Illusional Space   作:ジベた

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29 奥底に眠る影

 昨日から教室の空気は一変した。そう実感しているのは自分だけではないとサベージこと幸村亮介は確信している。その原因が窓際の後ろから2番目の席に座る問題児にあることは間違いない。

 

「一夏……ちゃんと集中しているか?」

「あ、当たり前だろ」

 

 現在、藍越学園での授業中である。しかも鬼教師と評判の宍戸恭平が教壇に立っている。幸村も含めて不真面目な生徒ばかりのクラスであるが、このときばかりは私語の1つもしないで授業を受けざるを得ない。

 そんな中、(くだん)の問題児、織斑一夏の頭にはちんちくりんなぬいぐるみが乗っている。しかも喋る。自分勝手に動く。とどめに宍戸が完全にスルーするという異常事態を前にして、誰もが疑問に思いながらも指摘することができない。

 自分は幻覚でも見ているのだろうか。そう思わされてしまう。

 

「先ほどから板書を全く写していないがいいのか? もうすぐ消されてしまうぞ?」

「やべ。サンキュー、モッピー」

 

 ぬいぐるみが一夏を注意する。宍戸の授業に集中していない一夏というだけならばいつものことですむ。しかしどう考えても喋るぬいぐるみの存在だけはおかしい。何故宍戸が何も言わないのかも含めて気になって仕方がなかった。

 

「おい、一夏。お前、いい加減にしろよ」

 

 今度は窓際一番後ろの席に座る五反田弾が小声で一夏に話しかける。宍戸の授業中だというのに勇気ある行動をしてくれたと幸村を含めて多くのクラスメイトが内心で誉め称えた。

 いい加減にしろ。これもまた多くの者の気持ちを代弁してくれていた。

 しかし弾の言葉には続きがある。

 

「四六時中一緒とか羨ましいんだよ、こんちくしょう!」

 

 違う、そうじゃない。一夏がぬいぐるみを愛でていようとクラスメイトたちにとっては心の底からどうでもいい。そもそもあのぬいぐるみは何とか、宍戸が無視している異常について誰でもいいから常識的にツッコんで欲しかっただけだった。

 

「五反田。質問でもあるのか?」

 

 教壇の宍戸が板書をやめて弾を名指しする。遠回しに私語を咎めている常套句であるが、ますますクラスメイトたちの疑問が深まるだけだった。なぜ一夏じゃないんだ、と。

 ともあれチャンスが到来した。思惑はどうであれ宍戸の方から質問を受けると言っている。

 言ってやれ、五反田弾。

 クラス中の生徒の期待が弾に集まった。

 

「あ、いえ。なんでもないっす」

 

 期待は虚しく空を切る。藍越エンジョイ勢のリーダーであるだけでなく、クラスでもまとめ役を買って出ることが多い弾であるが、今回ばかりは空気が読めていない。

 

「よし、写し終えた!」

「スペルミスがあるぞ」

「え、どこ?」

「ここだ」

「あ、本当だ。サンキュ」

 

 宍戸と弾のやりとりの間も我関せずでノートに向かっていた一夏が教室の空気に気づくはずもない。ぬいぐるみと仲良く授業のノートを取っている。

 堂々と喋っているのに宍戸は動かない。今まである意味で一夏を特別扱いしてきた担任教師が今は逆方向に特別扱いしている。少なくとも幸村の目にはそう映った。

 

 変わったのは宍戸だけではない。

 

 10日前に行われたイベントを境にして藍越学園内の対一夏勢力も様変わりした。幸村の所属する“鈴ちゃんファンクラブ”でも織斑一夏を排除しようとする過激派が内野剣菱の心境の変化によって事実上消滅している。過激派だった連中も『鈴ちゃんが可愛ければあとはどうでもいい』ことに気がついて穏健派に鞍替えしたため残党は1人もいない。

 学内には別件で一夏を敵視する者たちがいることにはいる。しかしそれらの動きも昨日からの一夏の様子を見ていて毒気を抜かれたのか、かなり大人しくなってしまっていた。

 曰く、織斑一夏はぬいぐるみ趣味に目覚めたため現実の女子に興味がない。

 嫉妬するのもバカらしくなったということだろう。

 方法はともかくとして、プレイヤーが多くいる藍越学園生の中に一夏の敵はほぼいなくなった。鈴のためになると信じ、水面下で一夏の好感度調査、調整を行っていた幸村としては頭を悩ませる必要がなくなったと言える。

 

 ……だけど、大きな問題があるんだよなぁ。

 

 幸村は授業中であることに構わず後ろを向く。その視線の先には憧れの女子、鈴がいる。彼女も幸村と同じように前ではなく別方向に顔を向けていた。

 鈴の視線の先が幸村であるはずはなく、もちろん一夏である。授業中も休み時間もぬいぐるみと戯れている一夏を寂しそうな目で見つめている。まだ2日目。しかしこれから毎日こんな鈴の顔が続くかもしれないと考えると切なくなった。

 

 ……なんとかしたいんだけど。

 

 先のイベントではベルゼブブとして一夏チームの前に立ちはだかった。それも全て鈴のため。戦闘自体は幸村の思惑通りに運んだが、肝心の一夏の心に幸村の声なき訴えは届いていない。

 また策を練らないといけない。幸村の戦いはまだ終わっていない。

 とりあえず最初にやることは決まっていた。休み時間になったら一夏に聞くことにする。

 

 あのぬいぐるみ、何なんやねん。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 授業が終わって放課後になった後、一夏はゲーセンに寄ることもせず家に直帰した。プレイヤーと対戦する予定があるときは直接顔を合わせた方が都合が良いため、先週は欠かさずゲーセンに通っていた一夏だったが、そうでない場合は家で十分である。ゲーセンでも家でもISVSをやることに変わりはないのだが、その用途は大きく異なっている。

 

「……本当に勘弁して欲しいわ」

 

 織斑家のダイニングで菓子を頬張っている鈴が毒づく。一夏にひっついてきた形でやって来たのだが、鈴の周りに一夏の姿はない。

 鈴の対面ではセシリアが紅茶を飲んでいる。不機嫌さ全快で荒れ気味の鈴に対して、セシリアは年不相応なほどの落ち着きを見せる。そんな彼女の態度すら気にくわない鈴は頬杖をついて当てつけがましく不貞腐れていた。

 

「何か気に障ることでもありましたか?」

「わかってて聞いてる癖に……一夏のことよ」

 

 一夏のこと。正確には一夏とモッピーについてだ。2日前に更識簪が織斑家に持ち込んだモッピーを一夏は好き好んで連れ回す。ISVSを始めてからというもの、鈴を含めた周囲と距離を縮めてきていた一夏がここ2日はぬいぐるみの相手ばかりしている。

 その一夏が家に帰ってきた今、どうしているのか。もちろんISVSである。しかし今までと違って戦いや事件の調査に行くわけではなく、ナナに会うため。気に食わない。

 

「なるほど。一夏さんが相手をしてくれなくて寂しいということですわね」

「べ、別に寂しくなんてないわよ! あんな奴がどこで何をしていようとあたしには関係ないんだから!」

「では一夏さんにはそう伝えておきます」

「やめてっ! アイツ、絶対に勘違いするから!」

「勘違い? 一言一句そのまま伝えますのに?」

「ああ、もう! 認めればいいんでしょ! あたしは一夏が相手をしてくれなくて寂しいのっ! それで満足?」

「ええ。愚痴を吐き出すなら中途半端ではいけません。胸の内を洗いざらい吐いてしまった方がいいですわ」

「うぐっ――」

 

 愚痴と指摘された鈴は言葉に詰まった。これまた認めたくない事柄だったが事実だった。今、自分は一夏への不満をこぼしている。客観的に見て可愛くないという自覚が鈴を踏みとどまらせた。

 

「あ、あたしは大丈夫」

「とてもそうは見えませんわね。不満や不安を溜め込まないでくださいませ。ひとりで抱え込むことの辛さをわたくしは知っていますから」

 

 経験談として語るセシリアの言葉は重い。心が軽くなるかもしれないという誘惑を断ち切れず、鈴はセシリアの優しさに乗っかってしまう。

 

「あたしさ……本当に一夏が好きなんだ。今までに色々とありすぎて、いつからだとか何がきっかけだとか自分でもわかってないんだけど、絶対に勘違いなんかじゃない」

 

 鈴は胸の内を曝け出す。過去に一度だけ正直になって、今年の1月3日を最後に表に出せなくなった想いがある。

 

「一夏に出会ったのは小学校の5年生だったかな。あの頃はまだ転校したばかりで馴染んでなくて、バカな男子にからかわれてた。もう日本なんて嫌いとまで言っちゃってた。誰も味方なんていないって勝手に壁を作ってさ……今思えば、本当にバカだったのは男子連中じゃなくてあたし自身だったのよね。一夏は孤立したあたしを助け出してくれた。それが一夏との出会い」

「まるで正義の味方……流石は一夏さんですわ」

「生憎だけど、そんな綺麗なもんじゃないわ。そのときのあたしは一夏をカッコいいだなんて思わなかった。むしろ怖かった。何考えてるかわかんなかったし」

「鈴さんは意外と疑い深かったようですわね」

「意外は余計よ。あたしは今でも他人の顔を窺ってばかり。アンタほど自分に自信が持てないわ」

 

 鈴の何気ない一言で一瞬だけセシリアの顔に陰りができる。しかし鈴は気づかずに自らの話を続ける。

 

「実は出会ってからしばらくの間、一夏とはほとんど接点がなかったの。あたしには友達が増えてたし、男の子と付き合うのに抵抗があったから近寄ろうなんて考えもしなかったわ。アイツが独りぼっちなのに気づくまではね」

「独りぼっち……ですか? 一夏さんが?」

 

 セシリアが目を丸くする。独りぼっち。彼女の中にあった一夏のイメージとはかけ離れている一言だった。

 

「そう。今の一夏しか知らないアンタから見れば意外でしょうね。独りだったあたしを救ってくれたアイツこそがクラスの誰からも相手にされない奴だったなんて思いもしなかった。アイツに興味を持ったきっかけはそれで間違いないし、アイツと一緒にいるようになったのもそれからなのよ」

