初めてプレイするゲームという感覚は全くなかった。
眼下に青い海が広がる空の上、風を一身に受けたシズネはその場で深呼吸をする。病室では感じられない風には潮の香りが混ざっている。今の現実では触れられていない自然を感じることでシズネは帰ってきたことを自覚する。
そう、帰ってきた。まだ現実で目覚めて間もないシズネにとって、寝たきりの病室よりも
「戻って来ちゃいました。こんな私をあなたは叱りますか?」
この空へと消えていった友人に語りかける。最期まで自分たちの幸せを願ってくれていた男が困ったような照れたような顔をしているのを想像し、シズネはふふふと一人で微笑む。
「感傷に浸るのは後にしましょうか。私にはやることがあるので」
現在、シズネがやってきているのはヤイバとエアハルトが決戦を繰り広げた北極海である。本来は極寒の地であるがISのおかげで操縦者に寒気の牙は突き立てられない。悪環境の中でも潮の香りを感じられるほどにリラックスできているのは
天候は晴れ。前に来たときは猛吹雪の中だったため、周囲の景色がまるで違って見えている。ただ、ISが教えてくれる座標はここが戦場だったことを教えてくれる。
「あの大きなマザーアースはもう影も形も残ってないんですね……」
海と氷の大地の他に観測できるものは
「アカルギは無事でしょうか?」
アカルギ。刀匠、
これまで多くの危機をアカルギに助けられてきた。敵から逃げる足としてはもちろんのこと、ツムギが拠点としていた遺跡よりもシズネたちの家と言える存在だった。ヤイバたちと出会ってからも強大な敵を倒すための力となってくれていた。
シズネたちは現実に帰ることができた。しかしナナはISVSに囚われているまま。まだアカルギが役目を終えるには早すぎる。シズネにとってアカルギという存在は『絶対に現実に帰ってやる』という意志の象徴である。深海に沈んだままという現状を放っておきたくなかった。
ISVSに来てまず第一にやろうと考えたのはアカルギを再起動させること。敵の要塞が消えてしまっていることでアカルギもそうなのではないかと不安が過ぎったが、結局のところシズネのすることに変わりはない。
この海面の下に潜っていく。それ以外にすることはない。
「では……行きますっ!」
この先にアカルギがあるはず。そう信じ、大きく息を吸ってから真下への急降下を開始。着水と同時に水柱を立てた。
海中に入ってから気づく。普通に呼吸ができる。わかっていたはずなのに、水に飛び込む意識からついつい呼吸を止めようとしていた。
「まるで夢の中ですけど、これはISのおかげなんですよね」
IS自体が夢の産物であると言われてしまえばその通りかもしれない。とにかく今、現実に近いこの仮想世界で海中へと潜っていけるのは他ならぬISのおかげであることを実感した。ほぼ一般人であるシズネであっても深海に眠っているはずのアカルギへ向かうことはできそうである。
道中に何事もなければ、であるが。
「こんな場所にPICの反応?」
深度が50mを超え、視界は暗い。ライトで照らすことは不可能ではないが、広範囲を捜索するのには向いていない。他の情報、一般的には音を利用するところだがシズネはISコアの痕跡を探してみた。その結果、PICが起動していることを確認できた。
だからこそ異常。乗組員のいないアカルギがPICを起動できているはずもない。加えて、シズネが観測したPICの反応は1カ所でなく、広範囲に渡って複数確認された。
PICの反応は徐々に近づいてきている。移動している。それも自分を取り囲むようにして向かってきている。それが意味することがわからないシズネではなかった。
「敵!? でも、どうして……」
誰にも相談せずにISVSへとやってきたシズネであるが、単独で敵と戦おうだなどと無謀なことは考えていない。だからこそ、自分なりに敵と戦わずにできることを模索したつもりだった。もう終わった戦場に敵がいるとは考えなかった。
だから装備も戦闘を意識しておらず、拡張領域にスナイパーライフルが1つ入れてあるだけだ。海中で複数の敵を相手に接近戦などとてもできる装備ではない。
逃げなければ。即座に浮上を開始するも反応が近づいてくる方が早い。近づく物体の外観が視認できる距離にまできた。両腕が異様に大きく、頭部が異様に小さい異形は普通のISではない。シズネはその名前を知らないがゴーレムである。
「くっ! やるしかない……」
逃げるのは無理。相手側に会話の意志はなく、接近をやめない。もはや戦闘は避けられないと判断して銃口を向ける。
ISの実弾射撃武器はPICCを付与する行程の副作用として水中での発砲も可能になっている。しかしそれは水中で有効な武器として使える設計であることを意味しない。
引き金を引いた。水圧に屈することなく銃口から飛び出した銃弾は抵抗の大きな海水を切り裂いて直進する。弾速も悪くない。
だがいつまでも続くものでもない。そもそも射撃攻撃へのPICCの付与はその継続時間が課題とされてきた。大気中でも減衰していくそれが海中で同じだけ続くとは限らない。むしろ短くなって当然。
放たれた銃弾は急激に失速し、ゴーレムに届くことすらなかった。
「引きつけないと――違う! 逃げないと!」
どうすれば当てられるかという思考に陥りかけた自分を叱責して浮上を再開する。当たれば勝てるという保証がないどころかほぼ間違いなく効き目が薄いとわかっている。戦う選択肢はかなぐり捨てなければならない。
問題は逃げきれるかだ。
「きゃっ!」
追いつかれた。ゴーレムのラリアットが右から襲った。海中であってもその威力は地上と変わらない。浮上していたベクトルを変えられ、シズネは錐揉み回転しながら海の底へと落ちていく。
回転しているうちに頭が混乱してきた。どっちが前でどっちが後ろ? 天と地すらもハッキリしない。全方位が見えることと重力や浮力を無視した移動ができるために、当たり前の情報を理解できなくなってしまっている。
まだゴーレムの目はシズネを向いている。慈悲なき無人機はシズネをターゲットとしてロックしている。このまま蹂躙されるのは時間の問題だ。
このままでは負ける。何か手はないのか。そう考えたとき、今の自分がプレイヤーであることを思い出す。
ログアウトすれば――
「嘘……」
仮想世界であっても現実は無情。ログアウトができない。この意味をシズネはヤイバたちを通じてよく知っている。
ここは
「ナナちゃん!」
このまま被害者に戻ってしまっては申し訳がない。消えていった友人にも、行方不明のナナにも、今も戦ってくれているヤイバにも。抗うことをやめてはいけない。混乱していた頭は敵に立ち向かうという意志の元に統一され、周囲の状況をクリアにした。
もうゴーレムの追撃が目の前にまで来ていた。
やられる。少なくともこの攻撃を回避することは不可能だ。そう思考する暇すらもなかった。
一瞬。ほんの一瞬だけ海水が真横に割れた。
遅れて迫っていたはずのゴーレムの腕がスッパリと両断される。シズネにそれ以上近寄ることなくゴーレムは腕を損傷したまま離れていった。
何が起きたのかわからない。
「やはりシズネも来ていましたのね」
事態についていけず困惑しているシズネの後方にいつの間にかISが存在していた。
理解が追いつくと涙が出そうだった。かけられた声音はとても身近だったもの。共にこの世界を生きてきた“仲間”のもの。
「ダメだよ、シズネ。そんな軽装で戦場に出るのは丸裸も同然だよ? とりあえずフルバーストォ!」
シズネを守るように立つIS。その数は3機。うち、1機の重装備を通り越して戦車のようなISから無数の魚雷が発射されてゴーレムたちに殺到する。
「プレイヤーとして来たからにはその利点を最大限利用するってこと。有り合わせの装備で苦心することはないから」
「レミさん。リコさんにカグラさんも」
アカルギのクルーだった3人もISVSに来てくれていた。それもISVSでの戦闘にも順応している。時間のかかってしまった自分よりも早く、現状を打破するためにアカルギに向かっていたのだろう。
だとすると3人もシズネのようにナナの危機を知っていたことになる。
「さーて! さっさと片づけて先に行きましょ!」
レミがかけ声と共に背中のユニットを切り離す。それはゴーレムのように人型を形成してレミ本体からどんどんと離れていく。人型ユニットはそのままゴーレムと取っ組み合いを始めた。
「押さえた! カグラ!」
「わかっています」
動きの止まったゴーレムに近寄るカグラ。両肩の盾を外した打鉄を纏ったその出で立ちは一人の侍。取っ組み合いをしている2機の間に入り込んだ彼女は手にした刀を鞘から抜き放ち、即座に刀を鞘に納めた。
一振り。ただそれだけでゴーレムの上半身と下半身が分割された。
「カグラ、危ない!」
撃破したゴーレムの影から新手がカグラに迫っていた。先に気づいたリコはゴテゴテと大量の装備を配置した巨体で体当たりを敢行する。
巨体と無人機の正面衝突。PICの干渉が互角ならばあとは単純な元の質量差で勝敗が決まる。フルアーマーリコリンの総質量は全身が機械である無人機を相手にしても圧倒的だった。ゴーレムをはね飛ばしてからドヤ顔と共にメガネがキラリーンと光る。
「爆発物を積んでるんだから、ちょっとは自重しなさい!」
「だったらレミが人形を使ってちゃんとカグラを守りなさいよ!」
「あの、二人とも?」
言い争いを始めた2人にカグラが声をかけるも届かない。
「リコ! 簡単に言ってくれてるけど、人形操作はBTビットより難しいのよ!」
「そんな弱音を吐いてる場合じゃない! やらなきゃいけないの!」
「あの……二人とも?」
2人を後目に単独で前に出たカグラがあっさりとゴーレム一体を斬り捨てる。
「護衛するならシズネを頼みます。私は一人で十分ですので」
「過信は禁物だよ!」
「カグラぁ、喧嘩しないから皆で一緒に行こー?」
「……正直、足並みを揃えるのは煩わしいのですが仕方ありません」
シズネの目の前でゴーレムたちが数を減らしていく。チームワークができていないような会話を繰り広げながら行動だけは揃っている。アカルギにいた頃と何も変わらない。
……ああ、この場所が心地よい。
仲間がいる頼もしさはもちろんのこと。途切れなかった絆を感じ取った胸の内が温かくなる。
まだ、前に進める。4人は海の底へと向かっていく。たった4人――正確には3人でゴーレムの部隊を相手にするのはランカーレベルのプレイヤーでも苦労することなのだが、この場にいる誰もがゴーレムの戦闘水準を把握していないために今の結果だけが行動指針となる。自分たちなら敵を押しのけてアカルギを回収できると信じられたのだ。
