Illusional Space   作:ジベた

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40 君が呼ぶ声

 剣戟の音は鳴り止んでいた。ひび割れではなく切断面が垣間見えている流氷が直前まで起きていた戦闘の激しさを物語っている。

 氷上に立つ姿は2つ。傷一つなく直立しているのはブリュンヒルデ。それに対面する形で黒い甲冑の騎士が片膝を突いている。

 結論から言ってしまえばブリュンヒルデはただの一度も黒騎士に攻撃を当ててはいない。長い戦いではあったが、どちらとも相手の剣と地面となっている氷以外を斬っていない。

 つまり、黒騎士が戦闘不能に陥っている理由は戦闘の勝敗とは無関係だった。

 

「世界最強の面目が丸潰れだな。無名の弟に助けられるとは」

 

 自らの不甲斐なさを嘲るブリュンヒルデ。しかしその顔はどちらかと言えば誇らしげだった。

 結局のところVTシステムを本物が乗り越えられなかったのだろうか。少なくともブリュンヒルデはそう考えてはいない。自らが成長していないことは否定しないが、先ほどまで戦っていた相手がただのシステムであったなどと単純に考えてもいない。

 雪片を納めると黒騎士の前へと歩を進める。そして右手を差し伸べた。

 

「お前の素質も認めよう、ラウラ・ボーデヴィッヒ。流石は私の一番弟子だ」

 

 たった1週間だけの師弟関係だった。とはいえブリュンヒルデは嘘を吐いていない。そもそも誰かにものを教えること自体、滅多にしない人なのである。弟の一夏に剣を教えたのも柳韻であって千冬ではない。

 

「私はラウラ……ボーデヴィッヒ……?」

 

 兜の下からくぐもった声。ぼんやりとした口調は意識そのままで、若干の震えは動揺の表れだ。

 絶対王権から解放されて自我を取り戻したラウラだがまだ記憶に混乱が見られる。ブリュンヒルデは彼女の被っている兜を剥ぎ取るという強攻策に出た。

 寒空の下に長い銀髪が揺れる。

 

「似合わぬ仮面は捨てておけ。お前はもっと堂々と顔を出してもいいんだ。眼帯の下の金の瞳も含めてな」

「教……官……」

 

 決定的な一言。ラウラはブリュンヒルデの顔を見て安堵の笑みを浮かべた。

 

 ――同時に黒い大剣を突き立てていた。

 

「何だと……」

 

 顔と一致しない、呼吸も何もあったものじゃないラウラの不意打ちをブリュンヒルデは避けられなかった。大ダメージを確認してから異常に気づいてラウラを突き飛ばす。

 そのラウラもブリュンヒルデと同じように目を剥いていた。

 

「私は……一体……」

 

 頭を執拗に押さえるラウラの眼帯が氷の上に落下する。

 露出した左眼には遺伝子強化素体に共通している金の瞳がある。

 だが、それだけではなかった。

 本来、白であるはずの眼球が黒く染まっていく。

 

「“織斑”を……倒す……」

 

 左手で頭を押さえたまま右手の大剣を振り回す。VTシステムはもう機能していなく、ブリュンヒルデとは似ても似つかない剣筋となっている。

 迫り来る剣戟を雪片で打ち払うブリュンヒルデはその太刀筋に懐かしさを覚えた。

 一見すると無茶苦茶。しかし隙らしい隙がわからない我流の剣は親友のものと酷似している。

 

「ラウラ。それをどこで――」

「ぐっ――!」

 

 どこで学んだのか。そう尋ねようとしたところでラウラは一際苦しそうに頭を抱える。もうまともに戦えないと踏んだのか、黒騎士の甲冑を纏ったままラウラはワールドパージを解除して空へと飛び立った。

 

「待て!」

 

 ブリュンヒルデは後を追う。今の戦況など考える余裕もない。がむしゃらに親友の爪痕を追いかける。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 窓の外から見える景色は青空だけだった。少しばかり窓に身を寄せると下の景色が見えるのだがひどく殺風景である。なにせ一面に白い雲が広がっているだけであったのだから。

 御手洗数馬は現実の空の上にいた。旅客機ではなく、ドイツ軍が特別に用意した輸送機の中で出番を待つ身である。

 

「暇か、御手洗?」

「い、いえ! 大丈夫です!」

「それでは返事になっていないぞ。もう少しリラックスしておけ」

 

 対面に座っているのは軍人っぽい戦闘服に身を包む宍戸恭平。大型のナイフやら手榴弾やらといった物騒な装備を体中に付けている。およそ日本の高校の英語教師のする格好ではなかった。

 リラックスしろと言われても無理と言うものだ。緊張して当たり前の環境は言わずもがな、最大の原因は目の前の担任教師の眼にある。数馬を見るその瞳は教師姿のときとは違って怪しく金色に光っていたのだ。

 

「怖がるな。オレは遺伝子強化素体でも敵じゃない」

 

 数馬の視線に気づいた宍戸は何でもないといった装いで軽く話す。数馬も説明を受けて頭ではわかっているのだが慣れるのは難しそうであった。

 

「目的地までもうすぐだ。今の内に御手洗の仕事について確認しておくとしよう」

 

 本当は確認するまでもないことだが、とにかく話をするべきという配慮である。数馬は自分のこととなると気負って話を聞くことになってしまうのだが、集中だけは高まる。実戦前のコンディションとしては緊張で上がりっぱなしよりはマシという判断でもあった。

 

「オレたちはこれからアントラスの幹部がいる敵の拠点と思しき場所へと襲撃をかける。ハッキリと言ってしまえば制圧するのに俺たちだけで十分に戦力は足りているが、御手洗はついでに連れてきた。それは偏にISという絶対的に優位な装備を使えるからである。ここまではいいか?」

「はい」

 

 数馬は左手の薬指に嵌まっている銀色のリングを撫でる。これこそが数馬が手に入れてしまった468体目のISの待機形態。消えてしまった彼女が残した形見とも言える品である。

 この作戦の後、このISは倉持技研の所有物となることが決まっている。既に数馬以外に操縦できないことは確認済みであったのだが、IS委員会の取り決め上、所属だけは明確にする必要があった。

 こうして数馬が所持できる猶予はあまり残されていない。その僅かな時間で数馬にはやりたいことがあった。

 

「俺は先生たちと別行動。単独でIS以外の敵を無力化する。それでいいんですよね?」

「ああ。ISさえあれば銃で撃たれようがミサイルを撃たれようが死にはしない。好き勝手にやればいい」

 

 数馬のやりたいこと。それは自分の手で敵組織を壊滅させること。聞こえは悪いが復讐のようなものだった。

 ゼノヴィアを苦しめた組織がまだ残っている。それを放置できない。

 その意志を持ったタイミングが宍戸たちの作戦と重なり、土下座して頼み込んだ末にここまでついてきた。

 

「オレが言った注意事項は?」

「絶対にISの展開を解かないこと。絶対にISの武装を使わないこと。絶対に敵のISと戦わないこと。絶対に宍戸先生たちの戦いの場に近づかないこと。この4つです」

「それでいい。敵にISがいたらハルフォーフか山田に任せて逃げろ。その約束を破ったとき、オレはお前の命だけでなく精神状態も保証できない。頼むからオレに謝罪なんて真似をさせんなよ」

「大丈夫です。これは俺が決めたことですから先生が謝ることなんて何もありません」

 

 本来、ISを使えるからといって数馬をこの場に連れてくるべきではない。宍戸も数馬に何度も諭したのだが数馬は折れなかった。根負けした宍戸が譲歩した形である。

 

「そういえば先生。今になって一夏の言っていたことがわかりました」

「織斑が? 何を言ってたんだ?」

「宍戸先生は厳しい態度と違って生徒に甘い人だそうです」

「……(おだ)てても成績は上がらん。帰ったら奴にそう伝えておけ」

 

 宍戸がおもむろに立ち上がる。まだ空の上だが、もう時間ということだった。

 開け放たれた先は高度を下げて雲よりは低い。しかし地表に見える建物群は小さい米粒も同然。宍戸は出口の縁に手をかける。

 

「オレたちは先に行く。ISを使えるお前は後からゆっくり来い」

 

 外からの強烈な風がバタバタと耳を襲っていても宍戸の声は数馬に届いた。数馬が頷くのを確認した宍戸は仲間とともに空へと身を投げていく。

 

「……俺も行こう」

 

 輸送機内のほぼ全員が飛び降りた後、1人残された数馬が出口から下を見下ろす。

 まるで模型のような景色。高所恐怖症ならばその高さで発狂してもおかしくない。ましてや数馬にはスカイダイビングの経験などあるはずもない。

 しかし恐れは無かった。パラシュートどころか今乗っている輸送機よりも頼りになる代物が左手の薬指にある。

 

「今日で全部終わらせる。だから力を貸してくれ、ゼノヴィア」

 

 1人で空へと身を投げる。このまま地面に激突すれば間違いなく即死するが、そのような事故は起きない。

 念じるだけで数馬の体は光に包まれる。一瞬の後に数馬の体には打鉄が纏われていた。武器を持たない武者姿の数馬は自由落下をやめて一定の速度で下へと下降していく。

 向かう先は標高の高い山の山頂から若干下った先にある工場施設。輸送に難がある立地にしては大がかりな設備も見られ、何よりも外壁には機銃まで付いていた。

 既に施設の上空ではISの戦闘が繰り広げられている。黒いワイヤーブレードとマシンガンが飛び交う戦闘はISVSでは見慣れた光景だが現実では初めて目の当たりにするもの。ISVSが現実と遜色ないことを実感しつつ、数馬は宍戸の指示に従って主戦場から離れた場所へと降り立った。

 一斉に機銃が向けられる。警告もなしに発砲されたそれを数馬はただ眺めていた。

 銃弾の雨が降り注ぐ。無抵抗の数馬を無慈悲に叩き続けるも数馬は涼しい顔を崩さない。

 

「効かないね。ISVSのミッションの方が厄介な妨害があったよ」

 

 その顔には呆れすら浮かぶ。現実で初めて武器の前に立った数馬だが仮想世界では幾度も経験していることだった。

 ISの防御構造の1層目にはPICがある。IS同士の戦闘ならばPICCによって防壁としての効果を軽減されてしまうが、PICCのない攻撃に対してPICは無敵の障壁となる。生身ならば1発でも致命傷になりうる銃弾だが今の数馬には雨水の1滴にも劣る。

