ご指摘ありがとうございました。
路地裏には、しばらくびゅうびゅうと風が吹き込む音が静かにこだましていた。
背後からの声に、十三は少し身を硬くする。
この時間にこんなところまで風紀委員が来るのは珍しいことだった。
もしかしたら逃げ出した奴らの誰かが通報したのかもしれない、と考え、十三は小さく舌打ちした。
いや、もしそうだとしても早すぎないか?
そもそもの話、十三は路地裏に近づいてくる足音にも気を配っていたはずだった。
それなのに、今、真後ろまでの接近を許してしまっている。
まるで氷を背中に貼られたように、十三の胆は冷えていた。
声の主に動揺を悟られないように、彼はゆっくりとバンダナを取り直した。
再び顔に巻きながら、背後へと気を配る。
背後の気配は、まだ動こうとはしていなかった。
バンダナを巻き終え、十三はやおら振り向く。
目の前にいたのは、髪を頭の両端で留めた、一般的にツインテールと呼ばれる髪形をした小柄な少女だった。
その腕には予想通り、緑の腕章が巻かれている。
どこかで見たことのある顔の娘だったが、十三には思い出せなかった。
少女は口を開く。
「貴方が通報にあった『多重能力者』で間違いありませんわね?」
「まあ、呼び方は勝手だが」
十三は曖昧な返事を返した。
「穏便に任意同行、という形をとらせて頂けるのなら、手荒なことは致しませんの」
少女は十三を見据えながらそう言った。
敵意、とまではいかないが、少なくとも好意的な声色ではなかった。
十三は足下で伸びている男を見下ろして、努めて落ち着いて話した。
「なにか、誤解してるんじゃあないか」
「何を、でしょうか?」
少女は僅かに十三へと詰め寄った。
逃がさないようにと距離を詰めているのかもしれないが、そこは既に十三の射程だということに彼女は気づい
ていないようだった。
十三は続ける。
「こいつのことだよ。俺はこいつに恐喝されそうな奴を助けただけで」
「ほう。で、その方は何処に?」
言い切る前に、少女がそう遮った。
少し間をおいて、十三が辺りを見回す。
ビルの間に風が吹き込む音と、それに何かが吹き飛ばされるかさかさという音が微かに聞こえた。
この路地裏には日の光は差し込まなかったが、それでも夏前ということもあってか、あまり肌寒いと感じるようなことはなかった。
にもかかわらず、十三はどこか寒気を感じた。
先ほどの痩身の男など、もうどこにもいなかった。
返事を求めるように、少女が首を傾げる。
両者の間に、気まずい沈黙が流れた。
「よし、探してこよう」
と、十三は少女へ再び背を向ける。
その瞬間、十三の視界が一瞬で変わった。
凄いスピードで移動しただとかそういうのではなく、まるで別の風景写真に挿げ替えられたような、とにかく一瞬で十三は移動したのだ。
どこへ、というと、先ほどの位置から10数m上方に。
地面から一瞬にして上空へと移動した十三は、当然重力に従い下降を始める。
いくらザ・ワールドで時を止めたところで、重力という力は常に十三に働いている。
今時を止めても、待っているのは地面との熱烈なキスだろう。
今の十三には、時を止める余裕すらなかったが。
地面までの僅かな距離が、歩道橋のあの光景と重なる。
文字通り喉が干上がり、胃が痙攣した。
声を出すことすらままならなくなり、同時にザ・ワールドの制御も不可能になる。
死ぬ、という予想のみが、彼の思考を支配していた。
だが、ある高度で下降が止まった。
服が体重で喉を絞め、思わずカエルのような声が喉から出る。
見れば、自分はビルの壁面に何か杭のようなもので縫いとめられているではないか。
「探す必要はありませんの」
その声に彼が下を向くと、先ほどの少女が佇んでいた。
と、次の瞬間、突然十三の目の前に少女が姿を現す。
声を上げる間もなく、彼女は再び消え、十三の隣の窓が開け放たれる。
中から身を乗り出したのは、やはり先ほどの少女だった。
「署の方でゆっくり話を聞かせてくださいまし」
言うや、彼女は十三の手に銀色の手錠を嵌める。
実際に手作業で嵌められた訳ではなく、十三の手首に手錠が瞬間移動したのだ。
何やら普通の手錠とは違い、丸みを帯びた独特のデザインをしている。
