Illusional Space   作:ジベた

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43 束が願ったこと

 篠ノ之束は物心がつく前から両親の近くにいた“おじさん”に羨望の眼差しを向けていた。

 その男の背中は大きかった。実父の柳韻と喧嘩して家出した束をおんぶして連れ戻すのはいつも決まって織斑おじさんだった。自分にも他人にも厳しい柳韻とは正反対で自分にも他人にも甘い優男。束縛とは縁の無い破天荒で自由なところが束にはすこぶる相性が良かった。

 柳韻と違って笑顔を絶やさない彼はクールとは縁遠くて口数が多い。口から出任せを言うこともあり、失言は数知れず。

 

「束ちゃんは可愛いなー。うちの千冬にもその愛嬌を少しでいいから分けてくれよー」

 

 そんな冗談もよく口にしていた。その度に拗ねた千冬が柳韻仕込みの回し蹴りを披露し、本気で悶絶していたおじさんを見て束はゲラゲラと笑っていた。

 束と千冬はお互いに懐く父親を間違えていた。

 千冬は柳韻の厳格さに憧れて勝手に道場に顔を出しては見様見真似で技を覚えていき、ついには独自の技を開発するに至る。

 束は“織斑”の破天荒な雰囲気に惹かれて外国にまでくっついていった。その先で見た最新の機械技術を見様見真似で再現し、ついには独自の発明品を開発するに至る。

 いつしか『取り替えっ子』と揶揄されるほどに互いの父親の影響を受けた子供が出来上がってしまっていた。

 束にとって柳韻よりも織斑の方が父親らしかった。

 自由奔放な生き方に憧れた。その方が楽しそうだと思ったのだ。

 

 織斑はその仕事の都合上、世界各地を転々とする慌ただしい生活を余儀なくされている。妻と千冬を家に置いて長い出張に出て行くことも珍しくなかった。束もいつも連れて行ってもらえるわけではない。

 千冬はその間、篠ノ之道場で柳韻から稽古をつけてもらえるから寂しくはない。だが織斑と居たかった束は暇でしょうがない。もちろん柳韻からは束も稽古に出るよう言われているのだが乗り気ではなかった。

 

 考えた末に束は1つの簡単な結論を導きだす。

 勝手について行けばいい。それで織斑と一緒にいられるのだから。

 スパイ道具セットなる発明品を駆使し、束は織斑に気づかれることなく尾行することに成功する。子供一人だと周囲に認識させないまま飛行機に乗り、向かう先はドイツ。束の知らない国だったが特に困ることもないだろう。束は天才なのだから。

 

 だがまだ幼い束である。知らないことはある。ドイツがどこにある国かも知らず、飛行機からの出方もよくわかっていない。いつの間にか織斑を見失っていた。迷子だ。

 何も知らない土地に一人。自分のことなど気にかけないたくさんの人たちが束の傍を無遠慮に通過していく。パーソナルエリアが常人よりも広かった束はその領域に知らない人が入るだけで気分を悪くした。

 ……早く織斑を見つけないと。

 空港で幼女(9歳)が胸を押さえて苦しそうにしている。それをいつまでも放っておく人ばかりであるはずがない。真っ先に現れたのは同い年の日本人の少年だった。

 

「大丈夫?」

 

 優しい声かけだったが束はビクビクしながら後退する。他人に対しての苦手意識がある束は恐れを抱いて少年を見つめていた。

 少年は笑顔を絶やさずに話を続ける。その態度は束の憧れる織斑のものと酷似していたから、束はその少年に恐れだけでなく興味も向けた。

 

「自己紹介をしないとマズかったね。僕は轡木(くつわぎ)創始(そうし)。歳は9。ここには織斑を追ってきたのさ」

 

 少年の口から織斑の名前が出たことで束は親近感を覚える。

 そして、初対面である少年に対して口を開いた。

 

「邪魔は許さない」

 

 かなり攻撃的な一言だった。しかし轡木創始は束の発言にショックを受けることなく背中を向け、ちょいちょいと前方を指さしながら歩いていく。

 ついてこいと言われている。つまり束が迷子になっていることを見抜かれていて、創始は道案内をしてやろうと言っている。

 ……今は大人しく従ってやる。だが後で泣かせてやる。

 極端な自尊心を持っている束である。こうして誰かの世話になったとき、感謝を述べるよりも先に証拠隠滅を図ろうと考える危険思想の持ち主だ。創始の行動は束を知る者から見れば自殺行為なのだがそれを注意する者がドイツにはいない。

 

「キミの名前は?」

 

 前を歩く創始が尋ねるも束は聞こえなかった振りをした。筋金入りのコミュ障でありながら自尊心の強すぎる束は他人と関わること自体を強気に避けている。

 

「なるほど。やっぱりキミが篠ノ之束さんだね」

 

 束は何も答えなかった。しかしアッハッハと笑う少年は束の名前を的確に言い当てただけでなく確信すら持っていた。

 同い年の9歳。今までに見てきた同年代の子供と違って大人びている彼はどちらかと言えば束寄りの人種だった。束は織斑と似た雰囲気を持っている彼への興味を強くし、ついには自分から質問をするに至った。

 

「お前は何者なの?」

「僕は織斑の一番弟子さ。そろそろ着くよ」

 

 創始が案内してきた場所はビジネスホテル。そのロビーに入り、創始が手を振る先には探していた人の顔があった。

 

「おい、創始。どこに行って――ってなんでここに束ちゃんが居るのォ!?」

 

 織斑だ。彼は創始の後ろについてきていた束の顔を見るなり顔面を蒼白に染めた。

 

「やっぱり気づいてなかったんですか。身近な人すら助けられないのに『困ってる人全てを助ける何でも屋』だなんて大言壮語もいいところです」

「俺の目標なんてどうでもいいんだよ! どうすんだよ! こんなところに束ちゃんを連れて来ちまって、もし危険な目にでも遭わせたら俺が柳韻に殺される!」

 

 子供の前だというのに人目を(はばか)らずに頭を抱えて床に蹲る織斑。

 その弟子を自称する創始はあっけらかんとして答える。

 

「別に大丈夫じゃないですか? 話を聞く限りだと前にもあったんでしょう?」

「今回はヤバいの! お前は柳韻の恐ろしさを知らないからそんなテキトーなことが言えるんだよ! 一個師団を木刀1本で壊滅させたって逸話があるくらいの化け物だぞ!」

「だったら束さんを日本に送り返せばいいだけの話でしょう?」

「その通りだ。創始は頭いいな」

 

 すかさずシャキっと織斑は立ち直った。しかし――

 

「私は帰らない」

 

 束がそう言った瞬間に再び頭を抱えた。

 織斑は束のことを生まれたときから知っている。柳韻よりも自分が好かれていることも自覚している。しかし、懐いていることと言うことを聞いてくれることは同義ではなく、束が素直に織斑に従ったことは一度としてない。

 

「おい、創始! 束ちゃんを説得してくれ!」

「いつも思うんですけど、あなたは9歳の子供に頼りすぎではないでしょうか?」

「適材適所だ。子供の相手は子供にさせた方がいい」

「私は子供じゃない」

 

 束は頬を膨らませて織斑の服の裾をくいくいと引っ張る。束本人は自分が大人だと思っているので、完全に子供扱いされては不満を露わにせざるを得ない。

 織斑は束と目線を合わせて頭を撫でてニヤリと下品に微笑む。

 

「はいはい。そういうことは出るところが出てから言おうねー」

 

 織斑が9歳の女の子にセクハラ発言をかまし、束が自分の胸元を見て赤面した瞬間だった。織斑の肩を力強い何者かの手がガシっと掴む。

 

「束ちゃんをいじめてた、と奥さんに言いつけるぞ?」

「げっ!? バルツェルっ!? 来てたなら早く言え! あと、陰口なんて子供じみたことはするなよ!」

「自分がデュノアにした仕打ちを棚に上げてよく言う……」

 

 織斑の元に姿を見せた大柄な男の名はブルーノ・バルツェル。ドイツ軍の大佐という立場だが、今はプライベートの用件で織斑との待ち合わせ場所に訪れていた。

 プライベートとは言っても穏便で平和な話ではない上に形だけのものだ。バルツェルは一個人として織斑に武力的な協力をするためにやってきた。だからこそ待ち合わせ場所にいる織斑がひどく緊張感に欠けていることに苛立ちを隠せない。

 

「それで? この大事なときに子供を2人も連れてきたのはどういう了見だ?」

「俺は悪くない! ガキどもが勝手についてきただけだ!」

「何度同じことを繰り返しているのか胸に手を当てて思い出してみろ」

「2人合わせて13回目だ」

「……それだけ正確に覚えていてなぜ学習しない?」

「いや、テキトーに言っただけで回数が合ってるかは神のみぞ知る」

 

 バルツェルが無言でボディブローをかます。

 織斑は声にならない悲鳴を上げてその場で転がり回る。

 

「少しはその脳天気さに刺激を与えられただろう。頭を切り替えたところで早速だが本題に入るぞ?」

「おい、お前……」

 

 呆れ顔のバルツェルがようやく話し始めようとしたときだった。

 大の男2人のやりとりを黙って見ていた少女が怒りに満ちた顔で間に割って入る。

 

「おじさんに暴力を振るってもいいのはちーちゃんだけだ」

 

 幼い束が大男相手に凄む。同い年の創始相手にビクビクしていた弱さは微塵もなく、威風堂々とバルツェルを指さす立ち居振る舞いは非凡さを感じさせるには十分だった。

 睨まれたバルツェルはと言うと、織斑の相手をしていて不機嫌だった顔を緩ませて関心の目を向ける。

 

「ハッハッハ! 織斑よりもよほど頼りがいのありそうな目をしている!」

「笑うなよ、バルツェル。束ちゃんが本気にしたらどうする気だ?」

 

 ボディブローのダメージから織斑は瞬時に立ち直った。織斑の平気そうな顔を見た束は怒りを引っ込めると彼の背中に隠れる。

 