 構わず歩を進める。任務としては無力化を指示されているが敵の設備を破壊する義務は負わされていなかった。堅く閉じているゲートの前に到着した数馬は武器すら取り出さない。ただ殴りつけるだけで道を切り開く。

 内部に入るとほぼ同時に数馬の足下に手榴弾が転がった。気づいたときには爆発するも、やはりISの守りを突破できはしない。土煙に紛れて奥からは銃声が鳴る。広範囲にバラマかれた弾丸は数馬の体に触れた後でポトリと床に落下する。

 今度は数馬から仕掛ける。武装を使わずに無力化とはつまり敵の武装を取り上げろということ。守備力重視のフレームである打鉄とは言ってもISと生身では機動性には雲泥の差がある。煙の中から飛び出した数馬は発砲している敵に近づくと、ISの大きな手で銃身を掴んで見せた。握力を加えると硬い金属で出来た機関銃が粘土細工のように潰れる。敵の兵士は引きつった声を上げた後で武器を手放して一目散に逃げ出した。

 戦いにすらなっていない。

 これがISとそうでない兵器との差である。もはや次元の異なる存在とも言えた。

 

「宍戸先生たちと遭遇しないルートしかダメか……仕方ないよね」

 

 味方から戦況のデータが送られてくる。どこで戦闘が起きているか把握すると、数馬は誰もいない場所へと適当に進む。奥に行くなんて真似はしない。特に重要そうでない場所を歩き回るだけしか宍戸には許されていなかった。

 それでも数馬はここにいるだけで良かった。敵にとってみればISが1機増えてるようには見える。そうしてプレッシャーを与えるだけでも数馬がいる意味となる。そうして敵の拠点の壊滅に貢献できれば、数馬の胸の内のわだかまりも少しはマシになる。そう思えたのだ。

 とうとう数馬を攻撃してくる敵すらいなくなった。ところ構わず壁を破壊して乱暴に施設内を歩き回る。

 もう誰もいないのか。敵が敗走したのかと思い始めたとき、打鉄のセンサーが人の体温ほどの熱源を感知する。

 

「まだ敵がいる……ん? でも、これって……」

 

 視界にサーモグラフィを表示すると壁一枚隔てた向こう側には人が2人いることがわかる。その内の片方が寝そべっていることに違和感を覚えた。

 負傷兵を収容する場所があるようには思えない。そもそも宍戸たちが戦っている間、敵に負傷した者を回収する余裕があったとは思えなかった。

 

 ――ここにいるよ。

 

 幻聴だろうか。女の子の声が聞こえた気がした。慌てて周囲をキョロキョロと見回すも誰もいない。

 もし誰かが喋ったのだとすれば、近くにいるのは壁を挟んだ向こう側だけである。

 気になって仕方がない。敵施設内をひっかき回すだけだった数馬に1つの目的が生まれた。

 この声が何なのかを確認したい。

 入り口のドアを見つけた数馬は打ち壊して中へと侵入する。

 

「ここは一体……?」

 

 数馬の目に飛び込んできた光景は意表を突くものだった。

 この部屋だけは白い壁紙で覆われていて清潔感のある空間。薄汚くも無機質な壁ばかりが続く殺風景な施設内の中では明らかに異質である。

 入り口と反対側には横長のガラスケースが置かれている。お店のショーウィンドウを想像した数馬だったがベッドと一体化していることが引っかかる。

 

「何者だ……と問うだけ無駄か。ヴェーグマンの予期していたとおり、ここにツムギの連中が押し寄せてきただけのこと。もっとも、例の男性操縦者が来るとは思っていなかったが」

 

 ガラスケースの脇に立つ作業服の中年男が気怠げに自分の肩を揉んでいる。茶色がかった髪と無精髭やブラウンの瞳、白い肌はおよそ日本人ではない。相手が日本語を話してくれているおかげで数馬にも彼の言っていることがわかる。

 武器も持たず、戦闘意志が見えない。となると数馬からも攻撃する意味がない。

 

「お前は?」

「ジョナス・ウォーロック。負け戦に身を投じたバカな科学者の1人だ」

 

 見るからに戦闘要員ではない。だからこそ数馬は気になった。

 

「どうして逃げない? 時間はあったはず」

「こうなっちまったら逃げも隠れも抵抗もしねえよ。負けてもいくらでもやり直せる子供のゲームとはわけが違うのさ」

「それでもここにいる理由にはならない」

「質問はもっとわかりやすく簡潔にまとめろ、日本の高校生」

 

 作業服の男はISを前にしても少しも怯みはしなかった。彼はズボンのポケットに両手を突っ込んだまま数馬の前にまで歩いてくる。

 

「ここに何か秘密があるんじゃないか。そう聞きたいんだろ?」

 

 図星だった。数馬はこの場所が特別だと直感してやってきている。その場にいた男をただ偶然に居合わせただけとは考えていない。

 

「ハバヤの野郎から少しだけ話は聞いてる。これも何の因果か知らねえが、偶然じゃないとしたらテレパシーみたいなオカルトが実在するってことまで信じてもいいぜ」

「平石ハバヤを知っているのか?」

「顔見知りってだけだ。親しくはない。そこんところ間違えるな」

 

 親しくないということをわざわざ強調する辺りウォーロックがハバヤを毛嫌いしているのは初対面の数馬にも伝わった。

 

「で、平石ハバヤとつながりのある俺をお前はどうするつもりだ? “復讐”のために無抵抗な相手でも殺すか?」

 

 目の前の男は事情を知っている。でなければ復讐などという単語を口に出す必然性がない。数馬とゼノヴィアの関係や、ゼノヴィアが殺された経緯すら知っている可能性が高い。

 とはいっても数馬には男を殺す理由など全くなかった。あのハバヤすら殺そうとしたわけではない。数馬はただ、ゼノヴィアを殺した連中の思惑を潰せればそれで良かったのだ。

 

「別にお前をどうこうしようとは思ってない。それよりもそこで寝ているのはどういう人なんだ?」

「気になるなら見てみればいい」

 

 男に道を譲られ、数馬は言われるままにガラスケースの脇に立つ。入り口から確認できなかったガラスケースの中身は“少女”だった。

 

「え……どう、して……」

 

 数馬は目を疑った。

 腰まで届きそうな長い銀髪。まるで人形のような顔立ち。

 どこからどう見ても、数馬の知っているゼノヴィアと瓜二つな少女が横たわっている。

 

「いや、彼女のはずがないか。ラウラもそうだったし、そっくりさんが居ても不思議じゃない……」

 

 一瞬だけゼノヴィアが生きていると思ってしまった。しかし数馬の知識がそれを否定する。

 宍戸のような初期の個体とは違い、ラウラのような後期に量産された遺伝子強化素体は基本的に同じ遺伝子を基にして造られたと聞かされている。ラウラとゼノヴィアが似ているのも彼女たちがクローンのようなものだからだと知っていた。

 

「ラウラ・ボーデヴィッヒ。15年前の生き残りにして最後の遺伝子強化素体。この部屋に残された記録を漁ったところによれば、不完全な遺伝子強化素体として処分寸前だったらしい。つくづく失敗作とされた者ばかりが生き延びているようだ」

「失敗作?」

「資料には越界の瞳(ヴォーダン・オージェ)が片目のみだったとある。兵隊としての価値が下がるってことだけだろうよ」

「じゃあ、この子も?」

「そうだ。簡単に言えば病弱。植物状態で生きながらえているだけの人形みたいなもんだ。こんな幼い姿をしてるが実年齢は18歳。ずっと体の成長が止まってる」

 

 もう一度ガラスケースの中身を確認する。ウォーロックの言うとおり、眠り続けている少女は見たところ年齢を高く見積もっても中学生くらいにしか見えない。だが現実は18歳で数馬よりも年上だという。

 ……どこかで聞いたことがある。

 いくらなんでもこの既視感は異常だった。見た目だけの一致ではない。だから数馬は問いただす。

 

「この子の名前は!?」

「もうわかっているんだろう?」

 

 ウォーロックは机の上にあったファイルを開いて数馬に手渡した。

 中身は顔写真付きで治療の記録が記されているカルテ。

 患者の名前は――

 

「ゼノヴィア。本来、遺伝子強化素体に姓などない。だが強いて言えば、ゼノヴィア・ヴェーグマンってところだ」

 

 数馬のよく知っている彼女の名前と同じ。ここまで揃っている事実を前にした数馬はガラスケースの中を食い入るように見つめる。

 

「生き……てた……」

 

 涙を堪えることなどできなかった。

 もう二度と逢えないのだと、そう何度も言い聞かせてきた。

 なのに、けじめをつけるための戦いに身を投じた先でもう一度彼女の顔を見ることができるだなどと想像できるはずもない。

 機械的に動いていただけだった数馬の胸に確かな灯が点る。

 そんな数馬の肩にウォーロックの手が軽く乗せられた。振り向くと彼は無念そうに目を閉じて首を横に振る。

 

「この状態を生きてるだなんて俺は言わない。あとな、仮想世界のゼノヴィア・イロジックとこのゼノヴィアは厳密には違う存在だ」

「どういうことだ……?」

 

 ISを装着していることも忘れて危うく掴みかかろうとしてしまった。数馬は動転している。目の前に突然現れた希望が幻であると言われては無理もない。

 

「俺も今日知ったことだ。ヴェーグマンの残した記録によれば、このゼノヴィアは1年近く前に容態が急変して死にかけたらしい。普通の治療じゃどうにもならないと判断したヴェーグマンはゼノヴィアの生命維持にISを利用することを思いついた」

「意識のない彼女にISを使わせる……?」

「それができたら苦労はしない。たとえ女性でも意識のない人間にISを起動できないことは確認されている。そして操縦者保護機能は操縦者として認識されなければならない。そもそもな話、数の限られたISコアをたった1人の命のために使えないしな」

「じゃあどうやって――」

「ヴェーグマンはISVSを使った。ISが起動できなくてもアバターは造られる。意識のないゼノヴィアがアバターを動かすことはないがな」

 

