい」
放課後。春樹は、1年生の教室の前でそう言った。
対する美海は、うーんと考え込む。
「会ってくれるかなぁ……全然話してくれないんだよね。完全に塞ぎ込んじゃって」
「それでも、会わなきゃダメだ。俺はその、チームのリーダーなんだから」
「それもそうだよね……」
美海は少し考え込んで、
「そうだよね。頑張れリーダー!」
「はいよ。それで、琉花のルームメイトって希美だよね? ちょっと呼んできてくれる?」
「えっ!? 希美ちゃん!?」
「いやだって、一応彼女の部屋でもあるわけじゃん。入っていいのかって」
「そ、そうだね……うん、ちょっと待ってて」
美海は教室の入口まで行くと、何故か少しつっかえながら「の、希美ちゃーん!」と呼んだ。
「……何?」
「え、いや、その、春樹くんが」
「春樹くん? あ、どうも。何か御用?」
どことなく不機嫌さ、というより不信さが漂う希美に、春樹は声をかけた。
「俺さ、琉花と会って話がしたいんだ」
「話してくれるかしら?」
「会ってみないと分からないし、俺はチームリーダーだから。ダメ元でも、行かなきゃ」
「そうね。で、どうして私なの?」
「ほら、希美は琉花と相部屋じゃん。許可は取らなきゃと思って……」
「ああ、そういうこと……」
そこで希美は、春樹にも美海にも見えないように、何やら暗い笑みを浮かべた。
その笑みは一瞬で消え、希美は……春樹に擦り寄った。
「ちょ、希美?」
「だったら、私がついて行くわ。1人じゃ不安でしょ?」
「ちょっと、希美ちゃん!?」
「まあ、確かに希美の部屋だから、道理ではあるね」
「でしょ?」
「の、希美ちゃんってば!」
美海が大声を上げた。その目は潤んで、どこか攻撃的な色がある。
それに対する希美は、あくまで平常。ただ、こちらもどこか攻撃的だ。
「なあに、美海? 私の部屋でもあるんだから、ついて行って何が悪いの?」
「で、でも……今日はダンスの練習じゃない」
「そうなの? じゃあ、日を改めようか?」
「そんな必要ないよ。だって、私と春樹くんの仲じゃない」
「まあ、確かに付き合いも4年目だけどさ」
そこで春樹は美海を見た。今にも泣き出しそうだ。
「こ、こら希美。ほら、美海が泣いちゃいそう」
そう言うと、流石に観念したらしい希美は「冗談よ」と言って春樹から離れた。
「小春さんに言えば開けてくれるから。頑張ってね」
「ありがとう」
それを聞いた春樹は礼を言うと、すぐに踵を返した。
どこか様子のおかしい美海に、その苦しみを取り払いたいという思いに、後ろ髪を引かれながら。
…………
ダンスが、上手くいかなくなった。当然だが、希美という気掛かりの種がそばにいるのだ。集中できない。
そして、希美もそれを敢えて指摘はしない。
これは意地悪なのだろうか。
しかも、今まではなかったモヤモヤを、希美に対して感じている。喧嘩とは別の理由のものだ。これは一体なんなのだろう。
「あいたっ」
考え事をしていたら、足を滑らせて転んでしまった。
「大丈夫、美海ちゃん!?」
「だ、大丈夫大丈夫……」
沙織に助け起こしてもらっていると、希美がそこに、
「はい、あんたのせいで最初からやり直しね」
と言ってきた。沙織は突然の攻撃的な口調に一瞬困惑したようだったが、すぐに立ち直った。
「ちょ、ちょっと希美ちゃん。そんな風に言うことないんじゃないかな?」
ただ……不幸にも、沙織を挟む2人のストレスは、限界に達しかけていた。希美は、日頃から抱え込んでいる様々なストレスに加え、琉花の現状がそうさせて。美海は、原因不明のモヤモヤが、喧嘩のストレスという火種に引火したかのように。
「はいはい、私のせいでごめんね。優秀な希美ちゃんの足を引っ張っちゃって」
「み、美海ちゃん?」
「じゃあせいぜい足引っ張らないように努力しなさいよね」
語気がだんだんと強まっていく。間に挟まれた沙織は、困惑するしかない。
美海は、モヤモヤの原因が分かってきたので、それを希美にぶつけることにした。
「そういえばさ、なんでさっきあんなことしたの?」
「あんなことって、なによ?」