おそらくは高レベルの能力者用の手錠なのだろう。
その効果が十三に意味があるかは分からないが。
そこまで考えて、十三は自分がやや落ち着きを取り戻していることに気づく。
好んで下を向く気にはなれないが、体が固定されているために心に余裕ができたのだろう。
彼はゆっくり深呼吸をした。
傍らには、ザ・ワールドが佇んでいる。
やはりこの手錠はスタンドになんら効力を持たないらしい。
しかし風紀委員の少女のいる窓まではやや距離があり、ザ・ワールドで身体を支えたまま掴まるのは難しいだろう。
そうだと言って、大人しく捕まるわけにもいかないが。
もう落下に対する恐怖は殆ど無い。
逃走経路は既に計画したからだ。
ならばあとは、タフな態度を崩さないことだけ。
十三は態とらしく、少女に見せつけるように手錠の嵌った手首を掲げた。
彼女は僅かに身構え、どこからともなく銀色の杭をその手に出現させた。
恐らくは、あれが十三の身体を壁面に縫い付けているものなのだろう。
十三は杭には興味を示していないようなふりをし、ゆっくりと余裕あり気に掲げた手を振った。
少女が注意深く手錠を見ると同時に、ザ・ワールドの黄色い剛腕が一息に振り下ろされた。
優美さと芸術性が伴った一動で、銀色の手錠が粉々に砕け散る。
少女の目が驚きに見開かれる。
彼女には何が起きたか全く理解できないだろう。
十三は彼女に、拘束は不可能だと知らしめる必要があった。
無駄だ、と十三は小さく呟いた。
その一言で我に返ったのだろう、少女は慌てて新しい杭を取り出した。
手錠を取り出さなかったことは評価できるだろう。
しかし彼女が何か行動を起こすより先に、ザ・ワールドが時を止めた。
静寂が訪れ、十三とザ・ワールドだけの世界が完成する。
止まった時の中で、ザ・ワールドは速やかに、かつ正確に行動する。
十三の服に突き刺さった杭を引き抜き、そこらに投げ捨てた。
投げ捨てられた杭は空中でピタリとその動きを止め、それぞれが別の方向を向いて日光を淡く反射する。
杭を抜くごとに身体が自由になり、同時に重力が十三へ重くのしかかった。
しかし十三の体が落下するより先に、ザ・ワールドがその黄金の拳をビルの壁面へ叩き込んだ。
凄まじい音を立ててコンクリートの壁が砕け、拳大の穴が空く。
そして十三は、ザ・ワールドが空けた穴に手を掛けてぶら下がった。
ザ・ワールドは次々に壁に穴を空け、十三もそれを伝って壁面を降りて行く。
足が地面に着くと同時に、空から銀色の杭が彼の頭上から降り注いだ。
時が動き始めたのだ。
ザ・ワールドがその杭の内の数本を摘み取る。
投げナイフよろしく、何かに使えそうだと彼が思ったからだ。
と、十三の頭上で少女の声が聞こえる。
突然男が消えたことに戸惑っている様子が、簡単に想像できた。
しかしカッコよく決めゼリフを言っている暇も無い。
そう思い、十三はそのまま路地裏を走り去ろうとした。
が。
「訳のわからない能力ですのね」
彼の目の前に、再び少女が姿を現した。
表情には戸惑いの色が見て取れ、体運びが戦闘に対するそれへと変わる。
その言葉に、能力の一端の片鱗を感じ取られた可能性があるのではないかと十三はひやりとした。
しかし彼女はそれっきり、能力に関しては口を開かなかった。
その目にはもう油断の色は無く、剥き出しの敵意が見て取れた。
少女が口を開く。
「どうしても、任意同行という訳にはいきませんの?」
その言葉に、十三は僅かに微笑んだ。
しかしその笑みは、バンダナのせいで彼女には見えていない。
十三は静かにザ・ワールドを少女の背後へと移動させた。
時間停止可能まで、あと7秒。
「こっちにも理由があってな」
6。
「ご自身にどれだけの容疑がかかっているか、ご存知ですの?」
5。
「三億円事件は俺じゃないぜ」
4。
「これで最後です。怪我しても知りませんわよ」
3。
十三は、肩を竦めてそれに応えた。
直後、十三は後頭部に凄まじい衝撃を感じた。
蹴られたのだと分かったのは、地面に突っ伏した後だった。
いつものように、ザ・ワールドを相手の近くにおいていたのが拙かったのだ。
そう状況判断をしている間に、少女の靴底が十三の顔面に迫る。
慌ててザ・ワールドを引き戻し、片腕でガードさせる。
