Illusional Space   作:ジベた

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26 紡がれた希望

 トリガミの外周では未だ激しい戦闘が続いていた。

 プレイヤーたちを苦しめていたヤマタノオロチ(マザーアース)は首が4本、尾が3本破壊されている。破壊されたベルグフォルクは数え切れない。

 対してプレイヤー軍の被害も5割を超えていた。北を担当していたサベージはリンが悲鳴を上げた瞬間に凶弾に倒れ、東を担当していたマシュー隊は無茶が祟って壊滅している。

 事実上、残された戦力は西と南。オロチの攻略は現在、南のリベレーター隊が中心となっている。東からトリガミに取り付いたリンと伊勢怪人も健在であるため、開始当初よりも攻略の難易度が大幅に下がっていた。

 

 問題は西だ。西の最大の脅威はオロチではない。

 シビル・イリシット。アクア・クリスタルを使う遺伝子強化素体。

 夕暮れの風をも圧倒した敵は、たとえ単機であっても油断のできない相手である。

 銀髪のショートカットの少女は楽しく遊ぶ子供のように無邪気に笑う。

 

「キャハハハ! 出来損ないのくせにやるじゃん!」

 

 3mほどもあるBTソードが4本。カクカクと複雑な軌道を描いて飛んでいく。その先にはシビルと同じ髪の色をしたラウラの姿があった。眼帯は既に外している。

 

「生まれ損ないに言われたくなどないな」

 

 眼帯を外したラウラの金の瞳はシビルのBTソードの動きを正確に捉える。コンマ以下2桁秒の一瞬のタイミングにピンポイントAICをかけることでBTソードの動きを完全に止める。

 ラウラが止めたBTソードにブリッツ(レールカノン)を撃ち込むと、シビルは表面のアクア・クリスタルを爆発させる。ラウラは爆風から逃れるために離れ、シビルはBTソードを手元に戻した。

 

「今……何か言った?」

 

 シビルの声色が変質する。幼さの感じられていた可愛らしい声は消え失せ、相手を威圧する低い声となっていた。

 ラウラは鼻で笑う。想定したとおりの反応で、またひとつ仮説が確信に変わった。

 シビルたちは現実に生きていない、ISVSのみでの存在だ。

 ヤイバはアドルフィーネを倒したことでなんとなく理解していることだが、ラウラにとっては進歩だった。

 ……忌まわしい研究が完全に復活しているわけではない。

 現実にいる最後の遺伝子強化素体であるラウラ・ボーデヴィッヒが危惧していた事態にはまだ到達していなかった。

 同時に、長年伏せられてきていた自らの出生も理解した。Illを使って皆を苦しめている者たちこそが、ラウラを遺伝子強化素体としてこの世に生み出したのだと。

 自分の存在自体が敵の研究成果そのもの。

 ……だからどうした。

 知ってしまえばなんてことのない事実。今までひた隠しにしてきた義父のあたふたした顔を想像してラウラはまた笑う。

 

「不愉快。シビルの方が強いのにどうして見下されなきゃいけないの?」

「これは愉快だ。見下されたと思った時点で貴様は自分で自分を卑下しているだろう?」

「言わせておけば!」

 

 挑発に乗ったシビルが飛び込んでくる。金と黒の目がラウラに殺意を飛ばす。

 その程度で怯むような神経などラウラは持ち合わせていない。両手の手刀にエネルギーを供給し、水を纏って鞭のようにしなる蛇腹剣を迎撃する。意思を持った蛇のように迫る水の凶刃を両手で押さえ込んだ。

 4本のBTソードの切っ先がラウラを向く。しかし今度はAICを使うまでもなく動かせない状態に陥っていた。BTソードの柄にはラウラのワイヤーブレードが巻き付いている。

 至近距離での硬直状態。ラウラは残る武器であるブリッツをシビルの頭に照準した。

 

「させないよ!」

 

 シビルの左手に蒼流旋(ランス)が握られた。液体を模したアクア・クリスタルを渦のように纏わらせ、躊躇いなく発射寸前のブリッツの砲口へと投擲する。

 ブリッツの発射と蒼流旋が砲口に飛び込むのはほぼ同時。ブリッツは内部からの衝撃を受けて爆発四散し、蒼流旋も砕け散った。

 ラウラはまだ攻撃をやめない。両手で掴んでいた蛇腹剣を右手だけで引き、シビルを引き寄せた上で左の手刀による攻撃を敢行する。狙いは首。

 シビルはラウラの腹を蹴りつけた。蛇腹剣を手放したことでシビルは解放され、蹴った勢いのままラウラから距離をとる。

 

「ムッカつくー! シビルの水が全部見えるなんて!」

「私は出来損ないではなかったのか? これではどちらが劣っているのかわかったものではない」

 

 今のラウラにはシビルのアクア・クリスタルが見えている。水蒸気に化けたナノマシンを全て認識し、自らの固有領域内への侵入をAICで拒んでいた。シビルの勝ちパターンを悉くへし折った上で煽ることも忘れない。

 左目を使いすぎているが、まだ落ち着いている。

 逃がすつもりも負けるつもりもない。

 今日ここで、目の前のIllを討つ。

 シャルロットを取り返すために。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 更識簪がISVSに関わり始めたきっかけは布仏本音の誘いだった。

 何も不自由のないまま生活し、小学5年生になったばかりの簪はISに多大な興味を抱いていた。

 ISさえ知れば、姉の力になれるかもしれない。

 そんな想いが簪の心に根付いていたのである。

 

 10年前に世界がISを知った後、更識家の内部では女性の価値が見直された。

 ISは女性にしか使えない。

 これからの時代に更識家が対応していくにはISが必要。

 しきたりを放棄してでも新しい当主には女性こそが相応しいと判断された。

 簪が幼い頃、いつも傍にいてくれた姉が離れていった。簪は幼いながらも優しい姉の変わりぶりに理解を示した。更識とはそういう家なのだ。

 姉とは年に数回しか会えない。顔を合わせても軽い近況しか話せない。簪専用メイドを自称する本音の方が共に過ごす時間が長くなってしまった。姉とはそんな関係だった。

 それでも簪は姉のことが好きだった。年齢を重ねた簪は更識家を知っていき、姉がひとつの決断を下したことは容易に想像できた。簪には決して言わないが、姉は簪のためにその身を犠牲としたと悟った。そんなこと頼んでいないと正直に言ったところで、より姉を困らせることもわかっていた。

 だから簪はせめて姉の助けになりたいと望んだ。ISのために姉が“楯無”となったのならば、自分がISという分野でサポートしようと決めた。本音の誘いに乗るには十分すぎる動機があったのだ。

 

 5年前のISVSはゲームとして稼働してからまだ1年ほどしか経っていない黎明期だった。そもそも最初はあまりゲームとして受け入れられていなく、気軽にゲーセンでプレイできるような時代でもなかった。1年をかけてようやく軌道に乗り、古参の一般プレイヤーの多くがやっと始めた時期である。

 幸いにも簪には資金だけはあった。倉持技研に直接電話をして『ISVSを売ってください』と言ってのけた。たまたま電話に出たのが親のコネで研究室を手に入れていた倉持彩華であり、彼女に『面白い小学生だ。どうせだから研究室を覗いていくかい?』と言われるくらいに気に入られた。簪はゲームプレイをする前からISの開発に関わっていくこととなった。

 中学生になってから放課後はずっと本音と2人で倉持技研に籠もっていた。現在の倉持技研の装備の中にも簪が開発したものが含まれているくらいに活躍し、彼女は中学生ながらにして研究員として認められていた。

 

 確実に姉のためになる力が身についている。そう確信していた簪だったがある日、恩人ともいえる彩華から研究室の利用を禁止されてしまう。

 なぜかと簪は詰め寄った。対する彩華の返答は簡潔なもの。

 ――せっかくの青春時代だ。もっと色々なことを学んできなさい。

 週末にしか倉持技研に入ることは許可されず、平日の過ごし方に簪は悩んだ。元々人一倍勉強をしているため、改めて勉強時間を増やすような真似はしない。そもそも彩華のいう“色々なこと”の意図がわからないとどうすることが正解なのか答えが出ない。

 すかさず簪は相談する。相手はもちろん本音。ところがその本音に言われてしまった。

 ――他の人にも聞いてみよー?

 誰も思い当たらなかった。このとき初めて、簪は近くにいる人の少なさに気がついたのである。姉を追って、力を求めているうちに自分の足下が見えなくなっていたのだ。

 本音が簪に手を伸ばす。いないのなら探しに行けばいい。そうして2人は同じクラスの女子に声をかけた。

 一緒に遊ぼう、と。

 簪は本音を含めた友達と一緒にISVSをプレイした。初めは男の子向けだと敬遠していた友達もいつの間にか“7月のサマーデビル”という悪名を轟かせるくらいにのめり込んでいた。

 共に遊び、共に学ぶ。そうして共に成長し、やがて絆が育まれる。

 たしかに研究一辺倒では気づかないかもしれないことだった。

 以前よりも成長した自分。高校を卒業する頃には彩華も納得できる人材となっているだろう将来を頭に思い描く。

 全てが充実していた。

 あの日までは友も夢もその手にあったのだ。

 

 銀の髪をした悪魔が現れる、あの日までは――

 

 本音と2人でいたところにその男は真っ向から勝負を持ちかけてきた。知らない装備で身を包む男を見て、簪は開発研究の立場から興味を持つ。新装備である“雪羅”の試験も兼ねて受けて立った。

 勝負自体は公平に行われた。雪羅と似た装備を使う対戦相手に驚きはしたものの騙し討ちの類は一切なく、簪は2対1のハンディキャップマッチで敗北を喫しただけ。それで終われば良かった。

 だが終わらなかった。帰るはずの状況で帰れない。珍しいトラブルに巻き込まれたと本音と2人で話していると対戦相手だった男が近くで見下ろしてきていた。

 闇夜に浮かぶ月のような眼。人の恐怖心を煽る魔力を帯びた眼光が地に這い蹲る簪たちを照らす。単なるアバターの設定とも思えない異様な姿に、簪は仮想世界だというのに腰が抜けてしまっていた。何も言わずに男は簪に手を伸ばす。

 怖い。わけのわからない状況に陥ったこともあって、簪は強く目をつぶる。

 ――私はお嬢様の付き人だから。

 男の手は簪に届かなかった。代わりに届いたのは本音の声。間延びした言動が一切ない、1年に1度あるかないかという簪ですら聞き慣れないものだった。

 次に簪の目に飛び込んできた光景は体中から光の粒が溢れ出して少しずつ消えていく本音だった。隣にいたはずの本音が前に飛び出している。本音を構成していた光は次々と男の手の中に吸い込まれていく。

 事態の理解が追いつかない簪だったが取り返しのつかないことが起きていると直感した。しかし、戦闘不能となったばかりのISでは何もできない。本音の体が無くなっていくのを、ただ見ていることしかできなかった。

 本音が消えた。あとに残されたのは簪と目の前の男のみ。男は簪に手を伸ばすことなく背を向ける。

 ――今の娘を助けたければオレ様を倒しにくるがいい。その命を懸けてな。

 男は立ち去った。簪は男に何も言えなかった。真っ向から圧倒的な暴力でねじ伏せてきた男に立ち向かう意志が持てるはずなどなく、早くシステムトラブルが解決しないかなと考えていた。何かがおかしいと感じながらも……

 

 そうして簪は現実へと帰還した。

 本音が目覚めることのない現実へ。

 

 

***

 

 全力で振るう刀は扇子などという武器とはほど遠いものによって軽く受け流される。どちらも真剣そのものであるのだが、簪の目にそうは映っていない。

 馬鹿にされている。全力を出す必要などないことを目に見える形で見せつけてきている。お前に力はないと。本音が目覚めないのはお前のせいだと言ってきている。

 ――だったら、お姉ちゃんが本音を助けてくれればいいのに!

 直接話す時間は少なくても、姉の実力は知っていた。カティーナ・サラスキーというプレイヤーネームは姉、更識刀奈以外には考えられなかった。簪は日本代表候補生に選出されるほどの実力を手にしていたが、表向き一般プレイヤーである姉は国家代表と渡り合える位置にいる。

 同じ土俵に立てば追いつけない存在だ。昔はそんな姉が誇らしかった。しかし今は……目の前に立ちはだかる敵となっている今は憎くてたまらない。

 自分に姉ほどの力があれば本音を助けられるはずなのに。

 もし神という存在があるとすれば、なぜ自分でなく姉に力を与えた?

