1年後の1月3日
透き通る氷のように澄んだ空の下、俺は1人立っていた。
仄かに明るくなってきた朝の空には雲一つない。放射冷却の影響をもろに受けた冷たい空気は清々しいまでに肌に突き刺さってくる。藍越学園ISVS部の皆で製作したロゴ入りジャンバーを着ていても、流石に冬の早朝の寒さに耐えきれるほどではなく、俺は両腕を抱えて震えながら待っている。
何を待っているのかなど決まっている。今日は1月3日。正月の三箇日の最後の朝は俺と箒にとって特別な時間となっているのだから。
「今のところ、誰もいないな」
周囲を注意深く観察する。去年は大多数の邪魔が入ってお祭り騒ぎになり、俺と箒の初詣とはとても呼べなかった。今年こそは真の約束を果たすため、誰にも邪魔させないと誓いを立てている。
今日この日のために俺が何もしなかったわけなどない。
まず邪魔しに来る可能性のある人物の筆頭、セシリア・オルコット。
専用機を企業に返還し、代表候補生を引退した彼女はずっと日本に住んでいる。というか未だに俺の家に居候を続けている。主人思いのメイドと執事の手によって魔改造を施された我が邸宅はいつの間にか豪邸へとリフォームされてしまっている。
既に大学卒業の資格を有していると聞いていたがまだ藍越学園の生徒という身分は捨てていない。ただ、肩書きが1つ増えていて、彼女は藍越学園の理事長でもある。この辺りの話は箒たちのためにしてくれたことなので俺は彼女に頭が上がらない。
ただし、受けた恩と俺の都合は分けて考えるべきだ。
今日、この時間だけは邪魔しないでくれと俺は彼女に頭を下げてきた。すると、彼女はこう言った。
『わたくしがそんな無粋な女に見えるかしら?』
……アレは間違いなく内心ぶち切れてたね。完全に俺の失言だった。最終的には『仕方ない人ですわね』と笑われてたからたぶん大丈夫。
次はお祭り騒ぎを作り出す元凶となる男、五反田弾。
藍越エンジョイ勢のリーダーであり、藍越学園に誕生したISVS部の部長でもあるあの男が一声掛けると藍越学園の野郎どもの大半が便乗してくる。厄介極まりない存在だ。逆に言えば弾さえ動かなければ他の藍越エンジョイ勢はこんなところにやってこないとも言い換えられる。
奴の場合は頼み込んだところで無駄だ。俺だけが楽しもうとすると必ず自分も混ざろうとしてくる。
俺は俺のために、弾は弾のために。
昔からそんな行動指針で上手く歯車が噛み合ってきただけの俺たちだ。だから弾には弾のために動いてもらえばここにやってくることにはならない。
というわけで、虚さんにペアの温泉旅行券を送りつけてこの街からご退場願った。奴が美人女子大生の彼女との温泉を捨ててまで俺を茶化しに来るわけなどあるはずもない。
一番行動が読めないのは数馬だが、あいつのスケジュールを確認したら今日は家族で出かけるとか言っていたな。あの野郎の場合、『行き先は篠ノ之神社じゃないから安心しろ』と一言添えてきたから信用していい。嘘を吐いてまで邪魔してくるような腐った性根は持ち合わせていないと俺は知っている。きっと御手洗家の家訓にも『友達に嘘を吐くな』と書いてある。
あとは蒼天騎士団の団長、真島慎二。