「見つけました。アカルギです」
事実、シズネは海底に眠るアカルギを発見した。ハイパーセンサーを通して観測できる外観には損傷は見られず、すぐにでも動き出せそうである。
「周囲に敵影なし。中へ行きましょう」
最後のゴーレムを両断したカグラが刀を鞘に納める。戦闘終了を聞いたシズネがアカルギの非常口の前に立つと、レミがその肩を掴んだ。
「待って。念には念を入れて、私の人形を先行させよ?」
「そうですね。周囲にゴーレムがいたのですから、既にアカルギが敵の手に落ちているかもしれません」
言いながらその可能性は低いとシズネは考えている。理由は単純で、敵がアカルギを残しておく必要性が考えにくいからだ。制圧したのならアカルギを持ち帰ればいいし、ただ邪魔なだけなら破壊でもいい。近くに敵がいて、アカルギが無事に残っているということは敵がアカルギに興味がないことを示唆している。
そうは言ってもレミの提案を却下してまでシズネが先行する理由は全くない。そもそも間違っていない。レミが先頭でカグラ、シズネ、リコの順でアカルギの非常口をくぐる。
「あ、中には水が入ってこないんだ」
船内と海中は見えない壁で断絶されているようで船内へ海水が浸入することはなかった。久しぶりに入ったアカルギの船内は薄暗いけれども自分たちの知るものと変わってない。先頭のレミも慣れた様子でブリッジを目指して歩いていく。
「まだ1週間も経ってないんだよねぇ……」
この艦に居たのが既に遠い過去のように感じられるのか、レミが船内通路を手で撫でながら懐かしんでいる。
「実感が湧きませんわね。ここにゲームのプレイヤーとして立っていることも含めてですが」
カグラも足を止めて低い天井を見上げる。仮想世界の住人だった頃とプレイヤーとして見る景色の違いが全くわからない。だからこそ、違うところに意識が向いてしまうのも無理はなく――
「他の皆はもういないんだよね……」
リコの空気を呼んでいない発言を咎める者は誰もいなかった。
救われなかった者たちばかりだった。この場の4人が無事に現実に帰ったのはただ運が良かっただけのこと。本人たちは理由を知らされていないが、現実のIllに襲われたタイミングが遅かったというだけの単純な話である。ナナと行動を共にしていたシズネはともかく、レミたち3人は少しでもタイミングがズレればトモキたちと同じ道を辿っていた。
「まだ一人居ることだけは忘れちゃダメです。私たちはこの仮想世界から5人で生還しないといけません」
「わかってるよ、シズネ」
「ナナが一番頑張ってたんだから、ご褒美がないとね」
「現実に帰ってから改めて剣を交えるという約束もしましたし」
まだナナがいる。シズネの言葉に他の3人も力強く同調する。現実に生還した後も変わらず続く仲間との絆が彼女たちを突き動かしている。
通路上での小休止も終わり、また歩き出した。ブリッジに着いたらさっさとアカルギを起動して帰ろう。誰もがそう考えていたときだった――
先行させていたレミのBTパペットに天井からバケツをひっくり返したかのような水が降り注いだ。
まさかアカルギが水漏れを起こしたのか? レミの思考はあくまで日常的なものから逸脱しておらず、ISVSに最適化されていない。天井に穴が開くことなく、大量の水が突然降ってくるなど、自然な現象ではないというのに。
「下がって!」
悲鳴に近いカグラの叫びでレミはようやく我に返る。水を被ったBTパペットを操作できないことに気づき、改めてBTパペットの現状を視認した。
「水……じゃない?」
液体の散る音から水だと思いこんでいた。しかしその水は床に広がることなく、そればかりかBTパペットを覆い尽くしたまま形を維持している。
粘性の高い液体ということか。否。その流動性は普通の水と変わらない。つまり、BTパペットを覆っている流体は自ら意志を持ってまとわりついている。
「何なの、コレ!?」
「落ち着いて、レミ。艦内に敵が潜んでいるのかも」
奇妙な水の塊に目がいってしまうからこそ気を引き締めろとカグラが忠告する。
「うーむ……水を動かすという武器にはアクア・クリスタルがあるけど――」
最後尾のリコが前に出て、手にしたグレネードランチャーを躊躇いなくぶっ放す。
着弾。通路における爆発の行き場は限定的。
結果、肌を裂きかねない衝撃波が全員を襲った。
「ちょっと! こんな狭い場所でそんなもの撃たないで!」
「ISが守ってくれるって。無駄な心配よりも前を見てた方がいいよ」
レミの抗議をスルーしたリコの視線は煙の奥へ向いたまま。
至近距離の爆発があったというのに、謎の水もBTパペットも健在。
おもむろにメガネをくいっと上げて、リコは似合わない悩み顔を披露した。
「爆発で拡散しない。つまり、BTナノマシンの集合体じゃないってことかぁ」
「それってどういうことですか?」
クーという情報源が近くにいないシズネは基本的にISVSの素人である。過去、ヤイバにレールガンについて語ったのもクーの知識があってこそだ。シズネは他の3人もそうだと思いこんでいたのだが、何故かリコは妙に詳しい。彼女らしくない険しい表情を崩さずに口が高速で動く。
「アクア・クリスタルは水に擬態してるだけで、本質的には宙に浮いているBTナノマシンなの。BTナノマシンは銃弾などの点や線の攻撃では破壊されにくいけど、爆発のような面の攻撃には脆くて、グレランやミサイルが近くで炸裂するとたとえ壊されなくても遠くにとばされ――」
「いえ、そういうことが聞きたいのでなくてですね――」
「アクア・クリスタルであることの否定が何につながるか。私も理解してませんわね。説明願います」
落ち着いた声色のカグラであるが、額には冷や汗が滲んでいる。直感に等しい漠然とした嫌な予感が頭から離れない。どのような形でもいいからこのモヤモヤとした不安を拭い去りたかった。
饒舌だったリコはしばし言葉を失う。ISVSを予習してきている、根は生真面目な彼女だけが理解できているのは異常ということだけ。その重い口を開き、3人の仲間に伝えるのは一言だ。
「未知そのもの、ってことだよ」
結局のところ、わからない。しかしながら、同じ言葉でも知識のない人間とそうでない人間で意味合いが異なってくる。
知らないのではなく、いないはずの存在なのである。
「あ、私の人形が……」
事態はさらに悪化する。意志を持って動く液体の中でBTパペットがどろどろに溶解し、ついには消えてなくなってしまう。
「溶かした? まるでRPGに出てくるスライムみたいですね」
全員の中で一番冷静なシズネが自分の持っている印象を簡単に言葉にする。
スライムという単語を出したことがきっかけだったのだろうか――
『我は
艦内に声が響く。抑揚の小さい、人間とはほど遠い機械的な音声が名乗りを上げている。状況的に敵のものだろうと推測された。
敵影らしい敵影はないままだ。敵の声は艦内放送によるものか、それとも目の前のスライムから発された声だろうか。いずれにせよ、ブリッジへと向かうには通路に立ちふさがっているスライムを突破しなくてはならない状況に変わりない。
「レミは下がってください! リコ、爆弾以外の攻撃手段は?」
「とりあえずテキトーにライフルで発砲。やっぱダメ。EN武器はないけど火炎放射器ならあるよ?」
「なんでそんなの持ってるの!? ISに火って効かないでしょ!?」
ツッコミを入れつつレミは慌ててカグラと入れ替わるように後方へ。逆に後方のリコがカグラの前に出て、火炎放射器を構える。
この火炎放射器は一応企業が製作した試作品であり、IS用の装備ではある。ただし製作は元玩具メーカーのハヅキ社。兵器としてでなくゲームの一部として設計されているそれは見た目だけで造られていることもあったりする。要するに、ISのシールドバリアに阻まれてダメージを一切与えられない。
「ファイヤーッ!!」
水の塊に向けて炎が噴出される。通路が熱気に包まれ、全員の視界が著しく歪む。
しかし、誰一人として熱いとは感じない。つまりISには効き目がない。
ジュッと炎が消える音も水が蒸発する音も聞こえず、むしろ無音のまま見た目だけの炎が照射され続ける。アカルギ自体もシールドバリアを張っているために燃え移ることはなく、もはや単なる立体映像でしかなかった。
「ダメだこりゃ。無駄だったね」
「いえ。少なくとも今のでアカルギの機能が生きていることを確認できました」
「おー! 言われてみればそっか! 流石、シズネ!」
正体不明な存在を前にしてシズネは冷静だった。その落ち着いた彼女の存在が浮き足立ちつつあった他3人をも通常テンションに引き戻していく。
「レミさんの装備は?」
「BTパペットは自動修復にすごく時間がかかるし、容量も食ってるから他の装備もない。今、一番役立たずよ」
「カグラさん――は刀しかありませんね」
「そうですが、確認することなく断言されたのは少々気になります」
シズネ自身の装備はスナイパーライフルのみ。残るリコは武器を多数所持しているが持っている武器全てが効かなかった。
「逃げましょう」
こうなると判断は決まっている。戦うだけ無駄であり、敗北を容認して挑みかかるのは危険。戦闘の指揮の経験があったシズネは撤退の判断も遅くなかった。
誰も意義を唱えない。以前と違ってプレイヤーという身分であっても、この世界を単なる作り物だと楽観視するような者は誰もいない。むしろ最近までこの世界を現実として生きていた彼女たちだからこそ、危機には敏感であった。
撤退すると決めてからの移動に無駄はなく、スライム状の敵も追ってくる気配がなかった。敵の様子を観察していたシズネは残念そうに口をすぼめる。
「どうしたの、シズネ? 変な顔して」
「もし追ってくるのなら撤退作戦を変更してブリッジを目指したのですが、入り口で待ちかまえられているとなると素直に撤退するしかありませんね」
「意外とシズネって往生際が悪そうだよね」
「当然です。私はナナちゃんとヤイバくんから『諦めないこと』を教わりましたから」
目映い笑顔で胸を張る。そうしたシズネの表情こそがナナとヤイバの2人から貰ったもの。今の世界はまだ希望が残っていて、道半ばでへこたれるには勿体ない。だから笑って前に進むのだ。
明るさは伝搬する。未知の敵から逃げているという緊迫した状況であっても笑顔があった。自分たちはよくやれているのだと、気持ちまで大きく感じられた。
