Illusional Space   作:ジベた

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24 認められないトリアージ

 文月奈々。それが8年間生きてきた彼女に与えられた新しい名前だった。

 前の名前を名乗ることは許されない。文月奈々とは新しい出発ではなく逃げるための名前である。しかしながら奈々はこの名前を嫌いにはなれなかった。

 

『ごめん……いつか絶対に――ちゃんの当たり前を取り戻すから』

 

 奈々には姉が1人いた。長らく会っていない彼女のことを思い出す。

 ウサ耳をつけていたりなど、いつもふざけた格好しかしていないはずの姉がその日だけは似合わない学生服を着ていた。

 彼女は奈々の耳元でしきりに謝っていた。奈々は離れようとしない姉の体を突き放して、言ってやった。

 

『早く行け。それがあなたの選んだ道だろう?』

 

 姉は涙を隠さなかった。しかし何も言わず、奈々に背を向けて去った。それ以降、姉と言葉を交わした記憶は奈々にない。

 

 奈々が名前を変えなくてはいけなかった理由は姉にあった。姉が理由で命を狙われることもあり、身を守るために別人として過ごすこととなった。

 元々、姉の影響で交友関係の狭かった奈々は、またしても姉のせいで仲の良かった唯一の男の子とも引き離された。

 しかし奈々は幼くとも賢かった。姉のことはよく知っている。姉は天才と呼べる頭脳を持ってはいたがバカと紙一重であったと姉と別れた当時8歳の奈々は断じる。

 姉は人間の内面に疎い。自らの能力を第三者が見たらどう思うのかを客観的に見ることなどまるでできていない。10年前には幼い子供のように自らが作り上げたものをただ見せびらかした。事実、当時の姉は幼い子供の範疇だった。

 彼女の発明品の名は“インフィニット・ストラトス”。通称、IS。

 世界がISを知ったとき、当時5歳だった奈々の生活は一変した。同時に奈々はその環境を受け入れた。強大な力を前にした人々は期待よりも不安が大きく、やがて疑心へと変わり、最後には迫害へとつながる。

 孤立した状況になっても、奈々は姉のことを怨まない。誰も悪くない。人とはそういうものだから姉を怨むのは筋違いだと奈々は悟っていた。

 もっとも、奈々は姉が大好きということもない。そもそも好きになるだけの期間を姉と過ごした記憶がなかった。天才でありながら愚かな姉は家族というよりも親戚のお姉さんのような存在だった。

 

 文月奈々とは姉が付けた名前だ。それだけならば何も思い入れなどない。しかし奈々は知っている。人の心に疎い姉が、奈々の名前に過去とのつながりを残そうとしていたのだと。

 ――いつか、昔の奈々を知る者が現れたときのために。

 偽名としては単純である。文月は7月。奈々は数字の7。旧暦のことなど考慮しない姉が知恵を絞って考えた名前は奈々の誕生日である7月7日のことを指す。

 何もかも奪われたわけじゃない。姉がそう言ってくれている名前を気に入らないなどと言えるわけがなかった。

 

 

***

 

 

 扉の前で座り込んでいたナナは目元の涙を袖で拭って足に力を入れる。いつまでも凹んでいる場合ではなかった。今の自分がすべきは消耗した体力を回復させるために少しでも多くの時間を休むこと。ふらつく足取りで質素なベッドへと歩き、身を投げる。

 

「私は……ヤイバに何をして欲しいのだ……?」

 

 本当に消耗したのは体力ではない。精神力とでも言うべきものである。自分からヤイバを拒絶しておいて、いざヤイバに『二度と会わない』と言われると頭の中が真っ白になった。どちらも本心だ。ナナはまるで自分が2人いるような錯覚に陥っている。

 うつ伏せから仰向けに寝返りを打つと放漫な胸が左右に揺れる。ナナは天井を静かに見つめていた。そうして、ナナとしての自分について振り返る。

 

 

***

 

 

 奈々は姉たちの手により父親とも引き離された。ひとりで生きる覚悟もしていた奈々は生活費だけは送って欲しいなとそれだけを考えていた。

 新生活最初の日。奈々に与えられた生活空間にはひとりの男がいた。歳は成人したばかりで身長は日本人の平均身長よりも高い。黒く短い髪には生え際だけ銀色の輝きが垣間見える。彼の瞳はカラーコンタクトを付け忘れていて立派な金色をしている。

 

『日本人には見えません』

『マジでか!? 変装しての潜入捜査には自信があったんだが……』

 

 男の軽い話し方は作られたものなのかはまだ奈々にはわからない。突然に知らないはずの男を兄として生活しろと言われても身の危険を感じるのが普通だ。事実、男の姿を見るまで奈々は精一杯の警戒をしていた。

 だがもう奈々の警戒は信頼に変わってしまっている。

 知らない人間ではなかった。名前は知らないけれど、知っていることがある。

 

『しばらくお世話になります。“ツムギ”のお兄さん』

『賢い子だとは聞いてたがオレのことを覚えてやがるか。オレの名前はメ――いや、違った。宍戸恭平だ。好きに呼べ』

『わかった、恭ちゃん』

『くっ……男に二言はねえ』

 

 そうして奈々はツムギのメンバーである宍戸恭平と1年近く共同生活をしていた。その期間、奈々は宍戸からツムギの話を聞いていた。自分よりも姉といる時間が長い男から姉のことを聞きたかったのだ。

 1年で次の土地へと引っ越した。名前は文月奈々のままであったが同居人は宍戸から他の者に代わる。

 

 以降、各地を転々とした生活が続く。友人など1人もいないままだった奈々だが、中学3年になったばかりのある日、1人の女子と出会うこととなった。その女子は笑わず、泣かず、怒らず。一切表情を変えない氷のような少女であった。奈々は彼女を見て、かつての自分と重ねる。だからか、つい声をかけてしまった。

 

『私は文月奈々だ。お前の名前は?』

『……鷹月静寐。これでいい?』

『ああ。では、静寐。早速聞きたいことがあるのだが――』

『知らない。どっか行って』

 

 最初は拒絶された。それでも奈々は何度も静寐に話しかけた。その行為は後になって思えば自己満足だったのだろう。引き離された少年を思うあまり、自らの行動に彼を重ねたのだ。

 重なったのは奈々と少年だけではない。静寐もかつての奈々と重なった。幾度となく言葉を交わすうちに、静寐は饒舌になっていく。表情は堅いままだったが奈々との心の距離は縮まっていた。

 

『奈々ちゃん。ついに計画の日がやってきました。奈々ちゃんの王子様を武力を以てかっさらってきましょう』

『いや、静寐……目的を見失っているからな?』

 

 静寐とはあの1月3日も共に過ごすくらいに仲良くなっていた。

 彼女は奈々としての自分の唯一の親友。

 これもまた文月奈々という名前を嫌いになれない大きな理由だった。

 

 

***

 

 

 ナナはいつの間にか眠りについていた。

 昔の楽しい記憶を夢に見る深い深い眠り。

 部屋のドアがノックされてもついに気づくことはなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ISVSから自らの研究所に帰ってきた彩華は所長室のイスに深々と腰掛けるとデスクの引き出しから飴玉を取り出す。珍しく3個同時ではなく1個だけ。ストレスが溜まっているのか、ガリガリと頭を掻いている姿は見るからに近寄りがたい。

 彩華が口の中で甘さの塊を転がしていると所長室に入ってくる女性がいた。ブリュンヒルデ、織斑千冬だ。

 

「私の戦闘記録は見たか?」

「ああ、拝見させてもらった。噂のIllはブリュンヒルデとブレードで互角に斬りあえていた。ここまではいいとしよう」

 

 彩華は壁にISVSの戦闘映像を映し出す。内容は先のツムギ防衛戦におけるブリュンヒルデの戦闘の様子。エアハルトを迎え撃つべく出撃した彼女だったが黒い甲冑の騎士に襲われて斬り結びはじめる。ブリュンヒルデの斬撃の悉くを打ち払う騎士は間違いなく実力者。だが明らかな違和感があった。

 

「問題は騎士の太刀筋がほぼ君と同じということか。剣術に関しては素人である私から見ても君を連想してしまうくらいには似ている。同じ流派ということかな?」

「いいや。私の剣は篠ノ之流剣術を基本としているが我流と言った方が良い。そして私はこの剣術を他人に指南したことなどない」

「おや? ドイツの黒ウサギに指導していたことがあるのではなかったか?」

「剣とは関係のないことだけだ」

「なるほど」

 

 千冬の話を聞いた彩華の中で推論が組み上がった。彩華が敵と見ている組織が何を狙っているのかも見当がつく。

 

「君の指導を必要とせずに君の剣術を模倣していることは確定というわけだ。いくらIllがあろうとも中身に恵まれていないのだろう。手っ取り早く優秀な兵を揃えるための奥の手といったところか。奴らは君のコピーを造ろうとしている」

「そんなことが可能なのか?」

「不可能ではないが実用的ではない。VT(ヴァルキリートレース)システムという、操縦者の精神に異常をきたすことがわかっていて禁忌とされている代物が既にあるのだ」

 

 千冬も彩華の言いたいことが理解できた。

 

「私が相手にしたIllは使い捨ての人形ということか?」

「そうだ。ISVS内ならばいくらでも代わりはいるのだろう。そして今の君と戦わせることでさらに情報を得て、よりブリュンヒルデに近くなっていくことも予想される」

「それでは永遠に私を超えることはないな」

「単独では。まだ量産されていないようだが数を揃えられるようになれば話は変わる」

 

