杜王町から電車で1時間あまり。S市を飛び越えたベットタウンによう子の家はある。
行くのはかれこれ10年ぶりくらいなので一瞬たどり着けないかと諦めかけたが、昔よう子が登って降りられなくなった木を発見してなんとか道を思い出せた。
帚木 幸生
八寿子
よう子
と書かれた表札がかかる、ごく普通のファミリー向け一戸建て。
たった今気づいたが名前の頭文字がや行で統一されている。もし下の子が生まれたらどんな名前をつけるつもりだったんだろう。
チャイムを鳴らすとしばらくして玄関が開いた。
するとよう子は前会った時と同じ、白い半袖のセーラー服で吉影を迎え入れた。
居間を素通りして二階へ。
居間には沈鬱な顔をしてどこかを見つめる父親がいた。一応挨拶をする。しかし反応がない。
「いいから、こっち」
よう子は二階の一番奥の部屋へ入っていく。
それに続いて入ると、どうやらよう子の部屋らしい。家具の少ないシンプルな部屋だ。しかし普通の部屋ではないところは、部屋中に飾られた賞状やトロフィーがドアを閉める風に揺れてざわざわと音を立ててる点だろう。
これじゃあ自室というよりもトロフィー展示室だ。
「圧巻だな」
「でしょ。」
よう子は学習椅子を引きだし、ぽんぽんと叩く。座れということらしい。
「お茶持ってくるから待ってて」
そう言って自室を出て行く。賞を一つ一つ眺めるとほとんどが一位、優勝、県知事賞、優秀賞…と書かれている。絵に関するものが多いようだ。そういえば、部屋の隅にもスケッチブックが何冊も収められた棚がある。
いつの間に絵なんて始めたんだろう。
「お待たせ。コーヒーだけどどうせブラックよね」
「ああ」
だされたアイスコーヒーに口をつける。市販の味。確かカメユーにも売ってるやつだ。
よう子はなんの柄もない真っ白なベットに腰掛ける。
「…お父さん、すっかり気が抜けちまってるな」
「そりゃそうよ。愛妻が殺されてその上頭部は見つからないんだから」
「取り返したい理由の一つか?」
「そうよ」
よう子は茶菓子らしい袋入りのビスケットを摘み、ぽつりと呟いた。
「完璧だったのに。」
「完璧?」
「人生よ」
「君の話はたまに、いや。しょっちゅうわかりにくい。ちゃんと主語と述語と目的語を使って話してくれよ」
「私の人生は完璧だったのにっていったの。」
「なにも母親が死んだって不完全になるわけじゃないさ。今時…」
「なによ!吉影兄さんは母親が死んでよかったかもしれないけど私は……」
そこでハッとよう子は口をつぐむ。
「ごめんなさい。言いすぎたわ」
幼い時分より一緒にいることが多かったよう子は、吉影の母親に悪感情を持っている。それも仕方がない事だ。
「気にするな。」
「……吉影兄さんは、どう?悲しかった?」
「悲しい?」
「父親でも、母親でも。家族が死んだ時」
「どうだったかな…人並みに、悲しかったと思うよ」
「そう……」
よう子はしばし悩むように手で腕をこする。言いたいことがあるけどいうかどうか悩んでる。昔からの癖だ。
「私、母が死んで悲しいはずなのよ。悲しまなきゃ変よね。でも涙なんか出てこないの。だって死体に顔がないんだもの。私は母さんを愛してた。だからきちんとお別れがしたいわ」
「ああ、わかってる」
「わかってくれてるなら、よかったわ。…着いて早々悪いけど、着替えたいからちょっと廊下で待ってて」
よう子は立ち上がり、返事を聞く前にベットの横に置かれた紙袋から着替えを取り出す。吉影は慌てて外に出る。
暫くするとよう子はドアを開けた。
ドアの影から覗く姿を見て思わずギョッとする。
