アンジュ・ヴィエルジュ *Skyblue Elements*   作:トライブ

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第1話「どうしてこの島に来たの?」

 

 薄汚れた光が見える。

 

 全身が痛くてたまらない。

 

 冷たい苦しみの中で藻掻いている。

 

 頭が凍りつき、感覚が失われていく。

 

 痛みも。

 

 苦しみも。

 

 冷たさも。

 

 光も。

 

 何も感じなくなってしまう。

 

 失われるはずだった、ひとつの命。

 

 他の誰とも変わらない、ひとつの命。

 

 そこらじゅうで失われているそれと、何ら変わりのないひとつの命。

 

 それでも、その暖かさだけは、守っていたかった。

 

 だから、私は、――――――――――――

 

 

 

…………

 

 

 それは、遠い日の思い出の中。

 

 世界を赤く染め上げる夕日の中で、栗色の髪の少女が、古い日本家屋の建つ庭で遊んでいる。彼女は一人で毬遊びをしていたが、その横顔は不思議と寂しそうには見えなかった。しかし、二つに結った髪の先は、どこか寂しげに揺れている。

 縁側に、一人の老女が出てくると、少女は待ちかねたように彼女に駆け寄った。

 靴を脱いで縁側によじ登ると、少女は老女に抱き着き、老女もまた少女を心底愛おしそうに抱きしめた。

 

「おばあちゃん!」

「ごめんなさいね、遅くなって。さあ、もう暗くなるよ。お靴は玄関に置いてらっしゃいねぇ」

「うん!」

 

 素直に応じた少女は靴を持って玄関まで駆けていき、驚くべき速さで駆け戻ってきた。

 

「おやおや、相変わらず足が速いねぇ」

「このまえもね、うんどうかいで、かけっこいちばんだったんだよ!」

「すごいねぇ。うんうん、みうちゃんはきっと立派な女の子になるよ」

「えへへ、そうかな~」

 

 照れたようにはにかむその少女は、自らの祖母に抱き着くと、頭を撫でてと言わんばかりにぐりぐりと頭を擦りつける。そんな仕草にまた感心した祖母は、少女の頭を慈しむように撫でた。

 

「ねぇねぇ、今日もお話読んでー」

「はいはい。それじゃあ、みうちゃんの大好きな最中、持ってきましょうね。お隣さんからもらったの」

「もなか! みうみ、もなかすき!」

 

 少女は祖母に手を取られて屋敷の奥に連れられて行く。

 日は沈み、辺りは暗い静寂に包まれる。その中で、少女の楽しげな笑い声が響いていた。

 

 それは、世界に選ばれた少女の、遠き日の思い出の中。

 

 

…………

 

 

 ある日、世界は連結した。

 突如として開いた"(ハイロゥ)"。三つの異なる世界との融合。その影響によって、『プログレス』になった少女たちは身体能力の飛躍的な上昇や、超能力じみた不思議な力など、様々な『異能(エクシード)』に目覚めるようになった。

 

 

…………

 

「……ってさ……なんか不気味じゃない?」

 

 その日の天気は、雨だった。

 

 放課後、忘れ物を取りに教室へと戻った彼女は、ドアの前で急停止した。

 何人かの女の子が、教室に残って談笑している。

 

「あいつの周り、いっつも風吹いてるんだよ」

「ほら、アレだよアレ。変な力が使える《プログレス》ってヤツ」

「あぁ~、アレね。()()()()()()()()っていうんだっけ。気持ちわるいよね~」

 

 思考が一瞬で凍りついた。次いで、バッグを握った手が震え始める。

 

「だよねぇ。本人は必死こいて『私はみんなと同じ女の子だよ~』みたいに気取ってるけど、もうあいつ青蘭島行き決まっちゃってるんだもんね。内心あたしらのこと見下してんのバレバレだし」

「ほんっと、ムカつくよね」

 

 足が震える。

 頭が熱くなる。

 いつも笑顔で接してくれているみんなの、汚い心の中身。

 みんなと違う。それだけでここまで言われる。

 みんなのこと、見下してなんかない! そんな風に言われるくらいなら、こんな力いらない!

 逃げたい。今すぐ走って家に帰って、布団にくるまって泣き喚きたい。

 今すぐ教室内に駆け込んで、あんたらの方がよっぽど見下してんじゃん、と叫びたい。

 でも。

 

 

 ――ずっと笑顔でいなさいね――

 

 

 彼女は顔を上げると、教室に向かって無理矢理笑顔を作る。そうすると、彼女の心は自然に前向きになる。

 それは、彼女の本能が、周りから嫌われないようにするために編み出した『儀式』だった。

 そうして自分の心を騙して。

 彼女は教室のドアを開け放つと、満面の笑みを浮かべて言った。

 

「あれ? みんなまだ残ってたんだ~。何話してたの? 私も混ぜて!」

 

 

 その日の天気は、土砂降りの大雨だった。

 

 

 

…………

 