「鈴さんは一夏さんを放っておけなかったと?」

「否定はしないわ。中学に入って、一夏に弾と数馬って友達ができてからも、あたしは自分からその輪の中に入っていった。けど、それでもあたしは恋なんてできなかった」

 

 一夏の昔の話。小学生時代の話はセシリアも初耳であったが中学生時代の話の一部は一夏とのクロッシングアクセスを通じて知っている。

 

「ご両親の関係でですの?」

「一夏が話したの? まあ、別に隠してもしょうがないから言っちゃうけど、あたしの親って離婚寸前になるくらい仲が悪かったのよ。そんな親を見てたから男女関係に憧れなんて一切なかった。男子と(つる)むことが多くなったのも女子の恋愛話についていけなかったからだったわ」

「恋愛が信じられなかった鈴さんだからこそ一夏さんの近くに居ることになった。そういうわけですのね」

「中学のときの一夏は普通に良い奴だったわ。だから弾も数馬も知らない。昔の一夏はキレたら何をするかわからない乱暴者として知られてた。いじめの対象とかじゃなくて、腫れ物みたいな感じで……誰も関わりたがらなかった」

 

 当時の一夏を思い出してか、鈴の声から力が失われていく。両目にはうっすらと涙が浮かぶ。

 

「本当は優しい奴なのよ。沢山の人に嫌われるようなことをしたかもしれないけど、ちゃんと理由があるに決まってる。あたしはそんなアイツに何度も救われてきた。あたしの代わりにアイツが傷ついてるのにあたしは何もしてあげられない。気づいたらあたし……ずっとアイツのことばかり考えてるの」

「鈴さん……」

 

 もっと軽い話になるとセシリアは考えていた。しかし思いの外、鈴の語る想いは根が深い。

 慰めればいいのか、同感すればいいのか。

 聞き手としてどう対応すればいいのかわからず、名前を呼ぶことしかできない。

 

「これは恋なんだって確信したあたしは去年の大晦日、一夏に告白した。アイツを独りにしてやるもんかって意気込んでた。即答じゃなくても、その場でアイツは『いいよ』って答えてくれた。だけど、一夏は寂しそうだったの」

「箒さんのことがあるからですわね」

「一週間経たない内に一夏から別れ話を切り出された。まだ誰にも知られてないことを理由に付き合ってなかったことにしようとまで言われたわ。手すら繋いでなかったあたしたちは次の日から元の友達に戻った。変わったことは一夏が無理して笑うようになったことくらい」

「鈴さんは納得しましたの?」

「そのときは悔しいけど仕方ないって引き下がったわ。でも、日に日に暗く沈んだ顔になってく一夏を見てて、それで良いだなんて思えるわけないじゃない。付き合うわけじゃなくても一夏の力になりたくなった。だからずっと、友達として一夏と一緒にいたの」

 

 一夏の傍にいる鈴は傍から見てわかりやすいと誰もが思っていた。素直になれない鈴が可愛いという評判すら立っていた。しかしそれは素直になれないのではなく、素直になるわけにはいかなかったから。一夏との決め事を遵守していたからだった。

 セシリアも鈴の想いを見誤っていた。鈴の狂言誘拐をきっかけにして一夏に思いを寄せていると思いこんでいたが、鈴の話を聞いているとそれだけが全てでないことは明白である。

 

「一夏はあたしと別れてからずっと、楽しもうとしてこなかった。まるで自分を痛めつけることで許されようとしてる罪人だった」

 

 鈴もまるで共犯者であったかのように、自らの想いを封印する罰を自分に課していた。

 

「なのに――」

 

 ようやく長い前置きが終わる。セシリアも知らなかった年始の別れ話やこれまでの一夏と鈴の経緯を知らなければ、今の鈴の怒りを共感できるはずなどないからという鈴なりの配慮だった。

 しかし鈴の言いたいことは結局――

 

「なんで一夏はあの女と遊んでるのよォ!」

 

 一夏がナナ(モッピー)とばかり一緒にいるのが気に食わないという1点に収束する。

 最終的に想定内の話題になってセシリアに笑顔が戻った。

 

「まあ、良いではありませんか。鈴さんが一夏さんを想っているのは良くわかりましたが、一夏さんが箒さんを想っているのも事実として受け止めなくてはなりません」

「うぅ……一夏の幼馴染みとナナが同一人物ってのも出来過ぎなのよぅ……」

「そうですわね。7年前に離ればなれになった幼馴染みは両思いだった。7年の月日を経てもなお、その思いは消えず、互いが互いのことを知らずにまた恋をした。素敵なお話だと思いますわ」

 

 セシリアがうっとりとした目つきで天井を見上げる。鈴はテーブルにばたんと伏せてぶつぶつと呟く。

 

「それは否定しないけどさー……ぶっちゃけあたしに勝ち目ないわよね」

「そのようですわね。お疲れさまでした、鈴さん」

 

 すっかり落ち着きを取り戻したセシリアは鈴に労いの言葉をかけてから紅茶を口にする。

 肯定されると思ってなかった鈴はがばっと跳ね起きると、ムッと顔をしかめて食ってかかる。

 

「なんでセシリアは余裕なのよ! アンタも一夏が好きでわざわざ日本にまで来たんでしょうが!」

「関係ありませんから。わたくしにとって今の美談も一夏さんの美点でしかないですわ。お二人の関係も末永く続くとは限りませんし」

「『鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス』とか本気で言ってるの!? 気が長いにも程があるわよ!」

「わたくしは最初から男性に期待しておりませんので……一夏さんが特別なだけですわ。ダメならダメで他の方などという考えは一切ありません」

 

 セシリアは本気で言っている。一夏とセットのセシリアしか見ていない鈴では知る由もないが、セシリアは元々男性を快く思っていない。オルコット家の前当主であった父親が娘のセシリアから見て情けない男だったからだ。

 もちろん今のセシリアは男に何も力がないなどと思ってはいない。チェルシーを救うまでの道程で一夏を筆頭とする多くの男たちに助けられたことを一生忘れることは無いだろう。毛嫌いしていた父親のことも幼い自分が誤解していただけだと結論づけている。尊敬している母が認めた男なのだから弱いはずがなかったと確信すらしている。

 とは言っても、男を恋愛対象として見るかとなるとまた話は別。一夏をオルコット家に迎え入れることは歓迎できても、それ以外は考えられずに独りでいいとまで断言する。

 セシリアの意思は鈴に負けじと固い。

 

「その一途さだと、どう考えても片思いを抱えたまま生涯独身コースね」

 

 鈴は自分を棚に上げて言ってみた。すると、

 

「いや、このままだと間違いなく愛人ルートにいくと思うよ。きっと隠し子も出来る」

 

 思わぬ方から答えが返ってくる。2人だけだったダイニングに新たにシャルロット・デュノアがやってきた。彼女は挨拶のひとつもせずに話に混ざってくる。

 

「いきなり話題に入ってきたと思ったら何なのよ一体。それに、アンタはいつフランスに帰るのよ?」

 

 盗み聞きされていたかもしれないと思う以前に、鈴は先ほどまでの愚痴感覚でそのまま思っていることを口に出した。しかし当のシャルロットは鈴のことが目に入っておらず、すたすたとセシリアの隣にまで移動する。そしてセシリアの両肩をがっしりと掴むと真摯な眼差しで見つめた。

 

「大丈夫。たとえ隠し子でも両親から愛されれば必ず幸せになれる。僕が保証する」

「いや、何を熱弁してんのよ……そもそも隠し子を作る前提で話すとか失礼すぎない?」

 

 あまりにも唐突な物言いに鈴は呆れを隠さない。セシリアやラウラと比べて常識人であるはずのシャルロットだが時折発言がズレている。それは決まって彼女の父親が関与する事柄だった。

 鈴の冷静な指摘を差し置いてセシリアはシャルロットと向き合った。

 

「わたくしもなれますでしょうか。お母様のような立派な母親に……」

「ちょっと! アンタもその気になってんじゃないわよ! 今のシャルロットの言うことに耳を傾けるといつか絶対に後悔するわよ!」

「なれるさ。セシリアは美しく聡明な子だからね」

「イケメンボイスを作って囁くな! あたしよりも胸が大きいんだから女として自覚を持ちなさい――って何言わせんのよ!」

 

 鈴がひとりで勝手にヒートアップしていく。セシリアもシャルロットもそんな鈴に構うことはない。

 シャルロットがセシリアから目線を外して俯く。男らしさどころか大人らしさすらない涙混じりの声で次の言葉を紡ぐ。

 

「でもセシリア。絶対に、長生きしてね」

「……そうありたいものですわ」

「あれ? なんか変ね……急にアンタたちの顔がボヤケて見えるわ」

 

 鈴はシャルロットの事情など一切知らないが貰い泣きをしていた。たとえ断片的な情報だけでも感傷に浸るには十分である。良くも悪くも感情的になりやすいのだった。

 

「そういえば、皆さんは喉が渇きませんか? わたくしの淹れた紅茶があるのですが……」

 

 少ししんみりとしてしまった空気を変えようとセシリアが提案する。お茶やお菓子などは話を濁すのに都合の良いもの。誰もが今の話を続けたいと思っていなかったのでちょうど良い。

 しかし、鈴は顔をしかめる……を通り越して顔を歪ませた。

 

「この紅茶飲めるもんなの?」

 

 理由は当然、セシリアが淹れた紅茶だからである。以前にセシリアの作ったサンドウィッチを食べた一夏が気を失う現場に立ち会っている鈴としては身の危険を感じざるを得ない事態だ。

 

「失礼ですわね。わたくしが淹れたのですから味は保証しますわ」

「むしろ心配にしかならないわよ! それに、失礼ってのはさっきのシャルロットじゃないの!?」

 

 鈴が騒いでいる間にもセシリアはあらかじめテーブルに置いてあったティーカップに紅茶を注いでいく。その数はセシリアのものも含めて4つ。セシリアがポットを置く前に素早くカップを取る手があった。

 

「実に美味だ」

 

