Illusional Space   作:ジベた

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32 静かな寝起き

 今日も今日とて、シズネは1人で通路をぶらついている。

 

 ツムギ最大の危機となったギド・イリーガルの襲撃から2週間が経とうとしている。その間、ツムギは平和そのもので警報は一度として鳴っていない。倉持技研が守ってくれているためツムギのメンバーが気を張る場面は一切なく、シズネが暇を持て余すようになったのも無理はない。

 問題はシズネがひとりであるという点だ。

 元々彼女は他人との付き合いを避ける傾向にある。ISVSに囚われる前はナナ以外の人間とは必要最低限の言葉しか交わそうとしなかった。ナナがツムギを結成してからは必要最低限の言葉が多くなり、トモキやレミたちと話す機会が増え、いつの間にか必要以上に話せるように変化してきていた。

 それでもシズネはナナの傍にいるのが当たり前。交友関係が増えても、優先順位は今も変わらない。だというのに、あるときを境にしてナナといる時間が著しく減少している。

 

「シズネーっ! 何してんのー?」

 

 通路からロビーに出たところでシズネを呼ぶ大声が届く。ロビーの一角でアカルギのクルーであるレミたちがテーブルとイスを持ち込んで談笑しているところだった。

 平和な時間が増えたためにツムギのメンバーは常に持ち場についている必要がなくなり、自室以外の安らぎの場を求めていた。贅沢はしなくてもせめて談話室くらい欲しかったのだ。とはいえ良い場所もない。そこで利用するプレイヤーがほぼヤイバのみのロビーを使っているのである。

 

「散歩です。することもないので」

「え、あ、そ、そう……」

 

 いつものポーカーフェイスのままシズネはレミたちの元へと歩み寄った。ナナが絡まないときにシズネが他者と関わることは少ない。ダメ元で声をかけたレミの方がテンパってしまい言葉を窮する。

 シズネの目の前でアカルギクルーの3人娘が顔を寄せ合って作戦会議を開始。

 

「ちょっと、レミ!? 自分で呼んどいてその返事は普通に考えておかしいよ!」

「し、仕方ないでしょ! まさか答えてくれるなんて思ってなかったんだもん」

「ナナと一緒にいないのは喧嘩が原因だというリコの予想が外れた形となりましたわ」

「そ、そう! 元はといえばリコが妙な勘ぐりをしたのが悪い!」

「えー。絶対にそうだって断言したのも、私たちで元気づけようとか言ってたのもレミじゃん」

 

 もちろん全部シズネの耳に届いている。しかし彼女はレミたちをジーっと観察するだけで何も言わない。

 

「とにかく! 念のためナナには触れない方が良さそうよね」

「そうでしょうか……むしろ聞いてみる方が良いのでは?」

「じゃあ、あたしが聞いてみる! ねえ、シズ――」

「ナナちゃんでしたらお休み中なだけですよ。ご心配なく」

「先回りされた!? でもあたしは仕事した! 褒めて褒めて!」

 

 リコが意を決して聞こうとした質問は先に答えを返されることで不発に終わる。

 

「ねえ、褒めてよ、レミぃ」

「はいはい。頑張ったねー。えらいえらい」

「カグラもさー」

「いい加減ウザいです」

 

 構ってもらえてご満悦なリコ。

 いつも通りの彼女たちの様子を観察し終えたシズネは1度だけ大きく頷いた。

 

「皆さんも暇なようですね」

「まあね。良いことなんだってのはわかってるんだけど、何もしなくていいっていうのは逆に困ったりして」

「もしよろしければ私の相談に乗っていただけますか?」

 

 性格の大きく異なる3人娘が皆一様に目を見開いた。

 リコがおもむろに目薬をさした後で感動を口に出す。

 

「まさかナナに続いてシズネも恋バナ持ってくるなんて……」

「いや、リコ? 私としてはその目薬どっから出したのかとかどこで手に入れたのかとかそっちの方が気になっちゃってるんだけど」

「恋バナと断定するのは早計です。シズネならその期待を軽く裏切ってみせるはずですから」

 

 3人とも好き勝手なことばかり話しているがシズネは意に介さない。持ち前のマイペースさを維持したままシズネも自分勝手に質問をする。

 

「男の子はどのような女の子が好みなのでしょうか?」

 

 今度は3人娘の口があんぐりと開いた。

 彼女たちが固まっている理由を聞き逃したからだと解釈したシズネは繰り返す。

 

「ヤイバくんが理性を失って襲いかかってしまうような女の子とはどのようなタイプなのでしょうか?」

 

 否。発言内容がかなり変わっていた。

 まさかの恋愛話かと思えば、方向性が微妙に異なる。そう思ったのは1人だけではなく3人娘は満場一致で『この子は変な子だ』とアイコンタクトで通じ合った。

 

「え、えーと……シズネはヤイバに襲われたい……のかな?」

 

 恐る恐るリコが尋ねる。シズネがヤイバに恋をしているという話はツムギの中で知らないものがいない話だ。ただし本人に自覚が足りていないことも知れ渡っている。よもやそれが変な方向で目覚めたりしていないかという不安に襲われた。

 

「そんなはずないです」

 

 きっぱりと否定が入ってリコはズルッとこける。ついでに隣のレミも巻き込んでこんがらがった。

 ドタバタする2人を余所にカグラが問う。

 

「シズネはどうしたいの?」

「どう、とは?」

 

 首を傾げるシズネは煽りでも何でもなく本気で理解していない。カグラは額を右手で押さえて溜め息を吐く。説明するのが面倒くさい。

 このままシズネの意図を聞こうとしたところで平行線。床に転がっていたレミが起きあがってとりあえず違う質問を試みる。

 

「たぶん私たちよりシズネの方が知ってると思うんだけど、ヤイバって見境なく女の子を襲うような男に見えるの?」

「見えません。しかしヤイバくんも男の子のはずです。ラピスさんやリンさんたちを見ていると、その……」

 

 珍しくシズネが言い淀んだ。ハッキリ言わなくても彼女が言いたいことを3人は察する。わかってしまえば簡単なことだった。レミとリコがあからさまにニヤニヤと笑みを浮かべる。

 

「シズネの男のイメージってトモキみたいな奴のことかー。でもヤイバはあの見た目で草食系だから気にすることないよ」

「え、ヤイバくんってそうだったんですか!?」

「お! あたしでもわかるくらいに動揺してる! そんなにビックリすることだった?」

「はい。本当に見た目で人を判断してはいけませんね」

 

 一歩引いてシズネの様子を窺っていたカグラは他2人と違ってシズネが誤解している可能性に気づいていたが黙っていることにした。理由は――面白そうだったからだ。

 

「そういえばですけど、シズネは料理をしたことはあります?」

 

 唐突な話題転換。しかしシズネもレミもリコもその話題を自然なものとして受け入れる。

 

「ここに来るまで自分の分は自分で作っていたので経験はあります。野菜料理も問題ないですね」

「お、それかなりのプラス要素だよ! 色気で既成事実を作る方面よりも家庭的なところを見せる方がヤイバには効果的だと思う! でもなんで野菜……?」

「昔から『男を掴むなら胃袋を掴め』っていうし、いけるいける」

「胃袋を掴む……ヤイバくんのをですか?」

「そうそう。それでヤイバを虜にしちゃえばいい」

 

 全く示し合わせていないのにカグラの想定通りにレミとリコが話を持って行く。顎に手を当てて長考を始めたシズネを微笑ましく見守る。

 

「わかりました。早速ナナちゃんに弟子入りを志願しようと思います」

 

 考えた末の結論を聞いて反応は2つに分かれた。カグラ1人だけ笑いを堪えるのに必死である。他2人はキョトンとして返す。

 