 美しい碧と緑に囲まれた島・青蘭島。上空にきらめく三つの"(ハイロゥ)"は、この島の何よりもの特徴です。

 四つの世界を揺るがす『世界接続(ワールド・コネクト)』が起きてから、既に19年が経過しています。異能に目覚めた少女(プログレス)を育成する青蘭学園は、今年で開校15周年を迎え、また、ほかの三つの世界も世界接続20周年を祝い、友好の証として、各世界で記念祭が開催される予定です――

 

「ふぅ~ん……そうなんだぁ。世界接続って、もう20年くらい続いてるんだ」

 

 青蘭島に向かうクルーザーのデッキの上でパンフレットを眺めながら、日向美海は感嘆のため息を吐いた。

 栗色の髪をふたつに結ってツインテールにしており、上半身はピンク色のパーカー、下半身はホットパンツとニーソックスにスニーカーという出で立ちで、本人の内心の興奮を表すかのように、ツインテールまで落ち着きなくそわそわしている。

 青蘭島まではあと2時間程度。夢にまで見た青蘭学園が待っている。そう考えると、落ち着きがなくなってしまうのも仕方がない。

 昨夜は緊張とクルーザーの揺れであまり眠れなかったが、そんな不調を越して余りある期待に胸が弾んでやまない。

 

「あっ、見えてきた!」

 

 天空に開いた三つの門。そして緑に包まれた青蘭島。水平線の彼方にひょっこりと顔を出したそれに、美海はひどく興奮した。"門"は、門というよりかは巨大な星に見えて、写真で見るよりもずっと迫力がある。遂に青蘭島に来たんだ、という実感が、胸の内からじわじわと湧いてきた。海上はそれなりに寒いのに、なんだか顔が火照ってきている。

 

「いったいどんなところなんだろうなぁ。楽しみだなぁ」

 

 笑顔いっぱいが取り柄の美海は、目を見開いて海を眺めている。憧れの青蘭島はすぐそこに迫っていた。

 

 

…………

 

 

 彼はひどく悩んでいた。

 四月に二年生に進級する彼は、苦悩に暮れている。極力人前では見せないようにしているが、ひとりになってしまうと、どうしても自分の弱さが浮き彫りになって、つらくなる。

 支えてくれるプログレスは、もういない。

 朝、目覚めるのすら億劫になる。

 朝起きると、携帯に同級生から遊びに行かないかと誘いのメールが入っていたが、どうにも乗り気になれない彼は、それをやんわりと断った。彼も彼なりに気遣ってのことだと分かっていたので罪悪感が募るが、心の底から楽しめる状況じゃないと相手にも申し訳ない、と思ってしまうのだ。

 昨日のうちにマーケットで買っておいた出来合いの朝食を胃に押し込むと、彼は気晴らしに外に出ることにした。少しの間、行く当てもなくふらふらとして、そうだ海を見よう、と思い立つ。島の東側の岬に行って、しばらくぼーっとしてみれば、なんとなく気が晴れるかもしれない。

 歩きながら、こっそりとため息を吐く。

 

 彼は世界でもそう見られない『αドライバー』だ。αドライバーは、リンクというつながりによってプログレスの異能を強化することができる、というのが一番の特徴だ。そして、プログレス複数人とαドライバー1人で構成されたチームで戦うのが『ブルーミングバトル』である。

 目下不安なのは、2年生になると出てくる『ブルーミングバトル実践』の授業だ。プログレスの方は任意なのに対し、αドライバーは必須科目。なのに、彼には自分と相性のいいプログレスが現在存在していない。

 もちろん、急ごしらえのチームで出ることも可能だが、彼としては果たしてそれでいいのかと何度も考えてしまう。

 リンクで何よりも大事なのは、絆。

 例え強力なプログレスであっても、お仕着せの絆ではまともに力を引き出してあげることができない。

 もちろん、それでも別に構わないのだが、彼は悩む。彼にとってのプログレスは『支え』だから、全力を出させてあげられないというのは、そのプログレス達に対して冒涜的だと思っているのだ。

 一緒に事を成してくれる仲間が楽しめないなら、満足できないなら、その仲間に対して申し訳なくなってしまう。それが彼という男の魅力であり、また最大の欠点でもある。

 

(自分のためだけに生きられれば、もっと楽なのかな……)

 

 例えば、今日はみんなと遊んで、無理矢理楽しんでみるとか。表面上だけでも楽しんでもらえれば、そっちのほうがいいんじゃないか。

 例えば、クラスで仲のいいプログレスを1人か2人誘って、内心をぶちまけて泣きついてみるとか。そうすれば、ぶちまけられた方はたまったものではないだろうが、少しは気分が晴れるかも。

 

 ぐちゃぐちゃと思考を濁らせていると、いつの間にか東岬に着いていた。シンボルである陶磁器のように白い灯台はそれなりに見どころであるものの、青蘭島の観光名所は中央の学園特区と商業地区が大部分を占めているため、わざわざそこから数キロ離れたここまで来て灯台を見たいと思う者は少ない。現に、今だって誰もいない。しかし、今はそれが好都合だと思った。