「冗談はこの辺にして仕事の話でもしようか。おい、創始! 部屋を借りといたから束ちゃんを連れてそこで待ってろ!」

 

 織斑の投げた鍵が創始の手に収まった。

 鍵を受け取りつつも創始は口を尖らせる。

 

「えー、折角ここまで来たのに僕を置いていくんですか?」

「今日はいつもと事情が違う。社会科見学の時間は後で別に作ってやるから今は大人しくしてろ」

「……わかりましたよ」

 

 渋々ながらも創始は頷いた。そして、織斑とバルツェルは話をするために場所を変えようとする。

 だが織斑の袖を束が掴んで離さなかった。

 

「どこに行くの?」

「ちょっと面倒くさい仕事だ。いつもの楽しいのとは違うから束ちゃんはあのクソガキとここで待っててね」

 

 目線を合わせて笑顔で諭される。こうしたとき束は自分の主張を曲げないのが常だった。

 

「楽しいかどうかは私が決める!」

「うん、そのスタンスは大好きだけど束ちゃんは空気を読むことも覚えようね」

「褒められた♪」

 

 大好きの一言を聞いた瞬間に束はルンルン気分全快で織斑の袖を手放す。

 結果的に織斑の予定通りの状況となったが彼は首を傾げた。

 

「おかしいな。頭が良い子のはずなのに前半部分しか聞いてない……都合の良いことしか聞かないとろくな大人にならないぞ」

「あなたのような、ですね?」

「黙ってろ、創始! お前はもうろくな大人にならないって俺が断言してやる!」

「わーい、褒められたー!」

 

 創始は『お前も俺みたいな男になると断言してやる』と受け取ってテンションが上がっている。

 今も浮かれている束の元へ近寄った創始は織斑にアイコンタクトを飛ばす。その間に織斑はバルツェルと共にホテルの外に出て行った。

 

「束ちゃん。こっちの部屋で待ってるように、だって」

「え。私は織斑おじさんと一緒に行くよ……って、いない!?」

「諦めなよ。いつもは大目に見てもらえてたけど、今から織斑たちが向かう先は銃弾が飛び交うような危険な場所らしい。僕らは邪魔だってことさ」

 

 鍵の番号に従って部屋を見つけ、中を開けるとそこは特に代わり映えのしないビジネスホテルの一室。しばらくはこのまま部屋の中で待機をすることが織斑に下された任務である。

 束は珍しく素直に創始についてきた。一室だけでベッドも一つだけ。この状況を目の当たりにした束は真っ先にスパイ道具の一つの起動を決断する。束がスイッチを入れた瞬間、壁により掛かっていた創始は壁に貼り付けにされた。

 

「ちょっと束さーん? いったいこれは何の真似ですか?」

「私はこの部屋で大人しくするだなんて約束してない。もちろん、今からでもおじさんを追うつもり」

「どうやって? さっき迷子になってたじゃ――」

「おじさん探知機ー!」

 

 目つきや表情はやる気なさげな束だが声だけは某たぬきに間違えられるロボットみたいなテンションである。掲げられた右手には受信機となる携帯端末があり、画面には地図とポイントが表示されていた。

 

「なるほどね。さっきひっついてるときに織斑の服に発信機を忍ばせておいたんだ」

「そういうわけだから私はおじさんを追いかける。お前は邪魔になるから置いていく」

「まあまあ。僕だって織斑に素直に従おうだなんて考えてないよ」

 

 創始は束の発明品の拘束からあっさりと脱出していた。彼は束よりも先に部屋から外に出ると束の腕を引いてホテルの外にまでやってくる。

 そこには既に車が待機させてある。創始はさも当たり前のように運転手に声をかけ、恭しい所作で束の手を取って後部座席へと誘導する。

 

「どうぞ、お姫様」

「意外と使えるんだ……」

 

 束はその手を拒絶しなかった。後部座席にちょこんと座ると騒ぐこともなく大人しくしている。

 わざわざ反対側の扉に回り込んでから隣に座る創始を一瞥したが何も言わずに再び前を向いた。

 

 

  ***

 

 束たちがやってきたのは郊外からさらに外れていった山奥と言っていいほどの場所にある大規模な施設だった。表向きは製薬会社の工場ということになっている。実際に薬も生産されているのだが工場に入ってくる原材料と出荷される薬の量には著しい差が出ている。その理由は地下にあった。

 

「きな臭い場所だね。僕たちを連れてこようとしなかったってことはよっぽど危険な相手がいるってことなのかな?」

「おじさんは心配性すぎる。私がただの人間に負けるはずがないのに」

 

 束はまるで自分がただの人間でないかのような絶大な自信を持っている。だからこそ危険だから待っていろという織斑の指示が気に食わず、今もなお不満げな顔を崩さない。

 対して創始は厳しい顔を変えない。束の極端な発言を聞いても笑わない。

 

「つまりだ。相手が人間でない可能性もあるってことだよ」

 

 創始の指摘で束の顔が引き締められる。その可能性を束は考えていなかったのだ。

 2人は誰もいない階段を下りていく。いや、元から誰もいなかったわけではない。通路の端や階段の踊り場には武装した男たちが動かぬ体となって転がっている。

 初めは束の視界に入らないように気を使っていた創始だったが束の目は恐ろしく冷徹――言い換えると、ゴミを見る目つきだった。死体を見てショックを受けるなどという一般的な反応はない。ここまでナイト気取りでいた創始だったが考えを改める。

 

「もし武器を持った敵が現れたとき、束さんは自分で戦える?」

「誰にものを言っているの?」

 

 創始が確認すると束の背中にガシャガシャと大量の銃火器が展開された。機関銃からミサイルまで。いったいこれらをどこに持っていたのかを創始は尋ねなかった。聞いたところでわからないだろうという諦めである。

 

「束さんの意志は理解したし、共感した。じゃあ、僕らも織斑の手助けをしにいこう。正義を成すために」

「正義? 何、それ?」

 

 創始が決め顔で言った矢先、束が首を傾げる。

 困惑した創始は思っていないところで束と意志疎通できていないことに気がついた。

 

「束さんは織斑の正義に共感して手伝おうとしてるんだよね?」

「正義なんて世界のどこにもないよ。あるのは楽しいかそうでないか。今はお前が思っていたより楽しい奴だから一緒に居るだけだし」

「あ、うん。よく、わかったよ」

 

 初対面の印象から物静かで人見知りするタイプの女の子だと判断していた創始だったが思い違いだった。篠ノ之束はどちらかといえば狂人の類。行動や言動に正しさを求めず、楽しさを求めて織斑について回っている。

 創始の考えでは織斑の傍にいてはいけない類の人間だ。だが今になって束を追い出そうとするのは難しい。とりあえずはこの工場の問題を織斑が解決するまでは共に行動するべきだと妥協する。

 

 降りていくにつれて音が聞こえてくるようになった。発砲の音。爆発音。明らかな戦闘の音は徐々に奥へ奥へと消えていく。

 まずは戦況を把握しなけれならない。と、足を止めた創始に目もくれず、束はスタタタと階段を降りていってしまった。一瞬、顔を(しか)めた創始だったが放っておくわけにもいかず、すかさず後を追う。

 金属の板が並んでいるだけのスカスカな階段の隙間からは階下の様子が窺えた。先に降りていたはずの束は階段の一角に陣取って下の様子を()()している。創始もその隣に並んで下を覗き込んだ。

 

「織斑発見。相手は……1人か」

 

 上からは物陰に隠れている織斑の姿を確認できた。右手には拳銃を持っている。銃撃戦をしているのならば障害物を挟んだ状態で相手の隙を窺うのは当たり前だと創始は知っている。

 だから不思議だった。隠れている織斑に対して相手の少年はその身を曝け出している。まるで先に撃ってこいとでも言わんばかりに隙だらけだった。

 少年とは言っても創始よりは見るからに年上で中学生ほどだろうか。手入れのされていないグシャグシャの長い銀髪の隙間からは不気味な金の双眸が光る。

 織斑が先に仕掛けた。物陰から拳銃を向け、躊躇なく発砲する。遠目に見ても狙いは正確。これで普通は勝負ありだ。

 しかしそうはならなかった。銀髪の少年は発砲されてから右に体をズラし、銃弾を回避する。その身体能力もさることながら、動体視力と反射神経は人間の領域を超えている。

 

「ハハハ……まさか本当に化け物が相手だとは思ってなかったよ」

 

 創始から乾いた笑いが漏れる。銃弾を見てから避けるだなどというマンガのような芸当を目の前でやられてしまった。何か手伝おうとしてここまでやってきたというのに今はただ成り行きを見守っていることしかできない。

 それは隣の少女も同じ。しかし彼女は少しばかり事情が違う。敵の異常さを目の当たりにしても束はひたすらに真顔だった。そこに驚愕や恐怖といった感情は一切見受けられない。

 

「うちの怪物よりは弱い。おじさんなら大丈夫そう」

 

 “うち”とはそのまま篠ノ之家のことを指す。驚くはずもない。束にとって銀髪の敵が起こした事象は日常の範囲内だったのだ。

 その事実を察した創始は少しだけ束から距離を空ける。そうして創始が目を離している隙に織斑は敵の少年を捕縛していた。

 

「あれ? もう終わったの?」

「そうみたい。おじさんも普通じゃないからねー」

 

 激しい戦闘は終わっているようだ。今の内なら大丈夫だろうということで2人は織斑のいる階下へと降りていく。

 足音を隠さなかったため、下にいる織斑は2人に気づいて出迎える。その顔は不機嫌というよりも呆れていた。

 

「おいおい……大人の言うことを聞けない悪い子が2人もいるぞー?」

「おかしいですね。僕は織斑から出されてた指示は無視しましたけど、大人の言うことを無視した覚えはありません」

「右に同じー」

 

 創始が屁理屈とも言えない言い訳をすると束もそれに便乗する。いつの間に仲良くなったのやら。この場合は束が楽しそうな方に流れた結果であるのだが。

 