 簪の頭の中は他者への呪いで溢れていた。

 

 ――大丈夫ですよ、簪ちゃん。あなたはひとりじゃない。私もお手伝いします。

 

 頭の中で声が響く。男の声だ。簪はこの男に心当たりがある。

 本音が被害にあってからというもの、大丈夫という言葉を他の誰にも言われていなかった。だからあの人のはずだ。

 ……誰だっけ?

 

 “敵”に山嵐をばらまく。簪と“敵”のちょうど中間ほどで“敵”によって全弾爆破された。今回はそれも想定済みであり、溜めておいた荷電粒子砲3門を一斉に煙の中に撃ち込む。雪羅から放たれたビームに手応えがあった。

 

 ――その調子です。今のあなたならあの敵に勝つことができる。見せてあげましょう。あなたの力を。

 

 また声が聞こえる。男の声は簪の不安を拭い去り、心地よく背を押してくれていた。よくわからないまま優しい人だと感じる。

 ……そうだ。私なら勝てる。私はもうお姉ちゃんを超えるのだ。お姉ちゃんって誰だっけ? 別にいい。本音をタスケルコトガデキルナラ。

 ミサイルが作り出した煙が晴れると、装甲が一切破壊されていない“敵”の姿があった。EN属性の攻撃を装甲のない部位で受けた可能性もある中、簪は自分にある知識から答えを引っ張り出す。“敵”は特殊な装甲を採用していてEN武器を透過、偏向して逸らすことで本体のダメージを抑えることができる。ただし、弱点は装甲であるのに物理的衝撃に滅法弱いということ。ミサイルは届かない。有効な選択肢は刀。簪は右手の物理ブレードを強く握りしめる。

 

 ――さあ、その刀で斬り拓きましょう! 簪ちゃんと友達の輝かしい未来を! 私も応援しています。頑張れ、簪ちゃん。

 

 いける。今日は邪魔が入らない。前のときのように一方的に攻撃もされていない。今、攻撃に向かえば“敵”を倒せる。優しい人の応援ももらった簪は追撃のためにイグニッションブーストを使用した。

 接近は一瞬。“敵”はもう簪の刀の間合いに入っていた。だがまだ刀は振らない。簪は左手の平を“敵”に向ける。

 “敵”は扇子で左手を打ち払おうとしてきた。荷電粒子砲の向きを変えるための行動であり、簪はそれを予期している。この攻撃は荷電粒子砲ではなく、爪から伸びるENブレードが本命。親指から伸びたENブレードが“敵”の右手の甲に直撃した。

 今の奇襲でも“敵”にはほとんどダメージはない。しかし予想外の事態さえ起こせれば簪の勝ちである。“敵”の右手は咄嗟に反応できない。だから簪は左手で“敵”の右手首を掴んだ。これで物理ブレードから身を守るための扇子は封じた。

 残りは仕上げ。離れることも受け流すこともできない“敵”に刀を打ち下ろせばいい。右手を振り上げる。“敵”の対応はないか観察したが何もない。これで終わりだと叩きつけるのみ。

 左肩にまともに入った。元々装甲の少ない“敵”に物理ブレードは多大なダメージを与えることができる。辛うじてあった装甲もこの一撃でガラス細工のように粉々に砕け散る。

 “敵”に動きがあった。右手の扇子が拡張領域に回収される。自由な左手に持ち直せばまた簪の攻撃は届かない。そうはさせない。先手を打ち、簪は刀で“敵”の左手を強打した。左手を破壊し、素手が露出する。これで手を使うIS用装備は使えない。

 勝利は見えた。簪は最後の攻撃のために右手を振り上げる。今度の狙いは頭部。ISVSにおいても相手に大ダメージを与えられるポイントである。セオリーに則った一撃を見舞おうと簪は“敵”の頭部を睨みつけた。

 

「なんで……笑ってるの……?」

 

 振り上げた手は行き場を失っていた。急激に握力を失った手から刀がこぼれ落ち、金属音と共に床を叩く。

 “敵”は簪に微笑みかけている。戦っている相手がする顔ではない。

 普通ならば不気味に感じるところだった。

 だが簪が感じたものは全くの別物。嬉しさと悲しさだった。

 混乱する簪に“敵”はなおも微笑みかけたまま。まるでそれが当たり前だと言わんばかりに答えた。

 

「簪ちゃんが最後に私の手を取ってくれたのって、もう10年近く前のことなんだって思い出しちゃった。ごめんね……手を離しちゃって、ごめんね……」

 

 簪は左手を離す。頭が痛い。両手で押さえても痛みが治まらない。

 目の前にいるのは何者だ?

 10年前が最後とは何だ?

 手を離したのは誰だ?

 泣きながらごめんと謝るのは誰だ?

 

 ――“敵”の罠です。落ち着いてください、簪ちゃん。

 

 男の声が聞こえる。今、頭が痛いのは敵の罠だという。

 罠、はわかる。では“敵”とは何だ? 本音を襲った銀髪の男以外にない。

 銀髪の男がここにいる? いない。

 目の前にいる人は? お姉ちゃん。

 お姉ちゃんって誰だっけ?

 

 頭が破裂しそうなほどの疑念と回答が脳内で錯綜する。

 何が正しくて何が間違っているのか、正常な判断が下せない。

 天井も床もどちらにあるのか定かではない。

 ぐるぐる回る。目が回る。思考が空回る。

 確かなものが不安定。安定とは何かもわからない。何をすればいいのか見当もつかない。

 男の声はまだ聞こえてくる。でももうノイズでしかない。

 精神が限界を迎えるまで時間の問題だった。

 

「大丈夫。大丈夫だから」

 

 ふわりと柔らかい何かが簪を包み込んだ。

 

 発狂寸前にまでなっていた簪の心は急速に落ち着いていく。

 すり切れそうになった心ごと包み込むように楯無が簪を抱きしめていた。

 簪は心地よい温かさに埋没していく。

 “お姉ちゃん”を思い出す。

 もう何年もこうして触れ合っていなかったことを思い出す。

 自分が今してしまったことを思い出した。

 

「どうして……? お姉ちゃんが私なんかに負けるはずない」

「お姉ちゃんはね、妹を傷つける力なんて持ち合わせてないの」

 

 漠然と敵に立ち向かっただけの簪が楯無に勝てるわけがない。それは本人が一番理解している。それでも簪の刀が楯無に届いたのは、楯無が妹を溺愛しすぎているからに他ならなかった。

 更識の当主としては間の抜けた答え。だからこそ、簪は更識楯無ではなく更識刀奈の真実を垣間見た。

 大好きだった姉は幼い頃と何ひとつ変わっていないのだと。

 

「ごめんなさい、お姉ちゃん……ごめんなさい」

「私にはもう謝らなくていい。迷惑をかけちゃった他の人には一緒に謝りにいこうね?」

 

 泣きじゃくる簪の頭を楯無はそっと撫でる。

 

「本音ちゃんのことも簪ちゃんだけの問題じゃない。絶対に私がなんとかしてみせるから」

「うん、ありがとう……お姉ちゃん」

 

 簪は次第に落ち着きを取り戻していく。

 ずっと話せていなかった。だからもう簪の知っている姉はどこにもいないのだと思いこんでいた。

 でもそれはとてつもなく小さな不安が成長して巨大化したもの。

 簪の心には常に姉の背中があったはずなのに忘れていた。

 10年前から簪のために戦い続けてくれている姉。

 性別など関係なく、“お姉ちゃん”は簪だけのヒーローだった。

 簪を攻撃して笑っていた“姉の顔をした敵”は他にいるのだと確信した。

 

 もう戦う理由はない。そもそも最初から戦う理由などなかった。戦うべき相手は銀髪の男だけであり、不気味な双眸は記憶に焼き付いている。その男を倒せば本音が帰ってくる。

 ここで簪は気づく。

 自分が知らないはずのことを知っている。

 なぜ敵を倒せば本音が帰ってくると言い切れるのか?

 推理ではなく確信。実際に同じ例があったということになるのだが、簪の記憶にはその例の詳細が存在しない。

 

「どうしたの?」

「……なんでもない」

 

 つながらない記憶に混乱している簪を楯無が心配するが正直に答えない。今の自分について上手く説明できる自信がなかった。

 今は知ることが肝心だと結論づける。これまでの人生で考えることだけは欠かさなかった簪としては自分自身で納得のいく答えを出したかった。

 早速、楯無に聞こうとした。久しぶりの会話に無粋な話しかできないことが残念だったが仕方がないと諦める。

 だが簪は質問できずに目を丸くする。楯無の顔が急変していた。鬼気迫る表情で楯無は簪の体を突き飛ばす。

 手を離してごめんと謝っていた楯無が簪を突き飛ばす。その理由に簪はすぐに思い至る。楯無にばかり気を取られていて、周囲に気を配っていなかったことに気がついた。

 

 赤黒い閃光が横切っていく。酸素を失った血のような奔流が簪の視界から楯無を奪い去る。空気は震え、全身を痺れさせる衝撃が吹き付けられると体は思うように動かない。

 

「お姉ちゃんっ!」

 

 口は動いた。右手も動く。楯無のいた場所へと手を伸ばす。

 レガシーの壁や床の一部をも削り取った赤黒い閃光が消えていく。左方から飛んできていたビーム攻撃であったことは理解していても、攻撃した相手よりもまずは自分を庇った姉のことが気になった。

 楯無は立っている。EN攻撃に強い特殊な装甲でも今の攻撃には耐えられず跡形もなくなっていた。ISと呼べる部分が何もなく、ISスーツのみ。体のあちこちは傷だらけで、傷口からは見覚えのある光の粒子が漏れ出ていた。

 簪は迷わず楯無に駆け寄る。

 今の楯無はISの戦闘不能を通り過ぎている。現実であったなら間違いなく死んでいる状態で本来は自動で帰還させられるはずであった。

 帰れない理由を簪は明確には把握していない。しかし経験から知っていることもある。これは本音のときと同じである、と。

 

「ごめん、お姉ちゃんはここまでだったみたい」

「やだよ、お姉ちゃん!」

 

 今、目の前で起きていることを受け入れられない。姉はヒーローそのものであって、負けるはずがない。本音と同じように、化け物にやられてしまうなんてことはあってはならないのだ。

 楯無の口元には笑みが浮かぶ。本音を自分自身の手で救い出すと意志を固めていた楯無だったが今の状況では適わない。このままでは簪に2度も辛い思いをさせてしまう。にもかかわらず、悲壮な顔は見せない。

 

「聞いて、簪ちゃん」

 

 楯無は消えゆく体を苦ともせずに見つめる。

 その眼差しに簪は泣くのを堪えて向き合った。

 楯無は伝える。まだ特大の希望が残されていることを。

 

「一夏くんを頼りなさい。彼は今の刀奈(わたし)に欠けている“ヤイバ”そのものだから」

 

 楯無が残した名前は以前にも聞いた名前だった。

 一夏。それが楯無になりきれていない刀奈に足りていないものを持っている存在だと楯無は言う。

 簪は全てを理解したわけではない。それでも、姉の残した希望を信じないわけにはいかなかった。

 

「わかった……一夏と一緒にお姉ちゃんを助ける」

 

 最後の声は楯無に届いたのだろうか。楯無の体は粒子に分解され、全てがある方向へと飛び去っていく。

 簪は目で追った。その先で粒子は光の玉を形作り、大男の右手に納まる。男が握りつぶすと光は男の中に取り込まれていった。

 簪は床に転がっている刀を拾い上げる。取り乱してはいない。恐怖に震えてもいない。やるべきことはハッキリとしている。まずは手にした刀の切っ先を男に突きつけることからだ。

 

「絶対に……許さない」

 

 殺気の塊をぶつける。これは宣戦布告。

 もう自分だけ逃げない。

 見逃してほしいだなどと思わない。

 戦わなければ良かったなどと後悔もしない。

 全身全霊を懸けて敵を討つ。

 でなければ自分を許せない。

 

「いい目をしている。奴の人形とは思えぬ良い魂だ。歓迎しようではないか!」

 