ほんの少し背が低い以外は八寿子に瓜二つだ。
「死んだ時と同じ服を用意したの。どう?似てる?」
「悪趣味だ」
「そりゃどうも。じゃあ行きましょう。」
「どこへ?」
「犯人のテリトリーよ」
夏の盛りの真昼間に目的地もなく外をうろつくなんて狂気の沙汰だ。と、吉影は拭いても拭いても垂れてくる汗を拭いながら思う。
死人の格好をして街をうろつくなんてどうやって思いついたんだろう。恐らく小説か何かで読んだのだろうが、普通こんなこと実行しない。そういえばさっきの本棚はスケッチブックの他に黒い背表紙のホラー小説やら殺人事件を冠するタイトルが多かった気がする。
要するに、まだまだよう子は子どもなのだ。
自分の欲望を叶えるために努力してきた彼女はもうそろそろ努力しても叶わないということを学んだほうがいい。
人生妥協が大切だ。
劇的に生きるにしろ、静かに生きるにしろ。
そう思いながら、約10メートル先を行くよう子をみる。
全く人通りのない通りを日傘をさして進むよう子。側から見たら10メートル離れて歩く吉影が犯人に見えるだろう。と苦笑いする。
確かな足どりで、だいたい駅3つ分を歩いたところでよう子はくるっと振り向き吉影の方へ歩いてきた。
「休憩しましょう。疲れたわ」
そう言ってちょうどすぐそばにあった喫茶店へ入っていく。後に続き喫茶店へ入ると涼しい風が体を冷やす。汗がすうっと引いていった。
アイスコーヒーを二つ頼むと暫くして運ばれてくる。黒々としたそれを啜ると市販品とは違う味わい。よう子は市販品だろうと喫茶店のものだろうと変わらない表情で口に運ぶ。
そういえば昔、12歳ごろは苦い顔してコーヒーを無理やり飲んでいた。あの頃はまだ可愛げがあった。やはり人間は欠点があったほうが良い。完璧になればなるほど、美術品のような美しさは手に入れられる。しかし自分の手にとってどうにかしたいといった魅力は減っていく。
吉影にとってはどうでもいい話だが。手に関していえば完璧であることが求められる。その点よう子は完璧だ。人格はさておき母親譲りのその手は欲望をそそられる。従姉妹でなければ真っ先に犠牲になってもらうのに。
「私、春には東京に行くと思う」
「大学か?」
「そうよ。私、美大に行くの。」
「美大か。入るのは難しいんだろうな。こんなことしてて大丈夫なのか?」
「私これでも勤勉なのよ。問題ないわ」」
「ふうん」
大して興味はなかった。だが、そうか、もう親元を離れるような歳になったのか。きっと、彼女とはこれ以後早々会うことはないだろう。従姉妹なんてそんなものだし、彼女は遠い遠い場所を目指している。自分は一生ここから動くつもりはなく、彼女は帰ってくるつもりはない。
最後の冒険。最後の遊び。か。
「…母さんは痛かったかしら。犯人は殺してから部品を取り出すんじゃないわ。部品を取り出した結果人が死ぬんだから、死ぬまで生きてたのかもしれないのよね」
「ああ…どうだろう、な。先に頭を切り取られてたらいいんだが」
遠い目で、暑さで揺らめく陽炎を眺める。通り魔が彷徨いている。それでも日常は変わらず流れる。なおしようのない歪みを抱えてそれでも町は廻っている。
どの町も同じだ。
「別ルートを通って帰りましょう。明日もまた来てね」
「…気が滅入るな」
次の日も、また次の日も。よう子と吉影は街を徘徊した。
成果は当然のことながらない。
よう子も薄々分かっているんだろう。彼女は春には、このぐるぐると廻り続ける毎日を出て別の輪へ行く。漠然とした不安が彼女の肺に満ちて息苦しくてたまらないのだ。どこに酸素を求めればいいかわからない。抜け出すために、これまでの生き方と同じ方法しか思いつかない。