「ナナって料理上手なの?」

「はい、そうです」

 

 ここでナナが料理下手であれば矛盾が生じただろうが、シズネとナナは一緒に料理をしたことがある仲。お世辞抜きに断言するシズネがナナに弟子入りするという宣言は一見すると不思議ではない。

 

「でもシズネにとってナナは最大の壁だと思うんだけど、それでいいの?」

「壁なんてとんでもないです。ナナちゃんは大きな山です」

「いや、どっちにしても越えなきゃいけないじゃん……」

 

 カグラだけが知っている。シズネがトモキから女性の胸について話を聞いていたことを。そのときにトモキが壁や山と表現していたことを。

 シズネだけが胸の話をしている。

 よってカグラはシズネの言動に疑問符を浮かべる2人の後ろで蹲り、床をドンドン叩いて笑わざるを得ない。

 

「何やら楽しそうだな」

 

 騒いでいたこともあってか、このタイミングで通路からナナが顔を出す。シズネの恋路を応援しようというつもりでいたレミとリコが気まずげに視線を逸らす中、シズネ本人は特に気にした素振りもなくナナの元へと駆け寄っていく。

 

「どうしたんですか? 向こうで何かトラブルでも?」

 

 3人娘に聞こえないようナナの耳元でそっと尋ねる。レミたちは知らないことだが最近のナナはモッピーを使って現実に逆ダイブしている。シズネがひとりだったのはナナを気遣ってのことだった。

 

「なに。まだ私にとっての現実はこちらだ。夢ばかり見ていてはいかんから今日のところはやめておこうと思ったのだ」

「そう、ですか」

 

 今日はナナが居てくれる。だというのにシズネは渋い表情に変わる。滅多に見せない感情を含んだ表情。そんな明確な変化を初めて目の当たりにした3人娘がわらわらと寄ってくる。

 

「なになに? やっぱり喧嘩してるの?」

「どうしてリコはそんな楽しそうに聞くのよ……」

「いえ、これはきっとナナに振られたショックがまだ続いているのでしょう」

「カグラ……お前の中ではシズネが私に告白したことになっているのか……」

 

 ナナは呆れを隠さない。シズネとこの3人が話した後、荒唐無稽な話が飛んでくることが稀にあるため今回もそれだろうということで自分を納得させていた。

 

「ひどいです、ナナちゃん。私は何回もナナちゃんが大好きだって言ってるじゃないですか」

「調子に乗って便乗するな」

「あう……痛いです」

 

 てい、と軽くチョップして制裁する。天然でトンデモ発言をするシズネだがナナやヤイバに対してはわざと冗談を言うことが多いため、どこまでが本気か他人にはわかりづらい。最近はその対象にリンも追加されていたりする。

 うっすらと涙を浮かべているシズネを放置してナナはレミたちと向き合う。

 

「さて、3人とも。少し時間をもらえるか?」

「いいよ。暇だし」

「仕事? また、ヤイバの手伝いでアカルギを使うのかな?」

「違う。軽く私の話し相手になって欲しいだけだ」

 

 了承を得たところでナナはシズネに振り返った。

 

「シズネにも頼みがあるのだがいいか?」

「もちろんです。何でしょう?」

「私の部屋に行ってくれ。やって欲しいことはメモに残してきた。あとはそれに従ってくれればいい」

「はい、わかりました。では行ってきます」

 

 言われるままにシズネはロビーを後にする。

 ナナの部屋へと向かう道中でふと自分とナナが入れ替わっただけと感じたが構わずナナの頼みを実行することにした。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 日曜日。Illの存在を知った後でも同級生たちがISVSに興じている週末だというのに御手洗数馬はゲーセンに行く予定を立てていなかった。

 

「きょ、今日は朝に来たんだ……」

 

 自宅の玄関を開けたところで数馬は固まる。呼び鈴に応じて出てみれば、待っていたのは銀髪黒眼帯の少女。

 

「約束してしまったからな。ゼノヴィアを外に連れ出す際は私も同行すると」

 

 ラウラ・ボーデヴィッヒ。一夏の家に居候を続けている彼女は数日前から御手洗家に訪問するようになった。ゼノヴィアとそっくりな外見である彼女を数馬の両親が『ゼノヴィアの姉が迎えに来た』と勘違いして喜んでいたのは数馬の記憶に新しい。ラウラとゼノヴィアは双方に面識がないことを伝えるとがっくしと項垂れていた。

 平日のラウラは夕方に顔を出す程度。家の中まで入ることはせず、玄関でゼノヴィアと立ち話をするだけ。土曜日もそうだったのだが、翌日にゼノヴィアを連れて出かける旨を伝えた結果、現在に至る。

 

「律儀なんだね」

「当たり前のことをしているまでだ。一度交わした約束を裏切るなど人として間違っている」

 

 実際は堅物だと感じていたのだが律儀であるとオブラートに包んでおく。数馬がそうして言動に気を使っているのも、ラウラが意外と日本語を知っているからだった。

 ――IS操縦者ってのは皆、こうなのだろうか。

 一夏の周りにいる外国籍の女性陣を思い浮かべる。全員が見事に日本語がペラペラであり日本人と遜色ない。だからこそ、

 

「ラウラ。それは再び来たか」

「そう怖い顔をするな。私は数馬の味方だ」

 

 ゼノヴィアの日本語の下手さが際だっているように思えた。初めは指導を試みたラウラも途中で折れ、1週間も経たないうちにゼノヴィアの方に合わせるようになっている。

 今でこそ会話が成り立っているが最初は一筋縄にはいかなかった。初日は2階に逃げていった。その次も数馬の背中から離れようとしなかった。まともに話ができるようになったのはラウラが数馬を名前で呼び始めてからのこと。ものは試しであったが、それでようやくゼノヴィアの警戒は緩くなった。

 しかしまだぎくしゃくしている。御手洗家の人たちとは比べるべくもないくらい遅い進展といえる。

 

「じゃあ、ゼノヴィア。ラウラと一緒に出かけようか」

「真実? 私は嫌である」

「わかった。じゃあ、俺はラウラと出るからゼノヴィアだけ留守番だね」

「……私に選択権はない。行く」

 

 この差である。似た外見の者同士、仲良くなってもらいたい数馬の思惑はまだまだ届きそうになかった。

 

 3人で街へ繰り出す。行く当てなどない。気ままに歩くことが主な目的であり、ゼノヴィアの情報を持っている人と出会えたらラッキー程度の認識。数馬にとっては慣れた街でも、ゼノヴィアにとってはまだまだ未知のもので溢れているようで周囲を見回しては指をさす。

 

「カズマ。あれは何か? 鈍器?」

「いやいや、どんな怪力で引っこ抜くんだよ。あれは電柱」

「今まで気にしてこなかったのか……」

 

「その後、あれは? 今回はハンマー?」

「その発想はどこから出てくるんだ……郵便ポストだよ」

「なるほど。数馬は発送とかけたわけだ。あとで座布団をやろう」

「ラウラは親父ギャグもいけるクチなの!?」

 

「大きなミサイルが飛んでる」

「いや、どう見ても飛行機なんだけど」

「一般的な旅客機だな」

 

 数馬とラウラの2人でゼノヴィアの疑問に答えていく。

 推定年齢12歳ほどのゼノヴィア。犬も知らなかった彼女が持つ疑問は幼い子供そのもので年相応とは言えない。数馬はゼノヴィアの記憶喪失も疑っていたため、この点を今更問題とはしない。

 だがモノを見て何かがわからなかった彼女が、数馬やラウラが答えた単語の意味を問い直すことは一切しなかった。まるで単語の意味だけを知っていて、実物だけを見たことがないかのよう。

