Scene02 遺跡の蜘蛛
Scene03 早朝ランニング
Scene04 黒き眼帯の訪問者
Scene05 パーティ編成
Scene06 VS イリベラル
Scene07 捕らわれる蝶
携帯を片手に部屋を飛び出した俺は電話帳から弾の番号を一度は呼び出してみるも実際にかけることはせずにポケットに戻す。外に日が昇るまではまだ時間があるが何も考えずに玄関にまで来た。
「……一夏殿。このような早い時間からどちらへ行くおつもりですかな?」
靴を履こうとしたところでオルコット家の執事に見つかった。事情を知ってくれているはずの人だから素直に理由を告げる。
「弾が……俺の友達が例の事件に巻き込まれてるかもしれないんだ!」
「ふむ。では尚更、一夏殿を外出させるわけには参りますまい」
「はぁ? アンタ、何を言ってるのかわかってるのか!?」
早いところ出て行きたいのに、執事は俺を送り出してはくれなかった。俺が怒りを隠さずに詰め寄っても執事は涼しい顔を崩さない。
「わからないことがあるとすれば、一夏殿が今何をすべきかという点ですな。今、外に出て行って何をする? 何ができる? 無駄な時間となるだけではないのか?」
「俺は……」
答えられなかった。蘭からの電話で漠然となんとかしなければと思った。居てもたっても居られずに行動をしようと思った。その先はまだ考えていない。
結局、俺の口から出てくる言葉は……逆ギレだった。
「俺がどうすべきか、アンタが教えてくれるのかよォ!」
「…………」
執事は何も答えない。そもそも答える気がないようにも思えた。このまま問答を続けてもそれこそ時間の無駄だ。俺は執事に構わず外へと足を向ける。力尽くで止めてこようものなら殴り倒してやると思っていたが、執事は何も手出しをしてこなかった。ただ無言で俺を見送ってくる。俺はその目から逃げるように走り去った。
◆◇◆―――◆◇◆
一夏が出て行った2分後、階段を下りてくる姿があった。オルコット家に仕える老執事、ジョージは現れた主を出迎える。
「おはようございます、セシリア様」
「先ほど一夏さんの声が聞こえたと思いましたが……」
「一夏殿は珍しく早起きをされたため、散歩に出て行くそうです」
「ジョージ。あなた、いつの間にか一夏さんに甘くなりましたわね」
「これは手厳しい。セシリア様はもう状況を把握されているようですな」
いかにも寝起きだったセシリアにジョージは嘘をついた。主を危険に巻き込まぬよう、もしくは主に心労をかけないようについた嘘とも取れるが、セシリアにはジョージが一夏の意志を尊重しようとしていたように映っていた。
「一夏さんには護衛をつけていますわね?」
「抜かりはありませぬ。しかし心配されずともすぐに戻ってくるでしょう」
「それはありませんわね」
言いながらセシリアの右手は携帯にメールの文面を素早く入力する。送信を押すとジョージに向かってニッコリと微笑んだ。
「わたくしはセシリア・オルコット。物事を見る目を誰よりも鍛えてきた自負があります。ですから、今の一夏さんがしたいこともわかりますし、そのために道を示すこともできますわ」
「流石でございます、セシリア様」
「理解せずに褒めるのはお止しなさい」
「申し訳ありませぬ」
セシリアは再び階段を昇っていく。セシリアの今日の予定は決まり、その準備をしなくてはならなかった。
「今日は日常とは無縁の1日となるかもしれませんわね。もっとも、一夏さんと会ってからの毎日はほぼ非日常的な刺激に溢れていますけど」
非日常に振り回されてはいるもののセシリアの顔からは笑みが消えなかった。もしかすると今こそがセシリアにとって充実している毎日なのかもしれない。
◆◇◆―――◆◇◆
どこに行く宛もなく、とりあえず弾の家の方へと走っていると携帯がメールの着信を告げた。今日に限って早朝から携帯が仕事をしているなと愚痴りそうになりながらも、弾関連の連絡かもしれないため確認を手早く行う。送り主はセシリアだった。
【件名】相談窓口はこちら↓
【本文】地図を添付しておきますわ。今の時間でしたらまだご自宅にみえるはずです。本当はわたくしがなんとかしたかったのですが……
「相談窓口? 俺が何か悩んでるって言いたいのか?」
焦ってはいるが悩み事とは違うと思っている。セシリアがこのようなメールを寄越した意図は全くわからないが、とりあえず添付されていた地図の画像を開いた。今の俺の位置から徒歩で行ける場所だった。セシリアの紹介だからと俺は足を運ぶことにする。
やってきた場所は家賃の安そうなアパートだった。地図に補足されていた住所通りの部屋番号のポストを調べてみる。そこに書かれていた名前は“宍戸”の2文字。
名前を見た瞬間に俺の体は動いていた。気づけば宍戸の部屋と思われる扉の前。この先に教師としてではない宍戸がいるのならば、俺の話を聞いてくれるはず。躊躇いなくインターホンを押してしばらく待つと住人が姿を現した。
「織斑か。教師の自宅にまで押し掛けるとは、そこまでして補習を受けたいのか?」
起きたばかりというわけではないが、宍戸は気怠そうに俺を出迎えた。学校ではあまり見せない態度にいつもなら親近感を覚えるところなのだが、今の俺の場合は癪に障ってしまう。言葉よりも先に手が出た俺は宍戸の襟を掴んで引き寄せた。
「弾がいなくなった! アンタのせいだ!」
言ってから責任を誰かに押しつける自分の最低さに気がついたが止められなかった。だってそうだろう? 俺なんかよりもずっとできることが多いのに……ずっと強いのに、何もしてくれないんだ。代わりにやれとまでは言ってない。ただ手伝ってくれるだけで良かったのに、宍戸の堅さのせいで俺は回り道させられてる。土曜日の試合に勝てばいいなんて考えじゃ遅すぎたんだ。
「オレへの乱暴には目を瞑ってやるから、まずは落ち着いて話をしろ。でなければ何もわからないし、何も解決しない」
宍戸は抵抗をせずに話をしろとだけ言ってきた。頭ごなしに否定されなかったことで俺の頭は幾分か冷えたため、宍戸の襟から手を離す。
話をしようと思った。でもうまく頭が回らず、何から話せばいいのかがわからない。せっかくのチャンスに俺は固まってしまった。すると宍戸が口を開く。
「五反田がいなくなったらしいが、黙っていなくなったのか?」
「いや、家の人には俺の家に泊まると嘘をついてたみたいだ」
「なるほど。五反田が自分で申告をしていたのならば、自らの意志でどこかへと行ったことになる。となるとオレに心当たりがひとつあるな」
言うや否や宍戸は携帯を取りだしてどこかにかけた。数コールの後、相手側が出たようで、俺は宍戸の会話に耳を傾ける。
「虎鉄、オレだ。少し聞きたいことがあるんだが…………やっぱりお前のとこにいたか…………わかった、そっちはオレの方で手配しておく。お前は店を閉めたままオレの使いを待て」
内容は掴めなかったが宍戸が電話をかけた相手はいつものゲーセンの店長だろう。今の短いやりとりだけで何か良くないことがあったことが伝えられたらしく、宍戸は神妙な面もちを見せていた。
「弾に、何かあったんですか?」
「さあな。知りたければ虎鉄の店に行けばいい。五反田はそこにいる。あとは織斑次第だ」
宍戸が俺の肩を優しくポンと叩く。
「今日の授業に関しては後日、特別に補習の時間を用意しておいてやる。五反田も一緒にな。だから迎えに行ってやれ」
「宍戸先生……」
宍戸が部屋へと戻り、俺はひとり残された。まだまだ宍戸には言いたいことがあったはずなのに、何も言えなかった。とはいえ、何もなかったさっきまでとは違い、今の俺には道が示されている。宍戸に構わず、俺は向かうべきだった。いつものゲーセン、パトリオット藍越店へ。
◆◇◆―――◆◇◆
暗闇の中でバレットは身を屈めていた。実際に温度を感じているわけではないが、石壁に囲まれた狭い空間の中で寒さを覚えている。石の隙間から流れている風のせいではなく、階上で今も動き回っている捕食者の存在があったためだ。
「駄目でござるな。奥は行き止まりで脱出するには元の道を引き返すしかない」
「悪いな、ジョーメイ。俺のせいでこんなことになっちまって」
上へと続く階段の側で待つバレットの元に、奥へと進んでいたジョーメイが戻ってきた。しかし良い報せではなかった。自分たちは閉じこめられたも同然であることが判明しただけに終わる。
バレットは自分を責めていた。無数の糸に囚われていた虚の姿を見て冷静さを失い、敵の存在に気づくことなく飛び出したのだ。ジョーメイが敵の攻撃を察知していなければバレットも虚と同じ状況に陥っていただろう。
ただ一度の邂逅だったが、バレットとジョーメイは敵の姿をハッキリと確認していた。遺跡にやってきてバレットが最初に抱いた感想を襲撃者に対しても思っていた。まるでファンタジーなRPGの世界にでも迷い込んだのかと。2人が見た敵の姿はおよそ人型にはほど遠い巨大な蜘蛛の化け物だったのである。ISが自由に飛び回れない限定された空間の中を8本の足で軽快に跳び回る姿は最早魔物だった。
異質な敵を前にして、バレットはジョーメイに連れられるまま、奥に見えていた階段へと逃げ込んだ。幸いなことに蜘蛛のサイズでは追ってこれないくらいに狭いものであり、蜘蛛が無理矢理追ってくることもなかったため、この場に潜んでいる限りは安全であった。そうして落ち着いたところでバレットは一度ISVSから出て作戦を練ろうと思っていたのだが、そこで誤算が生じる。帰るコマンドを実行しても帰れない。
「やはり誰かが来るのを待つしかなかろうな。拙者らでは勝てる相手ではござらぬ」
ジョーメイは下手に動かずに待つべきだと判断していた。一度、考えなしに暴走した手前、バレットも従っていたのだが時間とともに不安ばかりが大きくなる。
「いくら魅力のなさそうなミッションとはいえ、ここまで誰も来ないってのは変だ。そもそも俺たちは最深部に到達したのにミッションクリアと見なされてない」
「それはおそらく、このミッション自体が罠だったからでござるな。虚様がここに来たのも、拙者が追ってきたのも、罠を仕掛けたものの思惑通りだったのでござろう」
「だったら、待ってても誰も来ないんじゃないか?」
「…………」
ジョーメイから否定が返ってこなかった。待っていても誰も来ない。その不安が現実味を帯びてきていることを沈黙が肯定していた。ジョーメイにも策がない。そうとわかればバレットは行動に移ることにした。元より、待っていられる状況などではなかったのだ。
「俺だけでも行くぜ。虚さんが捕まってるんだ。勝算もなしにこれ以上待っていられるかっての」
愛銃である“ハンドレッドラム”を手に、バレットは階上に広がっている暗闇の空間を見上げていた。幸いなことにそこからでも虚の姿を確認できた。まだ助けられる。虚を捕らえている糸を断ち切って入り口までいけばバレットの勝ちだ。待っていても行動しても、どちらにしても確かな勝算などない。勝利条件のわかりやすい道をバレットは選んだことになる。