撤退の先陣を切っているのは最も重装備なリコ。もしゴーレムと鉢合わせしても彼女ならば正面から撃ち合える。進行方向の索敵はシズネも自分の目で行っていたが、基本的に進行スピードはリコ任せだ。
未だアカルギの中。慣れた様子で出口へと向かうリコは目の前にふさがる扉に手をかけた。
そう、扉は閉まっている……
「リコさんっ!? すぐに離れ――」
「え……?」
来た道を戻ってきたはず。わざわざ扉を閉めてはこなかった。だから行く手を阻む扉などあるわけがなかった。
何よりもアカルギで長く過ごしてきた記憶が違和感を訴える。そんな場所に扉などなかったはずなのだ。
「やだ……何これ……」
リコの触れた扉がぐにゃりと曲がり、まとわりついてくる。反射的に右手を振り払ったが、柔軟性に富みすぎている物質は千切れることなく伸びるだけ。
この扉だったものの正体は先ほどのスライムと同一と推測された。
「このっ! このっ! 離れて!」
右腕を振り回しても一向に千切れる気配がない。暴れるリコの意に背いて、スライムはリコの右手を伝って徐々に体へと向かってくる。ISの右手パーツはもう溶かされており、生身のリコの右手が露出していた。
「ひぃっ!?」
生理的な嫌悪感からリコは左手の銃を右手に向けて乱射する。しかし銃弾が謎の物質に命中してもズブズブと内部へ取り込まれるだけでまるで効いていない。
攻撃に反応した液状物質は急速に動きを早め、瞬く間にリコの全身を覆い隠してしまった。彼女の声は聞こえてこない。ISの通信もつながらない。
「リコっ!」
「ダメですっ!」
リコからスライムを剥がそうとしたレミをカグラが後ろから羽交い締めにする。
「離して、カグラ! このままじゃリコが――」
「今、避けるべきは全滅ですわ! お二人は逃げるか身を隠してくださいませ!」
レミをシズネの方へ投げ飛ばすと、カグラは腰の刀に手をかけてリコの元へと歩く。
全滅すべきでないと訴えたその直後、理に適わぬ行動をとる。
その理由は簡単だ。リコを一人だけにすることなどできるはずもない。
「……必ず戻ります」
「シズネ、離して! 私も残る!」
シズネはレミを抱えた状態で敵影を確認できない通路へと走っていった。
無事に逃げられる保証はない。扉に擬態して待ち伏せていたことから敵のスライムが単体でないことだけは確定していて、ここの他に潜んでいないだなどと楽観視できない。だから無事でいてくれることを祈るしかカグラにはできなかった。
「……人を守る剣も人を殺す剣も学んできましたが、化け物退治も学んでおくべきでした」
水の怪物を見据える瞳にはまだ闘志が宿っている。しかし額にうっすらと光る冷や汗が胸中の不安を如実に表していた。
武器は刀のみ。他の武器を選ぶこともできたが所詮は付け焼き刃。使わない武器を所有するだなどという雑念を持ち込むのは逆にマイナスであり、己の
「歴史は人が作るもの。過去の剣術に前例がないのならば、私が一人目になればいい。そうでしょう?」
何もない空間に突如一振りの刀が出現した。そう錯覚するほどの神速を以て鞘から抜き放たれた一閃は刀の届かぬ位置にある水塊を両断し、霧散させる。
IS用装備としての刀は物理ブレードに分類される。ブリュンヒルデの活躍から一時期の流行りになっていた格闘武器である。しかしENブレードが普及してきた現在のISVSにおいて、ENブレードとぶつかり合うと一方的に武器を破壊される物理ブレードは弱武器であるという扱いを受け始めている。
格闘戦をするだけならENブレードでいい。アーマーブレイクを狙うにしてもシールドピアースほどの劇的な効果は狙えない。物理ブレードは所詮PICCを乗せただけの棒きれのようなもの。デメリットの少ない扱いやすさだけで使われているのが常である。
だが弱武器だなどと誤解もいいところだ。シンプル故に見逃されがちな裏技がある。ISが物理ブレードに付与するPICCがイメージインターフェースを通じて形作られていることをカグラは本能で理解していた。
「IS用剣術といったところでしょう。やればできるものですね」
抜刀とともに広がったPICCの力場が長大な刃となってスライムを襲った。厳密には攻撃ではない。剣を振るった際の風圧のようなものだ。それでスライムが消えた。つまり、スライムの体を動かしている原理がPIC由来のものということとなる。
スライムが消え、囚われていたリコが解放された。ISはおろか、ISスーツもメガネも失っているが体は五体無事に見える。意識は飛んでいて、支えを失ったリコが倒れる寸前にカグラが彼女を抱き抱えた。
「よし。早くシズネたちと合流しないと――」
想定よりも上手く事が運び、全員で逃げられるかもしれない。そんな希望が見えたときだった。
息が詰まるくらいにジメジメとした湿気が周囲を満たしている。肌にまとわりつくような不快感が全身を包み込んでいる。
「そ……んな……まさか、水蒸気に……」
まるで粘土の中にいると錯覚するくらいに体が動かせない。腕を見れば、打鉄の装甲が虫食い状態となっていて、穴は徐々に広がっていた。腰に取り付けていた鞘が床に落下し、衝撃だけでバラバラと砂のように崩れてしまう。
再び水蒸気から液体へとスライムが形を取り戻していく。既にカグラの四肢を押さえ込んでいて、ゆっくりと上へと目指してスライムが這っていく。
もはや詰み。刀を失った剣士にできることはない。
「無念ですね」
体の芯まで底冷えさせてくるヒヤリとした感触が顔をも覆い始める。痛みはないが温度以外の感覚が麻痺している。動くことはできず、抗いきれない眠気が目蓋を強制的に閉じさせた。
寒い……
全身がスライムに埋まったカグラの意識が途絶える。
◆◇◆―――◆◇◆
冬休み中だからだろうか。既に日が変わっている深夜だというのにISVSの東京ロビーには人が溢れかえっていた。流石にゲーセンが開いているような時間じゃないから、十中八九、この場にいるのは家庭用のISVS所持者ということだろう。
普段はこの環境だと藍越勢の連中は誰もいないんだけど、今日は俺の隣にリンの姿がある。まだロビーの中であるにもかかわらず、既に彼女は甲龍を展開して臨戦態勢だった。
「意外と落ち着いてるのね、ヤイバ」
「経験上、俺ががむしゃらに飛び出すよりもラピスが探す方が確実で早いからな。今は待つのが正解なんだ」
何回も考えなしに行動して失敗してきた。上手くいったときもあるけど、それはおそらく偶然じゃなくて束さんが手助けしてくれたからだ。
……束さん。いや、今は考えないでおこう。
「ふーん。なんか変わったよね、アンタ」
「変わった? 俺が?」
「うん。前は『あたしがなんとかしなきゃ!』だったんだけど、今は『あたしも力になりたい』になってる……まだなれてないけどさ」
「なんだよ、それ。変わったのは俺じゃなくてリンじゃないのか?」
内面の話だけでなく、よくよく見てみればリンのISである甲龍の外観が若干変わっている。腕と肩、背中はあまり変わっていないが、脚部装甲に追加パーツがあった。
「ヤイバももう立派なISVSプレイヤーね。こんな些細な変化にも気づくなんて」
俺の視線が足にいっていたからか。リンはさっきの俺の言葉を装備の話だと受け取ってしまう。まあ、別にいいけど。
「実はね、クリスマスにゲーセンでリアルファイトがあって――」
「待て。俺はその話をどう受け止めればいいんだ?」
「いつも通りにバカどもを蹴り倒してて思いついたんだけど――」
「いつものことだけど! たしかにいつものことだけど、生身の喧嘩は自重しよう! 暴力よくない!」
「ISって手だけしか使っちゃいけない決まりなんてないじゃない? だから得意な足技も生かした方が戦闘の幅も広がるかなって思ったの」
ツッコミ全スルーでリンは言い切った。
とりあえず言いたいことはわかった。足にも衝撃砲を付けたってわけだ。それで何が変わるのか俺にはわからないけども。
「ヤイバは装備を変えないわね。こだわりでもあるの?」
「昔から不器用だからな。一つの武器でいかに勝つかを考える方が性に合ってる」
「あたしはそう思わないけど? 昔からアンタは一つのことを成し遂げるためにありとあらゆるものを利用してきたじゃない」
「おいおい、それじゃまるで悪人みたいだろ。リンは俺の何を見てきたんだよ」
「誘拐」
ああ、なるほど。俺が悪人ってのは全く否定できない。
「クラスメイトを篠ノ之流とかいう武術でボッコボコにしてたこともあったわね」
「うぐ……あのときは俺もまだ子供だったんだ」
「あたしはそう思わない。アンタは一度として自分の力に酔って人を傷つけたりなんかしてない。アンタが誰かを殴るのは、誰かが泣いていたからよ」
唐突な手の平返しと共にニカッと眩しい笑みをぶつけられた俺は何も言えずに照れくさくなってしまった。
俺としてはそれほど褒められるようなことをしてきた自覚はない。だけど、リンが言うならきっとそれは俺の良いところなんだと受け取れる。
「やっぱりリンも変わったよ。前はそこまでハッキリ言ってくれなかった」
「まだまだ。あたしの本気はナナが帰ってくるまでお預けを食らってるから。ちゃんと覚悟してなさいよ」
「怖い怖い」
茶化すように言った。きっとそのときが来れば俺は苦悩するだろうけど、今の俺にとってその時間はとても待ち遠しい。きっとそこには楽しい世界が広がっているだろうから。
「……お二人とも、楽しそうですわね」
リンと駄弁っているところに心なしか口を尖らせたラピスもやってきた。ISVSに入ってからずっと彼女はシズネさんの足跡を追ってくれていたのだが、俺たちのところまでやってきたということは――
「見つかったのか!?」
「ええ。たまたまロビーを出て行くシズネさんを目撃した人のコアの
……ラピスの星霜真理でISVSにおける俺の過去の行動まで見られてしまう事実が発覚したけれど、この際それは置いておく。
問題はシズネさんの向かった先。そして、他にも気になる点がある。
「ロビーを出て行った?」
一般プレイヤーはロビーの外にでることができない。ゲームのシステムというわけでなく、企業らがISVSを運営する上での取り決めとして、一般プレイヤーは転送装置でしか外に出ることが許されていなかったはずだ。
「わたくしもそこが気になって調べて参りました。どうやら警備のリミテッドを周辺の哨戒に全て駆り出していて、内部プレイヤーの監視は放棄しているようですわ」
「どうしてそんなことを……?」
「おそらくは千冬さんが見つけたゴーレム対策の一環と思われますわ。日本国内に想像結晶の基地を作られてはたまりませんし」