 

 結局、そんなことを考えてはみるものの、実行に移す勇気はない。彼の性格は、よく言えば『空気が読める』とか『気が利く』とか言えるが、悪く言えば『自分がない』ということになる。そして、彼自身、我が薄いのは承知しているのだ。そうなった理由はわからない。気にする意味もないだろう、だって、別段悪い性格というわけではない――はず、と思っているから。まあ、今はそうでもないかもしれない。ほとんど無意識のうちに、友人の誘いを断るという我を見せている。

 しかし、その『自分の薄さ』は、2年生になったらチームを組んでブルーミングバトルに出ようと契りあった、特別相性の良いプログレス4人を一気に失ってから、輪をかけて薄くなった。

 二度と目にしたくないような光景を目の当たりにして、彼の中にあまりにも大きすぎる穴が空いて。

 そこから『自分』を形作っている何かが流れ出していくかのように、『自分』が、薄くなる。

 誰かに誘われなければ、何かをする気になれない。なのに、誰かに誘われても、それに乗る気にもなれない。

 こうして、ふらふらと歩き、歩き……そして、途方も無い虚しさに呑まれるだけ。

 

 ――今の俺を見たら、『あいつら』はなんて言うだろう。きっと『今の俺』は、あいつらに好かれる資格なんてどこにもない……。

 

 荒波が飛沫を上げる岸壁に腰かけ、水平線の彼方に視線を投げる。

 あまりにも広大な海を眺めていると、自分が相対的に小さく見える。なのに、胸の内に渦巻く苦悩は消える気配がない。

 悩んでいるだけでは、何も変わらないのに……。

 気が遠くなるほど蒼い海をぼんやりと眺めながら、(かみ)(しろ)(はる)()はまたため息を吐いた。

 

 

…………

 

 

 憧れの青蘭島に上陸したという喜びは、美海の属する寮に着くまで胸を覆いっぱなしで、青蘭西港から寮までのバスの中で、ロクに景色をみることなど出来なかった。

 

「ここが私の部屋かぁ」

 

 この四階建ての寮の名前は『満月寮』というらしい。この他にも、『睦月寮』『如月寮』『弥生寮』などがあるのだとか。ここだけ月の旧名ではないのには、別に大したことではないけど、まあ理由があるのよ、と案内してくれた優しげな寮母の小春さんが言っていた。

 かなり充実した部屋だった。トイレとバスルームは別々、洗濯機もキッチンもある。少し狭めの寝室には二段ベッドが一つ。それなりに大きいそれにちょっと寝転がってゴロゴロとしてみたが、毛布もフカフカでかなり寝心地もいい。

 洗面所もクローゼットもベランダも広めで、美海としては特に洗面所が広いことに感銘を受けた。これなら、女子がもう一人くらい普通に入れそうだ。改めて自分が『招待された』存在であることを再認識する。

 

「プログレスってそんなに貴重なのかなぁ」

 

 寮は二人部屋だった。玄関から顔を突き出してドア横の表札を見ると、『日向美海』以外に、もうひとりの名前が書いてある。

 

「えーと……岸部、沙織……ちゃん?」

 

 美海は新入生の中でも一番乗りに近い。なんと言っても、今はまだ三月上旬である。卒業式が終わるやいなや、すぐに青蘭島に来たのだから当然といえば当然なのだが、相部屋になる女の子が来るのは、恐らく当分先になるだろう。

 

「どんな子なのかなぁ。かわいい系かな? かっこいい系かな?」

 

 荷物の中の洋服を備え付けのタンスにしまいながらあれこれと想像を膨らませていると、不意にドアがノックされた。

 

「はーい! えと、どちら様ですかー?」

 

 元気よく返事をすると、「二年の東条でーす」と名乗られた。急いで玄関を開けると、灼熱のような赤毛の、快活そうな先輩が立っていた。

 

「よっ! 新入生ちゃん! 歓迎の挨拶をしに来たよ」

「あ、ありがとうございます。日向美海です!」

 

 

 美海が名乗ると、先輩はニコっと笑った。綺麗で《自然な》笑顔だ。

 

「私は2年で、風紀員の(とう)(じょう)(はるか)。そのまんま遥って呼んでね。『はる』って呼ばれると小春さんと間違えちゃうし。ま、分からないことがあったらなんでも聞いてくれていいし、困ったことがあれば相談に乗るよ」

「ありがとうございます、遥先輩」

 

 美海は「いろいろ聞きたいんですけど、立ち話もアレですし、どうぞ中に入ってください。何にもありませけど」と遥をリビングに連れて行った。

 

「うんうん。今年の一年生トップバッターは美海ちゃんね。今日の晩御飯は歓迎会するって小春さん言ってたけど」

 

 ピンク色の絨毯の上に腰掛けながら遥が嬉しそうに言った。

 寮監の小春さんは、美海を部屋に送り届けたあと、やたらに嬉しそうにスキップしていた。それを思い出しながら美海は考える。

 