「俺を子供扱いするな! 千冬の親だぞ、俺は!」

「オジサンハイツマデ経ッテモ少年ノ心ヲ忘レナイ素晴ラシイ人ダモンネ」

「素晴らしい棒読みをありがとう、束ちゃん。全く褒めてないよね、それ」

「オジサン大好キ」

「棒読みだけど嬉しいよ、束ちゃん! 俺も大好き!」

「またそんなチョロそうな反応するから束さんが調子に乗るんでしょうに……」

 

 口を尖らせて小言を言う創始は気絶している銀髪の少年の傍で座り込む。

 

「それで、この人はどうするんです? 殺さずにわざわざ拘束しただけの理由があるんですか?」

 

 ここまでの道中、敵と思われる者たちの死体が転がっていた。そのことから創始は普段と違う非常時なのだと認識していて、織斑たちが相手を生かす余裕のない戦いをしているのだと思っていた。

 しかし最も強敵であろう少年兵を織斑は少し時間をかけて殺さずに対処した。おそらくは仲間のバルツェルたちをも先に向かわせてまでだ。理由もなくそのような真似をするとは考えられなかった。

 

「コイツが他の連中とは違ったからだ。俺はここを潰しにきたが誰も彼も殺しにきたわけじゃない」

「そもそもここは何の施設なんです?」

「簡単に言えば、悪い組織の人体実験場だ。おまけに遺伝子操作して新しい強靱な兵士を生み出す研究までやっていた。戦うための人間を機械のように生み出すなんて自由のないことを、この俺が見逃すはずがないだろう?」

「じゃあ、この人は……」

「ここで生み出された兵士の1人ってところだろ。俺にしてみれば生み出されただけで罪だなんて思いたくはない。“生きた化石”の狂信者どもと違って、他の生き方を知らないだけだと思うんだよ」

 

 敵対していた少年に向ける目は慈愛。織斑は自由奔放な男であるが自分勝手で傍若無人なことばかりしているわけではない。自由を愛するが故に、己だけでなく他者の自由も尊重する。

 束はそんな織斑の背をじっと見ている。篠ノ之家にいるよりも楽しい世界を見せてくれるおじさんは学校の先生よりも先生と呼べる存在だった。

 彼のように在りたい。彼の真似をすれば自分もあんなに楽しそうにこの世界を生きられるのではないか。そんな期待が憧れになり、束は織斑を慕う。

 

「というわけで創始に仕事だ。そいつを地上にまで連れてってくれ」

「あなたは忘れているのかもしれませんが僕はまだ9歳の子供ですよ? どうやってこんな体格の男を連れて行けっていうんですか」

「そんなもん……努力と根性と運で」

「無茶ですよ。まあ、挑戦はしときますけどね」

 

 渋々といった様子で創始が銀髪の少年の肩を引き上げる。身長差は歴然としているが足を引きずれば移動できないことはなかった。なんだかんだで創始は地上へと少年を担ぎ上げていく。

 残されたのは織斑と束だけとなる。

 

「さて、束ちゃんも創始のところに――」

「どうして?」

「うん、そう返してくるって知ってたさ! だけど真面目な話、ここから先は束ちゃんには来て欲しくないんだよ」

 

 織斑はこの施設で行われていることをオブラートに包んでしか話していない。現実はもっと凄惨だろうと推測しており、子供に直視させていいものとは思っていない。自由に寛容な織斑が束に帰れと繰り返すのも束を思ってのことなのである。

 そんな気遣いを束が理解していないはずもない。理解しつつも敢えて言い返す。

 

「死体でも転がってるの? それともホルマリン漬けになってる脳味噌の標本でもあったりするの?」

「束ちゃん……?」

「大丈夫だよ、おじさん。私は今更そんなものに怖じ気付いたりしない。だってどうでもいいもん」

 

 何かを見てショックを受けることなどあり得ない。それは子供らしい感情の喪失をも意味する。強靱な心臓というわけではなく、心があると思えない。

 

「……束ちゃんはそんなことを言っちゃいけない」

「どうして? 人はいつか死ぬもの。死んだ人から目を背けるのは弱さ。私は弱くない」

「束ちゃんは死ぬのが怖くないのか?」

「怖がる必要がない。私は誰かに殺されるつもりはないし、いずれ時間が私を殺すのならば素直に受け入れる。それが自然だから」

「柳韻の思想が歪んで伝わっちまってるんだな」

 

 織斑は後頭部をかりかりと掻いた後、束の顔の正面で目を合わせる。

 

「聞き方を変える。束ちゃんは忘れられるのは怖くないか?」

 

 『死ぬ』を『忘れられる』に置き換えられた。それだけで束の顔に動揺が生まれる。

 

「例えばここで束ちゃんが死んでしまったとしよう。でもって非情な俺は束ちゃんのことを忘れてその後の人生を生きていく。死んでしまった束ちゃんはどう思う?」

「それは嫌! おじさんの人でなし!」

「嫌だよね。でも死んじゃってたら束ちゃんの気持ちを俺に伝えることができない。俺は何も聞かないまま束ちゃんのことを思い出さない」

「ひどいよ、おじさん……」

「うん。束ちゃんが死んじゃった後、ひどいことがあるかもしれない。それでも死ぬのは怖くない? 束ちゃんのいない世界で皆が楽しそうにしているのはどう思う?」

「私も……楽しい方がいい」

「よろしい。楽しい方がいいに決まってる。生きてないと楽しいことはできない。今でも死ぬのは怖くない?」

「死ぬのは嫌になった」

 

 この数秒のやりとりで束の人生観が簡単に変わっていく。人の生死に無頓着だった束が生きることと死ぬことについて考え始める。

 

「中にはさっきの少年のように助けられる者もいるかもしれない。だけど俺はこれから多くの人間を殺す。ここから先は楽しくないことばかりだ。それでも見たいのならついておいで」

 

 織斑が束を置いて先へと進む。

 束は一瞬だけ躊躇った。他人がいくら死のうがどうでもいいと考えていたときと違い、他人の死が存在を忘れられてしまうと置き換えられ、怖いことが起きていると刷り込まれている。

 確かに楽しくない。ゲームで出てくる敵キャラとは違うのだ。そんな相手を殺すのを織斑は楽しいとは思っていない。束もそれに共感した。

 束は織斑の後を追う。相手が誰でも殺せば早いと考える思考は過ぎ去っており、その上で織斑がどこを目指しているのかを気にするようになった。

 

 深層まで潜ってきた。先にバルツェルやその部下たちが来ていて無数の死体が転がっている。全て長い銀髪をしていて顔がそっくりな者も多数見受けられる。

 人が量産されていた。束はその事実を冷静に受け止める。

 

「胸糞悪い……」

 

 胸の内の黒い感情を吐露する。人の死が怖いことなのだと教わった直後、人が造られている事実に嫌悪する。

 

「な? 楽しくないだろ?」

 

 束がついてくると確信していたのか。織斑が束を迎えにきた。

 

「ねえ、おじさん。どうしてこの人たちを殺しちゃったの?」

「助けられるなら助けたさ。だけどさっきの奴と違ってここに居る奴らは機械みたいだった。力のない俺たちじゃ、こうするしか救済する道がなかったんだよ」

 

 おいで、と手招きされて束はトコトコと織斑の後をついていく。

 

「どうしてこの人たちが生まれちゃったの?」

「手厳しい質問が来たな。答えなくちゃダメ?」

「うん」

 

 無邪気に頷く束を見て織斑は困ったように頬を掻く。

 

「……人が競い争う生き物だからかな。人というのは1人で生きられない生き物だから、どうしても誰かと手を取り合って生きていかないといけない。大小はあるけど人は必ず他者に依存して生きていく。逆に言えば、他者から自分を認められなければ生きてはいけない」

「私はおじさんとちーちゃんが居ればそれでいいよ」

「柳韻たちも枠の中に入れてやれよ……ともかく、束ちゃんだって1人で生きてるわけじゃない。俺や千冬に自分を認めて欲しいと思ってるだろ?」

「うん。承認欲求だよね?」

「難しい言葉を知ってるなぁ……」

 

 ハハハと小さく微笑む織斑。束は感心されたと思って胸を張る。

 

「人は人に認めて欲しがってる。自らを証明したがってる。その方法が人によって違ってて、研究に生きる者は新しい発見や発想に、戦いに生きる者は戦う力に自分の価値を見出す」

「私とちーちゃんの違いみたいなもの?」

「そう。束ちゃんと千冬が違ってるように、この施設を造った奴も自分の価値を証明したいんだよ。『俺はこんなにも強力な兵隊を簡単に造れるぞ』って」

 

 織斑の回答を聞いた束は苦虫を噛み潰したような顔をする。

 

「やっぱり胸糞悪い」

「俺もそう思う。だからこそ俺たちは『そんなの間違ってる』って食い止めに来たんだ」

「楽しくない話だよ」

「最初からそう言ってるだろ。だけど俺はこの後に楽しい世界が待ってると信じてる。少しずつできる範囲で変えていきたいんだよ。この楽しくない世界を」

 

 それは織斑の思想。平和を謳いながら争いの絶えない世界を憂い、裏の舞台で暗躍する者たちの手から世界を守ろうと本気で考えている。

 楽しい世界を作りたい。そう夢を語る男の心境は裏を返せば今の世界を楽しくないと感じているということになる。

 束は自分の周りの狭い世界には多少退屈しつつも楽しいと感じている。しかし一度外の世界に踏み出すと楽しくないことばかりだ。だから束は本能的に織斑が自分と似ていることに気づいていて、それで興味を持っていた。

 

「さてと。一応、俺も乗り込んではみたもののバルツェルたちがほとんど制圧した後みたいだな。ま、束ちゃんを無闇に戦闘に巻き込まないですんだと思っておこう」

「私も戦えるよ?」

「知ってるけど、束ちゃんに人殺しをさせたら俺が柳韻に殺される」

「黙ってたら大丈夫」

「無理だ。俺は顔に出る方だし柳韻は超能力者だと思うくらいに異常に察しがいい」

「そうだね。化け物だもん」

 

