Illusional Space   作:ジベた

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【幻想黒鍵 - Illusional Space - 】
41 止めない歩み


 上下左右、あらゆる方向に星空が広がっている。そんな天然のプラネタリウムに浮かぶ漆黒の球体は正しく浮いている存在だった。まるで星空に虫食いができてしまったかのように、球体の存在する一部だけが一切ノイズのない純粋な黒で染まっている。

 今、その黒へと近づく人影がある。重力の働かない星屑たちの空を自由に動き回る男は当然のようにISを着用している。……いや、ISらしきものと言った方が正確だろう。少なくとも、Illを知っていてもなお、これをISと認識する者は少数である。

 男は黒い球体の建造物の中へと入っていった。

 球体の内部は異様に赤い通路。壁面はところどころにケーブルが剥き出しになっていて毛細血管を彷彿とさせる。人工的な建造物ではあるが生物の体内を思わせる色合いといえる。鼓動まであったとすれば巨大生物の体内と言われた方がしっくりとくるほどだ。

 迷宮のように入り組んだ血管の通路を奥へ奥へと進むと、男の目的地である心臓部分に到達する。野球でも出来そうなくらいに開けた空間はそれまでの景色と打って変わって白一色で染まっている。まるで異世界。男はここを天国のようだと形容している。

 

「ゴーレムどもの宇宙空間への配置の件ですが、無事完了しましたよ♪」

 

 男は楽しげに声をかけた。当然、その対象がこの空間に存在する。男の視線の先、中央にそびえ立つ水晶で造られた樹木の根本には機械製のウサ耳を装着したワンピースの女性が立っていた。

 

「おつかれ~、イレイション。手伝えなくてごめんねー」

「いえいえ。我らが神様のお手を煩わせることはありませんよ」

 

 男に“神様”と呼ばれた女性は背中を向けたままだ。彼女が見据えるは水晶の樹木。透き通って見える内部である。

 その様子に違和感を覚えた男が尋ねる。

 

「“彼女”に異常でも?」

「ううん。“幻想黒鍵”との融合は完了してて、“絢爛舞踏”も正常だよ。無線バイパスを通してイレイションにも供給できてるのがその証拠」

「あ、マジっすか!」

 

 唐突に言葉を崩した男は高いテンションを維持したまま、手から黒い霧を発生させる。

 

「本当に使い放題になってんじゃん! これで何も怖くねえ。じゃ、早速地上の方へ行っても?」

「好きにすればいいよ。ちゃんと役目さえ果たしてくれれば、ね」

「わかってますって。人間どもを宇宙(そら)へと出さないことですよね? では色々と仕掛けてきます」

 

 そう言い残して男は白の空間を去っていった。

 後には結晶の大樹を見上げるウサ耳の女性だけが残される。

 

「箒ちゃんが居てくれる。それで束さんは束さんでいられる」

 

 独り言が向けられたその対象。

 結晶の大樹にはピンク色の髪の少女、ナナが取り込まれていた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

「週末のクリスマスイブだってのにこんなとこで何やってんだろ、あたし……」

 

 年季の入ったテーブル席に顔を伏せた鈴が呟く。その目にはうっすらと涙すら浮かんでいた。

 

他人(ひと)の実家をこんなとこ呼ばわりすんなっての」

 

 対面にはこれまた景気の悪そうな顔をした弾が頬杖を突いている。

 ここは弾の実家でもある五反田食堂。まだお昼の忙しい時間の前であり客が少ない。ガラガラの客席の一部を借りて何をするでもなく2人して溜め息をついていた。

 

「どうして弾がここに居るのよ?」

「居ちゃおかしいか!? ここは俺の家だっての!」

「虚さんは?」

 

 単刀直入に問われた弾は目に見えて沈んだ。虚ろな目をした弾の半開きの口からは魂が抜け出ているかのようである。

 

「仕事だってさ……しかもしばらくは連絡もつかない」

「なるほどね。例の裏のお仕事ってことかー」

「鈴の方こそどうした? それこそどうして“こんなとこ”に“ひとり”で?」

 

 気怠そうにしながらも言い返すところは言い返している。鈴は「うぐっ」と声に出るほどダメージを受けていた。

 

「ムカつくわね。わかってて聞いてるでしょ?」

「2パターンほど考えられるが、どっちかまではわかんねえよ。鈴がへたれたのか、一夏が唐変木なのか――」

「どっちも外れ……逃げられたのよ」

「はぁ?」

 

 弾が素っ頓狂な声を上げる。

 

「アイツ、家で寝込んでたんじゃないのか!?」

「あたしもそう思って叩き起こしてやろうと思ってたんだけどね。見事に誰もいなかったわ。千冬さんは今忙しいはずだし、セシリアは亡国機業の件で本国に呼び戻されてる。シャルロットと2人で残ってると思ったんだけど……」

「ってことはシャルロットが一夏を連れて行った?」

「それも違うわね。幸村に探してもらうように頼んでみたら、シャルロットは1人でゲーセンに顔を出してるってさ。肝心の一夏の情報はなし」

「そっか……まあ、1人で外に出てるってことは確実そうだな。チャンスだった鈴には悪いが、一夏が思ってたより元気そうで良かった」

「あたしのイメージを勝手に下げんな! あたしだって一夏が元気ならそれに越したことはないわよ」

「ムキになんなって。近くで見てきた俺はそんなこと良く知ってる」

 

 テーブルをバンと叩いて逆上する鈴を弾が宥める。これもまた良くある光景で、世間的に特別な日でも何ら変わることはなかった。

 

 一夏たちとエアハルトの決戦から数日が経過している。事情を知っているプレイヤーたちにとってはエアハルトを打ち倒して全てが終わった。そのはずだった。

 鈴にとっても友人となった鷹月静寐を始めとして、入院していたツムギのメンバーは無事に目を覚ましている。今は長く眠り続けていた影響で立って歩くことはできないが順調に回復していく傾向にあると聞き及んでいた。

 ……1人を除いて。

 エアハルトをその手で打ち倒し、満身創痍だった一夏が辿りついた病室で待っていたのは、眠り続ける篠ノ之箒と傍らで見守る柳韻という何も変わらない現状でしかなかったのだ。

 それから一夏は一度も学校に来ないまま年末の休みに突入して今に至る。鈴たちからの連絡に対しても音信不通だった。

 

「結局、あたしって蚊帳の外なのかなぁ……」

 

 ずっと抱えていた不安が口から漏れ出る。そもそも最初から一夏は鈴を巻き込もうとはしていなかった。頼るようになっていたとはいっても鈴個人にではなかった。少なくとも鈴本人はそう感じている。

 自分から危険に飛び込んで、一夏を精神的に追いつめて、挙げ句の果てに助けられたのは鈴の方。その後にいくら一夏のために戦っても鈴の気が晴れることはなかった。

 

「鈴がどう思ってるかだけの問題だ。お前が自分のことを蚊帳の外だと思ってるならその通りなんだろう」

「弾お得意の精神論?」

「経験談だ。見方によっては一夏も蚊帳の外になってておかしくない。だけどアイツは自分から飛び込んでいった。問題の中心にな。俺が一夏と一緒に戦ってるのも俺なりの理由で中に入っていったからだ」

「だったらあたしも当事者ね」

「そう思ってるならそうなんだろ。一夏が幼馴染みのために戦ってる。鈴が一夏のために戦う。それでいいんじゃないのか?」

「そうよね……」

 

 弾に言われなくても鈴は頭ではわかっていた。しかしそれでも報われたかった思いもあり、少々複雑なのだ。

 