 銀髪の大男、ギドが両手を広げた。かかってこいという意思表示。

 簪は雪羅、春雷、山嵐の全砲門を開く。躊躇の一切ない全火器一斉射撃をギドにお見舞いする。

 まずは3本の荷電粒子砲がギドに迫る。ギドが右手を前に押し出すと前方に円形の赤黒い盾が出現した。簪の放ったEN射撃は全て表面で弾かれる。

 追撃のミサイルは正面以外からギドに襲いかかる。ギドは何もしない。マニュアル操作に切り替えて、どう敵の迎撃を避けるか思案していた簪の苦悩が無駄に終わり、呆気なく全弾がギドに命中した。

 

「……化け物」

 

 迎撃しなかったのではなく必要がなかった。ギドはミサイルの全てをその体で受けた。それでも簪の目にはダメージを与えられていると映っていない。

 

「小賢しい電子兵器がオレ様に通じるとでも思ったか? ISってのはそうじゃないだろう? わかりやすい力の世界だ。意志と意志のぶつかり合いが勝敗を分ける。オレ様を殺したいというお前の意志を存分にぶつけねば、このオレ様には届かない」

 

 ギドは右の脇腹付近で両手を合わせる。手の中には高エネルギーの球体が生まれて時間と共に膨れ上がっていく。

 簪はコンソールを呼び出した。回避できる規模の攻撃とは限らない。いざというときのサプライエネルギーを確保するために、不必要な装備をアンインストールする決断を下す。選択したのは春雷と山嵐の全て。非固定浮遊部位の全てを放棄し、全てを左手の雪羅に託す。

 赤黒い閃光が放たれる。ギドの両手から繰り出されたそれはマザーアースで到達できるレベルのENブラスター。並の攻撃では撃ち合ったところで一方的に負ける。

 簪は正面から受けるつもりなどなかった。正面に立たなければなんとでもなると思っていた。だが見通しが甘かった。回避先が読まれ、簪は自分から直撃コースに飛び込んでしまう。

 

「くっ!」

 

 単純な実力差により危機が迫る。簪に残された防御手段はただ1つ。雪羅のシールドモードで受け止める以外にはなかった。

 突き出した左手から光の円盤が広がる。雪羅の機能の1つであるENシールドは維持に必要なサプライエネルギーは莫大であるが強力な盾だ。

 盾にビームが衝突し、ストックエネルギーにもダメージが確認される。しかし元々は直撃すれば即死する規模の攻撃である。出力で負けていても全く耐えられないわけではないことが証明された。

 問題は敵の攻撃の持続時間。今はギリギリで耐えることができているが雪羅は限界を超えてのシールド展開に悲鳴を上げている。開発した簪は理解している。不動岩山と違い、防御専用として造られていない雪羅のシールドは現状のような使用は想定していない。

 抑え切れていない余波の一部が肩口を掠めていく。雪羅もところどころひびが入り始めた。シールドの全力展開をするにもサプライエネルギーの枯渇が近い。

 早く終われと祈る。簪はこの攻撃に屈するわけにはいかない。ここで目の前の敵を逃せば、本音どころか楯無も帰ってこない。

 だが無情にもサプライエネルギー切れが近づくだけ。敵の攻撃はまだ収まる気配がない。シールドの展開範囲が狭くなる。堰き止める壁がなくなった後、赤黒い荒波は簪の右手と両足に直撃する。急激なストックエネルギーの減少。もう耐えられない。万事休すだ。

 

「負けられない……」

 

 状況に反して簪の心は折れてなどいない。

 顔は前を向いている。

 その目は赤黒い光の奥にいる敵を睨み続けている。

 

「もう私のせいで大好きな人がいなくなるのは耐えられないのっ!」

 

 ずっと自分に力がないことが罪だと感じていた。

 しかし気づいた。本当に悪いのは無力さなどではない。

 前を向く意志。誰かを頼る勇気。それらを放棄して孤独に閉じこもったことこそが罪。

 もし本音がいればさっきまでの簪を許しはしないだろう。彼女ならばきっといつもののんびりした口調で叱ってくるに違いない。

 本音が目覚めなくなってから初めて本音が近くに居てくれる気がした。

 必ず取り戻してみせる。簪の心はその一心で埋まった。

 

「俺もだよ、簪さん」

 

 もうエネルギーが底をつく。そんな絶体絶命の状況下で簪の耳に男の声が届いた。頭の中に響いていた優しさを演じていたノイズとは違う。肉声で至近距離から聞こえてきていた。

 いつの間にか簪の左手には手が添えられている。白いISの手。自然と突然現れたISの顔に簪の視線が向けられる。

 また銀髪の男だった。見覚えはある。楯無が一夏と呼んでいた男。簪の朧気な記憶の中ではなぜか敵対していた。

 男は自分から死地に飛び込んできておいて簪に笑いかける。これまた姉と同じく敵に向ける顔ではない。この男もまた攻撃してきた簪ではなく、“敵”だけを睨み続けている。姉と同じ。

 簪は悟った。この男が楯無に欠けている刃そのもの――一夏なのだと。

 

「一緒にあいつを倒そう。何もかもを取り戻すために。君の力を貸してくれ」

 

 敵を倒せという点ではノイズと同じ。しかし、一夏の言葉にはノイズと決定的に違うところがある。

 一夏は『頑張れ』と簪をひとりで行かせるようなことはしない。簪の意志をも汲み取り、力を貸して欲しいと頼ってきた。

 楯無の残した言葉を思い出す。一夏を頼れと言っていた。今の簪は自分がやらなければという使命感に溢れていたが、一人だけでだなどとは微塵も思っていない。

 何を利用してでも生き残る。敵を倒す。そうして、自分の未来を掴もうと前進することこそが今の簪に必要なもの。

 

「ありがとう……私に力を貸して、一夏くん」

 

 簪は一夏を受け入れた。

 瞬間、サプライエネルギーが無限に供給され、雪羅の盾は最大出力に戻る。雪羅自身への負荷も極端に減っていた。自分の開発した装備とは思えないほどの性能を発揮し始め、逆に戸惑う。

 簪の左手に手を添えている一夏が呟く。

 

「大丈夫。今の俺たちは誰にも負けない。それが証明されているだけだよ」

 

 簪には勝利を確信している一夏の感情がダイレクトに伝わってきていた。簪自身も絶対に何とかなると感じている。もう負ける気はしなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 箒が戦っていた敵はまだトリガミの外には出ていなかった。そう判断した理由は単純。白式がトリガミ内部で大規模のエネルギーを感知したからだ。

 俺がこのゲートホールにまでやってきた理由はそれだけじゃない。敵を追っている途中で楯無さんからの通信が入ってきたからだった。

 ――一夏くんを頼りなさい。

 俺ではない誰かに伝えている内容。その相手の名前は簪だとも俺には聞こえてきた。簪とは楯無さんが言っていた妹の名前で、偽楯無の正体だったはず。良かった。無事、妹さんと仲直りできたんだ。

 だけど良いことづくめじゃない。直後に楯無さんの反応が消えたとラピスからの連絡が入った。高エネルギー反応と照らし合わせると楯無さんがIllと遭遇し、そのまま敗北した可能性が高い。

 再び高エネルギー反応。規模はさっきと同じ。楯無さんがいなくなった直後ということは、その対象はひとりしかいなかった。

 ゲートホールに到着する。入った途端に俺の視界は赤黒い閃光で埋められた。大規模なENブラスターが放たれており、その渦中に1機のISがいるのがわかる。左手の変わった装備を見やれば彼女が俺を襲ってきていた偽楯無であることは一目瞭然だった。

 偽楯無であった簪はIllの攻撃を受けている。俺にできることは何かを考えるまでもなく、体が自然と動く。

 

「一緒にあいつを倒そう。何もかもを取り戻すために。君の力を貸してくれ」

 

 簪の左手に俺の手も添える。俺の力も重なれと頭で思い描く。他のISにエネルギーを送ること自体は有線でコア同士をつなぐことで可能であるらしいが今はそんな技術も暇もない。そもそもそのような手順など無くとも、俺にはそのための力があった。

 Illを倒して大切な人を取り戻す。俺は箒を。簪は楯無さんを。その1点で俺たちは想いを共有できた。だから可能なはず。

 

 クロッシング・アクセス。

 今、俺と簪はつながった。共鳴無極によりサプライエネルギーを共有し、箒の絢爛舞踏によって無制限に使えるようになる。この恩恵は簪の機体にも表れた。

 簪の雪羅による防御は敵の攻撃を耐えきった。雪羅はあちこちが損傷しており、同じことができる状態ではない。それでも生き残ったことに意味がある。

 

「大丈夫、簪さん?」

「うん……」

 

 返事こそ肯定しているが、状況が良くないことは丸わかりだ。

 ストックエネルギーは残り30%。残っている装備も雪羅のみで、その雪羅も損傷しているためパフォーマンスは低下している。

 他にも気になるところがある。機体ではなく簪本人の方だ。今まで箒、ラピス、バレットとクロッシング・アクセスしてきた経験があるから言えることだが、簪の最近の記憶の中には虫食いみたいに黒く塗りつぶされている箇所があって普通じゃない。怪しいというわけではなく、心配するべき状態と俺は見ている。

 俺は簪よりも前に進み出る。簪に力は貸してもらうとは言ったが今の状況では俺が矢面に立つ方が良さそうだった。

 

「もう1匹いたのか。何者か知らぬがオレ様を楽しませてくれるのだろうな?」

 

 筋骨隆々とした大男が尊大な態度で俺を見下してくる。一目でわかった。こいつこそがシズネさんをさらい、箒を追いつめ、シャルと楯無さんを喰らったIllなのだと。

 俺は雪片弐型を大男に向ける。箒から聞いた奴の特徴ならば、応じるはず。

 

「俺の名前はヤイバ。イルミナントを倒した男だ」

 

 イルミナントの名前を出した途端に終始笑っていた大男の表情が真顔になった。それも一瞬のことで、また人を小馬鹿にしたようなにやけ面を見せつけてくる。

 

「ハッハッハッハ! つくづくオレ様はついてる。お前が織斑一夏か」

 

 敵からは俺にとって予想外の一言があった。昼の防衛戦でエアハルトはずっと俺をヤイバとしか呼んでなかった。なのに、もう俺の正体にまで辿り着いてるというのか?

 

「名乗られては仕方がない。オレ様はギド・イリーガル。真の強者との戦いを望むものだ」

 

 少し想定から外れた情報もあったが、予想通り敵は俺に名乗り返してきた。シズネさんをさらっていても人質として有効活用しようとしているとは俺には思えなかった。戦闘に形だけでも正々堂々を求めているのだと俺は推測を立てている。敵が向かってくるための寄せ餌が欲しかったという話は本当のことだろう。

 アドルフィーネのように命令されて動いてるようには見えず、目的は強敵と戦うことだと今も言ってのけた。アドルフィーネと違って戦闘経験は豊富そうであり、純粋な戦闘では分が悪いかもしれない。

 敵は戦闘狂の類ではある。しかし非情な手段を用いる割にはどこか正当性を持とうとしていて、力と力の衝突を好んでいる。突くのならばこの点だろう。

 

「俺が織斑一夏って誰に聞いたんだ?」

「そのようなことはどうでもよいだろう? これからオレ様と戦う上で必要なこととは思えん」

 

 情報を得られるかと思ったが難しいようだ。エアハルトの情報源になっているかもしれない敵のことを知りたかったのだが流石に虫が良すぎるということなのだろう。

 ギドは黒と金の目を俺に向けてくる。獲物を見る目だ。俺は狩られるのはお前の方だと睨み返す。もう言葉はいらない。

 

 イグニッションブースト。

 

 同時に加速し、ENブレードがぶつかり合う。

 雪片弐型の白い刀身とギドの赤黒い爪は拮抗していた。

 

「この反応。このパワー。お前は合格だ!」

「手加減はいらねえ。その右手は飾りじゃないんだろ?」

 

 この戦いを楽しんでいるギドに俺は指摘してやる。雪片弐型と拮抗しているのはギドの左手だけだ。右手も同じ装備をつけているのならば、動きの止まっている俺に攻撃すればいい。攻撃しないのは俺を舐めているからに他ならない。

 

「いいだろう。これで終わるんじゃないぞ!」

 