 ブリュンヒルデは黒い騎士のIllを倒しきれなかった。同じものが2体あれば戦局は敵側に大きく傾いていたと断言できる。

 敵は世界最強のIS操縦者“ブリュンヒルデ”をも利用しようとしている。もしVTシステムと推測されている敵の研究が完成してしまえばその問題はISVSに留まるものではなくなる。

 

「私はこれ以上ブリュンヒルデを連中と戦わせるのは百害あって一利なしと考える」

「お前はブリュンヒルデという力を大事に飾っておくべきだとそう言いたいのだな?」

「行使するだけが力ではないさ。現段階での敵のVTシステムはおそらく時間制限付き。ブリュンヒルデのいない戦場に先んじて投入してくることはない」

「なるほど。私が出なくても敵のIllを1機抑えられるということか」

 

 千冬は頭を抱えた。

 

「逆を言えば、この私がたった1機の敵に封じ込められたというわけか。何が世界最強だ。とんだお笑い草だよ」

「君お得意のごり押しが必要になるのはまだ先ということだ。今は少年たちの力を信じてみようではないか。……あの子の異変に気づかなかった私よりは頼れるさ」

 

 一夏たちに任せようと彩華は提案する。千冬にとっては巻き込むつもりのなかった実の弟。彼の行動を黙認してきたのは彼が生き生きとし始めたというだけの理由であり、本当に戦いの前面に出すつもりは微塵もなかった。いざとなれば自分が代われると思っていた。

 しかし一夏は千冬が思っている以上に踏み込んでしまっている。力をつけてしまっている。千冬が相手をするはずだったエアハルトに打ち勝った一夏を戦力外だなどと言えるわけがない。

 

「そう、だな。一夏ならば束の残したものも見つけられるかもしれん」

 

 千冬は一夏を認め始めている。自分の目的のために弟を利用していると自覚しているが、弟への期待が罪の意識を上回っていた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 ミューレイの研究室のひとつ。わざと薄暗くしている部屋の中で作業服を着た男、ジョナス・ウォーロックがディスプレイと睨めっこをしているのは日常的なことだった。

 

「なるほど……コイツがイルミナントを倒したってのも十分に納得できる」

 

 ウォーロックは無精髭を撫でながらヤイバとエアハルトの戦闘映像を見ている。開始時はエアハルトが優勢であった。しかし、唐突にヤイバの動きが変わり、一瞬のうちにエアハルトを戦闘不能に追い込んでいく。

 

「お前がヤイバってプレイヤーを目の敵にしてるのも少しは理解できたぜ。まさか世界最強の男“エアハルト・ヴェーグマン”を一騎打ちで倒す男とはな」

 

 そう言ってウォーロックは背後にいる銀髪の男に投げかける。銀髪の男、エアハルトは気を悪くすることなく淡々と返す。

 

「今回の接触でヤイバは単一のISコアの限界を超えた装備を所持していることが判明した」

「拡張領域系の単一仕様能力ってわけか」

「いや、サプライエネルギーも通常機体から外れた領域となっていた。理論上、私のリンドブルムはIS単機が繰り出せるENブレードの最高威力である。奴はそれと並ぶENブレードを使用していたにもかかわらず、BTビットの偏向射撃(フレキシブル)を併用していた」

「お前とブレードで斬りあえて、追加であの規模の偏向射撃。BT適性の高い遺伝子強化素体(シビル・イリシット)でも難しいだろうに。ヤイバってのは軽く化け物だな」

 

 ヤイバが()()()で行なっていることはウォーロックが普段から化け物扱いしている遺伝子強化素体たちと比べても異常と言える。

 強力な単一仕様能力に加え、操縦者本人の技量も複数の分野で一流。ヤイバの存在は反IS主義者(アントラス)にとって脅威となると断言できる。

 

「“イラストリアス”のコピー対象をブリュンヒルデからヤイバに変えるか?」

「初期化はやめておこう。ヤイバの単一仕様能力のカラクリ次第ではVTシステムも無駄に終わる。確実に成果のでるブリュンヒルデで維持しておくべきだ」

「了解」

 

 世界最強の男(エアハルト)を倒した男、ヤイバ。彼の存在は確実にエアハルトたちの中に刻まれた。かつて亡国機業を壊滅寸前にまで追いやった“織斑”のように。

 

「そういや、ヴェーグマン。聞きたいことがあるんだが……」

 

 ヤイバに関する考察を終えたウォーロックはここで疑問を呈する。それは今回の侵攻の成果について。

 

「ブリュンヒルデを引っ張り出せたことでイラストリアスはさらに学習を重ねた。中身の遺伝子強化素体は使い物にならなくなったがイラストリアスは確実に強くなっている。だがそれ以外は? マザーアース(ルドラ)をぶっ壊しておいて成果がそれだけってのは無しだぜ?」

 

 ウォーロックは強気にエアハルトを咎める。だがエアハルトはどこ吹く風。自らに非などないと言わんばかりに淡々としている。

 

「結果はこれからだ。倉持技研を敵に回して力任せにナナという娘を連れ去ることができるだなどと思い上がってはいない」

「あのな、ヴェーグマン。まず、その娘がどう重要なのかが俺には分からねえんだが」

「彼女はIllの好む良き魂の持ち主なのだ」

「ISの適性ランクSか?」

「無粋な言い方だがその通りだ。国家代表を相手取るよりは楽な相手である上に、彼女は篠ノ之論文の在処を知っている可能性がある」

「で、これからってことは既に手を打ってあるってことだな?」

「ああ。そのためのギドだ」

 

 ギドという名前が出てウォーロックは鼻で笑う。

 

IllのNo.1(ギド・イリーガル)――“銀獅子”と呼ばれた遺伝子強化素体の遺伝子を元にした(クローン)型か。つまり、今回の襲撃は茶番だったわけだ」

「保険というものだ。打てる手は打っておく」

「だが俺にギドのことを言って良かったのか? 言う必要がないとか前に言ってただろ?」

 

 ウォーロックの何気ない疑問。またいつもどおりどうでも良さげに返してくると思われていた。

 しかしエアハルトは顎に手を当てて考え込む。

 

「貴様の言うことはもっともだ。なぜ私は貴様にギドのことを話した?」

「いや、わかんねえなら答えなくていい。そんなしょうもないことで口封じされても困るしよ」

 

 ウォーロックはやれやれと肩をすくめた。エアハルトの変化に戸惑っているのはウォーロックだけでなかったのだ。

 冗談で口封じと口にしたが本当にそうされても困るためさっさと別の話題に切り替えていく。

 

「そうそう。イロジックの件で続報があるんだが聞くか?」

「見つかった……というわけではないな」

「残念ながらその逆だ。わざとIllの情報を拡散して不特定多数のプレイヤーから目撃情報を噂として拾えないか監視していたが全く引っかからない。イリタレートの噂はすぐに現れたにもかかわらず、だ」

 

 エアハルトの元から去った2人の遺伝子強化素体。

 1人はハバヤによって捕獲されたマドカ・イリタレート。彼女のことは巨大蜘蛛の噂としてすぐにネット上に見受けられた。ハバヤが彼女の居場所を見つけるまでに時間はかかっていない。捕獲までのタイムラグはあるがそれはまた別の話である。

 問題のもう1人は全く噂に出てきていない。Illが人を襲えば目撃者が少なからず出るはずである。エアハルトらのフォローなしに長期間、目撃者を出さずに人を襲うことは不可能だといえた。

 エアハルトは1つの結論を導き出す。

 

「イロジックはISVS内にいない可能性がある」

「おいおい。俺はただ人を襲う本能がない特殊個体かもしれないって言いたいだけなんだが――」

「可能性と言っただけだ。そちらについては私が対処しよう。貴様は自らの仕事をこなしていればいい」

 

 早口になったエアハルトは踵を返してウォーロックの研究室を退出する。

 

 ミューレイ社の地下通路をエアハルトが慌ただしく歩く。彼が歩く先には女性が1人待ち受けていた。彼女はエアハルトを見つけるとペコリと会釈する。

 

「ヴェーグマン。ミス・ミューゼルより伝言がございます」

「話せ」

「ドイツがミューレイではなく倉持技研につくと表明したそうです。これによりイグニッションプラン加盟国でミューレイを支持する国はイタリアのみとなりました。イタリアが意見を翻すのも時間の問題と上層部は危機感を募らせているようです」

「……Illや遺伝子強化素体の存在が明るみに出たわけではない。心配するなと伝えておけ」

「上層部はヴェーグマンの話を欲しています」

 

 エアハルトは眉間に寄った皺を右手で軽く揉んだ。

 

「すぐに行くと伝えておけ」

「了解しました」

 

 スコール・ミューゼルの使いである女性が去っていく。

 エアハルトは携帯端末を取り出して画面に映る少女に声をかけた。

 

「しばらく私は指揮をとれない。ギドへの伝言を頼めるか?」

「シビル、りょーかいでーす!」

 

 エアハルトからシビルへと命令が伝えられる。これを最後にエアハルトはISVSから離れ、会議室に拘束されることになる。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 俺は現実へと帰ってきた。もう夕方だからか体育館の外から見える空は赤く染まっている。胸の上のイスカをポケットにしまって立ち上がると傍には一緒に戦ってくれていた皆の姿があった。