「なんか段々と一夏にとって都合のいい女を演じようとしてる自分に気がついてきちゃった……」

「セシリアみたいなマジで一夏にとって都合のいい女がいるからだろうな。で、そんな自分が嫌いなのか?」

「そうでもない。負けたくないって気持ちの方が強いの」

「誰に――だなんて聞くまでもないか。で、今日はどうする? 言っとくが俺も含めて藍越エンジョイ勢の大多数が暇人だぞ?」

 

 弾がニヤリと笑みを浮かべる。半ば自棄になっているとも言えるが、こうなっては1人で過ごすよりも有意義なことがある。

 

「ようし、ISVSやるわよ! ゲーセンに集合をかけなさい、弾!」

「あいあいさー」

 

 そうと決まれば行動は早かった。弾は携帯片手に連絡を始め、鈴は素早く席を立つ。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 休日だったりクリスマスイブだったりしても病院という場所はそこまで変わらない。白衣姿の人たちが忙しそうに廊下を行き来していたり、患者が待合い席を賑わせているのもよく見る光景だ。

 俺は当然のようにそれらを無視して先に進む。別に俺が受診しに来たわけじゃない。ここには見舞いに来たのだから。

 目的の部屋の前に到着する。軽くノックすると中から返事があった。

 

「どうぞ」

 

 病室は個室。しかも見舞いに来るには特別に手続きが必要となっている。それもそのはずで医師にしてみれば正確な病状すら不明な難病の患者が入院していたのだ。もう今では大丈夫なのだと俺たちはわかっていても医者の方は後遺症の可能性も危惧してやや特別な扱いを続けている。

 

「お邪魔します」

「あら、君は……誰だったかしら?」

 

 中に入ると初めて会うおばさんがいた。そういえば前に来たときは会えなかったんだっけ。

 

「初めまして。織斑一夏です」

「ああ、あなたが例の。なるほどねー」

 

 例の……?

 なにやら品定めされてるかのように全身をじろじろと見られている。

 かと思えばおばさんは名乗ることなく病室の奥を振り返った。

 

「じゃあ、静寐。お母さんはちょっと出かけてくるから」

 

 奥に一声だけかけると俺の脇を通り過ぎてさっさといなくなってしまう。

 これはもしかしなくても気を使われてしまった。

 ……まあ、俺としてはその方が話しやすいから結果オーライ。

 俺は奥へと歩を進める。カーテンの奥に隠れているベッドには上半身だけ身を起こしている人影があった。

 

「もしかしてヤイバくんですか?」

「当たり。元気そうで良かった」

 

 ベッドで寝ていたのは静寐さんだ。あのエアハルトを倒した日に目が覚めたらしいけど、こうして会いに来たのは今日が最初になる。

 

「俺、タイミング悪かったかな?」

「ううん、大丈夫。お母さんはすぐに早とちりするから慣れてます」

「……仲が良いんだな」

 

 楽しそうに語る静寐さんの顔を見て、つい呟いてしまう。よく考えると割と失礼な物言いになってしまった。

 

「でもタイミング悪いのも否定できないかもしれませんね」

「どっちなんだ」

「この日を狙ってきたヤイバくんに私はどこまで許すべきなのでしょうか」

「何の話だよ……って今日、何かあったっけ?」

「私には実感のない話ですが、今日はクリスマスイブです。ナナちゃんを放っておいて私のところに来るだなんて乙女心を理解できていないとしか思えません」

 

 ナナの名前が出て俺は言葉に詰まった。その動揺が顔に出ていたのか静寐さんの顔からも笑顔が消える。

 

「何かあったんですか?」

 

 静寐さんたち、目覚めたツムギのメンバーには他のメンバーについて一切の情報が与えられていない。それは単純にメンバーの誰が死んでしまっているのかを本人たちに伏せておくため。生きている者同士は本人たちが自分の足で動けるようになってから直接会ってもらうことになるのだと思う。

 その関係で静寐さんには箒を含めた全員の状況を知らされていない。だから静寐さんは箒がまだ目覚めていないことを知らない。

 でも箒については隠すだけ無駄だな。俺も箒に関しては隠すつもりもないし。

 

「実はさ……箒――ナナはまだ……」

「そう、ですか。ナナちゃんはまだあの世界に取り残されているんですね」

 

 現実でも異様に察しがいい人だ。それでいて大きく動じたように見えない。

 ……俺なんて今でも凹んでて、叫びだしたい衝動を辛うじて抑え込んでるだけなのにな。

 

「それでヤイバくんは今日までずっとナナちゃんの傍にいたんですよね? だから私のところに来たのが今日になったんですよね?」

 

 可能だったらそうしたかった。だけど俺はずっと()()にすら会えていない。

 事態は以前よりも悪化している。

 箒が目覚めていないどころか、ナナの居場所がわからない。ISVSの中でも彼女は行方不明となっていた。

 全てを話すつもりだったのに何と言ったものかわからなくなった。というのも目に見えて静寐さんの顔に陰りが生まれたから……

 

「教えてください、ヤイバくん! ナナちゃんはどうなったんですか!」

 

 ポーカーフェイスの崩壊が早かった。静寐さんは声を荒げて問いただしてくる。

 もうわかっているんだろう。

 俺はゆっくりででも話すことにする。胸の痛みをこらえながら。

 

「あの日からずっとナナがどこにいるのかわからないんだ。あの北極海の戦場にも残ってなかったし、ツムギにも戻ってなかった」

 

 箒が目覚めないと知った俺はすぐにISVSに戻った。だけどプレイヤーが引き上げた後の戦場には誰一人として人影はなかった。すぐさまツムギにまで戻ったけど倉持技研の人がいるだけで、残っていたはずのツムギメンバーすらも姿を消していた。

 クーもいつもの場所にいなかった。

 俺には他に彼女の居場所に心当たりがない。今日までずっとがむしゃらに仮想世界の中を探し回ったけど、全てが無駄に終わっていた。

 少しだけ冷静になれた俺は当てもないまま探すよりも情報を集めることを選んだ。だからこそ俺はここにいる。

 

「静寐さんに聞きたい。あの世界でツムギ以外にナナが行きそうな場所に心当たりはある?」

「……ツムギの他に私たちが家としていたのはアカルギしかありません。レミさんたちは?」

「皆、現実(こっち)に帰ってきてる。潜水したまま操縦者のいなくなったアカルギは北極海に沈んだらしいから、そこにナナがいる可能性はほぼない」

 

 結局、静寐さんの知ってる範囲は俺と大差なかった。もしかしたらと思っただけだからそれほど期待していたわけでもない。

 ここに来たのも別に無駄足じゃない。とりあえず静寐さんの元気そうな顔が見られただけでもプラスだ。

 でもやっぱり静寐さんは悔しそうに歯噛みする。

 

「……どうしてナナちゃんだけ戻ってきてないんですか」

「わからない。でもだからって俺は止まるつもりなんてない」

 

 元々俺は何の手がかりのないまま箒を探し始めていた。

 ここまで順調に現実への帰還が近づいていると思っていた。それが勘違いだっただけのこと。

 たかが振り出しに戻っただけだ。俺が足を止める理由にはならない。

 

「心配かけてごめん。とにかく俺はナナを探しにいく。現実への帰還祝いはナナが戻ってきたときに一緒にやろう」

「あ、待ってください! 私も一緒に――」

「気持ちだけ受け取っておくよ。これは俺がやるべきことだから」

「私の意思を無視してでもですか?」

 

 まだ歩けないと聞いている。だけどすぐにでも走り出せそうなくらいに強い目で俺を見てくる。

 静寐さんとナナの関係を考えれば何かしたくなるのも仕方ないとは思う。

 とは言え俺も譲れない。ナナのために何をすればいいのかもわかってないのに静寐さんをまたあの世界に連れて行くだなんてしたくない。あの世界は静寐さんたちにとって怖いものだったはずだから。