 それでは答えになっていない。意識のないアバターは人形も同然であり、アバターをどうこうしたところで現実に意味があるとは思えなかった。

 素人である数馬の困惑をもISに詳しいウォーロックは見抜いている。

 

「わからないって顔をしてるな。正直なところ、俺だって常識外れだと思ったさ」

 

 一定の共感を示しつつも「だが――」と言葉を続ける。

 

「ヴェーグマンが行動に移したのは事実……奴は仮想世界で生み出した個体とゼノヴィアのアバターの脳を入れ替えたんだよ」

「え……脳を入れ替えた?」

 

 なおさら混乱する。アバターの脳を外科手術で入れ替えられるのかという問題もそうだが、仮に成功したところで現実の体にどう影響を及ぼすのか、その因果関係を想像できない。

 

「狂気の沙汰としか思えない。結果的に目覚めたのは元々ISVSで生まれた遺伝子強化素体の方だけで、アバターの方は消えてなくなったらしい。アバターが死亡したら消えるのはISVSの常識。だから普通なら何もかもが元の状態に戻っただけになると思うよな?」

 

 思うだなどという言い方をした時点で次の言葉は決まっていた。

 

「だが、どういうわけだかゼノヴィア・イロジックが活動を始めると現実のゼノヴィアの容態も回復していた。まるで仮想世界のゼノヴィア・イロジックが現実のゼノヴィアを生かしていたようだろう?」

「ゼノヴィアのおかげでこの子が生きられたってこと?」

 

 数馬なりの言葉で簡潔にまとめる。ウォーロックは首を縦に振った。

 

「誰も証明はしていないが、残された結果はそう物語っている。実にオカルトだ」

「じゃあ、ゼノヴィアが消えた今、この子は……」

「生物は専門じゃないんで詳しくは知らないが、死ぬまでそう時間は残されてないだろう」

 

 希望は儚いもの。一瞬だけ姿を見せたかと思えば、即座に数馬から奪っていく。

 彼女が生きていたと思ったらそもそも彼女ではないと否定される。

 目の前にいる少女すらももう短い命。

 結局、何も出来ない現実に直面させられるだけなのかと唇を噛む。

 

「ヴェーグマンが何を思ってこの少女を救おうとしていたのかはわからん。ゼノヴィア・イロジックを殺しても構わないと言っていた奴と同一人物とは思えん。もっとも、真実は奴自身もどうしたいのかわかってなかったんだろうがな」

 

 ウォーロックが過去を懐かしむように語っているが数馬の耳には届いていない。

 今、数馬の思考を支配しているのは『今、どうすべきか』の1点のみ。

 本当に自分には何も力がないのか。

 自らの両手を見下ろしたとき、とんでもないものが手元にあることに気が付いてしまった。

 

「……ISがあるじゃないか」

 

 数馬は宍戸との約束を破る。打鉄が光に包まれた後、その場に残るのは生身の数馬だった。

 

「ウォーロックさんだっけ? 悪いけどこのガラスケースを開けてくれない?」

「……それは今動いている生命維持装置を切ることを意味する。わかってて言ってるのか?」

「もちろん」

 

 左手の薬指から銀色のリングを抜き取る。これはゼノヴィア・イロジックが残した数馬だけの専用機。その待機形態のISである。

 

「さっきも言ったが、意識のない人間がISを起動することはない。ましてや他人の専用機を起動させることなど不可能だ」

 

 ウォーロックは数馬の意図を察している。それを踏まえて、数馬の行動は間違っていると批判する。

 だがその根拠は現実にあるコアの常識によるもの。

 数馬の手にあるのはただのISコアではない。

 

「頼む。俺に託してくれないか?」

 

 ズレた眼鏡をかけ直す数馬。その仕草すら堂々としたものであり、先の不安を感じさせない力強さがある。

 少なくとも彼の発言には根拠など全くない。

 だというのに論理に忠実な男であるはずのウォーロックの心を動かした。

 

「どのみち死ぬのなら可能性に賭けるべきだろう。俺にしてみれば否定する材料しかないが、無駄な挑戦をするのも若者の特権だ。もしこれで死んでしまっても、俺の責任にでもすればいい」

 

 ガラスケースの脇にある端末の操作が始まる。装置が起動していることを示すLEDが順番に消えていき、少女を生かしていたシステムが眠りについていく。

 このままだとすぐにでも死に至る。だが数馬は悲観などしていなかった。

 言葉には出来ない確信が数馬の胸の内に宿っている。ウォーロックの言っていた否定的な見解も全く気になってはいない。

 

 意識のない人間にISは起動できない。

 しかし数馬はいないはずの人間の意識に触れたことがある。

 

 専用機を他人が使えることはない。

 しかし数馬の持っているISは数馬だけのものではない。

 

 ガラスの覆いが開けられ、ベッドの中が外気に触れた。

 数馬は不可侵であった領域へと乗り入れる。横たわる少女はやはりゼノヴィアと瓜二つで、現実の彼女だと思いたくもなってくる。

 首を横に振った。ウォーロックの話を聞く限り、数馬の知っているゼノヴィアは仮想世界で生まれた仮想世界だけの存在。彼女はもう死んだのだと言い聞かせる。今、目の前の少女を救おうとしているのは自分の好きな彼女の代わりにするためなどではない。

 

「ゼノヴィア。この子のために力を貸してくれ」

 

 その指輪に彼女の意志が宿っていると信じている。

 平石ハバヤとの戦いで力を貸してくれたときのように……

 眠っている少女が生きるためのきっかけを分けてほしい。

 そう願う数馬は少女の左手を取った。傷のない白い手から薬指を選んで銀色のリングを填める。

 あとは信じるだけ。少女の左手を両手でぎゅっと握りしめて思いを込める。

 

 ――あたたかいね。

 

 また声がした。そんな気がした。

 数馬は周囲を確認する。しかし近くにはウォーロックが1人、慌てた数馬の様子にキョトンと首を傾げるのみ。聞こえていたのは数馬だけだった。

 他に気を取られていたために数馬はすぐには気づかなかった。数馬はもう手に力を入れていない。だというのに少女の左手は数馬の手から離れていない。

 弱い、本当に弱い力ではあったが数馬の手を掴んでいた。

 

「握ってる……?」

 

 植物状態と聞かされていた。だとすれば数馬の手を握り返すことは不自然。明らかに変化が生じている。

 自然と数馬の目は少女の顔に向いた。ピクピクと睫毛(まつげ)が動いているのがわかる。そして――

 

 重かった目蓋がゆっくりと開かれた。

 

 両目ともに金色の瞳。その全てが数馬の知る彼女とほぼ同じ。

 その体を抱きしめたい衝動に駆られた。しかし数馬の知っている彼女ではない別人のはずである。強引に衝動を抑え込んで数馬は笑ってみせる。

 死に瀕していた少女がゼノヴィアのおかげで救われた。今はその奇跡を喜ぼう。

 そう思っていた。

 

 なのに――

 

 

「カズ……マ……」

 

 

 頭の中が真っ白になった。

 彼女の第一声を聞いた途端に体が言うことを聞かなくなった。

 反射行動かと疑うほどの速さで少女の体を抱き起こす。数馬の頭からはずっと寝たきりだったという配慮さえ抜け落ちてしまっている。

 

「ゼノヴィア! ゼノヴィアじゃないか!」

「バカな……ゼノヴィア・イロジックの人格とこのゼノヴィアの人格は別物だとヴェーグマンは結論づけていたはず」

 

 全て無駄に終わると高を括っていたウォーロックが目を剥いている中、数馬は他人の目すらも気にせずに泣きじゃくる。

 本当はずっと受け入れてなどいなかった。両親が目を覚ましても心のどこかにはぽっかりと穴が空いていたようだった。

 だからこそ数馬は敵の拠点攻撃に志願した。けじめをつけるためやゼノヴィアを苦しめた奴らの陰謀を潰してやりたいなどは全て言い訳に過ぎない。本当は無理矢理動くことで気を紛らわせようとしていただけ。

 悲しみを乗り越えたフリをし続けた。まだ友達と思ってくれている男たちを心配させたくない。そんな風にいい子ぶっていた。

 

 もう何も演じる必要はない。

 

 腕の中には確かな鼓動がある。冷たくない。血の流れている温かい体を肌で感じる。

 決して力強くなくとも、細く小さな手は躊躇いなく数馬の背中に回った。

 ずっと見たかった顔がある。

 ずっと自分を見てほしかった瞳が数馬に向いている。

 初対面ではありえない信頼がここにあるのだ。

 

「俺が……俺のことがわかるのか?」

「……うん。当たり前だよ……どうして、泣いてるの?」

「それこそ当たり前だろ! 死んだって……思ってたんだ」

「そう……不謹慎だけど、悲しんでくれてて嬉しいな」

 

 果たして救われたのは誰だったのだろうか。

 甘える子供のようにしがみつく数馬と、彼をあやすように背中をなで続けるゼノヴィア。

 幼い子に慰められているかのような光景だが数馬は知り合いの誰かに見られていたとしても構わなかったことだろう。

 

「私ね、全部思い出したの。どうして私が18歳なのかとか、生まれてから18年に何があったのかとか。どうして人間が怖かったのかとかも全部」

 

 まだ本調子ではないのか言葉はどこか辿々しい。

 

「ずっと忘れてた。現実にやってきたとき、懐かしかったはずなのに怖い気持ちの方が強かった。その意味もやっとわかったんだ」

「無理に喋らなくていい! お前がゼノヴィアだってわかったから! 話は後でたくさん聞くから!」

 

 無理をして話している。そう感じた数馬はゼノヴィアを止めようとする。

 彼女はそんな数馬を手で制する。

 

「わかった。でもこれだけは言わせて」

 

 長い話なんて要らない。

 本当にゼノヴィアが言いたかったことはたったひとつだけ。

 

「ただいま……数馬」

「おかえり、ゼノヴィア」

 

 一言を終えた途端にゼノヴィアから力が抜けて再び眠りにつく。また同じ状態に戻ったのかと若干の不安が過ぎったが、すやすやと健康そうな寝息が耳に届いてホッと一息をつく。

 元から戦力になれていない任務などもうどうでも良くなっていた。償いやけじめなんてもう必要ない。もっと大切な者が帰ってきてくれたのだから。

 今の数馬が願うのは宍戸たちが早くこの戦場を制圧してくれないかということ。ここまで数馬を導いてきたISはゼノヴィアの左手に眠っている。

 