バンダナの手前十数センチで止まった足を見て、少女が酷く驚いた表情を上げた。
その隙に彼女の驚いた顔を目掛けザ・ワールドの拳を振るうが、十三はそれもぴたりと止めてしまった。
何もしないバンダナ男に首を傾げつつ、少女は瞬間移動し、倒れた十三の側頭部を踏みつけようとした。
しかしそれも、バンダナの手前で何かに防御されてしまう。
十三はバンダナの下で苦い顔をした。
相手が公的機関になった途端、これだ。
たとえ自分が害されていようと、向こうは法に則って動いているだけ。
そう思ってしまうからこそ、彼はスタンドの剛腕を振るえずにいた。
しかしこのまま良いようにされる謂れもなければ、そのつもりもない。
既に時間は経過しているからだ。
風紀委員の少女は、とうとう最終手段の鉄杭を手にとった。
今度は壁に縫い付ける為でなく、体内に直接転移させる為に。
しかしその腕が、ピタリと止まる。
ザ・ワールドの腕に阻まれた訳ではない。
世界中のあらゆるものが、彼女と同じように静止した。
その中で唯一、十三だけが動いていた。
彼は速やかに立ち上がり、服の埃を掃って少女に向き直る。
十三はバンダナを顔から剥ぎ取りながら、誰へともなくつぶやき始めた。
「全部見て見ぬふりができればいいんだけどな。俺はそういうことすらできない性分なんだ」
彼はバンダナを外し終えると、今度はバンダナを少女の顔に取り付け始めた。
「君は正しいことをしていると俺も思う。だけど俺は間違ったことをしているつもりはない」
少女の顔にバンダナをきつく結び、十三は先程ザ・ワールドで空けたビル壁面の穴を伝って、今度は上へと登って行った。
追加で幾つか穴を空けつつ、彼はビルの屋上に上がる。
「君が最初に見せてくれた時のように、誰かがやらなきゃならないんだから」
そう呟くと、彼はザ・ワールドにしがみつき、時間が動き出すのも待たずに走り去った。
ザ・ワールドの跳躍力でビルからビルへと飛び回り、頃合いを見て再び地面に降り立つ。
今度は壁面伝いではなく、ちゃんと外階段を使う。
階段を降りていると、通りから賑やかな声が聞こえてくる。
その中に先程の少女の声は聞こえなかった。
既に時間が動き始めていることに、十三はやっと気づいた。
改めて地面に足が着くと、彼の額からどっと汗が噴き出した。
地べたにも拘らず、疲労と安堵からその場に座り込む。
何にも覆われていない顔を手で覆い、深い息を漏らした。
訓練している、していないで、ああも体術に差が出るものなのだろうか。
初動からして十三と風紀委員の少女の間には明確な差があった。
そもそも、高レベルの能力者との戦闘はこれが初めてだった。
今回こそ逃走が目的だったものの、これが鎮圧や撃退、防衛ならどれほどの苦戦を強いられただろうかと、十三は頭を抱えた。
それに、『多重能力者』の扱い。
分かってはいた。
分かってはいたが、ああも猜疑心剥き出しの扱いをされると、さすがに心にくるものがある。
かの有名な蝙蝠男や蜘蛛男もこういう気持ちだったのだろうかなどと、十三は気晴らしに適当なことを考えた。
この学園都市では、無名の学生が犯罪者の鎮圧にあたることはそう珍しい訳ではない。
にも拘らず風紀委員の彼女らが敵意剥き出しで補導しに来るのは、単に十三の匿名性にあった。
正体を明かして自警活動をすれば単なる一学生の暴走で済むものを、なまじ顔を隠したりするから要らぬ推測を呼び、結果こうしてお尋ね者扱いされてしまうのだ。
正体を隠す為の覆面が、正体を暴かれる理由になっていることを理解し、十三は皮肉っぽく笑った。
いずれ正体を明かす日が来るのだろうか。
しかしそれでも過去のことは話せない。
佐天にも、とうとう全てを話すことはなかった。
そこまで考えて、十三は再び深い息を吐く。
猜疑心を剥き出しにしてるのは、俺の方じゃないか。
初春飾利は、挙動のおかしい友人とファミレスで別れてから、見回りを終えて風紀委員支部へと帰還していた。
とあるビルの一室に所在するその詰所には、現在初春しかいない。
初春と交代で、同僚にあたる風紀委員が見回りに出かけているせいだ。
それほど広いとも言えない支部内には、キーボードをカタカタと叩く音が響く。