 何よりも――

 

「静寐さんはゲーセンには行けないだろ? だからナナのことは俺を当てにしてくれよ」

「……わかりました」

 

 小さな声でそう呟いた静寐さんはベッドに横になると掛け布団を頭から被ってしまう。あからさまに不機嫌になってる。今日はもう帰った方がいい。

 

「じゃあ、また来るよ」

 

 静寐さんからの返事はなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 一夏が去った後、静寐はむくりと身を起こした。

 

「ヤイバくんが連絡すらくれなかったので妙だとは思っていました。ナナちゃんとよろしくやっているために私のことなど忘れているのかと心配しましたが、私どころの問題ではなかったんですね」

 

 現実で目覚めてから数日。まともに知り合いのいなかった静寐を見舞う者など母親くらいしかいない。ナナはもちろんのこと、ツムギの誰とも話さない時間は現実であるのに現実感がなかった。

 ナナと離されて、危機感のないままベッドに横たわるだけで時間が過ぎていく。苦痛、とまでは言わないがこのままでいいのかという不安に襲われた。誰かと話をしたくても母親は事情を良く知らず、医者や看護士は明らかに何かを隠していて、まともに情報すら得られない状況が今日まで続いていた。

 

「さて……私はこのまま大人しくしているべきだと思いますか?」

 

 窓から空を見上げ、現実(ここ)にはいない誰かに問いかける。

 表情を読みやすく、失言の多いヤイバと話すことで静寐にも事態の理解が追いついた。

 まだ自分たちの希望には届いていない。シズネの希望にもナナの希望にも。そして、“彼”の希望にも……

 ナナがいなくては何も始まらない。

 ヤイバの言うように終わってなどいなかった。

 

「……シズネの思うようにした方がいいと思うよ」

 

 独り言だったはずの言葉に返事があった。その音源は少なくとも見た目が幼い少女。入り口とは反対側のベッドの陰で身を屈めていたため、先ほどまで部屋にいた一夏は彼女の存在を認識できていない。

 

「かくれんぼは終わりですか、ゼノヴィアちゃん」

「子供扱いはやめて。私はシズネよりも2歳くらいは年上なんだからね!」

「これは失礼しました、ゼノヴィアお姉さま」

「うーん……それはなんとなく嬉しくない」

 

 のそのそと立ち上がった銀髪の少女、ゼノヴィアはキョロキョロと辺りを見回す。

 

「もうヤイバくんは帰りましたよ?」

「そ、そうだよね。うん、大丈夫」

 

 一夏がいないことに安心した彼女はようやく肩の力を抜いた。

 今日はとんだ災難といったところだ。数馬から『鷹月静寐が現実に帰ってきている』と聞かされ、せっかく今いる数少ない友人に会いに来たというのに、そこであのヤイバと遭遇するとは思ってもみなかった。

 

「ヤイバくんが怖いですか?」

「え? えーと……そ、そんなことはないよ」

「嘘ですね」

 

 ズバリ嘘だと断言されてゼノヴィアの目が泳ぐ。このようなあからさまな態度がなくとも静寐には彼女の嘘くらい簡単に見抜けるほどの驚異的な洞察力がある。

 

「立場が違えばヤイバくんを怖いと思うのは当然です。私に気を使う必要はありません」

 

 静寐は既にゼノヴィアがISVSでどんな目に遭ってきたのかを聞いていた。ヤイバがゼノヴィアを殺そうとしていたことも知っている。当時の静寐がこのことを知っていればヤイバを止めようとしていたのは間違いないと断言できるがそんなもしもの話は後の祭りでしかない。

 

「でも現実のヤイバくんは怖そうというよりも甘そうな顔をしていると思うのですが、それでもダメだった?」

「あの顔が逆に怖いの。あの博士を一騎打ちで倒した人なんだって思うと何か恐ろしい中身があるような気がして……」

「難しく考えすぎかな? あの人はただのナナちゃん大好き人間ですよ。私にはわかります。同類ですから」

 

 ゼノヴィアの不安を静寐は笑い飛ばす。恐ろしい中身なんてあるわけがない。彼は最初からたったひとりのために戦い続けているだけなのだと静寐は確信しているから。

 

「同類なのにどうして喧嘩したの?」

「さっきのは喧嘩じゃありません。無駄に優しくしようとするヤイバくんに対して私が不満を言っただけです」

「それって喧嘩じゃ――」

「全然違います。むしろこれは私の一方的な我が儘。ナナちゃんの危機に大人しくしているだなんて私には無理なんです」

 

 正直に言ってしまえばヤイバには腹を立てている。もう静寐は囚われのヒロインを卒業した。次にやるべきことは最後のヒロインを救出に向かうことのみであり、そのための戦士となることに何も抵抗などない。

 

「どうしてそんな我が儘を言ったの?」

 

 不思議そうにゼノヴィアが質問した。

 静寐は力強い目をしたまま胸を張って答える。

 

「私がそうしたいから、ですよ」

 

 あまりにも簡潔な回答の前にゼノヴィアは言葉を失った。

 そんな理由で危険かもしれない場所に戦いにいけるのか、と。

 静寐だけではない。数馬も一夏もゼノヴィアから見れば強い人ばかり。単純な戦いの強さでしか語らなかった遺伝子強化素体の世界がちっぽけに見えてしまった。

 

「そういえばゼノヴィアちゃん。御手洗くんを待たせてるのでは?」

「あ……そろそろ行かなきゃ。もっとお話したかったのに」

「また遊びに来てください。今の学校には友達がいないので入院中は寂しいんです」

「うん、わかった。またね、シズネ」

 

 軽く挨拶をしてゼノヴィアは軽快な足取りで病室を去っていった。静寐と話をしたかったというのは本音に違いないがやはりゼノヴィアが一番傍にいたいのは数馬なのだ。

 

「そういえば私って今、どういう扱いになってるんでしょう? 中学は卒業……できてないんでしょうか」

 

 意識不明となったのが年明けだった。当時の静寐はまだ中学3年生であり、受験は受けてさえいない。自分がこれからどんな生活をするのかはよくわかっていない。それでも静寐は新しい生活に不安を覚えることはなかった。

 同じ境遇の人が居る。唯一無二の親友がまだ帰ってくる。彼女とならどんな苦難が待ち受けていても乗り越えられると信じられた。

 だから静寐が今すべきことは決まっている。

 

「もちろん私にやれることはするつもりです。ナナちゃんの親友ですから」

 

 独り言で決意を露わにする。

 現実ではまだ歩くことすら難しい。誰かの足を引っ張ることしかできない上に、せっかく仲直りした母親に心配をかけるだけである。

 だから静寐は考えていた。この状態の自分にもできることを……

 母親がペットボトルのジュースを3本持って病室に帰ってくる。静寐1人だけしかいないため、「あれ?」と首を傾げていた。

 

「おかえりなさい、お母さん」

「ただいま――じゃなくて、さっきの男の子は? ゼノヴィアちゃんも帰っちゃったみたいだし……お母さん、飲み物買ってきたのに」

「急用ができたって。あの人はモテますから」

「あら。ライバルでもいるの?」

「ライバルじゃなくて親友です」

 

 一夏のことを静寐の彼氏だとはやとちりしていた母親に対して、静寐は大きく否定しない。恋敵と言われてナナの顔が出てきたがそれも即座に否定する。

 彼女とは互いに蹴落とす関係などではない。共に在りたいと思える関係だ。

 現実で彼女と居るために静寐はできることから始める。

 

