Illusional Space   作:ジベた

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17 母なる大地

 その日、篠ノ之箒は一夏の背を見つめることが多かった。

 

 埃が舞う薄暗い廃屋の中、2人の小学生が物陰で息を潜めていた。ひび割れた灰色の壁を反響する複数の足音が聞こえて、小学生のうちの片割れであるポニーテールの少女、箒は恐怖で身を震わせていた。箒の震えを感じてか、彼女の右手を掴んでいる少年、一夏の握る手に力を込める。その手の力強さが箒にはとても温かく感じられた。

 

「ガキどもは居たかっ!?」

「いや、こっちにはいない! くそっ、こんな広い廃ビルを使うんじゃなかった!」

 

 今、箒たちは追われていた。追われる理由は箒に、正確には“篠ノ之”にあった。人気のない場所に箒がいるのも自分からやってきたわけでなく連れてこられたからであり、連れてきた連中こそが今もなお血走った目で箒たちを探し回っている男たちである。そう……箒は誘拐されたのだった。

 

「怖いか、箒?」

 

 小声で一夏が話しかけてくる。箒の右手を握っている少年は、周囲を警戒しているためか箒に背を向けたままだった。これが日常の中での出来事ならば箒は『目を見て話せ』と叱るところだが、今は逆にその背中が頼もしく見えた。

 

「怖いなどあるものか。私を誰だと思っている」

 

 精一杯の虚勢を張った。普段は同い年である一夏に年上気取りで物を教えている手前、怖いという事実を認めることは恥ずかしいものだったのだ。そのあからさまな強がりを一夏がどう思ったのかは箒にはわからない。ただ、一夏は今まで握っていた箒の手を離した。箒の右手はつい一夏の手を追いかけてしまう。

 

「ごめん。しばらくここにひとりで隠れててくれ。俺がなんとかするから」

「な、何をする気だ?」

 

 問いながらも箒は一夏の考えていることは理解していた。

 元々、箒は誘拐犯たちに拘束されていた。今、自由の身となっているのは一度助け出されたからに他ならない。誰が助けたか。それは一夏しかいない。

 箒たちを追っている男たちの数は3人。箒をさらった誘拐犯は全部で4人いたのだが、ひとりは完全に気を失っている状態だった。一夏が不意打ちで殴り倒したらしい。

 一夏は誘拐犯のアジトから脱出するために残りの3人とも戦うつもりなのだ。

 

「帰り道を作ってくるだけだって。箒は何も心配せずに俺が戻ってくるのを待ってろ」

「待て、それは――」

 

 箒の制止。しかし一夏は聞く耳を持たずに飛び出していった。箒は足が竦んでしまって一夏を追いかけられない。

 

「いたぞっ! 男の方だ!」

 

 一夏はすぐに見つかってしまう。相手は箒のことを“篠ノ之束の妹”として狙っている者たちである。一夏はともかくとして、箒は幼いながらもこの事実が意味することを正確に把握していた。相手はただの大人じゃなく、その筋のプロなのだと。世の一般男性でもとても対処できない事態だというのに、小学生である一夏がひとりで立ち向かっていた。

 一夏に言われたとおりに隠れていることしか箒にはできなかった。頭では一夏が危険であるとわかっていても足は動かない。できることは『バカだ』と罵ることだけ。それは危険を省みず箒の傍に居続けようとする一夏に対してと、親しき人を見捨てようとしている自分に対してであった。

 バカだという一言が頭の中を巡り続ける。自分の無力さを知っていて大人しく隠れている自分こそが普通なのだと、正当なのだと言い聞かせた。しかし箒の足は意志に反して徐々に前へと踏みだそうと動き始める。道場でも見せたことのない涙を浮かべながらも、箒は一夏の進んだ道を辿ろうとしていた。

 

 ……私はバカだ。

 

 一夏は自分から危険に飛び込んだだけ。箒は今まで散々警告をしてきた。それを聞かなかったのは一夏自身であるから自業自得である。一夏は箒のせいでなく、自らの行いのために死ぬ。箒の前から彼はいなくなり、また元の独りだけの学校が始まるだけ。

 それでいい……だなどと納得する渇いた心はもう無かった。たったひとりの友でも箒の心は潤ってしまっていた。満たされていた。もう元になど戻れるはずもなかったのだ。

 

 箒は走った。顔は涙やらなんやらでぐちゃぐちゃで幼いながらも凛々しくて聡明な彼女の面影はどこにもなかった。一夏の居場所はすぐにわかった。男たちの声や争いの音が聞こえてきているからだ。さほど時間をかけることなく箒は目的地にたどり着く。

 

「ぐぁっ――」

 

 箒がやってくると丁度男たちの1人が角材で殴り倒されるところだった。一夏の足下には大の男が3人倒れている。にわかには信じられないが、一夏は本当に誘拐犯たちをひとりで倒してしまったらしい。一夏は箒がやってきたのに気づいて振り返る。彼は大した怪我もなく得意げな笑みを箒に向けるだけの余裕も残っていた。

 箒は恐怖から解放されたためか、思い切って一夏に飛びつこうと駆け寄り始めた。第一声は罵倒にすると決めていた。感謝の言葉はその後で言えばいい。そう思っていた。

 ところが、箒はあるものを見て唐突に嫌な予感を覚えることになる。それは一夏の空いた左手の動き。意味もなく左手を閉じたり開いたりしている癖は、道場でも見たことがあるものだった。これは彼の慢心や油断の証で、この癖が出ると例外なく試合で負けるのである。

 

 今の一夏は周りを警戒していない。箒が慌てて周りを見回すと、5人目の男がいた。男の手には拳銃が握られている。銃口の先には一夏がいて、一夏は気づいていない。箒は飛びつこうとしていた勢いを殺さずに、一夏を突き飛ばした。

 

 銃声。

 

