翌日、昼休みの体育館裏で康一は手持ち無沙汰に人を待っていた。
ここは特に、人気が少ない。
常時日陰でじめじめとしているせいか、不良がタバコをこっそり吸いに来る以外は基本的に人がいない。
特に昼休みをこんな陰気なところで過ごそうとする人はそうそういない。
そこを一人の女子生徒が、びくびくと恐れながら覗き込む。
「広瀬くん…?でいいんだっけ」
短髪の少女。真賀田加奈子。
例の怪談の当事者。
「あ、真賀田さん。わざわざありがとう」
放課後はすぐにでも家に帰りたいという本人の希望から、こうして昼休みに会うことになった。
もう騒がれたくないから、という理由でこんな場所を選んだが、これじゃあまるで逢引だ。
「山岸さんにもいったけど、あの話は本当だよ」
「足音、泥…だよね。」
「そう。授業開始と同時にうちの部、始まったから…見たのは火曜日。」
「詳しい場所は?」
「体育館への渡り廊下だよ。ほら、校庭と校門が見える方の」
「あ、そうなんだ。噂だとただ廊下って言われてたから」
「そうなんだ…結構変わっちゃうんだね。私はもう、聞かないようにしてたから知らなかった」
沈鬱な表情で、視線を合わせずつぶやく。その様子とあまりにもちぐはぐな男の子のように短い髪の毛が桜をすっかり飛ばしていった春のかぜにゆれる。
「最近、色んなところで幽霊が出るってゆーじゃん。またあうと思うと怖いんだ」
「…そうだね。実はぼくも一度、妙なものに遭遇してるんだ。」
「そうなの?じゃあアレを見たの?」
「姿は見てないんだ。…あれっていうのは、泥のこと?」
「い、…いや……違うわ。」
「真賀田さん、他に何か見たの?」
びく、とその肩が震える。
初めて真賀田はこちらを見る。その目は怯えている。
「…女のひと」
「女のひと?」
「50歳くらいの、土で汚れた女の人…」
オウソン。夕のもう一つのバイト先。
ここはパン屋より居心地がいい。いやな社員もいなければ、話しかけてくる人もいない。
人もまばらな店内で夕は淡々と商品を棚につめていた。
単調な作業がすき。
効率だけを考えれば、他に何も考えなくていいからだ。
商品を詰め、消費期限を確かめる。
その繰り返し。たまにレジにたつけど、お客は全員レジうちなんかに関心を寄せないし見もしない。
その無機質さが落ち着くのだ。
「籠原さん、あがっていいよー」
「お疲れ様です」
「あ、籠原さんさあ、よければこの後ごはんでもいかない?」
「……ごめんなさい。家に用があって…」
いつからだろう、無意識に人との関わりを避けるようになってしまったのは。
思えば友達らしい友達を持ったことがなかった。
母は消えた妹のことしか眼中になかった。にも関わらず、私までいなくなってしまうのを恐れてか外で遊ぶことを許さなかった。妹の写真がびっしり貼られた家で遊ぶわけにはいかなかったし、自然と人の輪から外れて行ってしまった。
親のせいにするのも、よくない。
けれども私のこの性格はあの家で養われたのは間違いない。
家を出て尚更思い知る、その呪縛。
妹の気配もそうだ。
私はきっと一生変われない。
真っ暗な夜道。急がないとバスがなくなってしまう。バス停まで走らないとマズイかもしれない。
たったったっ…
くらい、商店街を外れたさみしい道に私の足音がひびく。
たったったったっ…
たったったったっ…
聞こえる…私の足音とほんの少しずれた足音。
朝菜、あなたなの?