円環をぶち壊すのはいつだって自分以外の何かだ。彼女が決定的に逸脱するにはパーツがまだ足りない。
パーツが。
そう、母親の頭。
「疲れたわ」
「もうやめとくか?」
「今日はね…」
ファーストフード店で水で薄まったコーラを啜り、よう子は今まで読んでいた文庫本をカバンにしまった。銀色の背表紙に、表紙にナイフが書かれたハードカバー。よう子らしいチョイス。
吉影も同じく、ガーデニングの本を閉じた。ガーデニングは別に、興味はない。本はよう子のショッピングバックにしまってもらう。よう子が先に出て日傘をさした。時間をおいてその日傘を追いかける。
ゆらゆら陽炎が白い日傘を夏の光の中に隠す。たまに見失いそうになるが、傘の下から覗く揺れる艶やかな黒髪が吉影を現実に引き戻してくれる。
アスファルトの続く、閑静な住宅地。盆のこの時期は多くの人が帰省しているため、人気がない。整然と並ぶ建売住宅は虚ろな雰囲気を漂わせる。
あと、何キロで家だろうか。立ち眩みが起きそうだ。血が引いていく感覚を覚え、思わず額を抑える。視界がぐらっと傾いだと思った瞬間、違和感。
よう子の白い日傘が、ぽとりと地面に落ちた。
よう子は立ち止まり、動かない。
どうしたんだ?と目を凝らす。
よう子は驚いた顔で日傘を取り落とした自身の左手を見つめ、続いて脚を見る。
何かがおかしい。
「よしー」
よう子が吉影の名前を呼びかけた時、不意によう子の目の前に包帯まみれの何かが現れた。ゆらゆらと、まるで都市伝説みたいな格好をした何かが。
しかしよう子はそれに気づく様子もない。
それは右手に一振りのメスを握っている。左手にかかってるよう子のバックを邪魔そうに掴み、切断しようと言わんばかりにメスを持った右腕を振り上げた。
「キラークイーン!」
すかさず吉影は走りだし、キラークイーンを出す。そう、よう子のバックはすでに爆弾に変わっている。
ばずっ!と奇妙な音を立ててバックを握ったスタンドの手が爆発した。その手を構成していた包帯は端から燃えていく。
スタンドは悲鳴のような唸り声を上げると、よう子の首根っこを突如鷲掴みにして無理やり連れ去る。
もちろん吉影はそれを追いかける。スタンドのダメージはそのまま本体へフィードバックされる。スタンドと同様本体の左手は吹っ飛んでいるはずだ。女性のパーツをひたすら集める偏執的な性格なら、せっかく見つけたよう子を手放すはずはない。
そうなれば負傷したまま路上で彼女を解体するのではなく自分の領域に持ち去ろうとするだろう。
テリトリー。
おそらくそこに、今まで犯人が集めた部品が揃っているはずだ。
住宅地を駆け抜け、スタンドはよう子を運ぶ。本気で走れば追いつく早さだが、これは狩りだ。本命は巣にある。
と、そこでふいにスタンドとよう子が道を折れた。本当に不意に、そして車の走り去る音が聞こえる。
その曲がり角を続けて曲がると、白いバンが走り去っていくのが見える。
目を細めてナンバーを確認する。視認できた。それにしても白いバンとは如何にも誘拐犯の使いそうな車だ。
「ああ…やっぱりそうだったか。そうだよな。」
よう子は連れ去られた。
しかし
「全く、手間のかかる狩りだな…」
吉良吉影は極めて冷静に一冊のノートを取り出した。
松風照尚は右手でハンドルを握りながら荒い呼吸を繰り返し、必死に、もがくように運転していた。
掠れた呼吸音。吸っても吸っても酸素が足りない。当然だ、血が足りないのだから。