 箒は大きく目を瞑った後、耳の中に残る銃声の余韻が消えてから再び目を開いた。目の前には「いてて」と床に転がっている一夏の姿がある。一夏は無事だった。

 すぐさま一夏の元に駆け寄ると、箒は一夏の肩を掴んで大きく揺さぶる。

 

「お前はバカだ! 死ぬところだったのだぞ!」

「そうみたいだな。助かったぜ、箒」

 

 いつもの勉強を教えた後の感謝と同じ調子で言われて箒は頭に血が昇る。

 

「そんな軽い話じゃないだろ!」

「悪い、そう言われても良くわか――」

 

 またいつもの『良くわからない』と返されたら、箒は本気で一夏を殴りつけたことだろう。しかし一夏は言い切らなかった。そればかりか――

 

「箒、心配させて……ごめん」

「それがわかればいい……バカ」

 

 違う意味で謝った。思考も行動も常識から外れている少年に箒の当たり前の感情が届いた。そう思うと箒の涙腺はまた崩壊しそうになっていた。

 

 冷静になった箒は誘拐犯のことを忘れていたことに気づく。そして、なぜ一夏と話をしている時間があったのだろうかと疑問が浮かび上がった。疑問を晴らそうと銃を向けていた男に目を移すと、男は銃を取り落とし、右手を押さえてうずくまっていた。

 

 バタバタバタと大勢の足音がなだれ込んでくる。誘拐犯の仲間かと身構えた箒だったがすぐに違うのだと納得した。なぜならば、その中のひとりには見覚えがあったからだ。その女性は真っ先に倒れている一夏の元へと走っていき――強烈なビンタをお見舞いする。

 

「馬鹿者っ! ひとりで飛び出す奴があるか!」

「いって――――っ!! 千冬姉、今の一発が今日一番痛かったぞ!」

 

 一夏の姉である織斑千冬だ。高校生である彼女が連れてきた者たちは服装から見て警官ではなく、年齢からして高校生の集団というわけでもない。一夏への説教は千冬に任せて、箒は千冬が連れてきた集団の観察を始めた。彼らは一夏が殴り倒した男たちや銃を持っていた男を拘束して外へと連れ出していく。箒は純粋な興味から、集団の1人を掴まえて話を聞こうとした。その男は手入れをしてなさそうなボサボサの長い銀髪の男だった。箒が袖を掴んだことに気づいた銀髪の男は怪しく光る金色の瞳で箒を見下ろしてくる。

 

「オレに何か用か?」

「お! 流石は幼女に好かれる体質の持ち主だな、銀獅子さんよぉ。その才能を全世界のロリコンたちに分けてやれって」

「黙ってろ、虎鉄! その才能とやらをロリコンに分けられないってのはてめえで証明済みだろうが!」

 

 銀髪男が同僚と思しき男と馬鹿話をしたことで箒から肩の力が抜ける。見た目はとても怖い男だが、中身は優しいということが言葉だけでわかった。箒は彼らを集団の代表と思って感謝を告げる。

 

「ありがとうございます」

「オレは依頼をこなしただけだ」

「一夏を助けてくれて、ありがとうございます」

 

 二度目の礼。これは銀髪の男個人に対してだった。

 一夏を狙っていた銃は一夏を突き飛ばした箒にすら当たらなかった。タイミング的に箒に当たっていてもおかしくはなかったのにである。その理由は誘拐犯が銃を取り落としていたことと関係していて、箒が聞いた銃声が誘拐犯のものではなかったからだ。

 箒は銀髪男が拳銃を持っているのを見た。集団の中で銃を取り出している者は他にいなく、誘拐犯の銃を弾き飛ばすことができたのはこの男だけだったと結論づけた。

 

「……どういたしまして」

 

 銀髪男は口元を緩ませるとそのまま立ち去ろうとする。箒はそんな彼の袖をまだ掴んでいた。まだ聞きたいことがあった。

 

「おいおい、まだ何かあるのか?」

「あなたたちのことを教えてください」

 

 警察でもない者たちが何なのかを箒は知りたがった。銀髪男はさして気を悪くすることもなく答える。

 

「オレたちは“ツムギ”。世界をつなぎ、人々の思いを紡ぐ。そんな夢を持ったバカの集まりさ」

 

 箒の知りたいことを知ることができたわけではなかったが、銀髪男は急いでいるらしく、これ以上話してくれることはなかった。

 入れ替わるように警察がやってきて、箒たちは無事に保護される。そうしてこの一日は終わっていった。

 

 

***

 

 ナナは目を覚ました。最近になって昔の夢を見ることが多くなったが、今回の目覚めは良い方である。なぜならば夢にヤイバの顔が割り込むことがなかったからだ。しかしながら、やはり“彼”の顔は上手く思い出せない。

 

「今日はシズネは来てないな」

 

 居たら迷惑に感じることもあるが、いなかったらいなかったで寂しくも感じていた。自分のことを身勝手だと思いながら起床したナナは今日の予定を確認するためシズネの姿を探しに居室を出る。

 

「あ! おーっす、ナナ!」

 

 廊下を歩いていると声をかけられた。最近になってナナに自分から声をかける仲間が増えてきていたが、この男だけは最初から変わらぬ態度を見せている。トモキだ。

 

「おはよう、トモキ。暇なようだな」

「まあな。倉持技研の連中が来てからは俺たち戦闘要員はずっと待機してるだけだし。腕がなまってないか心配になってくるくらいだぜ」

 

 トモキの言うとおり、ヤイバがイルミナントを討伐した戦闘を最後にツムギのメンバーは戦闘に参加していない。ナナが受けている報告によれば小規模な戦闘は起きているとのことだが、ツムギのメンバーが命を懸けて参戦する必要性が皆無だったのだ。ナナはその現状をありがたく受け止めている。

 