 ギドの右手にも左手と同等のENクローが展開される。無防備な俺に突き立てられれば確かにマズい。でも、俺にはちゃんと対策があった。

 

(簪さん、雪羅を借りるよ)

(うん……でもあちこち壊れてる)

(任せろ。紅椿ならば壊れた部品の代用ができる)

 

 今の俺の脳内会議相手は簪だけじゃない。箒も俺たちと一緒に戦ってくれている。

 武器選択、雪羅。俺の左手全体が光に包まれ、簪についていたゴツい左腕が俺へと移る。全く同じものではない。ところどころに紅のパーツが入り交じったつぎはぎの雪羅である。それでも、何も問題はない。

 ギドの爪が迫る。対する俺の行動は当然、雪羅のENクローでの迎撃。ENクロー同士で干渉し合い、互角なパワーによってまたもや拮抗する。

 

「オレ様の両手が押さえられたか。初めての経験だ」

「どうした? 井の中の蛙だったりしたのか?」

「そうならばオレ様は苦悩したりしない。お前という人間に会えたことに喜びを感じているだけだ」

「こっちとしては嬉しくないな」

「そのはずだ。オレ様がお前を楽しませる理由などない」

 

 来ると認識できた。ギドは塞がった両手の代わりに足を振り上げてくる。俺は即座に飛び退いて蹴りを交わしつつ、雪片弐型を雨月に持ち替えて射撃を放った。計8つの光の突きはギドの右手から出された盾によって無効化されて終わる。

 結果は距離が開いただけ。敵の盾は小規模なEN射撃は弾くのではなく呑み込んでしまっているように見える。おそらくは箒の言っていたエネルギー吸収能力によるもの。ENブレードで打ち合えているのは一定以上の出力は吸いきれないからだろう。

 

 今の俺に使える武器を確認する。

 雪片弐型、雨月、空裂、雪羅。他は使用不能になっているためこの4つしかない。全部が手を必要とする装備であるため、実質的に俺の手数は2つまで。簪に雨月で援護してもらおうかとも考えたが、どうやら箒の装備を簪に渡すことはできないらしい。あくまで俺が使えて、俺の装備を渡せるだけであるようだ。

 一番気になっているのはストックエネルギー。ギドとの戦いを始めた時点では俺にダメージはなかったはずだった。しかし、今の攻防だけでストックエネルギーが3%減ってしまっている。触れただけでエネルギーを奪うという能力はENブレード同士で鍔迫り合っても発生している。ならば長期戦は不利。

 

 俺から仕掛ける。牽制として雪羅の荷電粒子砲を放つ。ギドは避けようとはせずに右手から出した盾で防いだ。雨月のときとは違い、吸収されることはなかったが簡単に弾かれてしまう。

 続けて右手の雨月を空裂に持ち替えてEN属性の斬撃を飛ばす。これもギドは右手の盾で防ごうとするだけだった。俺の思惑通りに。

 

「遅いだと?」

 

 俺ができる芸当ではなかったが空裂という武器は飛ばす斬撃の速度を変えられる。箒の知識によるとラピスの偏向射撃と同じことをしているのだそうだ。おそらくラピスが空裂を使ったら曲がる斬撃とかができるのだろう。

 ギドは遅い斬撃に対して防御態勢に入っている。その間に俺はもう次の行動に移っていた。イグニッションブーストでギドの背中方面へと回り込み、左手に持った雨月で再び突きによる光弾を放つ。

 90°違う2方向からの同時攻撃。ラピスならば一瞬でできることだが今の俺にはこれが精一杯だった。ギドは向きを変えて右手で雨月を、左手で空裂を盾で防ごうとする。当然、それで俺の攻撃は全て受け止められることだろう。

 だがギドは背を向けた。俺ではなく、簪にな。

 

「これで……どう」

 

 俺の包囲攻撃の最後の1手は俺でなく簪。使用する武器は雪片弐型。

 正眼に構えた簪はギドの無防備な背中へと光の刃を突き立てる。ギドの胸から刀身が伸びてくることはない。流石にこの一撃で倒せることはないか。

 

(簪さん、下がって)

(わかってる……)

 

 反撃が怖いために簪は距離をとる。だが素直に逃げられると思ったのは甘かった。

 

「簪さん!」

 

 逃げようとした簪にギドの裏拳が叩き込まれた。簪は吹き飛ばされて床に何度も体を打ち付けながら転がっていく。

 即座にストックエネルギーを確認する。俺のストックエネルギーは残り50%を切っていた。これは共鳴無極の弊害と呼べるもの。俺自身が無傷でもクロッシング・アクセスをしている相手が攻撃をくらえばやられてしまう。

 幸いなことにギドは共鳴無極のカラクリには気づいていない。奴は倒れている簪には目もくれず俺に向き直った。ギドの性格を考えれば共鳴無極を知っていても同じことをしたような気もするがな。

 

「なるほど、油断をしていた。BT兵器を使わずに包囲攻撃をしてくるとはつくづくお前は面白い。オレ様にENブレードを当てるとは賞賛に値する」

 

 ギドは雪片弐型で貫かれてもピンピンしていた。IllもISと同じくストックエネルギーを使って絶対防御を発動しているはずだから当然といえば当然のこと。しかし妙だ。元気すぎる。

 俺がギドに訝しげな視線を送っているとギドは俺の考えていることを察したらしい。ピンポイントに俺に絶望を放り込んでくる。

 

「オレ様がどうして余裕でいられるのか疑問か? では教えてやろう。オレ様にはエネルギーを奪い取る力がある」

「それは知ってる」

「ナナにでも聞いたか。また捕らえなくてはな。しかし、お前は本当に理解しているのか? オレ様は“奪い取る”のだと言っている」

 

 そういうことか。

 イルミナントの光の翼のような固い盾は盾さえ壊せばどうにかなった。

 ギドはイルミナントと比べれば防御能力は低い。工夫を凝らせば攻撃を当てることはできるしダメージも与えられる。だが、ギドは攻撃をくらったとしても減少したストックエネルギーを瞬時に回復する術を持っている。簪を吹き飛ばした一撃でストックエネルギーを奪い取って全快したと言いたいのだろう。

 数で押せばどうにかなるということはない。的が多い場合、ギドに体力を与える餌にしかならない。かといって少数で挑む場合はギド本体のパワーで押し負ける。ギドに勝つにはただの一度も攻撃をもらわずに雪片弐型で一方的に斬り続けなければならない。そんなの無理に決まってる。

 

 どう勝てばいい? 共鳴無極で箒と簪の力を借りていてもまるで意味を成していない。装備とエネルギーがどれだけあっても純粋な強者であるギドには届きそうもなかった。

 今のような奇策はもう通じないとみていい。あとできることは被弾覚悟の特攻くらいしかないのだが、被弾を許した時点でギドには回復されてしまう。残されたストックエネルギーを削りきられればそれで終わりだった。

 勝てない。いや、負けないことすら難しい。こんな化け物相手にどう戦えって言うんだ!?

 

(落ち着け、一夏)

(わかってる!)

(わかっていないから落ち着けと言っている)

 

 箒の声が頭に聞こえてくる。ああ、早くゆっくり話したいという雑念が混じりそうになるが堪えた。俺がすべきことはギドを倒すこと。でないと箒は俺とまともに話してくれないのだと俺自身を追い込む。

 

(よし、落ち着いた。でもマジでどうしようもない。イルミナントのときは時間が上手く稼げたりアカルギが近くにあったりでなんとかなったけど、今回の俺たちは完全に孤立してる。何も手だてが思いつかないんだ)

(では諦めるのか? もし一夏がIllに負けるようなことがあれば、私もシズネも死ぬこととなる)

 

 そんなことはわかってる。俺はそれだけは絶対に避けたい。でも、逃げようと言ったところで誰も納得できない。俺だって納得できない。ここでギドに背を向けていたら、いつまで経っても奪われた人たちが帰ってこないことを認めてしまう。そんな気がした。

 

(一夏くん……私もまだ動ける)

 

 簪からも声が送られてくる。ストックエネルギーは俺のものを使ったため絶対防御しきれていたのだ。簪は動ける。だから何ができるのか、俺には思いつかない。

 

(一夏に思いつかないのならば本人に聞けば良いのではないか?)

(私にできること……? ISの技量は一夏くんに劣るけど、技術屋だから知識はあるよ)

(その知識はある程度共有できてるんだよ)

 

 簪に反論するが本当にある程度といったレベルだった。事実、簪に言われるまで簪が技術屋だということに思い至らなかった。

 技術屋ということは彩華さんと同程度のことはできると思って良さそうだ。本人も技術屋としては自分に自信を持っていることが伝わってくる。かといって技術屋がISVSの戦場でできることはほとんどない。唯一戦場で活躍したと言えるのはイルミナント戦のときに彩華さんがゲートジャマーを設置したことだけ。

 

 ……ゲートジャマーを設置? ゲート?

 あ! その手があった!

 

(何か見つかったようだな?)

(その通りだ、箒。そこで、簪さんに頼みがあるんだけど――)

 

 作戦の要を確認する。俺にはさっぱりわからない分野のことなので可能かどうかは簪次第である。

 

(問題ない……すぐに仕上げる)

(タイミングが鍵だからな。奴に気づかれたら失敗する)

(大丈夫。上手くやる)

 

 簪は問題ないと言った。ならばあとは信じるだけ。俺は簪の作業が終えるまでギドの攻撃に耐えなければならない。

 

「オレ様の言葉だけで戦意喪失するのではないかと冷や冷やしたが杞憂で何よりだ。オレ様の力を知りつつも抗おうとするその目、気に入ったぞ」

「俺としては1秒だってお前と対峙したくなんてないんだけどな」

「オレ様はお前の都合など知らん」

「そんなことはわかってるよ」

 

 戦闘が再開される。俺の装備は雪片弐型と雪羅。最初のやりとりのときのように両手を押さえにかかるつもりだ。ギドも両手にクローを展開している。奴は格闘戦をお望みらしい。俺は奴の思惑通りに動いてやることにする。

 ギドの両爪が襲いかかってくる。俺は正面から雪片弐型と雪羅で迎え撃つ。

 パワーは互角。絢爛舞踏のおかげで出力負けはしていない。

 

「良き力だ。オレ様の吸収を受けてもなお抗うだけの力が残っている」

「説明してくれなくてもわかってるよ。お前がパワー負けしないのも吸収能力とやらのおかげなんだろう?」

「それがわかっていてオレ様と鍔迫り合うか、織斑一夏! 中々の愚行だがオレ様は嫌いではないぞ」

 

 ギドの目にも俺の行動は愚かに映っているようだ。それもそのはずで鍔迫り合いを始めてからストックエネルギーが徐々に減っていく。こうして接触する時間が増えるほど、俺がギドに勝つ目がなくなっていくことになる。

 しかしこれは逆に言えば一撃でやられないということにつながる。逃げ回って時間を稼ぐよりも確実な選択肢だ。あとはこのまま簪の準備が終わるまで打ち合えばいい。

 

「何を狙っているのかは知らんが、その策ごとねじ伏せてやろう」

 

 ギドは嬉々として俺に加えてくる圧力を増してくる。奴は通常のIllの持っているポテンシャルに加えて、絢爛舞踏を発動しているこちらのエネルギーをも己の力としている。やはり力比べでは分が悪い。

 足癖の悪いギドは組み合ったままの体勢でも俺に蹴りを入れようとしてきた。無理な体勢からの蹴りであるためリーチはない。最初と同じく飛び退いて蹴りの範囲から抜け出る。だがこの後の展開まで先ほどと同じというわけにはいかなかった。

 追ってきた。よく考えなくても当たり前のことだ。俺と違ってギドには距離を置く意味がない。ギドは徐々に俺を攻撃する頻度が増えてきている。時間とともに手加減をしなくなってきているということだろう。

 右の爪が襲いかかってくる。スピードは若干ギドの方が上。避けきれるものではないため、仕方なく雪羅で迎え撃つ。爪同士が合わさると干渉して互いに動きが止まる。続く左手の攻撃も雪片弐型で受けるつもりだった。

 しかしギドの左手に爪はない。手の平の上には赤黒い光の球体があった。箒と簪の経験から奴が射撃をしようとしているのだと察する。雪片弐型ではENブレードよりも防ぎにくい。

 

(1基だけだが修復が終わった! 使え!)