「ねえ、お母さん。頼みたいことがあるんだけど――」

 

 自分だけではどうしようもない。だから静寐は今ある人脈を使って行動する。

 まずは自分が動けるようにしなくてはならない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 可能性は低かったとはいえ当ての1つが早々に潰れてしまった。しかも静寐さんの気を悪くさせただろうからしばらく近寄りづらい。堂々と顔を合わせるにはやっぱり箒が帰ってこないとな。

 次の予定は決まっている。思ったより静寐さんのところで時間を使わなかったから予定よりも早く待ち合わせ場所である駅前に着きそうだ。

 

「次は次で当てにできないけどな」

 

 つい独り言が漏れる。最初の頃と比べれば手がかりも手助けも多いはずなんだけど、先に進んでいる感じがほとんどしない。そんな不安が俺の胸に渦巻いている。

 

「……じゃあ、約束は無かったことにして帰っていい?」

「うわぁ!?」

 

 唐突に後ろから声がし、前に飛び退いてから振り返る。

 そこにはキョトンと首を傾げてメガネがズレる簪さんがいた。

 

「そんなにビックリした?」

「あ、ああ。まさか後ろにいるとは思わなかったもんで」

「私も今から向かうところだったの……ごめん」

「いや、謝らなくていいから」

 

 駅に向かう途中で出会った簪さんこそが俺の待ち合わせの相手である。彼女は倉持技研とつながりがあるだけでなく、あの楯無さんの妹だ。今は楯無さん本人が忙しくて連絡が取れないから代わりに彼女に来てもらった。

 

「早速で悪いんだけど、俺の頼みは通った?」

「お姉ちゃんも虚さんもいなかったから本音に手を回してもらった。案内するからついてきて」

 

 若干不機嫌そうな声でさっさと振り向くと俺の前を早足で歩き出す。いくら年末だからってそこまで忙しなく動かなくてもとは思ったが、急ぐ分には俺にとって都合がいい。

 今から向かう先は本来なら俺が踏み込めるはずのない場所なんだと思う。具体的には良く知らない。簪さんは呆気なく俺を案内してくれているが、たぶん結構な無茶をしてる。

 

 静寐さんから情報が得られなかった場合に考えられる情報源は3通り。

 1つは今もなお千冬姉や楯無さんたちが追いかけている亡国機業の残党――具体的には藍越学園を襲ったテロリストだ。エアハルトとの決戦の際、別働隊として現実で奴らの本拠地と思しき場所へと宍戸先生たちが乗り込んで完全に勝利した。しかし亡国機業の全てのメンバーを捕らえるには至っていないと聞いている。

 亡国機業の残党を俺が直接追いかけるのには千冬姉がNGを出した。ISVSで戦うことは許容してくれてたけど現実ではわけが違う。

 あの決戦で俺が現実のISを動かしてエアハルトと戦った事実を知った千冬姉は俺を怒鳴りつけてきた。俺が戦わないと箒が奪われていたのは事実。そう反論はできたけど、代わりに戦えなかったことをしきりに謝る千冬姉に対して俺は何も言えなかった。

 あのときはISを動かせたけど、その後の検査で俺はISを動かせていない。そもそも動かせていた理由は不明。今の俺は現実では無力だから、現実の危険が伴う亡国機業残党の捜索は千冬姉たちに任せた方がいい。

 

 次に考えられるのはまだ見つかってないIllの捜索。イルミナントとの戦いから考えて直接的な情報を得られるとは思えないけど、もしかしたら箒を目覚めさせるきっかけになるかもしれない。

 それにまだラウラも帰ってきてない。Illとして敵になっていた彼女は千冬姉の前で一度だけ正気に戻ったらしい。だけどその後に千冬姉を攻撃して姿を消した。

 仮想世界でラウラが失踪した裏には糸を引いている何者かの存在がある。そしてそれはエアハルトじゃない。奴がラウラに行使した絶対王権を俺が戦いの中で打ち消した。一度だけ我に返ったのはタイミングからしてその影響に違いない。だとすると、その直後のラウラの行動にエアハルトが関与しているとは考えづらい。

 消えたラウラの背後にいる存在はおそらく亡国機業の残党。千冬姉もそう考えているようで、ISVSでラウラを直接探すような真似はせず現実で亡国機業を追っている。

 ISVSでラウラを探すという方法もないことはないが、それは今日まで俺がしてきたことと同じ。ナナを探してきた俺だがラウラにも他のIllにも遭遇していない。当てのない方法だし、以前のようにログインしただけで鉢合わせるような偶然もなかった。急ぐなら別の方法を採る必要がある。

 

 となると俺に残されたのは最後の1つの方法となる。それ自体も千冬姉に知られれば怒鳴られそうなことだけど、俺は今の“奴”を危険だとは思わない。

 簪さんと一緒に5駅ほど揺られ、その後も用意されていた車で移動した。その先は都市部から離れた小さな山の麓で、灰色の(いか)つくも地味な建物の前。

 

「着いたよ」

 

 近づいていくと建物と同じく灰色の塀の上には有棘鉄線が張り巡らされている。いかにもな建物を前にした俺は自然と緊張が高まった。

 

「ここにエアハルトがいるのか……」

 

 俺との戦いの後、河原で倒れていたエアハルトは楯無さんが捕縛したらしい。ISに匹敵する兵器を扱っていた奴を警察に引き渡すことはなく、更識家が独自にその身柄を拘束しているとだけ聞かされていた。

 俺に残された最後の手段は敵の親玉だったエアハルトから直接情報を聞き出すこと。素直に話してくれるとは思っていないけどやるだけやってみるつもりだ。奴の協力を得ようとしていることに違和感がないなんてことはないけど俺は手段を選ぶつもりもない。

 

「ここはISを使ったテロの原因となりうる犯罪者を拘留するための施設。更識家が緊急で用意した場所で、常に1人は専用機持ちも控えてる」

「IS対策に有棘鉄線は意味ないんじゃないのか? 獣対策ってわけでもないんだろ?」

「あれは一般人に対する心理的防壁。何も知らない人から見れば、近寄りにくい雰囲気がでるから」

「たしかに……」

 

 門の警備員から許可証を貰って中へと入る。中は刑務所のイメージと違って割と事務的な設備しか見当たらなかった。しかし中で事務作業をしている人たちは例外なく更識に関係しているとのこと。具体的に何をしているのかを俺が知ってはいけないらしい。

 階段を降りていく。つまり俺たちは地下へと向かっている。軽く見積もって3階分降りた後で廊下を直進していくと突き当たりに重そうな扉があった。

 

「先に言っておくけど、今日までの尋問で一言も口を開かなかったらしいから話すこともできないかもしれない」

「ダメで元々のつもりで来てる。そのときはそのときだ」

「面会時間は10分。それ以上はダメ。気をつけて」

「ありがとう、簪さん」

 

 3回ほど扉をくぐったところで簪さんが足を止めた。2人の警備員も見守る中、俺は最後の扉に手をかける。

 意外と扉は軽く開いた。俺の経験に比較対象がないからこれが厳重なのかは良くわからないけど、この先に奴がいるという実感が薄れそうなくらいあっさりしている。

 部屋の中は薄暗く文字を読むなどに支障がでるだろう明るさしかない。内装も簡素なベッド1つだけ。その上に力なく座り込んで項垂れている男の顔は長い銀髪が邪魔してよく見えない。俺が入ってきたことにも気づいていないのかピクリとも動かなかった。

 俺の知っているエアハルトとは随分と違って見える。無地の白い囚人服という味気ない服装そのままに覇気が感じられない。

 