「そう言うな。誰も犠牲にならないに越したことはない」

「そりゃそうだけどよ。ほら、いざって時に動けないとかカッコ悪いじゃん?」

「たとえ格好悪くとも生き延びてほしいと私は思うのだがな」

「ナナ……俺のことをそんなに大事に想ってくれてるのか」

「お前のような変態でも死なれると寝覚めが悪くなる」

「素直じゃねーんだから――ってちょい待ち! 俺って変態扱いされてんの!?」

「ん? 違うのか?」

「断固否定する! ナナはシズネの奴に騙されてるだけだ!」

「ならば消えた私の下着をトモキが所持していたというのは嘘か」

「何それ!? 身に覚えがないどころか、ナナの下着を盗んだうらやま――コホン。けしからん輩が居るってのも初耳だぞ!?」

「それはそうだろう。嘘だからな。だがトモキが以前に私が女であるか確認するとして行なった狼藉を、私は忘れていないからな」

「ぐはっ」

 

 トモキには返す言葉がない。まるでボディブローを食らったかのようによろめいて項垂れる。

 こうしたトモキとの会話も中身が変質していた。以前はトモキが一方的に声をかけてナナは軽く流す程度であったのに、今ではナナの方から冗談を言うこともあるくらいになった。

 ナナはそうした自分の変化を自覚している。それらは全て心に余裕ができたからだと分析していた。だからこそ悩みが生まれてしまったとも思っている。

 

「なあ、トモキ。私に何か用事があったんじゃないのか?」

 

 割と真面目に落ち込んでしまったトモキにナナから声をかける。見た目が軽薄そうであるのに中身が純情なトモキは持ち前のポジティブさですぐに元気を取り戻した。

 

「いや、シズネの奴がいないときにたまたま会えてラッキーと思ってさ」

「ラッキー……? そういうものか?」

「そういうこと。ナナの今日の予定はどんな感じだ?」

「今からシズネに確認をしに行くところだ。言っておくがお前と遊ぶような時間はないと思え」

「こりゃ手厳しいねぇ。別にいいけどよ。じゃ、俺らの手が必要だったら遠慮なく声をかけてくれ。揃いも揃って暇人だからな」

「ああ、そのときはよろしく頼む」

 

 トモキは「あいよー」と軽い返事だけ残して去っていった。そんな彼を見送るナナはトモキの態度に対して違和感を覚えていた。これもまた、余裕ができたことで見えてきたものである。

 

(トモキはセクハラ発言をしたかと思えば、私とただ話をするだけで幸運だとも言う。シズネが言うにはトモキは私に好意を抱いているようだが、私にはどうもそれがシズネの想像しているものとは違うように思える。まるで見返りを求めていないように感じるのだ)

 

 それは今のナナの悩みにもつながることだった。ナナは揺れている。ヤイバが現れてからというもの、“王子様”の存在が薄れてきていた。それは無意識のうちに見返りを求めていたからだと、ナナは考えている。

 

 “彼”のことを想えば、“彼”はナナを助けてくれる。

 誘拐されたときのように颯爽と現れて助けてくれる。

 ずっとナナを支えてきた想いの裏には、理想の“彼”がいた。

 でも、来てくれたのはヤイバ。

 そして、ヤイバのことが気になって仕方がなかった。

 

 トモキについて考えていたナナだったが、いつの間にか自分のことにシフトしていた。

 

(私はっ! そんな軽い女なのか! 助けてくれる都合の良い男を好きになるだけだなんて……自分の卑しさに腹が立つ! こんな私では一夏にもヤイバにも合わせる顔がない!)

 

 頭の中で自らを罵倒する。それで何が解決するわけでもなく、ただただ虚しかった。結論はいつも同じで、最後に考えることも同じ。

 

(一夏……お前は私を忘れてしまったのか? 約束を6年も果たせなかった私は、もうお前の隣には居られないのか?)

 

 やむを得ない事情という言い訳はあった。何一つ連絡を取ることもできなかったのだ。ナナは1月3日を迎える度に護衛という名の監視役を撒こうと必死だった。それでも約束を守れなかったことだけは事実であり、唯一篠ノ之神社にたどり着けた今年も一夏には会えなかった。一夏が来てくれていたのかもナナは把握していなかった。7年も経てば一夏に恋人の1人や2人出来ていてもおかしくはない。もしかしたら約束自体、忘れられているのかもしれなかった。そうだとしても、よくよく考えれば約束の“来年”はとっくの昔に過ぎ去ってしまっているのだから一夏は悪くない。

 ナナは涙を拭う。ここ数日で泣き虫になってしまったと情けない自分を嘲笑した。そうしてナナは考えることを放棄する。

 

「ナナちゃん!」

 

 不意に自分を呼ぶシズネの声が聞こえて、ナナは気を張る。切り替えの速いナナはすぐに涙を止めてみせ、素早く涙の痕を袖で拭き取った。

 

「ちょうどいい、シズネ。今からそっちに行こうと――」

「緊急事態です。花火師さんから“敵”の襲撃があると連絡がありました」

「そうか。すぐに詳細を確認する」

 

 問題が舞い込んできた。本来なら来てほしくなかった事態であるのに、ナナは渡りに船と思ってしまっていた。戦わなければならないときだけは無駄なことを考えなくてすむから、と。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 “楯無”という名の少女の襲撃から一夜明けた。あの後、セシリアにだけは報告しておいたのだが叱られてしまった。大丈夫だなどと言っておきながら、その実は危険を覚悟して飛び込んでいったのだから仕方がないといえば仕方がない。俺の想定と違う事態になったのではあるが、彼女にとっては関係ないようでもある。朝になっても彼女は拗ねたままだった。

 

「なあ、セシリア。俺が悪かったからいい加減機嫌を直してくれって」

「一夏さんは何も悪くはありませんわ。ええ、そうです。一夏さんの言ったことを鵜呑みにしていたわたくしが悪いだけですわ」

 