「そうなんですか? でも、私だけのために……もう何人か来てからの方が良さそうですけど」

 

 それに、どうせお祝いしてくれるなら、みんなまとめて祝ってくれた方が楽しいし。と付け加えると、遥は「そうだよね~」と相槌を打った。

 

「そう。私もそれ思った。じゃあ小春さんに言っとくから、美海ちゃんは新入生トップバッターとして、青蘭学園での抱負とか考えておいてね!」

「ほ、抱負?」

「そ。目標みたいなものね。どう、なんかある?」

「うーん……とりあえず、友達をいっぱい作りたいなぁ……」

 

 ぼやぼやと浮かぶ空想のうちの一つを口に出してみると、遥は懐かしむように目を細めた。

 

「いいねー。そういうの、初々しさが出てていいね。既に1人、友達出来ちゃってるしね」

「え?」

 

 美海が我に返ると、遥は面白そうに笑った。

 

「学年は違えど、みんな友達だよ。美海ちゃん。それで、聞きたいことって何かな?」

「あ、そうでした」

 

 美海は遥に訊ねた。それはいい服屋だったり美味しいクレープ屋はあるのかだったり、と女の子らしい内容ばかり。応える遥も楽しそうに笑っている。

 

「そういえば、この寮って何人くらい住んでるんですか?」

「今のところは22人ってところかな。美海ちゃんが23人目で、一年生は美海ちゃん以外にあと7人来る予定……だったはず」

「え、少なくないですか?」

「あぁ、別にこの寮だけに新入生が来るわけじゃないよ。全体、というか、他の3つの世界も合わせると、たぶん……40人くらいは来るんじゃないかなぁ」

「よ、40人」

 

 中学校は一学年に生徒が150人程いたので、少しどころかかなり少なく感じる。

 

「でも、そっかぁ。40人くらいなら、全員と友達になれるかも!」

「あはは。美海ちゃんならヨユーそうだね」

 

 お互いに笑い合い、遥が美海の頭を撫でた。

 その瞬間、美海の体がびくんと跳ねた。頬が急に熱くなり、えも言われぬ、表現しづらい感覚が襲いかかる。

 

「あ、ごめん! 嫌だった?」

 

 心配そうな口調で遥が問いかけるが、美海の表情は不快ではなく驚きに満ちていた。

 

「いや、そうじゃなくて! その……頭を撫でられたこと、そんなになかったから……」

 

 なんだろう。ものすごく気持ちいい。背筋がゾクゾクする。頭を撫でてもらうって、こんなに気持ちいいんだ。

 

「そっか……なら、先輩に任せなさい! 美海ちゃんがもうやめてーって言うまで、撫で繰り回しちゃうからね」

「ちょ……あはは! 待って先輩! くすぐった……あはははは!」

 

 遥は美海の体ををガッチリとホールドすると、その頭を強く何度も、しかし優しく撫でた。美海としてはくすぐったくて仕方がないが、それでも、遥の優しさが嬉しかった。

 何事にもポジティブなのが、美海最大の強み。

 だから、前を向いていて欲しい。そのことは、出会ってまだ十数分の遥にもしっかりと伝わったようだった。

 

…………

 

 「ちょっと散歩してきます」と言って美海は寮を出た。雲行きが少し怪しくなり、雨は降りそうではないものの、陰鬱な雲が空を覆っている。しかし、辺りには潮の香が広がっており、慣れない美海は少し新鮮な気分になった。

 

「やっぱり孤島だと、お魚とか海の幸がおいしいのかな」

 

 遥の話によると、島のかなり東の方にある満月寮からさらに東に行くと、灯台のある岬に出るそうだ。逆に西に向かうと、青蘭学園特区や、ショッピングモールなど栄えた商業区画に行けるらしい。東に行っても灯台しかないよ、と言われたが、せっかくだし海をもっと感じたい、ということで東に向かっている。

 

「灯台……あれかな?」

 

 人通りが疎らな道路を歩いていくと、真っ白な灯台が見え始めた。しかし、

 

「うわぁ、砂浜だー!」

 

 砂浜の海岸線が同時に目に入る。思いっきり気を惹かれた美海は、どうせなら砂浜を歩いていこうと思い立ち、さくさくとした砂に足を下ろした。ごく薄い茶色の砂が、美海の歩いた軌跡を残している。振り返ってそれを見たとき、美海の中に蘇る記憶があった。

 

(そういえば、最後に海に行ったのはいつだったっけ。小学生の時だったかな……)

 

 崩れていく砂を踏みしめる度に、少しずつ記憶が戻ってくる。

 

(そう、小学生の頃……(のぞ)()ちゃんの家族と一緒に……。空も海も真っ青で、おっきな波を見て、二人して驚いてたっけ……)

 

 無二の親友の家族と行った海。そこで美海は思いっきり遊んで、そして――

 不意に足が止まる。

 

(ううん、驚いただけじゃなくて……)