マッシブな機械が部屋の一角を陣取っており、そこだけ見れば立派な警察的組織の本部らしい雰囲気がある。
しかしそのそばの机上の、食べかけの菓子袋や可愛らしいデザインの小物入れが、所属しているのが学生だという事実を醸し出していた。
何の変哲もないファイル整理をしながら、初春はパソコンのデスクトップ上のデジタル時計をちらと見た。
いささか遅い、ような気がする。
彼女の同僚がいつも見回りから帰ってくるのはもっと早い時間だった。
もしや何かに巻き込まれたのか、と初春は眉をひそめたが、それは無いなと一人で首を振る。
事件性のある事柄に遭遇したのなら、彼女が既に鎮圧の一報を入れてきているはずだからだ。
苦戦しているにしてもやはり一報いれるはずだし、単に自分と同じように知人と話し込んでいるだけなのだろう。
尤も、彼女が苦戦する人物などそうそういる訳がないが。
そう考え、再びキーボードに手を伸ばしたところで、支部の扉が勢いよく開け放たれた。
びくりと体を震わせ、初春は首を傾ける。
そこには、酷いしかめっ面の同僚がいた。
手には何かの布きれのようなものが挟まれており、腕を組んでいるところを見るに、扉は足で開けたのだろうか。
もしそうなら、日頃からしとやかさを重んじる彼女らしからぬ行動だと、初春は驚いた。
「遅かったですね、白井さん」
初春は不機嫌そうな同僚に声をかけた。
すると白井は、何が気に障ったのか、一層眉間の皺を深いものにした。
「逃げられましたわ」
開口一番、脈絡もなく白井はそう言った。
当然初春は首を傾ける。
何にです、と彼女が聞くと、白井はふんと鼻を鳴らした。
「『多重能力者』ですの」
そう言うと、彼女は菓子袋などが散乱した机に布きれを叩きつけるように置いた。
そこで初春は、布きれがバンダナだったことに気づいた。
「多重能力者、ですか」
にわかには信じがたい話だった。
が、そのための見回りだったこともあるし、何より彼女が嘘をつくとも思えなかった。
それより、彼女が取り逃がしたという事実に、初春は驚きを隠せなかった。
彼女、白井黒子はレベル4の空間移動能力者だ。
自身を長距離転移させることすらできる彼女から逃げ切ることは容易ではない。
徒歩はもちろん、車両やへたをすればヘリコプターで逃げたとしても、彼女は追いつくことができるだろう。
そんな初春の様子を察してか、白井は口を開く。
「あの覆面男、妙ちきりんな能力でしたわ」
白井は忌々しげに呟いた。
彼女の優秀な風紀委員としてのプライドというか沽券のようなものが、傷つけられたように感じたのだろう。
彼女は聞かれることもなく、まるで蛇口を捻ったように愚痴を吐く。
「空間移動能力者である私の干渉を受けているにも拘らず転移をする、一瞬で壁に十数個の穴を開ける、蹴りは空中で阻まれる」
白井は指を折りながら、段々と語気を強めて言う。
探さなかったんですか、と初春が聞くと、白井はそんなわけないでしょう、と怒鳴った。
「私も探しましたわ。周囲はビル群、視界は狭くて逃げられる場所は少なかったはずですの」
「でも逃げられた、と」
白井は大きな音を立てて事務椅子に腰かけた。
「そのバンダナは?」
初春が聞くと、白井はバンダナを一瞥して言った。
「『目隠し』」
ああ、と初春は声を漏らした。
空間移動能力者にとってその座標演算のために必要なものは視覚情報なのだ。
もし何か物体がある場所に転移してしまえば、大惨事になりかねない。
白井もその程度のことでいちいち行動不能になるほど無能ではないが、空間移動能力者特有のほんの一瞬の隙を突かれてしまったのだろう。
事務椅子を左右に揺らしながら、白井は腕を組む。
「警備員には既に連絡してありますので、風紀委員の他支部に報告お願いしますの」
はい、と了承し、初春は再びパソコンに向かった。
彼女がキーボードを叩く中、白井は独り言のように呟きはじめる。
「攻撃してこなければ、かと言って捕まりもしない。腹立たしい限りですの」
それほどまでにコケにされたのだろうかと、初春は少し心配になる。
「民間人の治安維持なんて、今に始まった話じゃないじゃないですか」
「それだけなら確かに問題はありませんの。ではなぜ覆面を?なぜ書庫に該当する能力が無いんですの?なぜ頑なに正体を隠しますの?」