 セシリアの手を煩わせるまでもないと判断してのことだったのだが、結果的に鈴のときの再来になるかもしれなかった。またもやセシリアに黙って勝手に動いた俺が原因になってるため罰が悪い。早口でまくし立ててくるセシリアの嫌みが痛烈に効いていた。

 

「次からはセシリアを頼る。これで許して?」

「しょうがありませんわね。約束ですわよ?」

 

 朝の食卓。対面に座るお嬢様はようやく棘を引っ込めてくれた。いや、本当に怖かった。主に俺の後ろから放たれていた殺気が。

 

「反省はこの辺にして、昨日できなかった報告をしたいと思うんだけど」

「そうですわね。わたくしの方も少ないですが一応」

 

 そうして朝の恒例になるかもしれない報告会が行われた。

 俺からセシリアに伝えた内容は“楯無”という名の襲撃者についてである。

 見たことのない左手の装備のこと。

 フレームは打鉄であるのに防御を捨てた中距離火力重視の装備構成だったこと。

 そして、ISでさえ認識困難という高度なステルス機能を有していたこと。

 ステルスに関してはある程度の推定は出来ている。PICを使った機動によって静音性があったり、シールドバリアの設定を変えることで光学迷彩をしたりといったことは出来るが、目の前でEN武器を使用しているのにこちら側のISが敵ISを認識しないというのは明らかな異常だった。ただのステルス機能ではなく、何らかの単一仕様能力によるものだと俺は考えている。それに関してはセシリアの同意も得られた。

 

 セシリアの方の報告は蜘蛛の噂の信憑性についてだ。結論だけ言えば、間違いなく蜘蛛はIllであるという確証が得られた。他には特に新しい発見はなかったようで、それもさっきまでの不機嫌の要因のひとつになっていたのかもしれない。

 

「蜘蛛だけでなく“楯無”という名のプレイヤーもIllかもしれませんわね。念のため聞いておきたいのですが、どんな姿をしてましたか?」

「打鉄って言わなかったっけ?」

四肢装甲(ディバイド)でしたら顔も見えていたのではないですか?」

「ああ、そういうこと。見たには見たけどあまり言えることはないな。黒髪のショートヘアで、日本人女子だなとしか思わなかったし、それにアバターの顔なんて変えられるだろ? ちなみに声は若い女だったな」

「一夏さんから見て美人でしたか?」

「うん、綺麗だった……ってそれが何か関係あるの?」

 

 自分から聞いておいて頬を膨らませないでほしい。確かに敵の見た目を褒めたのは気を悪くすることだったかもしれんけどさ。

 

「少しだけですが関係ありますわね。わたくしはある仮説を立てていたのですが、一夏さんの仰ることが本当でしたら、その仮説が白紙に戻るというだけです」

「それってどんな?」

「内緒にしておきます。当たってないとわかっている仮説を得意げに披露する趣味はありませんので」

「そりゃそうか」

 

 セシリアが外れてると思ってるのなら多分関係ないだろう。俺は次の話を振ることにする。

 

「昨日の報告がすんだところで今日についての話がある」

「一夏さんも既に目を通していましたか。ええ、ミューレイがツムギを攻撃するミッションを提示しましたわね」

「ああ。時間は今日の夜7時。倉持技研側も参加プレイヤーの募集を始めてる状態だ」

 

 敵は正面から宣戦布告をしてきたわけだ。彩華さんが言うには企業間の争いにはルールが設けられているようであり、互いに万全の準備を整えてから戦闘を開始するのが通例とのこと。それは主に参加プレイヤーが楽しめるゲームとしての側面を推すためであるらしく、俺たちにとっては学校にいる間に奇襲を受けにくいので都合が良い。

 

「しかし互いに参加人数制限を設けないとかゲームバランスも何もあったもんじゃないだろ」

「正確には明確な上限を設けないだけであって制限はするようですわ。締め切りもあるようですから、前のような理不尽な内容ではないでしょう。尤も、その辺りはわたくしたちが心配する問題ではありませんわね。わたくしたちはナナさんたちを守れれば良いのですから」

「違いない。それに俺は正式な手続きで参加するつもりはないから、人数調整してくれた方が俺の分だけこっち側が有利になる」

「わたくしも一夏さんと同じくロビーのゲートを経由せずに参加するつもりですわ。というよりも立場上、そうせざるを得ないのですが」

「ああ、そっか。セシリアはFMS所属なんだっけ」

「そういうことですわ。FMSは倉持技研とミューレイの争いに関しては中立という立場をとっていますので、わたくしが堂々と参戦することはできません。ですから偏向射撃による支援も控える必要がありそうです」

「索敵と指揮だけでも十分助かるから気にするなって。セシリアが居てくれるだけで俺は安心できるんだ。いざというときは頼む」

 

 いざというとき。それはこのミッション中にIllが紛れ込んできたときということだ。もしそうなればセシリアはFMS所属の操縦者としての建前など捨てて全力で俺たちと戦ってくれることになる。

 

「セシリア、どうしたんだ? 唐突にボーッとして」

「いえ、別になんでもありませんわ!」

 

 急に黙ってしまったセシリアに話しかけてみたら、彼女はムキになって席を立ってしまった。まだ機嫌が直ってなかったのか。

 

 

***

 

 学校に着くなり俺は昨日のことを思い返していた。ナナたちとはまた別の問題、俺自身の実力向上の件である。宍戸を巻き込むための部活立ち上げはある程度は理想の流れに乗ってくれているが、生徒会長の提示した条件が曲者だった。

 条件とは人数参加無制限の試合を行なって勝利すること。生徒会の用意した対戦相手は鈴ファンクラブの過激派を中心としたグループだ。俺は正確にその規模を把握してないが、以前の校舎が揺れたときのことを考えるに結構な人数になっていそうである。

 そんなお祭り的な試合で全滅するまで戦えだなどと無茶なことは言われなかった。勝利条件は相手チームのリーダーの撃墜となっている。俺がリーダーとなることまで前提条件とされてしまったが、それは仕方がない。相手はおそらくあの大男がリーダーだ。名前は内野剣菱とか言ったか。ISVSで勝負を挑んでくるからには腕前に自信があるとみた。事前に調べておこう。