 

 このタイミングで紅椿の非固定浮遊部位である囲衣が1つだけ使用可能まで回復した。俺は即座に右手の傍に呼び出し、囲衣のENシールドモードを起動する。

 ギドの左手からビームが放たれる。その規模は両手を使ったものに比べて小さく、1つだけの囲衣でどうにかなった。

 

「その装備、見覚えがある。それに左手の装備は人形が使っていたものと同じ。なるほど、お前の力が何か理解したぞ」

「ああ、俺の力は他のISと装備を共有することだ」

「ほう。自分から情報を開示するか」

「お前と一緒だ」

 

 何も一緒ではないが誤魔化しておく。気づかれたらマズいのはエネルギーを共有しているという点。それ以外の情報は知られても問題ない。

 だが別の問題がそろそろ差し迫っている。ストックエネルギーが残り20%ほど。もう攻撃を受けるのも限界だった。あまりにも減りすぎていると最後の詰めで失敗する可能性が出てくる。

 

(一夏くん……いつでもいける)

 

 簪から準備完了の報告が上がる。俺は雪片弐型でギドの右手を斬りつけることでギドの間合いから離脱し、今いるゲートホールの中心へと飛ぶ。

 ギドは俺を追ってくる。それでいい。ここで俺を追わなければ俺を逃がすかもしれない。戦いたいだけのお前は俺を追いかけてくるしか道はない。

 俺は巨大リングの正面に陣取った。ここがギドとの決着をつけるための最後の戦場。俺たちに唯一勝ち目の存在する場所だ。俺がここを選んだ理由を察しているのならば奴は近寄ってこないはず。だが奴は俺の正面にまでノコノコとやってきていた。

 

「どうした? 離れたのならば遠距離攻撃でも仕掛ければいいだろう? それとも準備が間に合わなかったか? まあ、いい。何をするつもりか、じっくり見させてもらおう」

 

 俺が攻撃を仕掛けるのを待つつもりか。もう時間を稼ぐ必要がないから待たれても逆に困る。最後はギドに自分から飛び込んでもらうつもりだ。

 雪片弐型のブレードを消す。雪羅もENクローも消す。その上で左手でこっちに来るよう手で煽る。俺は接近戦を所望しているのだと挑発する。

 

「来いよ、ギド。遊んでやる」

「オレ様に仕掛けてこいと言ったのはお前が初めてだ。いいだろう。オレ様の全身全霊をその身で受けるがいい!」

 

 ギドの全身が赤黒いオーラのようなものに包まれる。一目でヤバい攻撃が来ることはわかる。だが飛び道具でなければ何でも良かった。

 赤黒いオーラはギドの右手に集まっていく。手は拳を形作り、右手を後ろに引いていた。

 俺は左手を見つめる。紅のパーツが混ざった雪羅は今の俺たちにできることを合わせた象徴ともいえる。この最後の攻防に懸けるに惜しくない装備だ。

 俺はやり遂げてみせる。ここでこの男に勝つんだ。

 

「砕け散れ」

 

 ギドが動く。右手とともに下げていた右足から前に出る。イグニッションブーストも使用してぐんぐんと俺に近づいてきた。

 俺はただひたすらにギドを観察した。まだ決定的にはなっていない。奴にとって取り返しがつかなくなるまで、俺はギドの攻撃を受ける気でいなければならない。

 腰が回り始める。ギドの最高の一撃は拳による右ストレート。武器らしい武器ではないからと侮ってはいけない。推定だがエアハルトのリンドブルムが霞むレベルの威力があるだろう。

 ギドの右手が体よりも前に出た。俺に当たるまでもう1秒もない。俺は雪羅のENシールドを展開して、ここに当てろとギドを誘う。奴が力比べに応じないはずがない。

 

(今だ、簪さん!)

(ゲート起動!)

 

 合図を送った瞬間に俺の背後のリングの内部に光が灯った。俺たちプレイヤーがよく利用している転送ゲート。このトリガミもレガシーであるため転送ゲートはデフォルトで設置されている。機能停止させられていた転送ゲートを簪に頼んで復旧してもらっていたわけだ。

 ギドはゲートの変化を目にしても怯まない。赤黒いオーラの塊と化した右拳を雪羅のENシールドに叩きつけてきた。

 

 ……雪羅の中に俺の左腕が入っていないことに気づかずにな。

 

 ただの抜け殻と化した雪羅はギドの一撃を受けて粉々に吹き飛ぶ。そうした中でも俺は行動の自由を失っていない。

 俺は前に出た。俺たちがギドに勝てるのはこの一瞬だけ。全力で攻撃した直後のギドはすぐには止まれないと踏んでいた俺はギドの懐に入り込んで右腕を左手で掴み取る。勢いを殺さず、俺の力をさらに上乗せ。ギドの右腕を後ろに引きつつ、俺の右手はギドの腹に当てて体を上へと押し上げる。ギドは俺の頭上を飛び越える形で俺と位置が入れ替わった。

 

「オレ様を投げる? それに何の意味が――」

 

 IS戦闘において投げ技はほとんど意味がない。投げられるのならば攻撃した方が早いに決まっているからだ。だが通常の攻撃ではじり貧で、投げならば必殺である状況があれば話は別。

 それに俺には最後まで投げ飛ばすつもりなどない。左手はギドの右腕を掴んだまま。ギドの背後にゲートが見えたところで、俺はイグニッションブーストで前に突き進む。

 

「オレ様をゲートに押し込む気か!? そうはさせん!」

 

 ギドの左手が俺を切り裂こうとしてくる。だがもう遅い。先に俺の右手はギドの肘を掴める。これにより俺を倒すほどの一撃は加えられない。

 しきりにギドのAICが使用される。俺たちの移動を食い止めようとしている。だがここまで来て勝負を譲るわけにはいかない。イナーシャルコントロールという土俵の上において、ギドと俺に大差はない。ギドの止まろうとする意志を俺の進む意志でねじ伏せる。

 俺たちの手で勝利を掴む。箒、簪の2人の意思も同調して突き進む。

 そして、ついに俺とギドは転送ゲートへと飛び込んだ。

 

「く、ぐ、があああああああああ!」

「連れてってやるよ、ギド。俺が地獄への水先案内人になってやる」

 

 転送開始。俺にとっては慣れたものであり、ギドにとっては悲鳴を上げるほどの苦痛を伴うもの。

 クーは言っていた。プレイヤーでないものは転送ゲートを使用してはいけないと。もしプレイヤー以外が使用すれば精神が崩壊するのだと。元々はナナやシズネさんへの注意喚起である情報だった。そして、アドルフィーネの死亡から鑑みてギドもナナたちと同じ条件であると考えられた。

 推論は的中。転送が始まった途端にギドは苦しみだし、俺のことなど視界に入ってなさそうだ。吸収能力も作用していなく、俺のストックエネルギーは5%を切ったところで減少が止まっていた。

 

 俺とギドの体が消える。ギドの断末魔を思わせる叫びを聞きながら俺たちが飛ぶ先は海の上だ。トリガミから100km以上離れた海には小さな島すら見当たらない。まだ月と星が夜空に輝く中、俺たちは光に包まれながら現れることとなった。

 ギドはその太い腕に力が入っておらずだらりと下げている。浮遊することすらできていなく、今は俺の手がギドの体を支えているだけとなっていた。

 

「織……斑」

 

 なんて奴だ。クーは精神が崩壊すると言っていたが、ギドは俺を見据えて名前を呼んでくる。目にも声にも覇気がないとはいえ、俺を織斑一夏だとまだ認識できている。まだ終わってないことを暗に告げていた。

 俺としてもこれで終わりだなんて思っていない。転送ゲートでギド自身に深刻なダメージを与えられたがIll自体は全くの無傷。俺はIllを含めてギドを倒すためにここにやってきた。

 アカルギが待機している海域へ。

 

「ラピスっ!」

『準備はできておりますわ。いつでもどうぞ』

 

 俺は何も作戦を伝えていないラピスの名前を呼ぶ。彼女ならば俺の意図を察して俺たちの所有する最高威力の武器を準備してくれると踏んでいた。彼女は当然のように応えてくれる。もう準備を終えているのは早すぎるだろとも思うが、仕事の早さに感謝しておく。

 最後だ。俺はギドを突き放す。Illを操作できないギドは重力に捕まって暗い海へと落ちていくのみ。

 

「これがお前の欲しがっていた、お前に抗う者の力だ。存分に受け取ってくれ」

「織斑……一夏ァ!」

 

 手足が動かないまま、黒と金の眼光は俺を向いている。憎悪を込めて吼えてきた声には覇気が戻りつつあった。だが勝敗は決した。俺をどう脅したところで何も意味はない。

 ギドが落ちていく先にはアカルギの主砲(アケヨイ)の照準が向いている。シズネさんがトリガミにいる今、ラピスがアカルギの指揮を執っているはずだった。ほぼ固定標的と変わらないギドを外すことは万にひとつもあり得ない。

 闇夜を照らす極大の光が空へと昇る。俺が見守る中、過去最強の化け物は光の真っ只中で徐々にその体を崩壊させていく。ギドの顔はアドルフィーネと違って笑うことはなく、憎悪のみを浮かべて光に呑み込まれていった。

 空に闇が戻るとき、飛んでいる影は俺以外に存在していない。

 ギド・イリーガルの姿は欠片もなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 時は少しだけ遡る。トリガミ周辺に残っているプレイヤーはわずかとなっていたが敵の防衛用マザーアース“ヤマタノオロチ”は全ての首と尾を破壊されて完全に沈黙していた。オロチの破壊を確認したリベレーター隊はトリガミ内部への侵攻を開始。敵残存戦力であるベルグフォルグは彼らを追ってトリガミへと入っていく。

 戦闘は終結が近づいていた。トリガミの上空を飛んでいる機体はもう西の空にしかない。アクア・クリスタルを扱うIll、シビル・イリシットと彼女と戦っているラウラ。そして、援軍にかけつけたバレットとアイだけ。ジョーメイは既にシビルによって撃墜されていた。

 ラウラが接近戦を仕掛けるのも数えるのが面倒な回数になっている。遠距離戦を避けたいラウラと近距離戦を避けたいシビルの攻防は常に相手に有利な間合いにしないことが念頭に置かれていた。ラウラの手刀はシビルの蛇腹剣に受け流され、体が泳いだ隙に逃げられてしまう。

 即座に追いかけることができず、ラウラは左目を押さえた。自らが設けた限界時間はとっくに過ぎていて、脳が悲鳴を上げている。それでもラウラは左目の使用を続けなければならない。この左目を頼らなければ、シビルのアクア・クリスタルを完全に見切ることは不可能だった。

 

「その目……シビルたちよりもよく見えてるみたいだけど、負担が大きすぎるみたいじゃん。やっぱ失敗作なんだねー」

 

 ラウラの消耗は一目瞭然。シビルがこの弱点を突かないはずがなかった。シビルは積極的にアクア・クリスタルをラウラに張り付かせようとする。ラウラはそれら1つ1つにAICを適用して食い止めなければならない。

 

「いつまで保つかなー?」

 

 嗜虐的な笑みを浮かべるシビル。倒せるまで同じ攻撃を繰り返せば相手が勝手に自滅するとわかれば倒れるまで踊ってもらえばいい。あとは遊びで終わる。

 だがそれは油断。シビルはラウラの他にも敵がいることを把握こそしていたがラウラ以外を強敵と見なしていなかった。ラウラさえ倒せれば残るのは有象無象だと見下していた。それこそが目立たないことを武器とする更識の忍びの思惑だとも知らず。

 

「へ……嘘でしょ!?」

 

 アイによってシビルの背中が十字に斬りつけられた。

 気を緩めたのは事実。しかし、シビルが気づくことなく接近している敵の存在を信じられなかった。BT使いであるシビルはナノマシンを散布することで周囲の敵の位置を常に把握している。その目をもかいくぐってくるブレード使いがいる。まるでテレポートしたきたようにも錯覚していた。

 

「ウザいっ!」

 

 奇襲を受けたことでシビルの声色から余裕が消える。背後を取られてもそこはシビルにとって死角ではない。むしろ4本のBTソードの中心であるため相手にとっての死地である。

 4本の大剣が賊を討とうと殺到する。離脱が間に合わなかったアイは1本の直撃を受けてしまう。

 