 などと共通の見解を交わしていたときだった。

 織斑の視界の端にピクリと動く赤ん坊を見つけた。

 素早く駆け寄った織斑は呼吸があることを確認すると、近くにあった布で赤ん坊の体をくるんで抱き上げた。泣くことのない赤ん坊の開かれた両目は右が赤っぽく、左は金色の瞳をしている。

 

「生まれたて……片目だけが越界の瞳(ヴォーダン・オージェ)ということは失敗作として破棄される予定だったか」

「助けるの?」

「当たり前だ。コイツは洗脳を受けてない。たとえ愛されて生まれたわけじゃなくとも、愛されないまま死なないといけない道理はないからな」

 

 織斑は来た道を慌てて引き返す。赤ん坊は衰弱している。助けるためには急いで処置のできる設備の整った場所へ行かなければならない。

 束は置いていかれた。と言うよりもついて行かなかったという方が正しい。織斑は見つけられなかったが束は他にも生存者を見つけていた。

 

「こんにちは。生きてる?」

 

 返事はない。束が声をかけたのは織斑の拾った赤ん坊よりは大きい程度の幼子だ。加えて織斑の拾った赤ん坊よりも衰弱がひどく、傍目には生きているようにも見えない。

 

「助けないと、だね」

 

 束はその幼子を拾った。織斑のしたことを真似て、後の楽しい世界のために幼子を助けると決めたのだ。

 

 

  ***

 

 ドイツの一件から1週間が経過した。日本に帰ってきていた束はしばらくは大人しく家にいたのだが、今は豪邸と呼べるほど大きな屋敷の一室で勝手に自分の荷物を広げている。

 

「さて、束さん。今の状況を説明願えるかな?」

 

 傍らには無駄に満面の笑みを浮かべている同い年の少年――轡木創始の姿があった。

 束は創始に見向きもせずに慌ただしく手を動かしながら答える。

 

「家出してきたからここに泊まる」

「僕の許可すら取らずに随分と勝手なことを言ってくれるね……」

「ダメなの?」

「いや。楽しそうだからいいよ」

 

 家主の息子である創始は呆気なく了承した。

 

「そこの子は例の施設で拾った遺伝子強化素体か。元気が無さそうだけど大丈夫なのかい?」

 

 指さす先にはベッドに寝かせられている幼い銀髪の子供。両目を閉じている彼女はここに来たときから全く動く気配がない。

 

「かなり危険だよ。うちの化け物が死人扱いしてきたくらい」

「病院には……無理かな」

「そう。この子は生まれながらにして欠陥を持ってる。手の施しようがないとか言われて追い返されるのが目に見えてる」

 

 かなりハッキリと死にかけていると断言する束。ならば何故彼女は死にかけの遺伝子強化素体を創始の家に連れてきたというのか。

 創始はその答えを理解していた。携帯電話を取り出すと、鞄から取り出した機械部品とにらめっこしている束に声をかける。

 

「こんな客室でいいのかい?」

「私は天才だよ? 場所は選ばない。ただちょっと欲しいものはあるかな」

 

 手早く書いたメモを投げて寄越す。

 

「それだけ用意できる?」

「なんとかするよ。期限はいつまで?」

「今日中」

「仰せのままに。お姫様」

 

 やたらと仰々しくお辞儀をした創始は携帯のボタンをプッシュしながら退室した。

 1人残された束は部品、工具を散らかして黙々と組み合わせていく。

 

「欠陥があるなら、他で補えばいいんだよ」

 

 独り言を漏らす。医学で救えないなら工学で救えばいい。拾ってきた少女を救うための装置の設計図は既に束の頭の中に出来ている。

 注文していた足りない材料は創始が揃えてきた。既に中核部分はこの屋敷にやってきた時点で完成している。あとは少女に組み込むだけの形を整えれば終わり。

 その日の内に仕上がった代物は球体状の機械であった。その中心部で発光しているものが何かは創始には理解が及ばない。ただ言えるのは、現代科学の限界を超えた何かがこの場で生まれたかもしれないということだけだった。

 メスを取り出した束は完成品を少女の心臓付近に組み込む手術を行った。

 篠ノ之束は天才である。失敗はしない。

 

 2日後、銀髪の少女は目を覚ます。結果はわかりきっていると自信に溢れていた束だったが、いざその命を助けたと実感したとき涙を流した。

 ……良かった。

 そう言って抱きしめる束の優しい抱擁は子供を産み落とした母親を思わせる。

 貰い泣きしていた創始があることに気づく。

 

「この子の名前は?」

 

 遺伝子強化素体は施設の方では番号で呼ばれていたと聞いている。だから彼女には本来の名前と言えるものはない。

 束は深く考えることなくぽろっとこぼすように告げる。

 

「クロエ・クロニクル。略してクーちゃん」

「なんだ。もう名前を付けてたのか」

「そ。私はクーちゃんのお母さんになるんだから名前くらい付けないとね」

「とりあえず順調に助かったってことで良さそうだね。じゃあもう家に帰ろうか。柳韻さんも心配してるよ」

「誰が帰るか、あんなとこ!」

 

 さっきまで深い慈愛に満ちた目をしていた束が急激に激昂する。

 

「あれ? 家出の理由ってクーちゃんのことだったんじゃないの?」

「あの化け物にクーちゃんを見せられるわけないよ」

「確かに柳韻さんに遺伝子強化素体を見せるのは織斑的にもよろしくないかも」

 

 篠ノ之柳韻はドイツの件に絡んでいないため遺伝子強化素体の事情には理解がない。現状では束が捨て子を拾ってきたようなものである。

 

「だからクーちゃんをここに泊めて」

「実の親と徹底抗戦する気なんだね……? わかったよ。僕もそれに付き合う」

「さっすが、おじさんの一番弟子! 話をわかってくれるね」

「はいはい。僕の父には上手く言っておくから、束さんは束さんでちゃんと家の方に連絡を入れるんだよ?」

「えー、面倒くさーい。そうくんが代わりにやっといてくれない?」

「自分の親を大切にしようよ……ん? そうくんって僕のこと?」

「他に誰がいるの?」

「いないね」

「嫌だった?」

「ううん、全然。むしろ意外にいい感じだった」

 

 破天荒に周囲に人間をかき回していく台風のような束を、創始は持ち前の超がつくほどの包容力で受けきってみせた。気を良くした束は眠っているクロエの頭を撫でて微笑みかける。

 束の発明品が遺伝子強化素体であるクロエの命を救った。これこそが世界で最初のISコアである。

 

 

  ***

 

 束がクロエを救出してから2年後。

 織斑が亡くなった。妻と2人で外出中の交通事故だと知らされる。

 束は通夜にも葬式にも出ることなく事故現場を調べていた。慕っていた人の死を悼むことよりも、真実を追求することを優先する。涙を見せないまま淡々と事故を追いかけた末に不可解な点があることに気づく。

 

「相手側にブレーキ痕がない……?」

 

 交通事故の概要は織斑の運転する乗用車と大型トラックの正面衝突。1車線のみの山道であるから正面衝突自体は不自然ではない。問題は正面から車が来た際の運転手の対応である。

 普通なら衝突を避けるためにブレーキをかけつつハンドルを切る。左側を走る日本の運転手ならば反射的に左に逃げようとするだろう。織斑の車のブレーキ痕はその例の通りに左へと向かっている。

 しかし相手側は全くブレーキを踏んでいない。それも右側へとハンドルを切っている。それこそわざとぶつかろうとしない限り大事故にはなりえなかったほどに。

 

「おじさんは殺された……」

 

 悲しみを全く顔に出さない束だが、怒りだけは隠そうとしない。震えている両手の拳から血が滴るほど固く握りしめている。

 

「やっぱりここにいたのか、束さん」

 

 後ろから声をかけてきたのは創始。共に織斑を慕っていた同志とも言える存在で、発明家としての束の支援者でもある同い年の少年。彼がこの殺人の証拠に気づいていないと束は思っていない。

 ――そして、明らかに殺人事件であるにもかかわらず事故として処理された事実にも気づいていることだろう。

 

「そうくん。私、おじさんとの誓いを破ってもいいのかな……? もう今だったらおじさんがうちの化け物に殺されることはないんだしさ」

 

 織斑は束に『人を殺すな』と厳命してきた。軽々と強力な兵器を持ち出せる束にとって人の命は恐ろしく軽い。身内以外の人間に価値を見出せない冷めた心は兵器の引き金すらも軽くする。織斑はそんな束のストッパーとなってきていた。

 その(たが)が外れてしまった。ある意味で抑圧されてきた黒い感情が一気に束の胸の内を占めてしまっている。このままだと束は殺戮へと向かうことも厭わない。

 

「つまり、束さんは織斑を忘れるってことだね?」

「え……?」

 

 同意してくれるのを待っていた束は驚愕で目を見開く。

 

「私がおじさんを忘れる? 何を言ってるの?」

「だって織斑は束さんに人殺しをさせたくなかったんだよ? 束さんもそう誓った。それを破るのは織斑との今までを束さんがなかったことにしようとしていることになる」

「違う! 私は――」

「違わない。単なる復讐は人を殺さない誓いを破るだけでなく、織斑の目指していた“楽しい世界”からも遠ざかる。だって束さんが復讐したところで、楽しくないでしょ?」

 

 まさかこの期に及んで初めて出会ったときと真逆の立ち位置になるとは思っていなかった。

 最初は束が創始に『楽しければいい』と言っていた。今は同じことを言い返されている。

 想像してみた。織斑を殺した相手を束が自分自身の手で殺すイメージを湧かせる。正直に言えばスカッとする。しかし楽しいかと問われると少し違っていた。

 

「……ねえ、そうくん。今の世界は楽しい?」

「全然まだまだ」

「楽しいって何だろう?」

「僕はまだその答えを見つけてないよ。きっと束さんも」

 

 その通りだ。束には常識外れの知識だけはあっても知らないこともある。織斑の目指していた世界が何なのかを正確には理解していない。

 楽しい世界という理想郷に至る道がまるで見えなかった。それがたまらなく悔しい。天才を自負する自分がわからないままで終わることはできない。

 相手を殺すという復讐は逃げだ。理解を放棄するなど篠ノ之束にはありえない。

 