照尚のスタンド。ウェイティングフォアザアームズの左手が突如爆散した時、あまりの突然さに思わずしばし呆然と原型を留めず血を吹き出してるズタ袋にしか見えない左腕を眺めてしまった。
ハッと我に帰った途端訳のわからない痛みが全身を駆け巡り、脳みそがめちゃくちゃに引っ搔き回されるような感覚に正気を失いそうになった。
咄嗟にWFTWの体液を塗ってあるメスを突き立て、先を失った左腕を麻痺させた。
WFTWの能力。麻痺。いままでの女たちは麻痺させ、痛みを感じないまま体の部位をその場で切り抜いていた。今回もそのつもりだった。突然あの少女のバックが爆発し、思わず連れ去ってしまった。
とんでもないアクシデント。
今まではスタンドの目を通し被害者から部品を抜き去り、スタンドに運ばせて最終的に車で持ち去っていた。
一般人には見えないスタンドを使った、安全安心な通り魔計画。
まさか左腕を失う羽目になるなんて…。スタンドを攻撃できたということは相手はスタンド使いに違いない。まさかこの近所で遭遇するとは思っていなかった。いや、違う。きっとそいつはこの少女、帚木よう子の関係者なのだろう。
ああ、狙うんじゃなかった。罠だったのだ。しかし、ここで挫けてはいけない。帚木よう子は大切な大切なマスターピースだ。
どうやらまだ頭が混乱しているらしい。とにかく、失血が酷い。麻痺により痛みはないものの貧血はどうしようもなかった。
片腕がないと職場で怪しまれるどころの騒ぎではない。適当な男の腕を奪ってくっつけてしまおうか?
相手はよう子を奪還しに追ってくる。ならば返り討ちにしてそいつの腕をもらおう。目には目を、歯には歯をの精神だ。
そいつは麻痺なんてさせない。必ず最大限に痛みを与えながら、殺す。
後部座席に投げるようにして乗せたよう子は気絶しているようだ。
母親に瓜二つの体。そして左手。左手、左手だ。あの時八寿子の左手に傷さえなければ、こんな手間はかからなかったのに。完璧じゃないとダメだ。煤けた肺を捨てた時と違ってあまりに惜しくて、悔し紛れに左手の薬指だけ持っていった。それが余計によう子の左手を手に入れなければいけないという欲望を煽って、焦った結果がこれだ。
欲望は人を狂わせる。しかし狂っている時の陶酔感は何事にも変えがたい。
自宅に着いて、地下室へ。
WFTWでよう子を運び、重い扉を閉める。
地下室は打ちっ放しのコンクリートだ。地下室だから夏でもひんやりしている。照尚だけの秘密の場所だ。
収集を始めてからはクーラーも取り付けた。収集した部品を保存する水槽の前にお気に入りのソファーを置いてみたりして、今では自室よりよっぽど落ち着ける場所になっている。
よう子をソファーに置いて、左腕の切断面を見る。ボロボロだ。なんせ爆発したのだから皮膚は無残に裂けてぷらぷらぶら下がっているし、骨は割損ねた割り箸のようになって、筋肉とか筋とか、多分血管がぷらぷらと真っ白い脂肪や赤い肉をまとわせて揺れている。
吐きそうだった。
もし他人の腕をつけるとしたら、一度綺麗に切らなければいけない。
感覚がないとはいえ、自分の肉体を切るなんて悍ましい。ぞくぞくと悪寒が背筋を駆け上った。その感触はスタンドを通して女達から理想の部品を取り出すときの恍惚感に似ている。
「ひっ…ひひ…」
引きつった笑いが漏れた。まだだ、まだ切り落とすには早い。爆弾のスタンド使いを撃退した後だ。それまでによう子の左手を切断しよう。
スタンドのメスが、天井のあかりを反射してきらめく。
