大正浪漫風某国大統領妄想譚   作:喪部学生

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五月雨

「降ってきたな」

 

「あ……本当ですね」

 

 お誘いがあってから何度目かの、放課後の2人だけの勉強会。

 スペルを書き留める手を休め、窓の外に目を移す。

 集中していたせいか全く気付かなかったが、晴天だったはずの空には墨を滲ませたように雲が垂れ籠めており、庭木の葉を雨粒が控えめに叩いては零れ落ちるのを繰り返している。

 今はまだこの程度で済んでいるものの、雲行きを見る限り、雨脚が強まるのは時間の問題のようだった。

 

「参ったな……これ以上降られては困る」

 

 やれやれと言うように首を振り、先生は眉根を寄せる。

 どんな表情をなさっても絵になるお人だと、見当違いな感想を抱きつつ、私は彼の横顔を眺める。

 

「今日は傘の用意が無くてね。書類を濡らすわけにはいかないというのに」

 

 この時期は例年であれば雨の日が続く。

 今年に関しては、それほど雨が降る日も無く、ましてや先生は日本に来たばかりでこちらの気候に慣れていないのだから、傘が無いのは無理からぬことだろう。

 

 対して私は、いつ雨に降られてもいいようにと、学校に必ず1本、傘を置いてある。

 

 ……貸し出すには、見るからに女物の紅色をした洋傘なのが躊躇われる。

 でも、先生の大切な書類を駄目にしてしまうわけにはいかない。

 雨が本降りになったとしても、私はその辺で1日の復習や読書でもしながら雨宿りをして帰れば良いのだし。

 それでも降りやまなかったら……まあ、どうにかする。

 

「女物でもよろしければ、私の傘をお使いになってください。今でしたら小雨のうちに帰れると思いますので」

 

 先生は一瞬はて、と固まった。

 それから何かに納得したらしく、首肯する。

 

「それは有難い。お言葉に甘えさせて貰おう」

 

 先生は持っていた手帳をぱたりと閉じ、ペンを筆箱に仕舞い出す。

 

「では、雨が酷くなる前に今日のところはお開きとしようか」

 

「私、ホームルームへ傘を取りに行ってきますね」

 

 勉強道具を広げたまま席を立った私に、先生は指の節で机をコンコン、と叩いて言う。

 

「そう慌てなくとも、君も帰り支度を済ませてから取りに行けば良い」

 

「いえ、先生はお急ぎになった方がよろしいでしょうけれども、私は学校に残って雨宿りをすれば済みますから」

 

「雨宿り? 君は私と一緒に帰るのだろう?」

 

 話しているうちにすっかり荷物を纏めた先生は、心なしか愉快そうに目を細めた。

 この時の私は、極めて間抜けな顔をしていたに違いない。

 

 

 先生には、人に有無を言わせない何かがある。

 

 先生の言葉は、疑問文の体でありながら、その実、命令文として機能していることがある。

 あの後、それとなく丁重にお断りしようと試みたものの、上手く丸め込まれてしまった。

 「君を置いていつ止むかわからない雨が止むのを待たせるくらいなら、私は走って帰ることにする」などと言われては、降参するよりほかはない。

 先生を雨曝しにするのはもってのほかだし、先生ひとりに女物の傘を持たせて恥をかかせてしまうのも良くない。

 何より、ここまで仰ってくださったのに、それを無下にするのは失礼になってしまう。

 だからこれは正当な結論なのだと、自分に言い聞かせた。

 

 つまるところ――私が先生を学校の最寄り駅まで、ひとつ傘の下、送るということで話はまとまった。

 途中までで充分と言う先生を、私も駅の近くに住んでいるから気にすることはないと説得して。

 実際、近いと言えるかは微妙だが、遠いと言うほどの距離でもないのでまったくの嘘ではない。

 

 ――と、ここまでなんやかんやと言い訳がましく理由を付けて、自分を鎮めようと努力はしてみたものの。

 いざ並んで歩くとなると、どうしても自分の意識は、傘の柄を挟んで右を歩く先生に向けられてしまう。

 私が傘を持つという申し出は、先生の方が背が高く、お互いの為に良くないという理由であえなく却下された。

 日本人と比べれば高くはあるけれど、異国の人としてはそれほど背丈のある方ではないという印象だったのに、並ぶとやはり私より彼の方がずっと大きいのだと実感する。

 先生の方に目を向けようとすると、傘の柄を握る、白くも男性的なごつごつとした指が、自然と視界に入ってくる。

 勉強会のときも、つい先生の手を盗み見てしまう。

 身だしなみに気を遣う性質なのか、いつ見ても爪が短く切り揃えられていることに感嘆する。

 雨の日特有の湿った匂いでわかりにくいけれど、先生からはほんのりサボンの香りが漂っている。

 

 綺麗好きでいらっしゃるのね。

 

 私に変なところはないかしら、と不安になって髪を手で整えていると、急に先生は傘を持つ手を、左手から右手に変えた。

 

「喪子」

 

「は……」

 