「エアハルト……だよな?」

 

 つい確認から入ってしまう。それくらい俺には自信がなかった。

 声には気づいてくれたのか、エアハルトの頭が重そうに上がる。長い前髪の奥に潜む金の眼光はかつての輝きを持っていない。

 

「ヤイバ――織斑一夏か。わざわざ私を蔑みにきたのか?」

 

 一言も口を開かなかったと聞いていたがあっさりと喋ってくれる。すっかり活力のなくなった外見とは裏腹に俺への敵意を含んだ物言いは相変わらずだ。

 

「そんな得にもならないことをするわけないだろ。できれば二度とお前の顔なんて見たくなかった」

「必然の一致だな。私ももう貴様の顔など見たくもない」

「へぇ……俺に負けたくないんじゃなかったのか?」

「既に負けた。それが全てであり、こうして生きていることは惨めでしかない。この苦痛が貴様に敗北した私への罰なのだと受け取っている」

 

 普通はその苦痛から逃れたいと思うんだけどな……こういうところが人間味が薄くて気に入らないんだけど、今はそんなことを言ってる場合じゃない。

 

「じゃあ、罰ついでに俺の質問に答えろ」

「図々しい男だ。私が貴様の益となる話をするはずがないだろう?」

 

 無気力ながらも呆れ混じりの溜め息程度はつけるらしい。返事をしてくれる時点で最悪の想定とはズレてるんだけど、エアハルトの言うとおり俺の質問に素直に答えてくれるのは難しいか。

 だけど、そもそもダメ元で来たんだ。やるだけやってみよう。

 

「残ったIllの居場所を教えてくれ」

「返答不能だ。私は誰が生き残っているのかすら把握していない」

 

 静寐さん顔負けのポーカーフェイスだ。嘘なのか本当なのかさっぱりわからん。

 ただ、エアハルトは俺に対して嘘を言ったことはないはず。俺の益とならない真実ならば即答してくる可能性は高い。

 

「ラウラはなぜ帰ってこない?」

「ほう、あの娘は帰っていないのか。絶対王権が貴様に無力化された時点であの娘は私の管理下を離れた。それ以降のことなど私が知る由もない」

 

 予想通りの回答。エアハルトはラウラがまだISVS内をさまよっていることも知らなかったようだ。

 

「そもそも質問内容からしてナンセンスだ。もし仮に私がIllの誰かの居場所を知っていて白状したところで、貴様が得することなど何もないだろう」

「……どういう意味だ?」

「私は指揮下にあった全てのIllの情報を記憶している。その私が文月ナナ――篠ノ之箒を確保しようとしていた。それだけの事実があって貴様は何も気づかないのか?」

 

 エアハルトの目的の話か。ギドを倒してから後は箒やラウラを支配下におこうと動いていた。それ以前についてもツムギを攻めてはナナを奪おうとしていた。

 ……ん? 本当にそうだったっけ? 何か引っかかる。

 たしか俺が最初にエアハルトと戦ったときはナナを攻撃しようとしていた。でもあのときのエアハルトはナナを捕まえようとしていただろうか。

 俺とエアハルトが互いの名前を知ったときはどうだ? 奴は明確にツムギを滅ぼしかねない攻撃を仕掛けてきた。それこそナナごと消し去るかもしれないマザーアースの強力な砲撃でだ。だけどその後から攻撃が控えめになっていたんじゃないだろうか。

 エアハルトに聞くべきことがわかった。

 

「お前はいつナナのことを知ったんだ?」

 

 改めて質問するとエアハルトは右手で顔を隠して「ハッハッハッハ」と高笑いする。

 

「私の記憶によれば既に貴様には話しているはずだ。もう一度言う必要があるほど愚かでもあるまい?」

 

 いちいち俺を小馬鹿にしている節が見られるけど、結局は俺の考えを肯定してくれている。

 奴がナナのことを知ったのはツムギにマザーアースで初めて攻め込んできたときに違いない。

 そしてナナが箒だと知ったのはもっと後。そうでなければ奴の行動はもっと早かったはず。タイミングとしては仮想世界でナナが連れ去られた直後くらいだろう。奴の絶対王権ならナナの記憶から情報を得られたはずだし。

 つまり――

 

「篠ノ之箒が昏睡状態に陥っていることと私の存在に直接的な因果関係などない。貴様は私を倒すという手段の可能性に過ぎなかったものを目的にすり替えてしまっていたのだ」

 

 エアハルトを倒したところで箒が目を覚ますなど、最初からありえなかった。

 戦ったことに意味がないなんてことはない。箒を守るためにエアハルトとの戦いは避けられなかった。だけどゴールじゃなかった。今の俺が理解すべきはそれだけのこと。考えるべきは箒を取り戻すためにこれから俺は何をすべきかだ。

 

「箒が目覚めない理由について、お前の考えを聞かせてくれないか?」

「貴様は本当に愚かだ。何度も言っているように私が貴様の益となる話をするわけなどないだろう」

 

 自分でもバカなことを言ってる自覚はある。ずっとISVSで戦ってきた宿敵とも言うべき存在の男に俺は見返りも何もない要求をしている。それで望む答えが得られるだなどと頭の中がお花畑と言われても仕方ない。

 それでも――

 

「頼む! 今はお前だけが頼りなんだ!」

 

 俺は頭を下げた。他に方法なんて思いつかない。足を止めるくらいなら恥でも汚名でもなんでも被ってやる。

 

「やめておけ。私は敵味方を問わず媚びるものを毛嫌いしている。機嫌を取るつもりならナイフの1本でも持ってきて自決でもしてみたらどうだ?」

「断る! たとえ箒が目覚めても、俺が死んでいたら意味がない!」

 

 即答する。見返りとして俺の命を要求される可能性は考えてた。だけど俺はそれに従うつもりなんてさらさらない。俺はこの現実で箒を出迎えないといけない。でないと初詣の約束が果たせない。何よりも俺がそうしたいと強く願っている。

 数秒の沈黙。そしてエアハルトは無言のまま鼻で笑った。閉じられた口が若干左右に引っ張られている。

 

「笑いたきゃ笑え。俺は死ぬつもりなんてない」

「ああ、嘲笑ってやろう。私との戦いで自殺未遂をしていた男の発言とは思えなかったのでな。愉快な話だ」

 

 またもやエアハルトは高笑いする。楯無さんに捕まった身の上だというのに何故か余裕をも感じさせる態度だ。だけど不思議と悪巧みの臭いを感じなかった。

 

「その意地汚さに免じて1つだけ問答をしてやろう。貴様はISVS――あの仮想世界がどういうものだと認識している?」

 

 俺の頼みが通ったのかは定かでないけどエアハルトは話を続けてくれるようだ。藁に縋っている状態の俺はこの問答に喜んで応じる。

 

「ゲームとは思えない、まるで現実と同じ世界」

 

 最初から感じていた通りに答えてみる。むしろこれ以外の答えを俺は持ち合わせてない。見たり聞いたりするだけじゃなくて、肌であの世界を感じていたし、痛みも本物だった。

 俺の答えは悪い意味で奴の思っていた通りのものだったらしく、おもむろに溜め息を吐かれた。

 

「やはり齟齬があるようだ。篠ノ之束が生み出したISVSは現実の全てを映し出す鏡などではない。IS操縦者の観測を仮想世界の創造主が認識・許容することで初めて情報が存在できる。なぜあの世界で遺伝子強化素体を生み出すことができるのか。そして、なぜあの世界にIllが存在できるのか。その根本に気づかないとは言わせない」

 

 俺だって疑っていたさ。だけどそれはもう否定した。

 