 数馬の中で違和感がないことはない。しかしそれを口に出すことはなかった。

 

「使用法が分からないものだけであるが、これは今楽しい」

「そっか。ゼノヴィアが楽しいならそれでいいよ」

 

 散歩の距離も長くなってくる。結局誰からも声をかけられず、ゼノヴィアの情報は集まりそうもない。しかしゼノヴィアが怖がっていなければそれで良い。数馬はいつの間にかそう考えるようになっていた。

 

 やがて数馬が走り慣れた道にさしかかる。普段のジョギングコースではなく登校に使う道。そして、数馬の通う藍越学園が見えた。

 ――誰も知り合いが通りかかりませんように。

 よくよく考えてみればラウラがいるおかげでロリコン疑惑は避けられても、休日にラウラとデートしているように第三者からは見える。その事実に今更気がついた数馬は校舎の方角に祈りを捧げた。

 ゼノヴィアも数馬の真似をして祈りを捧げるポーズをとる。疑問を口にすることもセットで。

 

「あの場所は学校か?」

「そう。俺が通ってる藍越学園。地元での就職に有利だからって親を説得したけど、本当のところ、あいつらと同じ学校だから決めた進路だったんだよなぁ」

「あいつら?」

「友達のこと。そのうち紹介できるといいんだけどね」

 

 実を言えば、ラウラにバレた時点でロリコン疑惑どうのこうのはどうでもよくなっていた。そうでなくとも一夏と弾だけならば話した方が良いとも数馬は感じ始めている。

 問題はゼノヴィアの極度の人見知りにある。1人会わせるたびにラウラと同じ反応をしていては精神的負担が大きいのではないかと危惧している。

 

「一夏にゼノヴィアのことを話すのか?」

 

 ラウラが数馬に耳打ちをしてきた。わざわざ交わした約束を自分からふいにする数馬の言動に疑問を抱いてもおかしくはない。

 

「そのうちね。急ぐつもりはないけど」

「……そうだな。今すぐはやめておくべきだ」

 

 数馬の方針をラウラは肯定する。だが常に自信に溢れていたドイツ軍人にしてはやや消極的な態度だったことが数馬の中で違和感として残った。

 ……一夏とゼノヴィアを会わせたくない?

 ラウラの不可解な態度を上手く説明するならそれしかない。しかしその理由に数馬が思い至るはずもなかった。

 数馬は一夏たちの手にしている情報を全ては持っていない。

 

「ところでラウラ」

 

 話と考えに夢中になっていた数馬はふと気づく。目の前にいるラウラに改まって問いかける顔には冷や汗が浮かぶ。

 

「どうした、数馬?」

「ゼノヴィアがどこいったか……知らない?」

「…………何ィ!?」

 

 意識を逸らした数秒のうちにゼノヴィアが行方を眩ませていた。

 慌てた2人は手分けして探すが近くには見当たらない。

 ゼノヴィアの身体能力は数馬以上だ。本気で走られたら追いつけない。

 危険な通り魔がいるかもしれない街である。大変な事態になる前に、と数馬は必死な形相で走り出した。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 日曜日。弾たちがゲーセン行こうぜと誘ってきたけど今日は断っておいた。お金がかからないからという理由で家から入るというわけでもない。今日はISVSから離れてやっておきたいことがある。

 俺はモッピーを抱えて道を歩いている。ぬいぐるみを持って歩く男子高校生というのは格好のつかない絵面だが仕方がない。普段はセシリアが持ち歩いているから違和感がないんだけど、今日はなるべく少人数で動きたかった。つまりセシリアも鈴もいない俺一人だけなのだった。

 

「えーと、セシリアの書いた案内図によると……あと徒歩5分ほどか」

 

 モッピーなんて目立つものを持って目的もなくぶらついてるわけじゃない。ちゃんと目的地はあって、もう間もなく見えるところだ。

 そのとき、腕の中のモッピーがピクンと動く。俺は足を止めて跪くと歩道の上にモッピーを置いた。できるだけ目線を合わせて声をかける。

 

「シズネさん?」

「……あなたがヤイバくんなんですね」

 

 ナナは手筈通りやってくれたようだ。モッピーから聞こえてくる声はシズネさんのもの。彼女はモッピーを通して現実を知覚している。これで今日の準備は概ね完了だった。

 

「やはりヤイバくんは特殊な性癖の持ち主のようです。ナナちゃんをこのようなぬいぐるみに入れた上で、恥ずかしがるナナちゃんを鑑賞して興奮を覚えるだなどと正気の沙汰とは思えません」

 

 自らの体を見下ろすモッピー。中身のシズネさんは平常運転のようで、俺をとにかく変態扱いしようとしてくる。

 

「色々と飛躍しすぎだろ!? だいたい、このぬいぐるみは俺の趣味じゃない!」

「なるほど。もはや義務である、と」

「むしろ悪化してる!? シズネさんにとって俺って何なの!?」

「超絶かっこいいスーパーヒーローに決まってるじゃないですか」

「お世辞なのに言葉を飾りすぎて逆に残念になってる!? 前に宍戸大先生様って呼んで怒られたのを思い出すぜ!」

「ダメですよ、ヤイバくん。敬称を2つ重ねるのは逆に失礼なんです」

「ドヤ顔で説明されなくてもわかってるよ! ってか今気づいたけど、モッピーの方が表情豊か!」

 

 モッピーの皮を被っていてもシズネさんはシズネさんだった。変に気負ってないのも確認できたから先に進む。目的地は目と鼻の先で、俺の目線の高さからはもう見えている。

 

「今は移動中のようですね。どこへ向かっているのですか?」

「すぐにわかるよ」

「さては女の子のところと見ました。ナナちゃんに報告しておきます」

「あはは……バレちゃってたか」

 

 シズネさんの推測は何も間違ってない。けどたぶんバレてない。全部知ってたら違う反応が来ると思うから。

 到着したのは病院。だけど俺はここに初めて来た。

 

「病院、ですか。わかりました。ヤイバくんはお見舞いに来たわけですね」

「そういうこと。ここから先しばらくはぬいぐるみのフリをしててくれ」

 

 まずは受付で話を通す。通常の見舞いとは扱いが違うから名前を書いて許可をもらう。こうして身内以外が入れるのもセシリアが手を回してくれたおかげだった。

 知らない場所だと勝手が違うから案内板を追っていかないと迷いそうになる。紆余曲折の果て、俺は目的の病室に辿りついた。扉をあける前に尋ねておく。

 

「ねえ、シズネさん。ここに入っていいかな?」

「私に確認されても困ります。ヤイバくんのご自由にどうぞ」

 

 本人からの許可も出たので遠慮なく入ることにする。モッピーから見えないように気を使った病室のネームプレートには“鷹月静寐”と書かれていた。

 カラカラと軽い音とともに開けられた向こう側にはベッドがひとつ。点滴以外にはとくに医療設備があると感じられないが、ここで眠っている彼女はかれこれ1年近く目を覚ましていない。俺の肩の上でモッピーが現実の静寐さんを見下ろす。

 

「……やられました。ヤイバくんの狙いは無防備な私にあったのです」

「いや、人聞きの悪いこと言わないでくれよ。ってか第一声がそれ? もっと他に言うことないの?」

「ちゃんとヤイバくんは女の子に興味があるようで安心しました」

「まだ続ける? それにその言い方だとシズネさんが俺のことをホモって思ってたことに――」

「違うんですか?」

「断じて違う! まだロリコンの方がマシだ!」

「ホモ疑惑を解消するためならロリコンにだってなってやる。ヤイバくんの迷言として後世に残しておきましょう。メモメモ」

「そんなこと一言も言ってないからな!? 捏造は良くない!」

 