「春樹くんに擦り寄ったりして……好きでもないくせに」
「好きでもない? 別にそんなことないけど。3年間も付き合ってられるんだから、彼のことは好きだけど。あんたなんかよりもずっと」
美海は奥歯を噛み締めて、でも反撃する。
「でも、希美ちゃんは悠馬先生のチームじゃない」
「ええ。どちらか決めろと言われたら、悠馬くんの方が好きだもの。リンク相性もだけどね」
その言葉のせいで、爆発してしまった。
「じゃあ、春樹くんに手を出さないでよ!」
「うるさい! あんたにとやかく言われたくないわ! 暖かい家庭に恵まれなかった
「希美ちゃんこそ、素人な私の才能
「やめてよ!!」
沙織が、叫んだ。彼女は頬を真っ赤に染めて、美海と希美を見た。
「なんでそうやってお互いの悪いところばっかり言うの? なんで傷付けあうの? もしかして、最近2人がなんか変だったのって、ずっと喧嘩してたからなの!?」
「沙織、だって私は」
「だってじゃない! 2人ともバカみたい。本番が近いのに、争って、貶しあって……」
沙織は悔しさからの涙をこぼすと、
「2人とも大嫌い! 傷付け合ってる2人なんて、大っ嫌い!」
大声で叫んで、荷物を引っつかむなり、ホールから出て行ってしまった。
残された2人はしばらく、その沙織の声に固まっていたが、希美が、
「……じゃあ、今日はここまで。沙織がいなくなったから、もうやる意味がない」
「……分かった」
美海は出来るだけ早く支度をすると、何も言わずにホールを出た。
――前と同じなのに。
喧嘩をして、外に出たとは前と同じだったはずなのに。
その胸には、まだ炎が燻っている。
…………
「琉花ちゃん? 起きてる?」
「……はい」
「あのね、お客さんがいらっしゃったの。入っていいかしら?」
「…………誰ですか? 先生?」
「ううん。春樹くんよ」
「――ッ」
ドアの向こうで、琉花が息を飲んだのが聞こえた。
「入れて、いいわね?」
「…………はい。でもその前に、顔を洗わせてください」
寮監の小春に言われ、彼女は渋々といった感じでドアを開けた。
琉花の姿は、痛々しいものだった。明るい色の髪はボサボサで、どこかくすんでいる。目は充血し、疲れきった表情から、よく眠れていないことが分かった。食事もあまり摂っていないのか、顔色が悪く、まるで病人のようだった。
「……ども、ハル先輩」
「上がって、いいかな?」
「…………どうぞ」
春樹は小春に見送られながら、部屋に入った。リビングにテーブルはなく、絨毯の上にローテーブル、というか
「……はい、水。これしかないの」
「ありがとう」
琉花に差し出された水を一口飲む。その様子を琉花は、どこか苦々しげな眼差しで見ていたが、すぐに視線を逸らした。
「……それで、何の用?」
「決まってるじゃん。バトルが近いんだから、練習くらいしてもらわないと」
いきなり要求を叩き込む春樹。だが、これも打算あってのことだ。とにかく自分を、頼ってもいい存在だと思わせなければならないのだ。
返答に詰まった琉花。その上で、
「悩み事があるなら、なんでも聞くよ。できる限り、力になるから。琉花が必要なんだ」
「……悩み事なんて」
「無い、とは言わせないよ。現に不登校になってる」
かなりデリカシーに欠ける言葉だというのは分かっていたが、こうでもしないと、今の彼女に声が届かない。
「……何が、怖いの? 琉花? 大丈夫。話してみて。どうして、琉花に何の関係もない事件が、琉花をそこまで怖がらせるの?」
春樹は心からそう訴える。
琉花はしばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。
「……私ね。エクシードが目覚めたの、小学生の頃だったの」
話の方向が分からないが、やっと話をしてくれるようになったので、春樹は黙って先を促した。
「その時はね、私、髪も短くて、ほら、この性格でしょ? ほとんど男の子みたいなもんだった。身体を動かすのは好きだし、いつも外で遊んでた。