つまり、シズネさんが外に出て行くことができたのは偶然ということになる。
「わざわざ出口から外に出たくらいだ。シズネさんの向かった先は企業の設定した転送ポイント以外ってことか」
「そうとは限りませんわ。転送装置を使わなかった理由は断定できませんが推測はできます。彼女たちは転送装置を使えば死ぬと言われていました。プレイヤーになったからと言ってすぐに順応していないかもしれません」
「で、向かった先は?」
「実は現在、信号をロストしている状況です。コア・ネットワークに残されていた最新の足取りによると、彼女を見失った地点は“北緯83°、東経36°”でした」
聞き覚えのある座標。それは北極海にあった亡国機業の要塞の座標に他ならない。シズネさんがそこへ向かった理由はわかりやすい。ナナが消息を絶った場所だからだろう。
「では水中戦を想定して準備をお願いします」
「ん? 水中戦?」
「はい。シズネさんの信号が消えたのは高度から考えて海中であると思われます。おそらくは沈んだアカルギへと向かったのでしょう」
あ、そうか。アカルギが沈んだと聞いてたから勝手に使用できないと思ってたけど、別に破壊されたわけじゃないのか。もしかしたらシズネさんには転送装置が頭になくて、この世界での足を手に入れるためにアカルギを手に入れようとしているのかもしれない。
でもってそこで消息が途絶えたとなると、海中で何かしらのトラブルがあったことになる。考えられるトラブルはIllとの遭遇くらいだ。だから水中で戦える準備をしておくのは当然の流れといえる。
「じゃあ、白式はやめて、簪さんの構成を真似た打鉄でいくか」
白式以外を使ってみようとして雪羅を装備した打鉄を練習していた。決して水中戦が得意ではないけど白式よりはやれることがある装備だろう。
俺が装備変更をしていると、静かにしていたリンが口を挟んでくる。
「なーんだ。ヤイバも違う装備があるんじゃない」
「本当は白式でいきたいんだけど、雪片弐型だけで水中戦したことがあって、思いの外きつかったんだよ」
「いや、アンタがしたことのある水中戦って伊勢怪人との練習試合だけでしょ? あれが相手じゃ水中用装備を整えても勝つのは難しいわよ」
あれほど勝負になってない試合は初めてだったなぁ。なんというか、ゲームのジャンルが違うって感じ。雪片弐型はまともに刃が出てこないし、魚雷は避けられないしで散々だった。
「とりあえず装備はこれでいくか。ENブレードよりは物理ブレードの方が使いやすいし、雪羅の方もENシールドなら水中でも出番があるだろ」
「効果の程はぶっつけ本番でってわけね」
「まあ、俺の付け焼き刃なんかよりもリンの衝撃砲の方が頼れる。期待してるぜ」
「もちろんアンタより戦える自信ならあるけど……敵にタイマンで勝てるかは相手次第よ? あたしでも伊勢怪人には歯が立ちそうにないから」
それは俺も気にしてるところだ。もし相手が水中戦に特化したIllだったりしたなら、伊勢怪人さんレベルの相手であることを覚悟しておくべき。今の俺たち3人にどれだけの勝ち目があるのだろうか……
「伊勢怪人で思い出したんだけど、あたしら以外に誰か来てくれないの?」
「既に連絡を試みましたが時間がかかりそうですわね。苦しいところですが、わたくしたちのみで向かうべきでしょう」
転送の準備が完了し、ラピスが俺たちをゲートまで先導していく。俺としても、行き先が確定していて時間もない現状では援軍の到着を待てそうにない。
門をくぐる。目の前が真っ白になったかと思えば、一瞬のうちに眼下に青い海が広がっていた。この間の戦闘のときから変わらず寒い土地である証拠と主張している氷の大地以外には陸地が見えない。
「あの要塞……ヴィーグリーズだったか? あれはどこにいったんだ?」
「今はそんなことを気にしてる場合じゃないでしょ! さっさと行くわよ!」
リンの言うとおりだ。今は少々の疑問など捨て置いてシズネさんの元へと向かわないといけない。
シズネさんは北極海までISで飛んでくる必要があった。そのタイムラグがあるから、まだシズネさんが海の中でIllと対峙している可能性はある。
海中に潜る。俺とリンが先に潜行していき、ラピスはやや浅い深度から周囲に目を光らせる。
暗い。知識としては知ってるけど、生身では潜れない深さまで来ると光が届かないというのは本当のことだった。走ればすぐくらいの直線距離なのに、人類を拒絶する世界が広がっている。
「妙に静かだ」
生物がいないISVSの世界だから静かなのは当たり前。問題は現在進行形で戦闘が行われているはずだという希望的観測の元に俺たちが動いているということだ。光は遮っていても音は十二分に伝わる。ISの戦闘をしているのなら、もう戦闘音が耳に届いていてもおかしくない。
「Illの領域に突入……ワールドパージ内で活動中のISコアを3つ確認しましたわ」
「3つ? 1つはシズネさんとして、他2つは?」
「3つ中2つは固まっていて、シズネさんと一緒にレミさんが居るようです」
「え……?」
レミさんってたしかアカルギの操縦を担当してたツムギのメンバーだった子だよな? 彼女もまたシズネさんと同じようにまだ病院から動けない体のはずなのに、どうしてISVSに来てるんだ?
「なぜ、という議論は時間の無駄ですのでやめておきますわ。救出対象が増えたことに変わりありません」
「そうだな。で、残りの1つは誰の?」
「ほぼ間違いなく敵ですわ」
もしかしたら残りのアカルギクルー二人の内の一人かもしれない。
そう思考が行き着いた俺は先入観で物事を考えていた。
星霜真理に映るものはISのみ。Illが敵ならば敵の姿を確認できないものだと。
「フレーム等の機体情報が既存のものではありませんし、操縦者情報がありません。にもかかわらず、ISのコア・ネットワークにつながっていて、星霜真理は当該個体をISと判断しています」
未知の機体であり、人が乗っておらず、Illと同じワールドパージを保有しているISである。
この条件に当てはまる敵は今のところ2体確認できている。
「“ギドの食料庫”に出てきた奴と同じ……」
「そうですわ。わたくしたちが遭遇した槍を持ったゴーレムに、楯無さんの遭遇したというエナジーボムを多用するゴーレム。共に自らを“フォビア”と名乗っていた特殊な個体ですわね。複数種の存在を確認していることから彩華さんたちはフォビアシリーズと呼称しているようです」
フォビアシリーズ。Illの性質を持っているゴーレム、か。
Illとゴーレムの両方の技術を持っているとなると、いよいよ以て束さん以外にできない芸当になってる。
……もう否定する余地はないのかな。
「ヤイバ。今は目の前の戦いに集中して」
「すまん、リン。ラピス、シズネさんたちと敵の位置は近いのか?」
「直線距離にして500mほど。敵の深度はシズネさんたちよりもさらに50mほど下ですわ」
通常のIS戦闘だと短距離の部類だけど、それは大気中で障害物がないときの話だ。この深海での戦闘が地上と同じとは限らない。
「もしかして今は戦闘状態にない?」
「安易にそうだと断言はできませんが、互いに移動せず、全員にENの急激な変化を確認できませんのでわたくしたちの想像する戦闘は起きていませんわね。ただ、レミさんの機体は装備を損傷しているようですので戦闘がなかったわけではないとも言えますわ」
つまり、今は膠着状態ということか。もしくはシズネさんたちが隠れていて、敵がBT使いのようにその場を動かずに捜索しているのかもしれない。
いずれにせよ俺たちは間に合った。
「作戦を立てよう。この海域にはフォビアシリーズと思われる敵が存在していて、その戦闘能力は未知数。俺たちの目的はシズネさんたちを連れ帰ること」
「できることなら戦闘を避けたいところよね。あの槍の奴みたいな敵を相手にする余裕なんてないわよ」
たしかに今回はアーリィさんがいない。それより前に現れたというフォビアシリーズも楯無さんがギリギリで勝利したという。格上相手という認識を忘れちゃいけない。
「海底の探索を終えましたわ。シズネさんたちがいるのは沈んだアカルギの船内。敵はアカルギの外の岩陰に潜んでいます」
ラピスから位置情報が送られてきた。俺たちから見た敵の位置はシズネさんたちを挟んで反対側になっている。
「よし。さっさとアカルギに入ろう」
「そうね。あたしらに気づいたときの敵の行動が読めないけど、敵が邪魔になりそうにない内に動きましょ」
敵がこちらに気づいていようとそうでなかろうとあまり関係ない。敵を先に倒すという選択が危険であるという前提で話を進めると、まず俺たちがすべき行動はシズネさんたちとの合流以外にない。
誰からの異論もなし。だったら即動く。暗い暗い海の奈落へと、俺たちは忍びながら落ちていく。
「……ちょっと、念には念を入れることにするわ」
できれば敵に気づかれぬように、と皆が自然と黙っていた中で突然にリンがそんなことを呟いた。俺がその意図に気づくよりも早く、スピードを早めたリンがどんどんと先に降りていく。
アカルギが近づいてきた。そんなときだった。先行していたリンの下降が急激に減速する。
「どうした、リン? 何かあったのか?」
「止まりなさい、ヤイバ! なんかこの辺り、変よ!」
辛うじて見えるリンの姿は何もないところで藻掻いているようだった。まるで足がつって溺れているよう。しかしISを使っていてそんなことはありえない。
「このォ!」
リンの脚部衝撃砲が炸裂する。ぼんやりとしか見えない俺の目にはリンが何もない水中に向かって暴れているようにしか映らない。
まるで幻覚でも見ているかのよう。まさか――
「平石ハバヤの“虚言狂騒”か!?」
「いえ、コア・ネットワークからの干渉はありません!」
「リン、何が起きてるっ!?」
「よくわかんない! この水、まとわりついてくるのよっ!」
水がまとわりついてくる? ハバヤの使う幻でもない?
つまり、水を模した兵器ということ。似たような装備は楯無さんが使っている。
「アクア・クリスタル!?」
「おそらくは。ただ、全く同じと判断するのは危険ですわ」
「リン! とりあえず離れろ!」
「――無理っ! 水に引っ張られて上手く動けない!」
動かない敵なのだからと油断していた。罠を使ってくることも考慮すべきだった。
「今、助けるぞ、リン!」
「来ちゃダメ! アンタまで動けなくなったら意味がないでしょうが!」
くそっ! また俺は繰り返してるのか?