「これでとどめ!」

 

 残りの3本を一斉にアイへと向けた。しかしまたもや本体の守りが疎かになっている。アイを攻撃しているとき、ラウラにも注意を割いていたシビルだったが他にはやはり目がいっていない。

 バレットのマシンガンが高い精度でシビルの顔に当てられる。シビルから集中力を奪うには十分な攻撃であり、アイに向けられたBTソードは攻撃を中止してシビルの背中に戻った。バレットは引き際を誤らず、アイとともにシビルから距離を取る。

 

「大丈夫ですか、アイさん」

「ダメージが危険域です。これでは割に合いませんね」

「俺が時間を稼ぐんで、今は回復専念で頼みます」

 

 ラウラが混ざっているとはいえ、シビルはたった3機のISを落としきれずにいる。Illの第4位としては不甲斐ない戦闘だと言えた。敬愛するエアハルトに失望されたくないという焦燥から苛々が募っていく。

 だがその焦りは想定外の事態によって掻き消えた。

 ISとは別に存在している、Illを使用する遺伝子強化素体だけのネットワーク(つながり)ギド・イリーガル(最強のIll)の消滅を伝えてきた。

 

「嘘……でしょ……ギドが負けちゃった……?」

 

 シビルは自分に群がっているプレイヤーの全てがどうでもよくなった。

 この戦いでオロチが壊れようがベルグフォルグが殲滅されようが勝利は揺るがないと信じていた。エアハルトがいなくとも、負けはあり得ないとシビルは確信していた。それはギド・イリーガルの存在があったからに他ならない。

 自軍の柱が敗れた。ギドを倒すほどの者が敵にいる。“それ”がこの場にやってきてしまえば、シビルは無駄死にすることとなる。ISとの戦闘において、初めて恐怖を覚えた。

 

「待て!」

 

 ラウラが追い縋ろうと手を伸ばすが実際に追うことはできていない。バレットもアイもシビルを追える状態にない。そのような簡単な状況分析もすることなく、シビルはがむしゃらに戦場を離脱した。

 

 

***

 

 

 シビルが飛んでいった先には1機のISが確認された。装甲をつけていないスーツ姿のアバターそのままであるサングラスの男、平石ハバヤである。シビルが味方の姿を確認して近寄っていくとハバヤの苛立ち混じりの独り言が聞こえてきた。

 

「クソが! 人形を使ってまであのムカつく小娘を喰らわせてやったってのになんで負けてんだぁ? 全部無駄じゃねえか! 最強のIllが聞いて呆れる!」

 

 シビルにはハバヤの言っている内容の半分も理解できなかった。ひとつだけわかったことは彼がギドを侮辱しているということだけである。

 

「今のハバヤ、きらーい」

 

 シビルはそう言ってハバヤに近づいていった。ハバヤに抗議の目を向けてはいるものの、ギドがやられた瞬間のパニックから立ち直っているのはハバヤという信頼を寄せている男が傍にいるからである。もっとも、シビル本人はそのことに気づいていない。

 

「……これは少し取り乱しました。ギドの敗北は過ぎたこと。大切なのはこれから我々が何をするか。そうですよね?」

 

 シビルが声をかけるとハバヤは急激に冷静さを取り戻す。ギドが倒されたことは事実。それで終わりではないと告げるハバヤにシビルは同調する。

 

「うん! ギドが弱かった。ただそれだけのことだよね。ハバヤはハバヤの、シビルはシビルの強さを示せばいいんだよ!」

 

 ギドは弱かった。シビルがそう言ってしまっているのは心の安定のためだろうか。現実に体を持たぬ者のどこに心が存在するのかはわからないが、シビルが恐怖と安堵を感じていたことだけは事実である。

 

「少し面白そうなネタもありますし……シビルちゃん、博士にはナイショでお兄さんのお手伝いをする気はないかな?」

「えー、ハバヤを食べたくなーい」

 

 これからについてハバヤから誘いがあったがシビルは即座に断る。彼女にとってエアハルトからの命令が第一であった。

 

「残念、振られちゃいました。別にいいですけどね」

 

 ハバヤは誘いを断られてもさして気にする風でもなかった。ギドに怒りを向けていた人間とはまるで別人のように肩をすくめるに留める。

 

「では私は私なりにアプローチしていきましょう。ヴェーグマンに討伐を頼まれていたイロジックは想定以上に面白い存在のようですから」

 

 ハバヤはシビルの前でも構わず笑いを堪えない。

 今回の戦いにおける彼の思惑は失敗に終わった。

 だが、それはそれ。これはこれ。

 彼の鋭い目は既に次の標的を捉えている。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ふとシャルロットは自分という存在があることに気づく。辺りは真っ暗で何も見えず、音もない。寒さ、暑さもなければ匂いもしない。何もない。それでも自分という意識だけはあった。

 ……僕は一体どうしたんだ?

 考えてすぐに結論を得る。最後の記憶は自らの油断からISを展開していない無防備なところを敵に攻撃されたところだ。自分が例の昏睡事件の被害者の仲間入りをしてしまったのだ。

 ずっとこのまま何もない場所で自分の意識だけ感じていなければならないのだろうか。そうだとしたら近いうちに発狂する自信がある。鈴を始めとする帰ってきた人たちは良く無事でいられたなぁと感心し始めていた。

 だが勘違いだった。シャルロットの現状は被害者の誰もが経験していることではあるが長時間などではない。

 徐々にザワザワとした喧噪が耳に届き始める。内容も聞き取れない雑音のようなものだが、シャルロットはつい最近にも同じものを聞いていた気がした。

 ヒヤリとした空気が肌を撫でる。ここで肌を通して自分の体を認識する。少し寒く感じるのは今の日本の気候と夜という時間によるものだった。背中に当たっている柔らかいものはクッションだったはず。

 最後に光が射してくる。太陽ではなく人工の灯り。高い天井につり下げられている照明は体育館のものだった。

 

「ここがどこだかわかるか?」

 

 耳元で声がする。シャルロットの目はすぐ近くで自分の顔を見下ろしてくる少女を捉えた。銀色の長い髪と黒い眼帯のセットはラウラ・ボーデヴィッヒ以外にありえない組み合わせだ。

 

「ラウラ……?」

「ここは藍越学園の体育館で、ラウラは私のことだ。本当に大丈夫か?」

 

 別に『ここがラウラだ』などと言ったわけではない。冗談で言っているのだろうか。そう思ったシャルロットにラウラは唐突に前髪を手で上げて顔を近づけてくる。至近距離でラウラと目が合った。

 ――え? どういうこと!?

 混乱するシャルロットは目を強く閉じた。するとシャルロットの額に固くも温かいものが当たる。

 

「平熱だな。風邪などの病ではなく一時的な混乱だろう。顔が赤いのは血色が良いということなのだろうな」

 

 熱を計っていただけ。ラウラに他意はないのだとホッとする。同時にラウラの行動に振り回されたシャルロットはむすっとしてジト目を向けた。

 

「混乱させたのはラウラじゃないか……」

「それは心外だ。私はシャルロットを助けようとはしたが、混乱させようだなどと考えたことは一度もない」

「あ、うん。ごめんね、ラウラ」

 

 シャルロットを助けようとした。そう聞かされたシャルロットの顔は下を向く。自分がIllを倒すと張り切っていたというのに結果的には助けられるだけだった。心配をかけた。必死に止めてくれていた父をも裏切るところだったと思うとぞっとする。

 改めてIllの怖さを感じた。そんなシャルロットの額をラウラは下から小突き上げる。

 

「これに懲りたら独断専行はやめることだ」

「……ラウラに言われたくないよ」

 

 額を押さえながらシャルロットは抗議の視線を投げかけた。

 だがラウラは気づいていない。

 

「何か言ったか?」

「ううん、なんでもないよ」

 

 不服はあったが、今のシャルロットでは強く言えない。ラウラの指摘は間違っておらず、シャルロットは1人で動いていたために犠牲となってしまった。その過ちは認めなければならない。

 やはり1人では限界がある。今回の件を通してシャルロットが学んだところだ。自分の身を案じてくれる友を頼る。今まで経験したことのないことだが、これからのシャルロットには必要なことだと感じられた。

 まずは真っ先に自分を心配してくれたであろうラウラから、お互いのことを知っていこう。そう思いながら、シャルロットは立ち上がった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 目が覚めると見慣れた天井だった。彩華に与えられた簪と本音の研究室である。高校に入ってからは土日にしか入室を許可されず、本音が昏睡状態になってから引きこもっていた簪の砦でもあった。

 体を起こす。ISVSに入れるようにと用意した簡易ベッドもあるのだが、今の簪はソファで横になっていたらしい。らしいというのも、最後にISVSに入ったときの記憶が定かではないからだった。

 狭い研究室内を見回しても思い出せることはない。本音がいない期間が長いからか、部屋が散らかってないという感想しか出てこなかった。そして大切なことに思い至る。

 

「そうだ……本音」

 

 一夏の力を借りて敵を倒した。簪の記憶にはいつの間にか『敵を倒せば被害者が帰ってくる』という知識がある。何者かに植え付けられた記憶だけでなく、一夏とのクロッシング・アクセスの影響でもあった。簪は本音が目覚めているという確信の元、慌てて研究室を出て行こうとする。外出用の靴を履きながら自動ドアのロックを外して出口を開いた。

 するとドアの向こう側には花火ともパイナップルとも言えそうな髪型をした白衣の女性が立っていた。倉持彩華だ。

 

「ちょうど良かった。病院までのヘリは手配しておいたから、すぐに行くといい」

「ありがとうございます!」

 

 簪は謝罪の言葉は出さなかった。彩華に謝るのはひとりでではない。楯無も本音も一緒にと決めていた。だから礼だけ言ってヘリポートへの道を急ぐ。最近の自分は運動をしていなかったらしく、走るだけでも息が苦しくなる。だが足を止めはしない。早く本音に会いたかった。

 ヘリポートにはヘリコプターがいつでも飛び立てるようスタンバイしている。操縦席に座っている男と目が合うと彼は簪を手招きした。彩華が手配してくれたヘリだ。簪は肩で息をしているだらしない自分に鞭打って走る。そして搭乗口に顔を出した。

 

「さあ、座って、簪ちゃん」

 

 ヘリの後部座席には先客がいた。いや、正確には客などではないのかもしれない。そもそもこのヘリは彩華ではなく、この人が用意したものの可能性が高かった。

 

「お姉ちゃん……」

「本音ちゃんのところに行きましょ」

 

 ヘリにいたのは楯無だった。簪はヘリに乗り込むと同時に抱きつく。両目にはうっすらと涙が滲んでいた。

 

「お姉ちゃん……私……」

「あの時も言ったでしょ? 私に謝るのはあれで最後。他の人に謝るのは本音ちゃんと会ってから。いい?」

「うん……」

 

 別に謝ろうとしていたわけではなかった。楯無は気にしていないようだが、楯無も本音と同じ目に遭っていた。実際に現実で再会できて感激しないわけがない。今、簪の前に現れたという意味を楯無は理解できているのだろうか。

 楯無に自覚がなくても関係はない。今、ここにいる。それだけで良かった。たとえ結果論でも、終わり良ければ全て良し。そう思えた。

 

 東の空が白み始めていた。街が目を覚まし始める朝の空の道中、簪は姉に本音と過ごしてきた今までのことを話した。お世辞にも友達が多いとは言えなかった生活でも充実していたのは本当である。やりたいことを見据え、周りに色々な人が増えてきた。本音が帰ってからのこれからを想像すると楽しい未来が広がっているのだと簪は大好きな姉に語る。

 楯無はずっと聞き役に回っていた。楽しそうに話す妹の姿を見ているだけで胸一杯だったのだろう。まだ楯無は自分のことを詳しく話せない。それは簪も承知の上であり、今はとにかく会話さえあればそれで良かった。

 

 病院に到着する。救急ヘリ用のヘリポートを使わせてもらって辿り着くや否や簪は飛び出した。楯無も後に続き、ヘリの操縦士は「いってらっしゃいませ、お嬢様」とだけ告げて見送った。