「そっか。私が楽しい世界を作ればいいんだ」

 

 やるべきことが見えた。織斑が志半ばで倒れたのなら、それを引き継げばいい。わざわざ織斑を殺したのだから、その相手は織斑の作ろうとしている世界を快く思っていないのは明白。ならば楽しい世界を作ることこそが間接的な仇討ちになる。

 

「先に言われちゃったね。僕も手伝うよ」

「ありがと。頼りにしてる。主に資金面で」

「僕は財布か……まあ、いいけど」

「じゃ、これから2人で頑張ってこー!」

 

 と束が右手を振り上げたときだった。

 

「待て。私を除け者にする気か?」

 

 近くの茂みががさがさと揺れて1人の少女が姿を見せる。歳は束たちと同じ。目つきは鋭く、その姿勢は無駄にピシッとしていて歩く姿に隙がない。

 

「ちーちゃん!? どうしてこんなところに? お葬式は?」

「いつの話をしている? 昨日終わった」

「いっくんは放っておいたままなの?」

 

 いっくんとは織斑一夏のこと。千冬がここにいるということはまだ物心つく前の幼い弟を1人家に残してきたことになる。

 

「雪子おばさんに預けてきたから心配するな。そもそもお前も妹を放っておいて家に帰ってないだろう? 人のことは言えないな」

「うぐ。それはそうだけどさ」

 

 千冬に言い返されて束は言葉に詰まる。父親が生きているとは言え、姉があまり家にいないことに変わりない。

 

「話を戻すぞ。お前たちはこの私を差し置いて父さんの仇討ちをしようとしているのだな?」

「え、う、うん。一応はそうなる……のかな?」

「前々から気に食わなかったからハッキリ言ってやろう。あの人の娘はこの私だ! 勝手に娘を気取るな!」

「むっ! ちーちゃんがうちの化け物にばっかりくっついてて寂しそうだったおじさんと遊んでてあげたんだよ!」

「それは違う。お前が先生を毛嫌いしてたから真面目に稽古を受けていた私が相対的に近かっただけのこと。私のせいではない」

 

 事故現場の付近で束と千冬はバチバチと視線で火花を散らす。この場に居合わせてしまっている創始は『長くなりそうだ』とぼやくとその場に腰掛けて成り行きを見守った。

 

 この日、3人で世界を変えようと誓った。

 これがツムギの始まりである。

 

 

  ***

 

 ツムギの活動は低年齢な構成メンバーからは考えられないほどに過激なものだった。世界各国を飛び回り、犯罪者を片っ端から捕まえていく。時には武力を行使してでも目的のために一直線であった。

 メンバーも増えた。その中には傭兵として紛争地帯に飛び込んでいった遺伝子強化素体の姿もある。ツムギは世界中の争いに何かしらの関わりを持つほどの巨大な組織となっていく。

 全ては楽しい世界を作るために。つまらない世界を否定するために彼らはその手に武器を取る。復讐を否定した彼らであるが、手段としての戦闘は辞さなかった。

 そうして活動を進めていくうちに明確に敵対すべき組織の存在が浮き彫りとなった。

 亡国機業(ファントム・タスク)

 100年以上も前から戦争の影で暗躍している武器商人の集団であり、平和を謳っている現代でも各国の裏に潜んでいる者たち。他者を操って自らの利益としている彼らの存在は織斑の思想と相反するものであり、ツムギが目指す世界の最大の障害なのである。

 織斑が襲撃した施設も亡国機業が関わっていたことはバルツェルから聞いていた。織斑が殺されたのにも亡国機業が関わっている可能性が高い。ツムギはこの組織を潰さなくてはならない。

 全貌を掴めなくとも存在は認識できている。束たちは徐々に亡国機業の構成員を捕らえ始め、少しずつではあっても亡国機業にダメージを与えていった。

 

 ツムギが活動を開始してから2年と少しばかり経った頃、世界に変革の時が訪れる。

 亡国機業がツムギを殲滅するために大きく行動を開始した。

 ツムギの構成員には日本人が多い。特に中枢メンバーは日本人ばかりである。

 たったそれだけの根拠で亡国機業が仕掛けてきた攻撃はツムギを日本ごと殲滅するというもの。日本を攻撃できる弾道ミサイルを一斉に発射するという、目標に対して過大すぎる攻撃を行なったのである。

 

「狂ってやがる! オレたちが目障りだからってここまでやるのか!?」

 

 ツムギの主要メンバーが集まっている場。メンバー中では大人と呼べる遺伝子強化素体の男、メルヴィンの叫びに全員が頷いた。

 

「これは流石に驚いた。まさか奴らの影響力が大国のトップにまで伸びているとは思わなかったよ」

「やけに冷静だな。何か策でもあるのか?」

「策でどうにかなる状況じゃないよ。だけど悲観もしていない。僕らには女神様がついてるんだからさ」

 

 創始が視線を向ける先には機械仕掛けのウサ耳を付けた束がしたり顔で胸を張っている。

 

「うん、この程度ならどうとでもなるよ」

「マジかよ……具体的には何をするんだ?」

「簡単なことだよ。ミサイルが落ちてくる前に全部叩き落とせばいい」

 

 一瞬だけその場が静まりかえった。

 その反動であるかのようにメルヴィンが叫ぶ。

 

「バカなことを言ってるんじゃねーよ! 弾道ミサイルが1000発や2000発単位で飛んでくるんだぞ! 今、こうして話してる間に着弾するってのに!」

「そうだねー。だから今から行ってくる。箒ちゃんといっくんがいるこの世界を壊させたりはしないから」

 

 とぼけた口調に反してすっくと素早く立ち上がると束は外に走っていった。

 

「アイツ、何をする気なんだ?」

「僕も良くは知らないよ。千冬さんは何か聞いてる?」

「いや。だが束が出来ると言ったのだから出来ないことはないだろう」

 

 千冬と創始は束に絶対の信頼を置いている。人格にではなく技術に。その手が紡ぎ出す出来事はまるで奇跡のようであっても束にとっては普通のことだ。

 

 この日、後に白騎士と呼ばれる、世界で最初のISが空に現れる。成層圏よりも高く飛翔した白騎士は地平線を一筆で描けるほどの長さにまで伸びた光の大剣を振るい日本に迫っていたミサイルを全て叩き斬ってみせた。

 ツムギを壊滅させるためだけに行われた日本へのミサイル攻撃はたった1機のISによって阻まれた。この事実はすぐさま各メディアを通して世界中に発信される。弾道ミサイルを容易く無力化した超兵器が存在するという事実は世界の軍事バランスを保ってきていた相互確証破壊の崩壊を意味し、結果的に世界の軍事を裏で牛耳っていた亡国機業の権威が失墜することにつながった。

 

 世界が変貌したきっかけとなったこの事件は白騎士事件と名付けられた。

 

 

  ***

 

 白騎士事件から3年が経過する。篠ノ之束が世界に公表したISはそれまでの常識を覆す驚異の性能を持っていた。しかし、ただ純粋に超技術が現れたではすまない大きな問題も抱えていた。

 ISは女性にしか扱えない。

 この使用制限がネックとなり、世界中で男女間に新たな亀裂が生じることとなる。

 

 なぜこのような制限がかかってしまっているのか。

 千冬は一度、束に確認してみたことがある。

 その回答はこんなものだった。

 

『うちの化け物を正面から打ち倒すために作ったからね。あの化け物が使えないという条件を加えられればなんでも良かったんだよ』

 

 公表された事実とは異なり、束の意図した制限であったことが発覚した。そもそも束が親子喧嘩で勝つために生み出されたのがISだという。

 加えてツムギを率いている創始がこれに追い打ちを入れた。

 

「男が使えない設定はそのままにしておこう。必要以上に有用性を示してしまうのは良くない。男の自尊心に傷をつける現状の方が必要以上な軍事的発展を阻害できる効果を期待できる」

 

 創始は白騎士事件を世界へのプレゼンテーションの場として整え利用した。その理由は亡国機業の軍事的な権力を失墜させるため。万能の兵器でなくとも、亡国機業の支配体制さえ崩せればISの公表は成功だといえる。

 束と創始によって生み出されたISの微妙具合はある程度は上手く機能していた。女性しか使えないもの、しかも数が限られているものを軍事の中枢に据えようという動きは小さかった。

 

 しかし良いことばかりとも言えなかった。欠点を抱えていようと超兵器なことには変わりない。量よりも質を体現するような兵器を利用する上で、各国首脳が導き出した答えは『優秀な操縦者を集める』ことだった。

 自国に優秀な操縦者を引き込むために女性優遇の法整備がなされる。世界中で女性優遇の法律が蔓延し、女尊男卑と揶揄される風潮が出来上がってしまう。

 わずか3年の間。人々の意識がまだ女尊男卑に染まるはずもないが、このまま女性優遇の法体制が続いてしまうと、やがては女尊男卑が当たり前の世代が生まれてきてしまう。

 

「ということで2人に来てもらったわけなんだけど、いい案はない?」

 

 珍しく創始が困った顔で束と千冬に相談する。自分たちの行動で世界中が混沌とした状態になっていることに責任を感じずにはいられない。

 

「別に今のままでもいいよー。見てる分には面白いし」

「束さんに聞いた僕が間違いだった。千冬さんは?」

「私がISを使って柳韻先生と戦ってみよう。そこで私が負ければ男が弱いという風潮ではなくなる」

「いや、それだとISが弱いと思われるか柳韻さんが化け物ってだけだから失敗だね」

 

 千冬の提案を否定したが創始にはピンとくるものがあった。

 

「そっか……法律を変えさせようとしなくても人々の意識を変えさせなければいいのか」

「具体的には?」

 

 聞き返された創始はニヤリとしたり顔を見せる。

 

「何も思いつかない」

「……そうか」

 

 千冬は束を連れて創始の部屋を出て行こうとした。

 

「待って! 本当にノーアイディアだから助けて!」

「私にはそうくんが何を困ってるのかがわからないんだけど……そうくんが何かの答えを出さないといけないの?」

 