「全く……ISに関わってからずっと、オカルトな話ばかりで辟易してきた」

 

 ゼノヴィアが眠ったところで数馬はこの部屋にいるもう1人の存在を思い出した。左手で頭を抱えている作業服姿の男の右手には拳銃が握られている。銃口は数馬の頭に向けられていた。

 

「形勢逆転だ。ここが敵地だってことや、俺が敵だってことを忘れてなかったか?」

 

 今の数馬にはISがない。それどころか武器もない。日本の一般的な高校生が戦場に居ても武器1つで蹂躙されるだけのか弱い存在である。

 ただ、数馬は既に一般的な高校生とは呼べないのかもしれない。拳銃を向けられても彼はウォーロックを正面から見つめ返す。そこに敵意は欠片もなかった。

 

「敵なはずないよ。得にもならないのに色々と教えてくれたり協力してくれたのは、あなたもゼノヴィアを大切に思ってくれたからじゃん」

「バカを言うな。俺は元より壊すより作る方が好きなだけ。ものだけじゃなくて人も同じ。無闇に死なせるよりも助けられるものは助ける。当たり前だろ?」

「それは意外かも」

「俺をハバヤの野郎と一緒にすんなってことだ。敵という立場でも色々とあるんだよ」

 

 頭を抱えていた左手でそのまま後頭部を掻くウォーロックは右手の拳銃を下ろした。

 

「今のはただのお節介だ。もし俺がハバヤだったら間違いなく撃たれてたろうぜ。今後があれば気をつけろ」

「たぶんもうすぐ襲撃の本隊がここに来るけど、どうするつもり?」

「ヴェーグマンは投降を許した。そしてここに留まるべき理由ももうない」

 

 ウォーロックは手錠でもかけろと言わんばかりに両手を差し出す。

 

「牢屋でもなんでもいいからぶち込めばいいさ。もう俺はISなんていうオカルトに関わるのは疲れたんだよ」

 

 その溜め息によって長年のストレスが一気に放出された。作業服の中年男の顔は憑き物が取れたようにすっきりとした顔を見せる。

 人類の発展のためにEOS(リミテッド)を開発した男の挑戦はここで一度途切れる。しかしいつの日かまた彼の力が人々の為に役立つ日もやってくることになるだろう。

 

 数馬の迎えが到着する。宍戸の部下によってウォーロックは拘束されて連れて行かれた。

 ここに数馬の戦いは一応の終止符が打たれることとなる。

 藍越学園が襲撃された日から2週間も経っていないが長い戦いだった。

 何度も心を折られそうになりながらも数馬は最後まで走り抜いた。

 結果、数馬は再会を果たす。

 足を止めなくて良かったと涙する少年の腕の中で、銀髪の少女は健やかに寝息を立てていた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 跳ね起きた俺はまず周りを確認した。自分の部屋じゃなくて倉持技研内に設けられたISVSのログインスペースである。大型のマッサージチェアほどのイスが立ち並ぶ部屋には誰も起きている人がいない。

 ……さて、これからどうするか。

 倉持技研の立地は海の上。俺の家と比べて箒のいる病院からは遠いが、交通手段を考えれば時間はそう変わらない。

 いや、よく考えるとヘリで移動したところでエアハルトがIllを持ち出してきていたら俺がいたところで意味がない。むしろ俺に出来ることなんてあるのか?

 

「とりあえず誰かを頼るしかないか……痛っ!」

 

 イスから立ち上がろうと肘掛けに手を置いた途端に痛みが走った。右手の肘から先が痺れていて、指すらまともに動かせない。左は左で肩に違和感がある。

 

「まさか仮想世界で受けた傷が影響してるのか?」

 

 異常のある部分はエアハルトとの戦いで大怪我を負った箇所と一致する。本当に腕がぶった斬れたりはしてないけど、仮想世界だからと甘く見てた。

 いよいよ以て俺自身がエアハルトに立ち向かえない気がしてくる。早くISを使える誰かと合流しないとマズい。右手に負担が掛からないよう気を張りながら出口へと向かう。

 

「……一夏くん? 顔色悪いけど、大丈夫?」

 

 後ろから声をかけられた。倉持技研で俺を一夏くんと呼ぶのは簪さんだけである。ちょうどいいタイミングで戻ってきてくれたようだ。

 しかし他の人は一向に帰ってくる気配がない。

 

「俺なら大丈夫。それよりも簪さん。誰かすぐにISを出せる人はいないかな?」

「うーん……専用機を持ってる人は今回のミッションに参加したり、外に出払ってるはずだから残ってないと思う」

 

 必死に心当たりを探ってくれているようだけど思いつかないようだ。

 

「ミッションはエアハルトを倒してほぼ終わりだろ? まだ戻ってきてくれないのか?」

「まだIllが残ってて戦ってるから帰れないんだと思う」

「思う? どうしてそんな曖昧なんだ?」

「戦闘中にセシリアとの通信が途絶えたの。今回は安全な場所で指揮を執ってただけのはずなのに……理由は不明なままで全体の状況を把握してる人が皆無だったからIllの領域にいなかった私が一度外に出てみることにしたんだ」

 

 ISVSの方は今、混乱しているらしい。その理由はセシリア――ラピスの不在にある。前線に出ていない彼女が敵にやられるとは考えづらい。

 何が起きたのか。

 そういえば、と思い出す。

 エアハルトとの戦いの最終局面で、俺はラピスの意志を感じ取れなくなっていた。タイミングとしては右腕をぶった斬られた辺り。

 

「俺のせいか……セシリアを巻き込んじまった」

 

 絶対防御機能をカットした弊害は現実の体への影響だけに留まらなかったということか。

 あのとき、俺はラピスとクロッシング・アクセス状態にあった。感覚を共有する状態だったってことは俺が経験した全てを彼女も被っていたことになる。

 俺が彼女を痛めつけて気絶させたも同然だ……

 

「セシリアもダメでラウラも千冬姉も戻ってない。ISを使える人がいないとマズいってのに」

 

 セシリアの安否はとても気がかりだが今は箒の方が危ない。エアハルトが今どこにいるのかは定かではないけど、始めから箒が狙いだったならもう時間は残されてないと考えた方がいい。

 気ばかりが焦る。けど有効な手段なんて何も思いつかない。

 

「……どうしてISが必要なの?」

「まだ戦いは終わってないんだ。エアハルトが箒を奪いにやってくる。奴のIllに対抗するにはISを使うしかない」

「……ISじゃないけど、今すぐに用意できるものならある」

「ISじゃない……リミテッド……あ!」

 

 簪さんに言われて俺も思い出した。倉持技研では男でも操縦が可能なリミテッドが研究されていて、その試作を俺も使ったことがある。

 

「彩華さんの開発していたリミテッド白式。あれならすぐに使えると思う」

「だけどあれには欠陥があったはずだろ? そもそもPICが使えないとISとは戦えないし」

「大丈夫。普通のリミテッドと同じように外部からISコアで干渉すればISにも攻撃できるようになる」

 

 言われてみればあのときも彩華さんの干渉でISみたいに動かすことは出来てた。規模は明らかにISに劣るけど動けないことはないのか。

 

「システムをイジる時間はないから私がISを使うことはできない。たぶん私が出てもエアハルトには勝てないし」

「だから俺が白式で出る。リミテッドな分、ISVSのようにはいかないだろうけど」

「本当にいいの?」

「もちろんだ。他に機体はないし、何より俺自身が戦えるってのは大歓迎だ」

 

 右腕と左肩にまだ違和感があるくせにな。でも痩せ我慢してでも俺は自分が出れるなら出たいと考えてる。

 簪さんが呆れて溜め息を吐いている。俺もバカなことを言ってるなぁとは思ってるけど、ここで躊躇っていたら未来の俺は今の俺に呆れるを通り越して殺意が湧くことだろう。

 だからこれでいい。束さんと約束した俺の道だ。

 

 ところ変わって彩華さんの研究室。そこには留守番をしてる研究員が1人だけいたけど簪さんがさっさと許可を得て簡単に中に入る。前に来たときから2ヶ月ほどしか経ってないから設備は変わってなかった。

 奥に進む。すると今も変わらずあの機体が鎮座している。

 白を基調とした鎧。人よりも二回りほど大きな手足があり胴体や頭部分は存在しない。待機状態になっていない四肢装甲(ディバイド)のISを人から外しただけの姿のまま、操縦者のいないリミテッドが放置されていた。

 

「……私は設定を確認してくる。一夏くんは1人で取り付けできる?」

「とりあえずなんとかしてみる。無理だったら手伝いを頼む」

 

 前の時は装着する時点で研究員の人たちに手伝ってもらっていた。だからたぶん1人で白式を装着はできないんだとは思う。でも少しでもやれることはやっておこう。

 まずは中央の空いた部分に座る感覚で入る必要がある。位置は若干高いけどよじ登れないことはなさそうだ。

 だけど俺は忘れてた。

 

「痛っ!」

 

 無意識に右手に力を加えると激痛が走る。体重を支えられないばかりか握るのも困難だった。

 これじゃ乗れたとしても雪片弐型を振るえない。

 まだ左手はある。肩に違和感はあるけど握力は生きてる。

 でもとても全力とは言えない。

 機体性能だけでなく俺自身が万全じゃない。やはり無謀なのか。

 

 ――世話が焼ける。

 

 聞き慣れない声がした。聞き覚えのある気がするんだけどピンとは来ない。

 簪さんかと思ったけど見回しても誰もいない。そもそも簪さんにしては毒が強かった。

 気のせいだったのだろうか。そう首を傾げる。

 

「あれ?」

 

 首を傾けて違和感があった。正確には違和感がなかったからおかしいと言うべきか。左肩が普通に動くようになった。

 もしかしてと思い、右手を動かそうとしてみる。グーとパーを繰り返しても全く痛みを感じない。どういうことかと右手を見てみれば、俺の右手ではなく白式の右手がそこにある。

 

「俺……いつ装着したんだ?」

 

 以前にリミテッドの白式を装着したときはもっと面倒くさい手順が必要だった。重石を自分の体に括り付けるような感じだったはず。

 でも今の俺はその手順すらすっ飛ばし、自分でも気が付かないくらい一瞬に白式を装着できていた。

 