 もしかするとシズネさんは怒ってるのだろうか。それも仕方ないのかもしれない。現状だとISVSに囚われているという事実を思い知らせることしかできてない。

 俺がここにシズネさんを連れてきたのにはちゃんと狙いがあるんだけどなぁ。

 

「……ヤイバくんは悪趣味ですね」

「だからホモでもロリコンでもないし、かと言ってシズネさんを――」

「それらは全て冗談です。私が言ってるのはナナちゃんと共謀して私をここに連れてきたことに対してですよ」

「やっぱり怒ってる?」

「どこの世界に自分の見舞いに来て喜ぶ人がいるんですか?」

「そう……だよな。ごめん。俺が悪かった」

 

 素直に謝る。二頭身のモッピーに対して頭を下げると必然的に土下座をしなくてはならない。

 結果的に俺の思惑は外れた。前に箒の見舞いにいった時と同じようにいけばいいと思ってたんだけど、下準備もなしに何もかもが都合よく回るわけじゃない。このままだと余計なお世話でしかないよな。

 

「悪いのはヤイバくんじゃありませんよ。ここに居るはずの人がいないのが悪いんです」

 

 頭を下げている俺の頭上から寂しげな声が降ってきた。

 いつも変わらない無表情と同じくらい彼女の声は感情の起伏に乏しい。そうでない声を聞いたのは、前に涙ながらに俺を叱りつけたときであり、溜まっていた不安を爆発させたときだった。

 でも今の彼女は違う。前に進むための主張でなく、諦めた末の停滞。ISVSと出会う前の俺に近い。

 

「少しだけ昔話をしてもいいですか?」

 

 昔の俺とシズネさんに違いがあるとすれば、胸の内を吐き出せるかどうか。

 きっと彼女は相手が俺だからこそ話してくれる。そう思ってるのは自惚れだろうか。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

 鷹月静寐は特別裕福でも特別貧乏でもない一般的な中流家庭の一人娘だった。

 幼い頃から不自由なく育てられ、両親からも愛されて育てられた。

 

『静寐は良い子だ。お前の笑顔は僕と母さんの誇りだ。そう育てた僕たちのことを学校で自慢してもいいんだぞ?』

『それだと私を褒めてないよ、お父さん』

 

 特別な優等生ではなくとも、静寐は笑顔を振りまく明るさと父親譲りの冗談の上手さで小学生時代は人気者だった。

 明るく優しい世界が静寐の周りに溢れていた。

 

 しかしそれらは遠い過去の話。

 

 終わりの始まりは父親の事故死だった。まだ静寐が小学校4年生の頃、母と2人で夕食を作っていたところに飛び込んできた電話。病院で再会した父は既に事切れていた。

 轢き逃げだったと知らされた。見つかった車は盗難車で、犯人は今も捕まっていない。凶悪な事件であったために家の外には報道陣が集まるほどの騒ぎにもなる。母は何度も鳴らされるインターホンを怒りに身を任せて壊してしまった。

 

『放っておいてよ……』

 

 精神的に参ってしまった母は家に籠もってしまう。生きる気力すら感じられず、寝室で床に伏していた。

 まともに食事も取っていない。

 たまたま食材が少なく、買い置きしていたインスタント食品も空となっていた。

 

 ――私がなんとかしなきゃ。

 

 幼い静寐は自らを奮い立たせた。

 元気になるにはまず食べないといけない。材料を買いに行こう。

 自分の全財産である小遣いを部屋中からかき集め、初めてひとりで買い物に出る。

 大丈夫。母に何度もついていったからスーパーの場所も買い物の仕方もわかっている。

 

 家を出たところで報道陣に捕まった。

 被害者の妻に話を聞けない記者は幼い娘の話を聞くより他なかったのだ。そういう仕事である。

 

『お母さんは今、元気がありません。放っておいてください』

 

 静寐は記者の質問を無視して笑顔でそう返した。

 何を聞かれようと。同じ人間から何度聞かれようと、同じ言葉を返し続けた。

 笑顔だけは忘れずに。

 恨むべきは目の前の記者でなく犯人だけなのだから、どれだけ煩わしくても睨んではいけない。

 もう父が見てくれていなくても、父が望んだ“良い子”であろうとした。暴言を吐くのは自分が父を侮辱するも同然だった。静寐は憤りを笑顔の奥に隠して記者の前を去っていく。

 

 スーパーでの買い物。母のお使いでなく自分で献立を考える。母を元気づけるために好物を作ろうと思っていたが手持ちが少なくて揃えられそうにない。仕方なく買えるものだけで精算を終える。小遣いはほとんど残らなかった。

 帰るときには報道陣は誰もいなかった。諦めて撤退したのか、離れて様子見をしているのか静寐にはわからない。少なくとも帰ってきた静寐に再びインタビューを試みる者はいなく、誰とも話さずに帰宅する。

 暗い家。父が生きていた頃、静寐が帰ってきたときは母が待っていてくれるのが当たり前だった。寝るとき以外で暗くなっている家を静寐は初めて目にした。

 自分で台所の明かりをつける。買ってきた食材を広げて、母から習った通りに調理をする。父が好きだった味付けをしていくと、フライパンに涙が落ちた。

 

『ちょっと塩っぽくなっちゃった』

 

 完成してからハンカチで涙を拭う。自分が泣いている姿を見せたら母がもっと悲しむ。父と母が誇りにしているはずの笑顔で大好きな母を元気づけたかった。だから静寐は笑顔で呼びにいく。

 

『お母さん! ご飯できたよ!』

 

 両親の寝室に顔を出す。父が死んでしまった事実と同じくらい、元気のない母を見ることが辛かった。父がいなくても母が居てくれれば静寐は笑顔でいられた。父と母の自慢の娘であることを誇りとしていたかった。

 

『笑わないでよ……』

『お母さん……?』

 

 静寐は母にすごいねと褒めてほしかった。しかし母の目に娘の心は映らない。そこにあるのは父を失ったばかりのはずなのに笑っている娘の姿だけ。

 

『笑うなっ!』

 

 怒鳴られた静寐は逃げるように自分の部屋に逃げ帰る。

 大好きな父の誇りは、大好きな母によって汚された。

 ――お母さんに嫌われた。笑っていた私が悪いんだ。

 静寐の中に残された父とのつながりは“良い子”であること。母は何も悪くなく、母を怒らせたのは自分自身。そう言い聞かせて静寐は自分の思いを胸の内に仕舞い込んだ。

 

 後日。ほとぼりが冷めた頃に引っ越しをする。

 目つきのきつくなった母に連れられる少女からは笑顔のみならず表情らしい表情が消えていた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

 シズネさんの話が終わる。俺には両親の記憶がないから共感しづらいけど、シズネさんがお母さんのことが大好きだったのはわかる。でもシズネさんの心配りは届かなくて、お父さんが亡くなって以来ずっとお母さんと喧嘩しているということらしい。

 

「ナナちゃんには話してあったんですけど、ヤイバくんに(たぶら)かされては仕方ありません。この件はお二人の好意として受け取っておきますから、気にしないでくださいね」

 

 一通り俺に話してスッキリしたんだろう。沈んでいた声も元に戻っている。

 ……元通り隠している、が正確かな。

 モッピーの背後に無表情のまま淡々として話すシズネさんの姿が見えた。でもその見た目通りに何も感じていないなんてことはないと俺は知っている。

 わかっていても俺は直接的には何もできそうにない。そもそもナナがシズネさんの親のことを知っていて何もできなかったのだ。他人の言葉なんかじゃ彼女に届かなくて当たり前。だからこそこの場をセッティングしたのに、生憎のことながら今日は空振ってしまった。

 