「束さんがIllと関係してるってことが言いたいのか? だったらもう俺は知ってる。ISはIllから派生したんだからあながち無関係じゃ――」

「認識という点だけの返答でしかないな。私は『Illという概念が許容されている』と言っている。その意味をわかっているのか?」

「え……?」

 

 何が違うのか。エアハルトに言われてから考えてようやく気づく。もし奴の言うように仮想世界の創造主が許容――つまりは許可しない限りIllが存在できないというのなら、Illの存在するISVSは創造主が望んだ姿であることになる。

 それは遺伝子強化素体も同じだという。エアハルトはそれを利用していただけにすぎないということらしい。

 なぜ束さんがIllと遺伝子強化素体をISVSに組み込む必要があったんだ? 箒を苦しめるだけのものを束さんが許すとは考えにくい。理由があるはず。

 

「……私からはここまでとしよう。さっさと消えるがいい」

「いや、もう少しだけ――」

「よもや私から何かしらの答えを得ようと考えているのか? それこそ愚かだ。ここまでの私の話を真実として受け取る危険性を理解できぬとは」

「俺は信じるよ。それしか道はない」

「フッ……私はこのような阿呆に敗北したわけか。惨め過ぎてプランナーにはとても顔向けできん」

 

 このタイミングで背中越しに扉の開く音がした。

 

「一夏くん。もうそろそろ……」

「わかった。すぐに行く」

 

 エアハルトが打ち切らなくても約束の時間になってしまっている。どのみちこれ以上の情報は得られなかった。

 少なくとも無駄足じゃない。そんな気がする。それだけ新しいことも聞けた。

 出ていく直前に俺は後ろを振り返る。エアハルトはもう俺から興味を外して天井をぼんやりと見上げていた。俺を煽ってきたときの嘲笑すらない、人形のように固まっている。

 そんなエアハルトに俺は最後に一言だけ言っておきたいことがあった。言われたままじゃ収まらない。こればっかりは奴に言われたままでは虫の居所が悪い。

 

「最後に1つだけ言っておく。手段と目的を履き違えていたのは俺だけじゃない。お前もだ」

 

 これでスッキリした。奴が聞いてくれているかはこの際どうでもいい。

 俺は簪さんと一緒に地上へと戻る。この次の行動はまだ決まっていないが、今は考えてみることにする。それだけのヒントはもらったと思うから。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 がらんどうになったツムギのロビーの中へとISVSプレイヤーがぞろぞろと入ってくる。多くを藍越エンジョイ勢が占めている男ばかりの集団だが先頭を進むプレイヤーは控えめな胸を若干水増し設定している少女だった。

 彼女のすぐ隣で後ろのメンツへと振り返り、藍越エンジョイ勢のリーダー、バレットは驚愕を顔に出している。

 

「リンの影響力はすげーよな。一声かけただけで何人集まってんだよ。俺が呼びかけても多くて20人だってのに」

「知らないわよ。皆、暇なんでしょ」

「それを言ってやるな。ここに集まった奴らが惨めになる」

 

 12月24日。バレットとリンは溜め息混じりにISVSへとやってきた。彼らの陰鬱そうな顔は後ろについてきている男たちのとても朗らかそうな顔とひどく対照的である。

 

「いやー、まさかリンちゃんが俺たちを誘ってゲームしようって言ってくれるなんてな。しかもこんな日にだぜ?」

「てっきり織斑――ヤイバもセットかと思ってたけどいないなんて珍しい。なんて素晴らしい日だ!」

「合法ロリ彼女のいる数馬に殺意を抱いたりしたけど、全く気にならなくなった。ありがとう、神様!」

 

 脳天気な会話はリンの耳にも十分に届いている。右手が硬く握り拳を作り、わなわなと震えていることに気がついたのはバレットのみだった。

 

「あーっと、そういえばどうしてこんなとこに来たんだ? ってかどうやって俺たちをここに連れてくるようにゲートを起動したんだ? 企業かなんかの許可がいるんじゃなかったっけ?」

 

 自分たちは憂さ晴らしに来ている。だからさっさとクリスマスの話題から鈴の意識を逸らす必要があった。ついでにバレットが自分の疑問もぶつけると、リンは口を尖らせたまま面倒くさそうにぶつぶつと答える。

 

「セシリアに頼んだらやってくれただけよ。ここに来た理由はナナが本当にいないのかを確認に来たかったから」

「一夏――ヤイバがしばらく家に引きこもってたくらいだからいちいち確認するまでもないと思うけどな」

「わかってるわよ。それくらい」

「で? セシリアへの言い訳はそれを使ったんだろうが、本当の狙いは教えてくれないのか? 確認だけならこいつらを連れてくる必要なんてない」

 

 親指でくいっと後ろを指す。そこにはリンに呼び出されて有頂天になっているファンたちが集う。1人1人の実力はそれなりだが、数が集まればやれることも自然と増えていく。

 もちろんバレットには心当たりもあって尋ねている。リンも今更はぐらかすような真似はしない。

 

「“迷宮”とやらに突っ込んでみようと思ってね」

「やっぱりな……結局はヤイバのためってことか」

「否定しないわよ。今も逃げてるIllを追ってるのは他にいるけど、ここだけはノーチェックだと思ったから」

 

 迷宮とはISVSのシステム中枢が眠っているとされる場所。入り組んだ構造と防衛用無人機“ゴーレム”の存在によりRPGなどにおけるダンジョンのようであることからそう呼ばれている。

 以前にヤイバと簪たちがツムギの最深部よりも地下にある迷宮へと足を踏み入れた話を耳にしていた。そのとき、Illと戦っていたときと同じ現象が迷宮内で起きていたことも知っている。

 エアハルトを倒してもナナが現実に戻らない。その理由が隠されている可能性は十分にある。リンは一夏よりも先にその可能性を見出していた。

 

「じゃあ、とっとと行こうぜ」

「うん……」

 

 目的もハッキリした。ならば目的地にさっさと移動すればいい。

 だというのにリンの足取りは重かった。

 

「どうした、リン? 今更危険だってことに気づいて引き返すってんなら大いに賛成だ」

「いや、そうじゃないけど……ってアンタは反対なの?」

「試しに行ってみるってのは悪くない。けど、本格的な突入はもうちょっと準備してからの方がいいな。具体的には国家代表を連れてくるくらいの準備だ」

「そう……アンタがそう言うなら早めに引き返した方が良さそうね」

「それが賢明だ」

 

 迷宮の中はIllとの戦闘と同じく現実への帰還に制限がかかる。下手に飛び込めばIllの被害者と似た状況に陥るのは明白。現状での深追いは危険であるとバレットはこれまでの経験から冷静に分析する。こうしてリンに付き合っているのも、ヤイバの目の届かないところで彼女が無茶をしないかという監視の意味合いが強い。

 バレットの関心はリンに向いていた。他の連中はクリスマスイブにリンと遊べるという事実に酔いしれていて、周りが見えていない。

 リンしか気づいていない。無人のツムギ自体が異常であることに。

 

「ねえ、バレット。どうしてここに誰もいないのかな?」

「あ? そんなもん、ナナ以外のツムギのメンバーが揃って現実に帰ったからだろ。そのナナも行方不明なわけだし――」

「違う。ツムギの皆じゃなくて、ここに居たはずの倉持技研の人たちはどうしたの?」

「あ……」

 

 全く気がついていなかったバレットはあんぐりと口を開ける。

 遺産(レガシー)と呼ばれている施設の1つであるツムギの拠点には倉持技研の操縦者たちが常に張り付いていた。ツムギメンバーを保護するために居たと考えれば、彼女らが現実に帰った今ではその存在意義を失って帰還することも十分に考えられる。