「スゲーな、彩華さん。あれから開発がここまで進んでたなんて……」

 

 ふわりと宙にも浮ける。PICが正常に稼働している。簪さんも設定を無事に終わらせてくれたみたいだ。

 ISVSのようにコンソールも呼び出せて、装備を確認してみるとちゃんと雪片弐型もある。呼び出し(コール)の手続きも正常で右手には雪片弐型が現れた。

 問題ない。これでエアハルトに立ち向かえる。

 

 研究室の天井が重い音を立てて開いていく。その先には青空が見えていた。すぐに実験に移れるように造られた部屋なんだろう。まるで秘密基地から出撃するロボットみたいな気分になる。

 一度床に着地。足を折り曲げて力を溜めて勢いよく蹴り出す。そんなことをしなくても飛べるんだけど、自分に気合いを入れる意味を込めてそうした。

 倉持技研の上空に出た。周りは海に囲まれているが陸地も見えている。最初に向かう方角さえわかれば、あとは感覚で病院にまで行けると思う。

 そこでエアハルトと戦うことになる。

 ここから先はISVSとは違う。仮想世界のアバターのように千切れた腕が元通りってわけにはいかない。当然、死んでしまえば命がなくなる。

 俺は欲深い男らしい。箒を助けるために命を賭けられるかと質問されれば即答でイエスと答えるくらいの覚悟はあったつもりなんだけど、死ぬかもしれないと考えると仮想世界で斬られた右腕が怯えた。俺は箒に戻ってほしいだけじゃなくて、生きて箒と再会したいのだと思い知る。

 箒はそんな俺をどう思うだろうか。それは実際に再会してから聞くことにしよう。

 陸のある北へと向けて飛び立つ。その先に来るはずのエアハルトと決着を付けるために。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

「どうして……動いてるの……?」

 

 一夏が飛び去った後、簪は目を疑っていた。

 簪はまだ天井を開くことしかしていない。この後、リミテッドの白式のPICを起動させるつもりだった。

 しかし一夏は白式とともに空へと姿を消した。そして本来、ISコアがあるべき場所には何もない。

 

「更識さん。言い忘れていましたが――って白式はどこにいったんですか!?」

 

 留守番をしていた研究員が顔を見せる。まだ詳しい事情を説明していないため、簪は自分が責められると思いこんだ。

 だが研究員の興味は簪が白式を持ち出したことに対してなどではなかった。

 入室を許したのは簪と一夏の2人のみ。この場にいるのが簪ということは白式に乗っているのは一夏ということになる。

 

「今の白式はただのISなんですよ!?」

 

 そこまで言われて簪は状況を理解した。

 リミテッドだと思っていた白式には現在ISコアが搭載されている。彩華の研究が上手くいかず、現実で亡国機業との戦闘の可能性が高まってきた今、ISコアと機体を遊ばせておくはずなどなかった。操縦者さえ居れば戦える状態になっていたのだ。

 

「どうして動いてるの……?」

 

 同じ疑問を繰り返す。男性がISを動かせるはずなどない。本来なら一夏が白式で出撃するプラン自体が水の泡となっているはずなのだ。

 男性操縦者の事例がないわけではない。だが御手洗数馬の場合は使っているISが特殊だった。倉持技研にあった白式は御手洗数馬のケースには当てはまらない。

 理由はわからない。簪としてはその謎を解明したくも思う。しかし今はとりあえず言えることがある。

 

「……結果オーライだよね。頑張って、一夏くん」

 

 青い空を見上げ、声援を送った。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 上空からの景色は見慣れた街でも違って見える。けど白式に載っている情報で現在位置は確認できるからすぐに目的地には着いた。

 すぐ下には病院がある。見たところ建物が壊されたりはしてないからまだエアハルトは到着していないはず。

 それを裏付けるように西の方角から高速で接近してくる影があった。

 注視すると影は人型だとわかる。長い銀髪を靡かせている奴は間違いなくエアハルトだった。ISVSのときとは違って巨大な手のユニットは付いてない。おそらく奴にとっても不十分な機体でここまでやってきたんだろう。

 雪片弐型を呼び出す。刀身も展開する。リミテッドでEN武器を使うのは出力から考えて難しいと聞いていたけど、問題なく使えるようだ。というよりISVSで雪片弐型を扱うのと遜色ない。

 エアハルトもこちらには気づいている。奴の右手には既にENブレードが握られていた。雪片弐型よりも巨大な刃を形成しているこの武装は以前に奴が使っていた“リンドブルム”。出力は雪片弐型と同等以上と見ていい。

 イグニッションブーストは要らない。互いに障害を認識したなら真っ向からぶつかるのみ。

 ENブレードが打ち合わされる。干渉によって停止する互いの刃を境にして、俺とエアハルトは睨み合う。

 

「男の操縦者だと? それにその機体……まさかヤイバか!?」

「この姿だと初めましてだな、エアハルト!」

「つくづく我々は篠ノ之束の気まぐれに振り回されているようだ。ここにきて男性操縦者などというイレギュラーが現れるとは」

「生憎、これはリミテッドらしいぜ」

「バカを言うな。倉持彩華の造っていたリミテッド如きがリンドブルムの一刀を防ぐことなどできるはずもない。貴様が動かしているのは正真正銘のISだ!」

 

 強く押し込まれて距離が開く。俺もエアハルトも二度目の衝突を前にして息を整えている。

 

「俺がISを使ってる? もしそうでも関係ないだろ。俺はここにいて、お前に剣を向けている。これが全てだ」

「尤もだ。貴様が邪魔をするというのなら貴様を葬ればいい。だが――」

 

 エアハルトが地上の病院を指さす。

 

「どのみち私の勝ちだ! 既にあの病院には刺客を放っている。私は篠ノ之箒の身柄を引き取りに来たに過ぎない。絢爛舞踏さえ得られれば、ファルスメアはブリュンヒルデにも打ち破れはしないだろう!」

 

 エアハルトが高笑いをしてみせる。奴の他に刺客がいるだなんて俺は考えもしなかった。

 ……考える意味もなかった。

 俺はエアハルトに確認する。おそらくだが俺は……俺たちは負けてなんかいない。

 

「その刺客だがISは持ってるのか?」

 

 もしもエアハルト以外にIllやISが控えているのならば問題だった。だけど病院で破壊活動にまで至っていないのならその可能性は低い。敵にIllやISさえなければ、俺は無茶をしてまでここに来ようだなんて考えもしなかった。

 エアハルトは怪訝な顔を浮かべている。俺の言ったことの意味をわかっていないのだろう。奴は人間を軽視してる傾向がある。日本の病院くらいならばISのない武力でも簡単に制圧できるとでも思っているんだろう。

 

「ISもなしに箒をさらおうだなんて甘すぎるぞ、エアハルト」

 

 千冬姉ですらISもなしにあの病院から箒を連れ去ることなんてできない。

 なぜならあの病院には――

 箒の病室には――

 俺の知る限り世界最強の男が居るのだから。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 よく晴れた昼間だというのに病院の中は静寂に包まれていた。訪れた者たちはおろか、勤務している医者や看護士も含めて一様にところかまわず眠りこけている。その中を武装した男たちがガスマスクを付けて闊歩していた。

 集団の向かう先は病棟方面。立つ者のいない廊下を足早に移動する。目覚めないとわかっていても、最小限にしか音が立っていない訓練された足取りだった。

 目的地の4階に到達。男たちのターゲットは病室で眠っている少女、篠ノ之箒の身柄を確保することにある。誘拐の手口としては大味であるが、篠ノ之箒さえ得られれば問題ないという判断の上で実行されている。既に彼らには形振り構っていられる時間など残されてはいなかった。

 強引な手段であったが相手は軍人というわけではない。素人しかいない上に自衛の手段すら持っていない日本人を相手に遅れを取るはずなどない。

 そう、高を括っていた。目的地に辿り着くまでは……

 

「内気な見舞い客か、はたまた一般に顔を知られたくないVIPか。いずれにせよ睡眠性のガスを流すとは穏やかとは言えぬ」

 

 襲撃者たちは病院の空調を利用して建物全体にガスを流した。大きな副作用のないものを使ってはいるが、常人なら間違いなく数秒で昏倒する即効性の高いガスのはずである。まだ空気中に残っていることも考慮して襲撃者たちはガスマスクを手放せないくらいだ。

 そんな建物内で襲撃者たち以外に動けるものなど居るはずもない。だというのに、目的の病室の前には和服姿の初老の男が佇んでいた。

 

「俗事に詳しくはないが、病院で使うマスクも随分と物騒な見た目になったものだ。昔、『流行に疎い』と束に叱られたことが懐かしい」

 

 異様な格好をしている襲撃者を前にして動じるどころか感心してみせる。ガスが通じないだけでなく、言動も常識からズレていた。

 襲撃者たちの行動は早かった。明確な障害でなくとも目的地の前に居座る男は十分に邪魔である。エアハルトがやってくるまでに篠ノ之箒を確保しなければならない焦りから強硬手段に打って出る。

 一斉に銃口を和服の男に向けた。それでも男は動じない。

 

「ふむ。それはもしかすると昔、束が言っていた“サバゲー”というものか? 病院で遊ぶならば許可を取って廃屋を使うべきだと思うのだが――」

 

 現実が見えてない。そう判断した襲撃者たちのリーダーが発砲。銃弾は男の足下の床を抉るも見向きすらしていない。

 

「しかも近頃は空気銃でなく火薬を使うようになったのか。実銃がビームなどというものに移り変わった影響がこのような場所にまで出ているとは思わなかったぞ」

 

 見当違いの言葉を発しつつも和服がゆらりと動く。威嚇射撃を意に介さないどころではない。男が歩き始めたというのに威嚇した側の認識が遅れてしまっている。完全に意表を突かれていた。

 何をしてくるかわからない。敵の出現も想定していた襲撃者たちは混乱している。この時点で武装すらしていない相手に飲まれていた。

 リーダーが撃てと指示を下す。威嚇ではない殺意が和服の男に向けられ、一斉に放たれた銃弾が病院の廊下を引き裂いて飛ぶ。

 

「たとえ遊びでも無関係な人間に銃を向けるものではない」

 