 ふと廊下から足音が聞こえてくるのに気づく。この病室は廊下の奥深くであり、通り過ぎることはありえない。つまり、この病室を訪ねようとしている誰かがいる。

 やっと来てくれたか。

 

「シズネさん。人が来るみたいだからちょっとぬいぐるみのフリをしててくれ」

 

 モッピーを抱え上げて訪問者を出迎える。ノックに対して俺が返事をすると、特に大きな反応もなく淡々と扉が開けられた。

 ……看護士さんだった。

 

「初めて見る顔だけど、鷹月さんのお友達?」

「はい。シズネさんの友達です」

 

 苦笑いを隠せない。たしかに病室で会う可能性が高いのは看護士さんの方だった。ついに親さんが来たという期待が大きかった分、落胆が大きい。

 

「ヤイバくんが期待するだけ無駄です。来るはずがないですから」

 

 腕の中でモッピーが小声で毒づく。見舞いに来ているお母さんと会わせようという俺の魂胆は看破されていたようだ。

 だけどシズネさんは知らない。俺が何の前情報もなくここにやってきたわけではないことを。シズネさんの親のことを知っているナナが俺の企みに協力してくれた真の意味を。

 俺は看護士さんに尋ねる。

 

「今日はお母さんは来てみえないですか?」

 

 セシリアからの情報によればシズネさんの見舞いに毎日欠かさず来ている女性がいる。それが誰かは言わずもがな。

 

「今日はもう来られましたよ。すれ違いみたいね」

 

 タイミングが悪かっただけで、シズネさんのお母さんは今日も見舞いに来ていた。

 そもそもの話、静寐さんは箒と同じ篠ノ之神社で倒れてるところを発見され、同じ病院に搬送された。なのにシズネさんだけが違う病院に移っているのは彼女のお母さんが近くの病院を希望したからである。

 俺は抱えているぬいぐるみに言ってやる。

 

「だってさ、シズネさん」

「そんなはずは……だって、私はずっと……」

 

 明らかに困惑している。それも仕方ないか。話を聞いた限りだと5年くらい会話の無かった親子なんだろうから。

 でもさ、親の記憶がない俺と違って楽しかった思い出があるはずだろ? シズネさんにも、お母さんにも。だから本当に心の底から嫌ってるわけなんてなくて、どう顔を合わせばいいのかわからなくなってただけなんだよ。

 鈴の両親みたいに、また仲直りできるはず。

 

「お母さんっ!」

「うわっ! ってシズネさん!?」

 

 突然、モッピーが動き出したと思ったら俺は弾き飛ばされた。尻餅をついている間に、腕の中から抜け出したモッピーは窓まで走っていくと誰も触っていないのに窓が開く。

 そして、モッピーが窓から飛び降りた。

 

「ちょっと待って!」

 

 慌てて窓に駆け寄り身を乗り出す。ここは6階だ。いくらぬいぐるみと言っても壊れてしまう。

 俺のそうした危惧は杞憂だった。眼下の地面をとことこと走る姿が見える。しかも思っていたよりもかなり速い足取りで。

 

「い、今のは一体……?」

「手品です! それでは失礼します!」

 

 目が点になっている看護士さんに言い訳になってない言い訳だけ残して病室を出る。

 シズネさんはきっとお母さんを探しにいったんだ。けど放っておいたら動き回るモッピーの姿が多くの人の目に晒されてしまう。簪さんたちとの約束を考えても捕まえないとマズい。

 病院を出た俺はセシリアに電話をかけながら走り出した。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 知らない街に1人で飛び出してもどこへ行けばいいのかわかるはずもなかった。モッピーという体は思いの外走るのが速く、移動には困らなかったが人目をひく存在なのには違いない。冷静になってきたシズネは目立つとヤイバに迷惑がかかると思い至り、こそこそと隠れながら移動を始める。

 

「困りました。ここはどこなんですか? 戻りたくても道がわかりません」

 

 二頭身の体で首を傾げてうんうんと唸る。どこにいるのかもわからない母親を見つけることはおろか、病院に戻ることも不可能。人目につかないよう注意をしなければならないのに、ヤイバの方から見つけてもらわないといけない。ハッキリ言って非常に面倒な状況になってしまった。

 そして、人目につかないように注意を払うというのは手遅れ。立ち止まっていたモッピーの体が後ろから持ち上げられた。こうなってしまうと逃げ出すには無茶をしないといけなくなる。できれば暴れたくない。

 

「これは何であろう? 誰かのサインを感じる」

 

 モッピーを捕まえたのは銀色の髪の少女だった。銀色の髪に嫌な思い出があるシズネだが、ギドとは比べるべくもなく可愛らしい外見である。日本人ではなさそうなことが気がかりだったが子供に拾ってもらったのはシズネにとって幸運だった。

 ――このまま持ち歩いてもらえれば、ヤイバくんに見つけてもらいやすい。

 シズネは動くことも話すこともせず、少女にされるがままに身を預けることにした。

 

『もしもし。聞こえる?』

 

 少女はシズネに話しかけている。先ほどまで動いていたのだから喋るかもしれないと思われても仕方がない。

 しかし聞こえ方が違っていることにシズネは気づく。それもそのはずで、モッピーのマイクは少女の声を拾っていない。頭の中でだけ響くような音声はまるでIS同士のプライベートチャネルに酷似していた。

 

『あなたが私に話しかけているのですか?』

『うん、そうだよ』

 

 シズネはプライベートチャネルと同じ感覚で通信を試みる。すると目の前の少女が頷いた。

 

 ナナとシズネが現実にやってくるためのアバターとなっているモッピーの正体はISである。起動できている以上、ISと同じ機能が使えても不思議ではない。

 しかし現実側だと通信相手はIS操縦者に限られる。モッピーに使われているISコアを除けば、他には466個しか存在しない。具体的な数までは把握していないシズネだったが目の前の少女が専用機持ちであるとは思えなかった。

 原理は不明。何故か銀髪の少女はISと通信ができている。それだけが事実だった。

 

『あなたは私を追ってきたの?』

『いいえ、ただの迷子です』

『ふーん。数馬と同じなんだ』

『誰かとはぐれたんですか?』

『うん。楽しくなってきて走り回ってたらいつの間にか数馬がいなくなってた』

『いなくなったのはあなたの方ですね』

 

 言葉を口に出さずに意志疎通をする。傍目には少女がぬいぐるみを抱いているようにしか映らない。

 成り行きや方法はどうあれ、シズネにとってこの状況は追い風だった。

 

『では一緒に数馬さんを探しましょう。私もヤイバくんを探したいですし』

『本当? ちょっと心細かったの。ありがとう』

『私はシズネです。このぬいぐるみはモッピー。あなたのお名前は?』

『ゼノヴィア』

『ゼノヴィアちゃんですね。よーし。ではまずはテキトーに歩きましょう』

 

 お互いにひとりぼっちで途方に暮れていた2人は似た境遇の仲間を得て再び歩き出した。

 変わらず当てはない。しかしシズネにとってはリスクが最低限となり、ゼノヴィアにとっては話し相手がいる状況がプラスとなる。

 

『シズネはここには何をしにきたの?』

 

 歩き始めて早々の何気ない質問はシズネの胸に突き刺さるものだった。普段ならシズネはその内心を口に出さないが、相手が幼い少女であることもあって大雑把ではあるが話してしまう。

 

『会いたい人がいるから……です』

『私も数馬に早く会いたい。一緒だね。早くお話したいなー』

『そうですね。私も同じです』

 