 別に俺が起きるのを待っていてくれたわけではない。まだ時間があるからと昼のフリー対戦の続きをしている連中がいて、それを観戦しているだけである。今はラウラがバンガードをボッコボコにしてる最中だった。

 

「あ、一夏、やっと戻ってきた」

 

 一番早く俺に気づいたのは鈴だった。他の連中はラウラの暴れっぷりに見入っている。セシリアはこの場にいないようだ。

 

「そんなに俺、遅かったか?」

「アンタで最後ってわけじゃないけど。まだシャルロットもツムギから戻ってきてない」

「アイツ、まさかツムギの連中にまでデュノア社の宣伝してるんじゃ――」

「何かあったの? シャルロットじゃなくて一夏にさ」

 

 やっぱり鈴はいつも唐突だ。ナナとの間で起きたことなどなんでもないことだと言い聞かせてから帰ってきたのに、鈴はすぐに俺を現実に引き戻す。

 俺はナナをどうしたいのか。その答えが見つからないまま喧嘩別れをしてきた。今、頭が痛いのは……胸が苦しいのは後悔しているのだろうか。

 

「答えなくていい。とりあえず早く帰りましょ?」

 

 俺が答えられないことを察してくれたのか、鈴は俺の背中を押してくれる。たしかにこういうときは思いっきり寝るのが一番かもしれない。

 

「皆は?」

「セシリアは用事があるって先に帰ったわ。シャルロットはさっき言ったとおりまだ戻ってきてない。ラウラはシャルロットを待ちがてら男連中に手解きをしてやるそうよ。あと、弾はデート」

 

 用事といえば俺も宍戸と話がしたいんだった。なんだかんだで今日の試合は宍戸が仕組んだものだ。直接奴の口から俺はどうなのか聞いておきたい。

 だがその前に確認。

 

「シャルロットが戻ってくるまでとはいうけど、会場の片づけは?」

「全部会長さんがやってくれるってさ。シャルロットとラウラも手伝ってから帰ってくるでしょ」

 

 後始末は最上会長に丸投げこそしたがそこまで面倒をみてくれるとは思ってなかった。ありがたく俺は帰らせてもらおう。その前に宍戸のところに寄っていくつもりだが。

 

「鈴、ちょっと寄ってくところあるけどいいか?」

「どこに?」

「宍戸のとこ。たぶん職員室だろ?」

 

 宍戸の名前を出すと鈴はあからさまに嫌そうな顔をする。

 

「あたしはここで待ってるから終わったら連絡して」

「わかった」

 

 鈴を強制的に連れて行くだけの理由がないので俺はひとりで宍戸の元へと向かった。

 

 休日の職員室にはもう日が傾いているためか電気が点いていた。中で動く人影は1人分だけ。俺たちの担任教師であり、今日の仕掛け人である宍戸恭平だ。

 俺は「失礼します」と言ってから入室する。休日とはいえ校内での宍戸はルールに厳しいはずだ。少しばかり緊張している俺は自分の座席に腰掛けている宍戸に声をかける。

 

「あ、あの、宍戸先生」

「織斑。今日だけは何も咎めてやらないからリラックスしろ」

「ああ、助かるぜ、宍戸」

「……週明けに生徒指導室に来るように」

「すみません、つい! 出来心だったんです!」

「冗談だ。お前の発言も冗談だな?」

「は、はい」

 

 俺としてももう冗談はここまでにするつもりだった。宍戸が教師モードでないことだけ確認できればあとは本題に入るだけ。

 

「結局のところ、俺は宍戸先生の課題をクリアできたんですか?」

 

 前日に宍戸から出された課題は今日の試合で最上会長たちに勝つこと。俺たちは勝利した。だから大丈夫なはずだ。

 

「クリアだ。ついでにタイミングよく敵との戦闘に全員を連れていけたことも大きい。昨日の電話でオレが言ったことは覚えているか?」

「え、と……どれですか?」

「オレはこの試合を通してお前に経験を積ませようとした。さらにもうひとつ狙いがあると言った。その狙いはお前に味方してくれる仲間をできるだけ多く集めておけということだったわけだ」

 

 宍戸にはそんな狙いがあったのか。だとしたら俺は宍戸の思うように動いていたことになる。結果として260人を引き連れてエアハルトに立ち向かえたから、宍戸には感謝しておこう。

 

「おかげでエアハルトも倒せました。宍戸先生はこのまま皆で戦っていけば敵に勝てると教えてくれたんですね?」

 

 こういうとき、宍戸はAICを教えてくれたときのように尊大な態度をとるものだと思っていた。『オレの言うとおりにして正解だろ?』とでも言ってきそうだと。俺は思いこんでいた。

 

「勝つ方法ではある。だが――」

 

 宍戸は表情を曇らせている。俺にとってISVSの先生である宍戸にそのような顔をされては何かが足りていないのだと思わされてしまう。

 俺は食らいつく。

 

「まだ何か足りないんですか!」

 

 詰め寄ると宍戸は目を閉じた。眉間は微かに震え、何かを迷っている気がした。宍戸には秘密が多い。俺に言うべきかどうかで悩んでいる。

 

「隠してることがあるのなら、言ってください!」

 

 悩むくらいなら最初から言ってほしい。ゲーセンのときと違って、もう俺は宍戸に認められたはずなのだから。危険を伴う話でも俺は受け入れる。そのつもりだった。

 

「ダメだ」

 

 だけど宍戸は言ってくれない。目を開いて述べた答えは俺の望むものではなかった。

 

「俺を認めてくれたんじゃないんですかっ! 俺が勝つためにまだ何が必要なのか、教えてください!」

「認めたのは事実だ。勝つためにオレが指導できることなんてのはもう残ってない」

「じゃあ、どうして――」

「まだ不安要素が残ってるからだ。そしてそれはオレがお前に教えた時点で形となる」

 

 宍戸の言うことがわからない。

 俺にはまだ何か問題があって、それを宍戸は知っている。だがその内容を俺に教えるとその問題が表面化する。宍戸が不安というくらいだ。これからの戦いに支障が出るレベルの話なのだろう。

 だからこそ意味がわからない。

 

「やっぱりわかりませんよ……」

「すまない。だがオレの知ってる事実は必ずしもお前()()のためになるわけではない。自力で辿りつけ。でなければお前はお前を許せなくなる」

 

 俺が俺を許せなくなる……

 その言葉を聞いた途端、俺は宍戸の知る事実というものが怖くなった。

 宍戸が俺の何を知ってるのかはわからない。

 だけど、無理を押して聞くことは躊躇われた。

 もう聞こうとは思わない。

 最後にひとつだけ確認して帰ることにする。今日は疲れた。

 

「先生。俺、このままで大丈夫なんでしょうか?」

「その答えはお前だけしか知らねえよ、織斑」

 

 大丈夫とは、言ってくれなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 一夏と鈴が帰っていくのを生徒会長、最上英臣は見送った。イベントの主役は去ってもまだ会場には何人もプレイヤーが残っている。

 最上は腕時計で時間を確認する。もうすぐ会場に設置してある筐体を撤去し、学園の戸締まりを終えなければならない。熱中したプレイヤーたちは時間を忘れている。その気持ちも今の最上は理解できているし常識に囚われるべきではないことを信条としているのだが、最低限守るべきルールというものはある。

 

「残念だけどもう楽しい時間はお終いだよ。撤収の用意をしてくれ」

 

 最上の一声でフリー対戦は今の試合が最後となる。プレイヤーたちも最上に逆らおうと思わないのか素直に従っていた。ISVSに入っている2人を除いた他のプレイヤーたちは生徒会の指示に従って片づけを始める。

 最上自身は監督者として状況を見守るだけ。その彼の元に銀髪を靡かせながら少女が歩み寄る。ラウラだ。

 

「ここの責任者は貴様か?」

「一応そうだね。正確には宍戸先生になるけど」

「この場にいない責任者になど用はない。まだシャルロットが戻っていないのだが、どうすればいい?」

 

 ラウラの指さす先にはひとりだけツムギに残ったシャルロットが横たわっている。何をしているのかラウラには見当もついていないが彼女が戻ってくるのを待つと決めていた。

 

「動かさなくていいよ。全員が帰るまで僕は残ってるからね。彼女が戻ってくるまで君もいるといい」

「わかった」

 

 最上への質問を終えたラウラはシャルロットの元へといく。彼女の後ろ姿を見送った最上は片づけの進み具合を見ていた。

 作業をしてくれているのは生徒会メンバーと最後まで残っていたプレイヤーたちである。最上はその一人一人の顔を観察し、記憶にある名前などの情報を引き出していく。

 生徒会メンバーである白詰和巳(人形遣いジャミ)たち。

 鈴ちゃんファンクラブである幸村亮介(サベージ)内野剣菱(バンガード)たち。

 全国区プレイヤーとして知られるカイトやアーヴィンたち。

 彼らの多くは織斑一夏の抱えている問題など気にもせずに試合に参加した者たちである。あくまでISVSをプレイしに来ただけであり、亡国機業やアントラスなどと戦う意志など持ち合わせていない。今日、織斑一夏と共闘したのはゲームプレイの延長線上である者が大半であった。

 最上は考える。今日は勝利した。だが次は? 同じように集まって戦える保証などどこにもない。彼らは知らないのだから……

 

「皆、作業を止めて聞いてくれ」

 

 最上が動く。今残っているプレイヤーたちは特別にISVSのモチベーションが高い連中だ。ならば与太話の可能性があろうと話を聞いてくれるはずだと、今の最上にはそう思えていた。

 片づけの途中で残っていたプレイヤーたちが最上の元に集まる。壇上に上がっていた最上は告げる。

 

「ISVS史上、最大のミッションについて知りたくはないかい?」

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 俺は帰路に就いていた。隣には鈴だけ。セシリアは先に帰っているし、ラウラとシャルロットは学校に置いてきている。

 静かな帰り道だった。正確には車が走っていたり、すれ違う人の話し声はしている。音がないわけでなく会話がないのだ。俺は鈴と楽しく話そうという気が失せている。

 俺は考え事に没頭する。

 ナナは大切な人の記憶を俺のせいで失っていくと言っていた。悲しいことだがその事実を俺は受け止めた。彼女はずっとISVSにいるのだから俺たちの常識に当てはめていい問題じゃない。俺がどうしたいかは別にして彼女のために距離を置くべきだと思った。

 だがナナはそれすらも否定してきた。わけがわからない。そもそも彼女は俺を毛嫌いしていた。少しずつ認められてきたとはいえ、会えないのは嫌だなどと言われるとは思ってもみなかった。

 

 どうして俺はキレたんだろう?