「いずれにせよ、賭けをすることには変わらないでござるな。バレット殿がそう決めたのであるならば拙者も参ろう。必ずや道を切り開いてみせる」
ジョーメイもその手に剣を取る。フォスの中でも搭載可能容量が最も小さいフレームである“シルフィード”。それに積むには容量の大きい物理ブレード“絶佳”。他の装備を持つ気がないと思わせる構成はバレットから見て普通ではない。どうやって勝つのかを想像はできないが、バレットの見ていないところで多くの戦果を挙げてきたチームメイトをバレットは信じる。
「行くぜ!」
バレットを前衛にして飛び立った。階段を抜けた先の広間に帰った瞬間に、カサカサと耳障りな足音が室内を反響する。バレットは敵の位置を確認することなく、まずは蜘蛛の巣に囚われている虚の元へとたどり着いた。不快な足音が迫ってくる。バレットがすぐさま振り向くと床を這う蜘蛛の姿が見えた。虚を背にしたバレットは標的めがけてマシンガンを乱射する。射撃精度が最低クラスの代物であるが、的がでかいために大きなデメリットにはなっていない。有効な間合いではないが当たるはず。
だがそれは固定標的、もしくは対象が鈍重な場合の話であった。蜘蛛はその見た目通りの挙動をして大きく跳躍をする。バレットの攻撃は空振りに終わり、次の照準を定める前に、天井に張り付いた蜘蛛が高速で脚を動かして迫ってくる。バレットが対応する術を持たない中、その蜘蛛の前に立ちはだかる影があった。
「切り捨て、御免」
ジョーメイだ。バレットも気づかないうちに天井にまで移動していた彼は蜘蛛の移動先を見抜いて待ち伏せていた。近接ブレードの一撃が蜘蛛の足のひとつを捉えると蜘蛛は天井からぐらりとバランスを崩すように離れる。ジョーメイが蜘蛛の胴体に追撃の蹴りを加えることで蜘蛛は床まで一気に墜落した。
「今のうちに虚様を!」
「了解だ!」
バレットはブレードの類を所持していない。弾丸で糸を断ち切ることは困難と判断し、グレネードランチャーとミサイルで糸が張り付いている壁を壊すことにする。糸が伸びている先を狙って引き金を引き、次々と発射される弾薬たちは柱や天井にぶつかっては暗闇に火を灯す。バレットの思惑を外れて爆発の衝撃に遺跡はビクともしなかったが、本来の狙いであった糸が外れて、蜘蛛の巣ごと虚が空中に投げ出される。バレットは落ちてくる虚をキャッチした。糸がバレットにも張り付いてしまったが、飛べるのならば問題はない。あとは入り口へと向かうだけ。
「ジョーメイ! 虚さんは助けた! 逃げるぞ!」
入り口にまでたどり着いたバレットは振り返ったが、ハッと息を呑むことになる。そこにバレットの望んだジョーメイの姿はなかった。
「ジョーメイイイイ!」
時間稼ぎをしてくれていたジョーメイは、既に蜘蛛の糸に囚われていた。虚と違いISはまだ機能しているが身動きがとれない状況にある。バレットはジョーメイを助けるために戻ろうとした。
「来るなっ!」
ジョーメイの叫びによってバレットの足は止まる。いつもの取って付けた語尾がない叫びはとても力強いものだった。
「ここで全滅してしまっては本末転倒! 拙者に構わず、行けェ!」
蜘蛛の巣に囚われたジョーメイの腹に蜘蛛の頭部が迫った。蜘蛛は口の部分を密着させると、パシュッと小さな発射音と共に牙を穿つ。シールドピアースだった。フォスフレームでこれを食らえば、ほぼ間違いなく戦闘不能となる。
「くそっ!」
ジョーメイが戦闘不能となれば、もし助け出したとしてもバレットは2人を抱えて逃げなくてはならない。そもそもバレットの両手は虚に絡まった糸がくっついて自由を失っている。ジョーメイの救出が不可能だということだけは間違いなく、バレットは歯を食いしばって逃げ出した。
今までISVSをプレイしてきてこれほど悔しいことはなかった。どんな不平等もひっくり返してやると息巻いて、国家代表クラスとも戦ってきた。負ける度に次こそはと奮起してきた。いつだって立ち向かってきた。なのに、今のバレットはまともに戦わずして負けを認めていた。仲間を見捨てて逃げ出すことしかできなかった。敵である蜘蛛が強大であるから仕方がない。だがそれはバレットが不平等に屈することと同義でもあった。
「弾さん……」
腕の中で声がした。虚が目を覚ましたのだと気がつくまでに少しだけ時間がかかり、気がついたときにはバレットは悔しさのときに抑えていた涙をこぼしてしまう。
「虚さん。無事、なんですよね?」
「……ごめんなさい。あなたを巻き込みたくなかったのに、結局、巻き込んでしまいましたね」
虚に謝られてバレットは何も言えなくなった。ジョーメイを犠牲にした自分こそが謝るべきだと、そう思っているから。そして虚が無事であることを素直に喜べていない自分を許せなかった。
「そんな顔をしないでください、弾さん。いつものように、楽しそうにISについて語る弾さんでいてください。本音と似ているあなたの子供っぽいところが私は好きなのですから」
力のない微笑みを向ける虚の姿が粒子に分解され始める。突然の異変にバレットは虚を離さないようにしっかりと抱きしめようとした。しかし、力を込めた手は沈み込み、虚の体は霧散する。後には粘着性の強い糸だけが残された。
「……何だよ、これ」
静かに声を発する。助けたはずの彼女が目の前で消え去った。友を犠牲にした結果が彼女の消滅だとするなら、今の自分は何のために存在しているのかわからなくなった。そして、抑えようとしていた感情が爆発した。
「ふざけんなあああああ!」
ひとしきり叫んだ後、バレットは冷静さを取り戻す。否、それは冷静ではなく虚脱状態というものである。ただ作業をするようにログアウトの手続きを済ませてバレットは現実へと戻る。
◆◇◆―――◆◇◆
日が昇り始めた頃、御手洗数馬はいつも通りの時間に起床する。起床のタイミングすら体に刷り込まれているため、彼は目覚まし時計の類を必要としていない。母親が朝食を作るまで時間があるので、彼はいつものようにジャージに着替えて朝のジョギングに出ようとしていた。
「カズマ……それはどこに行きますか?」
自分の部屋を出たところで数馬は銀髪の少女とはち合わせる。3日前の夜に数馬が拾った少女であった。サイズの合わないブカブカなパジャマを着た少女は寝ぼけ眼をこすりつつ数馬についてこようとする。
「ちょっと外を走ってくるだけだって。ゼノヴィアは家で待ってて」
「やです。私も行きます。ゼノヴィアはカズマと一緒でありたい」
「いや、ダメだって! そんな格好のまま外に出したら、今度こそ俺は親父に殴り殺される」
3日前の夜、ボロボロの布切れを纏っただけのような服装の少女、ゼノヴィアを連れ帰ったとき、数馬の父親は先に帰った後だった。玄関でバッタリ会ったときに数馬は自分の人生の終わりを感じていた。何があったのかを聞く前に数馬の父親は息子の頬を叩き、その後に自分を殴りつけた。泣き崩れた父親を前にして数馬は少しずつ話をしたものだが、理解を得るまでに翌日の一日を費やしたのは最早いい思い出である。
「カズマが殺されるでしょうか? オヤジは敵です?」
「ああ、違う違う! 例えだよ、た・と・え。ちょっとオーバーなだけで根はいい親父だから本当に殺したりはしないよ」
今は普通に会話をしようとしてくれる少女、ゼノヴィアは最初に会ったときは何かに怯えていた。そのまま気を失っているうちに御手洗の家にまで運び込んだものであるから、目を覚ましたと同時に悲鳴を上げるかもしれないと数馬は内心ヒヤヒヤしていた。だが御手洗一家の前で目覚めたゼノヴィアは少しも騒ぎ立てることもなく、キョロキョロと周りを確認した後で『良かった』と安堵していた。数馬の父親が理解を示してくれたのもゼノヴィアの態度あってのものだったと数馬は確信している。結果として父親は2つの条件と共にゼノヴィアを預かることを了承した。
一つ、ゼノヴィアの面倒は数馬自身がみること。
一つ、ゼノヴィアの保護者を見つけて元の場所に帰らせること。
数馬もその条件を受け入れた。数馬としてもゼノヴィアを助けようとしているだけであるから、父親の示した条件は別に条件と呼ぶほどでもない。唯一、学校に行っているときだけは母親が代わりに面倒を見てくれることになっている。
ゼノヴィアからはもちろん知ってることを聞こうとした。しかしわかったことはゼノヴィアという名前だけ。どこから来たのかすら彼女は把握していなかった。記憶喪失の可能性も考えており、この問題は長丁場になる可能性があると数馬は考えている。
「すぐに戻ってくるから、大人しく待ってて。ね?」
「やです」
見た目の年齢よりも幼いのか、数馬がどう言おうと納得してくれる様子がなかった。まだ学校へ行くわけではないから父親との約束に従うと母親に預けるわけにはいかない。かといって日課を疎かにしたくもなかった数馬はクローゼットの奥にしまわれていたものを取り出すことにした。
「わかった。でも、これを着ることが条件だ」
「私は得て理解する」
数馬の小学生時代のジャージである。今はもう着れなくなってしまっているが、まだ残してあったものだ。ゼノヴィアは素早く数馬の手からジャージを奪い取ると、その場でパジャマを脱ごうとする。
「待て! 部屋に戻ってから着替えるんだ!」
「なぜ?」
下着だけの半裸の状態でゼノヴィアが首を傾げる。ちなみに下着だけは母親が買ってきてくれたものである。ついでに服も買ってくれればいいのにと思ったが、数馬は親には文句を言えない立場にあった。数馬はゼノヴィアから視線を外したまま強く主張する。
「なぜって……女の子なんだから男の前では着替えちゃいけないの!」
「それは正しい? 私は理解します」
するとゼノヴィアは数馬の部屋の扉を開けた。
「カズマは部屋へ返るべきである。衣服を変更し終えれば教えるでしょう」
「……りょーかい。まさか俺の方を廊下から追い出そうとするとはね」
数馬は言われるままに自室へと戻った。相も変わらずゼノヴィアの日本語はわかりづらいが言葉が通じないわけではなく、既に数馬は彼女の言動に慣れてしまっていた。
***
外に出て数馬はゼノヴィアと並んでいつものコースを走る。流石に走るペースまではいつも通りとはいかなかったが、ゼノヴィアは思いの外早かった。
「どれくらい遠くに行きますか?」
走りながら話す余裕もあったようだ。しかしゼノヴィアは勘違いをしている。数馬は改めて趣旨を説明することにした。
「どこかに行くんじゃなくて、家の近くを回るだけだよ」
「それはどの意味を持っていますか?」
「体作りってとこかな。習慣にしとかないと体がすぐに衰えちゃうからね」
「ゼノヴィアは運動していません……」
言われてみると不思議な気がした。数馬の目から見てゼノヴィアはかなり華奢な女の子だ。運動に慣れていないというのも納得できる。だからペースが遅めとはいえ数馬についてきて、かつ会話をする余裕があるのは不自然だ。
(ゼノヴィアはどう見ても日本人じゃないから基本的な身体能力が違うのかな?)