 

 脳の深淵から浮き出てきたのは、痛みの記憶。苦しくて、死ぬほど苦しくて、目の前が霞んでいく。

 思わず美海はかがみ込んだ。頭を抱え、その場にうずくまる。砂の一粒一粒が、やけに大きく見える。

 

(死ぬほど、じゃない。私はあの時……)

 

 

 

 みうちゃんや、この海の、ふかーい、ふかーいところにはね、海神(わだつみ)様がいるんだよ。

 

 海神様はとても大きくて、立派な姿をしていてね、私たちをいつも見守っていてくれているんだよ。

 

 みうちゃんがいい子にしていたら、もし海で溺れてしまっても、海神様がきっとみうちゃんを助けてくれるよ。

 

 だから、ずっといい子にしているんだよ。お父さんとお母さんの言うことをよく聞いて、助けてあげなさいね。

 

 ずっと笑顔でいなさいね。

 

 

 

 美海は砂浜に座り込んで海を眺めていた。

 

(…………)

 

 寄せては返す細波が、大丈夫? と美海を気遣うかのように、静かにさざめいている。

 

(私は…………)

 

 まとわりつく水は、いくらもがいても決して離れてくれず、空気を求めて反射的に開いた口を容赦なく覆い、流れ込んでいく。吐き出したくても吐き出せず、頭が凍りつき、すべての感覚が失われていく。痛みも、苦しみも、冷たさも、光も。

 脳の奥から溢れ出てきた痛みに顔をしかめる。

 

(……海神様が助けてくれたの? いい子にしてたからなのかな)

 

 一人の女性が脳裏に浮かんだ。あまりにも美しい、巨大な存在。真っ暗な冷たい水の中に沈んだ美海を、その暖かい腕で包み込み、息を吹き込んでくれた、優しい海神様。

 しかし、その顔ははっきりと像を結ばない。なのに、《彼女》であることは分かった。今まで味わったことのない不思議な感覚に、戸惑ってしまう。

 

(それからだっけ。私がエクシードに目覚めたのは)

 

 最初は、そよ風だった。海から帰ってきたその後のある日、暑いなぁ、風が吹けば涼しいかなぁ、と思ったとき、そよ、と風が凪いだ。偶然だと思っていたが、それから何度も試してみて、美海は自分がそよ風を作り出せるようになっていたことに気づいたのだ。

 それからの異能の成長――いや、()()()は凄まじく、中学生になってしばらく経った頃には、もう風を操って空を飛べるようになっていた。心躍る反面、自分の中にある《ソレ》が恐ろしくなったことが無い、とは言い切れない。

 他者とは違う。

 それは、彼女にとって、あまりにも恐ろしいことだったのだ。

 

(でも、死んじゃってたはずないもん。あの時死んじゃってたら、今こうして、夢だった青蘭島にいるわけがないし)

 

 いつまでも悩んでないで、灯台に行こう。美海は、よし、と気合をいれて心を入れ替えると、灯台に向かって足を踏み出した。

 

 

…………

 

 

 ここに座って、そろそろ一時間が経過する。流石に尻が痛くなってきた。

 春樹は、これまた特大の溜め息を吐く。

 

(結局……こうだもんなぁ)

 

 無益なことというものは、思いの外体に来るものだ。そして、体が悲鳴を上げ始めると、どうせ無益なことだし、とすぐに諦められてしまう。

 正直、暇だった。

 春樹は体をひねって背後の灯台を見やった。

 

(お前も、難儀なもんだな……)

 

 お前は大層美しい存在だが、建っている場所が場所だから、誰も見に来てくれない。少なくとも、島に馴染んだらわざわざここに来たいと思う奴なんかそういない。自分のような、行動に何の自主性も持てない奴が来るもんだ。

 本当にどうしようもない。そして、何よりもどうしようもないのは、そんな自分を()()()いる自分自身だった。そんな風にして自分を()()()いる自分自身だった。

 今までの自分がどうであったか、振り返ってみる。予想はしていたが、本当にどうしようもない。

 クラス中で自分が《おかしくなっている》扱いを受けているのはよく知っている。そりゃあ、学年で2人しかいないαドライバーの1人がこんなことになっているのだから、悪目立ちして当然だ。

 

 「可愛そうだ」と言われる。

 

 そして、自分はそれを知っていた。それが問題なのだ。みんなが楽しくなれないから……なんていうのは端から建前で、本当は「可愛そうだ」と言われる存在でありたかったんじゃないのか。そうだったとしたら……タチの悪いかまってちゃん以外の何者でもない。

 

「ほんと、どうしようもねぇな……」

 

 自分の境遇を鼻にかけ、不幸せ者を気取って周りに当たる。(いたずら)に他者からの善意を弄び、挙句、せっかく差し伸べてくれた手さえ、偽善を演じて振り払う。

 結局、そうしてみんなの好意に甘えるのは《楽》なのだ。こちらはただ不幸を演じていれば、周りが構ってくれるのだから。

 どうしようもない野郎じゃないか。αドライバーとしてだけに留まらず、人として、あまりに碌でもない。

 

(結局お前は、自分のことしか考えてねえじゃねえか)

 

 

 ――偽善者。

 

 ――人の顔色伺ってないで、本気でぶつかってきなさいよ。

 

 ――そういうのが、一番ムカつくんだよね。

 

 

「…………」

 

 きっと、特にキツい性格だった《彼女》なら、初めて会った時のように、容赦なく「偽善者」とばっさり切り捨てただろう。それ以外の子たちにしたって、いい顔はしないに決まっている。でも、それは当たり前だろう。自分だったら……責めてしまうかも。

 

 「責めてしまうかも」?