 出かけていたラウラまでいつの間にか帰ってきていた。彼女はセシリアの紅茶に満足げな様子である。前の一夏の件を忘れているとしか思えない。

 鈴はまだ信用していない。以前に鈴の酢豚を味もわからずに食べたと発言しているのを忘れてはいない。

 

「アンタの味覚がおかしいのよ、きっと」

「いや、本当に美味しいよ。僕もこう上手くは淹れられない」

 

 ラウラの次はシャルロット。父親が絡まない場合、彼女は極めて常識的であるというのは鈴と一夏の共通的な認識となってしまっている。この毒味に関しては信頼性が高かった。

 

「どうですか、鈴さん!」

 

 セシリアのどや顔が鬱陶しい。だがそれも自らが蒔いた種。結果的に飲まず嫌いだった自分が全面的に悪いと認めざるを得なかった。

 安全が保障された紅茶を口に含む。普通に飲めるどころではない。カップを口に近づけただけで鼻腔をくすぐってくる香りは荒れている心をも癒してくれる優しさを内包している。香りごと紅茶を飲むと、鈴の抱えていた嫉妬心も猜疑心も洗い流されるようであった。

 

「悔しいけど本当に美味しい。紅茶だけはね」

「それでですね、鈴さん。お菓子も作ったのですがいかがですか?」

 

 鈴が認めたその瞬間、すかさずセシリアは隠してあった皿を取りだした。

 皿に乗っているものは八等分にされたホールサイズの黄色いケーキである。ところどころに見える焦げ目なども含めて写真で見れば素直に美味しそうと言えるチーズケーキだった。

 しかし……全くチーズの香りがしない。むしろ食べ物のはずであるのに匂いらしい匂いがしない。

 嫌な予感を覚えるには十分だった。

 

「絶対に要らないっ!」

「いいじゃありませんか。減るのはわたくしのケーキだけですし」

「減るわよ! 命がいくつあっても足りんわ!」

「鈴は要らないのか? では私が貰おう」

 

 ひょいとラウラが横から手を伸ばしてパクッと食べる。この無警戒さはセシリアへの信頼の表れだろうか。しかし、信頼が常に美しいものとは限らない。

 白目をむいたラウラは直立したままバタンと後ろに倒れて動かなくなった。シャルロットが慌てて抱き起こすも返事はない。

 惨状を目の当たりにした鈴は改めてセシリアに言ってやる。

 

「命がいくつあっても足りんわ!」

 

 大事なことなので2回言ったとさ。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ――今の世界は、楽しい?

 

 家からISVSに入るとき、必ずと言っていいほど耳にする言葉だ。最初はゲームの起動アナウンスか何かだと思っていたけど、ほかの家庭用ISVSで同様の事例はない。では俺の家にある家庭用ISVS限定なのかというとそういうわけでもなかった。

 この声を聞いているのは俺だけだった。少なくとも本来の持ち主である千冬姉も聞いたことがないらしい。

 誰かが俺に語りかけてきてるということなのだろうか。

 その“誰か”とは束さんしか考えられない。じゃあどうして千冬姉でなく俺なんだ?

 答えはきっと束さんに直接聞かないとわからない。

 仮想世界に囚われている箒のことも束さんは知っているんだろうか……

 

「あいたっ!」

 

 唐突に俺の額に衝撃が走る。親指の拘束から解き放たれた人差し指による一撃、デコピンである。仮想世界の中とは言ってもISを展開していない状態における危険性のない痛みはダイレクトに伝わってくるというありがたくない仕様のために痛いものは痛い。

 痛がる俺の正面にはやたらと偉そうに胸を張るピンクポニーテールの幼馴染みがいる。

 

「何するんだよ、ナナ」

「また難しい顔をしているお前が悪い」

 

 ツムギのリーダー、文月ナナ。俺が初めてISVSに来たときに出会った女の子。その正体は今も病院で眠り続けている俺の幼馴染み、篠ノ之箒だ。

 ギドとの戦いで俺とナナは互いの正体を知った。しかしまだ何も終わっていない。箒は目覚めることはなく、ナナはここにいる。だから俺たちはまだヤイバとナナとして会っている。

 

「一人で考え事などするな。私で良ければ相談に乗ってやる」

「ごめんごめん。ぼけっとしてただけだから気にすんな」

 

 しれっと嘘をつく。今、俺は束さんについて考えていた。それをナナに知られたくはなかった。

 なぜならば嫌な推測も混ざってしまうからである。

 最初は知らなかったことだけど、セシリアや宍戸の話を聞いていくうちに束さんがISVSの中枢に大きく関わっていることがわかった。今のISVSの異常を知らないとは思えない。そもそも独自の情報網を築いていた束さんが箒の入院を把握していないわけがない。

 だから、今の状況になっているのには理由がある。俺が考えているものは2つ。

 1つは束さんがエアハルトの背後にいる可能性。

 もう1つは……束さんが何もできない状態にある可能性。

 どちらにせよ、ナナにとって気分の良い話にはならない。

 

「……そうだったな。ヤイバが一人前に考え事などするはずもなかったか」

「それは流石に聞き捨てならねえぞ! 俺だって悩み事の1つや2つあるっての!」

「では言ってみろ。さあさあ」

 

 パッと思いつく悩みはある。けど、それもナナにできる類の相談じゃなかった。

 言える訳ないだろ。俺は箒が好きかもしれない。そうじゃないかもしれない。よくわからないのが悩みです、なんてな。

 

「どうした? 顔が赤いが熱でもあるのか?」

「か、仮想世界で風邪をひくってどんなんだよ! 大丈夫だから離れろって!」

 

 ナナは全く意識していないのか、額で熱を計ろうとかなり顔を近づけてきた。俺は慌ててナナの肩を掴んで引き剥がす。ナナは「ん?」と首を傾げるだけ。俺だけ意識してると思うと自分がとても情けなくなってきた。

 このまま同じ話をし続けると俺の立つ瀬がない。話を変えるためにさっさと今日の予定に移ることとしよう。時間がずれると計画が失敗しかねないし。

 

「とりあえず、今日の予定だけど――」

「ご、誤解するな! た、他意などないからな!」

 

 ナナが急に叫び始めた。もしかしてさっきの大胆さに気づいての照れ隠しか?

 遅い。遅すぎて俺は何も返せない。ひとりで勝手に慌て始めたナナのあたふたとする仕草の1つ1つを脳に焼き付けるように凝視しつつも、構わず話を先に進める。

 

「今日は予定通り、久しぶりにクーの話を聞きたいと思ってるんだけど、今どこにいるかわかる?」

「あ、ああ。クーは最近、ここの最深部に籠もっていてな。だがヤイバが話をしたいということを伝えたら、こちらに来ると言っていた。もうすぐシズネが連れてきてくれると思うが――と言っていたら来たようだ」

 

 ナナが示すロビーの入り口にはシズネさんとクーの姿があった。シズネさんとはナナと同じ頻度で会ってるけど、クーを見るのは随分と久しぶりな気がしてくる。

 イルミナントを倒してから、俺はクーの顔を見る機会自体が減っていた。あの時期は学校のイベントの方で頭がいっぱいだったから特に違和感があるというほどじゃなかったけど、やっぱりおかしい気がしている。

 そもそもクーは最深部とやらに籠もって何をしてるんだろうか。今日はそれも知っておきたい。

 

「こんにちは、ヤイバくん」

「どうも、シズネさん。それに、クー」

「久しくご無沙汰しております、ヤイバお兄ちゃん」

 

 何やら重苦しい挨拶でこっちの息が詰まる。目を完全に閉じているクーの表情はシズネさん以上に読めない。見た目は年下の女の子だし俺をお兄ちゃんなんて呼んでくるのに、目上の人のように錯覚するときもある。まあ、AIに年齢なんて関係ないか。

 今日の目的はAIであるクーに話を聞くことである。ナナが箒であることを知った今、ナナのことを様付けで呼ぶクーが束さんと無関係とは思えない。

 

「ちょっとクーと2人だけで話したいことがあるんだけどいいか?」

「ヤイバくんはロリコンなのでダメです」

 

 まさかのシズネさんからNGが出された。しかも完全に濡れ衣である。

 おまけに誤解する奴がいるから面倒極まりない。

 案の定、ナナは拳をわなわなと震わせている。雷が落ちるまで猶予は少ない。

 

「ヤイバ……お前という奴は……」

「ストップだ、ナナ! お前はシズネさんに流されすぎてる!」

「何? シズネが私に嘘をついているとでも言う気か!」

「お前とシズネさんの仲は知ってる! でもシズネさんは頻繁に勘違いをする人なんだ! 嘘はついてなくても間違いを言うことはある!」

「言われてみればその通りだ。シズネの誤解だろう」

 

 良かった。俺が一夏だと知ってるからか、今のナナは俺の訴えをちゃんと聞いてくれてる。以前の俺だったら斬られて家から出直す羽目になっていた。

 シズネさんは時折、何を考えてるのかわからない発言をする。俺もナナもラピスも、挙げ句の果てに花火師(彩華)さんまで振り回されている。ナナにはその一部として納得してもらえた。

 

「しかし、ヤイバくんがクーちゃんの着替えを覗いていたのは事実ですし」

「シズネさんは俺に何か恨みでもあるの!? あれは不可抗力だって!」

「……何の話だ?」

 

 またナナの顔が険しくなっている。むしろ悪化して般若になっていた。不可抗力とは言え、幼い女子の裸を覗いたなんてことになったら怒って当然だろう。故にナナは正当だ。

 シズネさんの考えが読めた。俺を出しにしてナナの百面相でも見ようという算段なんだ。この人なら本気でそれだけのためにナナを怒らせても不思議じゃない。

 ただ遊びに来ただけならこのままシズネさんのペースに乗っててもいいんだけど、ちょっと今は優先したいことがある。こういうときは下手に誤魔化さない方が良さそうだ。俺が真面目であることをシズネさんにアピールして味方につけるべきだろう。

 

「前に俺がシズネさんを泣かせちゃったときがあっただろ? そのとき、転送されてきた場所がたまたまクーの部屋だったってだけだよ。決してわざとではございません」

「本当か、クー?」

「肯定です、ナナさま。ヤイバお兄ちゃんは嘘をついていません」

 