そう言った白井の顔は、既に不機嫌なそれではなく、自問して推理を固める風紀委員としての表情だった。
「後ろめたいことが無ければ、素直に正体を明かせばいい。そうは思いません?」
「うーん、でも、単純なナルシズムやヒロイズムの可能性もありますよね」
「名声を得たいのであれば、顔を晒す方が合理的ですのに?」
白井は呟き、鞄の中から鉄杭を一本引っ張り出した。
あのあと現場から回収したものだ。
「犯罪者扱いされているのを分かった上で、弁解する様子もない。明らかに正体を明かせない理由があるはず…」
白井は鉄杭を見つめる。
鈍く光が反射して、彼女の視界を綺麗に二等分した。
「そして恐らくは、『多重能力』そのものにその理由があるはずですの」
「悪いな」
「気にしないでいいよ」
十三は自宅、つまり学生寮の前で待ち合わせをしていた。
こういう時、同じ学校同士だと便利でいい。
佐天は彼に鞄を丸ごとよこした。
開いた形跡は無いことを確認し、少し罪悪感に浸る。
もちろん彼女には既に正体を知られているのだが、形跡を確認したのは十三本来の神経質さにあったからだ。
佐天はいつも通り元気に笑っており、十三の様子に気づいたそぶりはない。
昼過ぎにもなると、かえって周辺の人通りは少なかった。
寮から遊びに出かけるならもっと早い時間だろうし、今寮内にいるのは休日を自室で過ごすことを決めた連中だけだろう。
十三はせめてもの信頼の表れとして、鞄の中身を大して確かめずに肩にかけた。
それにも彼女は気づいた様子はない。
少しの沈黙が二人の間に流れる。
幾ばくかの気まずさを感じ、十三は口を開く。
あの、と発した声が、佐天の声と重なった。
出鼻を挫かれ、お互いにおたおたしながら発言を譲り合う。
その様子がなんだか可笑しくて、十三はくすりと笑った。
十三に笑われたのが気に入らなかったのか、佐天は少し頬を膨らませる。
「聞きたいことがあったんだ」
「聞きたいこと?」
彼女が聞き返すと、十三は頷いた。
「レベルアッパーとかいうモノを知ってるか?」
その言葉を聞いて、佐天は面食らった表情をした。
十三の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったらしい。
「使うだけでレベルが上がる機械があるって…噂だよね」
それがどうしたの、と聞くと、十三は肩を竦めた。
言葉を選んでいるのであろうことは佐天にも分かった。
いくら人通りが少ないとはいえ、事の顛末をそのまま語るのはどうかと思ったのだろう。
十三としては、ファミレスの一件で思うことが少しばかりあっただけなのだが。
言葉を選ぶあまり、一言も発せないでいる十三に、佐天の方から声をかける。
「まさか、持ってたり…」
その言葉には、十三は首を振って否定した。
それをきっかけに、彼はやっと口を開く。
結局、十三は佐天に事の次第をぼかさずに伝えた。
さすがに風紀委員に補導されそうになったことまでは言えなかったが、佐天は疑うことなく話を聞いてくれた。
「どう思う」
十三がそう言うと、佐天は腕を組んでうーんと唸った。
「単なる詐欺の可能性もあるよね」
彼女はすぐに肯定してくると思っていたので、その言葉には十三も少し驚いた。
確かに彼女の言う通り、レベルアッパーという噂をダシにした詐欺事件だったという可能性は大いにある。
しかし、あの男ははっきりと『オーディオプレイヤーのようなもの』と話していた。
佐天はそこまで知らなかったし、噂ではなく本物を知っているからこその言動とは思えないだろうか。
だがやはり想像の域を出ず、十三は佐天にそう言いかねていた。
ひとしきり考えた後、佐天はよし、と何やら決心した声を上げた。
「あたしの方でも調べてみるよ。そーいうの好きだし」
翌桧君には『パトロール』があるしねー、と佐天が悪戯っぽく微笑む。
十三は苦笑いで応えた。
実際のところ、パトロールなどしたことがないからだ。
学園都市は、学区にもよるが、基本的に治安が悪い。
一日どこかに出かければ、それこそ事件にぶつかることは珍しいことではないのだ。
とはいえ、彼女が情報を集めてくれるのことに関しては嬉しいことだ。
