刻は夕暮れ。
ある洋書の和訳が上手くできず、納得のいくまで図書室に教本を広げて籠っていたら、すっかり日が翳ってしまった。
無音の教室が夕陽の濃い橙に染まっていく様子は、美しくもあり、不気味でもある。
始業式からまだ日が浅く、本格的に授業が始まったわけではないため、ほとんどの学生は校舎に残っていないらしい。
自分は怖がりでは無いつもりでいる。
それでも、辺りが暗くなりゆく中、人気が無いところに居続けるのは、やはり抵抗がある。
私は散らかしていた机の上を手早く片付け、普段ホームルームに保管している教本だけを腕に抱いて図書室を後にした。
あとはこれを教室の抽斗に戻せばお終い。
訳も無く何かが後ろに居るような気がしてきて、教室へ向かう足は勝手に早くなる。
逢魔時とも言うし、さっさと教本置いて帰ろう……。
斯くしてホームルームに辿り着き、教本を抱えているのとは反対の手に提げていた鞄を下ろして、教室の引き戸を開けようとしたときだった。
「君、英語は通じるかね」
「ひっ」
突然肩越しに話しかけられ、危うく抱えていた教本を廊下に散らすところだった。
慌てて振り向くと、灰色がかった蒼い双眸が私をひたと見つめていた。
――なんて、綺麗な……。
女である私よりも白い、透けるような肌。気品漂う宝石を思わせる瞳。光を弾く色素の薄い髪。
そこにいたのは、幽霊でも人ではない何かでもなく、歴とした人間だった。
だからといって人心地ついたわけでもなく、私の胸は相変わらずばくばくと荒い拍動を続けている。
国際貿易港の近くで暮らしている都合上、異国の人の姿というものは見慣れているつもりでいる。
けれども目の前にいる彼は、他の人とは違う、鋭く凛とした何かを纏っているようで。
「ええと、はい、まだ勉強中ですけれども……」
やっとの思いで、拙い発音で返答する。
すると、それまで一文字に閉ざされていた彼の唇が、ふっ、とほころんだ。
まさか……見惚れていたって、気付かれてしまったのかしら。
「そうか。私もまだこちらの国のことは勉強中で、幾分心細くてね。似た者同士というわけだ」
危惧していたものとは違う答えに安堵する間もなく、自分の顔がみるみるうちに火照っていくのがわかった。
似た者同士だなんて。そんなに嬉しそうに笑うなんて。
何故だか恥ずかしい。何か、何か話さないと。
ここで私は、新学期が始まって以来、学生の間で広まっていたある噂に思い当たる。
「もしかして、あなたが新しくいらしたという語学の先生なのでしょうか」
「その通り。ただし、英語ではなくロシア語の授業を担当しているがね」
彼は悪戯っぽく片目を閉じて微笑んだ。