 

「……んー……」

 

 そこで春樹は、はじめて自分が自分をどう思うだろうか、ということに考えが及んだ。責めてしまうかも? これなら《彼女ら》の方がずっと優しいじゃないか。

 となれば、これからは少なくとも表面上は社交的に振舞わなければ、というかそうするべきだろう。例え自分が辛くても、こんなふうにふざけた態度は取るべきではない。

 

「春休みも、まだ始まったばっかりだしな」

 

 自分の方から誘ってみてもいいかもしれない。別段何がしたいという思いが真面目に考えても湧いてこない辺り、本格的に自分が薄まっている証拠だが、ほかの連中はそうでもあるまい。自宅に帰ったら、「今日はごめん。明日は行きたいとこに付き合うよ」とメールを1本入れればいいのだ。なんだ、簡単じゃないか。

 自己完結で心機一転できただけマシか、と思って改めて海を見ると、なんだか海が煌めいているような気がした。天気はどんよりと曇っているのに、まるで春樹の改心を祝福しているかのようだ。いや、どちらかというと「やっとか、このマヌケ」と叱責されているようにも感じる。

 そう考えると、自然に笑みが浮かんだ。自分では見えないが、きっとニヒリズムが漂っているのだろう。「ニヒリズム」が何なのかは知らないけど。

 

 

 それが、運命の始まりだった。

 

 

 不意に、斜め下あたりから呼び声が聞こえた。

 

「おーーーい!!」

 

 声のする方を向いてみると、見慣れない顔と目があった。栗色の髪をツインテールに結った、快活そうで可愛らしい子だ。奇特にも、砂浜を歩いて灯台まで来たらしい。

 しかし、なんて呼び返したらいいかわからなかったので小さく手を振ってやると、向こうは腕全体で大きく振り返した。そして、更に叫ぶ。

 

「いまそっちに行きまーす!」

 

 そうして左右を見やる女の子。しかし、岬の先端であるここには、砂浜から直接は行けないのだ。少し戻ったところにある階段から道路に上がらないと、ごつごつした岸壁をよじ登る羽目になる。その高さ、実に10メートル――ビルの2階くらいある。例え下が砂浜でも、落ちたら痛いだけでは済まないだろう。

 春樹は「後ろの階段から登っておいで」と声を掛けようとしたが、それよりも先に女の子は、決心したかのようにこちらを見上げ、えいやとジャンプした。行動としては、それだけだった。

 瞬間、ものすごい勢いの『風』が、地面から空に向かって吹き上がる。今まではそよ風程度だったので、この突風には完全に不意を打たれたが、それにしても身長176センチ、体重63キロある春樹の体が一瞬()()()()()。肝を冷やした春樹は慌てて姿勢を低くし、地面にしがみつく。おかげで吹き飛ばされずに済んだが、春樹は横目に見た光景に瞠目する。

 女の子が、ツインテールを暴れさせながら、当たり前のように風に乗って()()()()()

 フード付きパーカーの裾を翻し、春樹の隣に片足で着地した彼女は、体操選手のように腕を横に広げて得意げに「えへへー」と笑い、そのまま、綺麗に、

 足を滑らせた。

 あっ、と思う間もなく、反射的に春樹は彼女を抱きとめた。

 

「きゃ……っ?」

「あ、危ない……!」

 

 お互いに一拍遅れて声が出る。

 彼女は春樹の腕の中で、半分笑顔のまま呆然とする、という曖昧な表情で固まっていた。

 

「だ、大丈夫?」

「は、はい。お、お恥ずかしいところを……えへへ」

 

 照れ笑いする女の子。その笑顔にどことなく「華」があって、思わず見とれてしまう。

 よく見ると、非常に可愛らしい女の子だった。少し幼さの残る顔立ちは綺麗に整っており、照れ笑いが良く似合っていた。きっと、楽しそうな笑顔も嬉しそうな笑顔も、よく似合うのだろう。

 それよりも強く感じたのは、《近さ》。

 この少女と自分は、《近い》。言葉には言い表しにくいが、肩肘張る必要がなさそう、とか、気兼ねなく接せそう、とでも言えばいいのだろうか。

 それに、この顔……どこかで見覚えがあるような。特に目元が誰かに似ている。誰だったかは思い出せないが……。

 