 クー本人からの口添えもあってナナの怒りは収まり、申し訳なさそうに頬を掻く。この数分でナナの表情はどれだけコロコロと変わったんだろうか。色んなナナを見られて楽しい気分になってきた。……シズネさんの趣味を理解できそうな気がした俺はきっと彼女に毒されているんだ。

 などと雑念が混じっていてはマズい。早いところシズネさんを遠回しに説得しないとクーと話す時間が減ってしまう。

 そう思っていたのだが――

 

「ではナナちゃん。ちょっと内密に話したいことがあるので来ていただけますか?」

「今でなくていいだろう? それにヤイバとクーを2人きりにするなと言ったのはシズネでは――」

「ナナちゃんはヤイバくんを信じられないのですか?」

「お前が言うな。私は最初から信じている」

 

 シズネさんに手を引かれてナナがロビーから出て行く。俺が誘導するまでもなく、シズネさんはナナをこの場から引き離してくれた。俺がクーとだけ話したいと言った真意を察してくれたんだろう。彼女は天然だけど鋭い人だから。

 鋭いのはナナも同じ。たぶん俺がナナに聞かれたくない話をしようとしてることくらいバレている。それでも素直に席を外してくれたのは、言葉通り俺を信頼してのことなんだ。そう俺は信じている。

 

「さて、クー。今から俺が聞くことには正直に答えて貰いたい。わからないときはわからないと素直に言ってくれ」

「承りました」

 

 広いロビーの中、俺とクーは1対1で向き合う。

 常に目を閉じている盲目の少女。薄幸の美少女と呼ぶに相応しいか弱さがにじみ出ている。本能的に守らなければと思わされる見た目の彼女を俺は今から問いつめることとなる。

 まずは、あの人のことから。

 

「篠ノ之束について教えてくれ」

「ISの開発者。10年前にISを世界に公表し、7年前に失踪。現在は行方不明であり、その生死すら定かではありません」

 

 当たり障りのないことしか返ってこない。人柄についての言及がないのは面識がないからなのだろうか。

 

「どんな人だったんだ?」

「わかりません」

 

 面識なし。意図的に隠しているのでなければ、だが。

 俺の予想だとクーは束さんがナナのために用意したAIだ。もしクーが敵の手に落ちても束さんの情報が敵の手に渡らないように手が加わっているのかもしれない。

 束さんについて単刀直入に聞いてもこれ以上の進展はなさそうである。次に移る。

 

「篠ノ之束には妹がいたはずだ。彼女はどうしている?」

「わかりません」

 

 ついさっきまで目の前にいたんだよ。

 ナナは必要以上に自分の正体を他人に明かしていない。ツムギの中で知っているのはシズネさんだけのはず。会う機会自体が少ないはずのクーにはまだナナ本人から情報は伝わっていない。

 ナナを様付けして呼んでいるのはそう設定されているからと見て良さそうだ。クーはナナを篠ノ之箒として見てない。

 ここまでの情報をまとめると、クーは篠ノ之の名前とは無関係にナナの傍にいるということになる。

 

「紅椿の開発者は誰?」

「篠ノ之束です」

「ナナに紅椿を渡したのは?」

「私です」

「クーにとってナナはどういう存在だ?」

「庇護、および監視対象です」

「誰に頼まれてやってる?」

「わかりません」

 

 篠ノ之箒でなくナナを特別扱いしている。これも束さんの手による設定とみて良さそうか。この仮想世界の中でも篠ノ之の名前を隠そうとしているのだと考えられる。

 しかし庇護ときたか……紅椿なんて強力な機体を渡したことといい、束さんはナナが危険な目に遭うことを想定していたとしか思えない。

 

「クーの使命は何だ?」

「ナナさまの安全を第一とし、ナナさまのサポートを行うことです」

「ナナはこれからどうするべきだと思う?」

「わかりません。私はナナさまに従うだけです」

 

 こうして質問しててもクーは束さんと無関係じゃないとしか思えない。だからこそ余計に今の状況が不可解になっている。

 どうして束さんが箒を助け出してやらない?

 もう俺の知ってる束さんじゃないのか?

 

 蜘蛛のIllを倒してからずっと俺には気になっていたことがある。

 それはクーの容姿について。

 髪が銀色なのも含めて、目を閉じたラウラと似通っている。

 

「クーは遺伝子強化素体(アドヴァンスド)なのか?」

 

 AIであるクーに俺はそう聞いてしまっていた。

 俺はたぶん、違うと言って欲しかったんだと思う。でも、

 

「肯定です。私はILL計画によって生み出された遺伝子強化素体。その失敗作で――」

 

 クーは明確に肯定してしまう。AIであると言っておきながら、遺伝子強化素体でもあるのだと。

 彼女の口からは“ILL計画”などという単語も飛び出している。俺たちの知らないことを知っているのは間違いない。考えたくなかったけど、敵と束さんにつながりがある線も考慮する必要が出てきた。

 だけど、事態は思わぬ方に向かった。

 クーは途中で口を閉じてしまう。頭を抱えて崩れ落ち、額には皺が寄って苦しそうにしている。

 そして――

 

「あ、あ、ああああああああ!」

 

 泣き叫んだ。救いを求めるように。あるいは、この世の全てを呪っているかのように。ただただ、拒絶を声として吐き出していた。

 

「何事だ!? 何があったのだ、ヤイバ!」

 

 クーのただならぬ悲鳴を聞いて、ナナとシズネさんが戻ってきた。説明を求められてるけど俺にだって詳細はわからない。

 

「クーちゃん、大丈夫だから。何も怖くないから」

 

 混乱している俺の代わりにシズネさんがクーを落ち着かせようと優しく抱き締めて背中をさする。しかし錯乱しているクーはまだ叫び続けている。簡単には収まりそうになかった。

 

「クーに何をしたのだ、ヤイバ!? このようなクーを初めて見たぞ!」

 

 俺はただ質問をしただけだった。

 でも確実に俺の質問がクーを発狂させるに足る何かを秘めていた。

 プログラムに従っているだけの存在にトラウマなどあるわけがない。

 

 ……くそったれ。

 

 俺たちは最初から騙されていたんだ。

 彼女の発狂が全てを物語っている。

 

 クーは……AIなんかじゃない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ヤイバがクーと話している頃、クーが普段籠もっているツムギの最深部に近づいていく2人組の姿があった。どちらも女子であり1人はメガネ、もう1人は長すぎる袖というファッションが特徴的だった。2人は揃ってこそこそと入り口に忍び寄っていき、中の様子を手鏡で窺う。

 

「中に誰もいない。ヤイバくんが上手くやってくれたみたい。入るよ、本音」

「あいあいさ~」

 

 門番の少女がいると聞いていたが、今はヤイバと会うために外に出ている。ツムギの中心部に行くチャンスは今しかない。簪は本音を連れて部屋の中へと入っていくと、迷わず部屋の中央の床に手を触れた。

 

「どう、かんちゃん?」

「……うん、つながった。やっぱりこの遺産(レガシー)は当たり。早速、“迷宮”を開いてみる」

 

 何もなかった床に入力用のコンソールディスプレイが表示される。ISVSで戦っているだけのプレイヤーではちんぷんかんぷんな代物であるが、ISの装備の開発に携わっている簪には慣れたものだった。必要な操作も他の遺産(レガシー)で解明しており、簪は自らの知識に従って情報を打ち込んでいく。そして、

 

「開いた……」

 

 奥の床が左右に開いて、地下へと続く階段が姿を現した。クーのいる殺風景な部屋は最深部などではなかったのだ。この事実はナナもシズネも知らない。

 簪は躊躇いなく階段に足を踏み入れる。この先に何がある見たことがないにもかかわらず、その足取りは力強いもの。その理由は、大きな見返りが期待できるからである。

 

 ISVSを含めて、ISにはまだ解明されていない技術が多々ある。ほぼひとりで完成させたとされる篠ノ之束は紙や電子媒体でデータをまとめるようなマメさが全くなく、全て頭の中で解決させていたと言われている。簪が束を知ったときは技術者の風上にもおけないとつい口に出してしまったほどだ。

 ところが近年になって、ISVSをゲームとして完成させた人物は篠ノ之束ではないことが発覚した。クリエイターと呼ばれている人物は篠ノ之束しか持っていないはずの知識を使ってISVSを完成させた。つまり、目に見える形でISに関する重大なデータが存在する可能性があった。それが“篠ノ之論文”と呼ばれるISVSに隠された宝なのである。

 

 過去にISは2度の大きな進化をしてきた。

 拡張領域への装備の出し入れが可能となった第2世代。

 イメージインターフェースにより非固定浮遊部位などの使用が可能となった第3世代。

 ISは篠ノ之束が白騎士事件で見せていた性能に少しずつ近づいてきてはいる。しかしその進化を支えたものは結局のところ、篠ノ之論文。人類は篠ノ之束の手の平の上で踊っているだけなのが現状なのである。

 だが世の研究者たちは受け入れざるを得ない。篠ノ之束が達成できていることを後追いで研究するよりも、篠ノ之束が残した遺産を見つける方が遙かに効率がいいのは事実。

 今、ISの技術競争で最も優先順位が高いのは篠ノ之論文を発見することにあった。

 

 簪がツムギを調査しようと思い立ったのも、過去に篠ノ之論文が発見されたのが遺産(レガシー)の内部だったからである。通称は“迷宮”。世界各地でロビーとして提供されているドーム型の施設は見た目が同じでも地下深くまで延びている構造のものがある。海上に置かれたツムギの本拠地は海底にまで延びているくらい長い建造物だった。怪しいのは火を見るよりも明らか。

 当然、簪は彩華が先に調べているものだと思っていた。しかし彩華は可愛い少年少女に目がなく、甘やかすという弱点がある。クーという可愛い門番に阻まれて断念したと聞いた簪が失望の眼差しを向けたのはつい最近の出来事だった。

 自分がやらないとダメだ。そんな使命感に突き動かされたのである。

 もちろん、私利私欲のために篠ノ之論文を求めているわけではない。今の簪には力になりたい人がいるからこそ、こうして独断で行動を起こしている。

 