 ナナの何が気に入らなかったんだ?

 

 俺は後悔してる。けど、何を後悔しているのか言葉にはできない。

 その答えは宍戸の言っていたことにも通じる気がする。

 きっと俺が自分の力で辿りつかなきゃいけないんだ。

 

「一夏っ!」

 

 思考が中断される。ずっと黙って隣を歩いてくれていた鈴が俺の肩を掴んでいた。ハッと我に返ると、俺たちの行く先にはあの“楯無”が待ちかまえていた。

 鈴は臨戦態勢だ。猫みたいな威嚇をしていて、すぐにでも飛びかかりそうである。

 俺は鈴の前に手を出して制した。今はもうこの楯無は敵ではないと俺は知っている。無駄に争う必要はない。

 

「お話ですか、楯無さん。でも今日はやめときません? 俺、疲れてるんで――」

 

 断りを言い切ることができなかった。

 俺の顔を見た楯無は何も言わずに俺の胸に飛び込んできた。頭の回転が鈍っていた今の俺はされるがままに楯無を受け入れる。

 

「ちょっ!? 何やってんの!」

 

 鈴は俺の手が邪魔をしてたから割って入れなかった。俺から楯無を引き離そうとする鈴だったが、俺は再び手で制する。もし楯無に攻撃されるのだとすれば既にアウト。まだ大丈夫ということは危険な事態にはならない。

 いや、そんな分析は関係ない。

 楯無は俺の服の襟を掴んでいる。その手は力みすぎて震えている。

 下を向いていて俺と目を合わせない楯無は叫ぶ。

 

「あなたは、あの子に何をしたのよ!」

 

 試合のときや防衛戦のときのような余裕を一切感じさせない彼女の様子は明らかにおかしかった。俺に怒りをぶつけている。狡猾さとは無縁な感情の爆発に、敵の脅威が潜んでいるとは思えなかったんだ。

 話をする気はなかった。でも、頼れる仲間だった“たっちゃんさん”が取り乱しているのは放っておけることじゃない。話だけでも聞くべきだ。

 

「落ち着いてください。あの子って誰ですか?」

「私の妹よ! 更識簪!」

 

 更識簪。聞いた覚えはある。たしか、昼に虚さんが簪お嬢様と言っていたからそれで知ってるんだろう。だが直接会った覚えはない。

 ……違う!

 俺は虚さんから聞く前に簪という名前を聞いたことがある。正確には目にしたことがある。昨日、倉持技研の廊下でぶつかった女の子のネームプレートに書かれていたのがKANZASHIだったはずだ。

 

「思い出した! 倉持技研にいた子だ!」

 

 ……だから何なんだ? 結局、俺の身には悪いことをした覚えがない。

 

「俺は廊下でぶつかっただけですよ? それが何か問題にでもなってるん――」

「あの子は……私の偽物の正体よ」

 

 偽物とはISVSで俺を襲ってきた楯無のことだ。エアハルトと同じように俺個人を目の敵にしていることは実際に敵意を向けられているからわかっている。

 廊下でぶつかった女の子を思い出してみる。たしかメガネをかけていてずっと下ばかり見ている子だった。前髪で隠れて顔はよく見ていなかったけど、楯無の妹だったらしい。きっと2人の顔は似ていることだろう。

 だけどやっぱりつながらない。

 

「嘘だろ? だって、俺……倉持技研で会ったときは何もされてない」

「でも、あの子はイチカを倒さないと本音ちゃんが帰ってこないって……」

 

 本音ちゃんってのは虚さんの妹のことか。弾の話だと彼女はIllの被害者だったはず。

 俺を倒さなければ本音という子が帰ってこない。これではまるで――

 

「俺がIllみたいじゃないか!」

 

 (たち)の悪い冗談だ。

 この俺がIll? 俺が箒を苦しめている?

 俺の襟を掴んでいる楯無の両手を逆に掴み返す。腕力は俺が勝っていたため、簡単に引きはがせた。

 楯無は俺の手を振り払おうとしない。しかし、視線は睨みつけるだけで俺を殺そうとしているくらい強い。

 互いに状況に振り回されていた。相手が何を考えているのかわからず、考えている余裕もない。

 

「はいはい。とりあえず落ち着け、と」

 

 そんな俺たちの脳天にチョップがそれぞれ振り下ろされた。痛い。犯人はわかっているからすぐに問いつめる。

 

「いきなり何をするんだ、鈴!」

「だから落ち着けって言ってんのよ。アンタらが何を言い争ってんのか、まずはあたしに説明なさい」

 

 ちっとも悪びれない鈴だった。

 怒る気にはなれず楯無に関わる話を最初から説明してやる。

 その間、楯無も俺の話を聞き入っていた。

 

「――以上だ。何か質問はあるか?」

「特にないわ。つまり、一夏が偽楯無に襲われたのはISVSでだけなんでしょ?」

「そうなるな」

「だったら偽楯無のターゲットは織斑一夏でなくヤイバってことじゃない」

「え? でもさっき、楯無さんは偽物が“イチカ”を狙ってるって……」

 

 楯無を見てみる。すると彼女は何かに気づいて口をあっと開け、右手で開いた口を隠した。目は泳いでいる。

 

「簪ちゃんに一夏くんの名前を教えたの私だ。簪ちゃんはヤイバって名前も知らなかったみたい」

 

 中身が一夏だからヤイバを狙うのではなく、狙っている相手の名前が一夏だと知っただけということだ。

 ということは偽楯無が本当に狙っていたのは……

 鈴が答えに辿りついた。

 

「ヤイバのアバターが銀髪だったのが原因かもしれないわね」

 

 今度は俺があっと大口を開けることとなる。

 ヤイバのアバターは一目で俺だとわからないよう、彩華さんからもらったイスカを元にして組み直しただけ。髪の色をイジらなかったことがここにきて裏目に出ていた。

 

「だとすると簪って子はIllの中身が遺伝子強化素体であることを知っていた?」

「違うわ。きっと本音ちゃんを襲った奴を直接見たのよ」

「それがヤイバそっくりだった……? 福音のときみたいに」

 

 だが何のために? 俺が敵にマークされたのは最近のことのはず。本音という子が被害にあったのは3ヶ月は前のことであり、俺がISVSを始めるより前の話。辻褄が合わない。

 答えは出ない。とりあえず今のところわかったことは3つある。

 本音という子が間違いなくIllにやられているということ。

 偽楯無である簪は俺をIllだと勘違いして次も襲ってくるということ。

 そして、楯無に問いつめられたところで俺が答えられることなんてないってことだ。

 

「ごめん、一夏くん。つい取り乱しちゃって」

 

 楯無が謝ってくる。別に謝られるほどのことではないんだけど受け取っておいた。鈴が不服そうな顔をしているがスルーしておく。

 

「すみません。俺にできることはないみたいです」

「それでいいのよ。一夏くんは悪いことをしてない。だったら簪ちゃんの勘違いを正すのはお姉さんである私の役目」

 

 徐々にだが楯無はたっちゃんさんらしくなってきた。苦手な部類だけど、彼女らしい方がいいに決まっている。

 

「そういえば、現実の妹さんはどうなってるんです? ISVSでなく現実で会えばそれで解決するのでは――」

「ダメ。倉持技研にいるんだけど、現実(こっち)に戻ってきてないの。強制排除も受け付けなくって、手出しのしようがないわ」

「それってIllにやられた被害者と同じじゃないですか!」

「わかってるわよ! だから焦ってるの!」

 

 現実からのアプローチはもう試した後だった。もう既にIllにやられているのか、もしくはIllの傍にいながらにして俺を討つために待ち続けているのか。そのどちらかだろう。

 

「結局のところ、Illを見つけて倒す以外の解決法はありませんね」

「そうなるわね。本音ちゃんを襲った奴は私がこの手で引導を渡してやる必要があるし」

「一人じゃ無理ですって」

「わかってる。だから一夏くんを存分に利用させてもらうわ」

「無茶しなくても俺が倒しますよ」

「そうはいかないわ。あの子に言われちゃったの。『お姉ちゃんは本音のために戦ってくれない』って。そんなことないって行動で示したいのよ」

「わかりました。全力で協力します」

 