 

 週末の試合はとにかく大人数が一斉に戦い、大将を討ち取った方の勝ちというまとめてみればシンプルなもの。いかに相手を出し抜いて敵リーダーを倒せるかという点では戦術をしっかりと立てるべきだ。ただし、今の俺には別の問題が立ちはだかっていた。戦力が……足りない。

 俺の陣営に入ってくれる人員は俺自身が集めろと会長は言ってきた。幸いなことに藍越学園の生徒と限定はされなかったが、当日には藍越学園に直接来ることという参加条件がネックだ。ついでにセシリアだけ参加を禁止されてしまっているのも痛い。頼みの綱の藍越エンジョイ勢も相手側に回っている奴らもいるようだし、現状のまま試合に臨んでも圧倒的な戦力差で敗北は必至だ。

 

「おっす、一夏! 昨日は来れなくてごめんな!」

 

 残り2日でどうやって戦力を確保しようか悩んでいると、今日は来ていた数馬が声をかけてきた。

 

「家の用事だったんだろ? 謝ることじゃないって。それに、お前が居ても現状は変わらなかっただろうよ」

「なんか試合するってことになったみたいだね。俺も微力ながら力を貸すよ」

「助かる。当日もだが、まずは俺のチームの戦力をいかに増やすかという点で相談したい」

 

 弾と数馬には昨日のうちにメールで交渉の経緯と試合の内容を伝えてあった。弾から何も返事が来ていないのが珍しかったが、きっと作戦を練ってくれていることだろう。弾の方は来るまで待っておいて、今は数馬の意見を聞いておくことにする

 

「それは俺としてはお手上げなんだ。相手が内野ってのが地味に効いてる」

「内野って鈴ファンクラブの過激派リーダーだよな? 何がマズいんだ?」

「あいつはプレイヤーネーム“バンガード”って言って元藍越エンジョイ勢なんだ。それも弾とツートップ張ってたくらいの腕前と人望もあった。一夏が加入したときに抜けてったんだけど、今でもあいつを慕ってる連中がうちの学園には多いから、弾が一夏についてても藍越エンジョイ勢の半分くらいは向こうに付くだろね」

 

 あの大男にそんな人望があったとは……俺は驚きを隠せない。弾と張り合えるほどの腕前ってことは強敵ということになる。セシリアの援護もなく、戦力差がハッキリ出てしまえば勝つのは困難だと言わざるを得ない。

 

「数馬がそう言うってことは、もしかしなくてもヤバいよな?」

「そうだねぇ……一夏の味方をしてくれそうなのは俺と弾、鈴は当然として他には、アギトとライター、ジョーメイくらいか。あとは中学生だけどテツ? たしか藍越学園じゃなくても良かったよね?」

「ああ。だけど直接学園に足を運んでもらう必要があるから、遠方の知り合いじゃダメだな」

「店長の店に来てる大学生とか誘ってみるのは? 祭りみたいなもんだし、たぶん参加してくれると思うけど」

「それは昨日の帰りに手配しておいた。店長に頼りきりだけどな」

「お早いことで」

 

 どうやらこれ以上新しい案は出てきそうになかった。あとは店長がちゃんと宣伝をしてくれることに期待するとしよう。本当なら俺が直接ゲーセンにいくべきなんだが、今日はそんな暇はない。

 週末の試合に関しては進展がなさそうなのでここまでにしておいて、数馬には今日のことを伝えておこう。

 

「話は変わるけど、今日の夜は空いてるか?」

「放課後じゃなくて夜とは……これは深読みするべきですかな?」

「変な意味に捉えるな、この隠れ筋肉お化けメガネ」

「冗談だよ、冗談。だけど真面目な話、今日は放課後からずっと用事があってさ。夜なんかとてもじゃないが無理だよ」

「用事? それも家の用事なのか?」

「まあね。ちょっと親父と喧嘩してさ、最終的に俺が全責任を持つってことで手を打ってくれたんだ。だから投げ出せないんだよ」

 

 数馬は何も詳細を話してくれないが、親父さんと喧嘩という時点で数馬にとっては大きな事件ということがわかる。無理に俺の都合で引き止めるのも悪い気がした。

 

「そっか、ならいい」

「何か大事な用でもあったん?」

「大事と言えば大事だけど、数馬に無理してもらうほどでもないから大丈夫。自分のことを優先しろって」

「……ああ、そうするよ」

 

 数馬の家の事情は思っていたよりも深刻な問題なのかもしれない。いつもなら俺が『自分のことを優先しろ』と言ったところで手伝うことをやめない男が素直に引き下がっている。それほどの問題を抱えたまま危険かもしれないこちらに来てもらっても数馬が犠牲になる可能性が高いだけだ。だから俺も素直に引き下がることにした。

 

 

***

 

 放課後になって俺はすぐに帰り支度を始める。数馬はさっさと帰っており、弾は今日も学校に来ていない。電話はつながらないためメールを送っているがどうも様子がおかしかった。すぐに確認すべきなのだが今の俺には他にやるべきことがある。

 携帯を仕舞おうとしたところで着信があった。弾だろうかと思ったが違う番号である。あまりにも見慣れない番号であったが取ることにした。

 

『もしもし、ヤイバの携帯だよね?』

 

 聞き覚えのある声だ。そういえば昨日のうちに俺の連絡先を伝えておいたんだった。

 

「合ってる、というかシャルルって日本語しゃべれるのか!?」

『ああ、うん。ISを扱う上では日本とは縁が切れないってパパが言っててさ。僕もついでに覚えちゃったんだよ』

 

 シャルルはフランス人ということだがISVSの翻訳を通すことなく日本語で会話できている。またもや俺が関わる外国人は日本語が達者なようだ。英語とか無理と諦めてる俺としては心の底から尊敬したい。そう思うのも他人事だからか。