 病院の廊下を早歩きで進む。流石にここを走ることは楯無に止められた。簪は病室の場所すら把握していなかったが楯無の案内ですんなりと目的の病室に到着する。入り口には布仏本音のネームプレートがあった。中から話し声が聞こえてくる。自分は一番じゃなかったがどうでもいい。簪は我慢などできず、勢いよく引き戸を開けてしまった。

 

「本音っ!」

 

 病室の中には本音の姉である虚、見覚えのある友人たち、見覚えのない男子高校生がいた。早朝の病院だというのに騒々しくなっている原因は完徹した高校生たちが原因であったらしい。先に来ていた高校生のうち谷本癒子が自分たちのことを棚に上げて口の前で指を立てて簪に静かにするように促してきた。簪はこくりと頷いて中へと入っていく。

 ベッドの周りにいた友人たちは簪に道を開けてくれた。そして簪の目に飛び込んできたのは、上半身だけ起こしてこちらに笑いかけてくれている親友だ。すっかり痩せてしまっているが彼女のトレードマークといえる笑顔だけは健在。帰ってきてくれたのだと実感する。

 

「かんちゃん、おはよう」

「……本音の……寝坊助」

 

 ずっと聞けなかった脳天気で緊張感のない声。だからこそ嬉しかった。簪の知っている本音がそこにいる。簪は自分よりも細くなってしまった本音の体に腕を回した。

 

「もう二度と……付き人とか言わないで……本音は大切な友達なんだから」

「うん。ありがとう、かんちゃん」

 

 3ヶ月の隔たりを越えて、親友は再会を果たした。お互いの体温を確かめ合っている2人を見て安堵の溜め息を漏らした楯無は虚と弾の肩を掴んで病室を出ていく。今は友人たちだけでそっとしておこう。そう目で訴える楯無に虚と弾は揃って頷いた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ギドを倒した。そう認識した瞬間にどっと疲れが押し寄せてきた。同時にクロッシング・アクセスも解除され、共鳴無極もその効力を失う。そんな俺に待っていたのはストックエネルギー切れによる強制転送だった。

 そういえばストックエネルギーは限界ギリギリだったっけ。全部箒の紅椿に残したってところだろう。箒の身に何かあるとマズいから白式が勝手にやってくれたことは歓迎すべきことだ。

 問題は……またISVSに入り直す必要があるってことか。

 

 ガバっと跳ね起きる。寝ていたわけじゃないから俺の意識はハッキリしていた。ここは藍越学園の体育館。Illの領域から解放されたため、戦闘不能になっていたプレイヤーたちが俺と同じタイミングで現実に帰ってきている。

 

「良くやってくれた、織斑」

「宍戸先生……」

 

 俺の傍らには宍戸がパイプ椅子に腰掛けていた。そこでずっと俺たちの帰還を待ってくれていたのだろう。まずはそんな俺たちの保護者に報告をしなくてはならない。

 

「勝ちました」

「わかっている。織斑の戦いの詳細はこちらで追えていなかったが、織斑が帰ってきたことが何よりの証拠だ。もし負けていたらお前が帰ってこれるはずなどない」

「ハッキリ言ってくれますね」

「事実だ。敵にマークされていることを自覚しろ。そして、これからはより一層、危険がつきまとうことになる」

 

 誉めるのはそこそこに宍戸は気を引き締めろと注意を促してくる。俺だってわかっている。あのギドという男はエアハルトよりも強い相手だった。俺が奴を倒したとなれば、下手をすればISVSの外で俺を狙ってくることも視野に入れる必要が出てくる。

 ゲームを舞台としていただけで、俺とエアハルトは本気で潰し合っている。俺の正体をギドが言い当てていたことから、エアハルトの手がヤイバではなく織斑一夏に伸びてくる可能性も十分に考えられた。この辺りはセシリアに投げっぱなしにしてきたが、俺自身も念頭に置いておかないといけないな。

 結局、エアハルトの望みは具体的にはわからない。だが奴と俺が相容れないことだけはわかっている。奴がIllの秘密を抱え、箒を取り戻す障害となるのならば、俺は奴を打ち倒さなければならない。

 

「そういえば織斑。少し顔つきが変わったか?」

 

 これからは普通に学校生活を送るのも誰かに守ってもらいながらになるのかと考えていたら、宍戸が唐突にそんなことを言い出した。

 俺の顔つきが変わったかと聞かれても俺本人では何とも言えない……と普段なら思うところだが今回は心当たりがちゃんとあった。

 

「“彼女”を見つけたんです。宍戸先生の言うとおり、俺自身が辿り着かないといけない真実でした」

「そうか。だったらオレが織斑に包み隠さず話せる日も近いだろうな」

 

 俺は箒とのクロッシング・アクセスを通じて知っている。宍戸は文月奈々と篠ノ之箒が同一人物であることを知っていたのだと。しかし俺がずっとナナと箒を分けて考えていたものだから、昔のツムギについて話してくれなかったんだ。全部、俺のためだったのだと思うのは俺の自惚れだろうか。もし宍戸からナナの正体を聞かされていたら、たしかに俺は俺が許せないし、取り返しはつかなかった。

 ま、『そうなんですよね?』と確認したところでとぼけるのは目に見えているので俺からは何も言わない。

 

「じゃあ、俺、帰ります。まだ戻ってきてない人もいますけど……」

「後始末はオレに任せておけ。今のオレにできることなんてそれくらいだしな」

「ありがとうございます」

「礼はいい。さっさといけ。すぐにでも会いたいんだろう?」

 

 やっぱりわかってて言ってやがった。宍戸の気遣いをありがたく受け取って俺は体育館の出口へと向かう。

 すると出口付近で大柄な体育会系の男に呼び止められた。

 

「おい、織斑。どうなったんだ?」

「お前のおかげで助かったぜ、内野剣菱(バンガード)。無事、助け出せたよ」

「そいつは良かった。それと、一つお前に言っておきたいことがあってな」

「何だ?」

「俺は3年生だ」

 

 正直、1年生だと思ってた。ずっとタメ口だったから申し訳なく感じる。

 

「そんだけだ。急いでんだろ? 早く行きな」

「あ、その……なんかすみませんでした」

「気にすんなって。俺は気にしてるけど」

 

 器が大きいのか小さいのかさっぱりわからない内野先輩(仮)に見送られて俺は家へと帰った。

 

 まだ夜が明ける前に帰ってきた。玄関で待ってくれていた老執事によるとまだ誰も帰ってきていないとのこと。とりあえず今回の件は俺たちの完全勝利で片づいたことだけ伝えておいて、俺は自分の部屋へと急いだ。すぐにベッドに横になり、イスカを胸において目を閉じる。

 

『今の世界は楽しい?』

 

 ちゃんと近づいていますよ、束さん。

 

 

***

 

 

 久しぶりに自室からやってきたISVSは相変わらずのランダムっぽい出現位置だった。しかしランダムっぽいだけであって、今の俺は作為的な何かがあると確信している。

 

「ヤイバが一夏……一夏がヤイバ……ふふふふ」

 

 さっきからずっと俺の耳に鼻歌交じりの楽しげな声が聞こえてきている。その声の主が誰なのかは丸わかりなのだが、問題は彼女が俺の存在に気づいていないことだった。

 いや、気づくわけがないか。石の中にいるというわけではないが、俺はクローゼットの中にいる。そう、初期位置がツムギ内のナナの寝室のクローゼットの中だったのだ。

 アバターはデータ管理しているはずだったが、気分的な観点からナナたちは普通に服を着ていると聞いている。つまり、現実の体ではないとはいえ箒が身につけていたものが俺の周りにあるという状況だ。

 というかタンスとかはないのか? 下着類までこんなとこに置いとくなっての!

 俺は決して邪な念を抱いていない。だがこんな状況に陥っている俺を箒が見たらどう思う? 考えるまでもないことだ。篠ノ之流古武術が披露されるだけだろう。

 時間とともに気まずさが増していく中、コンコンとノックの音が聞こえてきた。箒の独り言が途絶え、廊下側からシズネさんの声がする。

 

「ナナちゃん、開けてもいいですか?」

「いいぞ、シズネ」

 

 扉が開けられてシズネさんが入ってきたようだ。今は白式が展開できていないから状況は良く掴めていないがきっとそうだ。

 頼む、シズネさん! 一時的でいいから箒を部屋から連れ出してくれ!

 

「あれ? まだヤイバくんは来ていないのですか?」

「ラピスが言っていただろ? ヤイバは一度ISVSから出たため、また戻ってくるとなるとゲートジャマーの範囲外から飛んでくる必要があるのだと」

 

 うん、そうだよね! だから早いところヤイバを迎えるためにロビーホール辺りに行っとけばいいんじゃないかな? 部屋で待ってるよりも出迎えてもらった方がヤイバは喜ぶと思うよ!

 

「違いますよ、ナナちゃん。ヤイバくんは正規の道以外にも手段があるんです」

 

 シズネさん!? そいつは今言うべきことなんですかね?

 

「そういえばそうだったな」

「女性のこととなると目の色を変えるヤイバくんのことです。きっとランダムとか偶然と称して直接ナナちゃんの部屋にやってくるはずです。場所は前に教えていますし」

 

 シズネさんは俺がここにいるとわかっててやってるんじゃないだろうか。わざとなんかじゃないんだけど、実際にこんなところにいるんだから、見つかったら言い訳のしようがないな。あと、俺は色情狂なんかじゃない。

 

「では待っているとしようか」

 

 やめて! そんな嬉しそうに言わないで! 絶対にガッカリするから! 俺がこんなところから登場しても色々と台無しになるから!

 

「そういえば、ナナちゃん。その格好でいいんですか?」

 

 ちょっと待ってよ、シズネさん! 別に仮想世界のアバターなんだから気にしなくていいんだって! とにかく今は服関連だけはマズいんだって!

 

「変だろうか? 戦闘がないときに着ている普段着の1つなのだが私はその辺りの感覚に疎い。ここはシズネに任せるとしよう」

「では着替えるとしましょう」

 

 話がまとまった。俺にとって最悪の形で。2人の足音が俺のいるクローゼットに近づいてくるのがわかる。このままでは俺は見つかってしまい、箒に幻滅されてしまうんだろう。

 まだ逃げ道はあったな。一旦、ログアウトすればいい。それで入り直せばまた別のところに出てこられるはず。何もリスクが無いからそうするべきだ。

 でも俺にはできない。

 だってもうすぐそこに箒がいるんだぜ?

 なんで逃げなくちゃいけない?

 どう思われようが知ったことか。そう言っていたのは嘘じゃなかった。

 俺は無性に箒に会いたいのだ。

 

 クローゼットが開かれ、部屋の明かりが俺を照らす。

 正面には扉を開けたままの箒が固まっている。普段着とは胴着に袴の姿だった。ハンガーでかけられた服の隙間から覗く俺と目が合っている。俺は「よう!」と気軽に声をかけるに留めた。あとは箒の采配に任せるとしよう。

 

「一夏っ!」

 

 だけどまさかクローゼットの中に飛び込んでくるとは思ってなかった。箒の腕は俺の背中に回り、箒の胸が俺の胸に当たる。柔らか――いい匂いがするのはここがただの仮想世界じゃないからなんだろうな。

 俺は箒の背中に手を回そうとして……ちょっと躊躇う。箒が気にしていなくても俺は気になっていた。

 

「ごめん、箒。なんか変なところから出てきちゃって」

「何を謝る必要がある。できるだけ早く私に会いに来てくれたのだろう? どこから出てこようとかまわないに決まっている」

「マジで!? 箒のスカートの中からでもか?」

 

 見事なアッパーにより俺は強制的に上を向かされる。うん、流石に許容範囲を逸脱していたセクハラだったか。この容赦の無さは7年経っても変わってない。

 

「ナナちゃん。ヤイバくんは殴られて喜んでますね。今度、私もやってみます」

「大丈夫か、一夏! 打ち所が悪かったか? 返事をしてくれ!」

「いや、大丈夫だって。しかし手を出してから相手を心配するところまで変わってないな」

 

 変わってない。本当はそんなことなかったとしても、俺と箒は7年という月日を埋めていくために昔と今を重ねていく。

 箒が俺と離れてからの7年間は、クロッシング・アクセスで見てしまったところだけだがざっくりとは知っている。宍戸と知り合いだったことも、シズネさんと昔の自分を重ねたことも、ずっと俺と会おうと画策していたことも。その計画が成就する日に限って俺が神社に行かなかったなんて間が悪いよな。