数馬は人種の違いだろうと思うことにした。他に頼る人間がいない状況で自分たちとは違うのだと距離が開くようなことは言わない方が良い。数馬は話を逸らしにかかる。
「ゼノヴィアはさ、どうして俺についてきたんだ?」
ついでだからと疑問に思ってたことを素直に聞いてみた。初対面のときからは考えられないくらいに数馬は懐かれてしまっている。きっかけは何かと考えたとき、数馬には全く心当たりがなかった。
「あなたが敵ではないので」
「敵? それは誰?」
「世界を変えるつもりの博士」
「確かに俺とは関係なさそうだね」
突拍子もないゼノヴィアの敵のイメージを聞き、数馬はクスッと笑う。ゼノヴィアの主張は世界征服を企むマッドサイエンティストに狙われているという子供の空想だと数馬は受け取った。敵でないのなら信用するという点も含めて子供だなぁと和んでいた。
すると唐突にゼノヴィアは足を止めてしまった。笑ってしまって拗ねたのかと数馬は彼女の元へと戻る。
「ごめん、怒っちゃった?」
「それは違います。あれは何ですか?」
数馬が近寄るとゼノヴィアがしがみついてきた。怖いものがあるのか震えている。彼女が恐る恐る指さす先を見ると、近所のおばさんが犬を散歩させているという良くある朝の風景があるのみである。
「おはようございます」
「おはよう、数馬くん。見かけない子を連れてるわね?」
「ちょっと家で預かってる子なんですよ」
朝のジョギングで見知った仲であるため、数馬は柴犬を連れたおばさんと挨拶を交わした。その間にリードに繋がれた犬が興味津々にゼノヴィアに近寄っていく。
「ヒャアア! 来ないでください!」
ゼノヴィアは数馬を壁にして犬から逃げる。そもそも離れれば良いのだが彼女はそこまで頭が回っておらず、ギュッと数馬のジャージを握りしめていた。
「怖がらせちゃったみたいね。おばさんは行くわ」
「そうみたいですね。どうもすみません」
おばさんと共に犬が去っていく。もう自分から興味がなくなったのだと確信できたことでようやくゼノヴィアは数馬のジャージから手を離した。
「犬は苦手だった?」
「それは“犬”と呼ばれるか。知られていないものは恐ろしい」
「いや、客観的に言おうとしてるけど、ゼノヴィアが知らないだけで一般常識だから」
「ゼノヴィアは人とそうでないものだけを知っています。人でないものは恐ろしい」
「大丈夫。怖い犬もいるけど危険なのには早々会わないって」
数馬は無意識のうちにゼノヴィアの頭を撫でていた。ゼノヴィアも数馬の手を受け入れて次第に落ち着いていく。彼女は話すことは苦手そうであるが理解力はある。にもかかわらず犬すら知らないとはどこの箱入り娘なのだろうか。これもまた彼女の素性を知る手がかりになるかもしれないと数馬は考えていた。
「カズマ。頭はいつまで撫でられますか?」
「……はっ!?」
ゼノヴィアに指摘されて、自分が彼女の頭をニヤニヤしながら撫でていた現状に気づく。いつの間にかただ愛でていた。
***
「行ってきまーす!」
「それは言い、らっしゃいである」
昨日に続き二度目のゼノヴィアの見送りだったが数馬は2日連続でずっこける。
「ゼノヴィア。いってらっしゃい、だよ?」
「はい」
「…………」
「…………?」
数馬は訂正した後も無言で見つめ続けるがゼノヴィアは首を傾げるだけだった。必死に訂正しようとしたところで長丁場になる可能性があったため、数馬は諦めて家を後にする。
学校への道を数馬は走り始めた。走って登校するのも数馬の日課である。特に急がなければいけないような時間でもないのだが、数馬は走りたいから走るだけ。しかしその足は普段と比べて遅いものとなってしまっていた。その原因は考え事にある。
ゼノヴィアを預かってからというもの、数馬は空いた時間を使ってゼノヴィアの素性を知ろうとしていた。白髪にはない輝きが宿っている銀髪に、琥珀のような金の瞳という身体的特徴から国だけでも絞れないかと調べていたのだが成果は全くといっていいほどない。普通ならば警察を頼るところだが、初対面でのゼノヴィアの反応から警察を頼ってはいけないと数馬は考えている。
(警察でも千冬さんなら大丈夫だと思うんだけど、一夏が言うには最近は家に帰れないくらいに忙しいらしいからなぁ……)
今日の調査をどう進めようかと悩みながら走っていると、いつの間にか藍越学園前に来ていた。足を止めずに下駄箱まで走っていくまでが常であるのだが、今日の数馬は校門の前で足を止めざるを得なかった。明らかに見覚えのない少女が校門前に仁王立ちしていたからである。綺麗な女性がいれば数馬の目が奪われるのは日常茶飯事なのであるが、今日ばかりは事情が違っている。
「あの……うちの高校に用ですか?」
校舎を眺めている少女に数馬はそっと声をかける。一見すると年下である彼女だが、どこかの軍服のような服装に黒い眼帯を付けているという外見のためか近寄りがたい雰囲気を纏っている。女性は好きだが話すのは苦手という数馬が、普段ならばそそくさと逃げるはずの相手に声をかけた理由は彼女の髪の色にあった。
「この建物に用があるわけではない。探している男がいるのだ」
眼帯の少女が腰まで伸びる銀色の髪を靡かせながら振り向く。やはりゼノヴィアと同じ髪の色であった。数馬を見つめてくる彼女の瞳はゼノヴィアと違って金色ではないが、この少女がゼノヴィアと無関係とは数馬には思えなかった。すぐに本題に入ることはできず、とりあえず話をしてみることにする。
「日本語上手いね」
「私の部隊の公用語になっているからな。ISに関わるには必須技能とされている」
「ふーん。ISVSやってるんだ」
数馬は眼帯の少女がISVSプレイヤーであるのだと理解した。そして、“ISVS”と“探している男”の2つのキーワードからあることが連想された。
「もしかして“ヤイバ”を探してるとか?」
「奴を知っているのか!?」
ビンゴだった。一夏がISVSを始めてからというもの、彼の周りには女性の影が目立ってきている。この少女もその1人であると予想することは数馬にとっては自然なことだった。
「知ってるけど、その前に君のことを教えてくれないか? 俺としては誰かもわからないような人を友達のところに連れてくつもりはないんだけど」
ゼノヴィアのことを話さずに眼帯少女から情報を得られるチャンスに乗っかった。数馬の本心は眼帯少女の正体を何が何でも知りたいのであるが、真っ正面から問いただすと警戒される可能性が高い。流れは自分に向いている、と数馬は頭の中でガッツポーズを取った。
「私はラウラ・ボーデヴィッヒ。ドイツ軍に籍を置くIS操縦者だ。IS運用を想定した部隊“
思っていたよりもあっさりと情報が出されて数馬は拍子抜けしていた。どこかミステリアスな雰囲気であったのだが、本人はかなりさっぱりとした性格だった。
情報を整理する。眼帯少女はドイツ人らしい。ISVSプレイヤーではなくIS操縦者と名乗っている。おまけに軍人だ。シュヴァルツェ・ハーゼは数馬も聞いたことがある名前であり、強豪スフィアの一角であったはず。そして、名前はラウラ。これも数馬が知っている名前だった。
「まさか……“ドイツの冷氷”!?」
「戦場で私のことをそう呼ぶ者もいたな。知っているのならば話は早い。さっさとヤイバの元へ案内しろ」
いつの間にか数馬はラウラに命令されていた。目線の高さは圧倒的にラウラの方が下にあるのだが、数馬は何故か高みから見下ろされているような感覚を覚えていた。つまり、素直に従うということだ。校内に部外者を案内するのは宍戸が怖いためにできず、数馬は一夏の家へとラウラを連れて行くことにする。
「わかったよ。君みたいな有名人が来るのも別に初めてじゃないからヤイバも困らないと思うし」
「ほう。誰が来たのだ?」
「セシリア・オルコットだよ……ってラピスラズリって言った方がいいのかな?」
「英国の代表候補生“蒼の指揮者”か。奴には一度煮え湯を飲まされたことがあるが、まさかこのような場所でその名を聞くことになるとはな」
くっくっく、とラウラは笑っているが眉間には皺が寄っていた。この話を続けるとマズいと本能で悟った数馬は話題を変えようとしたが思いつかずに黙って先を歩くことしかできない。その足は次第に早くなっていた。
変なのに関わってしまった後悔を抱えながらも数馬は考えていた。ラウラの見た目はゼノヴィアと似ている。しかし、ラウラにはヤイバのことしか目に入っておらず、ゼノヴィアを探しているとはとても思えない。こうなってくると瞳の色の違いを大きなものに感じてしまい、ラウラとゼノヴィアは無関係であるとしか思えなくなってしまっていた。
「あ、メールだ」
携帯がメールの着信を告げたため、数馬は足を止めて確認をする。後ろについてきていたラウラが『早くしろ』と睨んでいるのにも構わずに数馬は内容にじっくりと目を通していた。どうでもいいメールじゃない。メールの送り主は一夏。書かれていた内容は数馬をゲーセンへと走らせるのに十分な代物だった。
「ラウラさん。ヤイバはゲーセンにいる。俺は今から行かなきゃいけないけど、ついてくる?」
「当然だ。私はそのために日本に来たのだからな」
金曜日の朝。始業前という時間に、メガネ少年と眼帯少女がゲーセン目指して走った。
◆◇◆―――◆◇◆
ゲーセンまでダッシュでやってきた俺だが、当然のように閉まっているシャッターを前にして立ち尽くす。
「開いてるわけないよな」
開店時間までまだ2時間以上あった。しかし宍戸が言うには店長が俺を待ってくれているとのことである。物は試しにとシャッターを叩いてみると、シンバルの叩き損ねのような音が周囲に響く。
「おい、やめろ! 近所迷惑なうえに、お前が強盗だと誤解されるぞ!」
「あ、店長! 弾を迎えに来たんですけど」
タイミングが良かったのか悪かったのか、俺がシャッターを叩き始めて数秒後に店長が脇道から顔を出していた。どうやら裏口から回り込んできたらしい。俺の行動を咎められている気はするが今はそんなことはどうでもいいので、早速弾に会わせてもらうように頼む。ところが店長の顔は浮かない。
「アイツからは何も聞いていないのか?」
「アイツって宍戸先生のことですか? 俺はここに来ればわかるとしか――」
言い掛けて俺は気づいた。店長のこの反応から察するに……もう手遅れかもしれないということに。
「弾は……ここに居るんですか?」
「居ることは居る。そうか、お前は知ってる側の人間だったか。今、案内しよう」
店長は俺のことを“知ってる側の人間”と言い表した。何を知っているか? これはIllのことしか考えられない。すぐに問いつめることもできるが、今は弾のことが気がかりだったため大人しく店長の後についていくことにした。
裏口から店内へと入る。そして、関係者以外立ち入り禁止とされている奥へと店長は歩いていく。従業員用のスペースがあり、休息所として用意してあるのか簡易ベッドが2つほど並べられていた。今は2つとも埋まってしまっている。
「弾……それに、朝岡?」
横たわっていたのは弾だけではなかった。朝岡丈明という名の同級生で、藍越エンジョイ勢の中ではジョーメイとして知られている。俺は2人の顔を交互に見ることしかできなかった。
「昨日、閉店時間になってもコイツらは戻ってこなかった。普通にプレイしていただけなら巻き込まれる可能性はほぼ無いはずだってのに……ISVSで何が起きてやがる?」
店長の発言を頭の中で反芻させる。どう考えても店長は何かを知っているとしか思えない反応をしていた。ISVSの危険性を理解している人間が一般人に遊びとして提供している。その結果が今の弾と朝岡だというのならば、店長に責があるのではないか? そう思ったときには、俺は店長に殴りかかっていた。
「落ち着け。まだ死んだわけじゃない」
俺の拳は簡単に受け止められた。そもそも体格から完全に負けている。まっとうな喧嘩で俺が店長に勝てるはずはなく、俺の右手は店長に掴まれて動かせない。手が動かない俺にできることは口を動かすことだけ。
「アンタも! 宍戸も! 知ってて何もしてねえのかよっ!!」
左で店長のわき腹を殴りつける。利き手でない俺の左手では鍛えられた店長の腹筋を破ることができないどころか、殴ったこっちの方が痛かった。それでもがむしゃらに同じ箇所を殴り続ける。