 和服のゆとりの大きな袖に隠れていた右手が表に出た。無手ではなく、右手には木刀が握られている。正面に構えられた木刀が小さく動くと、放たれた銃弾の一部が軌道を逸らして廊下の掲示板に突き刺さる。

 銃弾が当たらない。ゆらりとした歩き方は無駄が多いように見えて左右の狙いを絞りにくくしている。さらに命中するコースに乗った銃弾は、超人的な見極めによって木刀で受け流されていた。

 およそ人間業ではない。技術や眼力はもちろんのこと、圧倒的に不利な状況で当たり前のように神業をしでかす胆力は化け物の一言に尽きる。

 銃を撃っている方が錯乱を始めた。撃っても撃っても掠りもせず、1人、また1人と襲撃者が木刀の前に沈められていく。

 ついには襲撃者で残されたのはリーダーのみとなった。手にしている銃は弾切れ。引き金を引いてもカチカチと無駄な音が鳴るだけ。

 最後の一刀により襲撃者は残らず昏倒した。廊下に立つのは木刀を持った男ただ1人となる。

 

「およそ戦いの域に到達しておらぬ。独房から出たら修行し直せ」

 

 浮き世離れした言動は遠回しな説教であった。

 木刀を振るう者の名は篠ノ之柳韻。

 銃を相手に木刀のみで圧倒し、数の差をも平然と跳ね返す。

 これが織斑一夏の目指す最強の男の力。その一端でしかない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 病院の上空でENブレードが火花を散らす。現実でも俺の雪片弐型とエアハルトのリンドブルムはほぼ互角。ISVSとほぼ変わらないやりとりが繰り広げられていた。

 戦いの最中でもエアハルトは時折病院に視線を向ける。

 

「どうした、エアハルト? 思い通りにいかないって顔をしてるぞ」

「まさか私の動きを読んでいたのか? 篠ノ之箒に護衛を付けているとは……」

「違うっての。入院してる子に親が付き添ってるのは当たり前って話だ。お前にはわからないかもしれないけどな」

 

 いくら柳韻先生でもISが相手だとマズい。でも逆に言えばISでなければ柳韻先生は負けない。ミサイルでも撃ち込まないと倒せないんじゃないだろうか。

 そんな人が箒の父親なんだ。基本的に放任主義な人だったけど、箒があの状態なら1人の親になる。あの人は護衛なんて役割を与えられなくても箒を守るんだよ。

 箒の父親のことくらいエアハルトは調べてるはず。なのにまるでいないかのように作戦を立てているのは余裕がなかったか、親が子を守るという当たり前をエアハルトが知らないかしかない。

 

「……こうなってしまっては仕方がない。貴様を倒し、私自らの手で奪うしかないようだ」

 

 エアハルトの鋭い大振りにギリギリのタイミングで雪片弐型を合わせる。あの竜の機体でなくてもスピードを維持して全開のリンドブルムで戦えている。奴の使うIllがISを上回るスペックであることは疑いようがない。

 だけど拡張装甲(ユニオン)でなくなっただけでそれほど条件は変わってない。今のエアハルトはギドと比べればまだ俺1人で渡り合える。

 そう思っていたのは甘えだった。

 エアハルトが右手のリンドブルムを拡張領域(バススロット)に回収した。それが意味することを直感した俺は即座に飛び退く。

 

「ぐっ……」

 

 エアハルトの右手には瞬時に黒い霧の剣が生まれていた。黒の剣閃は雪片弐型の刀身を打ち消し、俺の胸を掠める。退くのが遅れていたら直撃していた。

 あの機体はISVSで戦ったものとほぼ同じと見ていい。リンドブルムを使っていたのは黒い霧に時間制限があるから節約のためなんだろう。

 たとえ雪片弐型でもまともに受ければ一方的に打ち負ける黒い霧の剣。これを攻略しないと俺は勝てない。

 

「逃げたいなら逃げればいい。私はこのまま篠ノ之箒を奪いに向かうだけだ」

 

 弱点はわかってるのに時間稼ぎを許されない。俺は病院に向かうエアハルトを体を張ってでも止めなきゃいけない立場にある。

 黒い霧を出したということは今のエアハルトを守るシールドバリアは存在しない。雪片弐型で斬れば大ダメージは与えられる。だけど奴の攻撃を食らう前に2回斬る必要がある。そんなのは俺1人じゃ無理だ。

 

「長考か。ならば私は行く。向かってこない貴様の相手をしている暇はないのでな」

 

 攻める手立てを考えているうちにエアハルトが動き出す。俺を無視して病院へと足を向ける。箒を奪われた時点で、奴は絢爛舞踏を使って黒い霧を全開で使えるようになる。そうなれば俺に限らず、誰が戦っても勝てない敵が誕生してしまう。

 俺に出来ることは立ちはだかることだけだ。

 雪片弐型を両手で中断に構えてエアハルトの行く先を阻む。

 

「来なければ拍子抜けだった。その蛮勇を死後の誇りとするがいい」

 

 先に仕掛けてきた。黒い霧の剣を容赦なく振り下ろしてくる。受けるわけにもいかない俺は後方に飛び退いて間合いを外そうとしたけど、黒い霧は形を変えて、剣先が大きく伸びた。雪片弐型を横に振ることで剣を受け流し軌道を変えることには成功。しかし次の瞬間にはエアハルトが目の前に来ていた。

 

「しまっ――」

 

 返す刃を雪片弐型でまともに受けてしまう。刀身は消され、腹に直撃を受けた俺は錐揉み回転しながら近くの河原へと墜落する。

 砂と土にまみれて体を起こす。絶対防御で守ってくれたがストックエネルギーは残り僅か。シールドバリアは消し飛んでいるが、サプライエネルギーは使える。白式はバリアの修復をしようとしていないけど今はそれでいい。

 早くエアハルトの元へ行かないと箒を奪われてしまう。そう思い、慌てて顔を上げた俺の前にエアハルトの姿があった。

 

「へっ……俺の相手をしてくれるのか?」

「貴様への手向けだ。念入りにとどめを刺してやる」

 

 できれば後ろから不意打ちをしたかったがそこまで甘い相手でもなかったか。

 今の俺は動けないことはない。雪片弐型も生きている。だけど黒い霧の剣を使うエアハルトとの真っ向勝負は分が悪い。

 ……こうなったら悪足掻きしかないな。

 立ち上がった俺は雪片弐型を上段で構える。防御なんて考える余裕はない。なんとしてでも奴より先に攻撃を当てるという一心で挑むだけだ。

 

「最後までその目は死なないか。ならばその光は力尽くで奪ってやろう」

「はあああ!」

 

 今度は俺から仕掛ける。小細工は抜き。真っ直ぐ向かって真っ直ぐに斬る。速さだけを求めた一撃を決めに行く。フェイントをかけたところでもう無駄だと悟っていたんだ。

 エアハルトの右手が動く。俺が近づくよりも奴が右手を動かす方が速い。簡単に迎撃されて終わると脳裏を過ぎる。

 そのときだった。

 

 右から飛来した蒼い光がエアハルトの右手首を撃ち抜いていった。

 

「何っ――!?」

 

 エアハルトの目が見開かれる。黒い霧の剣は形を失って霧散し、エアハルトは一瞬だけ無防備になった。完全に隙だらけだ。

 

「喰らえェ!」

 

 防がれるもののない俺の剣がエアハルトを左肩から袈裟懸けに斬り裂く。

 手応えは十分。まだ倒せてないけど、ストックエネルギーとしては五分の状況にもつれ込んだ。

 そして、戦況は俺に傾いた。蒼い光の正体は1人しか心当たりはない。

 

『遅く……なりましたわ。ご無事ですか、一夏さん?』

「ああ。助かったよ、セシリア」

 

 事前に通信がないくらい余裕のない狙撃だったんだろう。間一髪の状況で俺はまた彼女に助けられた。本当に俺は彼女がいないとダメなんだなって思わされる。さっきまで気を失ってただろうに起きてすぐに俺に力を貸してくれる彼女には頭が上がらない。

 まだ終わってない。膝を突いていたエアハルトが立ち上がると、血走った眼で睨みつけてきた。

 

「蒼の指揮者……仮想世界に足止めできなかったのか」

「誤算だったか? 悪いが俺は最初からお前との一騎打ちにこだわりなんてない」

 

 そもそも1人でどうにかなったのならここまでの苦労は何もなかった。

 俺はエアハルトと戦うことが多かったけどそれは1つの役割に過ぎない。俺1人で荷が重いのなら2人で対処すればいい。そうやって俺は戦ってきた。

 

「一騎打ちならお前の方が強いかもしれない。だけど、俺()()はお前1人より強いんだ」

 

 セシリアの援護を受けてから不思議と誰にも負ける気がしない。

 体の奥底から力が溢れてくるようだ。

 まるで誰かが俺と一緒に戦ってくれているような感覚がある。

 

 ――お前は私の生きた証そのものだ。

 

 声が聞こえた。その声が誰なのか、わかった気がする。

 戦ってるのは俺1人じゃない。そう確信したとき、エアハルトの使う黒い霧も全く怖くなくなった。

 雪片弐型をエアハルトに突きつける。これが最後。

 

「来いよ、エアハルト! 全力でかかってこい!」

「ほざくなァ!」

 

 激昂したエアハルトが黒い霧の剣を掲げて向かってくる。後先を全く考えない全力を出すのは余裕の無さの表れ。

 対する俺も全身全霊の一撃で応える。

 雪片弐型と黒い霧の剣がぶつかり合う。そして、砕けたのは黒い霧の方だった。

 

「バカな。ファルスメアが消失するなどあり得ないはず……まさか!?」

 

 エアハルトのリカバリーは速い。即座に左手に次の黒い霧を出現させて剣とする。

 俺は再び雪片弐型で黒い霧そのものを斬った。あれほど苦労していた黒い霧がいともたやすく消えていく。

 

「零落白夜だと!? 貴様、いったい幾つの単一仕様能力を持っている!?」

 

 残念ながらそれは勘違いだ。俺が持ってる単一仕様能力は1つしかない。俺1人なら役立たずな能力だけど、俺と共に戦ってくれる人の数だけ強くなる。その中に現実には存在しない人もいる。ただそれだけの話だ。