でもそのせいで、女の子たちからいじめられてたの。男女って言われてた。だから、私はより一層男の子たちと一緒にいたんだけど……5年生の頃から、男の子たちからも引かれ初めて……ほら、10歳にもなれば、男女意識とか出てくるじゃん? 気付けば、私は1人だった」
「…………」
「苦しかったよ。誰も友達になってくれないんだもん。今更髪を伸ばしても遅いって言われて、いじめられ続けた。先生もまともに取り合ってくれなかった」
そこで琉花は、何かを思いついたかのように顔を上げると、春樹のコップを手に取って、両手で握った。
「琉花?」
「学校に、私の味方は1人もいなかった。憎かった。全部消えちゃえばいいのにって、毎日思ってた。そしたらね、夢が叶ったの」
「叶った?」
「そう。私が給食当番だったとき――」
今や彼女はどこか狂気じみた笑みを浮かべていて。
「――私、スープをよそってた。誰も目を合わせてくれないから、下向いてね。もう分かるでしょ?」
「……エクシードが?」
「そう。私がよそったスープね、みんな毒になっちゃったの。みんなが「苦しい、苦しい」って呻くのを、ずっと見てたんだよ。私が、みんなを、倒したの。私が、私が――クラスのみんなに、毒を盛ったの」
「琉花――」
「でもね、その時の私はそんなこと分かってなかった。それで、クラス中で1人だけ食中毒になってなかった私は、大人にいろいろ聞かれたの。私は当然答えたよ」
私じゃない!
「――ってね。誰も信じてくれなかったけど。だから、うちはお父さんもお母さんいろいろ嫌な視線を向けられて、結局すぐに引っ越したの」
琉花の話が、終わった。春樹は、すぐになんと言ったらいいか分からなかった。慰めるべきか、はたまた気にするなと言うべきか。
春樹は、想像だにしなかった事実に打ちのめされていた。琉花が誰かが苦しむ姿に異常なほどの恐怖心を抱くのは、他でもない彼女が、誰かを苦しめていたから。罪悪感が、そうさせていたのだ。
「あ、そうだ。はいこれ」
琉花は、今まで両手で握っていた春樹のコップを、再び差し出した。手に持ってみると、冷たい。彼女が
春樹は、それを一口飲んで気分を落ち着かせようと――
「ねぇ、それ、飲んでいいの?」
「え……?」
「だって、私が
「それが……っ!?」
春樹は言葉を詰まらせた。彼女が何を言いたいのか、分かってしまったからだ。
『私が――クラスのみんなに、毒を盛ったの』
琉花のエクシードの影響を受けているなら、この水も毒に変化しているのかもしれない。
そう考えた時、春樹の手が止まった。そして、そろそろと下がった。
そして、琉花を見た。彼女は、ひどく傷ついたような顔をしていた。
「ほら、やっぱり」
「ち、違う」
琉花は立ち上がると、春樹の首根っこを掴んで無理やり立たせ、
「出てって」
「琉花、違うんだ――」
「出てって! 出てってよ!」
「琉花――!」
しかし、琉花は耳を貸さなかった。
「ハル先輩なんて大嫌い! この偽善者! もっと本気だと思ってた!」
「――!?」
「そういうのが一番ムカつくの! 人が大人しい内はいい人ぶってるくせに、こっちが本性現したら途端に引け腰になる人が!」
――偽善者。
――人の顔色伺ってないで、本気でぶつかってきなさいよ。
――そういうのが、一番ムカつくんだよね。
「大嫌い! 出てって! 早く出てってよぉ!」
春樹はまともに抵抗もできず、追い出されてしまった。
――俺は何をしているのだろう。
――俺は何も成長できていない。あの時のまま、また傷付けている。
春樹はしばらく、何も考えられなかった。
…………
琉花は、春樹を追い出すとすぐにドアに鍵を掛け、寝室に戻って毛布にくるまった。
――これで良かったんだ。私みたいな足でまといのことなんか、彼は気にするべきじゃない。
――もう、見捨てられただろう。こんな私のことなんか。大嫌いと言った私のことなんか。
「うわあああぁぁぁん!」
しかし、何故か涙が止まらなかった。何度嗚咽を飲み込んでも、次から次へと湧き出てくる感情。
――もう救われない! もう許されない!
琉花は毛布に顔を押し付けて、ひたすらに咽び泣いていた。
大好きな人を、大切な人を傷付けた、その罪悪感に。