 ――篠ノ之論文には箒が目覚めるためのヒントがあるかもしれないから……

 

「不気味な空気だよ~」

 

 後ろを歩く本音がビクビクしながら簪の背中を摘む。お化け屋敷でもあっけらかんとしている彼女が怖がっているのも珍しい。むしろお化け屋敷が大の苦手である簪の方が平然としていた。

 階段を下りきるとトンネルのような通路が奥へ続いている。薄暗いために肉眼では先がどうなっているのか確認できない。篠ノ之論文を防衛する門番がいる可能性も考慮して、簪は自らのISを展開した。

 迷宮と呼ばれている空間にしては一本道が続く。やがて通路の先が見えるようになった。50mほど進んだところで広い空間に出る。それ以外は進んでみないとわからない。

 

「本音はここで待ってて。ちょっと様子を見てくる」

 

 もし罠があれば、そこで調査終了となってしまう。限られたチャンスをものにしたい簪は2人でまとまって行動するのは危険と判断し、1人で先に出ていくことにした。

 返事も聞かないまま、通路を高速で通過して広間に躍り出た。その瞬間に広間全体が明るく照らされる。何もないドーム状の空間は屋内でもISが飛びやすい環境である。まるでISの戦闘を想定されたような場所の中央には金属でできた立像が異質な物体として存在を主張していた。

 否。ただの立像ではない。直立しても地に着くような長い腕を持ち上げるとともに、フワリと体を宙に浮かせた。つまりIS、もしくはリミテッドである。

 

「かんちゃん!」

 

 このタイミングで通路に控えさせていた本音が入ってくる。彼女も既に自分のISを展開させていて臨戦態勢にあった。

 2対1。篠ノ之論文を求める上で目の前の敵との戦闘は避けられないものとなる。ならば簪は戦いを選ぶのみ。非固定浮遊部位である山嵐の発射口を開いて、入力用コンソールを展開した。

 

「山嵐、1~24番。軌道入力完了……発射!」

 

 まだ相手は動いていない。相手を全方位から襲うよう細かく弾道を設定したミサイルを一斉に射出。これが開戦の合図となった。

 この最初の1手を敵がどう防いでも簪の第2手は大きく変わらない。追撃のために山嵐全てを春雷2門に変更すると、荷電粒子砲のエネルギーチャージを開始する。ミサイルが迎撃されたとしても、チャージの時間を稼ぎ、敵の隙を作れれば良かった。

 

 だが簪の思惑は一瞬で崩れ去る。

 

 敵は長い両腕を真横に伸ばして着地した。簪はここで初めて気づいたのだが、敵には頭と呼べるような部分が見当たらない。それでもまだ肩に巨大な装甲が取り付けられた拡張装甲(ユニオン)で説明できる範囲だったが、この敵は信じられない挙動をする。

 

「回った……?」

 

 両腕を広げた体勢で敵はコマのように回り始めた。問題は地に足を着けているという点である。フィギュアスケーターのように回っているのではなく、確実に足を地に踏みしめている。上半身だけが独立して回転していたのだ。

 当然、簪の思考は1つの結論に辿りつく。中に人が入っていてできることではない。だからこの敵は無人リミテッドなのだと。

 その答えは半分だけ当たっていた。

 

 敵は回転しながら、両腕の先からENブレードを展開する。出力は中型とされるFMS社製のクレセントを上回るもの。ただし、ブレードの長さはエアハルトの使うリンドブルムよりも長い。

 光の刃を取り付けたコマは全方位から迫るミサイル群を一瞬で切り落とした。上方から迫るミサイルもわずかに角度を変えるだけで対処している。

 当然、敵の奇行は防御のためだけに行っているものではない。上半身の高速回転を止めないまま地を蹴った。原始的な方法で初速を得たコマの怪物は攻撃をしてきた簪をはね飛ばさんと迫る。

 ふざけているとしか思えない敵の行動だったがその全ては早かった。簪の想定よりも早く接近されているため荷電粒子砲による迎撃は間に合わない。

 

「任せて~、かんちゃん」

 

 しかし簪はひとりではない。迎撃の準備ができていない簪の前に親友が気の抜けたような声を出しながら颯爽と駆けつける。全身装甲(フルスキン)で覆われた顔すらも緊張感の欠片も感じられないものだった。

 

 何せ、コアラである。実写ではなく、某有名チョコ菓子のパッケージに描かれているようなコアラである。細部にまでこだわった造りとなっているため、全身を覆う装甲は毛皮にしか見えず最早ただの着ぐるみだった。ただし、一応はISであるためアサルトカノンなどの武装や着ぐるみの上から金属っぽい装甲も付いている。

 これが布仏本音が長い時間をかけて作り上げた専用機“アーマードコアラ”だ。

 

 操縦者ののんびりさはコアラの動きには反映されておらず、右手の爪からENブレードを展開してコマと化している敵に叩きつけた。ENブレード同士の干渉によって敵機の回転は停止。その場を飛び退くようにしてコアラから離れていき、簪は事無きを得る。

 

「ありがとう、本音……油断してた」

「だいじょーぶ。私がいる限り、かんちゃんはやらせないもん!」

 

 コアラが器用にピースをする。ファンシーとシュールの間の子である存在感に簪は苦笑を隠せない。久しぶりの共闘とは言っても、いつまで経っても慣れないものだ。

 

 敵のベーゴマ攻撃と味方のコアラ。トンチンカンな両者に挟まれて自分のペースを乱されている簪であったが、首を大きく横に振って気持ちを切り替える。

 敵は攻撃を防がれてすぐに距離を置いた。簪の攻撃を嫌っての行動であるのはわかるが、問題は行動に移る速度である。判断が早すぎる。簪の知っている無人機でここまでの高性能な相手はいない。

 気になる点は他にもある。無人リミテッドはPICCこそ機能していてISにダメージを与えられるが、EN武器に関してはBT適性の高い操縦者がエネルギー供給ラインをつないで初めて最小限のEN射撃が可能となる。にもかかわらず敵は強力なEN武器を使用してきていた。

 無人リミテッドではない。敵は無人ISなのだと認識を改める。この敵には簪の知らない技術が使われているのは確定で、それはつまり、篠ノ之束が開発した代物であると予測される。

 

 これは勝てないかもしれない。

 

 初手を交えた段階では敵からナナの紅椿ほどの性能は感じられない。しかし、簪の体感で言うと無人機の技量はランカーと渡り合えるレベルである。本音と2人での勝率は50%を下回っていると考えられた。

 

「ダメ元でやってみるしか……」

 

 もしこれがIllとの戦闘ならば、簪は迷わず退却を選ぶ。危ない橋を渡る状況ではないからだ。

 そして今は真っ当なISVS。負けのリスクはこの機会を潰すだけであり、退却自体が負けと同じ。だから挑戦する選択肢しか残っていない。

 

 ――はずだった。

 

 負けも視野に入れて戦う。その直前にふと思い立った簪はコンソールを開いてISVSから離脱できるか確認した。ギドに敗北した経験から、確認しないと安心できなかった。

 

「嘘……」

 

 ログアウト不能。

 簪は動揺を隠せない。絶対に安全であるはずのツムギの中で、Illと相対したときと同じ現象が起きている。

 たまたまタイミング悪く、外に敵のIllが攻め込んできている?

 元々ツムギの内部に潜んでいるIllがいて、簪を追ってきた?

 目の前の敵が篠ノ之束が仕掛けたものでなく、敵のIllなのか?

 頭を過ぎる可能性はどれも信じがたい。何か別の要因があるはずだと考えるも答えなどでない。

 わかっているのは、この場から去るには来た道を戻るか、目の前の敵を倒すしかないということだけ。

 敗北は脱出不可能、悪くて昏睡状態に陥ることを意味する。

 

 自分が招いてしまった想定外の異常事態。

 簪は奥歯を強く噛みしめる。

 本音だけは絶対に守るという意志がその瞳に宿っていた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 クーは落ち着きを取り戻し、そのまま寝入ってしまった。シズネさんの膝枕で静かに寝息を立てている姿は現実の女の子と遜色ない。

 初めて会ったとき、クーは自らのことをミッションオペレーター用のAIであると名乗った。ゲームのために造られた存在であるという自覚が彼女にはあって、俺たちにはそれを否定する材料がなかった。そういうものであると漠然と納得していた。

 でもそれは違ったんだ。彼女にはゲーム進行に関係のない歴史が存在している。ナナの世話をさせるだけならわざわざ遺伝子強化素体として生み出す必要なんてないし、むしろ邪魔にしかならない。

 

「ヤイバ……私にもわかるように説明してくれないか?」

 

 まだ俺はナナたちに何も言えていない。あまりにも異常な状況だったからか、ナナは俺が悪いと責め立てるようなことはせずに困惑するばかりだった。

 言ってしまっていいのだろうか。

 クーはAIでなく、おそらくはナナたちと同じ立場に陥っている現実の人間だ。それもラウラと同じ遺伝子強化素体だろう。チラッと聞いただけの知識だけど、遺伝子強化素体は亡国機業の人型生体兵器研究の過程で生まれたらしい。だからクーも亡国機業と無関係じゃないってことになる。

 そしてクーは束さんとも関係があるはず。でないと紅椿を持っていたり、ISVSに囚われたナナの元に都合良く姿を現すことはできない。

 

 束さんは昔のツムギと関係が深い。そして、反IS主義者“アントラス”という連中は束さんの命を狙っていた。Illを使っている敵は亡国機業かアントラス、あるいはその両方という話だから束さんが敵とつながっているとは一見すると考えにくい。

 でも、ナナの元にクーが送られたタイミングや、クーが遺伝子強化素体であるという点が気になる。特にタイミングの方は見逃せない問題で、束さんはナナがこの世界に囚われた瞬間に立ち会っていたかのようだ。

 ナナとシズネさんは篠ノ之神社で黒い霧のISに襲われたと証言している。黒い霧のISはおそらくIllなんだと思う。でもって、そもそもIllなんて化け物を束さん以外の人間が造れるものなのだろうか。

 

 ダメだ。今の俺には束さんがナナをISVSに閉じこめたとしか考えられない。

 でも俺は知っている。たしかに束さんは奇天烈とか破天荒って言葉が似合う人だったし、柳韻先生とは馬が合わなくて喧嘩ばかり売ってたけど、箒だけは人並み以上に大切にしてた。だから束さんが箒を苦しめるような真似をするはずないんだ。

 まだ真実はわからない。だからナナには何も言わない。

 

「ごめん、ナナ。俺からはまだ何も言えない」

「……わかった。“まだ”という言葉を信じておく」

 

 ナナは何も話さない俺を許した。ただし『いずれ話せ』と念を押している。

 何が真実であれ、ナナは知らなくちゃいけない。それはわかってるけど、まだそのときじゃない。

 できることなら、誰も悲しまずにすむ真実だといいなと切に願う。

 

 

『でもね、いっくん……世界が平等だったことは一度もないんだよ?』

 

 

 ハッと目を見開く。素早く周囲を見回すがこの場には俺とナナ、シズネさん、眠っているクーしかいない。

 

「急にどうしたのだ、ヤイバ?」

「……なんでもない」

 

 ナナが不安げに俺に問いかけてきた。つまり、今聞こえてきた声は俺にしか届いていないってことだ。おそらくはプライベートチャネルの通信。

 声の主はいつもISVSに来るときに聞いていた声と同じ。そして、俺のことを“いっくん”だなどと呼んだ。間違いなく束さんだ。

 一体、束さんは俺に何を伝えたいんだ?