 共通点を見つけたゼノヴィアの足取りは楽しげなものに変わり、スキップを始めてシズネの視界が大きく揺れる。嬉しかったことはシズネにも十分伝わった。

 ――楽しい気分に浸っているのは私の方かもしれない。

 言葉に出してみてハッキリと自覚する。忘れようとしていた母親に本当はずっと会いたかったのだ。何でもいいから話がしたかったのだ。

 今でも怖いのは変わらない。また突き放されたらと考えると頭が痛くなる。でもそうではないかもしれないと考えると希望が湧いてくる。またお母さんと笑い合えるのではないかと。

 

『シズネはどんなお話をするの?』

『最初は謝ると思います』

『シズネは悪いことをしたの?』

『正直なところ、よくわかりません。でも、あのときの私は悪い子になってたと思いますから――』

『変なの。謝るより聞いてみるのが先じゃないの?』

『え……』

 

 年下の少女の指摘でシズネは言葉に詰まった。

 

『わからないのに謝るなんて変。形だけ謝るのは話し合いの拒否と変わらないもん。何がダメなのかちゃんと確認して、お互いがどう思ってるのかわかり合うのが“お話”じゃないのかな』

『ゼノヴィアちゃん……』

『なんてね。全部、数馬のお父さんの受け売りなんだよ』

 

 てへ、と舌を出して無邪気に笑う。見た目よりも考え方がしっかりとしていて、シズネは自分の方が幼い子供であるかのような錯覚を覚えた。

 いや、錯覚でなく事実かもしれない。シズネの成長は父の死から止まっていて、ナナとの出会いから再び時間が動き出しただけなのだ。

 

 ゼノヴィアに抱えられての珍道中が続く。数馬並に走るのが速いゼノヴィアといっても歩く早さは歩幅の関係で遅くなる。スキップをやめた後ののんびりとした足取りだとシズネの視界も揺れることなく安定していて周囲に目を向けるのも簡単になっていた。

 

『あ、ゼノヴィアちゃん。ストップです』

『え、どうして?』

『前を見てください。赤信号ですから渡ってはいけません』

『そういえばそうだった。面倒くさいなぁ』

 

 時折、ゼノヴィアは子供でもしないようなミスをする。シズネを諭した大人びた一面があるかと思えば、赤信号は渡らない程度のルールすらわかっていない子供以下の未熟さも垣間見せる。そのチグハグな少女を見ていてツムギにも似た子がいることを思い出していた。

 ――そういえばゼノヴィアちゃんってクーちゃんと似てる。

 言葉遣いは大きく違っているが見た目と中身が違っている印象は同じ。外見の方も銀色の髪が同じ。クーがシズネ以上に表情を変えないために気づかなかったが顔もよく似ていた。ゼノヴィアが目を閉じて大人しくすると見分けが付かないかもしれない。

 

『どうしたの、シズネ? 私の顔に何か付いてる?』

『綺麗な顔だなと見惚れていました』

『そうなんだ。私は嫌いだけど、シズネにそう言われると嬉しい』

 

 ゼノヴィアは自分の顔を嫌いだと断言する。どういうことか気になるところだがシズネには理由を尋ねることができなかった。まだ出会ったばかりの少女を困らせるかもしれないと二の足を踏む。

 信号が青に変わる。目の前を横切る車がなくなり、ゼノヴィアは意気揚々と歩き出した。まだ日が高く、子供が出歩いていても不思議ではないといってもゼノヴィアは容姿が容姿である。すれ違う人たちの視線を集めるのは仕方がない。

 抱えられたモッピーの目を通して道行く人々の顔を確認していたシズネだったがゼノヴィアほど目立つ子ならば放っておいてもヤイバの方から気づくはずだと思い至る。これならばわざわざ注意を払う必要もない。

 そう思った矢先だった。

 

「お母さん……?」

 

 視界の端にちらっと見えたのは見間違いようのないシズネの母。ゼノヴィアという目立つ少女を一瞥することもなく、足早に反対側へと渡っていく。

 通信でなくモッピーから声として出てきた言葉は当然、モッピーを抱えている少女の耳にも届いている。彼女は横断歩道の途中で反転し、走って戻った。すれ違った誰よりも先に歩道に到着するともう一度反転して通行人たちの顔を見回す。

 

『シズネのお母さんはどの人?』

『ゼ、ゼノヴィアちゃん? 今私たちが探してるのはその人じゃなくて――』

『会いたいんでしょ!』

『は、はいっ!』

 

 強い言葉に押されてシズネは認めてしまう。モッピーの目の動きを注意深く観察していたゼノヴィアはシズネの母を突き止めて後を追い、正面に回った。

 シズネの母にしてみれば知らない子供が突然立ちはだかったことになる。夫を失ってから荒れていた母ならばゼノヴィアを冷たくあしらうはずだとシズネは思っていた。

 

「どうしたのかしら。私に何か用があるの?」

 

 1年前、最後に見た母とまるで違っていた。子供のゼノヴィアの目の高さに合わせて問いかける姿は、父が生きていた頃の優しい母と何も変わらない。

 

「私は行方不明の子供である」

「あら、難しい言葉で誤魔化しても無駄よ。迷子になったのね」

 

 ゼノヴィアの銀色の髪が優しく撫でられた。母の穏やかな笑みも含めてシズネにとって全てが懐かしい。その左手の薬指には今もなお銀に輝くリングがある。

 

『ねえ、シズネ。この人の手に硬いのがあるんだけど、どうしてこんなのを付けてるの?』

『結婚指輪です。あなたを愛しているという誓いを受け取った証を身につけているんですよ。まだゼノヴィアちゃんには早い話かもしれませんね』

『愛しているという誓い……かぁ』

 

 結婚指輪について説明を聞いたゼノヴィアは、初めは頭にチクチクして鬱陶しいものだったのが綺麗な宝物のように感じるようになった。

 頭を撫で終わった左手が離れていく。ゼノヴィアはついついその左手のリングに注目していた。シズネの母はゼノヴィアの目線には気が付かない。

 

「よーし! じゃあ、おばさんが一緒にあなたのお母さんを探してあげる!」

「私が探しているのは母親ではなくカズマである」

「カズマ? 男の子よね。お友達かしら……」

 

 シズネの母が考え込んでいる間にゼノヴィアは通信をつなぐ。

 

『どうしたの? シズネも早く話そうよ』

『わ、私はいいです』

『会って話がしたいって言ってたのに』

『それはそうですけど……やっぱりこの姿ではダメなんです。顔が見られただけで私はもう満足しましたから』

『ふーん。じゃあ、私が好き勝手にする』

 

 ゼノヴィアに言った言葉はシズネの本心に違いはない。モッピーの姿で娘の名前を名乗るのはより心配をかけることにつながる。それに……せっかく昔の優しい母に戻っているのに、シズネの前になった途端に豹変するかもしれないという最後の不安が残っている。

 そんなシズネの内心を知ってか知らずか、ゼノヴィアはまだ話を続けようとしていた。

 

「おばさんは誰かを探しているか?」

「え? どうしてそう思ったの?」

「孤独に見える。それは最初からではない。どうしても私と娘を重ねていないか?」

「…………」

 

 日本語としておかしなゼノヴィアの言葉でも届く思いがあった。

 顔を伏せる母親の姿をシズネはぬいぐるみの中から見守っている。

 やがて母は重々しく口を開いた。

 

「そんなことないわ。私とあの人の娘はあの子だけだもの」

 

 再び顔を上げた母の顔はシズネの好きだった母そのもの。

 

「今も顔を見てきたけど、ずっと喧嘩をしててね。私と口を聞いてくれないの」

「嫌いであるか?」

「大好きに決まってるじゃない。あの子は何も悪くない。悪いのは私だけ。弱かった私が強かったあの子を傷つけた。でもやっぱりあの子からは嫌われてるわよね」

 

 ……違うよ、お母さん。

 モッピーの中に潜んでいる意識は陰で涙を流す。

 