誰かを助けに来て、リンを危険な目に遭わせているのか?
もうそんなのは嫌だと思っているのに。
「あのときとは違うわ、ヤイバ。今日のあたしはアンタの身代わりなんかじゃない。だって、まだアンタが動けるんだもの」
目の前でリンのISの足が溶けてなくなった。左手も水に捕まっているらしく、全く動かせていない。そんな危機的状況のリンを置いて、俺に何をしろというのか……
「ラピス。あたしが道を切り開くからあとは任せる」
「……わかりましたわ」
俺を差し置いた二人のやりとり。そして――
唯一自由だったリンの右手が赤々しく燃えるような輝きを放つ。
「“
リンの単一仕様能力“火輪咆哮”は受けたダメージを衝撃砲の威力に変換する特定武器強化系イレギュラーブート。受けたダメージとは絶対防御に使われたストックエネルギーの他に破壊された装甲なども含む。
甲龍の足を奪われた今、リンの右手の崩拳にはまるで炎が宿っていると錯覚するほどの高エネルギーが集中している。深海の暗闇を手に収まるサイズの小さな太陽が照らし出した。
何もない。海底に至るまで透き通るような海水が続くばかりで、異物はアカルギくらいしかなかった。まとわりついているという水は正しく水そのものであり、俺には普通の海水と区別できない。
振りかざした小さき太陽が正面に突き出される。何かを狙ったものとは思えない。しかしその拳は確実に何かを捉えていた。
「よっし、手応えあり! ラピスっ!」
「粘度の差異を観測。ナノマシンを確認。色づけして視界共有しますわ」
ラピスから送られてきたデータを反映。打鉄を通した視界に特殊なフィルターがかかり、海水の中に潜んでいる謎の水が全て赤く表示される。
「な……こんな広いのかよ……」
一瞬で視界が真っ赤に染まった。謎の水はアカルギ全体を覆っていてもなお有り余っている。この深海自体が敵であるとそう思わざるを得ないほどの圧倒的な水量が周辺を支配していた。
だが今は、今だけは敵の支配領域に大穴が開いている。リンの拳が突き出された直線上に、俺たちが通れるほどのトンネルが完成していて、アカルギまでつながっていた。
「行きなさい、ヤイバ!」
「くっ……」
ここで足を止めるなんてできない。リンを見捨てるに等しい行為かもしれないけど、もしここで止まったら、それこそ俺はリンを裏切ることになる。
時間と共にトンネルは狭くなっていく。いかにISといえど、水中で空中と同じようには移動できない。イグニッションブーストの感覚が掴めず、PICの補助があるだけの水泳だった。
あと20mというところで肩のシールドが赤い水と接触した。即座に切り捨てて前に進み続けるが、あと少しが届かない。
「ヤイバさん、歯を食いしばってください!」
「え?」
背中に強い衝撃が加わる。打鉄は爆発によるダメージを報告してきた。損傷は軽微であり、俺の体は爆発によって発生した海流に乗ることで急加速する。
この爆発の正体はBTミサイル。つまり、撃ったのは――
「ラピスっ!」
「作戦を変更! アカルギを任せますわ、ヤイバさんっ!」
なぜラピスが俺を攻撃したのかなんて考えるまでもない。俺一人だけでもアカルギに届かせようとした苦肉の策だった。
流されるままにアカルギの入り口に到着。爆発で一時的に広がった赤い水のトンネルが再び狭まり始め、もう時間がない。左手の雪羅をクローモードで展開して扉を強引に突き破り、中に侵入を果たす。アカルギの内部に海水はなく、突き破った扉のあった場所を境にして海水の浸入をシールドが阻んでいる。
「どうなった!?」
通ってきた道を振り返る。既に入り口の外は赤い水で満たされていて、
後ろをついてきていたラピスはいない。通信もつながらない。今は彼女たちが無事であることを祈ることしかできない。
「……シズネさんを探そう」
当初の予定通り、シズネさんと合流する。事前にラピスから受け取っていた位置情報を頼りにすれば見つけること自体は難しくないだろう。
問題はその後。アカルギに入ることができても、これでは俺も閉じこめられただけじゃないか?
いや、ラピスが勝算もなく俺を送り出したとは思えない。彼女は作戦を変更と言った。だから俺はその内容を自分で考えないといけない。
「この角を曲がれば居るはず」
指定された座標に到達。アカルギの船室が連なっている通路で、そのうちの一つの部屋にシズネさんがいる。
具体的にどの部屋かはわからない。けどまあ、こういうときはテキトーに開けていくのがセオリーだろう。
まず一つ目の扉を開ける。
ズドン。
俺の眉間に銃弾が突き刺さった。
「あ……ヤイバくん」
いかにも『やっちまった』と顔に書いてあるシズネさんと目が合った。彼女の手にしているスナイパーライフルの銃口はもちろん俺の頭へと向けられている。
……良かった。俺は間に合ったようだ。
「一発だけなら誤射かもしれません」
「いや、撃った本人なんだから誤射だって断言してくれよ」
冷静沈着なシズネさんがこちらを確認せずに攻撃してきた。この事実だけでどれだけ追いつめられてたのかが伝わってくる。予想通り、シズネさんたちは隠れていたんだ。
顔には出してないけど、取り乱してるのだと思う。だから、考えたくなかった可能性も考慮する必要が出てきた。
「他にはいないのか?」
「リコさんとカグラさんが……」
「あの化け物にやられたのか」
「……たぶん」
やっぱりレミさんだけじゃなかったか。脱出は絶望的であり、星霜真理で確認できてないってことから二人は敵にやられたと言っていいだろう。
敵はフォビアシリーズという新手。しかし特性は従来のIllのものと類似している。だからプレイヤーを取り込んだのだとしても、元凶さえ絶てば帰ってくる。
「ああ、そういうことなのか、ラピス」
作戦の変更。つまりはシズネさんたちを救出して逃げ帰るという作戦目的から変更しようという話だ。だからこそリンもラピス自身も捨て駒にしてでも俺をここまで辿り着かせた。
この作戦は既に背水の陣。引き返す道はなく、勝利でしか未来を得られない。
「どうしました?」
「聞きたいんだけどさ。アカルギって今も動かせるのか?」
「故障はしてないと思う。起動には最低3人必要だけど」
実際に操縦を担当していたレミさんから見てもアカルギは正常な状態のようだ。起動条件である最低人数の3人は俺を含めればクリアしてる。
「
「それはいいのですが、ヤイバくん。ブリッジの入り口には敵がいます」
「水の化け物?」
「はい」
さっき見た感じだとあの水の化け物はアカルギの中に入ってこようとしてなかったけど、内部に入り込んでるのもあるのか。てっきり内部への浸入ができないものだと思いこんでたけど、実際の事情は違うようだ。
人型をしていない見た目に先入観を持ってた。もしかしなくても敵には知性がある。隠れているシズネさんたちを必要以上に追いかけなかったのにも理由があったとしたら、その狙いは――生き餌か。アカルギは籠なんだろう。
「とりあえず案内してくれ」
「わ、わかりました」
言葉が揺れている。本心は行きたくないのだと言っている。そうわかっていても俺は二人を連れてアカルギのブリッジに行かなくてはならない。
歩く距離は大してなかった。案内された先の通路にはいかにも異物と思える水の塊が宙に浮いている。
「攻撃は試してみた?」
「リコが銃とかグレランで攻撃したけど全く効いてなかった。カグラの刀もたぶん効かなかったんだと思う」
「俺の
「誰も持ってなかったから試してもない」
「OK。だったらこいつをぶっ放すとするか!」
左手の掌を開く。複合装備“雪羅”の射撃形態は荷電粒子砲。アカルギに多少のダメージが入ってもいいと割り切って、水の排除に全力を尽くす。
チャージ完了。照準の仕方は未だによくわからんけど、この距離でなら外さないだろう。
「二人とも、発射と同時にブリッジに駆け込むつもりでいてくれ」
本来は効き目を確認してから慎重に行動したいところ。しかし、2回目は相手も対策を立ててくる可能性がある。1度の成功を無駄にすることはできない。
さっきリンがやれた。衝撃砲はEN武器とは違うけど、同じことができるはず。たとえ楽観視でも俺はこの可能性に賭けるだけだ。
「いくぞっ!」
荷電粒子砲を発射。撃ち終わらない内に俺は前へと体を進ませる。
通路の壁面を焼きながら直進する光は真ん中に居座っていた水の化け物を突き破る。
消滅はさせられない。それでも穴を開けることくらいはできた。
「身を低くして走れ!」
低空を滑るようにして飛行する。イグニッションブーストを使える俺は余裕で突破して入り口に到達。扉を開いて後続の二人が滑り込めるように進路を確保する。
レミさんは初心者とは思えないくらいに機体の操作に慣れているようでイグニッションブーストで飛び込んできた。残るはシズネさん。
「シズネっ! 掴まって!」
ブリッジの中からレミさんが手を伸ばす。一人だけ足の遅いシズネさんを水の化け物が追ってくる。このままでは捕まってしまう。
……今日は装備を変えてきて良かった。ありがとう、簪さん。
「シズネさんに触るんじゃねえ!」
雪羅をシールドモードで起動。通路を全て覆う範囲にENシールドを展開して水の化け物の通路を完全に塞ぐ。
「コア・ネットワーク上に無線エネルギーバイパスを構築! 雪羅を
簪さん直伝の裏技を使用。BT装備で使われている方法で
ラピスとクロッシング・アクセスしてない俺にはBT適性なんて皆無。それでも宙に固定しておくだけならBT適性は必要ない。
ENシールドに水の化け物が殺到する。光の膜一枚隔てた向こう側で不気味な液体が蠢く。浸入はない。とりあえずブリッジの安全は確保できた。
「二人とも、無事か? 水に取り付かれたりしてないよな?」
「はい。ヤイバくんの方こそ、大丈夫ですか?」
「ああ。俺のことよりもアカルギの起動を急ごう。レミさん、俺は何をすればいい?」
「あ、うん。じゃあ――」
レミさんの案内で俺はブリッジの一つに着席。起動の手続きはほとんどレミさん一人でやれている。俺は座っているだけで手持ち無沙汰になった。急いでいるのに暇というなんとも微妙な時間である。
まだ落ち着けない俺はブリッジの中で視線を泳がせる。特に何か面白いものが置いてあるわけでもないから、結局俺の視線はシズネさんに向いた。
シズネさんも俺を見ていた。目が合った直後、彼女は慌てた様子で俺から目線を外す。
「ヤイバくん……怒ってませんか?」
顔を伏せたまま、バツが悪そうに恐る恐るといった様相で問いかけてくる。
勝手に行動して危険な目に遭っているのだ。たぶん後悔もしてるだろうから俺がとやかく言うのは逆効果だろう。
「いや、怒ってないよ。むしろ俺の方がシズネさんを怒らせてたし」
「ヤイバくんに憤りを覚えていたのは事実ですから否定しません」
あれ? こういうときはお互いに『怒ってない』と言うことでわだかまりがなくなるとかそういう話になるんじゃないのか?