 どうしてこんな回りくどい方法で俺だけに話す必要がある?

 わからない。俺の単一仕様能力を教えてくれたときのような具体性は今の声にはなく、前にも聞いた内容だった。

 世界が平等だったことは一度もない。

 まるで世界から悲劇は無くならないと断言しているように思えた。

 

 ……やっぱり、俺は束さんのことを知らないといけない。

 

 もう俺と箒の問題だけじゃすまない領域に入っている。

 昔のツムギとアントラスの争いは、昔のツムギが解散してもなお終わってなくて、俺たちとエアハルトの戦いにつながっている。その発端を辿ると必ず束さんの存在がある。

 だから束さんのことを知らないまま真実に辿りつくことなどできはしない。

 

 まずはクーの守っていたものが何かを知る。不幸中の幸いか、クーに意識がない。先に向かってるはずの簪さんたちに合流しよう。

 

「ナナ。イルミナントを倒してからクーが籠もるようになったっていう場所に案内してくれるか?」

「随分と唐突な申し出だな。クーはツムギの人間以外が近寄ることを拒絶していたが……まあ、ヤイバならいいだろう」

 

 俺自身、客観的に見たら無茶苦茶なことを言い出したように思われても仕方ないと思ってる。でもまだナナには説明したくないし、ナナの協力がないと入りづらい場所だから仕方がない。

 クーが籠もっていた場所には何があるんだろうか。簪さんは具体的なことは知らないと言っていたし、今のナナの話だと彩華さんたちを近寄らせなかったってことになる。やっぱり言ってみないとわからないな。

 

「シズネ。クーのことは任せた。私とヤイバは奥の部屋に向かう」

「わかりました。あまりクーちゃんの機嫌を損ねるようなことはしないでくださいね、ヤイバくん?」

「わかってるよ、シズネさん」

 

 目を覚まさないクーのことはシズネさんに任せて、俺はナナの案内でツムギ本拠地の最深部へと向かう。

 

 

 そうしてやってきたのは何もない部屋と説明された場所。

 遺産(レガシー)“トリガミ”でナナとギドが戦っていた場所と雰囲気が酷似している六角柱状の広めの空間である。

 しかし、最深部と呼ばれているにしては不可解な変化が見受けられた。

 

「何だ、あれは? 階段か?」

 

 部屋の奥の床には地下へと降りていく階段があった。ナナは初めて見るもののようで、本来ここにあるはずのものじゃないってことになる。たぶん簪さんが何かをしたんだろう。

 あれこそ、クーが本能で守っていた場所か。

 階段を下っていった先はナナたちも知らない。だからこそ、束さんにつながるヒントがある可能性が高い。

 俺は階段へと歩を進める。ナナもついてくる。そこへ――

 

「待ちたまえ。お姉さんも同行しよう」

 

 後ろから声がかけられた。ナナと一緒に振り向くとそこには彩華さんが腕を組んで立っている。簪さんは彩華さんに内緒だと言ってたが……

 

「彩華さんが何でここに?」

「暇つぶしも兼ねてここに来ようとすると、あの子が追い返そうとしてくるから遊んでいたのだ。しかしながら今日は出迎えがない。肩を落として帰ろうとしていたところに少年たちの声がしたので追ってきた。これ以上の説明は要るかな?」

「いえ、いいです。じゃ、行きましょうか」

 

 彩華さんの言ってることが本当かはわからないけど、今は大した問題じゃないから放置しておく。これからこの施設の奥へ向かうに当たって彩華さんは邪魔になるどころか頼りになる存在だった。一緒に来てくれるというのだから歓迎すべきことである。内緒にしておきたいと言っていた簪さんには悪いけどここは俺の都合を優先させてもらう。

 ……彩華さんには聞きたいこともあるしな。

 

 下に向かうにつれて暗くなっていく階段を彩華さんを先頭にして下っていく。真っ暗になる前にISを展開することになるだろうが、まだ肉眼で見える程度であった。かなり深い階段である。

 せっかく時間があるから今の内に彩華さんに聞いてみることにする。ナナもいて迂闊なことを言えないのには注意しておこう。

 

「そういえば彩華さんは躊躇なくここまで来てますけど、今俺たちが向かっている先に何があるのか知ってるんですか?」

 

 束さんも遺伝子強化素体も関係ない疑問だ。最初に地下への階段を見つけたとき、ナナは驚いていたんだが、彩華さんはそうじゃなかった。さらに、俺が慎重に進もうと思っていたのに対して、彩華さんはスタスタと慣れているように階段を下り始めた。これで何も知らないなんて言わせない。

 

「少年が知っているはずもないことだったね。ここは我々が迷宮と呼んでいる場所。そして、この先にあるのは篠ノ之束が我々に残した遺産だ」

 

 束さんの名前が出てきちゃったけど、たぶんナナに聞かれても問題ない話だろう。待ったをかけずに彩華さんの話を静聴する。

 

「6年近く前、ISの研究に息詰まっていた私たちの前にISVSは突然現れた。ゲームと称していたがその実体はもう一つの地球とも呼べる規模のシミュレータ。現実では不可能な実験をも可能にする代物で、我々にとっては正に天の助けとなった」

 

 この辺は以前にセシリアから聞いた話と同じだ。

 

「ところがこの仮想世界には現実にはない施設が世界各地に点在していた。それがプレイヤーにロビーとして提供されている施設。我々には理解できない技術の塊であり、ISVSというゲームを運営する何もかもが詰め込まれていると言っても過言ではない」

 

 研究者たちの間ではシミュレータとしての側面が強いISVSなのにロビーだけはゲームとしての機能が充実している。これはロビー自体がゲームの製作者、おそらくは束さんの手によるものだから。ロビーは研究者たちにとって未知の塊になっている。

 つまり、ロビーと同じ機能を有しているツムギの本拠地の奥に隠されているものとは――

 

「この先にある遺産とは“篠ノ之論文”そのもの。ISVSどころかISの謎に迫るための情報の一部が眠っている可能性があるというわけだ」

 

 篠ノ之論文。これも以前に店長とセシリアが話していた。現在、ISでしか使えないとされているPICなどの技術もISコアなしで運用できるかもしれないというお宝だ。

 

「他のロビーでも同じような迷宮があったんですね?」

「その通りだ。当時はブリュンヒルデを筆頭にした探検隊を組織して内部を探索したよ。おかげさまで現在、ISは第3世代にまで発展している。篠ノ之束の後追いでしかないがな」

 

 言葉の端々に棘を感じるのは気のせいじゃない。俺は研究者だから漠然としかわからないけど、きっと束さんにバカにされてるように感じるんだろうな。俺や箒の場合はとっくの昔に束さんの人間性に慣れてるから、無駄に勿体ぶるとかしててもいつものことと思えてしまう。

 しかし……思ったよりも早く、ここに隠されてるものの正体がわかってしまった。簪さんは言ってくれなかったけど、彼女の目的も篠ノ之論文にあるんだと思う。どうも俺が知りたいこととは関係なさそうだ。

 後ろを歩くナナの隣に移動する。今から言うことが彩華さんに聞こえないよう耳元に顔を近づけた。

 

「ここまで来てなんだけど、この先に俺の用事はなさそうだ。引き返すのも面倒だからこのままログアウトしようと思ってるんだけど、ナナはどうする?」

「相変わらず自分勝手な奴だ。戻りたいなら勝手にすればいい。私は……姉さんが関わってることだから興味がある。それに今住んでいる家の地下にわけのわからないものがあるというのも不快だろう?」

「たしかに。じゃあ、俺はこのまま落ちるから後はよろしく」

 

 そろそろ夕飯の時間だし、というのもあって俺は帰ることにした。色々と考えるべきことが増えたけど、今の彩華さんの話を聞いて思い直した。

 やっぱり束さんのことを知るには千冬姉に話を聞くべきだろう。問題は千冬姉が何もかもを正直に話してくれそうにないことだけか。ま、そこは仕方ないから宍戸や店長を頼ってみるか。

 家に戻ってからの自分の予定を頭に思い描きながら、ログアウトの手続きを開始する。ところが、全く反応を示さない。

 

「2人ともストップ!」

 

 先を歩くナナと彩華さんを呼び止めると同時に、俺はISを展開する。自分で言うのもなんだが、もう既に反射の領域に入っている反応速度だった。

 

「どうした少年?」

「俺たちは今、ISVSから出られません! 近くにIllが居ます!」

 

 過去に俺はログアウト不能状態を2度経験している。1度目はイルミナントと初めて戦ったとき。2度目は簪さんが楯無さんに扮して襲ってきたとき。2度目は直接Illと遭遇していなかったけど、簪さんが敵の手に落ちていたことを考えるとあの場に居たことは居たのだろう。