 これまた珍しく束が真面目な顔をして創始に尋ねた。

 なぜ創始が女尊男卑問題に立ち向かう必要があるのか。

 その答えは簡単だった。

 

「楽しい世界じゃなくなると思ったからね」

「ふぅん……」

 

 2人にはこのキーワードだけで通じるものがある。言われてみればこのままで織斑の目指した世界になるとは思えない。この瞬間から束にとっても由々しき事態となった。

 だが束には難しい問題である。物理法則すら無視しそうな発明を生み出す頭脳を持っていても人間の心理は全くの専門外であり、凡人よりも圧倒的に理解力が足りていない。

 

「ねぇ、クーちゃんはどう思う? 何かいいアイディアはないかなぁ?」

 

 束は自分にくっついていた銀髪の少女、クロエに猫なで声で聞いてみた。

 束の背中側からひょっこりと顔を出したクロエは両目を完全に閉じているのだが正確に創始の方へと顔を向けた。高校生の年齢である彼らと比較して1人だけ幼い彼女であるが、その物腰はとても落ち着き払っている。

 

「皆で楽しく、ということなら男性も使える状況が手っ取り早いと思われます」

 

 言葉遣いもやけに大人びていた。とは言ってもこの場にいる3人はそんなクロエを当たり前だと思っている。

 

「うーん……男性の使用制限解除はまだするべきじゃないんだよ。せめて亡国機業の中枢を壊してからでないと」

 

 クロエの提案にも創始は渋い顔を崩さない。

 

「楽しくというのが無茶があるだろう。私たちはISを兵器として広めてしまった後だ。武器はどう取り繕ったところで武器にしかならない。今、主立った企業や国連がISをスポーツにしようという動きを見せているが、実質的には戦争の代替物でしかないしな」

 

 千冬からも厳しいコメントが出る。主にクロエの口にした『楽しく』という部分を指摘するもの。そして『スポーツ』という単語が出てきたことで1つのアイディアが生まれた。

 

「そうだ! 限定的空間で制限を解除すればいい! 男女関係なくどころか、一般の人でも限定的にISを使える環境を用意しよう! そうすれば男性の劣等感を少しは抑えられるし、いつか制限解除した日に男性がすぐにISを使いこなすことも可能かもしれない!」

 

 創始1人だけがテンションを上げる。首を傾げる3人に創始は意気揚々と宣言する。

 

「ゲームを作ろう!」

 

 既に具体的な案は固まっていた。

 クロエの単一仕様能力“幻想空間”はISコアの中に仮想世界を生み出すことができ、人の意識をその中に潜り込ませることができる。これまではその有効利用法が『相手に幻覚を見せる』ことだけだったが、対象に疑似体験をさせることも可能だ。これを応用する。

 その仮想世界で誰もがISを使える状態にする。具体的な製作は束ができるはずだし、ゲームとしてのシステムは創始が考えればいい。

 

「なるほどねー。じゃ、早速取りかかるよ」

 

 束は創始の提案を全面的に受け入れた。

 この1年後、世の中にISVSが普及し始めることとなる。

 

 

  ***

 

 再び時は移り、3年の時が経過した。ISVSの普及は始めこそ上手くいかなかったものの、この頃になると現実でのIS競技が廃れてISVSに移行するようになりはじめる。

 束は黒いペンダントを首から提げるようになった。常に傍らにいたはずの盲目の少女の姿はどこにもない。ISによって支えられてきた彼女の肉体は限界を迎えていて、とうに葬られている。ペンダントはその代わりと言える代物だった。

 

「ねぇ、クーちゃん。次はどこに行こっか?」

 

 独り言を呟くように胸のペンダントに話しかける。すると返事があった。

 

『束さまのお好きなところへどうぞ』

「そういうのが一番困るんだよね。我が儘を言ってくれた方が私は嬉しいんだよ?」

『私は束さまと一緒に居られればそれでいいです』

「あー、もう、かわいい!」

 

 愛おしそうにペンダントを撫でる束。それもそのはずで、このペンダントこそが今のクロエの身体である。

 クロエは束に生かされた時点で体の半分がISとなっていた。時間と共にクロエの体は成長していったのだが、同時に人の部分が機能しなくなっていった。12歳時点で成長が止まり、残された身体も死に体となる。

 そのまま人として死ぬ選択肢もあった。クロエがそれを望めば束は受け入れたことだろう。しかしクロエは束と共に在ることを望んだ。たとえ人としてでなくとも、共にいたかったのだ。

 

 クロエはIS“黒鍵”として生きている。

 

『あ、1つだけ思いつきました』

「行きたい場所? どこどこ?」

『イギリスです。たしか場所はロンドンで良かったかと』

 

 顔のないペンダントがドヤ顔を披露している。束にはそんなように見えた。

 

「あのね、クーちゃん。そんな変な気を回さなくてもいいんだよ」

『何のことでしょう?』

「とぼけたところで無駄無駄! そうくんの出張先だから選んだのはわかりきってるんだからね!」

『束さまはすごいです。しばらく顔を合わせていない創始さまのスケジュールを完璧に把握しているだなんて』

「ま、まあね。天才にかかればこのくらいは当たり前――」

『ちなみに千冬さまは今どこに居られるのでしょうか?』

「…………」

 

 束は固まってしまった。

 ペンダントからはクスクスと笑う声が漏れる。

 

『細かい話はさておき、早く行きましょう』

「クーちゃん。私をからかってない?」

 

 口を尖らせつつ、渋々ながら束はIS“黒鍵”を起動させてふわりと浮き上がる。向かう先はイギリス。具体的な位置は現地に到着してから改めて調べることにした。

 ISを使った飛行で束はあっという間にイギリスに辿り着く。クロエの意図に従って創始の居場所をすぐさま探す。事前に発信機は仕込んである。見つかるまでは時間の問題だ。

 何かしらの乗り物で移動中であることは発信機の反応から見て取れた。ところがその信号はいきなり消えてしまう。

 

「あれ? もしかして、そうくんに気づかれて壊されちゃった?」

 

 自分の開発した作品には自信がある。束は不具合を一切疑わず、発信機自体が破壊されたのだと分析する。

 

「でも、そうくんだったら気づいても笑って許してくれると思うんだけどなぁ……」

 

 織斑の元で出会って以来、志を同じくしてきた男のことを思う。体感的には束と一般人の間に立っているような男で、彼の存在は浮き世離れしていた束を一般的な常識の中につなぎとめていた。

 今の束の精神的な土台を作り上げたのが織斑なら、それを育んできたのは創始である。共に成長してきた間柄であり、彼の異常すぎるほどに穏和な人柄は誰よりも知っている。我が儘な束を織斑のように受け入れてくれた彼が、今更になって束の仕掛けた発信機に不快感を示すとは考えにくい。

 

『束さま……? どうしました?』

 

 心配そうにクロエが声をかける。今の束は顔面が蒼白になっている。長年共に過ごしてきたクロエが全く見たことのない顔色だった。

 束から返事はない。無言で空を飛ぶ。何回もイグニッションブーストを繰り返して、発信機の信号が消えたポイントへと急ぐ。

 

 ついに辿りついた場所は地獄絵図となっていた。

 

 なんでもない田舎の線路。都市間をつなぐ列車が脱線し、車体があちらこちらで大破している。

 悲鳴と慟哭が支配する阿鼻叫喚とした事故現場に降り立った束は足早に車体へと走った。横転している車両の天井部分を引き裂いて内部へと突入する。

 倒れた人が折り重なり、鮮血が内装を赤く染めている。血生臭い空気の中を束はただ1人を探して彷徨(さまよ)った。

 見つけた。その瞬間、束はその場で膝を折る。

 

「そうくん……?」

 

 事故現場ではすまされない惨状が残っていた。壁、床、天井のありとあらゆる面に穿たれているのは銃弾の痕。正しく蜂の巣となっている室内の座席にぐったりと体重を預けている男は見間違えようもない。創始だった。

 ただの脱線事故ではない。これは創始を狙った敵の仕業。ツムギの指導者を確実に殺した上で、大事故としてこの件を処理しようとしている。織斑のときと同じ。明確な殺人の証拠があろうと敵は握りつぶすだけの権力を有している。

 

「ねぇ……そうくん……」

 

 束はふらふらと立ち上がる。涙を見せない無表情なまま創始に歩み寄った束は彼の血塗れの頬をそっと撫でる。

 

「私にはわからないよ」

 

 胸の内を喪失感が占めている。虚しさばかりが溢れてくる。

 

「本当に……楽しい世界なんてこの世にあるのかな……?」

 

 束は創始の顔に自分の顔を寄せた。額と額をくっつける。彼に残された体温を感じるために。彼とまだ通じ合っていたいと祈る。

 答えは返ってこない。楽しい世界を作ろうとしていた男は2人とも束の元から去った。残された束はこの世の全てに興味がなくなる。

 

 この日を境にして篠ノ之束は歴史の表舞台から姿を消した。ツムギは崩壊し、ISを理解し始めた亡国機業が再び暗躍を始めることとなる。

 

 

  ***

 

 創始の死後から2年もの間、文字通りの隠居をしていた。世俗との関わりを絶とうとしても篠ノ之束はまだ世界が必要としている人材である。ISコアの秘密を握ったまま、唯一ISコアを作ることの出来る束を放置すればいいと考えるものなど居るはずもなく、敵味方を問わずに追われる身となっていた。

 たまに千冬とだけは連絡を取っていた。ツムギが無くなってもまだ亡国機業と戦っているという千冬を支援することもなく、ただ話をするだけ。話題は主に一夏と箒のことばかり。一夏が毎年の1月3日に篠ノ之神社に通っているという話も千冬の口から聞いていた。

 

「いっくんと箒ちゃんにも迷惑しかかけてない。2人とも、今が楽しいわけないもんね……」

 

 自分たちがツムギとして活動していたために箒を別人として一夏の傍から引き離した。全ては箒の身の安全のため。束の親族は人質に取られる可能性が高い。ツムギを殲滅するために弾道ミサイルまで持ち出した狂人連中が相手では柳韻がついているだけでは安心と言えなかった。