ウェイティングフォアザアームズの体液は、切りつけた部位を麻痺させる。そしてその液体全てに切断した部位をつけると、不思議なことにそれは腐らなくなるのだ。時間が静止したように、みずみずしく美しいまま保たれる。まるで生きてるように。
水槽に満ちたその液体の中にうかぶたくさんの部品たち。泳ぐように水槽の中でたゆたう、完璧なパーツたち。
よう子の左手も仲間入りだ。左手以外ももしかしたら合格な部分があるかもしれない。どの部品が欲しかったっけ。
よう子の母親譲りの艶やかな髪を指に絡めた時、轟音とともに扉が爆ぜた。
「臭いな。死臭…じゃないな。ゲロ以下の臭いと言ったらいいんだろうか?なあ、悪党の住処っていうのはなんでこうもジメジメしていて個性にかけてるんだ?」
もうもうも立ち込める爆煙の中から、男が現れた。盆の時期でなければ背景に溶け込んでしまうようなスーツ。男前だが覇気のない、影の薄い顔。たった一点、ドクロ模様のあしらわれたネクタイだけが個性を放っていた。
そんなどこにでもいそうな普通の男が、邪気を纏い地下室へ入ってきた。
「おまえ…ッ!喫茶店でよう子と話していたやつだな。おまえがスタンド使いだったのか!!」
「そうだよ、松風照尚。テレビなんかじゃバラバラ通り魔なんて大層な名前で呼ばれてるらしいが」
「なぜここがわかった?」
「簡単だ。記帳を見たんだ」
「なに…?」
「帚木八寿子の葬式に来てたろ」
「それだけで俺が犯人なんてわかるはずがない!ふざけやがって…ッ!」
「お前の目的は女性の部品の収集だろう。完璧な体で一番重要なパーツは、顔だ。顔というのはまさにその人間を象徴するパーツだ。もし仮に完璧な女を作ろうとしているなら、象徴選びには苦労するだろう。はめる指無くして結婚指輪なんて作らない。
つまり、お前は帚木八寿子の顔にふさわしい体を作るべく、女の部品を集めてたんだ。違うか?」
「なかなか、鋭いじゃないか…」
「本命が八寿子だったのなら取り損ねた左手が惜しくて、女々しく葬式にまで来てるんじゃないかと思ってね。犯人の行動圏と思われる場所に住んでる人間を洗い出した。移動手段があると思ったら案の定だ。もう少し頭を使うべきだったな」
「のこのこと現れたお前の方こそ、もっと頭を使うべきだ。ここは俺のテリトリーだぞ。」
「だからどうした?」
臆することなく、男は照尚へ向かって一歩踏み出す。
「近づくな!これ以上近づいたらこの子を殺すぞ」
「勝手にしろ。私の用はその後ろの水槽だ。」
「なに…?」
「それより、忘れ物だ。」
男は無造作に何かを投げてよこす。足元にそれが落ちる。それは照尚のちぎれた左腕の破片だった。
「ち、ちくしょおおおおおーっ!!俺の腕ェエァアアアアアーッ!」
怒りが爆発した。突発的にWFTWがメスを振り被る。。迷わず喉を狙って。
「つまらん」
と、吉影が言った途端にその左腕が爆発する。白い煙に視界が奪われる。メスは手を離れた。しかし、そのメスはがつっと音を立てて後ろのコンクリートに当たる。
ぶわ、と風が起こり突然視界が晴れる。晴れた先には、真っ黒な闇が、いや、掌が広がっていた。
「ごえっ!」
掌はそのまま頭を鷲掴みにし、頭蓋が中身をぶちまけるんじゃないかという力で照尚を地面に叩きつけた。
「蹴られても困るからな。」
ぶちぶちという音。そして同時に両脚から激痛がする。続いて残った右腕も、渾身の力で踏みつけられる。ばきっと乾いた音が響き、腕の骨が折れたのがわかった。
「ギャアアアアアーーッ!」
「うるさいな。泣き喚くなんて全くだらしない悪党だ…あんなことをやってのけてるんだからどんな邪悪かと思ったのに。見当がはずれたな…」