 エアハルトが黒い霧でひたすらに斬りかかってくる。俺はその一太刀一太刀を斬り払う。

 状況は完全に逆転した。

 とはいえ白式のストックエネルギーが時間とともに削れていく。これが零落白夜の代償。俺の方もそんなに余裕は残されてない。

 雪片弐型を上段に構える。今度は先ほどと違って必勝を確信している。エアハルトにはもう黒い霧を上回る攻撃は残されていない。

 

 縦に一閃。

 

 脳天から入った白い剣はエアハルトのストックエネルギーを残さず奪い取った。

 戦闘続行が不可能となったエアハルトはその場に両膝を突いた。空を見上げて放心状態となった奴はポツリポツリと呟きを始める。

 

「私は……負けるわけにはいかない……プランナーの計画を実行できなければ……私たちに存在価値はないの……だ……計画の先に……アドヴァンスドの理想郷が……ある…………」

 

 負けた今になってもまだそんなことを言っている。哀れを通り越して怒りを覚えた俺はエアハルトの胸ぐらを掴みあげた。もう我慢ならなかったんだ。

 

「ふざけるなよ……取って代わる必要なんてなかった。お互いが認め合えば、それで良かったんだ。お前は新人類(アドヴァンスド)なんかじゃない。自分たちの居場所が欲しかっただけの、ただの“人間”なんだよ」

 

 こうして武器を向け合っていたのは相容れないからだった。

 俺は箒を救う。エアハルトは箒を利用して世界征服をする。

 箒を巡って俺たちは明確に対立した。

 だけどエアハルトの願いと行動が一致してない。俺と違って、与えられた役割を果たそうとしていた。他人のエゴで動いていたからこそ俺たちは敵同士となった。

 本当は戦う必要すらなかったのに。

 

 反論すらしないエアハルトが両腕をだらりと下げる。力を失ったIllを纏ったまま、完全に意識が飛んだようだ。俺が手を離すとその場に崩れ落ち、起き上がる気配はない。

 俺は俺で変化があった。零落白夜によってストックエネルギーが枯渇し、白式がただのガラクタ同然となる。俺の体は自動的に白式から弾き出されて河原の固い地面を転がった。

 

「痛え……」

 

 石ころの上を転がった痛さだけでなく、右腕と左肩の痛みも蘇ってきた。

 だけど失神するほどじゃない。両手を上手く使えないけどなんとか立ち上がってみせる。

 俺には行かないといけない場所がある。もう黒い霧のIllはいないのだから。

 

「箒。今度こそ俺……やったよ」

 

 幸いにも病院は近い。腕の痛みが深刻になってる気がするけど足は動く。片足を引きずるような早さでもいいから、俺は彼女の待つ病院へと歩を進めた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 どこもかしこも戦闘は一段落といった様相だった。プレイヤーたちの戦いの終演を仮想世界の天気までもが悟っているのか、吹雪は治まって分厚い雲が切れていく。氷の大地に打ちつける波の音だけが響く寒空の下、敵の要塞から出てきたトモキは雲の切れ間の空を見上げて溜め息をついた。

 

「雲まで現実と同じにしか見えないってのに、全部が全部幻だなんてな……」

 

 自らの存在でさえも。ヤイバに全てを打ち明けた後、現実では自分の葬式までもが終わっているとトモキは知ってしまっている。もう疑いようもないくらい、自分の運命は決まっている。

 何気なく自らの右手を眺める。手の細かい皺まであり、およそゲームの中だとは考えられない。手相でも勉強していれば生命線を見てみるという悪足掻きも出来たのにな、と笑みを浮かべた。

 そのときである。トモキの右手から光の粒子が抜け出てきた。右手だけではない。体中から徐々に溢れていくそれはプレイヤーが帰還する際に起きる現象そのもの。トモキにとってそれは自らの消滅を意味する。

 

「まあ、自分で言うのも何だが、上出来だったと思うぜ」

 

 今まで共に戦ってきた戦友たちの顔を思い浮かべる。自分たちが本当に終わるその日までナナたちを助けるために全力を尽くす。そう誓った仲間たちはもう先に逝ってしまった。残されたトモキも間もなく後を追うことになる。

 決して悪いことではない。死して去るのではなく、勝利して去る。仲間たちに自分たちのミッションの成功を報告できると思えば誇らしいくらいだった。

 あとは時間が経てばいい。そうして何もせずに立ち尽くしていると――

 

「トモキくんっ!」

 

 名前を呼ばれてしまった。それもトモキが一番顔を合わせたくない人物にである。

 気を利かせて2人だけを残して去ったというのに、まさか追いかけてくるとは考えていなかった。

 振り向くしかない。この状況で無視するほど彼は強くもなければ非情でもない。何よりも、そうしたいという誘惑を振り切れない。

 

「やったな、シズネ。長く待ちわびていた希望の瞬間(とき)だ」

 

 慈愛に満ちた笑顔を向ける先には息を切らせている少女、シズネが肩で息をしている。彼女も今のトモキと同じように体を構成していた粒子が少しずつ分解されて、光の粒子が溢れ出てきていた。

 彼女が間違いなく現実へと帰ることが出来るのだと最後に確信さえ持つことが出来た。自分たちと違って、彼女には帰るべき場所がある。それを羨むことなどなく、ただただ胸の内を喜びが占めていた。

 

「……どうして何も言わずに逝こうとしてるんですか」

 

 シズネは顔を伏せたままトモキに問いかける。暗に責められたトモキは一瞬だけ眉尻が下がるもあくまで平静を装う。決して表には出せない想いがある。たとえ歪でもトモキは最後まで押し通すつもりだった。

 

「お涙頂戴はガラじゃねえ。俺にだって空気くらい読める。ナナもシズネも現実に帰れるってんなら、ただ喜べばいい。そこに俺が居たら冷めるだろ?」

「本気で……言ってるんですか?」

「当たり前だ。俺はもう自分の運命を受け入れてるし、他の連中を差し置いて俺だけ特別扱いする必要なんてねえ」

 

 右手でしっしっとシズネを追い払う仕草をする。

 

「とっとと行っちまえ。お前に同情されるなんて腹が立つ終わり方は望んでねえんだよ」

 

 突き放す物言いには容赦がない。これまで同様にトモキがシズネを見る視線は冷たかった。

 しかしトモキは気づいていない。根が熱血な彼は敵対する者や嫌いな者に対しては激昂するはずなのである。故に冷たさの宿る視線に潜む心は決して嫌悪の類ではない。必死に本心を隠しているからこその態度だと言える。

 

「嘘を吐いたままいなくならないでください!」

 

 シズネは察していた。ツムギに隠されていた真実を知ってから、トモキが道化を演じているということを。

 こうして最後のときまでの僅かな時間、トモキを追ってきたのは知りたかったからだった。その思いの丈を一言でぶちまける。

 

「本当のあなたを私に覚えさせてください!」

 

 トモキは即座に背を向けた。これ以上、向き合えなかったのだ。

 まさかとは思いつつ右手で頬を押さえると、トモキは自分の顔面の異常に気が付いてしまう。泣き虫になってしまったシズネよりも先に涙腺が崩壊していた。

 

「本当の俺……? 何言ってるんだよ……いつもの冗談にしちゃキレが悪いんじゃ――」

「逆……なんですよね?」

 

 若干鼻声になったトモキを遮るようにシズネが言葉を紡ぐ。

 鈍感だった自分なりに考えた答えを確かめるために。

 

「トモキくんの言っていた、“馬”と“将”は誰なんですか?」

 

 最近になってトモキは口を滑らせていた。

 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。

 シズネを励ましたときに使った言い訳であるが、実は言い訳でもなんでもない。この言葉はトモキの行動の全てを物語っていた。

 もうシズネは気づいている。気づかれたことをトモキも察している。

 なんとも格好悪い結末だ。墓まで持って行く秘密であったのに。

 情けなさにまた別の涙が流れそうだった。

 

「無表情のついでに、鈍感だとばかり思ってたぜ。表情が戻ったら鈍感も消えたんじゃねえか?」

 

 ここまで言われて頑なに否定するようなことはしない。何故なら、それは格好悪いからである。彼の矜持が誤魔化すことを許さなかった。

 

「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。言葉通り、俺はシズネに近寄るためにナナにアプローチをかけてた。ナナを介さないとシズネとはまともに話すことも出来なかったからな」

 

 過去を振り返るトモキは泣き顔のまま自分のことを鼻で笑う。

 

「ずっと気になってた。最初は感情の希薄ないけ好かない女だって思ってた。でも一緒に過ごす内に無表情を作ってるんじゃなくて、表情の作り方がわからないんだって気がついた。本当はツムギにいた誰よりも純粋な奴なんだって思ったらずっと目で追ってたよ」

 

 もう隠すことはない。ずっと胸に秘めていたことを全て打ち明けるつもりでトモキは捲し立てる。気恥ずかしさもあったが、何よりももう時間が残されていない。

 

「シズネがさらわれたときは冷静さを失っててさ。ダイゴの旦那にぶん殴られて気絶させられたりもしたっけ……本当にナナとヤイバには感謝しかしてない。俺じゃ助けられなかった」

「トモキくん……」

「ナナが好きだってのは嘘じゃない。でもナナの場合は恋してたとかじゃなくて男気に惚れてた。ナナが男でも俺はついていったと思う」

「どうしてナナちゃんにセクハラを?」

「ちょっとばかしオーバーになっちまってたな。シズネにどんなトラウマがあるかわからなかったから、俺の意識がナナに向いてることにしといた方がシズネも話しやすいだろうって思ったんだよ」

「意外と繊細なところがあるんですね」

「バカ言え。俺は昔から細かい男だっての。自慢することじゃねえけど」

 

 演技の根本は全てシズネへの配慮。そして自らの死を悟ってからは必要以上に近寄らないことに決めていた。当初の目標もその時点で潰えていた。トモキ自身が達成したところで、終わりの時になって新たなトラウマをシズネに刻みつける恐れがあったのだ。

 だからトモキは自分以外に希望を求めた。

 誰でもいい。シズネに表情を戻してやってくれ、と。そしてナナと共に現実に帰った後も見守ってやってくれ、と。

 ヤイバはその全てを満たす救世主だった。

 