 そこまでしても束は楽しい世界に辿りついていない。犠牲に払ったものだけが大きく、成果は全くと言っていいほどない。今のところ、世界中を引っかき回しただけで終わっている。だから一夏や箒の前に顔を出すことは不甲斐なくてできなかった。

 

 そんな折り。無気力な束に1つの連絡が届く。束宛というわけでなく、ツムギの残党から千冬への通信を勝手に傍受していたクロエが垂れ流したものだ。

 ――文月奈々が監視下から抜け出した。

 年の明けたばかり、1月2日の夜のことである。無気力だった束の目に光が灯る。

 奈々――箒が姿を眩ました理由はわかりきっている。一夏との約束を果たすために護衛の目を振り切ろうとしている。

 

 それはいけない。篠ノ之神社に近寄るのは危険だ。

 

 束は自らの身体に活を入れた。現実逃避を続けていた彼女の胸の内には僅かに心が残っている。今まで振り回してきた妹のことまで『どうなっても構わない』と思うような非情さは持ち合わせていない。

 

「クーちゃん! 神社に行くよ!」

『はい。しかしその前に悪い報せがあります』

 

 久方ぶりに黒いペンダントを首から提げると、ペンダントが語り出す。

 

『こちらをご覧ください』

 

 束の視界に表示された画像は篠ノ之神社を中心とした日本の関東地方の地図だった。そのうち、北陸地方から首都圏に向けて日付付きの×印が数カ所に付けられている。その場所に束は心当たりがない。

 

「これは何?」

『ここ1週間ほどのとある変死事件の死体発見現場です。被害者は10代中頃の男女問わず。警察は心臓麻痺として処理している場所もありますが、私は関連性があると見ています』

「これって、日本海辺りから移動してきてる?」

 

 日付の古い順に×印のポイントを追っていくと変死事件の発生が一定の速度で移動していることがわかる。そのままの方角と速さで場所を移していくと翌日には束にとって馴染み深い場所にぶち当たる。

 

「篠ノ之神社……それも1月3日!?」

『おそらくこの事件の真の狙いはそこでしょう』

「変死って言ってたけど、具体的には?」

『外傷も何もなく、眠るように息を引き取っていたそうです。黒鍵のデータベースに照らし合わせると過去に似た事例が発見できました』

「Illだね」

 

 クロエの返答を待つことなく答える束。ISを開発する際に参考にしていた織斑の資料の中にあった実験の内容と酷似している。十中八九、該当する兵器がISの後追いで完成したと見ていい。

 創始が死んでから2年。その間、束は現実と向き合ってこなかった。ISコアが増産されなかったために亡国機業が新しい行動を起こしてきていても不思議ではない。

 

「でもどうして日本に?」

 

 束の疑問にはクロエがすぐさま回答する。

 

『白騎士事件と同じです。全ては束さまと敵対しているからこそ。おそらくは篠ノ之神社に束さまを呼び出すためにわざと狙いがわかるように動いています』

「そこまで予測してて、どうして黙ってたの?」

『束さまに仕掛けられた罠なのは見え見えでしたから。今、お伝えしたのは束さまが知らずに死地に飛び込むのを避けるためです。箒さまが篠ノ之神社に行く可能性さえなければ束さまが行く必要も生じませんでしたので、現状は私にとってもイレギュラーな事態で――』

 

 違う。箒が篠ノ之神社に向かっているのは敵にとっても予想できない事態のはず。だから本当に餌にされているのは箒でなく一夏だ。

 

「急ぐよ、クーちゃん。このまま放っておくと、私はちーちゃんにも顔向け出来なくなる」

 

 敵の罠だとはわかっている。それでも束には向かうだけの理由があった。

 今度こそ失敗しない。

 今度こそ奪わせたりしない。

 束に見えている小さい世界からこれ以上人がいなくなって欲しくなかった。

 

 千冬にも連絡を入れた後で篠ノ之神社に辿りつく。

 鳥居をくぐったその先に待っていた光景は最悪の事態そのものだった。

 

「箒ちゃん……」

 

 箒を含めた女子が2人倒れている。一夏の姿こそ見当たらないが、束が間に合わなかったことに変わりない。

 傍らには車椅子に腰掛けている老人がいた。髪はなく、白い髭を存分に生やしたしわくちゃの男の左目は機械化されていて、無機質なピント合わせのカチャカチャした動きが逆に生物のようである。

 

「ようやく来たか、篠ノ之束よ」

 

 見た目に反して声は若い。しかしところどころに雑音が入っていて若干聞き取りづらい声だった。まるで古いカセットテープを再生したときのような声は明らかに肉声ではない。

 車椅子の老人は目も喉も機械化されている。束から見て『美しくない』人体改造を施している相手が何者なのか、束はすぐに察することができた。

 

「亡国機業の親玉……」

 

 創始が突き止めていた亡国機業のボス。百年以上も前から存在し、代替わりすらすることなく現代にも生きていて、裏の世界でついた異名は“生きた化石”。類稀な頭脳を持っており、突出した技術力を背景に世界を征したマッドサイエンティストは人の身体を捨ててまでこの世界に君臨しようとしている。

 

「私の名はイオニアス・ヴェーグマン。察しているとおり、君たちが亡国機業と呼んでいる組織を率いている者だ。こうして他人に名乗るのも何十年ぶりのことであろうか。自己紹介などに意義があることなど久しくなかった」

 

 老人は自分から名乗った。今までツムギが追っていても居場所を全く掴めなかったというのに、呆気なく束の前に姿を見せている。その理由は隠れる必要がないからに他ならない。

 

「さて。聡明な篠ノ之束博士ならば既に理解していることだろう。私は何のためにここに来て、既に何をしたのかを」

 

 束は無言で人差し指をイオニアスに向ける。表情こそ変えないが、その目は暗く淀んでいる。明確な殺意が視線に現れている。

 人を殺すなと大切な人2人に言われてきた。束もそれを守ってきた。全てはいずれ来る楽しい世界のために。手を汚した束では辿り着けないと言われてきたからだ。

 でももう無理だ。束がいくら堪えても2人は帰ってこない。その元凶が目の前にいて、箒も巻き込まれた。殺しても殺さなくても楽しい世界がやってこないのなら、自分の中の衝動に従えばいい。

 IS“黒鍵”を展開する。水色のワンピースが黒く染まり、漆黒の6枚羽が背中に広がった。

 

「お前を殺す……」

「わかりやすい危険分子で助かる。ISを造り上げた技術力を生かすか悩んでいたが、結論は出た。君は私の世界に必要ない存在だ」

 

 老人が車椅子ごと宙に浮き上がると黒い霧に包まれる。一瞬の後、黒い霧が晴れると車椅子が消失して、代わりに灰色の装甲を纏った直立姿勢の老人が姿を見せた。 

 男はISを使えない。それは半分機械化していた老人でも同じことである。つまり老人が使っているものはISではない。束の持っている答えはIllのみ。

 

「君と私が相容れることなどありえないのは知っている。織斑の襲撃に始まり、ツムギの武力介入は非常に煩わしいものだった。何を目の敵にされていたのかは全く知らないが、降りかかる火の粉は払わねばならん。この15年に渡る人類にとって無益な争いを今日この場で終わらせようではないか」

 

 戦闘が始まる。

 老人の身体から黒い霧が溢れて周囲を覆っていく。この霧は触れただけで危険であると、束は初見であっても看破した。手を象った黒い霧が束に迫るが、束は至極冷静に人差し指を霧の手に向ける。

 小さな所作だ。たったそれだけでイオニアスの黒い霧は文字通り雲散霧消する。

 

「ほう……ファルスメアの特性を見抜かれているか」

「人の魂を食らうIllの根源は人の思いを力にするISのエネルギーも同じように食べてしまう。でも霧状のものをコントロールする技術はISのPICを流用している。だからこっちも同じように干渉してやれば形を維持できない」

 

 束の指から放たれたのは黒鍵の装備などではない。IS操縦の上級者ならば誰でも使うAICを自分から離れた場所に適用しただけのことだった。しかしAICの遠隔使用、それもブリュンヒルデのブレード攻撃と同規模のものはIS戦闘において常識外れのものだ。

 本来、ファルスメアをAICで突破することはできない。しかし束は力業でねじ伏せる。単なるIS開発者で終わらない、次元の違いが如実に現れていた。

 口では冷静を装っているイオニアスだが実際は全く余裕がない。それどころか勝算が既に無くなっている。

 束は無言で指鉄砲を乱射する。イオニアスを守っていた黒い霧は射出されたAICの力場を前にして次々と剥がされていき、ついには本体からの供給が追いつかなくなる。そしてたった一発のAIC弾が直接左肩に命中すると、イオニアスの左腕が肩からもがれた。

 

「ぐ……まさかここまでの差があるとは」

「所詮は胸糞悪いだけの玩具。こんなもので粋がっている奴がおじさんやそうくんの敵だったなんて拍子抜けだよ。たった1人でのこのこと束さんの前に出てきたのは愚かでしかない」

 

 地上に墜落したイオニアスを束が見下ろす。呆れていると言いたげに溜息を吐くが胸の内は自分への静かな怒りが満ちていた。その感情すらも目の前の敵への憎悪に切り替えて、とどめを刺すために人差し指をイオニアスに向ける。

 

「私の生など些細な問題だ。後継者は用意している。このガラクタに等しい身体で篠ノ之束の精神を殺せるのならば、喜んでこの身を差しだそう」

 

 この絶体絶命の窮地を前にして、イオニアスは笑っていた。その顔を前にして束は一瞬の躊躇をする。その隙があればイオニアスには十分だった。たった一言さえ発することが出来ればいいのだから。

 

「私を殺せば君の妹も死ぬ」

 

 束は攻撃をすることが出来なくなった。腕を下げて、イオニアスを視線で殺す勢いで睨みつける。無感情に見えていた束の表情に明らかな感情が宿っていた。

 