藍越学園に入学してきた慎二は明確に俺の後輩となった。いつも俺の後ろをついて回ってきたから1月3日もいるかもしれないと警戒していたんだが、むしろ慎二の方から『冬休み中はお邪魔するわけにはいきません。何かトラブルがあれば連絡をください』と勝手に引き下がっていった。そういえば7月7日と12月24日も姿を見せなかったっけ。良くできた後輩だが察しが良すぎて若干不気味でもある。
何度考え直しても邪魔が入る要素は見当たらない。少なくとも必然的な事象は回避できていると言っていい。
確かな手応えを感じつつ、身体を震わせながら待ち続けること30分。約束の時間よりも10分以上早く、“彼女”が姿を見せた。
「やはり待っていてくれたのだな、一夏」
彼女のイメージカラーである鮮やかな紅の着物はもはや彼女のトレードマークと言っていい。半年ぶりに会う彼女はまた一段と綺麗になった。それは気のせいじゃなくて、実際にそうなのだと断言したい。
「い、いや、待ってないぞ。お、俺も今来たところだから」
「待ち合わせの常套句を覚えてきたのか。昔と比べて一夏も成長したのだと感じさせられるが、嘘だとすぐにバレるあたりはまだまだだな」
くっ。笑われた。
仕方ないだろ。着飾った箒を前にして、用意してた褒め言葉が全部頭から吹っ飛んだんだ。1ヶ月ぶりにあったものだから尚更だ。
「元気そうで何よりだ」
「それはこっちのセリフだっての。1ヶ月も学校を休みやがって」
「文句は研修を強制してきた倉持技研か国家代表を引退した千冬さんにでも言ってくれ」
「千冬姉は悪くないだろ! 研修も必要だったんだろうし……」
「では私が悪いのか?」
「そうは言ってない! でもまあ、箒が国家代表になる必要はなかったとは思うけどさ」
箒たちが仮想世界に閉じ込められた一連の事件は一部で黒鍵事件と呼ばれている。黒鍵事件は千冬姉たち国家代表たちの活躍で解決したことになっているのだが、事件の直後に千冬姉が表舞台に顔を出し引退を宣言した。千冬姉にとって国家代表という立場は手段であって目的ではなかった。目的が果たされた千冬姉がいつまでも面倒な国家代表という立場に居続ける理由もない。今は何とかという国際的な組織に所属して亡国機業の残党を追っていると聞いている。
ISVS最強プレイヤーを失った日本は次のブリュンヒルデを探した。千冬姉の代わりが務まるプレイヤーなどいるはずもないと誰もが諦めていたときにISVS界に降り立ったのが箒である。全身が机上兵器で固められた専用ISと無限とも言えるサプライエネルギーを得られる単一仕様能力を使いこなす彼女はあっという間に日本代表の座についたのだった。
「私の我が儘だ。姉さんが遺してくれた紅椿を世界中に見せつけてやりたかった。千冬さんを超えたいという夢もあったしな」
「無謀な夢を見るだなんて箒にしては珍しい」
「負けるつもりなどない。千冬さんにもセシリアにも」
「ん? なんでここでセシリアが出てくるんだ?」
「誰にも負けたくない。ただそれだけのことだ。深い意味はない」
急に視線を逸らしやがった。深い意味があるらしいけど教えてはくれそうにないから諦める。
「あと、一夏は誤解をしている」
「何をだ?」
「1ヶ月も会えなかったのだ……私の方が一夏の何倍も寂しかったのだぞ?」
コイツ、いつの間に上目遣いなんて覚えてきやがった! 俺を悶え死にさせる気か!
いや、箒だぞ。意図的にあざとい真似なんてできるはずがない。
だったら天然? 余計にヤバイじゃん!