「何が『落ち着け』だよ! 箒の入院を知ってから11ヶ月、俺はずっとわかんないことだらけだ! 何で箒なんだよ! 何で1月3日だったんだよ!」
もうダメだった。目覚めない弾の姿を見せられて、鈴のときのことを思い出してしまった。そればかりか、ずっと抱えていた疑問や不安も抑えられなくなり、涙や鼻水とともにまき散らす。
「何で俺が戦わなきゃいけないんだよ……何で鈴や弾が巻き込まれなきゃいけないんだよ……何で、アンタらは知ってて何もしてくれなかったんだよォ!!」
最後の拳が店長の腹に当たるともう殴る気力もなくなり、力を失った左手をだらりと下げた。そのまま膝をつくと、俺の肩にゴツゴツした手が優しく乗せられる。続いて聞こえてきた低い声はとても頼りなかった。
「俺だって……悔しいんだ。どうにかしてやりたいに決まってる。でもな、ISVSはどうしようもないくらいに不平等なんだよ……」
俺の見つめる床に俺のものとは違う水滴がポツポツと落ちてきていた。見上げると大の男がひとり、悔し涙を流している。俺は何も言えなくなってしまった。店長の姿がまるでISVSを知る前の、己の無力さを嘆く俺のようだったから。
従業員の休憩室に沈黙が降りる。俺は何も言わない店長を置いて弾の顔を見てみることにした。中学の修学旅行で弾の寝相の悪さを経験している身としては、今の弾の寝姿はひどく上品に映ってしまう。
「まさかただ寝てるだけとか言わないよな?」
またしても希望的観測を口にしてしまった。寝てるだけなら起きるはずだろ、と弾の頬を軽くペシペシと叩いた。すると、
唐突に弾の目が開かれ、ばっちりと目が合った。
「…………」
俺は何も言わずに弾の頬をもう一度バチバチと叩く。
弾はムスッとして俺を見てきた。
ならば、と今度は往復ビンタをお見舞いする。
4往復した後でも弾はしっかりと俺を睨んできた。
なるほど。もしかしたら夢じゃないかもしれない。頬をつねって確認してみよう。もちろん弾の。
「何しやがる!」
弾のパンチが俺の腹に命中する。体をくの字に曲げて俺は床に尻餅をついた。腹も尻も痛いから夢じゃない。でもって弾はベッドから身を起こしていた。店長も弾の目覚めに気づいて近くにやってくる。
「ちっ、焦らせやがって。おい、バレット。もう朝なんだが事情はちゃんと説明してもらえるんだろうな?」
弾の目覚めを知った店長は先ほどまで弱音を吐いていたとは思えないほどいつも通りに弾に詰め寄っていた。傍目には時間外までゲームをしていたことを怒っているようにしか見えない。俺と違って弾は店長が事情を知っていそうなことを知らないから、きっと長時間プレイしていたことに対して弁明を始めるだろう。
だが弾は俺の予想に反していた。何も言わずに目を伏せ、両手は自らの下半身にかかっている布団を握っていた。
「弾。店長も例のことは知ってる」
弾の様子から、時間を忘れてISVSをしていたわけではないのだと確信した俺は弾と店長との間に入った。店長の前だから話せないなんてことはないと言ったつもりだったのだが、弾はそれでも口を開かない。俺はもう1つのベッドに目を向けながら、1つの可能性に思い至った。
「ジョーメイはどうしたんだ?」
まだ目覚めていない朝岡について問うと弾はあからさまに顔を背け、布団を握る手にはさらに力が入っていた。力を込めすぎて震えている弾の手は、行き場のない感情を抑えているようだった。その感情はおそらく怒りや悔やみといったものだろう。たぶん、鈴を巻き込んでしまった直後の俺と同じだ。だからこそ、俺には弾にかけるべき言葉が見つからない。
「……俺、さ。一夏のこと、本当は何もわかってなかったんだな」
「え……?」
俺が黙り込むと、弾が独り言を呟くようにして話し始めた。なぜか俺の名前を出している。
「前に『どうして話さなかった?』とか言って一夏を殴ったこともあったっけ。でもな、実際にこの立場になって初めて一夏のことがわかった。話せるわけねえよ。俺は知らなかった。自分勝手な事情で、友達を危険に巻き込むのは怖いんだ……」
「おいおい。だからって、ひとりで抱え込むのは間違ってるって言ったのは弾だろ? 話せ。お前の言う自分勝手な事情って奴をさ」
ここ2日ばかりの弾の行動を俺は把握していない。弾から語られた内容は俺の知らない弾の行動が大多数を占めていた。
弾の彼女である虚さんには妹がいる。彼女は物静かな姉とは違い無邪気で快活な少女であるとのことだが、ここ3ヶ月ほど意識不明の昏睡状態に陥っており、今もなお入院しているという。その事実を最近になって知った弾はがむしゃらに虚さんを追っていた。その過程でジョーメイが虚さんの行方を知っているということで2人でISVSに入り、そこで囚われの虚さんを見つける。ただし、あの“蜘蛛の化け物”というおまけ付きだった。しばらく閉じこめられていた弾たちは決死の作戦で虚さんを救出するも代わりにジョーメイが捕まってしまった。そして、助け出したはずの虚さんも弾の目の前で突然消滅してしまった。
「一夏……俺は自分が惨めでしょうがねえよ」
「お前だけじゃない。俺だって鈴を犠牲にしてる」
「でも、鈴は帰ってきた! 今度はそうじゃないかもしれねえだろ!」
「いいや、今回も同じだ! 俺たちで蜘蛛を倒せば、それで片づく!」
解決方法は単純明快だ。イルミナントのときのように元凶であるIllを倒せば被害者は皆帰ってくる。だが弾の顔色は晴れない。
「アレを……倒す……? それができたら何も悩まねえよ」
今、俺の目の前にいるのは以前の俺だった。圧倒的な力を見せつけられて、自分じゃどう足掻いても勝てないと思い知らされて……もう一度、立ち向かおうとする心すら砕かれている。
――でもさ、弾。俺に答えを示したのはお前だったはずだろ?
「俺だってそう思っていた。だけど実際はどうだ? 俺ひとりの力じゃなかったけど、イルミナントを倒して鈴を取り戻した。今回も同じだろ?」
「同じ……なのか?」
「ああ、同じだ。それも、弾が普段からやっているISVSというゲームと同じなんだ」
俺は弾からの受け売りであることを、ただ返すだけ。
「敵はデタラメに強い。この明らかな不平等を、自分の手でひっくり返してやりたい。弾はいつだってそう言ってきてただろ?」
「……違うぜ、一夏。それはあくまで“ゲーム”の話だ」
「そっか。少なくとも俺は同じだと思ったんだけどな。そもそも最初っからISVSをゲームだと思ってないくらいだし」
「それはお前が命知らずのバカだからだ。もう二度と目が覚めないかもしれないのに立ち向かうなんて馬鹿げてる」
「知ってるか? そんなバカのために自分も戦うとか抜かすバカもいるらしいぜ?」
弾が言葉に詰まる。弾が俺に言ってくれたことだ。そして、弾もそのことを覚えている。
「なんだ……俺が口だけの男ってだけじゃねえか」
「もうひとつおまけに豆知識だ。実際に事を成すまで、人は誰でも口だけの人間だ。でもって弾は
「まだ、間に合うのか……」
「もちろんだ。まだ何も終わっちゃいない。ジョーメイも虚さんも」
「俺、一夏の力を借りていいのか?」
「そもそも弾の話を聞く限りでは、お前だけの都合とは思えないぞ? 俺はきっかけこそ箒を助けるためだったけど、元凶を叩かないと何も終わらないことがハッキリしてる。どう考えてもお前を助けるのはその近道にしかならないって。だから気負うなよ」
俺は全力で弾の背中を叩く。「いってーっ!」と叫ぶ弾は勢いよくベッドから転がり出た。何はともあれ、弾が立ち直って良かった。あとはこれを完全なものとするために“蜘蛛”を倒すだけ。
俺の携帯が着信を告げる。表示された名前は御手洗数馬。ゲーセンに来る途中で数馬たちにはメールを送っておいたのだが、連絡がきたということはもうゲーセン前にまで来ているのだろう。
「もしもし」
『もしもし、一夏? とりあえず来たんだけど、どうすればいい?』
「迎えにいく。ちょっと待っててくれ」
対Ill戦までを想定して声をかけておいたのだ。皆が居れば勝てる。俺はそう信じている。
***
……予想外デース。なぜにこの方がこの場にいらっしゃるのでしょうか?
「ほう。貴様がヤイバか。あの髪はもしやとも思ったが、クラリッサの言う厨二病というケースの方だったか。残念でならんよ」
ゲーセン前で待っていたのは数馬だけではなかった。鈴ではない。セシリアでもない。今まで直接会ったことはないが見覚えはある少女だった。長い銀髪に黒い眼帯などという格好をしている知り合いには、ラウラ・ボーデヴィッヒくらいしか心当たりはない。ほぼ初対面の彼女にいきなり鼻で笑われる俺であった。
「数馬……この子、誰?」
「ヤイバ。私は貴様と違い、ISVSでも姿形を変えてはいない。にもかかわらず私を知らないと言うようであれば……体に直接思い出させるしかないようだな」
「俺が悪かったです、ラウラさん。覚えていますとも」
知らないフリをしようと思ったがラウラの中では俺=ヤイバは疑いようもない事実になっているようだ。ISVSで最後に食らった折檻のような攻撃を現実で受けたいとは思わない。
俺がラウラのことを覚えていると認めると、彼女は無い胸を張って俺を力強く指さしてくる。
「ここで会ったが百年目! 私と勝負しろ、ヤイバ!」
「悪い、今取り込み中だからパス」
「私が勝ったら…………何だと? この私がサシで相手をしてやろうというのに貴様は拒絶するというのか!?」
「ああ。今から数馬と大事な話があるから黙っててくれ。というか帰ってくれ」
割とハッキリと邪魔だと言ってみたら、ラウラは暴れるようなことはせずにすごすごと歩道の隅へと移動した。妙に素直で少々驚いたが、いつまでも彼女に構ってられないので数馬に弾の現状について説明を始める。
「……私だ、クラリッサ。言われたとおりにしてみたがきっぱりと断られたぞ。どういうことだ?」
数馬に説明している最中にもラウラの声が耳に入ってきた。チラッと見やれば誰かと通話をしているようである。
「熱血がダメならツンデレで押せだと? お前は何を言っているんだ?」
相手さんが何を言っているのか把握してないけれど、なぜかラウラに同意できそうな気がした。
「一夏? ラウラさんが気になるん?」
「あ、わりぃ。とりあえず弾は無事で、中にいるから早いとこ行こうぜ?」
簡単に説明を済ませた俺は数馬の背中を押して裏口の方へと向かう。数馬はラウラを置いていくことに戸惑いを覚えているようだが、今は彼女に関わっている暇はない。
「待て! 待ってくれ! 私はっ! 話がしたいだけなんだっ!」
俺たちの移動に気づいたラウラは通話を中断して追ってきた。なぜか彼女は俺に執着している。その理由に全く心当たりはないのだが、俺に向けて手を伸ばす彼女の仕草に本気さが垣間見えた。俺は数馬を押す手を引っ込める。
「数馬は先に行って弾から詳しい話を聞いといてくれ」
「りょーかい。最近の一夏が占いにいけば間違いなく女難の相が出てるだろうね」
一言余計だった数馬を見送って、俺はラウラに向き直った。彼女は伸ばしていた右手を慌てて引っ込めて背中に隠す。
「ふん、ようやく話を聞く気になったか」
「なんで偉そうなんだよ。言っておくが、お前の相手をしている時間が惜しいってのはマジだからな?」
やれやれと言いたげなラウラに時間がないと釘を刺しておく。こうして相手をしようと思ったのも、セシリアと鈴の到着を待つ時間があるからというだけのこと。
「で? 話ってのは何なんだ?」
「いくつかあるが、時間がないという貴様の事情を考え、私の聞きたいことに関係する単語だけ並べ立ててやろう」
質問する側であるはずの彼女は尊大な態度を崩さないが、もう気にすることはやめにした。彼女の聞きたいことという単語のひとつひとつに耳を傾ける。
「ブリュンヒルデ。
馴染みのない、または聞き覚えのない単語をラウラは並べる。やはり互いに時間の無駄のようだった。俺から彼女に話すべきことはなく、俺が彼女から何かを得られるとは思えない。
――彼女の挙げる最後の単語を聞くまでは。
「ツムギ」
俺は目を丸くせざるを得ない。ナナやシズネさんから聞く限りでは、シュヴァルツェ・ハーゼはただの雇われであって俺たちの敵ではないはず。にもかかわらず、ナナたちという集団の名前をなぜ知っている? 敵にすらその名を知られるような機会などなかったはずだ。