「あの子があんな状態になったのも私のせい。私はずっとあの子と向き合うのが怖かった。何があっても表情一つ変えないあの子の心が見えなくなった」

 

 シズネも同じ。シズネを支えた楽しかった日々の思い出をいつ砕かれるかわからず怯えていた。

 

「やっと気づいたのよ。私、あの日からずっとあの子が笑った顔を見てない。あの人が自慢にしてたあの子の笑顔をもう一度見たい。なのに、目を開けてくれないのよ!」

 

 昼の交差点付近の歩道で女性が慟哭する。言葉の端々に後悔が滲み出ていて、1年前に突きつけられた現状を嘆いている。

 

『私、少しは力になれた?』

『はい……ありがとう、ゼノヴィアちゃん』

 

 得意げなゼノヴィアにシズネは感謝する。モッピーの姿で会いたくないシズネの思いを壊さずに引き出された母の本音は、まだこれからISVSで生きていく希望とするには十分すぎるものだった。

 

「ごめんなさいね。あなたには関係のないことなのに」

「ない。話を聞くことができて嬉しかった」

「不思議な子ね。あ、いけない! 早くカズマという子を探しましょうか」

 

 話が逸れていたことに気が付いたシズネの母はゼノヴィアの手を取って歩きだそうとする。しかしゼノヴィアはついて行こうとせずに反対側の道の先を見つめた。

 

「大丈夫。歓迎は起こりました」

 

 ゼノヴィアの視線の先には手を振って近づいてくる若い男の子がいる。探し人である数馬だということは一目瞭然だった。

 

「負債があった。さようなら」

「はい、さようなら。もうはぐれちゃダメよ」

 

 ゼノヴィアは数馬の元へと駆けていく。

 手を振って見送る母の姿を、シズネは抱えられたモッピーの中から目に焼き付ける。

 

 ――ちゃんと会って話すから。今までのこと全部埋めるくらい沢山話すから。だから待ってて、お母さん。

 

 ナナと共に帰るという目的の他に帰らなければならない理由ができた。

 失った時間は取り戻せなくてもこれからのことはまだ決まっていない。

 必ず生きて帰ってくると誓う。

 父と母の誇りである笑顔で。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 今日の出来事を振り返る。ナナの協力を得て、静寐さんの入院している病院にシズネさんを連れて行き、お母さんが見舞いに来ている事実を知ってもらった。ここまでは当初の予定通りだった。

 誤算だったのはシズネさんが俺の手を振りきって街に飛び出して言ってしまったこと。モッピーが力強かったことも想定外だったが、シズネさんが我を忘れて窓から飛び出していったのも意外だった。もっとも、後者については良い方向での誤算だけど。

 

「さてと。シズネさんは部屋にいるのかな?」

 

 俺はISVSに入っている。病院でモッピーに逃げられてから、結局俺は見つけることができなかった。見つけたのは数馬で、たまたま近くにいたラウラが持ち帰ってくれた。

 家に戻ったモッピーの中身はナナに入れ替わっていた。事情を聞こうとしたらISVSに入ってこいという返事しかこない。そのナナを真っ先に訪ねたが部屋の前に張り紙があって俺はシズネさんの部屋に誘導された。

 つまり、直接聞けということだ。

 

「シズネさん。ヤイバだけど」

「どうぞ」

 

 問題なく部屋に入ることができた。もうすっかり落ち着いているようで、いつも通りのポーカーフェイスで俺を出迎えてくれる。あまりにもいつも通りでこっちの方が困惑してしまったくらいだ。

 

「とうとう堂々と来る段階ですか……お母さん、静寐の貞操がここに散ることを許してください」

「どうしてそういつもいつも俺を(けだもの)扱いするのかなぁ……って、ん?」

「どうしたんです……? まさか本気で自覚したんじゃ――」

「マジで引かないで! そうじゃないから!」

 

 相変わらず冗談か本気かその境界線がわかりづらい。だけどそんな俺にも確実にわかることがあった。

 ……お母さんのことを見直したんだな。

 たとえ冗談でも今までのシズネさんならお母さんを引き合いに出すことはしなかったと思う。冗談の中にお母さんがいるってことはシズネさんが帰るべき現実は確かなものになったはず。

 今日、俺がしたことは無駄じゃなかった。そうわかると嬉しくなってつい顔がニヤツいてしまう。

 

「今日のヤイバくん、変です。若干どころではない身の危険を感じます」

「わかった。じゃあ、今後一切シズネさんに近寄らないようにするよ」

「え……?」

 

 冗談に冗談で返したらシズネさんは目を見開いたまま固まってしまった。

 しまった。この類の冗談は本気にされると取り返しが付かない。

 

「嘘に決まってるから! 俺はシズネさんを見捨てたりなんかしないから!」

「……ふふ。知ってます」

 

 慌てて訂正すると軽く笑われてしまった。どこまでが本気なのかやっぱりわからない。でも無表情が崩れてる時点でいつもは隠れてる感情が表に出ているのには違いない。

 シズネさんは微かに笑みを浮かべたまま俺に歩み寄ってくる。いつもとは違う彼女に見惚れていたらいつのまにか密着するような距離にまで来ていた。顔が熱い。強引に引き離すこともできないまま俺の両手は宙を泳いでいる。完全にシズネさんの雰囲気に飲まれていた。

 シズネさんの右手が俺の腹にそっと触れる。位置は鳩尾の辺り。親指以外の4本の指を垂直に立ててチョンチョンと突いてくる。

 

「ここに入れるんですか。難しいけどできるように頑張ります」

 

 俺は首を傾げざるを得ない。先ほどまでの気恥ずかしさや胸の高鳴りはどこかへと消え去って、シズネさんの摩訶不思議な言動と行動に疑問を持つばかりだ。

 

「今の私には無理ですけど、ナナちゃんに弟子入りしていずれはやり遂げてみせます」

「な、何を?」

「レミさんたちに教えてもらったんです。男を掴むには胃袋を掴めって」

 

 ご機嫌なシズネさんは俺の腹から右手を離すと、全ての指をわきわきと屈伸させた。

 ……あなたはその手で何を掴もうというのかね?

 

「物理的に掴むの!? 例えだから! 本物の胃袋をその手に握りしめたら死んじゃうから!」

「ずっとヤイバくんと一緒に居るために必要なんです。頑張れ、シズネ!」

「違うから! 永遠の別れを勘違いしてるだけだから! 心の中にいるとか勝手に妄想して美化しないで!」

「大丈夫です。ヤイバくんが死ぬはずありません」

「もはや信頼じゃなくてただの危険思想だよ!? そもそも俺を何だと思ってるんだ!?」

「超絶かっこいいスーパーヒーローに決まってるじゃないですか」

「すごく残念に聞こえるのは俺だけじゃないよね!?」

 

 こうしてシズネさんの言動に振り回されるのも俺はいつの間にか楽しく感じている。たとえ冗談でも俺のことをかっこいいと言ってくれる彼女の言葉に元気づけられる。彼女は俺に助けられていると思っているんだろうけど、俺の方こそ彼女に助けられているよ。

 

「そういえば、ヤイバくん。モッピーの使い道についてなんですが、これからの予定はどうなっているんですか?」

 

 冗談はさておきと言わんばかりに唐突に話題転換するのもシズネさんらしいところ。

 モッピーの使い道?