 彼女の方も、春樹の顔を食い入るように見つめていた。照れ笑いから笑いが失せ、どんどん頬が赤らんでいく。

 

「あ、あの……」

「ん?」

「そ、そろそろ離してもらっても……?」

「え? ……ああ、ごめん!」

 

 慌てて女の子を離し、それでもあまりに恥ずかしくて、顔を背ける。しかし、春樹の見えていないところで、彼女の表情は、不意打ちながらも満更ではなかったと物語っている。

 一方、慌てて話題を探した春樹は、

 

「えっと……君、新入生?」

「え? あ、は、はい。日向美海っていいます」

「美海ちゃんね。俺は神城春樹って言うんだけど……あれかな、たぶん先輩になるはず。高等部1年になるんだよね?」

「はい。ちょっと早く着きすぎちゃったかなーって思ってて……えへへ」

 

 私以外誰も新入生がいないんですよー、とまた照れ笑いしながら語る美海を、春樹はぼんやりと眺めた。

 

「で、なんでまたこんなところに来たの? ここらへん、何もないけど」

「それはですね、この灯台を見に来たんですよ!」

 

 キラキラとした目で灯台を見上げる美海を尻目に、春樹は内心なるほど、と思う。と同時に美海を見る目が、つい珍妙な生き物を見るような目になった。

 この子、結構変人だな。

 そう思いはすれど、

 

「……()()なもんだね」

 

 と呟くだけにとどめておいた。当の美海は気にした様子もなく「綺麗ですねー!」などと言っている。というより恐らく、「奇特」の意味が分かっていない。まだ高校生になりかけの年齢なのだし、仕方がないだろう。というより、春樹もよく分かっていない。雰囲気で言っただけだ。

 

「先輩先輩、先輩のこと、春樹先輩って呼んでいいですか?」

「え? ああ、別にいけど……」

「で、春樹先輩こそ、何やってたんですか? なんか悩んでるっぽかったですけど」

「ん。まぁその、ちょっと考え事だよ。ここらへんは人気(ひとけ)無いし、ぼーっとするにはいい場所だなって」

「なるほど。じゃあ私もご一緒していいですか?」

「はぁ……まあ、構わないけど」

「やったぁ。それじゃ隣、失礼しますね」

 

 嬉しそうな笑顔になって春樹の隣に小ぶりなお尻を下ろす美海。それを見ていた春樹は、先の想像が外れていないことを確信した。その笑顔は、美海によく似合っていたからだ。

 そよ、と風が吹く。美海のツインテールが(なび)き、ふわりと揺れる。

 

「俺も……」

「はい?」

「俺も君のこと、美海って呼んでいい?」

 

 その時、自分はどんな眼差しを美海に向けていたのだろう。

 自分でも、その時の心境をはっきりと感じることは出来なかった。様々な感情が薄く混じり合い、まるで霧のようにぼやけた感情だったのだ。

 強いて言うならば――救われたかった、という思いだろうか。この底抜けに明るい少女に支えてもらいたかったのかもしれない。

 自分とは、そういうものなのかもしれない。

 

 《()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 春樹の視線を正面から受け止めた美海は、一瞬きょとんとしながらも、ニッコリと満面の笑顔になって、「もちろん! いいですよ」と了解した。

 

「美海のエクシードってさ、風を操る感じなの?」

「はい! よくわかりましたね!」

「まあね……」

 

 危うく吹き飛ばされかけたからな、と小声で付け加えると、美海は「あわわ……」と泡を食って、

 

「そ、そうでした。ごめんなさい……」

「ん、別にいいよ。吹き飛ばされなかったし。ただ、大したもんだなーって」

「え?」

「リンクも無しで自分の体を浮かせられるわけじゃん。それってすごいことだと思うよ。少なくとも、今までそんなに強いエクシードを素の状態で使える奴はいなかったしね」

「はえー……これ、そんなにすごいんだぁ」

 

 美海は呆然としながら自分の手のひらを眺めた。握って、開いて、また握ってを繰り返し、そんな自分をどこか()()()()()()眺めている。

 

「美海は、どうしてこの島に来たの? 単に、招待されたから?」

 

 そんな質問が、春樹の口から出てきた。横目に美海を見ると、面食らった表情までは予想できたのだが、それよりも不可解な感情がチラリと垣間見えた。

 恐怖。

 一瞬だったが、確かにその表情は、何かを恐れていた。

 

「え、えーと……はい。招待されたからってのもありますけど……」

 

 美海は笑顔を取り繕いながら、拙く言葉を紡ぐ。

 

「残りは、秘密です!」

 

 そう言った時には、既に美海は満面の笑顔だった。岬に降り立った瞬間と、何も変わらない笑顔。

 薄っぺらいのに、()()

 それを見た春樹は、先程とは異なり、にわかに背筋が冷えた。

 

(ついさっきまで、笑顔じゃなかったのに……)

 