「最後まで隠し通してたら格好良い男になれたはずなんだけどな。やっぱ俺は格好悪い男で終わる運命らしい」

「そうですね。最悪です」

「おっと! ここでまさかの毒舌かよ!?」

 

 ふざけた口調のトモキだが本気で胸を痛めていた。全てを知った上で罵られるとは思ってもいなかったからだ。

 しかしトモキは忘れている。今までもシズネの言動に振り回されてきたことを。彼女の言う『最悪』を文字通りに受け取ってはならない。

 

「格好悪いだなんて勘違いしてるトモキくんは最悪ですよ……」

 

 大粒の涙をこぼしながら最悪だと繰り返す。素直じゃない言葉を簡単に置き直すとたった一言になる。

 ――最高に格好良い。

 想い人にとって一番の男でないことは理解している。それでも彼女にそう想われたトモキの胸は必然的に高まった。

 

「俺、後悔なんてしてない。俺が役に立ててなくても、最終的にシズネは正直な顔を見せられるようになった。現実に帰ってもナナと楽しくやっていける。そう、俺は確信してる」

 

 もう残された時間は少ない。トモキの体は下半身がなくなっている。両手も消えて、胸元より上しかない。

 確実に消滅が近づいている。それでもトモキは前を向き続けた。最後のそのときまで、シズネの姿をその眼に焼き付けるために。

 恨み言なんて何もない。あとは笑って彼女の背を押してやればいい。それで全ての望みは叶う。

 

「頑張れよ、シズネ。応援してる」

 

 その言葉を最後にトモキの全身が消え去った。彼の終わりへの旅路はここが終点となる。目元に涙の跡が残ったままでも、彼は最後まで笑っていた。

 仮想世界の空に消えた光は帰る場所がなく、現実でも仮想世界でもない場所へ向かう。その新たな旅路の果てに彼は先に逝った友と巡り会うことだろう。

 

「……私、覚えました。格好良かったあなたのこと。私とナナちゃんの希望を最後まで紡いでくれたこと。絶対に忘れません」

 

 先に消えた少年を想いながらシズネの体も消えていく。行き先はプレイヤーたちと同じ、現実の自分の体。もう二度とトモキと顔を合わせることはない。

 笑顔で現実に戻ることがトモキの願いであり、希望だった。だから泣いてはいけない。そう、頭ではわかっている。しかし耐えることなどできそうにない。

 ……これを最後にするから今だけは許して。

 

「う、あ……あああああ――」

 

 静まりかえった北極の海に少女が幼い子供のように泣き喚く。

 その慟哭は彼女の姿が消えるその瞬間まで、ただの一度も途切れることはなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ヴィーグリーズの制圧が完了した。一部の敵は逃走したが、もうこの地に敵の姿はない。ミッションを終えたプレイヤーたちも次々と現実へと帰っていく。

 空に消えていく者たちを文月ナナは見送る。名前も顔も知らない者たちが、たとえゲームとしてであっても自分たちのために戦ってくれていた。その事実を噛みしめて、感謝の念を送る。

 

「さて、あとはヤイバ……一夏次第か」

 

 紅椿は辛うじて飛べる程度の状態であるがツムギに帰還するのに支障はない。現実で起きている戦いの結果を待つためにも仮想世界の家に帰ることに決めた。

 

「シズネ、どこにいる? 私たちもそろそろ戻るとしよう」

 

 共にこの世界を生きてきた親友がもう現実に帰ってしまっていることをナナは知らない。通信の声は風に消え、誰もナナに答えはしなかった。

 シズネに何かあったのではないか。そうナナが不安を覚えるのも無理はない。

 今の彼女に何も変化がなかったからだ。

 

「迎えに来ました、ナナさま」

 

 ふと近くで声がして振り返る。振り向く前から誰がいるかは想像がついている。ナナさまと呼ぶのはクーだけだった。

 氷の上に立っている少女は想像通り、両目を閉じている盲目の銀髪少女。

 問題はなぜクーがこの場にいるのか。

 今まで不測の事態を除いてクーが戦場にいたことはない。今回のような戦場になっていた場所にわざわざ顔を見せるのは異様である。

 

「ちょうど良かった。シズネと連絡が取れないのだが、どこにいるのか調べてくれないか?」

 

 クーがこの場にいる疑問を棚に上げて、いつものように調査を依頼する。戦闘能力がなくてもクーの情報収集はツムギの立派な戦力である。シズネと連絡が取れないのも大した問題でないと教えてくれると期待していた。

 

「鷹月静寐の行き先は知りません。ワールドパージ“幻想空間”の外側を私は認識していませんから」

 

 いつにも増して事務的な反応。さらにシズネのことをシズさんでなくフルネームで呼んでいるのが冷たさに拍車をかけていた。

 クーが何を言っているのかナナにはわかってしまった。死んだという最悪の事態でないことは言い回しから理解できる。そして、クーが認識できない理由も推論が立っている。

 

「シズネはもう現実に帰ったのだな」

「そうです」

「ということは一夏がやり遂げてくれたのか。流石は一夏だ」

 

 シズネが無事に現実に帰った。それを成し遂げたのは一夏である。そう思うだけでナナの頬は綻んだ。

 だがまだ彼女は気づいていない。シズネが帰ったというのに、まだ自分にその兆候が表れていないことを。

 その事実はクーの口から宣告されることとなる。ナナの喜びすらも奪い取る形で……

 

「いいえ、織斑一夏は関係ありません。鷹月静寐を始めとするツムギを騙っていた者たちは私の権限でこの世界から解放しました」

「……何? どういうことだ!」

「彼女らはこれより先の“幻想空間”に不要な存在でした。異物は排除しなくてはなりません」

 

 ナナが聞きたい質問とは違う答えしか返ってこない。『どうして?』ではなく『なぜそんなことができる?』と聞きたいのである。

 言葉よりも先に手が出たナナはクーの胸ぐらを掴みあげた。クーの言っていることが事実ならナナたちをこの世界に閉じこめている者の正体は――目の前の少女ということになってしまう。

 

「お前が! 全ての元凶なのか! あのとき、篠ノ之神社に居たのだな!」

「元凶とは何のことかわかりかねます。ただ、ナナさまが篠ノ之神社を訪れた際、私がその場に居合わせたことは間違いありません」

 

 箒が文月ナナとなってから篠ノ之神社には1度しか行っていない。黒い霧のIllに襲われたあの日だけである。クーはそのとき、近くにいたと言っている。

 つまり、クーは現実にも存在していたことになる。

 

「……お前のことはわかった。すぐに私も現実に帰せ」

 

 言いたいことは山ほどあるが、その前にナナは当たり前の要求をする。シズネたちを戻せたのならば自分も可能であるはずだ。

 しかしクーは首を横に振る。

 

「できません。ナナさまは箒さまであり束さまの妹です。ですからあなたはこの世界に必要なのです」

「姉さんを知っているのか!? これは姉さんの仕業なのか!」

 

 掴まれた右手をふりほどこうとしても一向に離れそうにない。小さい体のどこにそんな力があるのか。全開でないとはいえ紅椿の力で抗えないのは異常である。

 クーは無表情を崩さない。ポーカーフェイスだったシズネと比較しても無表情と言えた彼女はAIと名乗っていただけあってまるで機械のよう。そんな彼女の閉じていた目蓋がピクピクと動き始める。

 

「私は束さまのために存在します。束さまのためになるならば手段を選ぶつもりはありません」

 

 クーの両目が開かれる。

 重い目蓋の下にあった眼球はおよそ人のものとはほど遠い漆黒。

 瞳は夜に浮かぶ満月のように金色に怪しく輝いている。

 彼女は今まで敵としていた遺伝子強化素体そのものの姿をしている。今まで苦楽を共にしてきた仲間の豹変にナナは驚愕を隠せない。

 

「お前はいったい……何者なんだ?」

「ただの出来損ないの遺伝子強化素体です。束さまはそんな私にこの体とクロエ・クロニクルという名前を与えてくださいました。私はその恩をまだ返せていません」

 

 クロエがパチンと指を鳴らすと彼女の背後から黒い霧が吹き出した。それは意志を持つ生物のように細長く伸び、ナナの両手両足に絡みつく。

 

「これはあのときの黒い霧? 本当にお前……だったのか……」

 

 抵抗しようとしていたナナだったが黒い霧にまとわりつかれて急速に意識が遠くなっていく。

 ガクリと意識を落とした彼女を黒い霧が優しく抱き上げてみせる。

 

「ナナさまを保護。これより安全な場所へ待避します」

 

 クロエがナナと共にふわりと浮き上がる。東西南北、どの方位にも移動しないまま、ただひたすらに空へと昇っていった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 右手と左肩の痛みは引いてきた。仮想世界で無茶をした後遺症はあまり残ってなさそうで良かった。とは言ってもまだ何かを触れるほどには回復していなく、左手も持ち上げると肩に響くからダラリと垂れ下げるしかない。

 病院に入ってからは医者と看護士に気づかれないように慎重に歩いた。変に体調が悪いと思われてしまえば時間を取られる。せっかく箒に会えるというのに、自分の体のことで時間を割かれたくなかった。

 忙しなく歩く人たちとぶつかるとマズい。あくまで普通に歩いているように見せ、ただの一度もぶつかってはならない。痛みを我慢しながら周囲に気を配るのは思っていたよりもきつい。

 エレベーターはボタンを押せなかったから階段を使う。体に振動を与えないように一歩一歩確実に踏みしめて昇る。少し焦る度に激痛が走り、叫んでしまいそうになっては足を止める。その繰り返しだった。

 

「やっと……着いた……」

 

 4階で助かった。これ以上昇れと言われても頭が悲鳴を上げている。ギリギリで俺の精神力は持ちこたえてくれた。

 あとは廊下を歩いていくだけ。4階は1階ほどドタバタしていなく、誰にも邪魔されずに歩くことが出来る。

 もう目的地は見えている。病室の中では今頃箒と柳韻先生が再会の抱擁でも交わしているんだろうと頭の中で思い描く。

 早く俺もその輪に混ざりたい。来年の初詣の計画でもしようか。

 自分の体の異常も忘れて俺の口は勝手にニヤケていた。

 

 早く箒に会いたい。

 

 君がその喉を震わせて、俺の名を呼ぶ声を聞きたいんだ。


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