スピードを上げる。足音も同じようにテンポを上げ、それは次第に距離を縮めてくる。
はっはっはっはっ
いつしか全速力になっていた。息を吸い込んでも吸い込んでも苦しい。まるで肺がくしゃくしゃになったみたい。
心臓が必死に血液を送り出している。ズキズキと胸が痛い。
足音はまだ付いてくる。
必死に逃げるあまり、道がわからなくなってしまった。明るい方に行かなきゃ。
だだだだだだ
だだだだだだ
足音は変わらず、じわじわと距離を詰めてる。
怖い、怖い、怖いー
頭の中に浮かぶのはそれだけ。
足音に捕まったらどうなってしまうんだろう。
怖い。怖い。怖い。
そこで、路地の切れ目に明るい電灯が見えた。急いで曲がる。するとそこはオウソンのある道だった。
戻ってしまったのか…?
そうだ、オウソンに戻ろう。店の中に入ればきっと追ってこない…。
オウソンの明かりに照らされた道路を見る。
びしゃ
と、その明かりの届かない暗がり。そこから真っ白な足が、泥でびっしょり濡れたソックスをはいて立っていた。
「ひーーー」
立ち止まれない、後ろからは足音。でも進んでもこのままじゃまともにアレを見てしまう。
思わず、そこにあった道を曲がった。
全速力で曲がって、曲がって、赤いポストを通り過ぎて…曲がって、そこで気づいてしまう。
「なに…ここ…?」
走って、曲がって、それでも同じ景色。
思わず立ちどまる。咳き込みながら、必死に呼吸を整える。足音はもう追ってきていない。しかし…
「誰もいない…何回曲がっても同じ場所に出る…」
静謐。
なにもいない、小道。
足音のような切羽詰まった恐怖とは別の、明らかに何かがおかしい現象。
かくん、と膝が折れて思わずそこにへたり込んでしまう。
疲れた…。
こんなのどうすればいい?私が何をしたんだろう。もしここから出られなかったら?足音もいつか追いつくんだろうか。追いつかれたらどうなるの?
ぐるぐると思考が渦を巻く。
頭が重たくて、重たくて、地面を見失ってしまいそうになる。
「ーーねえ」
と、どろっとした頭の中で不気味なほど鮮明に、その声が聞こえた。
「ねえ」
振り向けない。
男とも、女とも、低いとも高いとも言えないその声。
「ねえ」
振り返るのを待つかのように執拗に繰り返される。
「おねーちゃん」
思わず、肩が跳ねる。その反応を皮切りに声がめちゃくちゃなイントネーションで話しかける。
「ねえ。おねーちゃんねえ、おねー。ねえ、おねえちゃん。おねーちゃん。おねーちゃんおねーちゃああん。おねええええねえ、ねえねえ」
もはやそれは言葉じゃなかった。悍ましい言葉をまくし立ててそれのこえは次第に大きくなっていく。
後ろを、見たらダメだ。だって、そこにいるのは…
朝菜、やっぱりあなたなの?あなたじゃないよね。
だってそんな声、してた?
く、と首が動いてしまう。
ゆっくりゆっくり、首が後ろを向く。
「振り向いちゃダメだ!」
は、と我に帰ると、すぐ横に男の子が立っていた。
「捕まって。あそこを曲がれば、ここからでれるから。絶対に振り向いちゃダメだからね」
差し出された手を握ると、力一杯引き上げられる。
その手を引っ張られながら、呆然となすがままに歩く。
「おねーちゃんおねーちゃんおねーちゃんおねーちゃんおねーちゃん」
声は変わらず聞こえる。
「罠だから、振り向いちゃいけないよ。前だけを見て歩くんだ、しっかりね」
出口に近づくにつれ声がガンガンと頭の中に響く。でも後ろを向いちゃいけない。
向こうの通りが見える。あと一歩。
「おね…」
道を抜けた途端、あの声は消えてざわめきが戻ってくる。
「はあー…もう、大丈夫」
思わず後ろを振り向くと、そこには道なんてなかった。
「え…?」
「あなた、喫茶店にいた人ですよね…?」
その声に振り返り、再度少年を見ると、確かに見覚えのある顔だった。
手形が現れた喫茶店で、カップを割った少年。
「大丈夫ですか…?」
以前と変わらない調子で、声をかける。
答えることができず、その場にがっくりとしゃがみ込んでしまった。