 しかしながらバレットは倉持技研が何の見返りもなくツムギメンバーを守るためだけにここにいたのではないと考えている。初めはヤイバの要請に応じたお人好し企業だと思いこんでいたのだが、迷宮の話を聞かされてから思い直した。

 倉持技研も篠ノ之論文を探している。そのためにこのレガシーを倉持技研が占拠していたとも言えてしまう。だからこそツムギメンバーがいなくなった今こそ迷宮攻略のために倉持技研が行動を起こしていても不思議ではない。

 

「……何もおかしくないんじゃないか? 倉持技研が迷宮攻略に乗り出してて誰もいないんだろ」

「本当にそうなのかなぁ。千冬さんが今の一夏を放っておいて参加してるとは思えないんだけど」

 

 バレットの前向き意見もリンの不安を拭えない。そうした中――

 

「あ、誰か入ってきた」

 

 ツムギのロビーホールの入り口に新しくプレイヤーが顔を見せ、藍越エンジョイ勢の1人がそれに気づいて声を上げる。ヘルハウンドフレームのフルスキンで特に目立った特徴はない。

 共に来ていたプレイヤーで別行動をしていた者はいない。したがって必然的に自分たちとは関係のないプレイヤーであることになる。

 そして、この場に普通のプレイヤーが迷い込むことはない。

 バレットはおろか、誰も見覚えのないプレイヤーがそこにいる。両手に所持した銃器を正面に構えたプレイヤーの行動に最初に気づいたのは最も遠い位置にいたバレットであった。

 

「隠れろ!」

 

 バレットの声かけとヘルハウンドのプレイヤーが発砲するのは同時。無防備なまま被弾した仲間はいたが1人の脱落もなく柱などの物陰に待避した。

 発砲してきた者が何者かは不明。しかし藍越エンジョイ勢は不意打ちだったにもかかわらずパニックせず、落ち着いて自分たちの武器を取りだして撃ち返し始めた。

 入り口を挟んでの銃撃戦が開始。敵は1機だけでなく複数確認され、その全容はバレットたちには把握できない。

 

「あれ? プレイヤーと戦闘するミッションだったっけ?」

「なあ、バレット。俺たちはこいつらを倒せばいいんだよな?」

 

 攻撃しながら確認されてもバレットから言えるのはたった一言。

 

「遠慮なくやっちまえ」

 

 敵の目的が不明でも撃ってくるなら撃ち返せばいい。まだ迷宮に入っていない状態ならばいつものISVSである。負けを恐れずにいつもの通りに戦っても何のリスクもない。

 

「ねえ、バレット? アイツらは何なの?」

「俺が知るかよ! ただ――」

 

 マシンガンの引き金を引きながらも相手の機体を注視する。

 敵はヘルハウンドフレームで統一されている。一般プレイヤーの場合は好みで機体を選ぶために少数チームでもバラバラな機体を使うことが多い。逆に機体に偏りがある場合はその機体を扱う企業の所属である可能性が高い。

 

「確証はないが、アメリカ関係っぽい感じだな」

「アメリカがどうしてあたしらを攻撃してくるの?」

「むしろあちらさんにしてみれば『なぜここに一般プレイヤーが居る?』とでも思ってんじゃないかねぇ。ここに来るような目的は迷宮にある篠ノ之論文くらいだろうし」

「つまり、奴らにはあたしらが篠ノ之論文を横取りしようとしてるように見えるってわけね」

 

 推測でしかなくても現状ではそうとしか考えられなかった。リンも納得したところで双天牙月を呼び出し、戦闘態勢に入る。

 

「よし、やっつけよう」

 

 リンの目的は篠ノ之論文ではない。かといってそれが相手に通じるとは思えない。相手に競争の意思しか見られないならば、自分たちが迷宮に入るための障害となることは明らかだ。

 全プレイヤーがリンの声に応じたように突撃を開始する。局地的にはリンたちの方が数に分がある。

 特別な作戦を立てるまでもなく、入り口にいた敵を数に物を言わせて殲滅。そのまま勢いに乗って道中の敵を蹴散らしながら全軍で外へと向かう。

 Illやマザーアースと戦ってきた藍越エンジョイ勢の敵ではない。慢心ではなく全員が確かな自信をつけてきていた。

 このまま相手を全滅させることは簡単だ。そう、外に出るまでは誰も疑っていなかった。

 

「うわぁ……何だコレ?」

 

 外に出たバレットの第一声は想定外の存在に対するもの。

 敵の部隊の待ち伏せは想定していた。事実、バレットたちは大軍に包囲されている。

 問題はそれらの大きさと外観にある。ISより一回りも二回りも巨大な図体に加えて、人の形を成していない。流線型のロケット状のボディの左右に巨大な機関銃が取り付けられただけの異形がずらりと並んでいた。

 ロケットという見た目の印象通りにそれらは高速で接近してくる。腕のように取り付けられている機関銃はガトリングガン(デザートフォックス)。射程に捉えられると厄介なことこの上ないとわかっていても、高い機動性を持ったガトリングガン持ちは脅威以外の何者でもない。

 似たコンセプトのプレイヤーの2人組をバレットは知っている。そしてその2人がアメリカのクラウス社の人間であることも。今の相手の新兵器に彼らの手が加わっている可能性は高かった。

 アサルトライフルやマシンガンでは火力負けしている。白兵戦となっている時点で分が悪い。先頭にいたリンは真っ先に銃弾に晒されて退場してしまっていた。

 ツムギ内に引き返すには手遅れ。むしろじり貧となる前に反攻に出るべき。

 撤退の指示は出さず、バレットは手持ちの武器を愛銃であるハンドレッドラムからENライフルに持ち替えた。

 

「相手はユニオンだ! EN属性で攻めろ!」

「無理だって! 弾幕がキツすぎだっての!」

 

 既に士気ががた落ちだった。傾いてしまった形成をひっくり返せるイメージが沸いていない。

 この状況を打ち破るにはエースの存在が必要不可欠。

 今、1人の男が立ち上がる。

 

「俺に任せろーっ!」

 

 その手に武器の類は一切ない。

 藍越エンジョイ勢最速の逃げ足を持つ男、サベージがあろうことか敵へと向かって突撃する。

 一斉に向けられるガトリングガンの銃口。しかしサベージは臆することなどない。リンの仇を取ろうという思いが強く、それしか頭になかった。

 3秒後、濃密過ぎる弾幕が通過するとともにサベージは蒸発した。

 

「…………全員、ログアウト」

 

 回避特化のサベージが瞬殺されたことでバレットは諦めた。ISVS自体からの離脱を指示する。異論は誰からも上がらずに続々とその姿を消していく。

 敵から追い打ちはない。バレット側の降参の意図を汲んでくれているということである。

 新型の集団の中、ただ1人だけ敵の中に紛れていたタイガーストライプのISを見つけてバレットは溜息を吐く。

 

「勝敗以前に戦うだけでマズい相手だった。これは俺たちが勝手に行動していい案件じゃない」

 

 全軍の離脱を確認してからバレットも現実へと帰還する。

 ここまでの経緯で状況は把握できた。倉持技研の人間が誰もいなかったのは迷宮攻略ではなく、その逆。迷宮攻略を断念すると共にその権利をアメリカに引き渡したからだ。

 ISVSの中にはゲームでは片づけられない事情がある。下手に首を突っ込むのはエアハルトたちを敵に回す以上に厄介な相手を敵にする可能性があった。

 迷宮に行くにしても、強引なアプローチ以外の方法を考える必要がある。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 考え込みながら歩いている内にいつの間にか家の近くにまで戻ってきていた。