「あ、うん。ごめん」
「全く……ナナちゃんを助けに行くのに私を部外者扱いするだなんて、いくらヤイバくんでも許せませんよ」
「根に持ってるなぁ」
「……でもヤイバくんが正しかったんです。私は皆さんに迷惑しかかけていなかったみたいですから」
本当にシズネさんは表情を見せるようになった。
だから彼女が落ち込んでるってことを俺は嫌でもわかってしまう。
「そんなことない。本当は俺が受け入れなきゃいけなかったんだ」
慰めの言葉じゃない。どちらかと言えば贖罪だ。こうあるべきだったという謝罪だ。
自分一人の力で戦ってきたわけじゃない俺だからこそ、一緒に戦ってくれる人を大切にしないといけない。そんな基本を忘れていたわけじゃないけど、心のどこかでまだ巻き込む人を減らそうとしてることに気がついた。
「改めて言わせてほしい。シズネさん、レミさん。ナナを取り戻すための戦いに力を貸してくれ」
どうして今の戦力で事足りるだなんて思っているのか。たとえランカーレベルでなくとも、人が増えるということはそれだけで力になる。俺はその力を利用してでも箒を助け出すと誓ったんだろう?
被害者だったシズネさんたちだからと特別扱いしてるだけの余裕なんて俺にはない。
「『力を貸す』は間違っています。私はヤイバくんと力を合わせたいのですから」
「右に同じー」
「頼もしい返事だ」
ほんのちょっとの間でシズネさんの表情はみるみる明るくなった。やっぱりシズネさんに暗い顔は似合わない。彼女にはしょうもない冗談を飛ばしてもらって俺たちの精神的なコンディションを安定させてもらわないとな。
「ヤイバ。アカルギの起動は完了したよ」
「よし。主砲は撃てる?」
「どこに撃つの?」
「ラピスがくれた敵座標データを送る」
アカルギが動きさえすればアケヨイが使える。深海でも使用には問題ないと聞いているし、海中での威力減衰も元々の威力が高いから気にならない。
過去にアドルフィーネやギドを倒してきた威力は本物。未知の敵であるフォビアシリーズであっても問題なく倒せるはずだ。
「現在の射線上にはいないね」
「あ、そういえばアカルギの主砲は正面にしか撃てないのか」
「だったら旋回をすれば……?」
「ダメよ、シズネ。例の水の化け物がアカルギに張り付いてて、向きを変えるのは難しそう」
しまった。そんな弱点があったか。やっぱり水の化け物には知性があって、アカルギ主砲の威力すらも把握し、対策まで打っている。
「ヤイバくん! 入り口が!」
シズネさんの叫び声を聞いて俺は入り口を確認する。
……なんてこった。じわじわと壁が溶けている。ENシールドを突破できなくても水の化け物にはアカルギの通路を破壊するという選択肢が残っていた。
主砲が敵のコアに向いてない。
ブリッジの入り口まで迫っていた敵が浸入してくるまで残り時間がない。
八方塞がりだ。このままだと俺たちは皆、水の化け物に呑まれてしまう。
◆◇◆―――◆◇◆
ヤイバは無事にアカルギへ辿り着いた。急遽変更した作戦の要は達成。しかし、ゼロフォビアがアカルギを覆うと同時にヤイバと通信ができなくなってしまう。
まだ作戦について打ち合わせできてはいない。
「ワールドパージの中には通信に障害を起こさせるものもあると聞いていましたが、思いの外厄介ですわね」
ラピスの周囲は既に赤く視覚化された水で埋められている。そればかりか両腕、両足に水が絡みついている。ISのパワーアシストがあってもビクともしない拘束力で身動きも取れない状態だ。
ゼロフォビアは身動きのとれない相手の装備を自らの特性である溶解によってじっくりと剥いでいく。アカルギに巣を張っていた人造モンスターは寄ってくる餌を貪るだけの狩人であり、戦闘とは違った認識で動いている。
とどめを刺すだけならばもっと簡単に終わらせられる。だがそれでは物足りない。
Illは人の魂を喰らう。魂は感情で彩られるもの。何も知らないまま喰われる餌よりも恐怖に震えた餌の方がより強大な糧となる。ゼロフォビアは獲物の抵抗する術を少しずつ奪っていき、弱火にかけるようにじっくりと絶望色に染めていく。無感情で機械的にプレイヤーを責め立てる、文字通りのモンスターであった。
この日は獲物が多かった。だがしかし、感情のないはずのゼロフォビアは戸惑いを覚えている。
アカルギの艦内で捉えた二人は絶望などしなかった。
アカルギに残しておいた餌に釣られてきた獲物の1体は最後まで強い眼差しのままだった。
そして、今捕らえた獲物もまた、完全に拘束してもなおその蒼い瞳は揺らがない。
バキバキと強引に装甲を剥がしにかかる。溶かすだけが能でなく、水で包んだ対象を圧力で押し潰すことも容易にできる。力の差を見せつけることで対象の絶望を誘う。
だが蒼い瞳は薄まらない。ゼロフォビアにされるがままになっているというのに、ラピスはまるで紅茶を嗜んでいるかのように悠然と構えている。
所詮は痩せ我慢だろう。ゼロフォビアは自らにプログラムされている人間の特徴を物差しとして判断する。四肢のISを破壊し終えたゼロフォビアはラピスのISスーツを浸食し始めた。
「……どうやら見えていないようですわね」
ラピスがおもむろに呟く。その言葉の意味をゼロフォビアが理解することはない。もし理解することができるタイミングがあるとすれば、そのときは事後であろう。
遠方で爆発が起きる。爆発といっても小規模。破裂と言った方が正確かもしれないほどの小さなものだ。
この瞬間、ラピスを拘束している水がのたうち回る。あらゆる攻撃にビクともしなかった水の化け物が明らかに苦しんでいた。
「アクア・クリスタルに準ずるBTナノマシンを広範囲にばらまいているのは攻撃や罠のためだけでなく、一番重要な役割はBT使いによる索敵を妨害すること。そこまでして本体を安全圏に置いている理由は、本体の戦闘能力がとても小さいからに他なりませんわ」
爆発地点はゼロフォビアのコアがある地点。つまり、ゼロフォビアの本体がそこにある。深海というフィールドでBT使いの索敵も封じてしまえば、おいそれと本体を見つけられるものではないのだが、ラピスという例外の前では全く意味をなさない。
「ナノマシン操作が意外とお粗末で驚きました。まさかわたくしの混ぜたアクア・クリスタルに気づかないとは思いませんもの」
アクア・クリスタルは更識楯無の専売特許ではない。そもそもアクア・クリスタルの分類はBT装備。世界最高のBT使いと称されるラピスに扱えないBT装備など存在しない。
ゼロフォビアの挙動が急変する。ラピスが危険な存在であることにようやく判断が追いついた。じわじわと嬲り殺す時間はなく、ラピスを包む水に圧力をかけて強引に潰そうとする。
ラピスに抵抗する術はない。だがしかし、したり顔は崩れない。
「隙は作りました。あとはヤイバさんが終わらせてくれることでしょう」
詳細は何も話していない。それでもラピスの中では確信があった。ヤイバならば自分の意図を察してくれている、と。
◆◇◆―――◆◇◆
たとえ通信が通じていなくとも俺の中には確信めいたものがあった。一見すると八方塞がりな状況でも、ラピスが見てくれているのならその先に光があるのだと。
だからアカルギの周囲を覆っていた赤い水が急速に離れたのにも特に驚きはなかったし、すぐに何をすべきかも判断ができた。
「アカルギを回頭させて」
「う、うん。だけどどこに?」
自由になったアカルギが向くべき方向は敵のいる場所。その座標はラピスから事前に聞いている上に、今の深海は一面が闇に覆われているわけではなくなっている。
一部だけ蒼く発光している点がアカルギのブリッジからも確認できた。その意味を俺は推察できている。
「あの蒼い光点だ。そこに敵の本体がある」
俺の足りない点をラピスが補ってくれた。そう信じて俺は動く。このタイミングで発生した変化がラピスの作戦に絡んでいない可能性の方が低いしな。
アカルギの正面に蒼い光点を捉える。船首が開いて主砲が海中に露出する。海中発射が可能かどうかを確認し忘れているけど、束さん製だからきっと大丈夫だろう。
普段はリコさんが座っていたという席に座り、トリガーに指をかける。
「ヤイバくんっ! もう入り口が保たない!」
シズネさんが叫ぶ。直後、通路にいた水の化け物がブリッジになだれ込んできた。
俺は席を立とうとした。でもそれよりも早く、シズネさんが駆けだしていた。
「ヤイバくんは攻撃に集中してください!」
あろうことかシズネさんは水の化け物に自ら飛び込んでいった。あっという間にシズネさんの全身は水の中に取り込まれてしまう。
だが意味がなかったとは言わない。水の化け物は動きを止めた。この時間が稼げた時点で俺たちの勝利は決まった。
「ありがとう、シズネさん。皆」
トリガーを引く。アカルギに蓄えられていたエネルギーが
海底の地形が穿たれた。暗闇を取り戻した海底には激しい海流が生じ、アカルギの船体も大きく揺らされる。
「あ、ごめん、ヤイバ。姿勢制御忘れてた」
レミさんのそんな一言の後、アカルギの揺れは一瞬で収まる。
急激に静かになった。外の海流も落ち着きを取り戻している。ラピスの視界調整によって赤い水として見えていた海水はどこにも存在していない。
ここでISVSの機能をチェックする。ログアウトは……問題なさそう。
化け物は消えた。俺たちは生き残ったんだ。
「やったぞ、ラピス、リン!」
通信を飛ばしてみる。しかしながら二人とも既にログアウト済みであり、届かなかった。
「シズネさん!」
さっき身を挺して時間を稼いでくれたシズネさんの名を呼んで振り向いた。
もう水の化け物は存在していない。だからそこにはシズネさんがいるだけ。
それは間違ってなかった。だけど、俺は一つ、敵の特性を知らなかった。
「き――」
水の化け物はISの装備を喰らう。装備の後はISスーツ。最後に操縦者という順で蝕んでいく。
蝕む=溶解。つまり、その途中経過で止められたとき、
「きゃあああああ!」
操縦者は生まれたままの姿で放り出されることとなるわけだ。
***
俺の頬にはでっかい手形があるけど、あまり痛くはない。後でナナに言いつけられるらしいから社会的には痛いけど。
「シズネさん……さっきのは不可抗力と言うことで一つ手打ちにしていただけませんか?」
「いいえ、許しません。ナナちゃんが許すまで反省してください」
これは暗にナナを助け出せと言ってるんだろうなぁ。
「シズネ。別に現実の体じゃないんだから、見られても気にしなくていいでしょ?」
「ではレミさんは今この場で服を脱いでヤイバくんの前に立てますか?」
「いや、それやったらただの痴女でしょ」
「ほら、恥ずかしいじゃないですか」
「あー、なるほど、私が悪かった。これはヤイバの負けだね」
こういうとき、男が不利なのは女尊男卑な世の中のせいなのかな。かといって
とりあえず俺たちはアカルギに乗って北極の暗い海底から無事に帰還して、海上を航行中。今はそのブリッジで今後について話し合っている最中である。
「ヤイバ、アカルギはどこに向かえばいいの?」
この後どうするのかなんて全く考えてない。以前だったらツムギの拠点に帰るだけなんだけど、あそこはもう倉持技研の所有ではない上に、ゴーレムたちの手が伸びている可能性もあるから安全な場所とは言えない。
「シズネさんはどういうプランだったんだ?」
「それが自分でもビックリするくらい行き当たりばったりでして……」
アカルギを手に入れてからの展望は何もなかったというわけか。
「だったらこういうことはラピスに任せた方が良さそうだな」
戦闘終了から時間が経っている。もうそろそろ通信が来る頃だろう。
『そうですわね。ではまずは日本の近海まで来てください』
「あ、ラピスさんから通信です」
「このタイミング……こっちの会話を聞いてたんじゃないの?」
レミさんが気づいてはいけないことを口走ったけど、もう誰もその話題を気にしようとはしていない。
「リンも無事?」
『ええ。リコさんとカグラさんの無事も確認してますわ。わたくしたちの勝利です』
「それは良かった。じゃあ、とりあえず俺たちはこのまま日本にまで行く」
『了解しましたわ。申し訳ありませんがアカルギの到着までわたくしは一度ログアウトして休ませていただきます』
そういえば、もう実時間だととっくに朝になってるのか。このまま無理をさせてたらラピスのポテンシャルが発揮されなくなるのは目に見えてる。休みを挟むのは当然のこと。この後もまだ戦いは続くのだから。
ん? もう朝?