「拷問などせずとも貴様から情報を得ることは容易そうだな。だがしかし、貴様がツムギの名を知っているとは私も驚かされた」
「ラウラ……お前は一体……?」
「どうやら私の勘は全くの見当違いではなかったようだ。しつこく食い下がるクラリッサに無理を言って日本にまで来た甲斐があるというもの。だがヤイバ。貴様との話は後回しのようだな」
ラウラが背後に振り返る。俺もつられて見やれば2人の女子がゲーセン横の脇道に入ってくるところだった。セシリアと鈴だ。
「見つけた、一夏! 緊急事態って言うから飛んできたわよ――って誰、その子?」
「鈴さん。彼女は一応、有名人ですわよ。まさか“ドイツの冷氷”がこのような場所に居るとは思いませんでしたが」
鈴を庇うようにしてセシリアが進み出る。明らかにラウラを警戒しての行動であり、チラチラと俺を見てくるのは今のうちに逃げろというアイコンタクトと見た。
「いや、セシリア? ラウラはたぶん危険じゃないから――」
「はぁ!? ラウラってその子の名前? アンタ、グローバルに女の子ひっかけて何がしたいのよ!」
なぜか鈴に噛みつかれた。そんな鈴と、警戒を解かないセシリアを見てラウラは「はっはっは!」と声に出して笑う。
「そう身構えるな。戦時下ならばともかく、平時下で民間人相手に手を出すわけがないだろう? そもそも私は
「そういうことらしい。それに、さっきメールで送ったとおり、ちょっと急ぐ必要がある。今はラウラはいないものと思ってついてきてくれ」
「……わかりましたわ」
おそらく納得がいっていないであろうセシリアは不貞腐れながらも俺の言うことに従ってくれた。鈴はセシリアほど気を悪くしていないようで黙ってついてきてくれる。
俺たち4人が数馬に遅れて店内に入ると、弾と店長がスタッフルームから出てきていた。弾が数馬に俺に話した内容を説明しており、店長は筐体の点検をしている。早速、鈴が弾の方へと駆けていった。
「何事かと思ったけど、案外元気そうじゃない、弾?」
「生憎、空元気って奴だ。まあいい。数馬には悪いがもう一度最初から話す」
弾が現状の説明を数馬と鈴にしている。てっきりセシリアも鈴についていくと思っていたのだが、彼女は俺の傍から離れなかった。その理由はおそらくラウラにある。ラウラもなんだかんだで店内にまでついてきていた。
「セシリアは弾の話を聞かなくていいの?」
「ある程度は推測できていますわ。必要な情報はIllのことくらいですが、それは一夏さんから聞いても変わらないのではなくて? そんなことよりもなぜ彼女までついてきているのかの方が気がかりですわ」
セシリアが横目でラウラを見る。実際、俺も気になっていたところなのだが、ここまで来たら俺は彼女の力も借りたいと思うようになっていた。
「ラウラは暇なのか?」
「お前を頼りにして日本に来たのだ。他にすることはない」
「そっか。じゃあ、ちょっと手伝ってくれないか?」
「手伝う? 自慢じゃないが、私は戦闘以外で人に役立てることなどないぞ?」
「十分だ。手伝ってほしいのは、正しく戦闘だからな」
「いいだろう。話を続けろ」
戦闘と聞いてラウラの目の色が変わった。セシリアへの説明も兼ねて、ラウラに今から俺たちが戦う相手について話すことにする。
「経緯については省かせてもらうが、俺たちは今からISVSに入り、蜘蛛の化け物を倒しに向かう」
「蜘蛛でしたか。わたくしの方でも事前に情報のある相手ですわね」
「化け物? ランカーの言い回しか何かか?」
「違うよ、ラウラ。文字通りの化け物だ。ISではないがISに拮抗、もしくは凌駕する性能を持っている相手なんだ」
「なるほど。どこかの国の新兵器……下手をすると亡国機業が絡んでいる可能性があるか」
「亡国機業ってのが何なのかは俺にはわからないけど、そんな認識でいい。問題はこの化け物と戦った場合の敗北は、現実に帰れないことを意味するってことだ」
事前に説明が要る最大の理由はこれだ。何も知らない人をIllとの戦いに巻き込むことはできる限りしたくない。たとえそれが実力者であっても。これは俺の自己満足のようなものだ。俺だけの責任じゃないとするための、俺が一歩踏み出すための儀式のようなもの。
「敗北が死に直結する世界を私は知っている」
ラウラは俺の方へ歩み寄ってくると拳を作って俺の胸を軽く小突く。
「貴様の言いたいことは理解した。相手はゲームとしてのISVSを根本から脅かすような存在で、最早ゲームではなく実戦と変わらないのだろう? それを聞いてこの私が怖じ気づくとでも思ったか? それとも私を騙したわけではないという免罪符が欲しかったか? 案ずるな。私は死なず、貴様は勝利を得る。私が味方をするとはそういうことだ」
不思議な気分だった。今からIllと戦いにいく俺は不安に潰されそうで、気を張っていないとすぐに弱音が口から出てしまいそうになる。そんな俺が、今日初めて会ったラウラの絶対的な自信を前にして安心を覚えていた。
急に耳を引っ張られる。
「いででっ」
「一夏さん? 呆けていないでくださいな。もう皆さんの準備は終わっていますわよ?」
セシリアに引っ張られて半ば強制的に向かされた先には起動している6台の筐体があった。弾、数馬、鈴は既に座っており、ラウラも座ろうとしている。俺とセシリアもそれぞれの筐体に座ると、店長が全員に声をかけてきた。
「今日は臨時休業、お前たちの貸し切りだ。こっちのことは全部俺に任せて、お前たちは敵をぶっ飛ばしてこい。絶対に誰も負けるんじゃねえぞ?」
「はい!」
メットの挿入口にイスカを入れ、全員が一斉に被る。そうして俺の意識はISVSへと移っていった。
***
弾に言われるままにゲートを潜った先は、見ただけで古いとわかる石積みの壁で覆われた薄暗い場所だった。俺は実物を見たことがないから確証はないがピラミッドの内部イメージはこんなものかもしれない。一言“遺跡”と言われてなるほどと思えた。
「さてと。ラウラのせいでゴタゴタしてたけど、ここからは落ち着いて冷静にいこう。ラピス、マッピングと索敵を頼む」
わざわざ俺が言わなくてもやってくれているであろう指示をラピスに出してから、俺は6人という戦力を把握するために全員の装備を目で確認する。
俺は当然のようにいつもの白式だ。今から射撃を中途半端に始めても足手まといにしかならないから、俺には雪片弐型を主力としたこの構成以外に考えられない。リンとラピスも俺と同様で、装備を変更することは滅多にない。
バレットは中距離というレンジこそは変えないし右手のマシンガンは同じ物を必ず持っているが、左手の銃はその時々で変わる。今回は相手がユニオンということがわかっているためENライフルにしていた。非固定浮遊部位のミサイルも屋内戦に合わせて、高々度に打ちあがってから追尾を開始する“ミルキーウェイ”でなく単発の高速ミサイルである“ヴェストファール”に切り替えている。
ライルはフレームを打鉄、両腕にはENブレードを一振りずつという完全に接近戦に特化した装備構成になっていた。
「ライルはてっきりバレットと同じ中距離で戦うもんだと思ってた」
「どの距離でも俺には特別な強みはないからなぁ。バレットから聞く限り今回は速い敵らしいし、狭いステージらしいしで一番やりやすそうなのを選んだ」
特別な強みがないと良く言えたものだ。ひとつのことしかできない俺から見れば、ライルの装備の自由度は十分に長所と言える。
「敵が単体であるならば、ヤイバとライルを前衛に配置して敵の攻撃を引きつけ、私とラピスラズリとバレットで集中砲火を浴びせるというのが理想の形となるな」
そして、ラウラ。急ぎだからと、シャルルや彩華さんや蒼天騎士団の到着を待たずに少数で乗り込むことになった俺たちには嬉しい戦力だった。彼女が俺たちに手を貸してくれる真意は不明だが、彼女の実力は俺が身を以て知っている。何よりも戦闘に絶対の自信を持ってくれていることこそが心強い。
「待ちなさい! ラウラだっけ? あたしは頭数に入ってないの!?」
「敵はヴァリスユニオンなのだろう? “双天牙月”の威力で破れる装甲かは怪しく、衝撃砲も対フォスディバイドには驚異的な効果を発揮するが高耐久力によるごり押しには弱い。今回のケースでは貴様をどう役立てればいいのか見当もつかん」
「さっきアンタが言った陣形だと囮にはなれると思うんだけどダメなの!? ふん! 別にいいわ。あたしの華麗なコンボであっと言わせてやるんだから」
俺が発破をかけるまでもなくリンはヒートアップしてやる気満々だった。強いな。イルミナント戦のことはまるでトラウマになっていないようだ。俺は今もまだ引きずってるというのに。
「ヤイバさん。遺跡内の探査を完了しましたわ。内部にわたくしたち以外のPIC反応は1つ。そして、それはISではありません」
「ありがとう。とりあえず逃げられたってことはないようだな」
ラピスからの報告を聞いて俺はそんなコメントをしたが、バレットの顔が青くなったのを見逃さなかった。本当はジョーメイのISの反応もあって欲しかった。だが悔やむには早い。敵が居てくれるのならばまだ手遅れなどではないのだから。
「敵がいるのはこの遺跡内でも広めの空間みたいだ。さっきラウラが言った陣形で乗り込み、戦闘を開始する。敵の装備で判明しているものはISの動きを奪う粘着性の糸で、絡まりすぎると実質的に戦闘不能になるから注意するように。準備はいいか?」
先頭に立って背後にいる全員に問いかける。全員が一斉に首肯した。作戦と言うほど何も練れてはいないが、臨機応変に立ち向かうしかない。そのことまで踏まえての同意である。皆と俺自身の力を信じる。
6機のISが列を成して石造りの通路を飛行する。ディバイドが2機ギリギリ並んで飛べるくらいの通路幅だった。この狭さで戦闘となると、速さが命の俺の機体は圧倒的に不利だったことだろう。だが逃げ場がないのは敵も同様であるから、通路で襲われる心配は少ない。蜘蛛らしく糸が仕掛けられている可能性を危惧していたが、それもなかった。
すぐに目的の部屋の前にまで到着する。俺はここで一度足を止める。この先にIllが待ち受けている。ザコではない、イルミナントと同レベルかもしれない相手がいる。俺は勝てるのか? そう自問すると、今にも雪片弐型を取り落としそうなくらい震えそうになる。
『ヤイバさん。わたくしが見ておりますわ』
誰にも聞こえないようにプライベートチャネルでラピスの声が届いた。そうだ。あのときと違って、今回はラピスが居てくれる。彼女が見てくれるときの俺は無敵なんだ。雪片弐型をしっかりと握りしめる。
「まずは先制攻撃をしておきたい。敵は通路から狙える位置にいる?」
「部屋の内装の柱の陰にいます。ここから狙えるのはわたくしだけですわね」
「じゃあ、俺たちの突入と同時にラピスは偏向射撃で敵を攻撃してくれ。暗すぎて通常の視界じゃないから敵を見つけにくいから、それで敵の位置を把握する」
「わかりましたわ」
覚悟を決める。そして、俺たちは蜘蛛の餌場という戦場に飛び込んだ。
後背からいくつもの蒼い閃光が通過していく。蒼の流れ星たちは折れ曲がるような独特の軌道を描いてから全てが一カ所に集中。直後の爆発により、敵の影が浮かび上がる。
どうしようもないくらいに蜘蛛だった。頭の中でISは人型という先入観があるため、現実離れした怪物であるというイメージが先行してしまう。
頭部と思われる部分についた複数の眼が赤く光る。ラピスの先制攻撃が外れてしまったのか、見る限りは全くの無傷であった。蜘蛛はその場で跳び上がると空中で静止する。8本の機械脚を広げた姿は獲物を待ち受ける蜘蛛そのものであった。
いつまでも見ているわけにはいかない。前衛の俺が前に出なくては他の皆が動きにくいはずだ。雪片弐型の刃を展開して突き進む。
「待てっ!」
唐突にラウラの大声が聞こえ、俺は咄嗟に急制動をかける。何事かとラウラに意識を向けると、彼女は右肩の大砲で俺を狙っていた。ご丁寧にプライベートチャネルで『動くなよ』というメッセージ付きである。