 普段なら俺がやらなくてはいけないと思いそうなことだったが、俺は楯無に協力する気満々だった。少しだけ自分と重ねてしまったからだ。

 一夏は私のために戦ってくれない。箒にそう言われたのと同じだと思った俺は自分のことのように苦しかった。

 

 俺は楯無と連絡先を交換した。敵と戦うときは必ず呼んでほしいとだけ伝えて彼女は去っていった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 他に誰もいないツムギの廊下に金髪の美少年が立っている。防衛ミッションの後に1人だけ残っていたシャルルだ。彼女が立つ場所はとある部屋の扉の前。近くに人がいないかキョロキョロと確認した後で控えめにノックを2回する。

 しばらく待つ。しかし中からの反応はなかった。

 

「寝てるのかな? レミさんに聞いた話だと戦闘後は部屋で休んでるらしいから、不思議でもないか」

 

 シャルルはもう一度ノックしてみる。

 

「ナナさん。ヤイバの友達のシャルルといいます。少しお話をしたいのですが」

 

 やはり反応はない。

 シャルルは「これでダメなら諦める」と呟くと強めにノックをする。

 

「篠ノ之箒さん! ツムギのシャルルです!」

 

 ツムギに所属していると嘘をつき、ナナを篠ノ之箒と呼んだ。

 待つこと10秒。20秒。30秒経っても何も反応がなかった。

 シャルルは肩をすくめる。出てこないナナにではなく、自分に呆れていた。

 

「もしかしてと思ったけど、これはハズレっぽいかな。そもそもヤイバが確認してないわけないし」

 

 収穫なしで引き返すことにする。

 ナナが篠ノ之箒ではないかと防衛ミッション終了後にシャルルは仮説を立てていた。いや、仮説というよりは願望。目に宿る悪魔だったかもしれない。

 シャルルの目的は『父に認められること』の1点である。彼女が父から盗み聞いた父の悩みは2つ。1つはISVS内にアントラスの新兵器が現れた可能性があるということ。もう1つは篠ノ之束、正確には篠ノ之論文の行方である。

 

「パパはIS適性が高いプレイヤーがIllに狙われてるって見当をつけてた。これが事実だとするとおかしい。僕やラウラはともかく、カティーナ・サラスキーみたいな国家代表クラスのプレイヤーまでいたのに、ナナさんだけに固執してたのには理由があるはず」

 

 廊下を歩きながら呟く。ナナが狙われる理由としてシャルルが一番しっくりくる答えは彼女が篠ノ之箒であること。しかしそれが真実とは限らないと思い直したシャルルであった。

 

「少し急ぎすぎてるかも。一度パパに相談した方がいいか。いや、その前に日を改めて直接ナナさんの話を聞くべきだよね」

 

 後日、単身ででもここを訪れようと決めた。

 あとは帰るだけである。ツムギのドームに来ることは手間だが帰るだけならばISVSからログアウトするだけなので一瞬でできることだった。しかしシャルルはまだ通路を歩いている。誰か適当な人に話を聞いてから帰ろうと思っての悪足掻きみたいなものだった。

 大きな戦闘の後でツムギのメンバーのほとんどは眠ってしまっている。シャルルは誰とも会うことなくどんどん下へと降りていった。同じような風景が続き、不毛に感じ始めたシャルルはそろそろ戻ろうかと考え始める。その矢先のことだった。

 

「あ、男の人だ」

 

 シャルルは反対側から歩いてくる男と遭遇する。2m近い巨漢のアバターだった。ツムギのメンバーも外見を調整できることはナナの髪の色から察しているため、その大男もツムギのメンバーなのだと漠然と感じていた。

 シャルルは声をかけることにした。まずは目に付くことから。

 

「海で泳いでいたんですか?」

 

 男は全身がずぶ濡れだった。上半身は裸であり、ボディビルダーのような雄々しい筋肉をこれでもかと見せつけている。手入れをしてなさそうな銀色の長い髪は水を吸って重そうだった。銀色の髪。これがラウラの髪だったらすぐにでも洗ってドライヤーで乾かしたくなるなと思ったところでシャルルは己の失態に気づいた。

 時すでに遅し。一瞬のうちに懐に飛び込んできた男の右腕がシャルルの腹部に突き立てられていた。シャルルは自らを構成している粒子が散っていくのを見ながら歯噛みする。

 遺伝子強化素体が侵入している。

 ISVSらしい機能を一切使用せず、陸地から泳いでやってきたことで倉持技研の警戒網をくぐってきたのだ。

 こんなところに敵がいるはずがないと油断していたシャルルはISで戦うことなく敗北する。

 ここで彼女の意識は途切れることとなった。

 

 

 大男が念じることでシャルルであった粒子は大男の手の平に集まった。ひとつの光の玉となったところで大男が握りつぶすと、光の玉は大男の中に取り込まれる。

 

「フッハッハ。中々良いものだった。エアハルトの注文の品をつまみ食いするわけにはいかぬからちょうど良い」

 

 大男、ギド・イリーガルは上機嫌に笑う。あくまで隠密行動をしているはずなのだが、敵に見つからないための配慮は一切なかった。

 

「腹ごしらえはすんだ。次は情報を得るとしよう」

 

 ギドはツムギのドーム内を悠然と歩く。シャルルが通った際は誰とも遭遇しなかった通路だが、ギドは割と早く1人の少女を発見した。

 少女もギドの存在に気づく。シャルルと違い、この少女はギドを不審人物として警戒していた。だからこそ話が早い。ギドは少女に問う。

 

「そこの小娘。“ナナ”という娘の居場所を教えろ」

 

 少女はギドの威圧を前にしても表情を崩さなかった。

 淡々とただ事実を告げるように嘘をつく。

 

「あなたの目の前にいるのですが、他に教えることはあるのでしょうか?」

 

 ギドは醜悪な笑みを浮かべて少女に接近する。少女がISを展開するだけの時間の余裕を与えず、手刀で意識だけを刈り取った。気を失った少女を抱えてギドは高笑いする。

 

「このオレを前にして臆せず嘘をつくとは面白い。いいだろう。その心意気に免じて貴様をナナとして連れ去ってやろうではないか。さすれば殺意を剥き出しにした本物と相まみえることもできよう」

 

 隠密行動は終了。ギドは自らのIll“イリーガル”を展開する。肘から先と膝から先の装甲、あとはジャケット形状のものを肩にマントのように引っかけているだけで機体とは呼びにくいIllであった。

 ギドが少女を抱えたまま通路の壁に向かって跳躍すると、壁は紙でできているかのようにたやすく貫かれた。そのまま失速することなく外壁をも突き破り、東の空へと消えていく。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 太平洋上に浮かぶドーム型レガシーがある。“トリガミ”と名付けられているドームの屋根にはシビルが立っていた。ショートカットの髪は銀色から黒に染め直し、眼の色も日本人に合わせている。

 シビルは西の空を仰ぐ。日が沈んだ直後のわずかに白んでいる空には1点だけ黒が存在する。黒は次第に大きくなり、人の形をなす。気絶した少女を抱えた銀髪の大男である。

 飛んでくる大男に向けてシビルは親しげに大きく手を振った。

 

「ギドーっ! おっかえりー!」

「シビルじゃねーか! エアハルトはどうした?」

「は・か・せ!」

「おう、奴はどうした?」

 

 大男、ギドが着地するとシビルはそっぽを向く。ぶぅと頬を膨らませるがギドが訂正を入れる様子はなかった。

 

「博士から伝言。しばらくこっちに来られないから捕らえた娘を逃がさないよう細心の注意を払えってさー。で、それが噂のナナ?」

 

 シビルはギドの抱えている少女を指さす。

 ギドはがっはっはと高笑いを返した。

 

「こいつは餌だ!」

「はあ? 敵の基地に侵入しておいて、目標を放置してきたってこと!?」

「結果としてナナという娘はここにやってくるのだから問題ないではないか」

「何を根拠に言ってるのか全然わかんなーい! それに敵に“とりがみ”の位置をばらすつもりってこと?」

「群がるザコどもをオレが一蹴すれば良いのだろう? こんな簡単なことで全てに決着がつくというのに、エアハルトが何を考えているのかオレにはわからん」

「やっぱギドってバカ」

「貴様とは見えているものが違うのだ、チビ」

「ギドと比べたら誰だってチビだよー。……っと、説教はしばらくお預けだね」

 

 シビルがギドから視線を外して会話を中断する。

 一瞬で子供らしかった顔つきを引き締める。

 その理由はこの場に現れた第三者にあった。シビルは口調を変えて第三者である少女に話しかける。

 

「あれ? こんなところで奇遇だね、簪ちゃん」

「お姉ちゃん!? くっ!」

 

 シビルとギドの前に現れたのは偽楯無、更識簪だった。シビルをお姉ちゃんと呼んだ簪は右手の刀をシビルに向けた。

 シビルは両手を上げて戦意がないことを示す。

 

「待って、簪ちゃん! 誤解よ! 私たちが戦う必要なんてないわ!」

「だったらそこにいるそいつは何? イチカじゃないの? 私の敵じゃないなら今すぐそいつを殺してよ!」

 

 簪はギドを指さして“イチカ”と呼んだ。ヤイバとは体格からして違うにもかかわらずだ。

 