 

「それで今日はどうしたんだ? 今夜7時からのミッションについてはメールを送っといたろ?」

『当然、僕も手伝わせてもらうよ。実は特にこれといって用事は無いんだけど、ついついかけちゃった』

「おいおい……まあ、いいや。ちょっと聞きたいことがあったんだ」

 

 と、セシリアに話すのと同じ感覚で土曜日の試合のことを言おうとして気づく。シャルルはフランスにいるのではないか? それだと生徒会長の提示したルールにより参加は無理だ。

 

「わりい。やっぱなんでもない」

『えー! 言い掛けたんだったら最後まで言ってよ』

「わかったわかった。実は明後日土曜日の朝から俺の通う学校でISVSのイベントがあってシャルルを誘おうと思ったんだけど、学校に直接足を運ぶっていう参加制限があるのを忘れてたんだ」

『学校でISVSか。僕の力を借りたいくらいヤイバは困ってるの?』

「人が少なくて困ってるのはたしかにそうだけど、せっかくだから一緒に戦う仲間と親睦を深めるのもありかなってさ。怪物退治とは違って競技だから純粋に楽しめるかなと思ったんだけど、無理だよな」

『うーん、そうだね……』

 

 きっとシャルルにセシリアのような思いをさせてしまった。自分が参加できない祭りの話をされてもガッカリするだけだろう。罰が悪くなった俺は話を締めることにする。

 

「じゃあ、今夜のミッションで会おうぜ。頼りにしてる」

『うん。バイバイ、ヤイバ』

 

 通話を切った。俺の通話が終わるのを待っていたのか、帰り支度を整えた鈴がやってくる。彼女は俺のやるべきことを家にまで手伝いに来てくれることになっていた。

 

「今の電話、誰? 弾?」

「最近、ISVSで知り合ったフランス人のシャルルだ」

「また女の子捕まえたの?」

「ひどい言いぐさだな、おい。あと、シャルルは男だって」

「フーン。最近、アンタの交友関係が良くわかんないわ」

 

 シャルルが男だと言うと鈴は唐突に興味を失っていた。

 

「とにかく、早く帰りましょ。そういえばセシリアはどこいったの?」

「生徒会室。明後日の試合の概要を教えたら抗議しにいくってさ。すぐに言い負かされて帰ってくるだろうから先に校門で待ってようぜ」

「自分だけ参加禁止なんていじめくさいこと言われたら一言物申したくもなるってのは良くわかるわ。あたしだったら腕力で交渉しにいきそう」

 

 正直な話、明後日のことは今は置いてほしい。セシリアが無駄に話を長引かせるとは思えないが、あまりにも待たされるようなら強引に連れ帰ろうと俺は考えていた。

 

「そういえば一夏ってセシリアと一緒に帰って良かったんだっけ? 変に誤解されるのは御免だとか言ってなかった?」

「もう手遅れだから気にしないことにした。だからこそ明後日の試合が組まれてるわけだしな」

「それもそうね。聞いた私がバカだったわ」

 

 鈴と2人で校門へと向かう。こうした姿も誰かに見られると後で面倒なのだろうかと思ったが、幸いなことに誰にも見られなかった。運動部が部活動をしているはずのグラウンドにも誰も見られず、妙に静かな道のりを鈴と並んで歩む。

 今日は平和だな……なわけない! 俺は自分の両頬を同時に叩いた。

 

「ちょっ、いきなりどうしたのよ!?」

「鈴、何かおかしくないか? 下校する生徒どころか、いつもグラウンドにいる連中もいない」

「たまたま外に走りに行ってるだけじゃないの?」

「全部の部活が、か?」

「たまたま重なることもあるんじゃないの?」

 

 自分の頬は叩き損だったか。鈴の言うとおり偶然が重なれば今と同じ状況にもなるかもしれない。俺は少しばかり神経を張りつめすぎていたのだろう。

 落ち着いたところで校門を見れば、女生徒がひとりいた。校門の柱に背を預けていることから誰かを待っていることがわかる。誰もいないわけじゃない。当たり前の光景の中で稀にある現象が今起きているだけだったんだと思えた。俺と鈴は特に気にせず歩いていく。校門で誰かを待つという行為も別に不思議でも何でもなく、この女生徒も俺たちのように誰かを待っているのだろう。

 

「やっと来たね、織斑一夏くん」

 

 気を抜きそうになった頭を切り替えた。校門にいた女生徒はもたれていた柱から背中を離して俺たちの前に立ちはだかり、俺の名前を呼んだ。女生徒の待ち人は俺だ。しかし俺の方は全く知らない相手である。よく見れば女生徒の制服は藍越学園の物ではなく、弾の彼女と同じ高校のものだった。弾はともかく、俺にはその高校に知り合いはいない。

 

「ちょっと一夏……誰よ、この女」

 

 鈴が俺の背中をつねってきた。

 

「いてっ! 鈴! 何を想像したかは知らんが、俺はこんな女は知ら――」

 

 知らないと断言しようとして、改めて女生徒の顔を見た俺は固まってしまった。なんということだ。俺は彼女の顔を見たことがあった。それはこの世界でのことじゃない。そして、彼女の名前も俺は知っている。

 

「楯無……?」

 

 俺が彼女の……昨日の襲撃者の名前を言ったことで時が止まる。俺は現実まで追ってきた襲撃者の存在に、ただ恐怖を抱いていた。対する楯無は俺を見て目を丸くしている。

 

「それがこの女の名前ね! 何よ、知ってるじゃない! またあたしに嘘をつこうとして!」

「いや、待て! 後でちゃんと話すから、今は落ち着いてくれ!」

 

 鈴の空気を読まない発言に今は助けられた。俺は状況を再確認するだけの冷静さを取り戻す。もっとも、楯無の方がどう出るかわからないままだが。

 