 結局のところ、俺はまだ束さんのことを知らないでいる。箒を仮想世界に閉じこめるだけのIllの存在を束さんが認めているだなんてにわかには信じられなかった。

 どうしてISVSにIllが必要なんですか、束さん……

 エアハルトの言うことだからと切り捨てることは俺にはできなかった。

 

「今の俺に何ができるんだろ……」

 

 束さんのことをわかってない。だから俺は身動きがとれない。

 と、ここまでは来たんだけど肝心の束さんのことを知る方法が思い当たらなかった。

 俺の知ってる中で一番束さんと親しいのは千冬姉だ。だけどその千冬姉が箒を取り戻すために苦心している現状こそが、千冬姉も多くを知らないと証明している。きっと束さんの無駄な秘密主義が招いた結果だろう。

 

「とりあえず今後のことはセシリアに相談……ってそういえばイギリスに帰ったんだっけ」

 

 ISVSを始めてから得た相棒の顔を思い描いたところで溜め息が漏れる。家に居候してまで手伝ってくれていた彼女が、エアハルトを倒してからというもの本国に戻るという連絡だけ残していなくなってしまっていた。それきり連絡がつかないでいる。

 ……まあ、いつまでも彼女に頼ってばかりもいられないか。代表候補生なんて立場だと本来は俺に関わってる余裕はないくらい忙しいはずだし。

 

 少し気が滅入ってきた。

 今は休もう。何もできないときに気ばかり焦っても良いことはないのだから、今は落ちつくことが肝心だ。

 

「ただいまー」

 

 帰ってきた。玄関に入ってから靴を脱いで家に上がる。

 ふと気づいた。家の中から全く返事がこない。チェルシーさんたちはセシリアと一緒にイギリスに帰っているにしても、まだシャルが居たはず。

 靴を確認してみるとシャルの靴はなかった。千冬姉も忙しいらしくまだ帰ってない。

 

 ……じゃあ、どうして玄関に鍵がかかってないんだ?

 

 明らかな違和感。さっきは気づかなかったが玄関には見覚えのない靴が置いてある。底がかなり高いピンヒールに下駄のような鼻緒がついている履き物は千冬姉の持ち物ではない。

 靴に注意を奪われていたときだった。

 家の中なのに、にゃあ、と猫の声。

 振り返ると階段の下には見覚えのない白猫の姿があった。

 

「猫? どっから入ってきたんだろ?」

 

 野良だろうか。家の中をひっかき回されたら面倒だ。とりあえず捕まえないと。

 俺が一歩踏み出すと同時に猫は階段を軽快に昇ってしまう。階段の下にまで行くと猫は踊り場からこちらの様子を窺っていた。

 

「よーし、そこで大人しくしてろよー」

 

 笑顔を作ってそっと階段の1段目に足をかける。同時に猫の方も階段を1段昇る。2歩目も同じで、俺が1段昇る度に猫も1段昇った。いたちごっこを繰り返して俺はとうとう2階にまで連れてこられてしまった。

 猫は千冬姉の部屋の前にまで行ってしまった。そして、何故か千冬姉の部屋の戸は開きっぱなしになっている。

 

「待て、この!」

 

 じれったくなった俺は千冬姉の部屋に入られるまでにと決着を急ぐ。

 しかし猫の方が上手。よりによって千冬姉の部屋にまで逃げ込んでしまった。

 慌てて追いかけた俺は千冬姉の部屋の入り口から中を覗き込んだ。

 

 ……そこで俺は固まってしまった。

 千冬姉の部屋に知らない人が居る。

 

「お疲れ、シャイニィ」

 

 肩に乗せた白猫に労いの言葉をかけている女性は赤毛の外国人だった。顔立ちはたぶん西洋系。服装は和風な着物でどちらかといえば浴衣に近い。肩から胸にかけて大きく露出した着こなし方は目のやりどころに困った。

 だけど色気を感じる前に気になった。右目に眼帯をしている女性には右腕がなかった。眼帯や右肩周りには痛々しい火傷の痕もある。

 

「キミ、世界の不幸を全て背負ってるような陰鬱な顔をしてるネぇ」

「え?」

 

 女性は千冬姉の部屋で堂々とキセルをふかしている。服装といい怪我の痕といい色々と浮き世離れしている女性に気後れしていたけど、ふと我に返った。

 

「あなたは誰……ですか?」

 

 本当なら勝手に家に上がり込んでいる不法侵入者として追い出しにかかるべき。だけど俺は今もどこか気圧されていて、強気に出られなかった。何者か尋ねるだけで精一杯だったのだ。

 

「アリーシャ・ジョセスターフ。アーリィと呼ぶといいのサ」

 

 とても軽い口調で名乗ってきた女性はあっさりと俺に近づいてきて至近距離から顔をまじまじと見つめてくる。

 

「真面目すぎる性格は嫌いじゃないサ。でも1つのことに気を取られて他を疎かにするのはいつか命取りになるのサ」

「な、何のことですか?」

「まだまだ闇の中に牙が潜んでるということサね。気をつけナ」

 

 そう言って俺の肩をポンと叩いた女性はそのまま通り過ぎて廊下へと出ていく。振り返ることもなく階段を降りていき、玄関から外に出ていく音まで聞こえてきた。

 その間、俺はポカンと立ち尽くしていた。

 

「何だったんだ、一体……」

 

 突然に家に現れた女性はあっという間に立ち去ってしまった。たぶん空き巣の類じゃなくて千冬姉の知り合いだとは思う。でも千冬姉が留守なのに何のためにここに居たのかさっぱりわからない。ってか勝手に上がるなよ。

 わかっているのは扇情的で目立つ和装とアリーシャ・ジョセスターフという名前だけ。愛称はアーリィだと自称もしていたか。

 ……ん? アーリィ? どこかで聞いたような気がするぞ。

 心当たりがあった。

 

「まさか、今の人って……」

 

 俺は自分の部屋に戻ってPCを立ち上げる。確認したかったのはISVSのサイト。その中でも個人ランキングに用があった。

 見つけた。以前に福音探しをしていたときに目に入っていた名前。ブリュンヒルデのすぐ下、ランキング2位のイタリア代表のプレイヤーネームがアーリィだった。

 この一致を偶然として片づけられない。おそらくは今来ていた人こそイタリア代表その人であり、モンド・グロッソの決勝でブリュンヒルデに惜敗していたアーリィなのだろう。

 千冬姉と知り合いだとしてもおかしくない。でも、そんな人がどうしてこのタイミングで日本に?

 

「まだ何かあるっていうのか?」

 

 今も千冬姉が忙しくしているのは箒だけが理由じゃないのかもしれない。数馬の騒動の時のアメリカ然り、他国の国家代表まで出張ってくるのは異常の証とも言える。

 エアハルトがいなくなってもまだ何も終わってないんだ。きっとそれには箒も関わってる。

 

「……やるしか、ないな」

 

 まだ戦わなくちゃ。俺にはまだ戦う理由がある。箒は今も危険なISVSに独りで取り残されている。そう思うと彼女が帰ってくるまで俺は立ち止まるわけにはいかない。

 あと10日ほどで次の約束の日がやってくる。それまでに箒を助け出さないと。これ以上、彼女がISVSに閉じこめられているのはごめんだ。

 休むと言ったのは前言撤回。エアハルトの話を聞いて次の方針は決まっている。明確でなくてもとりあえずは動き出さないと始まらない。

 俺は束さんのことを知らない。だから束さんの足跡を追う。それが箒に近づくために必要なんだ。

 まずは……篠ノ之神社から行ってみよう。


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