何の躊躇いもなくラウラから砲弾が放たれた。火薬で得た初速をレール内で電磁的に加速された一撃は俺の脇を掠めて飛んでいく。俺が飛び込もうとしていたルートを飛ぶ砲弾だったが、何もないところで弾速が急落して空中で停止する。
『申し訳ありません、ヤイバさん。わたくしでも例の糸の場所を全て把握することは困難です。今回はわたくしのナビゲートをアテにしないでくださいませ』
バレットが言っていた糸による罠だった。ISによる暗視で部屋の物の配置がわかる程度の視界では、糸を視認することは難しい。何より厄介なのは、今のラウラの砲撃で証明されたように、レールカノンによる攻撃でも糸を切れない点である。迂闊に飛び込めばすぐに行動不能となってしまう。俺やライルのようなブレードしかない機体では機動性を殺されたも同然だった。蜘蛛に射撃攻撃でもされてしまえば、避けて糸に飛び込むか攻撃を受けるかしかない。
「うらあああ!」
足を止めてしまった俺の隣に来たバレットが叫びながらマシンガンを乱射する。蜘蛛を狙ったものではなく、傍目には気が狂ったようにしか見えない。レールカノンと比べて小さい弾丸たちが糸に触れると当然と言わんばかりに止まってしまう。だが無駄ではなかった。
『皆さん、バレットさんのおかげで罠の位置を粗方特定できましたわ』
バレットの乱射の直後にラピスから情報が送られてくる。それは張り巡らされた糸の配置図。白式の視界と同期して見えなかった糸が見えるようになっていた。ラピスは糸の振動を音として拾って、音源となる糸を弦と見立ててマッピングしたらしい。説明されても俺には良くわからなかった。
蜘蛛に動きがあった。蜘蛛の尻に当たる最も巨大な部分が左右に開くと、そこには丸い砲口が見える。糸の情報を頼りに回避ルートを導いて現在位置から急速で離脱する。糸の隙間を通過してくる敵の攻撃は実体弾であった。俺のいた位置を通過した砲弾は石壁に当たり、壁に弾かれる。
蜘蛛の勝ちパターンは敵が罠に飛び込むまで砲撃を繰り返し、罠にかかった敵を一方的に攻撃するといったところだろう。俺やリンだけでは間違いなくしてやられていた。やはりラピスがいるのといないのとではまるで違う。
糸の位置はわかっている。俺、リン、ライルの3人で当初の予定通りに接近戦を仕掛けることにした。最初に到達したのはライル。ENブレードの代表とも言える武器“クレセント”の二刀流で斬りかかった。対する蜘蛛はその図体では考えられない俊敏な移動で簡単にライルから距離をとってしまう。
「あたしに任せなさーいっ!!」
蜘蛛の移動先にはリンがいた。出撃前、ラウラに火力を期待できないと言われたためにムキになっていることが心配だったが、彼女は思いの外冷静だった。下手に近寄ることはせず、双天牙月を連結させて投擲。さらに追撃として衝撃砲も発射している。
蜘蛛は脚で双天牙月を受け止めた。近接ブレードも手から離れてしまえば、その威力は減退する。蜘蛛の脚にはまるで傷がついていない。衝撃砲は問題なく命中して、金属を叩く音が聞こえた。だがそれだけである。蜘蛛の見た目はまるで変化がない。
「今だ。総攻撃をかけるぞ」
「言われなくても!」
リンの攻撃によって蜘蛛の意識は後衛から逸れていた。ラウラとバレットがそれぞれ位置を確保すると、ラピスも交えて3人の一斉射撃が行われる。蒼い閃光群、レールカノン、マシンガンなどの様々な攻撃が一カ所に殺到した。俺が入っていくような隙間がない弾幕を前にして、蜘蛛が逃げおおせるとは思えなかった。事実、蜘蛛は動けていない。
「やったか!?」
確かな手応えを感じたのか、バレットが呟く。バレットの経験上ではISを倒せるだけの攻撃を叩き込んだのは間違いない。でも、俺の経験上では違う。これで倒れていたらどんなに楽なことか。
音や煙といった一斉砲火の余韻が消えていき、俺たちの視界が戻ってくると、やはり蜘蛛の姿があった。そして、やはりダメージはほとんどなかった。蜘蛛の周囲には灰色に光る障壁のようなものが存在していて、それで攻撃を防いでいたようだ。
「ちっ! わかってはいたが、チート臭い装備持ってんな!」
「ENシールドの類か。ヴァリスユニオンが使用できるような装備ではないはずだが、ISの常識を当てはめるのは良くないようだ」
バレットが悪態をつき、ラウラが分析をする。ENシールドはシールドなどと呼んでいるが実質的にはENブレードと同種のものだ。ラウラの言うとおり敵の装備がENシールドだとしたら、俺の雪片弐型も防がれる可能性が高い。
『イルミナントの翼と違い、IS用装備と思われますわ。無制限に使える装備ではないはずですので、いずれ突破できます』
『そう願ってるよ……』
敵のENシールドはバレットが知らないだけの新装備だとラピスは推測を立てる。おそらくはミューレイ製。ENブレードよりも燃費が悪いのがENシールドの特徴だから、連続使用は不可能であるはず。それらは全て的中していたようで、蜘蛛の周囲の障壁が消失する。
蜘蛛の守りが消える。このチャンスを逃すつもりはなく、俺を含んだ前衛3人で一斉に飛びかかった。リンは囮だが、俺かライルのどちらかの攻撃がクリーンヒットすればかなりの損傷を与えることができる。3方からの同時攻撃。逃がすつもりはなく、全員を一斉に捌くことなど容易にできることではない。
蜘蛛は俺を向いた。俺の攻撃は届かないかもしれないが、ライルの攻撃が届けばそれでいい。その後にも俺たちの攻撃は続く。イルミナントほどじゃない。俺たちならコイツを倒せる!
蜘蛛の脚の一つからENブレードが生える。脚の長さの分だけ俺よりもリーチが長く、反応が早い敵のため、蜘蛛の先制攻撃を許してしまった。俺にできる防御手段は雪片弐型で受けることだけ。エアハルトの一撃と比べれば軽すぎるため、防ぐこと自体は全く問題なかった。雪片弐型の出力を頼りにして弾き飛ばし、蜘蛛の頭めがけて雪片弐型を振り下ろすと別の脚から生やしたENブレードで受け止められる。流石に手数だけは蜘蛛の方に分があった。俺一人では押し負ける。だから早くライルの攻撃が来てほしかった。
「うわっ! なんでこんなところに糸が!?」
そんなときにライルの戸惑う声が届く。事情を把握し切れていないが、後方からライルが攻撃を加えていないことから何かのトラブルが発生したようだ。蜘蛛の攻撃を受け流しつつラピスからの報せを待つ。
『ヤイバさん! すぐに距離を取ってください!』
ラピスが慌てて通信を送ってくるのと俺が後方にイグニッションブーストをしたのは同時だった。蜘蛛とは関係のない方向から射撃攻撃が来たからだ。誰かの流れ弾かと思ったが、そうではない。床に着弾したそれの射線には糸が張られていたのだ。
「蜘蛛の攻撃か!? でも奴は俺の前にいたはずじゃ……」
『……BTですわ』
ほぼ直感で避けられた攻撃は蜘蛛から離れた場所から放たれたものである。それができた理由をラピスは一言で説明し終えた。ラピスの主武装であるBTビット。蜘蛛は糸以外にもそんな隠し玉を持っていた。おまけに蜘蛛のBTが発射するものはEN属性の弾ではなく例の糸だった。
「ヤイバ! ライルが捕まった!」
「何だって!? 助けないと――」
「きゃあああ!」
「リンっ!? おい、リン!」
「何よ、これ! 動けない!」
ライルはBTからの糸をまともに受けてしまって行動不能。バレットからその状況を知らされている間にリンも捕まってしまった。一瞬で6人中2人がやられた。厳密にはまだISは機能停止していないが、動けないのでは一緒だ。俺の位置からライルは見えないが、リンに無数の糸が絡まって、壁に張り付けられているのが見える。
「今、助けに行くぞ、リン!」
反射的にリンの方へと向かおうとした。だが黒いIS、ラウラが前に立ちはだかる。イグニッションブーストを使用した俺がラウラの前でピタリと停止した。いや、させられた。ラウラの右の掌が俺に向いているだけで、俺は影を縫われたように移動できなくなっている。
「落ち着け。今の貴様の行動は敵の思う壺だ」
「でもリンが!」
『ラウラさんの言うとおりですわ。リンさんを助けたいからこそ、落ち着く必要があります』
白式にデータが送られてくる。蜘蛛のBTが現れてから変更されたラピスによる糸の予想配置図だった。視界に反映されると俺の突撃するはずだった先には網のように張り巡らされていることがわかる。
「くっ!」
「敵が一枚も二枚も上手だった。高レベルのBT使いとなれば、こちらの数の利などまるでない。こちらには有効な装備もなく、劣勢をひっくり返せそうにはない」
ラウラに戦況分析されるまでもなく敗色が出てきたことは俺でもわかる。だからどうするべきかが知りたかった。不利な戦況でも冷静さを欠かさないラウラの考えを聞くために俺は黙って待つ。彼女ならなんとかしてくれるのではないかと思ったんだ。
「実質的な戦力は私とラピスラズリくらいだ。敵は国家代表と渡り合える実力と見ていい。この私と言えど勝率は高くない相手ということだな。こうなってしまえば一度退いて戦力を整えるのが得策だろう」
俺のささやかな希望は容易く砕かれる。ラウラはリンとライルを置いていくべきだと言いやがったのだ。でもそれじゃ、無理を押して来ておいて犠牲を増やすだけにしかなってない。このまま撤退して蜘蛛を逃がすようなことになれば――
俺はまたリンを見捨てるということになる。
「だったらお前だけ帰ってろ」「なら、てめぇだけ帰ってろ」
ラウラの発言に俺とバレットが声を揃えて噛みついた。残った4人だけ撤退などという選択肢はありえない。退くにしても、リンとライルだけは取り戻す。友達を助ける。それが俺たちが戦う理由なんだ。
「この部隊のリーダーはヤイバ、貴様だ。貴様が戦闘の継続を指示するというのならば、私も従おう」
「戦う理由がない奴が無理して戦う必要なんてない」
「誰にものを言っている? 私の戦う意味など、存在意義の一言で片が付く」
ラウラが右手を下ろすと白式が自由を取り戻した。何をされたのか理解し切れていないがおそらくはラウラの真打ともいえる装備なのだと思う。彼女はまだ底を見せていない。一度は撤退を進言したにもかかわらず、彼女はやる気満々といった様子だった。現実の彼女と同じ、左目を覆う黒い眼帯を取り去って、初めて両目を開いた状態を俺たちに見せる。塞がれていた左の瞳は……どこかで見たような金色をしていた。
「陣形を変更だ。私が単独で前衛として直接斬り合う。バレットはラピスが糸とBTの位置を把握するために実弾をばらまけ。下手な鉄砲、数打ちゃ当たると言うだろう? ラピスは全員に回避に使えるルートを絶えず知らせろ。ヤイバは距離を離して攻撃を回避しつつ待機。これでいいなら承認しろ、リーダー」
「あ、ああ。皆、それで頼む」
同意を求められ、俺は了承する。それからのラウラの動きは素早かった。暗闇の部屋に潜む蜘蛛をあっさりと見つけ、両手の赤く光る手刀で飛かかっていく。
◆◇◆―――◆◇◆
久方ぶりの本気だった。ラウラは自らの不完全さの象徴である左目の封印を解き放ち、平常時よりも遅く流れる時間の世界に足を踏み入れる。
……敵ヴァリスユニオン、AICキャノンの発射体勢。
蜘蛛は尻を上部に持ち上げ、砲口を開いた。AICキャノンは8本の脚で自機を固定しなければ発射できない代わりに、PICCの有効時間が長いことによる長射程と近接ブレードと同等のPICC性能を得た、対IS用実弾射撃の中で最高の単発火力を誇る武器だ。ヴァリスの標準といえるラウラの機体の防御力でも容易くシールドバリアをブレイクされるほどの代物。弾速はレールガンと同等以上で、直撃しなくとも掠めるだけでPICに影響が出て機動性が下がる危険性もあった。
「イナーシャルコントロールでこの私に勝負を仕掛けてくるとはな」
ラウラは避けようとすらしない。ENブレードモードを解除した右手を前に出す。対策はたったそれだけだった。
蜘蛛から砲弾が放たれる。槍型ブレードを持ったISが無謀な突撃をしてくるのと同等な一撃はもう避けられないタイミングとなっていた。だがラウラの顔には一切の焦りは存在しない。それどころか笑っていた。
砲弾がラウラのIS“シュヴァルツェア・レーゲン”の固有領域(※PICの影響範囲のこと)を侵犯する。その一瞬にラウラは球状の固有領域と砲弾の接触するただ1点に意識を集中させた。