「思い出した! アメリカの方はどうなってる!?」
『間もなく攻撃を開始することでしょう。まさかヤイバさんも参加されるおつもりで?』
「当たり前だろ!」
『ハァ……ご自分の状態を把握されておりませんわね。わたくしが通信で言うのも時間がかかるだけですから、後はシズネさんにお任せします』
「わかりました」
通信が切れる。と、同時にシズネさんが俺の隣まで寄ってきた。
「ちょっと顔を見せてください」
「お、おう」
下から顔を覗き込んでくる。俺は黙って彼女の目を見つめ返した。
すると、盛大に溜め息を吐かれてしまう。
「ヤイバくんには選択肢があります。今すぐログアウトして自分のベッドで眠るか、この場で私に実力行使でISVSから追い出された上でラピスさんかリンさんに物理的に眠らされるか、好きな方を選んでください」
「え、ちょっと何それ!?」
「なお、沈黙は後者を選んだと見なします。返答はあと5秒だけ受け付けましょう。5、4――」
何やら物騒なことを捲し立てられてるけど、言いたいことはよくわかった。
「わかったわかった! アメリカの件は千冬姉たちに任せて、俺はもう休む!」
「よろしい……私だって意地悪で言ってるわけじゃないですからね?」
「それもわかってるよ。休みを挟まないといざというときに動けないからな」
よく考えてみるとまともに休息をとらないまま連戦しすぎている。言われてみて初めてものすごく疲れていることを自覚。肩がとても重いことにも気づいた。このコンディションじゃ勝てる戦いも勝てない。
皆の言葉に甘えて休むことにする。それもまた俺の戦いだ。
◆◇◆―――◆◇◆
日本時間の早朝。アメリカ、ロサンゼルスの現地時間では昼を過ぎた頃。ISVSにおけるロサンゼルスも同様に昼を迎えている。
しかし昼と呼ぶには薄暗い。分厚い雲に覆われた曇天であることが直接的な要因ではあるが、不安を煽ってくるものは天気だけに留まらない。
現実では賑やかな繁華街であっても、人が住んでいない上に戦場にもなっているISVSにおいてはただの廃墟と化している。
瓦礫が転がる終わってしまった街の中央には唯一残っている建造物であるドーム型の施設が鎮座する。この仮想世界における人類の拠点となってきた施設はもう人類の管理下から離れてしまった。シンプルな半球状でしかなかったドームの頂点には新しく鉄塔のような建造物が建てられていて、その無骨なデザインがさらに周囲の場の空気を重くする。
「
人ではない存在の支配下に置かれたドームを遠方から眺めるは織斑千冬。この仮想世界においてはブリュンヒルデというプレイヤーネームで活動している、ISVSプレイヤーでその名を知らぬ者がいない名実共に世界最強のプレイヤーだ。
「想像結晶の媒体。これまでよりも巨大であることから考えられるのは、媒体のサイズによって現実に送り込める物が限定されるということだろう。どうやらナタルが四苦八苦しそうだ」
現実のロスでは既に騒ぎが起きている。ここ最近発生していたゴーレム出現事件の中でも最大規模のゴーレムが侵攻していると既にブリュンヒルデの耳にも届いている。
もし想像結晶のシステムを把握できていなければ、ブリュンヒルデも現実で駆り出されていて、この場に立つことすらできていない。
だがそうはならなかった。事件の元凶がブリュンヒルデの視認できる場所にある。後手に回ってきたブリュンヒルデだったが、今だけは先手を打てる。
「準備はできているか?」
「今回はウチだけの少数精鋭にしているから、準備に手間取ることはない。ただし、持久戦は無理だから作戦は迅速にな」
倉持技研の責任者である
全体の作戦目標は至ってシンプル。ドームの頂点に新設された鉄塔を破壊すること。当初想定していた内部へ攻め込むことなく目的を達成できそうである。これは破壊対象である想像結晶の媒体が想定よりも巨大であったためだ。
探索時間は要らず。ただ目標に向かって突き進めばいい。多少の妨害があろうとブリュンヒルデならば労せずして破壊できることだろう。
「私はあの鉄塔の破壊には参加できない。むしろお前たちの働きの方が鍵となる」
当然、簡単に終わるとは思っていない。そもそもブリュンヒルデ個人の作戦目標は鉄塔の破壊でなく、篠ノ之束の討伐である。ラウラ・イラストリアスが消えた今、ブリュンヒルデの相手をできる敵の駒は大幅に限られた。
「間違いなく私の迎撃にアイツが現れる」
作戦開始前から確信している。織斑千冬が篠ノ之束の企みを阻もうとしているのだから、当然のように篠ノ之束が立ちはだかるのだと。
もし、織斑千冬の前に現れなかったのなら、それは最早篠ノ之束ではない、とまで言える。
――出てこい。約束通り、この手で引導を渡してやる。
幼い頃、ツムギを結成する前に交わした2人だけの約束。
『もし私が世界に喧嘩を売ったら、そのときはちーちゃんが止めて。もちろん、私を殺してでも』
自制が効かないときがあると親友にだけは本音を漏らしていた。
そうなってしまえば、きっと親友の言葉さえ耳に入らないのだとも。
親友は殺してでも彼女を止める、と承諾した。
自らの手で楽しい世界を壊そうとする彼女の姿など見ていられないから。
……できることなら現れてくれるな。
同時に逆の願いも持っている。
ブリュンヒルデの前に篠ノ之束が現れなければ、いくら篠ノ之束を自称しようともそれは最早別人である。殺すことに何の躊躇いもない。問題は逃げる相手を捕まえるのが面倒ということで、弟の問題解決まで時間がかかってしまうことが悔やまれる。
「では行くとしよう」
ブリュンヒルデが立ち上がる。自らの目的だった親友の死の真相はおおよその見当がついている。あとは後始末をするだけ。
全ての元凶を討つ。
自らの約束と愛する弟の願いのために。
***
開戦。
ブリュンヒルデを筆頭とする倉持技研の軍が全方位からロスのレガシーに迫る。
対する防衛側。想定されていたのは無数のゴーレム軍団であったのだが、一向に迎撃に向かってくる無人機の出現が確認されない。
静かすぎる。もし自分が敵の陣営にいたとすれば、この対応は罠を用意しているときでしかありえない。
花火師の指示で倉持技研の操縦者たちの進軍が停止する。その中でブリュンヒルデのみが構わず突き進んだ。
「篠ノ之束が小細工をするはずなどないだろう!」
一人で叫ぶ。もし織斑千冬が敵側の指揮官だったなら、この状況は罠を使おうとしていることだろう。だが篠ノ之束は違うに決まっている。
数など要らない。そう煽ってるだけに過ぎない。
その証拠というべきか。ブリュンヒルデの視線の先、鉄塔の麓には人影が一つだけ存在する。
ISを纏っていない、水色ワンピースの女性。頭にはメカメカしいウサ耳のカチューシャ。右手には魔法少女が持ってそうな子供受けしそうなデザインのステッキがある。
「きらきら☆ぽーん♪」
ふざけた掛け声と共にステッキが振り上げられる。直後、ブリュンヒルデに強力な重力が働いた。
「小手調べか。舐められたものだっ!」
束の開発した対IS用兵器、
愛刀である雪片を横に一閃する。キングス・フィールドによって発生した力場を強引に断ち切ったブリュンヒルデは重力の縛りから解放されて再びレガシーの鉄塔へと向かう。
だがこの初撃によって倉持技研の操縦者たちは全員が飛行不能状態に陥った。実質的な戦線離脱に等しい。
「いいよいいよ、ちーちゃん。やっぱり束さんの前に立つ資格があるのはちーちゃんくらいだよ」
ステッキをもう一振りする。今度は攻撃でなく、姿を変貌させるための予備動作。
水色の服が弾け飛び、全身を光が覆い隠す。一際強い光が目映く辺りを照らし、光が過ぎ去った後には漆黒のドレスを纏った篠ノ之束の姿がある。
「始めようよ。最高に楽しいパーティーを」
「ふざけるなっ!」
爆発するかのような急加速でブリュンヒルデは斬りかかっていく。彼女らしい静かさなど欠片もない荒々しさは剥き出しの感情の証左。
「この状況の何が楽しいと言うんだ!」
「ちーちゃんと二人きりだもん。楽しいに決まってるじゃない?」
世界最強の剣閃はふざけた形状のステッキに容易く受け止められた。続く二戟目も同様。雪片の刃が立たないよう絶妙に角度を付けられて受けられている。
ブリュンヒルデを相手にまともに接近戦をこなせたのはこれまでVTシステムのみ、つまりはブリュンヒルデ本人のみであった。たとえヴァルキリーであってもブリュンヒルデに接近されれば逃げるしか選択肢がなくなる。ブリュンヒルデの剣は必殺を意味するものなのである。
その剣が通じない。ISの性能差では説明が付かない技の領域で防がれている。そして、ブリュンヒルデはIS戦闘以外で同じ状況を経験している。