「え、えーとだな……とりあえずお参りを先にしないか? 去年みたいに邪魔が入ると嫌だし」
箒の足下を見る。歩きづらそうな下駄だ。今年は雪道でないけど、手を差し伸べる。彼女は一度だけ首を傾げたが、うんうんと頷くとあっさり手を取ってくる。
「安心した。一夏が奥手なのか、セシリアが控えてくれたのかは知らないが何も変わっていないようで何より」
「何の話だよ……」
「その顔は
たぶんこれは遠回しに嫌みを言われている。それくらい俺にもわかってるけど、今はまだ結論を出すつもりはない。
箒を助け出した後、何もなかったはずの俺にも夢ができた。今はその夢に向かって突っ走っている最中だから、今ある人間関係を一部でも壊したくない。甘えだって言う人もいるけど、俺は彼女たちに甘えると決めているし宣言もした。もう開き直ってる。
「そういえば鈴はどうしている?」
「この1ヶ月は特に連絡ないな。まあ、沙汰がないのは逆に元気な証拠と思ってる」
「たしかに。鈴は中途半端なまま連絡を寄越す性格でなかった。次に会うのはモンド・グロッソの舞台かもしれん」
鈴は半年前に転校していった。半年前はちょうど箒が国家代表に内定した頃。普段から箒に対抗意識を燃やしていた彼女は『中国で国家代表になってくる』と言い残して去っていった。昔はISVSでプロを目指すつもりはないと言い切っていたのに。人は変わるもんだ。
他にもシャルがフランスの次期国家代表の候補に挙がっていると聞いている。ラウラも似たような感じだ。もしかしたら将来的にモンド・グロッソが同窓会みたいになるかもしれない。
「一夏の方はどうだ? 順調なのか?」
そういえば、どうせ初詣のときに会うからと俺の近況について箒に言ってなかったっけ。
「とりあえずめぼしいアマチュア大会は制覇してきた。千冬姉とアーリィさんの推薦ももらえる。あとはモンド・グロッソ主催者側にコネのある宍戸に認められれば、俺も2月のモンド・グロッソに男性特別枠で出場できることになった」
これは俺の夢にもつながること。
俺はISVSのプロプレイヤー、言い換えると現実の専用機持ちになりたいと思っている。ちょっと前までは寝言に等しい夢だったが、最近になって見つかった篠ノ之論文により男性もISを使用可能になる制限解除方法が確立できそうだと簪さんから聞いている。
あの仮想世界での戦いの最後、束さんと約束した。
楽しい世界が楽しい世界であり続けるよう見守っていく、と。
そのために俺はISに関わる仕事をしていきたいのだ。
「恭ちゃんは認めてくれるのか?」
相変わらず箒から宍戸への呼び方は慣れない。変な笑いが込み上げてくるが今は真面目な話をしているので必死に抑える。
「条件を出された。明日、藍越学園で宍戸の用意した相手に勝たないといけない」
「そうか。今の一夏なら問題ない。千冬さんや恭ちゃんが相手というわけではないのだろう?」
既に俺が勝つ気でいる箒は頬を綻ばせている。
……喜んでもらってるところ悪いが、俺はそんな楽観視してない。
「相手は俺たちと同じ高校2年生。宍戸が鍛え上げた対亡国機業の切り札だ。箒は知らないと思うけど、俺は奴と過去に10戦して5勝5敗、つまりは五分の戦績だ」
「今の一夏と互角の高校生……? そんな者がいるのか!?」
「ああ。あの野郎、宍戸みたいに武器なしでもとんでもなく強いからな。絶対に勝てる保証なんてない」
むしろ最初は俺が勝ち越していて、最近になって追いつかれた。戦績だけを見れば五分でも、直近に絞れば俺が負け越している。
勝ちたい。でもそう簡単に勝たせてくれる相手でもない。
賽銭箱の前まで来た。すると箒は何も言わないまま小銭を投げ入れて手を合わせる。
「明日の試合で一夏が勝ちますように」
わざわざ俺に聞こえるように、そう祈ってくれた。
「1年分のお願いを明日に集中させるつもりか? 俺は1回だけの特別枠で満足するつもりはないぞ」
俺がISVSのプロプレイヤーになるためにはモンド・グロッソで実績を残すのが手っ取り早い。だから1回戦負けだけは絶対に避けなければならない。