AIC。アクティブイナーシャルコントロールと呼ばれるIS操縦技術は宍戸恭平が織斑一夏に教えたようにイグニッションブーストなどの高度なテクニックの基本となるものだ。主な使い方は移動時の安全装置を外したり、物理ブレードの攻撃力を高めたり、敵からの実弾攻撃に合わせてPICによる防御をピンポイントで強化したりである。今、ラウラが行っているのもAICの枠から外れたものではない。AICによるピンポイント防御。ただ彼女のそれは度が過ぎている。それだけの話だ。
砲弾はラウラの右手の前で静止した。彼女が止まっている砲弾を横から叩くと屑鉄同然となって落下する。蜘蛛の最大の射撃も彼女の前では何の役にも立たない。
ラウラに見られた実弾は全て時が止まったかのように静止する。まるで空気自体が氷漬けになったと言い表され、彼女と相対したプレイヤーたちは彼女のことをこう呼ぶようになった。
――“ドイツの冷氷”と。
AICキャノンの無力化により蜘蛛は迎撃手段を変更する。ラウラを包囲するために罠を仕掛けていたBTの照準を直接ラウラに向けた。左目を解放したラウラにとって弾速は大した脅威とならないが、視認を難しくさせるステルス性を有した攻撃はAICで防げる可能性が小さくなる。だからそもそもAICで防ぐことなどラウラは考えていなかった。
ラピスからの情報も合わせて自分を狙っているBTの位置は割れている。糸の発射は射程が短いのか、ラウラを狙っているBTは全てラウラのワイヤーブレードの射程内だった。肩部から射出される有線の矢尻がBTの発射口に飛び込んでそのまま貫通する。
障害の排除を完了。残る抵抗は機械脚に付けられているENブレードのみ。全ての脚を斬り落としてしまえば勝利は見えた。懐に入ったラウラを取り押さえようと蜘蛛は前足の2本を振りかぶる。その動きもラウラの左目にはスローモーションに映っていた。向かって右側の脚に自分から飛び込んでいき、またもや右手をかざす。蜘蛛のENブレードは根本で静止させられ、隙だらけの脚をラウラは左手の手刀で斬りつける。ラウラの左手は蜘蛛の脚にめり込んだ状態で止まった。ENブレードが消失し、武器としての機能を停止した蜘蛛の脚だったが、駄目押しとしてラウラは推進機を噴かす。加速によって強引に力を加算された結果、ラウラの左手は蜘蛛の脚の1本をちぎり取ることに成功する。残りは7本。
蜘蛛は接近戦の不利を悟って後方に大きく飛ぶ。逃がすまいと右手を蜘蛛に伸ばすラウラだったが、唐突に頭に針が刺さったような痛みが走り顔をしかめた。咄嗟に手で左目を隠すことで痛みは落ち着く。その間にAICで足を止めることに失敗して蜘蛛を取り逃がした。
『ラウラさん、どうされました?』
「しばらく左目を使っていなかったのが災いした。想定していたよりも戦闘に許された時間が短かったようだ」
ラウラの左目は常人よりも遙かに多くの情報を脳に送りつける。それは必ずしも良い結果のみをもたらすわけではない。脳が悲鳴を上げるのだ。
“
だがラウラの越界の瞳は失敗作である。ラウラの意志に関係なく常に全開となってしまうため脳にかける負担が成功作の比ではない。右目は常人と変わらず、研究者はラウラを見捨てて脳に必要な処置も加えなかった。
蜘蛛と距離が開いてしまった。ラウラは左目を押さえたまま右肩の“ブリッツ”を展開して蜘蛛を狙い撃つ。効果が薄くとも避けられることはないはず。少しでも損失を与えるために放たれた一撃。しかし無情にもラウラの攻撃は届かない。蜘蛛の眼前で砲弾が宙に静止していたのだ。
やり返された。“ドイツの冷氷”の得意技を蜘蛛は平然と真似してのけた。ラウラでさえ“眼”の恩恵がなければ100%成功するわけではない技を蜘蛛が成し遂げた理由を推測するのは簡単だった。
この蜘蛛の中身は――成功作だ。
「このような場所で私は足を止めるわけにはいかない。何より、なんとしてでも貴様に聞かなくてはならないことができた」
冷氷の二つ名のとおり、どのような戦場でも冷静さを欠いたことのないラウラ。しかし今の彼女は熱くなっている。予てより疑問に思っていた自らの存在に対しての答えを持ち合わせているかもしれない相手が目の前にいるのだ。ブリュンヒルデの手がかりを追ってヤイバに接触したラウラだったが思ってもいないところで自らの最大の目的に近づけた。
過去にラウラが感じたことのない高揚感がラウラの冷静さを奪う。頭痛を忘れて、自らに残された攻撃手段も忘れて、蜘蛛の狩り場を舞う。蜘蛛はBTから糸を射出してラウラの動きを封じようと試みる。ワイヤーブレードで先にBTを落とせば問題ないことは先ほど証明されたばかりだ。
だがワイヤーブレードを出すことができなかった。
「さっきの糸か!?」
先のBT破壊時にワイヤーブレードには糸が付着していた。その状態のまま収納されたワイヤーブレードは本体内部で接着されて動かなくなっている。ラウラはそれを承知で蜘蛛に接近戦を仕掛けていた。もう一度距離を取られた時点で別の戦術を取らなくてはいけなかったのだが、熱くなった頭では適切な判断を下せなかった。元よりラウラは自分のために戦うことが初めてである。欲ともいえる自らの衝動が戦闘の思考に与える影響を経験したことがなかった。
辛うじてイグニッションブーストで後方に飛び、糸の直撃は免れる。再び接近するためにはヤイバたちを利用しなくてはならない。
「ヤイバ、バレット。もう一度私が奴に接近戦を挑む。貴様たちは周りのBTを引きつけ――」
『ラウラさん! 危ないですわ!』
一度冷静さを失った思考では咄嗟の判断ができなかった。蜘蛛BTの糸はラウラには命中しなかったものの対面にあった別のBTに命中した。BT同士が糸でつながっている。これが何を意味するのかを把握しているのはラピスだけ。
BTが移動する。ラウラは砲口さえ向いていなければ脅威としていなかったが、それは油断でしかなかった。BTの移動によってラウラに糸が張り付く。
「しまった!?」
最初の糸が付着した時点で事態に気がついたラウラだったが時すでに遅し。蜘蛛のBTがラウラの周囲を旋回することでまずは左腕の自由を失う。糸を張らせたBTの
(私の負け……か)
手足を全く動かせず、攻撃手段をほぼ全て失った。両手のENブレードを展開しても糸は切れず、自分の体に密着しているために自分のストックエネルギーを消費する自滅にしかならなかった。
わざとらしく獲物に聞かせるように蜘蛛が床を這う。図体からは考えられないカサカサという軽い音は虫に抵抗のないラウラでさえ嫌悪感を覚えるものだった。目の前にまでやってきた蜘蛛は口を開いた頭部を無防備なラウラの体に押しつける。頭部とは言っても操縦者の頭があるわけではない。口の中からは2つの杭が覗いていた。
(シールドピアースか。念入りに戦闘不能にしたいらしい)
ラウラに杭が打ち込まれる。シールドバリアは呆気なくブレイクされ、次弾が蜘蛛の口に装填されていた。ヤイバたちの支援は間に合わず、2回目の杭も受けるしかなかった。アーマーブレイクしたISが耐えきれるものではなく、絶対防御の発動によりシュヴァルツェア・レーゲンのストックエネルギーは空となった。あとは知り合ったばかりの素人たちに任せることになる。
ストックエネルギーが0になっても転送が始まらない。そのこと自体は事前のヤイバの簡単な説明でわかっていたことであるから、ラウラに焦りはない。今の自分の状態も現実でエネルギー切れを起こしたISと全く同じであって、戸惑いはなかった。
だがひとつだけ予想から外れていたことがあった。
蜘蛛がラウラから離れない。
頭部を密着させたまま、次の杭が装填される音が聞こえてくる。
次の獲物に向かうべきという考えは人の定石であって蜘蛛のそれは違う。
ISの加護が無くなった操縦者にシールドピアースという牙を突き立てようとしているのだ。
現実でならば間違いなく死ぬ。ラウラの中の常識に照らせば当然のことで、改めて覚悟をせずともラウラは受け入れることだろう。
だがここはISVSという仮想空間に造られた世界であり、今の肉体はラウラ自身のものではない。肉体が損傷しても直接的な死に結びつかないことはゲームとしての側面の中でも証明されている。
Illという存在が無ければ……だ。
Illによってプレイヤーたちのログアウトは封じられている。ゲームにあった安全装置の範囲外の状況に陥っているということにラウラは思い至っていた。今の状況に限定して、ISが無いプレイヤーには痛覚が存在するということに。今から始まるのはラウラの精神を甚振るためだけの拷問。ラウラは目を閉じて歯を食いしばった。
◆◇◆―――◆◇◆
俺は手出しができずにいた。眼帯を捨てたラウラは以前に俺が相手をしたときとはまるで違う鬼神のごとき迫力を伴って蜘蛛に突撃していった。俺が割って入る隙はまるでない。トップランカーの強さをただ呆然と見ていた。
その間にもバレットとラピスは蜘蛛のBTを撃ち落とそうと必死に射撃を繰り返していたが、なかなか命中しなかったり、撃ち落としてもまた新しいBTが蜘蛛から射出されることを繰り返すだけだった。
俺が何もできないうちに事態は悪化する。ラウラが糸に捕まった。すぐに助けようと思った。でも思っただけで動けなかった。これすらも蜘蛛の張った罠なのだと、誰かに言われた気がしたからだ。誰かとは多分、弱気な俺なのだと思う。BTを利用した動く蜘蛛の巣によって、俺は下手に動けない。
『ヤイバさん! ラウラさんが!』
「わかってる。ラピスは糸の位置を調べてくれ。俺が行く」
口ではなんとでも言えた。今の俺は蜘蛛の元へ飛び込む危険性を理解してしまっている。さっきの俺なら迷わずに飛び込んでいたはずだというのに、足が竦んでいた。ラウラの敗北も俺を躊躇わせる要因のひとつだった。
壁に張りつけられているリンの姿が見える。蜘蛛の注意がラウラに向いている今ならリンを助けられるかもしれない。ライルもバレットが助けにいける。ラウラを見捨てれば、なんとか他の皆は生還できる可能性があった。
別にラウラは俺の仲間というわけじゃない。ラウラはナナたちを襲っていたこともあった。まだ信用していい相手だと断言できるわけじゃない。それに他ならぬ彼女が一時撤退を進言していた。それに従えばいいじゃないか。シャルルや彩華さんの手を借りてもう一度挑戦すればいいじゃないか。ラウラを犠牲にして、体勢を立て直せばいいじゃないか……。
『そんなことできるかああああ!』
気がつくと俺は叫んでいた。いや、俺たちは叫んでいた。
「ラピス、全部を調べる必要はない。俺はラウラから蜘蛛を引き剥がすために全力で突っ込む。その障害となる全てのBTと糸を適宜俺とバレットに知らせてくれ」
『了解しましたわ。わたくしもそう進言しようとしていたところです』
ラピスに指示を出してから俺はバレットと向き合った。さっきバレットは俺と全く同じ言葉を叫んでいた。俺と同じことを考えた後でそれを否定したのだ。なぜか今の俺にはバレットの心中が自分のことのようにわかる。いつも以上に力が溢れている。まるでイルミナントとの決戦のときのよう。
「バレット。お前の射撃をアテにしてる」
「偉そうに言っといてヘマすんなよ」
互いに拳を形作って合わせる。その瞬間から俺とバレットは何か特別なものでつながったような気がした。
同時に蜘蛛へと向かう。ラピスから送られた情報を元にバレットがマシンガンを乱射する。糸に接触した弾丸が停止して張り付き、移動する糸が弾丸によってわかりやすくなっていた。糸の位置に確信さえ持てれば避けられる。
蜘蛛の上を取った。バレットに事前にマシンガンを撃ってもらい、直線上に糸が無いことは確認済み。雪片弐型を振り上げた。戦闘不能になっているラウラからまだ離れようとしていない蜘蛛めがけて急降下しながら振り下ろす。
寸前で蜘蛛は俺に気づいた。7本の脚を曲げてからの跳躍であっという間に距離が開く。攻撃が空振った俺は地面にぶつかるようにして着地。そこへ蜘蛛のBT3機が砲口を俺に向けてきた。
俺は反射的に武器の一覧を呼び出す。雪片弐型以外の装備が並んでいた。イルミナント戦以来、一度も再現ができなかった装備の共有化ができている状態。ラピスが言うクロッシングアクセス状態になっている。
(借りるぞ)
(おう。……って何がどうなってんだ、これ!?)