 とにかく、異常が起きていることだけは確実だった。まずは今何が起きているのかを確認しないといけない。

 

「くっ……シズネにつながらん!」

「しまったね。シズネくんに限らず、地上の者と通話できない状態にあるようだ」

 

 ここに居るまま上の様子を知ることはできない。もしギドのときのようにIllが内部にまで侵入してきているのなら、今度はシズネさんがさらわれるだけじゃすまないかもしれない。

 俺は俺で簪さんと連絡を取ろうとするが通じない。まだこの迷宮の奥に居るのだろうか。

 

「引き返しましょう、彩華さん!」

「……いや、そうはいかない」

 

 簪さんのことは気になるけど、Illをどうにかするのが先決。

 しかし俺の提案に対し彩華さんは首を横に振る。

 

「何故ですか!?」

「よく考えたまえ、少年。君たちはこの地下にやってくる階段を見つけたが、これは最初からあったものかい?」

 

 慌てる素振りを見せない彩華さんから逆に質問を返された。

 なるほど。彩華さんは既に簪さんたちが迷宮に入ってることに感づいてる。入院していたのほほんさんの見舞いに通っていたほどの人だから、気になって仕方がないんだ。

 何故ならばIllがいるのは地上とは限らないから。もしかしたら、簪さんたちの後に、Illが侵入していった可能性もある。

 

「俺たちよりも先にIllが下に行ってるってことですか?」

「いや、流石に前のときのようなヘマはしていない。よほど強力な隠密性能を誇る単一仕様能力があるのならば別だが、もしそのような能力があるIllならば篠ノ之論文より先にナナくんを直接狙ってくるはず。連中はナナくんに固執していたからな」

 

 つまり簪さんたちがIllと遭遇してる可能性は低いのだと彩華さんは言っている。

 

「この迷宮を開けたのは簪くんだ。私に黙って篠ノ之論文を取りに向かったと思われる。だが彼女は篠ノ之束が残した防衛プログラムの存在を知らない。Illの“ワールドパージ”の中であれと戦えば、喰われずとも帰還不能で身動きが取れなくなってしまう」

 

 聞き慣れない単語があったけど今はスルーする。

 彩華さんが言いたいことはわかった。俺たちよりも先に迷宮に降りた簪さんはこの迷宮に潜んでいる篠ノ之論文の番人と戦っているはず。通常は負けてもゲームの敗北と同じように帰れるものでも、今の状況だと負ければ帰ってこられない。事実上、Illの被害にあったのと変わらない昏睡状態となる。

 問題の根本はIllにある。Illさえいなければ地下に向かった簪さんたちは放っておいても問題ないくらいだ。だから俺たちがすべきは地上に引き返して状況を確認し、Illがいるのならば撃退すること。

 だがそれらを踏まえても彩華さんは地上に戻ることに反対を示した。たぶん理屈じゃないんだと思う。部下に当たる彼女たちを不安にさせたくないという親心みたいなものなんだ。

 

「私は基本的に放任主義なのだがそろそろ管理職としての矜持も見せねばならん。独断専行した可愛い部下を連れ戻してくる。君たちは上に戻れ」

 

 彩華さんがISを展開する。体中に大筒を大量に搭載した砲撃型の全身装甲(フルスキン)はプレイヤーネーム“花火師”に相応しい機体だ。

 ここで2手に分かれるのに反対する理由はなかった。彩華さんの提案通り、俺とナナは戻るとしよう。

 だが、今度はナナが俺を手で制する。

 

「上は私1人でいい。ヤイバは簪の元に向かえ」

「どうしてだ?」

「……敵に倒されて無抵抗なままなのはとても怖いんだ。だから頼む。簪の力になってやってくれ」

 

 ……ギドとの戦いを思い出してしまったのか、ナナ。

 他ならぬナナの頼みとあっては断る理由もない。上にIllがいたとしても倉持技研所属のプロも居てくれる。ナナだけ行かせても大丈夫だ。

 

「任せとけ」

 

 ISを装着した俺と彩華さんは低空飛行で階段を降りる。

 

 

  ***

 

 

 一本道の迷宮を抜けると明るい広間に辿り着いた。ISでも十分に動き回れるアリーナほどの広さがあり、中からは砲撃の激しい戦闘音が聞こえてくる。

 戦闘――姿を見ずとも片側の陣営が誰なのかはわかっている。

 

「簪さん!」

 

 飛び込むと同時に叫んだ。俺の目に飛び込んできた光景は、両腕それぞれの巨大なENブレードを振り回す大柄なISの猛攻を雪羅のENシールドで懸命に防いでいる簪さん。彼女の足下には装甲が大破して倒れ伏しているのほほんさんの姿もある。

 簪さんは決して弱いプレイヤーなんかじゃない。のほほんさんの技量は未知数だが2人がかりで負けているということは敵はかなりの強敵だ。

 肝心の敵は全身装甲(フルスキン)……にしては人型から外れている輪郭をしている。肩と頭が一体化しているようなボディは拡張装甲(ユニオン)と言われた方がしっくりくる。だが俺の目測でも拡張装甲(ユニオン)が扱えるサプライエネルギーを越えたEN武器の使用を行っているようにしか見えない。

 

「アレは何なんだ……?」

「アレも篠ノ之束の遺産の1つ。まだ我々の技術が到達していない無人ISだ。篠ノ之論文を守るアレらを我々は“ゴーレム”と呼んでいる」

 

 彩華さんは見たことがあるらしい。他の迷宮で見かけたということらしく、ゴーレムと名付けていた。だったら相手はIllじゃない。最悪の事態にはならずに済みそうである。もっとも、Illが地上にいるということになってしまうが。

 

「少年。私がありったけの攻撃をゴーレムにぶつける。その隙に2人を連れてくるんだ」

 

 了解と答える間もなく彩華さんは体中についている全ての砲筒をゴーレムの巨体に照準していた。それだけ急いでいるのも、簪さんが耐えられる限界が近いため。俺は彩華さんの射線を避けるように回り込みながら簪さんたちの元へ向かう。

 数多の火器の発射音が不協和音を奏でる。耳を劈く爆発音はISが無ければ軽く鼓膜を破壊していたことだろう。センサが空気の激しい振動を感知している間に、鉄鋼弾と炸裂弾の群が頭のない巨人に殺到する。巨人は避けられず、銃撃の大多数をまともに浴びて爆煙に包まれた。

 

「2人とも、無事か!?」

「一夏くん……間に合ってくれたんだ」

「おりむ~、ひとりじゃ動けないよ~」

 

 2人ともとりあえず無事だった。といってものほほんさんの方はISが機能停止していて動けない状態。誰かが手を貸さないと移動もできない。

 のほほんさんがこの状態になってるってことはもう簪さんは現状を把握しているはず。まさか篠ノ之論文のために無茶をしようなんて考えてないよな?

 

「簪さんはのほほんさんを連れて入り口まで撤退してくれ。俺が殿(しんがり)を引き受ける」

「ごめん……お願い」

 

 これで最前線の入れ替えを完了。ほぼ戦闘不能になっている2人は入り口に控えている彩華さんの元へ真っ直ぐ向かっている。

 あとはゴーレムの行動。彩華さんのISの一斉射撃は俺の白式がまともに喰らえば一瞬でストックエネルギーが蒸発する規模だが、見るからに重量級なゴーレムを倒せているなどと楽観するつもりはない。

 煙が晴れるとそこには――ほぼ無傷のゴーレムの姿があった。

 

「硬そうなのは明らかだったけど、ダメージ無しかよ。まあ、装甲の塊だし。物理的な耐性が無茶苦茶高いってことはやっぱ弱点はEN武器ってとこだよな」

 

 彩華さんの一斉射撃は自分の弾を自分で消さないためにEN射撃を交えることはできない。全て実弾であるから装甲の硬い相手とは相性が良くない。

 逆に俺の武器は雪片弐型(ENブレード)のみ。ISはその特性上、物理属性かEN属性のどちらかには弱いはず。

 雪片弐型、展開(オープン)。ゴーレムの体は攻撃した彩華さんを向いている。今なら敵の迎撃の前に俺の攻撃を届かせることができる。

 イグニッション――

 

「待て、少年! 不用意に近づくな!」

 

 ブースト。

 厳密には人型ではないゴーレムだが、四肢の配置は人のそれに近い。真後ろを取れた俺を正確に迎撃するには体を反転させる必要がある。簪さんを攻撃していたときに見たゴーレムの腕の振り程度では俺の速さに間に合うはずもない。

 彩華さんの制止の声は飛び出した後で聞こえた。倉持技研の研究者である彩華さんだがIS戦闘に関してはプロフェッショナルではない。だから俺の腕を見誤ってるんだろう。

 

 ……だなんて考えた俺が甘かった。

 

 後少しで雪片弐型が届くという距離に迫ってもゴーレムは迎撃の素振りすら見せない。貰ったと確信して腕を大きく振り上げる。

 ところが俺の体はゴーレムから2m圏内より先に踏み込めない。まるで強烈な風が吹き付けてくるよう。俺をひたすらに押し続ける目に見えない力はPICでは無効化できず、俺は逆方向に弾き飛ばされた。

 

「うわっ! な、何だよ、今の!?」

 

 初めて受ける攻撃だ。ラウラのピンポイントAICのように動き自体を止めるものとは違う。ダメージはほぼ皆無だったけど、嘘みたいな斥力が俺をゴーレムから引き離していた。

 ゴーレムの右腕が俺に向く。ENブレードではなく、手の平には砲口と思しき穴。考えるよりも先に体が動いた俺がその場を飛び退くと、赤紫の太い光線が床を薙ぎ払う。

 ふわりと上に飛んだ俺にまだゴーレムは追撃を入れようと腕をこちらに向けてくる。今度は手の平ではなく指。それら全てには銃口と思しき穴が開いている。

 ……マシンガンだったらかなりやばい。

 

「一夏くんも急いで戻って!」

 

 万事休すのタイミングに荷電粒子砲による援護射撃が来てくれた。EN属性の射撃がゴーレムの左腕に命中。装甲の塊であるはずのゴーレムだったが一撃で破壊はできていない。しかしノーダメージというわけにはいかなかったようで左腕が凹み、錐揉み回転して地面に倒れた。

 もっとも、すぐに起きあがるのは目に見えている。追撃を入れるのはただの無謀だから俺は素直に入り口に引き返すことにした。ゴーレムとのスピード競争は明らかに俺が勝てる。後ろから撃たれることもなく、簪さんたちの元に戻ることができた。

 

「よく戻った、少年。急いで引き上げるぞ」

「アイツはこのままでいいんですか?」

「今までと同じならば、迷宮から逃げた相手を追うような真似はしないはずだ。もし追ってくるようならば上まで連れて行き、ENブラスターの集中砲火で瞬殺すればいい。1機ならばそこまで苦戦する相手でもないからね」

 

 十分に苦戦していた俺としては彩華さんの最後の一言には賛同しかねる。

 ……ん? 1機ならば?