「事態の理解が早くて手間が省けた。篠ノ之箒はまだ生きている。もっとも、まだというだけではあるのだが」

「……クーちゃん、生体反応のチェック」

 

 呟きに近い声量で指示する。黒鍵のセンサーは視界内にいる箒にまだ息があると断定している。イオニアスの発言は間違っていない。

 ……ああ。まだ手遅れじゃなかった。

 怒りの感情がきっかけではあったが束は冷静さを取り戻す。怒りとは別に安堵も覚えている。

 

「要求は何? 武装解除? ISコアの生産?」

 

 まだ死んでいないのなら、束には箒のために出来ることが残っている。

 

「武装解除だ。今更ISコアの数が増したところで私の益にはならん。むしろ邪魔な存在だ」

「わかった」

「ダメです、束さま!」

 

 束はイオニアスの要求に従って黒鍵を解除した。待機状態である黒いペンダントを首から外して右手に掲げる。

 

「これでいい?」

「うむ、そのまま何もせずに立っていろ。下手なことは考えない方が妹のためだ。もはや私が特別に手を下さずとも篠ノ之箒は絶命する。助けるためには私が彼女を解放するより他に方法はないのだから」

 

 イオニアスの右手に黒い霧が集まる。人の命を容易く奪ってしまう闇が、その攻撃的な意志を剣として形を成す。

 

「避けることも許さぬ。大人しくこの場で絶命するがいい」

 

 篠ノ之束を害さんと闇の凶刃が振り上げられる。人質を取られて無抵抗を強要されている。下手に手を打てばその時点で箒の命はない。

 

「束さま。敵が箒さまを助ける保証はありません。要求に従ってはダメです」

「わかってるよ」

 

 イオニアスのIllは既に箒を食らった。タイムラグがあるが食われた者は死亡する。まだ助けられるという言葉が真実であっても、束の死後に面倒な手順を踏んでまで口約束を守る理由はない。そんなことはわかっている。

 束は確実に箒を助けなければならない。イオニアスの意思だなどという不確定なものに期待するのは天才のするべきことではない。

 既に手立ては思いついている。そもそも黒鍵を解除したのはイオニアスの要求に従ったからではなく、箒を助ける手段に用いるため。

 

「クーちゃん。箒ちゃんを助けるために力を貸してくれる?」

「はい、もちろんです」

「その身体を失ってでも?」

「当たり前です。クロエ・クロニクルは常に束さまのために存在します。それが私の存在意義。束さまのいる場所こそが私にとっての“楽しい世界”です」

「ありがとう」

 

 束の右手から黒いペンダントが高速で射出される。黒鍵は単なるISではなく、クロエの意志が宿っている。待機形態であってもISの機能を使用でき、ペンダントのみがイグニッションブーストを使うことも可能。

 

「ぐぁっ!」

 

 ペンダントはイオニアスの胸に着弾。貫通することはなくイオニアスの身体にめり込んだ。

 

「君は実妹を犠牲にすることを選ぶわけだ……」

「そんなわけないから黙っててよ、耄碌(もうろく)ジジイ」

 

 束は移動型ラボ“我が輩は猫である”を起動する。コア・ネットワークを通じて黒鍵にアクセスし、単一仕様能力“幻想空間”に干渉する。空中に投影された仮想キーボードを叩く束の指は視認が困難なほどに速い。

 

「ごめん、そうくん。私たちの作った世界を使わせてもらうよ」

 

 イオニアスに打ち込んだ黒鍵は媒介。束の狙いはIllの能力を書き換えることにある。イオニアスを絶命させず、Illの機能を停止することなく別の物に作り替える作業は真っ当な手段では難しい。

 束の取った手段はISVSを利用することにあった。独立したIllに手を加えることは束にはできない。しかし黒鍵と融合してISVSの一部となっているIllならば束の思うとおりに書き換えられる。Illから箒を助け出すため、ISVSにIllを取り込んだのだ。

 

「死亡するまで生命力を吸い上げる仕様を変更。吸収量にリミッターを付けて箒ちゃんの死亡を回避。あとは箒ちゃんの精神を取り戻さないと。そのトリガーは……Ill本体の消滅がないとどうにもならないか」

 

 高速の独り言でキーボードを叩く。既にIllの改変が始まり、箒を含むまだ死んでいない被害者の命はつなぎ止められた。あとは精神が囚われの身となっている箒を解放する手続きを済ませればいい。

 自称する通りの天才はたった数秒でIllの危険性を緩和していく。しかしそれだけの労力を払っていて、他に意識を向けられるはずもなかった。

 

 漆黒の剣が束の胸に突き立てられる。

 剣は身体を刺し貫いて背中から刃が飛び出していた。

 

 水色のワンピースに血が滲む。口からは喀血。死に体であるにもかかわらず束の手はキーボードを叩き続ける。

 

「ぐ……が……」

 

 イオニアスが胸を押さえてその場に蹲る。Ill改変の影響を受けて、Illの原動力であるファルスメア粒子が急速に減少。百年以上の時を生きる身体の生命維持にも影響が出始めていた。

 Illの消滅よりも先にイオニアスが死亡する。その場合、黒鍵とIllの融合が不完全となり、箒の解放が出来なくなる。それどころか改変が無効になって箒が死亡する可能性も出てくる。

 ……最終手段だ。

 朦朧とする意識の中で束は思い切った行動に出た。Illと黒鍵の融合を維持するために、イオニアスの意識もクロエと同じように黒鍵に取り込む。そうすればIllの改変は無効とならず、箒の延命は維持できる。

 だがそれは黒鍵の中にイオニアスをIllごと封印することになる。満身創痍な束ではもうIllに手出しが出来なくなるも同義だった。

 

「……ごめんね……助けきれなかった……」

 

 束の最後の策が完了するとイオニアスの胸から黒鍵が消失した。

 黒鍵がISVSの中に消えた後になってようやく篠ノ之神社に織斑千冬が駆けつける。

 残されていたのは気を失っている女子中学生2人と胸に大穴を開けた老人の死体。そして、血の海に沈む篠ノ之束だけだった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ハッと気がつく。ISVSは現実ではないが“俺”という意識が帰ってくることで現実感が湧き上がってきていた。

 周囲を確認してみる。篠ノ之家を模した和風の内装だ。天井に開いた穴からは無機質な空間が垣間見える。ここはツムギの迷宮の中であり、俺はイーリス・コーリングと戦っていたことを思い出す。

 

「今、見えていたのは束さんの記憶……なのか?」

 

 過去に経験したクロッシング・アクセスで俺は箒やセシリアたちの記憶を覗き見ていた。ついさっきまで俺は俺の知らない記憶を追体験していて、それは箒やセシリアのときと同じ。共通していた登場人物が束さんしかいなかったから十中八九束さんの記憶だと思う。

 

 束さんの知っている俺の父さんのこと。

 白騎士事件の裏側と束さんの立場。

 ISVSが出来るまでの経緯。

 クリエイターと束さんの関係。

 そして……あの日、篠ノ之神社で起きていた出来事。

 

 あまりにも情報が多くて頭がパンクしそうだ。しかもこれを真実だと断定する証拠もない。クロッシング・アクセスのときと微妙に違っていて、俺の意識と束さんの意識はほとんど重なっていなかった。だから俺の中に実感として全く残っていない。

 でも事実だとすれば収穫としては十分だ。

 ISVSにIllの存在がある理由は箒を助けるために止むなくだった。決して束さんが箒を苦しめようとしたわけでなく、現状は束さんにとっても誤算なんだ。

 一番重要な情報はイオニアス・ヴェーグマンの存在。半分以上機械になっていたあの爺さんはエアハルトの記憶の中にもいた。亡国機業のボスであり、遺伝子強化素体をこの世に生み出した元凶は死んでいなく、今もなおISVSの中で生き続けている。箒を食らったIllと共に……

 

「そういえば篠ノ之論文は?」

 

 当初の目的を思い出す。新しい情報が入った今、俺にとっては無用の長物だったが楯無さんと協力している以上、手に入るなら手に入れなければならない。

 迷宮の中でこの和室は明らかに異様だ。篠ノ之論文があるのならこの部屋の中。さらには心当たりもある。

 

「あれ? コタツの上にあった本がない」

 

 その心当たりは消えていた。どうやら俺が束さんの記憶を見ている間に持ち出されたようだ。よく考えてみれば、戦っていたはずのイーリスの姿もない。

 

「一夏くん?」

 

 天井の穴から楯無さんがひょっこりと顔を出す。俺がイーリスを引きつけている間に奥へと進んでもらっていたのだが戻ってきたらしい。

 

「篠ノ之論文はありましたか?」

 

 たぶん無かっただろうと予想しておきながら聞いてみた。

 楯無さんは首を横に振る。奥の道はフェイクだったらしい。

 

「すみません。俺、たぶん目の前でイーリスに篠ノ之論文を取られたみたいです」

「この隠し部屋にあったってことね。相手が相手だし、取られちゃったものは仕方ないわ。致命的な技術がアメリカに渡らないことを祈りましょう」

 

 俺は目的を果たしたけど作戦自体は失敗に終わる。

 その俺にしても情報こそ手に入ったけど、役に立つものとはまだ言えない。イオニアス・ヴェーグマンという存在を知っても、その居場所までは特定できていないから動きようがなかった。

 イオニアスは黒鍵というISと融合しているらしい。そして黒鍵はクロエという遺伝子強化素体とも一体化している。クロエは束さんにクーちゃんと呼ばれていた。間違いない。俺の知ってるクーのことだろう。

 ナナが行方不明になってからクロエの姿も見ない。

 この件にクロエが関わっている? でも束さんの仲間だったクロエがナナを俺たちの前から連れ去る理由が見えてこない。

 

 次の方針が決まった。

 クロエを探そう。ナナの行方をクロエなら知っているはずだ。

 あと、遺伝子強化素体も追うべきかも。エアハルトに命令を下していたイオニアスが今も健在なら遺伝子強化素体の行動に関わりがある可能性がある。具体的にはラウラの失踪が関係しているかもしれない。


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