「聞いて、簪ちゃん! この人は違うの!」

「何が違うの!? そいつが本音を奪っていったのにィ!」

 

 ここでシビルは背後で黙っているギドに振り向いて「そだっけ?」と首を傾げてみる。ギドは鼻で笑いながら「おそらくそうだ」と肯定した。

 シビルは改めて簪の方に振り向く。ギドに向けていたおどけた表情は欠片もない。

 

「落ち着いて! 簪ちゃんは今、混乱してるの!」

「私はおかしくなんてない! おかしくなったのはお姉ちゃんの方! 私がなんとかしなくちゃいけない!」

 

 簪が山嵐を発射口をフルオープンする。発射管にミサイルがチラッと見えたところでシビルは切羽詰まった表情を崩して笑った。

 

「仕方ないわ。ごめんね、簪ちゃん」

 

 簪が山嵐を発射すると同時にシビルが指を鳴らす。

 アクア・クリスタルの起爆。

 水蒸気に模した少量のナノマシンでもミサイルの誘爆を引き起こす熱量を発生させることは可能だった。簪は自らの装備でダメージを負う。

 

「言うこと聞かない悪い子にはお仕置きよ」

 

 次にシビルは簪の右肘にアクア・クリスタルを結集させ凝結させる。密度の高くなったナノマシンに一斉にエネルギーを供給し、高熱量と共に爆破する。

 

「きゃあああ!」

「へぇ、簪ちゃんって意外と声出せるのね。ゾクゾクしちゃうかも」

 

 簪は右腕を爆破されたがまだ武器を取り落としてはいない。しかし、戦闘前の口上の間にシビルは罠を張り終えている。このまま戦闘して簪に勝ち目はなかった。

 追い打ちとしてシビルが指を鳴らしてアクア・クリスタルを爆破しようとする。

 

 だがその動作を遮るように1本のナイフがシビルを襲った。

 シビルは新たに現れた敵の攻撃に気を取られて追撃の爆破に失敗する。

 簪とシビルの戦闘に割って入ったのは男だった。

 装甲と呼べるパーツを一切つけていないISらしくないISを纏っている男は両手にナイフだけ持っている。

 スーツ姿にメガネをかけたアバターのままの姿で宙に浮いている姿はISVSでもあまり見られない光景だった。

 スーツ姿の男は簪を背にして前に立つ。

 

「簪ちゃん。ここは私に任せて一度退いてください」

「で、でも……平石さんは?」

「大丈夫です。逃げ足には自信があります。近いうちにここへ私の部下たちが来てくれるので、そのときまで隠れていてください」

「わかりました……気をつけて」

 

 簪はスーツの男、平石と入れ替わるようにして撤退していく。このまま彼女はそう遠くない位置で待機し、この場を襲撃する部隊に合わせて攻め込むはずだ。

 

 シビルもギドも簪を追うことはしなかった。いや、追ってしまっては意味がなかったのだ。

 ギドは一連の流れをつまらなさそうに見ているだけ。

 シビルは戦闘の邪魔をした男が目の前にいるというのに戦闘体勢を解く。

 平石は簪がいなくなったことで持っていたナイフを拡張領域に回収した。こちらも戦闘解除だった。

 シビルが平石に確認する。

 

「ハーバヤー! これでいーのー?」

「ええ、十分ですよ。良くできました。あとでおやつをあげましょう」

「人間は嫌いだけど、ハバヤは好きー」

 

 シビルは敵対していたはずの男に抱きついた。楯無と同じ顔をした遺伝子強化素体の頭を撫でながら平石羽々矢(ハバヤ)は苦笑する。

 

「ハッハッハ、一ついいことを教えてあげましょう。親切な人間が優しい人間とは限りません」

「知ってるー。だってハバヤがそうだもん」

 

 苦言を苦言で返されてハバヤは「うっ」と呻く。

 

「言ってくれますねぇ……無邪気な分、グサッと刺さります」

「嬉しい癖にー」

「そういうことにしておくのがお互いのためでしょうね」

 

 シビルに頬ずりをされてもされるがまま、ハバヤはやれやれと肩をすくめた。

 ハバヤに懐いているシビルとは対照的にギドはハバヤを冷めた目で見つめる。

 

「また妙な小細工か。つまらん奴だ」

「生憎ですが私はあなたみたいな戦闘専門の脳筋ではないんですよ。そういえばヴェーグマンは留守のようですし、私が代わりに指揮を執りましょうか?」

「ダメー! 万が一にもハバヤが指揮を執ることになったら問答無用で喰えって博士から指示が出されてるもん」

「おおう……一応、善意からの提案なのですが全く信用されていないとは嘆かわしいことです」

「ハバヤって面白いこと言うよね。ハバヤに善意があるはずないじゃん」

「誠に嘆かわしいことです……」

 

 ハバヤはわかりやすくガックシと肩を落とす。シビルが「ごめーん」と慰めている間に、ハバヤに興味を示さないギドはドーム“トリガミ”の内部へと入っていく。

 少女を担いでいる後ろ姿にハバヤは声をかける。

 

「鷹月静寐が餌ですか。1日もせずに獲物がかかるでしょうね」

「そうでなくてはエアハルトに合わせる顔がなくなる」

「でも、注意してくださいね。かかる獲物は1匹ではありません。おそらく織斑一夏もかかることでしょう」

「織斑一夏? 何者だ?」

「イルミナントを倒した男ですよ」

 

 ハバヤからの情報を得たギドは笑う。

 

「全て喰らいつくすのみだ! それでこそやりがいがあるというもの!」

 

 敵対する者の脅威を知って、臆すのではなく楽しんでいた。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 警報の音が聞こえてナナは飛び起きた。ヤイバがどれだけ必死に開けようとしても開かなかった扉は簡単に開放された。廊下に飛び出したナナはたまたま近くにいたカグラを捕まえる。

 

「何が起きた?」

「ツムギの外壁が突き破られたとのことで現在、侵入者の捜索中です」

「捜索中? 敵の襲撃ではないのか?」

「まだ敵の姿を確認できてません」

 

 ドーム自体に穴を空けられたが未だに誰も敵の姿を見ていないという。ナナはすぐに通信をつなぐ。ツムギの情報は彼女に聞けば大体把握できるはずだった。

 だが、

 

「シズネ! 返事をしろ!」

 

 シズネにつながらない。返事がこないのではなく、どこにいるのかわからないと紅椿は答える。ツムギの中にいてシズネの位置を見失うことなど今までにありえないことだった。

 

「カグラ! 全メンバーをゲート前に召集して点呼! 何か異変を察知している者がいれば私に直接知らせてくれ! 敵の捜索は倉持技研に任せればいい!」

「ナナさんは?」

「私は中枢に向かう。クーが何かを見ているかもしれない」

「わかりましたわ。直ちに全員を集めます」

 

 カグラに指示を伝えたナナは急いでドームの最下層にいるクーの元へと向かう。

 

 倉持技研の協力が得られて以降、クーは滅多にナナたちの前に顔を出さず、ドームの中枢部である空っぽの部屋にいることが多くなった。たまにナナの方から顔を出さなければあまり会えない。

 ナナは目的の部屋に到達する。正六角柱の殺風景な空間の中央には盲目の少女が立っているだけ。またISVS自体と通信のやりとりをしていると理解しつつもナナは自分の用事を優先させる。

 

「クー。聞きたいことがある」

「なんでしょうか、ナナさま」

「シズネは今、どこにいる?」

 

 質問に対してクーはナナの前に即座に地図を表示する。ツムギより東方、太平洋上の1点に印がつけてあった。

 

「シズさんはそのポイントにいる確率が99%です」

「ほぼ確定だと? なぜシズネがそのような場所にいる?」

 

 続くナナの問いには映像を映し出すことで答えが示される。

 ツムギ内部の通路に見覚えのない大男の姿がある。

 その男の視線の先にはシズネ。

 彼女が何かを言うと、大男に気絶させられた。大男はそのままシズネを連れて壁を突き破っていく。

 

 ナナは手近な壁を殴りつけた。視線はクーに固定され、その形相は鬼となっている。

 

「シズネがさらわれただと!? なぜそれを早く言わない!」

「言えばナナさまはどうされますか?」

「すぐに助けにいく! 今からでもだ!」

「私の分析によれば、あの大男にはナナさまでも敵いません。ヤイバお兄ちゃんたちの力を借りるべきです」

「ヤイバの力は借りられない……時間が惜しい」

 

 ナナは踵を返す。時間を言い訳にしてひとりで飛び出す決意をする。その背にクーは手を伸ばした。

 

「いけません、ナナさま」

 

 クーの手は届かない。ツムギの中にナナの姿はもうない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 これは夢だとすぐにわかった。

 理由は簡単。俺の目の前に箒がいるからだ。

 弾や鈴たち。いつものメンツの中に箒が混ざっている。

 彼女が俺を見て『一夏』と呼んでくれる。

 俺は病院で横たわる彼女しか見たことがないというのに、彼女の所作も表情も細かいところまで鮮明に見えていた。

 この箒はきっと俺の願望の中だけの存在なのだろう。

 

「一夏さん……」

 

 ふと夢の中の登場人物以外の声がしてきた。俺はこの声を知っている。俺の夢の中にいない彼女の名前はセシリア・オルコット。彼女が俺を呼んでいるということは何か良くない報せがある可能性が高い。