 これは単に「明るい」で済む範疇を超えているように思える。

 どこか自分と似ている気がする。果たしてこの子も()()()()()()()()のだろうか。

 気が付くと春樹は、美海の頭に手を乗せていた。そのまま、そっと左右に動かし、頭を撫でる。髪を乱さないように、そっと。彼女の頭が一瞬震えたが、何も言っては来なかった。

 

「いつか、教えてくれよ」

 

 春樹は独り言のように呟いた。相変わらず彼女の方を向けなかったが、実は彼女の顔を見たくないだけだった。きっと彼女は、見られるのが恥ずかしい顔をしているに違いない。

 そしてそれは、実際その通りだった。美海は顔を伏せ、一粒、涙をこぼした。

 

「……やっぱり」

「ん?」

 

 美海が震える声で何か言ってきた。春樹が生返事をすると、美海は嬉しそうに言った。

 

「やっぱり春樹先輩のこと、春樹くんって呼ぶね! 同い年だと思って! いいかな?」

 

 ――春樹くん!

 

 心臓が、跳ねた。彼女が誰に似ているか、一瞬分かった気がした。

 

「……ん、構わないよ」

 

 口から出た返事は、ごく当たり障りないものだったが、春樹にはこれが精一杯だった。

 そして、やっぱり、美海の顔は見れなかった。浮かべているであろう満面の笑顔は、見たかったのに。

 だからだろうか。彼女が誰に似ているか、もう思い出せなかった。その笑顔を見れば、完全に思い出せたかもしれないのに。

 

 

…………

 

 

 夜。春樹は自室のベッドで携帯電話の画面を眺めていた。画面に表示された『日向美海』の文字を、特に何かを考えもせずに見つめ続けている。

 結局、春樹は美海のために青蘭島の中を案内して回った。青蘭島は東京23区の半分と同じくらいの大きさがある(さすがに開発されているのは一部だが)ので、流石に全ては回れなかったが、最も近かった商業地区を少し見て回ることは出来た。

 そして、帰りがけに言ってしまった。

 青蘭島、見て回りたいなら明日以降も付き合うよ、と。

 そうすると美海はまた嬉しそうに笑って、

 

「じゃあ、明日は青蘭学園に連れてって欲しいなー! 『ふれーむのうはてすと』っていうの受けなくちゃいけないみたいだし」

 

 プログレスもαドライバーも、青蘭島に来たらまずは『フレーム脳波テスト』を受ける。これにより、自分が『Ωリンカー』なのか『Σリンカー』なのかを知ることができ、また、学園に脳波を登録することは入学条件のひとつとなっているのだ。

 ちなみに春樹はΩフレーマー。そして、断言はできないが美海もΩプログレスだろうと予測している。

 

(あの時、近かったもんな……)

 

 あの時、というのは、岬から落ちかかった美海を抱きとめた時のことで、同じフレーム脳波を持つαドライバーとプログレスは、《精神的に近い》ということがわかっている。あくまでも感覚の話で、これといった学術的な証拠は出ていないのだが。

 

 ひょっとしたら、あの子が俺をまた変えてくれるのかな……。

 

 そう考えてみると、不思議と心が軽くなって、思わず微笑んでしまうのだった。

 今日は、早寝しよう。明日、早起きするために。

 春樹はベッド脇に携帯を放ると、リモコンを操作して部屋の明かりを落とした。

 

 

…………

 

 

「春樹……くん、かぁ」

 

 美海はベッドの上でその名前を呼んでみる。すると、なぜか心が暖かくなった。

 

「きっと、気づいてるよね……」

 

 ――いつか、教えてくれよ。

 

 そう呟いた時の彼の表情には、何かを悟ったような透明さがあって、美海の心に冷たい風が吹いたような心地がした。しかし、同時に嬉しくもあったのだ。

 偽りの自分に何も言わないでいてくれる、その優しさに。

 

「彼となら、きっと」

 

 最高のパートナーになれる気がする。《気がする》だけだ。何も根拠なんてない、ただの直感に過ぎない。しかし、青蘭学園の説明をしてくれた男性はこう言っていた。

 

 ――己の直感を信じろ。αドライバーに関することなら、大概正しい。

 

 だから、美海は信じようと決心した。春樹のことを「春樹先輩」ではなく「春樹くん」と呼んでいいか聞いたときには、心臓が爆発しそうだった。その時だけは、それを上手く隠せたが。

 構わないよ。そう彼が言ってくれたとき、美海はものすごく久しぶりに、心の底から笑えた。それはびっくりするほど暖かい感情で、笑顔ながら内心は非常に驚いていた。

 心残りといえば、春樹がそれを見てくれなかったことだろう。でも、いいのだ。

 

「これから、何回でも見てもらうもんね」

 

 口に出してみて、自分でそれを笑うと、美海はベッドに横になった。

 二段ベッドの上側にはまだ誰もいない。

 最も身近な未知との出会いにも。まだ見ぬこの島の姿にも。考えられる全てに心を躍らせながら、美海は青蘭で最初の眠りに落ちていった。

 


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