特別枠だなんてたった1回だけのチャンスだ。男がモンド・グロッソに参加できる風潮を作らなければ2度目なんてやってこない。
「ならば、たかが一般の高校生程度には勝ってもらわなければな」
あの男がエアハルトより強い相手だとわかってて箒は煽ってくる。正論だから何も言い返せないし言い返すつもりもない。
「そうだな。びびってちゃ勝てるもんも勝てない」
「心配せずとも一夏は勝つ。お前は私が認める世界最高の男なのだから」
どうして箒はそんな恥ずかしいことを自信満々に言ってくれるのかねぇ。
おかげさまでやる気が出てきた。
俺も賽銭を投げて合掌し、念じる。
――今年も楽しい年になりますように。
◆◇◆―――◆◇◆
1月3日の早朝。織斑千冬は国家代表を引退してからほぼ半年ぶりに仮想世界へとやってきていた。
場所は篠ノ之神社。現実世界での同場所で織斑一夏と篠ノ之箒が待ち合わせているのと同時刻、仮想世界の参道を1人で歩く。
「この時間ならば“アイツ”もここに来ているだろうか」
アイツとは古くからの友人である篠ノ之束のことだ。ちょうど2年前に亡国機業の首領と相討ちして死亡した束であるが生前の意識だけが今も仮想世界を彷徨っている。少なくとも一夏からそう聞かされていた千冬はいずれ不満をぶつけてやろうと考えていた。今がそのときと思うと自然と頬が緩んでいる。
神社の敷地内を見回す。しかし屋外に人影は見えない。千冬は迷わず屋内、それも本殿へと入っていく。
「――ようやく見つけた」
木造の殺風景な部屋の中、水色のワンピース姿の女が壁に背を預けて座り込んでいる。今も変わらず頭にメカっぽいウサ耳カチューシャを取り付けている女は十中八九篠ノ之束だ。俯いている彼女の表情は千冬から
「創始に褒められてからずっとそのコスプレだったな、お前は。構って欲しくてツッコミ待ちしてただけだったのが『可愛い』と言われて逃げ出した、お前の滑稽な姿を私は今でも覚えてるぞ」
声をかけたが反応は返ってこない。眠っているのだろうか。ツムギの活動を始めて以降、束の寝る姿など見たことがなかったことに気づかされる。
「平和な世界……いや、違ったな。お前の言う“楽しい世界”だからそうやって寝ていられるということか」
眠り続けている親友の隣に千冬も腰を下ろす。
……黙っていれば非の打ち所のない美人だというのにな。
もっとも、束は男の気を引こうとしていないのだから全く損をしていないのだが。
「箒は国家代表になった。お前の作った紅椿が世界一であることを証明するのだと気合いを入れていたぞ。私の見立てでは次のモンド・グロッソで十分にその存在を世界に知らしめるだろう。優勝は難しいだろうがな」
束の頭をそっと撫でる。
「一夏は世界初の男性の専用機持ちを目指している。まさかモンド・グロッソの出場枠を手に入れる段階まで来るとは思っていなかった。その原動力となったのはお前との約束だそうだぞ」
独り言を言いに来たわけではない。だからそろそろお前の話を聞かせろ、という意味を込めて強く肩を揺する。
……束から反応はない。
「狸寝入りは
徐々に力を込めていく。
するとようやく束の両目がゆっくりと開く。
彼女と目が合った千冬は目を丸くした。
「たば、ね……?」
黒い眼球と金色の瞳。千冬の知る篠ノ之束にはなかったその両目の特徴は遺伝子強化素体のものと一致する。
目が合ったと思っていたのは千冬だけだった。束の目は焦点が定まっていない。
……もう彼女の目には何も映っていない。
「私は上手くやれましたか?
発された言葉から千冬は全てを察した。彼女の頭を抱きかかえ、優しく撫でるのを繰り返す。
「ああ、上出来だ。ありがとう」
感謝の意を告げる。千冬の胸の中でニッコリと微笑んだ彼女の肉体は足から順番に光の粒子となって仮想世界に溶けていく。
「束によろしく言っておいてくれ。お前たちの遺したこの世界を私なりのやり方で守っていくから」
役割を終えた彼女は仮想世界から消失した。
1人となった千冬は即座に立ち上がる。
「さて。用件も済んだことだ。帰って仕事に戻るとしよう」
切り替えが早い。それが千冬らしいところなのだが、神社から立ち去る千冬の頬を光る雫が伝っていた。