 

「もしかして、あのゴーレムってたくさん居るんですか?」

「そのはずだ。アレは入り口に立つ門番でしかない。奥に行けばうじゃうじゃ出てくるものだと思ってくれ」

 

 ほんの十数秒の戦闘だけだったが、明らかに俺単独だと負けていた。今ここにいるメンバーで挑んだところで篠ノ之論文を手にするのは夢のまた夢。

 この迷宮を攻略するのがどれだけ困難(無理ゲー)か理解させられた。あと、攻略した経験のある千冬姉の凄さも。その千冬姉が一緒に戦ってくれるんだから、今後のIllとの戦いもかなり楽になるんだってことも今更になって実感した。

 

 俺たち4人は階段を上っていく。彩華さんの言うとおり、ゴーレムは上にまで追ってこなかった。負けてもリセットが効くゲームでないととても戦えたもんじゃない。ログアウト不能の状態では迷宮とやらには近寄らないのが無難だった。

 何にせよ、今の俺たちが挑むべきは迷宮ではなくIll。下にいなかったのだからナナの向かった地上にIllが攻めてきているはず。俺がいなくてもどうにかなっているとは思うけど、できるだけ急いで戻らないと。

 

「あれ~?」

 

 急にのほほんさんが疑問の声を上げる。急いでいるところだけど、彼女が何か異常を察知したかもしれないから無視はできない。先頭を飛んでいた俺は簪さんに担がれているのほほんさんの様子を見るために振り返る。

 のほほんさんは光に包まれていた。その輝きは見覚えがある。敗北したプレイヤーが現実に戻されるときの転送の光だと認識した頃にはのほほんさんの体はISVSから消えていた。

 俺はすぐに確認する。今、現在、ISVSからの離脱は――可能だった。

 

「良かった。Illは無事撃退されたみたいだな」

「うん……でも、私たちじゃゴーレムを倒せない。篠ノ之論文はしばらく諦めるしかないね」

「なあに。エアハルトの野郎をぶっ飛ばした後にでも、皆を連れてゆっくりやればいい」

 

 残念がっている簪さんには悪いけど俺には篠ノ之論文なんてどうでもいい。俺が知りたいのは束さんの技術じゃなくて、束さんの真意だ。どちらにせよエアハルトを倒すことには変わらないけど、もしかすると俺は束さんと戦わなきゃいけないかもしれない。できればそうなりたくないけど、今は何とも言えない状態だ。欲しいのは確信だけ。

 

「あれ? ところで、彩華さんは?」

「……知らない。もしかしたら戻ったのかも」

 

 のほほんさんがログアウトして、簪さんと話しているうちにいつの間にか彩華さんの姿がなかった。彩華さんのISは機能停止していなかったから強制転送はされない。自分の意思で離脱したのか、それとも迷宮へ戻ったのか。

 もし彩華さんが迷宮に戻ったのだとしても帰ってこれるなら何も心配する必要がない。どうせ俺たちが援軍に行ったところでゴーレムを突破できないんだから素直に地上に戻ればいい。

 

 そして何事もなく地上に帰ってきた。今まで最深部とされていた部屋に足を踏み入れると、ちょうど入り口側からナナが入ってきたところである。もうIllがいなくなった後だというのにナナは紅椿を装着したまま慌てた様子だった。階段から顔を出した俺たちと目が合うとイグニッションブーストで目の前にやってくる。

 

「無事だったか、ヤイバ!?」

「あ、ああ。ってそれはこっちのセリフ――」

 

 ナナには今にも迷宮へ飛び込んでいきかねないだけの勢いがあった。流石にオーバーアクションが過ぎる。普通のプレイヤーはIllが絡まなければ危険はないとナナも良く知っているはずなのに……

 つまり、今の彼女には迷宮側にIllがいるという認識があるということになる。

 なぜそうなっているのか。ナナの口から聞く前に俺は答えを得た。

 

「まさか地上にIllは現れていないのか?」

「ああ。シズネに確認したところ、Illどころか敵対するISの1機すらいなく、平和そのものだったらしい。まさかそっちもなのか!?」

 

 だからこそ謎は深まる。迷宮で俺たちが体験したログアウト不能現象はIllと相対したときのものと全く同じだった。なのに、どこにもIllはいなかった……?

 

「1つ補足しておこう、少年。先ほど私は本音くんの帰還を確認した後、迷宮の方へと戻った。そこでログアウトを試みたができなかったよ」

 

 やれやれと肩をすくめながら彩華さんが階段から姿を見せる。改めて迷宮に挑戦しに行ったのではなく、可能性を潰すために調べたかったんだ。

 彩華さんから(もたら)された情報は1つの結論を導き出すのに十分だった。そして、それは俺にとっては都合が悪い方向に事態が進んでいることにつながっている。

 

「ここの迷宮はIllと同じ、あるいは類似した力を持っている」

 

 ゲームをゲームでなくす悪魔のような力を持つIll。

 迷宮を作った束さん。

 この2つにつながりができてしまった瞬間だった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 都会の夜景が見渡せる高級ホテルのスイートルーム。開放感のある大きな窓の脇に置かれたソファに腰掛けているバスローブ姿のスコール・ミューゼルは、煌びやかな金髪を指に絡ませながらもう片方の手で携帯端末を操作する。

 ディスプレイに表示されているのはメールの文面。仕事が順調であるという進捗報告が最初に一行だけあり、残る長文は全て日記のような私生活が赤裸々に書かれていた。スコールはその全てに目を通すとフッと小さく笑う。

 

「予定は滞りなく。邪魔者はまとめてオータムが片づけてくれる。私も私の仕事をしないといけないわぁ。そう思わない、ヴェーグマン?」

 

 用の済んだ携帯端末をテーブルに置くと、スコールは部屋の入り口に突っ立っている銀髪の男、エアハルト・ヴェーグマンを見やる。名前を呼ばれたエアハルトは不服そうに眉をひそめた。

 

「私は貴女と違って忙しい。ギドが敗れた今、ILL計画を遂行するためには新たな柱を示さねばならない」

「その柱はもう在るでしょう? ブリュンヒルデになれなかった(さなぎ)が蝶になったのは知ってるの」

「アレはまだギドには遠く及ばない」

「私も同じ見解よ。“まだ”あの子は頂点には立てない。経験を積まないとね。私だったら成長の場を用意できるのだけど――」

 

 何故自分が呼び出されたのかエアハルトは理解できていなかったがようやく納得する。

 同じ組織に属している人間が気の許せる仲間とは限らない。

 一方的な要求を通すために単身で呼び出しておいて、断れば脅迫に移行する。

 スコールの行動は理に適っているとエアハルトは他人事のように感心した。

 

「なるほど、理解した。彼女のことはミス・ミューゼルに一任するとしよう。ウォーロックから受け取るといい」

「そう。ついでだから例の新作量産機の試し撃ちもしてきてあげる」

「“ミルメコレオ”か。あれは今の私にはまだ必要ない。好きに使え」

 

 スコールの要求を飲む。元々エアハルトにとってダメージとならない事案だった。断る理由は何もなく、むしろ渡りに船といえる。

 これで用は終わりだとエアハルトは背中を向ける。ところがドアのロックが外れず、部屋から出ることができない。

 

「折角来たのにもう帰るつもり?」

「生憎だが私には貴女と談笑する余裕などない。失礼する」

 

 次の瞬間、部屋の主の意思に反してドアのロックが解除される。短時間でエアハルトがホテルのシステムに侵入して開けさせたのだった。

 足早に立ち去るエアハルトを止める術をスコールは持たない。目的は達したというのに不満げな顔を隠さず呟く。

 

「あの坊や、つまんないわぁ……」

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 予定よりも長くISVSに居座ってしまった。

 結局、あの後はナナが居る前で話を続けられなかった。昔から頭が良かった彼女のことだからきっと俺が何を隠したがってるのか気づいてるんだろうけど、言わないでいてくれる。本当は俺が逃げてるだけかもしれないけど、まだ向き合う勇気が俺にはなかった。

 彩華さんとは改めて現実で話をしよう。できれば千冬姉や宍戸も交えて、昔のツムギが守っていたという束さんについての話も聞きたい。

 

 と意気込んでも明日以降にしか無理な話だから今日はもう休もう。

 腹が減ったけど、帰ってくるのが遅かったからもう俺の分の夕食は残ってない。台所から声はなく、セシリアたちは皆、自分の部屋に戻ってるようだ。

 わざわざチェルシーさんを呼んで食事を用意させるのも気が引ける。今日は久しぶりに自分で料理でもするかな。

 照明のスイッチを入れて台所に入る。最近はチェルシーさんが管理しているため、新品同様に綺麗なキッチンだ。

 

「ん? もしかして今日の残り物か?」

 

 綺麗だからこそ目立つのは、大皿に乗ったチーズケーキ。ラップすらかけられずに放置されているが美味しそうだ。八等分に切り分けられていたようだが食べられているのは1切れだけ。デザートを食べるだけの腹の容量が足りなかったんだろう。

 ぐーと腹が鳴る。何か作るにしても軽く腹を満たしておいた方がいい。どうせ残り物だから俺が食っても文句は言われないだろう。

 

 俺はチーズケーキを1切れ手に取ると即座にかぶりついた。

 

 …………。


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