雪片弐型をしまってから両手にマシンガンとENライフルを呼び出した。BTのうち2機を両手に持ったそれぞれの銃で撃ち落とし、残り1機はラピスの偏向射撃によって貫かれる。とりあえずの障害を排除し終えたので両手の武器をバレットに返却し、無手のまま蜘蛛への追撃に移行。バレットも俺と同様にイグニッションブーストで蜘蛛への接敵を試みる。
(宍戸の課題、こなせるようになったんだな)
(いや、まだできたことがなかったんだが、不思議と今は使えてる)
ラピスのときと同じ。互いに持っていない技術をも共有して埋め合わせている。バレットの技能が無ければ、俺が銃を持ったところで正確に当てられるはずもなかった。
俺たち2人が蜘蛛を挟み撃ちにしようと囲い込むと、蜘蛛はバレットに矛先を向けていた。俺の戦闘スタイルを把握しての判断だろうが、今の俺たちにはあまり関係なかった。バレットの武器を全て俺が展開する。マシンガン、ENライフル、ミサイル。俺に背を向けた蜘蛛に対して容赦なく一斉射撃を敢行する。
蜘蛛は俺の射撃を全て避けてみせた。全力で跳躍して天井に張り付く。その動きには一切の余裕がみられず、対するこちらは蜘蛛の動きも読んだ上で追撃に入っていた。
(いけ、バレット)
(ああ。コイツを……倒す!)
バレットのイグニッションブースト。蜘蛛はイグニッションブースト直後で動けず、バレットを遮るBTも糸も存在しない。バレットの右手に握られている武器は――雪片弐型だ。
「うらあああああ!!」
バレットの絶叫とともに雪片弐型が蜘蛛に突き立てられる。脚の集まる胴体をえぐり、蜘蛛の頭部が離れて床へと落下していく。7本の脚は制御を失ってだらりと垂れ下がっており、蜘蛛に残された部位はAICキャノンの付いた尻の部分だけとなる。あとはバレットが雪片弐型で斬れば決着だ。
勝った。それは俺たちの誰もが確信したことだろう。だが一息をつく暇なんて俺たちにはなかった。
第六感ともいえる言葉にはできない感覚で俺は咄嗟に後ろを振り返ってENライフルを縦に構える。ENライフルに何かが命中して両断されたため、投げ捨てた。何かとは近接ブレードに決まってる。
一撃目を凌いだが俺には敵の姿がすぐには見えなかった。白式も敵の存在を認識していない。この現象は以前にシャルルと一緒にいたときにも経験している。やがて敵の正体が見え始めた。
左腕に無骨な甲冑。それ以外の外見は通常の打鉄と同じで、背中にミサイルが大量に積まれている。
ディバイドスタイルのため、彼女の顔は見えている。昨日の放課後にみたあの女と同じ顔だ。あの女は俺が読んだ名前を肯定している。もう一度俺は名前を呼んだ。
「楯無ィ!」
「…………」
俺に斬りかかってきた楯無は名前を呼んでも不気味なくらいに無反応だった。まるで俺の声など聞こえていないようである。そんなことなど問題ではなかった。このタイミングで襲ってくるということは楯無は間違いなく蜘蛛の仲間だ。
俺が楯無と対峙している間にバレットの方でも問題が発生していた。バレットが蜘蛛の残った装甲をぶった斬るもその刃は中程で止められてしまったのだ。ENブレード同士の干渉だ。もう装甲としての機能を失った蜘蛛の尻はバラバラと崩れ去る。そして、内部からは――ISが出てきた。
蝶のような翅を生やした青いISだった。ISというのは見た目の話であり、実質はIllのはず。蜘蛛はただの外殻に過ぎず、本体はまだ戦ってすらいないということになる。
「ラピス! いったいどうなってるんだ?」
『わ、わかりませんわ! 入り口にはわたくしがいたはずですのに、気が付きませんでした!』
楯無の進入でラピスがやられたのかと思ったが、そうではないらしい。その事実はラピスがやられたよりも重いことなのだが、今はそれを論じてる場合ではない。楯無の援軍によって3対2になった。戦況は悪化するばかりで、緊張状態が長く続いていた俺たちの疲労は隠せないものとなっていた。
このまま戦闘するのはマズいと思っていた矢先である。楯無は予想外の一言を発した。
「ここは私が引き受ける! 早く逃げて!」
楯無は刀の切っ先を俺に向けたまま、俺の動きを丁寧に観察していた。楯無の発言から考えるに、コイツは蜘蛛の中のIllを逃がそうとしている?
「バレット、逃がすなよ!」
「くそ、無理だ! 逃げられちまう!」
蝶のIllからは蜘蛛とはまた違う種類のBTビットが射出され、バレットを集中砲火していた。バレットはその攻撃を全て避けたのだが、その間に蝶は入り口へと向かう。
「逃がすかよ!」
「させない!」
俺が向かおうとすると楯無が回り込んでくる。バレットから返してもらった雪片弐型で斬り払おうとしたが、前回と同じく左手の小手から伸びた爪状のENブレードによって阻まれた。
入り口にいるラピスも蝶を抑えられずに突破を許す。格闘ができないラピスに止めろという方が無茶だった。もう俺たちでは追いつけない。
蝶が離れてから割とすぐにラウラの姿が消えた。おそらくは俺の時と同じ。Illの影響がなくなったことでISVSのシステムが正常化し、自動での転送が始まったのだ。
「まだ準備不足ね。この次よ。次こそあなたを討つ!」
俺と睨みあっていた楯無はまたもや俺に敵意を言葉にしてぶつけてきた。それだけ俺は敵にマークされているということなのだろう。しかし準備不足とは何だ? 今の状況では蝶と共に攻めてきていれば俺たちを倒せたはずなのに。楯無は捨て台詞を残して姿を消した。ゲームからの離脱と同様の転送によって……。
戦闘が終了した。リン、ライル、ラウラの3人は戦闘不能になっていたため一足先に戻っているはずだ。俺たちは蜘蛛には勝利した。だがスッキリしない終わり方である。目的を果たせたとは言えなかったんだ。
「俺は間に合わなかったのか……虚さん、ジョーメイ」
バレットが床に手を着く。バレットの悔しさは良くわかるつもりだった。だからこそこの場で自分を責めることに意味はないことも知っているつもりだ。俺はバレットを立ち上がらせる。
「帰ろう。今後のことは戻ってから考えようぜ」
失意の中、俺たち3人は蜘蛛の狩り場となっていた遺跡から帰還した。
***
現実に帰ってきた俺たちを先に戻った3人が出迎えてくれる。
「やったわね、弾!」
弾の胸の内を知らないのか、鈴は目覚めた俺たちに向かってそんなことを言ってきた。いくら鈴でも許せない内容だ。弾に代わって俺がきつく言ってやる必要があると思って、筐体のイスから身を起こして振り向く。
出迎えは3人じゃなかった。5人いた。店長のことは本当に忘れていたのだが、もうひとりは俺も弾も予想していなかった。
「いやはや、助かったでござる。これはヤイバ殿にもバレット殿にも、もちろんここにいる皆さんにも頭が上がりませぬ」
『ジョーメイ!?』
ジョーメイも帰ってこれていたんだ。無理を押して蜘蛛を倒しにいったのは決して無駄なんかじゃなかった。それがたまらなく嬉しかった。
◆◇◆―――◆◇◆
ISVSの空を青い蝶が舞う。逃亡の果てに見つけた
「やっと見つけましたよ、マドカちゃーん。と言っても実はもうちょっと前から見つけてはいたんですけどねぇ」
単独で飛行する蝶のIll、マドカの隣に唐突に男が現れた。ISらしいISをつけていないサングラスの優男の名はハバヤという。不意を突かれたマドカが慌てて飛び退くと背中に何かがぶつかる。
「あらら。まだ何もしていないのに私に身を預けるんですかぁ? とんだビッチですねぇ」
マドカは男から離れたはず。にもかかわらず、ハバヤはマドカの背後をとっていた。マドカの目線の先には背後のハバヤとは別に飛行しているハバヤがいる。しかし、そのハバヤは幻か何かであったかのように掻き消えた。状況の認識が追いつかないままにマドカはハバヤとの戦闘を開始する。ENブレード“クレセント”を取り出して、背後のハバヤを斬りつけた。マドカの攻撃は男に命中する。いや、命中したように見えただけでENブレードに手応えはなく、ハバヤをすり抜けていた。当然、ハバヤにはまるでダメージが入っていない。
「ついでにじゃじゃ馬のようです。いやー、本当はもうちょっとプレイヤーを食っていただきたかったのですが、私も欲を出し過ぎましたねぇ。今のあなたを私が退治してもリスクしかないんです。そこんところ、わかります?」
マドカはハバヤの姿を見失っていた。ISを凌ぐIllとなった蝶の力を以てしてもハバヤの位置を知ることすらできていない。
「あれ? 私が見つからない? これは傑作ですねぇ! ウォーロックがティアーズフレームを参考に造り上げたIllだってのに、見えてねえのかよ!」
声は聞こえどもまるで位置が掴めない。業を煮やしたマドカは全てのBTビットを周囲に向け、手持ちのENライフルと同時に周囲に乱射した。だがそんな滅茶苦茶な攻撃が当たるはずもない。
「愉快を通り越して不憫になってきました。そもそも私が大人げなかったのが悪いんです。すみませんね、お嬢ちゃん」
マドカのIllがダメージを報告する。いつの間にかマドカの背中にナイフが突き立てられていて、絶対防御が発動していた。近くにハバヤがいる。マドカは闇雲にENブレードを振り回しはじめた。しかし、その行動を嘲笑うようにマドカに次々とナイフが突き立てられる。なのに攻撃を加えてくるハバヤの姿を認識できない。何もできないまま突き刺さるナイフが10本を越した辺りでIllがその機能を停止した。飛行することもできずに墜落を始めるマドカ。あと一撃、マドカ自身にナイフを突き立てられればマドカは消滅する。
ハバヤの最後の一撃は膝蹴りだった。まともに腹に入ったためにマドカは気を失う。彼女を丁寧に抱き抱えたハバヤはため息をこぼした。
「捕獲完了っと。本当は殺したかったのですが、私の地位のために利用できない以上、ヴェーグマンに恩を売っておくべきですね。これも生き残るために必要だと割り切るとしましょう。趣味で始末するのはもう1体の方でも構わないですし。ヒッヒッヒ!」
ターゲットはまだひとり残っている。
ハバヤの笑い声がISVSの空に響いていた。