「くっ……やはり束、なんだな」
幼い頃から手合わせをしてきた。その経験がハッキリと告げている。
目の前で斬り結んでいる相手は篠ノ之束に違いないのだと。
「今更何を疑う必要があるの、ちーちゃん?」
「お前の言うとおりだ。私がすべきはここでお前を討つことのみ」
零落白夜、起動。
暮桜の全身を淡い白光が包み、雪片の刀身が新雪の如く純白に染まる。
ブリュンヒルデの単一仕様能力はストックエネルギーを常に消費し続ける代わりにブレード攻撃にシールドバリア無効などの強力な効果を付与する諸刃の剣。
ブリュンヒルデが白を纏う。それは立ちはだかる敵を瞬殺するという意思表示である。
単一仕様能力の発動はブリュンヒルデの精神状態をも変化させる。剥き出しだった感情は
音の生じぬ瞬時加速。最早それをイグニッションブーストとは呼べない。単一仕様能力だと疑われるほどの瞬間移動じみた接近を果たしたブリュンヒルデの一撃が漆黒ドレスの胴体へと薙ぎ払われる。
「うんうん、なるほど。やっぱり束さんを殺せるとすればちーちゃんだけだね」
雪片とドレスの間、ギリギリのところでステッキが割って入っていた。
だが余裕などまるでないタイミング。まともに受けたステッキはこの一刀で真っ二つに折れる。代わりに本体に攻撃が届くことはなく、雪片の先端は漆黒ドレスの表層を小さく切り裂くに留まった。
「特注のドレスに傷がついちゃった。ひどいよ、ちーちゃん」
「黒とはまた地味な色を選んだな。私が色鮮やかにしてやろう」
「マジレスしておくけど、この世界じゃ血は出ないからね?」
武器を失っても余裕は崩れない。軽い口を叩きながらも冷静に距離を取って、次の武器を拡張領域から取り出す。
次に出てきた武器は赤黒い長柄。その先端は斧と槍を両立した形状となっている。ハルバートと呼ばれている武器が最も近いだろう。
「じゃあ、そろそろ本気でいくよ?」
長柄の斧を掲げ、朗らかな笑みを向けたまま、その姿が掻き消える。ブリュンヒルデの目を以てしても追うことができていない。気づいたときには後方から頭めがけて斧が振り下ろされていた。
ISの背後を突くことに意味がないとは言わない。しかしながらIS操縦者の視界は全方位にある。真後ろでも見ることができる特殊な視界を使いこなせれば理論上死角などない。
ブリュンヒルデの超反応は奇襲を容易く防ぐ。振り下ろされる斧を逆に叩き斬ってやろうと鋭い迎撃を打ち放つ。互いの力場が正面から衝突して暴風が吹き荒れた。
「あっはっはっは! 反応が速すぎるよ、ちーちゃん! もう人間を辞めてるんじゃない?」
「
零落白夜の剣をもう一度打ち込む。立ちはだかる敵を全て両断してきた最強の剣はあらゆる守りを突破する。防ぐには雪片に触れずに対処する必要がある……はずだった。
しかし赤黒いハルバードは雪片の刃をそのまま受け止めてしまっている。
「おおう……本当にちーちゃんが束さんを殺す気でかかってきてるよぅ」
「殺せと言ったのはお前だ」
「あれ、そだっけ? そうかもしれないけど、全く躊躇してないちーちゃんは流石に薄情者だと思うよ」
全く躊躇していない。そんなはずがない。
一連の事件の影に幾度となく篠ノ之束の姿が過ぎった。束でなければできない芸当が敵の技術に確認されても、織斑千冬は否定してきた。篠ノ之束の目指した楽しい世界と真逆に向かっていたから。ただそれだけを根拠にして否定をし続けた。
全ては親友を信じていたからこそ。その親友がこれほどまでに千冬のことを見ていないのだと思うと悲しくもなる。
「親友だと思っていたのは私だけなのだな……」
「唯一無二、
「偽りの生にしがみつく。それがお前の目指した楽しい世界なのか?」
「この世界が偽物で、束さんのいないあの世界が本物。そう在るべきだとかいう価値観こそが悲しみを生んでいる。ここほど誰もが平等に楽しくいられる世界など存在しないというのにね」
この発言は完全に仮想世界の住人となっていることを指す。千冬たちの現実では最早“楽しい世界”に辿り着けないという決別を意味していた。
このまま篠ノ之束の暴走を許せば、現実に悪影響がでる。下手をすると、人類の存亡の危機にすら発展する可能性がある。
もう殺すしかない。雪片を強く握りしめた。
「もう後はちーちゃんが束さん側についてくれれば、私の楽しい世界が完成するんだけどなぁ」
「あり得ない。私の願いとお前の世界は相容れない」
「それはわかったよ。でもさ、ちーちゃんの願いといっくんの願いは両立するのかな?」
「何が言いたい?」
空気の変化を感じ取ったブリュンヒルデは攻撃をせず様子を窺う。
相対する者から殺気どころか戦意すら感じ取れない。
まるでこのまま無抵抗に殺されてもいいとでも言いたげで……なおかつ、その瞳は狂気を孕んでいた。
不穏の答えは明確に言葉として叩きつけられる。
「私を殺すと箒ちゃんも死ぬよ?」
ブリュンヒルデの体を覆っていた白く淡い光が急速に消えていく。
先ほどまで冷め切っていたポーカーフェイスは脆く崩れ去り、大きく目を見開かざるを得なかった。
「どういう……ことだ……?」
「そのままの意味だよ。今や私と箒ちゃんは運命共同体。この“幻想黒鍵”と“紅椿”のコアを融合させたから、幻想黒鍵の破壊と同時に現実とのリンクを断たれている箒ちゃんの存在も消えちゃうってこと。融合を解除できるのは幻想黒鍵の操縦者である私だけなんだけど、私がそんなことする必要ないよね」
この宣告の意味をブリュンヒルデは瞬時に理解した。
幻想黒鍵とはIllと融合した黒鍵であることが推測できる。そこへさらに紅椿が融合したということは、紅椿がIllと化したと言い換えられる。
Illを破壊すれば現実に存在しないIllの操縦者も死亡する。ラウラと違い、文月ナナは仮想世界の住人として取り込まれているため、Illと化した紅椿が破壊された瞬間に絶命する。
「一つ……聞かせろ」
「うん、いいよ。束さんの知ってることならね!」
「現実で篠ノ之箒の魂を喰らったIllは、その幻想黒鍵とやらか?」
確認せざるを得ないこと。もう既にブリュンヒルデの中では結論が出ているのだが、否定してほしいという願望だけは残っていた。
「厳密には違うけど、結果的にはそうなってるのかな? 少なくとも箒ちゃんがあっちの世界に戻るには幻想黒鍵を壊すのが必要条件だね」
「冗談だとは……言わないよな」
「束さんがつまらない嘘を言ったことはある?」
束の発言は内容が荒唐無稽なほど真実味がある。それが織斑千冬の知っている篠ノ之束である。
だから、この馬鹿げた話はブリュンヒルデにとって真実としか思えない。
箒を取り戻すためには幻想黒鍵を破壊する必要がある。
幻想黒鍵を破壊すれば、融合している紅椿も破壊される。
Ill化した紅椿が破壊されれば箒は死ぬ。
助けるための条件を満たすと同時に死亡する条件が満たされる。
篠ノ之箒はもう、助けられない。
「おや? どうやらちーちゃんは束さんの言ったことを全部信じてくれるのかな? これから証明もしていこうかなと思ったんだけど、必要なさそうだね♪」
試しに幻想黒鍵を破壊するなどできるはずもない。もし真実ならば全てが手遅れ。ブリュンヒルデの手によって篠ノ之箒が死んだなどという事態になれば、もう千冬は二度と最愛の弟と顔を合わせられない。
「いっくんの願いを巻き添えにしてでも束さんを殺したいのなら、束さんはその殺意と正面から向き合う。そうでないなら、そんなちーちゃんは束さんの敵じゃないから戦ってもつまらない」
赤黒い斧が無防備なブリュンヒルデの胴体を捉える。この一撃でブリュンヒルデは吹き飛ばされ、ドームから離れた地面に何度もぶつかりながら転がった。
「ちーちゃんが何を選択するのか。束さんはここでじっくり待つとするよ。でもまぁ……その間何もないっていうのはつまらないよね?」
柄の先を持ち、斧を頭上高く掲げる。それを合図としてドームの周囲に5つの巨大な光が天上より落下してきた。
光の正体。それは人が蟻に見えてしまうほどの巨大なゴーレム。機械仕掛けの巨人はその場で直立すると、ふわりと軽く浮遊した。
「束さんからISVSプレイヤー全員にミッションを通達するよ♪ 今から世界中のロビードームを束さんの配下の巨大ゴーレムが攻撃しまーす! 全力で阻止してね! もし防衛失敗したら――」
それぞれの巨大ゴーレムが5方向に向けて一斉に移動を開始する。
その様子を高みから見下ろすウサ耳女は口が横に裂けそうなほど歪な顔で醜悪に高笑いする。
「二度とISVSができなくなるから! アッハッハッハッハ!」