 名前を呼ばれたかと思うと、先生にぐい、と腰を抱き寄せられていた。

 気が付けば、先生の胸板に凭れ、肩に頭を預けるような恰好になっている。

 驚きと、何と形容して良いのかわからない感覚に言葉を失う。

 くらくらする。

 喉から声が出てこない。

 返事の代わりに、先生の顔を見上げることしかできなかった。

 

「しっかり前を見て歩かないと、水溜りに浸かってしまうだろう」

 

 困ったお嬢さんだ、と、私が通り過ぎようとした場所を、軽く振り向いて顎で示す。

 そこには浅くこそあるものの、確かに泥水の溜まった窪みがあった。

 傘を左手に戻し、抱鞄を持ち直している先生を見て、自己嫌悪で胸が潰れそうになる。

 

 ――ばかじゃないの。

 

 先生に気を遣わせてしまった、手間を取らせてしまったという罪悪感。

 自分が如何に浮かれていて注意力散漫だったのかを思い知った。

 加えて、私の身を案じてくれた先生に、一寸でも不埒な感情を抱いてしまったことが居た堪れなくて、消え入りたくなる。

 

「御免なさい……」

 

 雨に霞む小路を、再び歩き出す。

 小雨だったのも束の間、雲はますます黒く淀んで厚みを増し、瞬く間に本降りになった。

 こんな天気で人通りが少ないことに感謝したいような、恨めしいような。

 あれからどちらも口を開かず、あらゆるものを打つ雨音だけが2人の間に流れていた。

 気まずくないわけがない。

 けれども、あんなことがあった後では、私からまた話しかける気持ちにはとてもなれなかった。

 

「日本には雨にまつわる様々な言葉があると聞いた」

 

 唐突に、先生が沈黙を破った。

 シノツクアメ、キツネノヨメイリ……と、呪文めいたイントネーションで先生が唱えると、私にとっては馴染み深いはずの言葉が、何やら全く違うものに聞こえてくる。

 

「今降っている雨は何というのか、教えてくれないか」

 

 先生は、優しい。

 自分の幼稚さ、至らなさを情けなく思いつつ、生徒として、教え子として、先生の厚意に応える。

 先生の隣に並んでいても、恥じることのないように。

 

「時期から言えば――五月雨、ですね。5月に雨と書いて、さみだれ、さつきあめと読みます」

 

「今は6月なのに5月と書くのか」

 

「太陰暦……旧暦の5月が新暦の6月にあたりますので、旧暦に基づいた表現として、この時期の雨をそう言います」

 

 先生は「なるほど」と言い、発音を練習するためか響きが気に入ったのか「サミダレ」と慣れない様子で繰り返し呟く。

 そんな彼がなんだか可愛らしく思えてきて、思わず笑みを零してしまう。

 少し照れたように咳払いをしてから、さっきとは打って変わって、流れるように先生はひとつの単語を口にする。

 

「Дождь」

 

 きょとんとしている私を見遣り、授業中と同じ口調で、発音の繰り返しを求める。

 

「雨という意味だ。繰り返したまえ。Дождь」

 

「どーし……?」

 

 そんなやりとりを繰り返すうちに、私も先生も笑ってしまって、固く凝っていた雰囲気はどこかへ吹き飛んでしまった。

 降りしきる雨の中にいて、ほんの少し前まで会話も途切れていたというのに、それからは話が弾み、ふとした瞬間に生まれる沈黙さえ心地良くなっていた。

 垣根から覗く紫陽花、雫を滴らせた柳、煙る雨に柔らかに輝くすずらん灯。

 目に映るものすべてが、面白くて、綺麗で。

 いつもなら憂鬱なはずの天気模様でさえも。

 

 目的地まで着くのはあっという間のことだった。

 先生を送ると言った最寄り駅は、もうすぐそこにある。

 道中ではそれほど人を見かけなかったが、駅の周辺には突然の雨に焦った人々がわらわらと集って電車を待っているようだった。

 あるいは、傘を持たない人々が駅舎を雨宿りに使っているだけかもしれない。

 駅が近付くにつれ徐々に強まっていた雨脚は、いよいよざあざあと激しい音を立てて、滝のように地面を打ち付け始めた。

 

「駅に着いてからで良かったですね。電車、すぐに乗れると良いのですが」

 

「――――――」

 

 先生が何かを言っていたのは間違いない。

 けれど、大きくなり過ぎた雨音が、先生の声を掻き消してしまっていた。

 

「先生? 今、何て」

 

 右手に、優しいのに確かな掌の感触。

 耳もとに熱を感じて、目を瞠る。

 

「До завтра」

 

 先生は私にそっと傘の柄を握らせると、別れの挨拶を返す暇も与えずに駅前の雑踏へ消えていった。

 私はひとり、夜が迫る雨の中に残された。

 煤色の中折帽を目深に被った彼の姿はすっかり見えなくなり、さきほどまでのことは幻だったのだと言われたら信じてしまいそうだった。

 ――身体に残る火照りさえ無ければ。

 

 雨に濡れて歩けば、この熱も冷めるのかしら。

 

 紅い傘が自分の顔を隠してくれることを祈って、私は駅を後にした。

 

 


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