「君は何者なの? あの“織斑”とはいえ、私のことまで知ってるなんて……」

「何を言ってるのかわからないな」

 

 楯無の話には耳を貸さずに、俺は脳内で逃げる道を模索する。校門に陣取られている時点で俺たちが学校の敷地外に出ることは難しい。ならば退く方が無難だろうか。校舎を見る。校門が見える位置にある職員室には、なぜか誰の姿も見受けられない。偶然で片づけた現状が楯無の罠であるのなら校舎内に逃げ帰っても袋の鼠なのかもしれない。

 

「気を悪くしたなら謝るわ。知ってるようだけど念のため名乗っておくわね。私は更識楯無。見ての通り高校生よ。今日は君に聞きたいことがあって来たの」

「それで素直に『はい、いいですよ』なんて言うわけないだろ」

 

 流石にISVSのときのように問答無用で襲いかかってくることはないようだ。ならば第三者の目には触れられたくないと考えているはずで、人のいない現状を作り上げた理由も同様だろう。これは突破口だ。俺がすべきことはひとつ。俺は鈴に小声で伝える。

 

「走れ」

 

 鈴の右手を掴んで猛ダッシュで来た道を引き返す。どうやって人払いをしているのかは不明だが、学園という特殊な空間でそれを成し遂げるのは難しいはず。俺が無茶な移動をすれば、どこかに綻びが生まれて抜け出す道があるはずだ。

 

「待ちなさい!」

 

 待ちなさいと言われて待つわけがない。楯無が俺たちを追ってきているということは、罠があるにしても追い込む必要があるってことだ。完全に包囲されてる可能性は否定しても良さそうである。

 

「ちょっと一夏! 靴履き替えないと!」

「今そんな暇無いから! あの女は昨日俺を襲ってきた敵なんだよ!」

 

 下駄箱前で悠長なことを言っている鈴を無理矢理引っ張って、校内に土足で進入する。鈴は敵という単語だけで察してくれたのか、素直に土足でついてきてくれた。当然のことながら追っ手の彼女も同じく履き替えるような真似はしていない。

 

「待ちなさいってば!」

 

 俺と鈴は足が速い方だと自負している。鈴も完全に割り切ってくれていて全力で走ってくれているのだが、それでも追っ手との距離は広げられそうにない。

 

「一夏、次の突き当たりで左右に分かれましょ? あたしは左、アンタは右ね」

「OKだ」

 

 1階廊下の端、T字になっているところで俺と鈴は左右に散った。これで相手は俺のみを追いかけるはず。自由になった鈴が誰かに助けを求めれば現状を脱することができる。……そのはずだった。

 

「でやああああ!」

 

 楯無が顔を出したであろうタイミングで鈴の雄叫びが聞こえてきた。俺は鈴を見誤っていた。彼女の提案は逃げるためのものなんかじゃなかった。もしかしなくても彼女は背を向けるであろう追っ手に跳び蹴りを放つために校舎の地形を利用したのだった。鈴相手ではセシリアのように以心伝心とはいかない。

 こうなってしまえば俺が逃げる理由はなくなってしまう。すぐさま反転して鈴の元へと向かう。跳び蹴りが成功しても失敗しても、俺はその場に居合わせなければならない。

 

「離しなさいよ!」

「あのねぇ……いきなり人に向かって跳び蹴りしてくる子を自由にさせると思う?」

 

 結果は失敗だった。細かいやりとりは見ていないが、鈴の攻撃は空振りに終わり、楯無に捕らえられてしまっている。右手をひねりあげられていて、鈴単独での脱出は難しいと思われた。

 

「鈴を離せ!」

「いや、同じことを二度言わせないでくれない? 離した瞬間に私は噛まれたりするんじゃないかしら」

 

 マズい状況になった。鈴を人質に取られてしまってはさっきのように逃げ出すこともできない。逃げた場合は鈴がどんな目に遭わされるか。鈴は何も言わずに俺を見てくるだけ。逃げろと言われている気がするが、そんなのは御免だ。もう鈴を置いていったりしない。

 

「要求を聞こう……」

「そうそう、最初からそういう殊勝な態度を取ってくれればいいのよ。ちゃんと答えてくれたらこの子は離してあげるわ。……あれ? もしかして私、いつの間にか悪役になってる?」

 

 ふざけた奴だった。だからこそ俺は下手を打てない。鈴の安全を確保するまでは大人しく従わないといけないのだ。黙って楯無の要求を待つことにした。

 だが一向に楯無は本題に入らない。目を閉じて耳を澄ませている。見た目は隙だらけなのだが、俺は動けなかった。そして、楯無は鈴を解放して俺たちから距離を置いた。

 突然の楯無の行動を不思議に思っていると、俺の耳が風切り音を捉える。耳のすぐ傍を高速で何かが通っていったようだ。その何かは白い棒状のもので、楯無のいた位置を通過後に壁に激突して砕け散る。白い石灰の粉と破片が廊下にバラバラと散らばった。

 

「ほう……まだこの学園に簡単な規則も守れない問題児が潜んでいたとは、生徒指導を担当するものとして嘆かわしい限りだ」

 

 第三者現る。その声は大変聞き覚えのあるものだ。彼は今の俺たちにとって救世主であり、同時に破滅をもたらす魔王かもしれなかった。

 

「宍戸先生……」

「神聖な校舎に土足で立ち入り、あろうことか廊下を全力疾走。織斑、何か申し開きはあるか?」

「いや、仰ることは事実なんですけど、これには事情がありまして……」

 

 どう言い訳をしたものか。あと、どう説明をしようか。そう考えながら弁明をしようとする俺の傍を宍戸は何も言わずに通り過ぎた。

 

「凰。お前は織斑とそこに立っていろ」

「は、はいっ!」

 

 続いて鈴のところへと行ったかと思えば、宍戸は鈴に俺の元へ行くよう伝えるとまたもや通過。どうやら宍戸のターゲットは楯無のようだ。宍戸は足を止めて、楯無と対峙する。

 