 俺は起きなければならない。どれだけ夢の居心地が良いといっても、いつまでも甘えてはいられない。俺が欲しいのはそんなものじゃなかったはずだから。

 

 

 目が覚める。部屋には明かりが点けられていた。壁に掛かっている時計を確認すると時刻は深夜の1時。だというのに俺の部屋の入り口にはセシリアが立っている。彼女はすぐにでも外出できるような服装だ。俺はベッドから立ち上がり彼女の元へいく。

 

「こんな時間にどうしたんだ、セシリア」

「ラウラさんの真似をしようかと思いまして」

「冗談は止してくれ。真面目な話があるんだろ?」

 

 セシリアといい、シズネさんといい、本題に入る前に冗談を言わなければいけないのだろうか。そして、2人ともキレが悪いときは決まって本題の内容は良くないものである。

 

「ツムギからシズネさんがさらわれました」

「……は?」

「敵は強力なIllを所持するアドヴァンスドであると思われます」

「待ってくれ!」

 

 嫌な予感はしていた。しかしセシリアの口から出てくる言葉はあまりにも突然で、俺の頭は追いつかない。

 

「俺たちはエアハルトに勝っただろ? なんでそんなことになってんだよ」

「迂闊でしたわ。倉持技研だけでなく蒼天騎士団にも警備にあたらせていたのですが、PICを使用せずに単身で泳いでやってくる敵には気づかなかったのです」

 

 たった1人に奇襲され、誰も気づかないままシズネさんだけがさらわれた?

 

「なんでシズネさんがさらわれたんだ?」

「敵の目的は不明です。わたくしの推論で良ければお話ししますが」

「頼む」

「おそらく襲撃者はナナさんと勘違いしてシズネさんを連れ去ったのでしょう」

 

 ナナと間違えてシズネさんをさらった。アドヴァンスドの知性が低いかもしれないことを考えるとあながち的外れな推測ではない。

 ここで俺は気づく。シズネさんがさらわれたなんてことになったら、ナナが黙っているはずがない。

 

「ナナは!? アイツはどうしてる!?」

「それを知って一夏さんはどうなさるおつもりですか?」

 

 セシリアの質問の意図がわからない。

 

「シズネさんを助けにいってるのなら俺たちも早くいかないと――」

「だと思いましたわ」

 

 俺が当たり前だと思っていることを口にする。セシリアも俺の答えは想定済みだったようだ。だったらこの先、俺がどうすべきかも彼女が導いてくれる。それが俺たちの関係。

 だけど今の俺にはセシリアが何を考えているのかわからない。彼女は右手に持っているものを俺に見せつけてくる。それは俺のイスカだった。

 俺はセシリアの持つイスカに手を伸ばす。しかし、彼女は俺から距離を取った。イスカを渡すつもりはないという意志があるとしか思えない。

 

「どういうつもりだ、セシリア!」

「まずはわたくしの話を聞いてくださいませ」

 

 理由を話してくれるらしい。セシリアの行動を不審に感じながらも、これまでの彼女と築いた信頼が俺に強硬手段を取らせないよう留まらせた。

 俺が落ち着くとセシリアは説明を始めてくれる。気が進まないことは彼女の物憂げな青い瞳が語っていたのだが、聞かないと何も始まらない。

 

「最初に質問をさせてください。今、一夏さんはどのタイミングでISVSに行かないといけないと思われましたか?」

 

 妙な質問だな。当たり前だと思うことを答えることにする。

 

「シズネさんがさらわれたから」

「本当に自覚されていないようですわね。一夏さんが焦りだしたのはナナさんの名前が出てからのことです」

「そんなのどっちだって同じだ!」

 

 まるで俺がナナとシズネさんに優先順位をつけているようなセシリアの物言いにムっとする。セシリアは俺の主張を無視して話を続けてくる。

 

「今日のエアハルトとの戦い。わたくしが止めたにもかかわらず一夏さんは無茶に飛び出した場面がありました」

「あれは俺がいかないとナナがやられてた」

「ええ。そして、サプライエネルギーの急激な上昇が無ければ一夏さんがエアハルトにやられ、イリシットというIllに喰われるという事態となっていたでしょう」

 

 それは俺も覚悟していたことだ。でも、もし俺がやられても弾を始めとする仲間がいる。俺が負けても詰みじゃない。

 だけどナナは違う。ナナは一度やられてしまえばそれで終わりなんだ。俺が倒したアドルフィーネのように……

 

「俺は間違ってない。セシリアは何が大切なのか見失っていないか?」

「見失ってるのは一夏さんではなくて? あなたがいなくて誰が箒という方を救えるのですか? 昼に最上生徒会長との戦いでおっしゃっていたことは嘘なのですか?」

 

 嘘なんかじゃない。他ならぬ俺の手で箒を助け出したいというのは間違いなく俺の望みだ。

 否定しない俺にセシリアが畳みかけてくる。

 

「ナナさんのために無茶をして、箒さんを自らの手で助けたいという願いを無にするかもしれなかった。どこか歪ではありませんか?」

 

 段々とセシリアの言いたいことがわかってきた。寝る直前まで俺が悩んでいたことにもつながることだ。

 ナナは俺にとって……ついでに助ける程度の存在であるはずだと。

 彼女のために自分を危険に晒すのはおかしいのではないかと言いたいのだろう。

 俺はナナに会わないと決めた。ナナのことは関係ないと言い聞かせて戻ってきた。そんな俺がナナのために命を懸けるなんて馬鹿げてる。箒のためを思うなら自分を大事にしないといけないんだ。

 ……だなどと納得できる頭は俺にはなかった。

 

「歪なもんか! 誰かを見捨てるような俺が箒を助けても、箒は絶対に喜んではくれない!」

 

 俺はセシリアに右手を出す。さっさとイスカを寄越せと迫る。強引に奪おうとしても、現実のISを所持している彼女からは奪えない。彼女の意志で返してもらわなければならない。

 セシリアは下を向いた。俺の位置からだと前髪で隠れて表情は窺えない。

 

「これだけは……話したくありませんでした。ですが、またナナさんのために一夏さんが無茶をなされないためにも、お伝えするべきでしょう」

 

 セシリアの声が一段と暗くなる。彼女には今まで俺に話していないことがあるらしい。俺は彼女の抱える秘密を受け止めるべく黙り込む。

 

「わたくしたちの住むこの現実世界に文月奈々という人間はいないのです」

 

 俺は何も言えずに固まった。

 

「念のために言っておきますが、シズネさん――鷹月静寐さんたち数名が入院していることは確認できています。しかし、ナナさんを始めとする多くのツムギの方々は各地の病院では見つかりませんでした」

「し、調べ方が悪いだけだろ?」

 

 ようやく出てきた言葉はセシリアの調査結果が間違っているというもの。しかし、自分で言っていてなんだがそんなはずはないとも思っている。

 

「混乱を避けるため、一夏さんにも名前は教えませんが病院以外で状態が確認できている人はいます」

「なんだ。だったらナナもそうかもしれないな」

 

 思いとは裏腹な言葉ばかり口から出てくる。もう俺はセシリアが言わんとしていることを理解しているというのに……否定したかったんだ。

 セシリアは「そうですわね」と俺の発言に頷く。最悪な返答と共に。

 

「もう亡くなられている方ですから」

 

 わかっていることでも実際に聞かされてしまえば胸が締め付けられるみたいに息苦しかった。そして、まだ俺は否定する材料を求める。胸の苦しみから逃れるために足掻くのだ。

 

「ISVSでも死んだ人?」

「いいえ、まだあちら側では健在でしたわ。今回もわたくしは言葉を交わしました」

「人違いとかじゃないのか?」

「遺族の方とも話してきました。よく似た双子がいるというわけでもありませんでしたので、勘違いということはないでしょう」

「でもナナじゃないんだよな?」

「そうですわね。しかしながら、昏睡状態で生きているのならばどこかで相応の処置をする必要があります。医療設備の整った場所で見つかっていないことが事実としてある以上、否定はできません」

 

 思いつく可能性は全て切り捨てられた。

 実際にツムギ内で現実には死んでいる人が確認されている。

 セシリアの持っている情報を統合するとナナは本人も気づかぬうちに死んでいるかもしれない。

 

「わたくしが一夏さんを起こしたのは、シズネさんを助けにいくこと自体には賛成だからですわ。ですが、ナナさんのために無茶をされるかもしれないことだけが気がかりなのです」

「だったら早く俺にイスカを返してくれ」

「約束してくださいますか? もう二度とナナさんのために無謀な真似はしないと」

 

 ここで頷けばセシリアはイスカを返してくれる。実際に俺がどうするかはさておき、口だけでも約束を交わしておけば俺はISVSに向かうことができる。

 俺の答えは決まっている。

 

「約束はできない」

「一夏さん……」

「セシリアが言いたいことはわかる。本当はわかりたくない。でも敵と戦う意志が一番強いのは俺だ。俺が欠けても皆がなんとかしてくれるっていうのは甘えなんだってのもわかってる」

 

 実際のところは俺が犠牲になるまでどうなるかわからないが、強く否定することは俺にはできない。

 セシリアの言うとおり、ナナのことはもう考えない方が俺のためにもナナのためにもなる。

 俺たちは今からシズネさんを助けにいく。ナナもシズネさんを助けるのに全力を尽くしている。俺たちが優先すべきはシズネさんの安全の確保であり、もう死んでいるかもしれないナナのために俺が犠牲になるような真似をしてはいけない。