「あ、あああ…うで…うでぇ!よくも、よくもお前…」
「まあ楽ならそれでいい」
ぼしゅ!と湿った音を立てて、照尚の腕が四散した。
悲鳴をあげる間も無く、続けざまに足が片方ずつ爆ぜる。
痛みを通り越して、恐怖が照尚の脳を包み込んだ。声にならない悲鳴が口の端から溢れ出す。
「ーーーっ、はーーー!」
「あの水槽、手やら内臓やらまるで生きてるようだが。」
猫の形のスタンドが、手足がなくなり軽くなった照尚を掴み上げる。
「どうやら腐らなくなる…いや、むしろ生き続けてると言った方が正しそうだ。」
そして一歩、また一歩水槽に近づく。何をされるか、痛みと恐怖で塗りつぶされた照尚の頭でもわかった。
「やめ、ろおおおおおお!」
「溺れないといいな」
ざぶん、と。全身が緩い水に沈むと同時に液体が傷口からゆったりと体へ沁みてきた。痛み、恐怖が心地よく麻痺してゆく。
「気持ち良さそうでなにより」
吉影は水槽の横に置かれた網を使い、水槽の中で熱帯魚のように漂う右手を掬いとった。
紛れも無く八寿子の美しい手だった。うっとりとそれに口づけする。生きていた時と変わらない、瑞々しい、白磁のように美しい手。
決して手に入らないと諦めていた、今までで一番の手だった。
吉影は水槽の中の液体を汲み取り、無造作に置かれていた瓶に流し込んだ。水槽の中にはうっとりした表情の松風照尚と、たくさんの人間のパーツ。そしてまるで眠っているかのような八寿子の顔があった。しばし黙祷する。
よう子を担ぎ、地下室を出る。
発見されないよう、天井を爆発させて出口を塞いだ。
八寿子の頭は、きっともう二度と家族の元へは帰れない。
「あれ…わたし…」
「熱射病だとさ。急に倒れて驚いたよ。」
帚木家の、よう子の部屋。
クーラーの効いた部屋に西日が差していた。
トロフィーと、描きかけの家族の肖像が茜色に染まる。
吉影は夢から覚めたばかりでぼうっとしたよう子を見つめた。
「そう…そうだったの。ごめんなさい」
「いいんだ」
「…私、夢を見たの。母さんは水槽の中にいて、安らかに眠ってたわ……変な夢だった。」
「そうか」
「わたし…母さんの顔が、わからなくなっちゃったの。かあさんが、死んでから。」
ポロポロとよう子は涙をこぼす。
「かけなかったの、絵の続きがっ…。でもやっと、思い出せたわ」
描きかけの家族の肖像は裏返しにして部屋の隅に置かれていた。穏やかに微笑む家族の顔は書きかけで、八寿子の顔は何度も消した跡が残っていた。
不器用な娘。
理由をつけてつけて母の頭を追いかけたが、本当の動機はたった一つだ。愛してるから。
優しくするのにも理由が必要で、愛するにも理論が必要で、ただ好きだと言うのにも理屈が必要。
なんでも一番になりたい理由なんてたった一つだ。ただ、愛する人に褒められたかった。
幼い幼い望みだった。
3歳の時、吉影とのお絵描きを褒められた彼女の喜びようを思い出す。何時だって愛に包まれ育まれた娘。
自分とは真逆の娘。
嗚咽をあげながら涙を流すよう子を、吉影はただ見守った。
今回みたいなことは、もうごめんだ。
けれども収穫はあった。
あの液体さえあれば、今までとは比べ物にならないほど長く切り取った彼女を愛することができる。
あの液体がいつまで効力をもつかわからない。松風照尚が死ぬまでだろうか?それとも永久?
ああ、願わくば松風照尚の心臓が永遠に鼓動を打ちますように。
八寿子の手がいつまで持つかはわからない。けれども今はただ、最高の手を愛することだけを考えよう。
ああなんて美しい手だろう。
探偵ごっこもたまには悪くない。