十三の正体に誰より先に近づいたことといい、彼女には何か神がかり的な情報収集能力があるのかもしれない。
「頼むよ」
十三がそう言うと、佐天は突然嬉しそうに笑った。
「どうした?」
「いや、なんか…頼りにされるのって嬉しいな、って思って」
彼女の顔には屈託のない笑みが浮かんでいた。
無邪気さと、優しさと、そして危うさを感じた。
佐天にこのまま協力を仰いでいいものなのだろうか。
この子は普通すぎる、と十三は内心で呟く。
何の超能力も無いからこそ、不可思議に憧れ、そしてその片棒を進んで担ごうとする。
だが何の超能力も無いからこそ、いずれは打ちのめされ、死の恐怖を知り、全てを吐露してしまうのではないだろうか。
今日の立てこもり事件で心が折れなかったのは、相手のチープさによるところや、十三が迅速に行動したところが大きいだろう。
しかしいつか佐天が、『多重能力者の件で』『本業に』脅されないとも限らない。
十三はそう考え、同時に自分が一度死んだあの光景を思い出した。
心配なのは、自分の正体だけではない。
死への恐怖は、何もそれ自体だけが問題なのではないのだ。
彼女がもし脅しに屈し、十三の正体を話せば、彼女はきっと罪悪感に苛まれるだろう。
自らが卑しく、自分のために他者を犠牲にする人間だと、彼女は考えてしまうだろう。
十三自身、そういう人間だったのだから。
彼女にはこのままでいてほしいと、十三は切に願った。
そのためには、脅威から佐天を遠ざけなくてはならない。
守る対象が増えたのだと、十三は気を引き締めにかかった。
しかし、そこまで考えたことのほぼ全てで、佐天涙子という人間を全力で見下していることに、十三は気づいていない。
能力のあるものは強い。
そうでないものは弱い。
そう決めつける癖が、もともと何の能力も無かった彼に潜在的に染みついてしまっているためだった。
彼にその自覚はない。
十三は知らず知らずに、彼の望んだヒーロー像から離れつつあった。
明かりをすべて消した一室で、パソコンの処理音だけが静かに響いていた。
まばゆく光を放つデスクトップが、その持ち主の顔を不健康そうに照らし上げている。
画面に映っているのは、音楽ソフトのダウンロード画面だった。
アーティスト名は無し。
タイトルは『LeveL_UppeR』。
彼の思考は、今ただ一人に向けて働いていた。
多重能力者。
その人物のことを考えるだけで、自分のどこにこんな感情が眠っていたのかと思うほど怒りが湧いてくる。
彼はレベル3の能力者だった。
何不自由ない生活を送ってきたし、挫折らしい挫折も味わってこなかった。
それ故に、今日のようなことになるとは思いもしていなかったのだ。
後ろから頭に一発、続けざまに腹部に数発。
たったそれだけの不意打ちで、レベル3はレベル0の人質と化した。
それが堪えられなかったわけじゃない。
そのあと、乱入してきた覆面男のせいで、彼のプライドは打ち砕かれた。
覆面男はスキルアウトを歯牙にもかけずに、あっさりと鎮圧してのけたのだ。
あの男にとっては、レベル0も3も同じなのだ。
人質は『守ってやるべきか弱い存在』に過ぎないとでも言いたげな振る舞いが、彼には我慢ならなかったのだ。
ふざけるな、見下しやがって。
お前のせいでこんなことになったのに、助けてやったから感謝しろってか。
あてつけがましい謝罪なんかしてくるな。
気づけば彼は、その内心を口に出していた。
何としても、あの男の正体を暴いてやると、彼の肩に力が入った。
彼の中で既に計画は立っていた。
このレベルアッパーを使うのは多重能力者と戦うためではない。
脅すため。
多重能力者の近しい人間を、力で脅すためだ。
その近しい人間とやらは、彼だけが知っている。
あの廃工場で、最後まで残って覆面男と会話していた女生徒。
顔が分かっている分、多重能力者より探すのは容易だ。
加えてあの書き込みに反応したということは、自分と同じ第七学区に在住している可能性が高い。
なら、パワーアップした自分の能力を使えば、簡単に捕まえることができるだろう。
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