 セシリアも言ってくれているから、俺は素直に従えばいい。

 それが最善につながるはず。

 

 ……反吐が出る。

 

 どう言ったところで俺という人間は変わらない。いざ本格的に見捨てようとしても、俺の本心を思い知らされるだけだ。

 俺は無茶をしていなくなるかもしれない。皆に迷惑をかけるかもしれない。それでも――

 

「それでも、俺は何度だってナナを助けにいく」

 

 ナナを助けてきたのは箒に認めてもらった俺であるためなんかじゃなかった。

 俺はあのちょっと乱暴で責任感の強い泣き虫なお人好しを放ってはおけないのだ。

 

「この世にいないかもしれない? 関係ないね。たとえナナがあの世界で造り出されたAIだろうと、消えるかもしれないとなれば俺は全力で助ける」

「箒さんを見捨ててでもですか?」

「勝手に片方だけを選ばせるなよ、セシリア。可能性ある限り、俺は両方を選ぶような強欲な男なんだぜ? 知らなかっただろ?」

「ええ。初めて知ったと思います」

「セシリアはどうなんだ? ナナが人間じゃなくてAIだとして、消えても良いなんて本気で思ってるのか?」

 

 もう自分の胸の内を把握した。次はセシリアにも向き合ってもらう。死んでいるツムギメンバーの話を始めてからずっと顔を伏せている彼女の心境を俺は言葉通りに受け取ってなどいない。

 

「答えてくれ。さっきからずっと俺に顔を見せてくれないけど、セシリアが言ってくれたんだろ? 真摯に応えようとするのなら、まずは相手の目を見て話せってさ」

 

 セシリアが顔を上げる。彼女の両目には涙があふれていて、今にも決壊しそうだった。

 

「わたくしだって……ナナさんに生きていて欲しいと思っていますわ」

 

 泣いている女の子は卑怯だ。強いと思っている子だとなおさら。俺は耐えきれずにセシリアを抱きしめる。

 

「ごめん。ずっとこの事実を一人で抱えてたんだって気づかなかった」

「隠していたのはわたくしですわ。わたくしこそ謝らねばいけません。この秘密を知れば一夏さんの心は壊れてしまうのだと思っていました」

「あながち外れじゃないな。正直、セシリアが泣いてくれなかったら、俺は今にも発狂しそうだ」

「抱え込んで良いのですか?」

「このモヤモヤは全部シズネさんをさらった奴に八つ当たりして解消する。だからイスカを返してくれ」

 

 今度は素直にイスカが手渡された。

 俺は受け取ったイスカを見つめながら、セシリアに決意表明する。

 最上会長に言ったことと合わせると心変わりしがちな軽い男となりそうだったが、これも俺の素直な気持ちだ。

 

「もう俺は箒のためだなんて言い訳はしない」

 

 最初は箒だけしか見てないはずだった。でも、色々な人がこの事件自体に関わってくるようになり、鈴を巻き込んだ。鈴を助けるのに必死だったのは決して箒のためじゃない。

 ナナとシズネさんに助けると言った。あのときは1人助けるのも2人助けるのも一緒だと思って安請け合いしたのだと思っていた。でも、なんてことはない。全ては、俺がナナを追いつめてしまったあのときに決まっていた。

 

「俺はずっとナナの力になってやりたいと思ってたんだ」

 

 死にたくないと消え入りそうな声で訴えていたナナの顔が蘇る。

 あのとき、俺が手を止められた本当の理由はきっと――

 

「嫌われても関係ない。現実にいなくても関係ない。俺は絶対にナナを見捨てないって決めた」

 

 胸の内では箒に謝る。

 これが原因で箒を救えなくなるかもしれない。そうわかっていても、俺は俺を止められそうにない。

 今はナナを助けたいんだ。ナナのためにシズネさんを助けたいんだ。

 ナナの王子様の記憶なんてもうどうでもいい。

 俺は俺のしたいようにする。そう決めた。

 

 イスカを受け取った俺はベッドへと戻る。やることが決まればISVSに入って敵の拠点に攻め入らなければならない。

 しかしセシリアに止められる。

 

「あ、一夏さん。今すぐお着替えになってください」

「へ? どこかに出かけるのか?」

「はいな。藍越学園にいきましょう。既に鈴さんは先に行ってます」

 

 この夜中になぜ藍越学園なのだろうか。

 セシリアからは詳しく説明されないまま、老執事が運転する車で俺たちは藍越学園に向かうこととなった。

 

 

***

 

 深夜の藍越学園。真っ暗なはずであるのに、なぜか体育館だけ明かりが点いている。校門も開けられていて、勝手に入ってもいいものかと考え込もうとしたところで俺たちを待ち受けていた人の姿が目に止まる。

 ……宍戸だった。

 

「遅いぞ、織斑」

「どうして宍戸先生が……」

「状況が色々と変わってな。詳細は歩きながら話す」

 

 宍戸を先頭にして俺とセシリアが続く。

 

「本来、全員が帰還したところで学園に設置したISVSの装置を全て回収する予定だったのだが誤算が生じた」

 

 まだイベントに使っていた設備を片づけていないということらしい。その理由は帰ってこなかった人がいるから。

 俺が帰ってきたのは最後から2番目。俺より後には一人しかいない。

 

「シャルが帰ってきていないんですか!?」

「ああ。オルコットの得た情報と統合するとデュノアはIllに襲われた可能性が高い」

 

 自然と俺の右手は拳を形作る。

 また犠牲者がでた。それも身近な人間でだ。

 俺だけの責任じゃないってのはわかってる。

 でも俺は油断していた。

 この失態はIllを倒すことでしか取り戻せない。

 

「また一つ。敵をぶっ飛ばす必要が出てきた」

「通常は被害にあったデュノアを事情を知っている病院に搬送するところなのだが、今回は少々特殊なケースだ」

「敵の位置がわかっているってことですか?」

「そういうことだ。故に今あるかぎりの戦力を以てIllの掃討にかかるべきだと判断した。すぐに帰ってくるのならば運ぶだけ無駄だろう?」

 

 宍戸は面倒くさい言い回しをしている。

 要は俺たちがIllを倒してくると信じてくれてるってことだろ?

 

 体育館に到着する。扉を開き、中から漏れる光に目が慣れた俺の目に映ったのは、昼にもいたプレイヤーたちであった。人数にしておよそ60人ほど。

 こんな夜中になぜ皆が集まっているんだろう。

 プレイヤーたちの中から鈴が出てくる。彼女は俺に人差し指を突きつけてきた。

 

「どーよ! あたしにかかればこの程度の数、すぐに集まるわ」

 

 鈴だけで集めたにしては数が多い。というよりも顔ぶれに違和感がある。最上会長だったり、藍越学園生ではない遠方から来ていたプレイヤーだったり、サマーデビルたち女子の姿もある。俺が疑問に思っていると最上会長が進み出る。

 

「僕個人の判断でIllのことや君の知るツムギのことを皆に話させてもらった」

 

 まだ俺は藍越エンジョイ勢の一部プレイヤーと蒼天騎士団にしかIllのことを話していない。今日の昼に新しく出会った仲間にはまだ話す決心がつかなかったのだ。まさか会長が話をしておいてくれるとは思わなかったし、会長の話を聞いてもなお協力してくれることには素直に驚いた。

 

「注目っ!」

 

 宍戸が声を張り上げる。俺たち藍越学園生は宍戸の声を聞けば瞬時に姿勢を正す程度には躾られていた。気をつけの姿勢で宍戸へと体を向ける。

 まさか学外の連中まで同じことをしているとは思わなかった。この場にいる全員が静粛にして宍戸の言葉を待つ。

 

「まさかこのイベントに夜の部があるとはオレも含めて想定外だったことだろう。もう既に聞いているとは思うが、正しく想定外の事態がISVSで起きている」

 

 俺にとっての想定外の事態とはシズネさんがさらわれたこと。

 皆にとってはIllという存在そのものといったところだ。

 

「今からお前たちにはオレのミッションを受けてもらうことになる。それは安全が確保された通常のゲームとは性質が異なるものだ。危険を承知でこのミッションを受ける者だけ残り、他はすぐに家に帰れ」

 

 誰一人として微動だにしない。危険があると言われているのに戸惑いすらしていない。頼もしかった。

 宍戸は鼻で笑う。人を小馬鹿にしてるわけじゃなくて、皆を誇っているのだと今の俺には理解できた。

 

「ミッションの詳細はログイン後にセシリア・オルコットから説明してもらう。作戦の立案も全てお前たちに任せた。総員……」

 

 宍戸が息を大きく吸う。そして叫んだ。

 

「出撃!」

 

 全員が一斉にイスカを手に簡易ベッドに横になる。胸にはイスカが置かれていた。

 俺は皆の行動力に見とれていて出遅れていた。

 そんな俺の右肩にポンと手が置かれる。宍戸だ。

 

「オレは手出しができない。またお前たちに全てを任せてしまうな……」

「任せてください。俺はナナの都合など気にせず、ナナを見捨てないと決めました」

「そうか。頼んだぞ、織斑」

「はいっ!」

 

 自分に与えられた簡易ベッドに横になり、イスカを胸に置く。

 ――絶対に助ける。ナナもシズネさんもシャルも何もかも!

 現実における俺の意識は薄れ、ISVSの世界に踏み込んだ。


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