 そう言われてもピンと来ない。

 

「これからもナナが使うだけじゃないかな」

「レミさんたちが使ったりはしないんですか?」

「いや、ナナとシズネさんだけだよ。これ以上はダメなんだ」

「でも私たちばかり卑怯な気がします」

 

 シズネさんの言いたいことはわかった。たしかに皆が同じように閉じこめられた境遇であるのにナナとシズネさんだけ現実を見てきているのは不公平に思える。シズネさんが心苦しく思っても仕方がない。

 だけど俺たちにも譲れない理由がある。闇雲にモッピーを使わせると……ある事実を宣告することになりかねない。

 

「我慢してくれ。ツムギの中だとモッピーのことはナナとシズネさんしか知らないんだから誰も気にしないよ」

「あ、ごめんなさい。トモキくんにも話しちゃいました」

「え……」

 

 俺は目を見開いた。シズネさんが言ったことをすぐには飲み込めないでいる。

 

「すると秘密を共有するにはトモキくんにもモッピーを使わせた方が良いことになります。モッピーの中に入ったトモキくんの反応がとても愉快だと思われますけど、私には確認する術がないことだけが心残りで――」

「トモキも知っているのか!」

 

 シズネさんの肩を掴んで大きく揺する。頼むから冗談であってほしかった。

 

「はい、私が伝えました。突然にナナちゃんの姿が見えなくなったらトモキくんが騒ぐと思ったので……」

 

 よりによってトモキか。アカルギクルーの3人だったらまだどうにかなったのに。

 

「とにかくモッピーを使うのはナナだけだ。ツムギの他のメンバーには存在も教えないように注意してくれ」

「ナナちゃんは何と言っていますか?」

「特に何とも。了解してくれたよ」

「わかりました。これ以上、他の人には何も喋りません」

 

 最後の最後で嫌な話になってしまった。本当は隠し事なんてない方がいいんだけど、こればっかりはナナにもシズネさんにも言うわけにはいかない。

 もう既に、助かる人の方が少ないだなんて言えるわけがないだろ……

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ゼノヴィアの迷子騒動があって散々な目にあった数馬は疲れた様子で自宅への帰路に就いていた。隣には疲労の原因となった少女。数馬のいない時間に楽しいことがあったようではぐれる前よりも良い顔をしている。彼女が楽しければいいやと納得する辺りは数馬の甘いところであった。

 今日1日同行していたラウラとはもう既に別れている。彼女はモッピーを持って一夏の家へと帰っていった。つまり数馬とゼノヴィアの2人だけの帰り道となっていた。それもゼノヴィアの笑顔の理由なのかもしれない。

 しかし、2人きりの時間は1人の男の介入によって崩される。

 

「待っていたよ。御手洗数馬くん」

 

 塀にもたれ掛かっている黒縁メガネの男を数馬は知っている。通り魔事件の調査をしているという刑事、平石羽々矢である。彼は数馬がこの道を通ることを見越して待っていたらしい。

 

「えと……平石さん、ですよね?」

「はい。覚えてくれていたようで助かるねぇ」

「僕に何か用ですか?」

 

 数馬は平石という男を警戒していない。しかし平石が刑事であり、通り魔事件を追っていることから身構えてしまうのは無理もない。そんな数馬の言動も平石は十分に承知している。

 

「君の思っている通りあまり良い話じゃないかな。例の通り魔事件。あれからまた1人、被害者が出てる。しかも君の家からそう遠くない場所だった」

「また、ですか」

「君とは一度話を聞いた縁もあるから、改めて聞いてみようと思ってさ。御手洗くんは最近になって変わったことに心当たりはないかな?」

「変わったこと?」

「そう、例えば……最近になってよく見るようになった顔とか。ご近所の方とも交流がある御手洗くんなら見慣れない人がいたらすぐに気づいたりしないかい?」

 

 最近になってと聞かれて数馬は考え込む。どの程度からを最近と呼べばいいのだろうか。ジョギングや登下校で見かける顔は半年前から見覚えがある。最近になって良く見るようになった人間を強いて挙げればラウラくらいだった。

 

「心当たりはないです」

「そっか……今日も収穫はなさそうだよ」

「お疲れさまです」

 

 目に見えて平石はガッカリする。数馬の証言に期待しすぎているあたり、刑事としての実力は低そうに数馬の目に映った。

 平石がとぼとぼとした足取りで数馬の帰り道とは逆方向に歩き出す。彼はすれ違いざまにふと気が付いたように違う話題を切り出した。

 

「そうそう。近頃は通り魔だけじゃなくてテロリストなんてのも怖い存在だよ。有名どころの反IS主義者(アントラス)の一味をこの近辺で見かけたという情報もあるんだ」

「テ、テロリスト!?」

「ああ、でも過剰な心配は要らないよ。この近辺に反IS主義を掲げる過激派組織の連中が狙うような施設や人なんてないからねー。ま、怪しい人間がいたら私に連絡をくださいってことでよろしく。そちらの小さいお嬢さんもね」

 

 テロリストが近くに潜んでいるかもしれないという危ない情報だった。しかしIS関連企業の施設が近くにあるわけではない。平石の言うように遠い世界の話だと数馬は考える。

 数馬と平石の2回目の邂逅はこれで終わる。互いに背を向けて顔を見えなくなったところで平石羽々矢はほくそ笑んでいた。

 

 

 明くる日の月曜日。数馬がいつも通りに登校した後で、藍越学園に向かう小さな人影があった。

 

「カズマは危険なほどに関係する」

 

 勝手に家を抜け出したゼノヴィアが藍越学園の敷地内に忍び込む。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 藍越学園の塀の外には黒服の強面の男たちが多く張り込んでいる。全てオルコット家のSPであり、任務は織斑一夏に近づく不審人物の排除、要するに一夏の護衛である。彼らは一夏とセシリアの登校時にはついて移動し、学園内に入ってからは侵入者への警戒を強める。学園内の警備は違う者の担当であり、学園の敷地の周りには黒服が潜んでいる。これがセシリアが転校してからの藍越学園の現状である。

 一般人の目に触れないことを厳命されている彼らは黒服という目立つ格好でありながら未だにその存在を一般生徒に知られていない。護衛されている一夏本人すらも認識していない。影に徹している彼らはこのまま表に出るはずではなかった。

 この日までは……

 

 週の始めの月曜日。始業の時間を過ぎてから校門の前に迷彩服の大男が現れた。顔はガスマスクで隠されており、誰がどう見ても不審者である。学園の職員が気づく前にオルコット家のSPが行動を開始した。相手1人を格闘のスペシャリスト3人で囲い込むと肩を掴んで迷彩服の男の歩みを止めようとする。

 だが止まらない。3人がかりで押さえつけても迷彩服の男は変わらぬスピードで学園の敷地内へと進む。引きずられながらもSPの1人がガスマスクに手をかけたところで、迷彩服の男はようやく違う動きを見せた。

 腕をがむしゃらに振り回した。たったそれだけで3人の黒服を10m以上吹き飛ばす。人の領域から外れているその力にSPたちは警戒を強める。まだなんとかなると誰もが考えていた。

 そんな彼らに絶望がその形を見せる。

 藍越学園の正面の道路から整然とした複数の足音が聞こえてきた。それは全て同じ格好をしている集団である。迷彩服とガスマスクという日本の高校に似つかわしくない姿で統一された者たちはどう考えても好意的ではない。

 1人に対して3人がかりでも歯が立たなかったばかりだというのに、その数はSPたちの全人数を上回ている。

 手に負えないと判断したSPによって雇い主に緊急事態が告げられた。ほぼ同時に迷彩服の襲撃者たちはSPたちを蹴散らして学園内へと雪崩れ込む。

 その混沌とした状況を遙か遠方から眺める女がいた。

 

「ゴキブリ退治は終わり。あとは獲物を罠にかけるだけだ」

 

 亡国機業に属するIS操縦者、オータム。

 過去にアントラスの一員として旧ツムギと渡り合っていたテロリストが牙を剥く。


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