 

「なあ、一夏。少し外に出て行かないか? その……二人きりで」

 

 クローゼットから出てきたところで箒は言いづらそうにそう提案してくる。俺としては例えばシズネさんがいなくなったりして狭い部屋に二人きりとかにされると色々とヤバい。外ってのは空の上だからきっと俺の理性は無事でいてくれるはず。返事は決まっていたも同然。

 

「よし、行こう」

 

 

***

 

 

 俺は箒の手を引いてツムギの外にまで出てきた。東の空が白み始めていて、頭上を見上げれば水色から藍色のグラデーションが映し出されている。箒から手を離して白式を展開して軽く床を蹴る。先に宙に浮いたのはやりたいことがあったからだ。

 

「箒。手を出してくれ」

 

 俺は地に足を着けている箒に向けて手を差し出す。いつだったかラピスが俺にしていたこと。いつか俺がエスコートすると言ったこと。

 

「ふふ……どこで覚えたのか知らないが、少しは女心を学んだようだな」

「俺だって少しは成長するっての」

 

 箒は紅椿を展開すると改めて俺の手を取ってくれた。俺は手をつないだまま上空へと舞い上がる。戦うためでなく、ただ空を飛ぶためだけにISを使う。きっと箒にとっては初めての経験だろう。束さんの創ったものの素晴らしさを箒と共有したかった。

 俺と箒は手をつないだままくるくると回りながら上昇を続ける。ツムギが小さく見える頃になると水平線もかなり遠くなって丸みを帯びていた。島も転々と見えてきて、今いる場所は世界のほんの一部なんだなと感じさせられる。

 

「静かな空だ」

「これが普通のはずなんだ。でも、プレイヤーは戦闘という遊びだけにしかこの世界を利用してないし、箒たちは隠れてなきゃいけなかったし外では戦いしかなかっただろうから、意外と皆知らない」

「では私と一夏だけの景色というわけか」

「いや、俺にこれを教えてくれたのはラピスだ」

「……前言撤回しよう。一夏は女心をわかっていない」

 

 あれ? 箒が急に拗ねちまった。俺、何かマズいこと言ったか?

 よくわからないけどこのままは嫌なので話題を変える。箒に言いたかったこと百選の出番だ。

 

「そういえば……ってあれ? 俺、何言おうとしてたんだっけ?」

 

 肝心なときに出てこなかった。あのときは聞きたいことが山ほどあったのに、クロッシング・アクセスの影響で大体知ってしまってる。

 俺がうーんと唸っていると箒がアッハッハと腹を抱えて笑い出していた。

 

「ちょっと笑い過ぎじゃないか?」

「すまんすまん。ただ私の中にあったヤイバのイメージが崩れるくらいの残念さを発揮してるのは間違いない」

「箒にとってのヤイバって、仲間を後ろから刺す卑怯者じゃなかったっけ?」

「目的のためなら自らをも犠牲とする危うい男。だが本質は他者の犠牲に心を痛めるお人好しで、どんな逆境でも私たちを助けに来てくれる。心が折れても立ち直ってくる。完全無欠でないからこそ、私は信頼できたのだ」

「そのイメージのどこが壊れたんだよ?」

「かっこいいところ全般だな」

「本当に残念だな、俺!」

 

 多少どころではないくらいショックを受ける。やっぱり箒に『かっこよくない』と言われるのはきついみたいだ。これが恋心なのかは、まだ結論が出てないけど。

 

「しかし変わらないこともある」

「何だよ、もう。これ以上の追い打ちは要らないって」

「現実に帰っても私の傍にいてほしい。その想いが途切れることはない」

 

 ああ……このたった一言で俺は救われた気がした。

 俺は今日まで戦ってきた。その頑張りの全てが報われる。

 つないでいた右手が箒に引っ張られる。俺の右手は箒の胸元に引き寄せられ、箒の両手に包まれた。箒は祈るように目を閉じる。

 

「たとえバカでも、自分が苦しもうとも、この手は私とつながろうとしてくれる。この手が今の私を形作ってくれた。これからも私が生きる力となってくれることを願う」

 

 それは正しく祈りだった。少しも恥ずかしがらずに言ってのける箒に対して俺は胸の鼓動が高速化しっぱなしである。俺だけ恥ずかしがってて負けた気がするが、きっと俺の負けなんだろう。

 

「だったら、次の1月3日、神様に感謝することは決まりだな?」

「一夏、それは――」

「あと1ヶ月はある。その間に箒を助け出す。誰にも文句は言わせない。箒が現実に帰ったら、俺と1月3日に篠ノ之神社へ行くんだ」

 

 俺が果たしたい約束。

 俺と箒をつないでくれていた約束。

 今度こそ俺たちの手で叶えるんだ。

 

 改めて俺は箒に誓いを立てた。箒がISVSに囚われている限り、俺の願いは叶わない。俺は箒を見つけられたがまだ何も終わってなどいないのだ。これまで通り、箒を現実に帰すために戦わねばならない。

 箒が俺の右手を解放する。今までずっと向き合っていた箒が急に俺とは逆方向を向いてしまった。背中を向けたまま箒はある提案をしてくる。

 

「私たちはこれからもヤイバとナナでいることにしないか?」

 

 それは俺が箒を箒と呼ぶのを否定することを意味する。

 俺が約束を持ち出してすぐにこの提案をしてくる箒。その理由を俺は察している。

 

「次に箒の名前を呼ぶのは現実に帰ってから、だな?」

「そういうことだ。仮想世界(ここ)にいる間はツムギの文月奈々でありたい」

「わかったよ、ナナ」

「私の我が儘に付き合わせてすまない」

「いや、そんなことはないぞ。逆にやる気になった。より箒のために頑張れるってもんだ」

 

 嘘はついてない。いずれにせよ箒を現実に帰すために尽力するが、ナナの提案は現状に満足するなという警告の意味があるから助かる。

 きっとナナが文月奈々でありたいと言ったのはシズネさんのことを考えてなんだろう。シズネさんにとって俺はヤイバでしかないし、箒もナナでしかない。突然に名前を変えたら距離を感じてしまうかもしれない。もっとも、シズネさんにそんな心配はいらないだろうから、これはナナの気分の問題といえる。

 

 箒を取り戻すための俺の戦いはまだまだ続く。今ある情報は黒い霧のISが篠ノ之神社で襲ってきたということだけ。楯無さんというコネが出来たことだし、今度は現実の方でも情報を集めていこう。

 

「いてっ!」

 

 今後のことを考えていたらいつの間にか俺の方に向き直っていたナナにデコピンされた。ちょっと痛い。

 

「難しいことを考えているな? だが今は落ち着いて話ができる良い機会だ。考え事は置いといて、聞かせてくれないか? ヤイバが私に言いたかったこと百選とやらを」

「ナナ……それもそうだな。じゃあ、まずは――」

 

 お言葉に甘えて、俺は事件とは関係ないことを話すことにした。まだ事件は終わってなくても、ひとつの区切りはつけられたと思う。だから今は小休憩してもいいよな?

 俺とナナは空の上で二人きり。東の水平線からは太陽がひょっこりと俺たちを覗き見ている。時とともに明るくなっていく空はこれからの俺たちを象徴するものだと、そう信じたい。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 御手洗数馬は日が昇る前に家に帰ってきた。厳粛な父親に『友達の助けになりたいんだ』と頭を下げてなんとか深夜の外出許可を得た数馬だったが、終わった後はすぐに帰ってくるという約束をしていた。学校に残っていたプレイヤーたちは深夜のテンションを存分に発揮して宍戸や最上を困らせていたが数馬はその輪の中に加わらなかった。

 

「ただいまー……」

 

 寝ているはずの両親を起こさないように小声で挨拶する。何も言わなければいいとわかっていても普段の習慣を大事にしている数馬には外せないことだった。

 靴を脱いで家に上がり、自分の靴を揃えようとしたところで違和感を覚える。

 

「あれ? ゼノヴィアの靴はどこいった?」

 

 御手洗家に居候しているゼノヴィアの靴が並んでいない。下駄箱に片づけてあるのかと探してみたがこちらも見当たらない。

 自分がいない間にゼノヴィアの親が見つかって引き取られたのだろうか。答えは否。数馬が家を出たのは午前0時を過ぎてからのこと。その時間にゼノヴィアの親が訪ねてくるとは考えにくい。少なくとも父親から何も連絡が入っていないため、ゼノヴィアの親が現れたという線はなかった。

 数馬は抜き足差し足をしながらも急いで2階へと向かう。数馬の部屋の隣の空き部屋にゼノヴィアの寝室が用意してある。中を覗いてみるが誰もいない。念のため、自分の部屋も確認したがやはりいなかった。

 父親を起こして聞いてみるべきか。だが数馬の予想では両親は共にゼノヴィアがいないことに気づいていない。夜中に勝手に外に出ていくことが父親にバレてしまうとゼノヴィアが追い出される可能性まであり得た。

 

「探しにいこう」

 

 数馬はまだ自分が帰ってきていないことにして、再び外に出る。靴がないということは自発的に外に出たと見るのが普通だ。ゼノヴィアの行動範囲が狭いことを祈りながら数馬は朝のジョギングコースを走りながらゼノヴィアの姿を探す。

 10分ほど走ったところで数馬は街灯の下で立ち尽くしているゼノヴィアの姿を見つけることが出来た。光を良く反射している銀髪はかなり目立つ。意外と呆気なく見つかったことと、暴漢に襲われていなかったことに安堵した数馬は彼女に近づいていく。

 

「やっと見つけた、ゼノヴィア」

 

 数馬が呼びかけるとゼノヴィアはビクッと大げさに飛び上がった後でおそるおそる振り向いた。

 

「カズマ……これはどこでありますか?」

「帰ろっか」

 

 自分からいなくなったはずなのに自分の今の場所を把握できていない。典型的な迷子だった。数馬が声をかけてビクビクしていたことから危険な状況だったことは理解しているのだろう。そう判断した数馬はゼノヴィアの手を取ると家に向けて歩き出す。一応、叱っておくのも忘れない。

 

「勝手にいなくなっちゃダメだぞ。最近、この辺りには通り魔が出るらしいから危ないんだ」

「私はだのように空腹であるもん」

「え? お腹がすいてたん? じゃあ帰ってから何か作ってあげるよ」

 

 夜明けが近づき始める深夜の道を数馬とゼノヴィアが手をつないで歩き去る。

 街灯に照らされないすぐ近くの路地裏に成人男性が倒れていることなど気づく由もなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 とある高級ホテルの1室に2人の女性がいた。胸元が大きく開いたドレスを着こなしている女性は足を組んで座りながら、優雅にワインを嗜んでいる。もう1人の女性は女性用のスーツを着崩してドレスの女性が座る椅子に寄りかかっていた。

 

「例の会議はどうだったよ、スコール?」

 

 スーツの女性、コードネーム“オータム”が建前上は上司であるスコール・ミューゼルに問う。

 

「そろそろ遺伝子強化素体の坊やにも限界が見えてきたわ。2体目のIllが倒されたことでIllの存在を確信する者が増えた。コケにされていたアメリカあたりはもう動き始めているでしょうね」

 

 状況は亡国機業(スコールたち)にとって良くない。スコールはボスの代役として用意されていた遺伝子強化素体の実力を疑問視し始めていた。オータムはすかさず告げる。

 

「じゃあ、私が動いていいか? 脱走させたイロジックを逃がしちまった失態を取り戻させてくれ」

「あれはあなたの失態ではないわ。イリタレートの暴走が元凶よ」

「どっちでもいい。とにかく私に見せ場を作らせてくれよ」

「坊やの話だと、どうもイロジックは普通のIllとは違うみたい。ぜひ先に確保しておきたいわ。あと、アメリカと直接、事を構えることも避けたいわねぇ」

 

 あれもこれもというスコールの無理難題。これをオータムは、

 

「安心してくれ、スコール。そのどっちもまとめて片づけてやる」

 

 自信たっぷりに請け負った。スコールの手前、過剰にやる気を見せているだけの可能性もあるが、スコールはオータムの言に頷きを返す。

 

「うふふ。頼んだわぁ」

 

 今また1人の刺客が日本へと送られる。

 ヤイバとエアハルト。彼ら2人以外の思惑が静かに動き始めていた。


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