「他校の生徒だな。まさかとは思うが、さっき廊下でオレを足止めしようとしてきたバカどもはお前の身内か?」

「何なの、この学園……何なの、あなたは……?」

「答える気はないか。仕方ない。お前はうちの生徒じゃないし、生徒指導室ではなく警察の世話になってもらうとするか」

 

 宍戸が上着のポケットからチョークを取り出していた。いつも常備してるらしい。上着が汚れてしまうと思うのだが、特に気にならないのだろう。

 いつでもチョーク投げを披露できる体勢の宍戸を前にして、楯無はジリジリと下がり始めている。たかがチョークと侮ってはいけない。過去に被弾した俺の机にはめり込んでしまった石灰が今も残っているくらいの威力を持っている。一発でその脅威を理解するとは、やはり楯無という女は油断ならない相手だ。

 

「ひとつだけ言わせて。私には敵対する意志はないの。今日は秘密裏にそこの織斑一夏くんと話がしたかっただけ。なぜかこんなことになっちゃったけど本意じゃないの」

「そうか。悪いが何を言ってるのかわからん」

「今日は出直すことにするわ。あなたみたいな用心棒がいるようだと私1人じゃ荷が重いし」

 

 楯無がスカートのポケットから取り出したボールを床に叩きつけると廊下は瞬く間に煙に包まれた。一瞬で視界を奪われて、宍戸の姿すら見えない。俺は隣にいる鈴の手を握り続けた。この煙が晴れたときに、鈴がそこに居てくれるようにと。

 宍戸が窓を開けることで次第に見えるようになってきた。楯無の姿はもうない。またもや逃げられてしまった。もっとも、現実では俺が出来ることも限られているので、逃げてもらった方が嬉しい面もある。昔は怖い物知らずでどんな相手にも果敢に立ち向かっていた俺だが、もう無謀な真似はしないと“彼女”に誓った。そんな俺は昔よりも弱くなっているのだろうか。

 

「ねえ、一夏。いつまで握ってるの? あ、あたしは構わないけどさ……」

「あ、悪い」

 

 鈴に言われてから手を離す。すると鈴は不機嫌そうに頬を膨らませた。いったい俺にどうしろと言うんだ?

 俺たちの元へ宍戸がやってくる。さて、今日はどんな罰が与えられるんだ? 場合によっては全力で逃げることを視野に入れる必要がある。今日ばかりは無駄に遅くなるわけにはいかない。

 

「織斑、凰。お前たちはさっさと外に出て行け。廊下を無駄に汚すんじゃない!」

「す、すみません! 直ちに掃除をしま――」

「待て。お前たちが汚した廊下の清掃は、今、生徒指導室に放り込んでいる連中への罰とする。お前たちはさっさと帰れ」

「は? マジですか? 俺がやらなくていいんですか!?」

「仕方ない、織斑がそこまで言うなら――」

「滅相もございません! 不肖、織斑一夏! 全力で帰宅させていただきます! 行くぞ、鈴!」

「あ、待ちなさいって!」

 

 何だか良くわからないうちに楯無の襲撃はなんとかなっていた。今日は宍戸に助けられたということになる。気まぐれで罰の矛先が別の人間に割り当てられるというおまけ付きと来たもんだ。今夜は雪が降るのかもしれないな。

 

 

***

 

 帰り道。セシリアとも合流して俺たち3人は並んで歩く。

 

「学園ならば安全だと油断していましたわ。申し訳ありません、一夏さん」

「なんでセシリアが謝るんだ? 別に俺を守る義務があるわけじゃない」

 

 セシリアが頭を下げてくるため俺は即座に否定を入れる。たしかに『俺を見ていろ』的なことを言ったとは思うが、それは何が何でも俺を守れと言いたかったわけじゃない。セシリアの公的立場を利用こそしている現状だが、セシリアの責任となると話はまるで違う。

 

「きな臭くなってきてるわね。ゲームの中での不思議現象だけじゃないってこと?」

「ああ。いずれはあるかもと想定はしてたけど、思ったより敵の動きが早かった。黙っててごめんな、鈴」

「別に怒ってないわよ。あたしが考えの回らないバカだということを思い知らされてるだけだし」

「拗ねてるよな?」

「拗ねてない!」

 

 楯無の襲撃によって鈴ももうISVSと現実の間に作っていた境界を取り払ったことだろう。ISVSでの敵は現実の人間である。未だに目的もハッキリ見えてこない相手だが存在だけはわかっている。そして、敵側も俺の存在を認識している。現実で何が起きても不思議じゃない。セシリアに居てもらうだけじゃなく、彩華さんにも対策を相談したほうが良いかもしれない。

 

「でもさ、一夏。セシリアが代表候補生で専用機持ちだから敵が迂闊に襲ってこないってのはわかるんだけど、セシリアも24時間一夏を見ていられるわけじゃないでしょ? 家もバレてるだろうし、また襲われたりしない?」

「ご心配は無用ですわ。わたくし自身はどちらかと言えば保険やおまけでして、警備に関してはジョージを筆頭とするオルコット家の使用人たちが目を光らせていますわ」

「だそうだ、鈴」

「えー、そんなんで大丈夫なの?」

 

 鈴が心配してくれ、セシリアが大丈夫だと太鼓判を押す。セシリアの話では学校のみオルコット家使用人の目は届かないそうだが、登下校や家にいる間は心配無用とのこと。鈴は訝しげな目を俺たちに向けてくるが、俺は乾いた笑いを返すことしかできなかった。セシリアの使用人を信頼していないというわけじゃない。むしろその逆だったからこそ、ため息の一つでも吐きたくなる。

 

 

 下校の道中、主に俺の身の安全をどう守るかという議論がセシリアと鈴の間で繰り広げられていた。警察を頼れという鈴と警察の手が入ると逆に

守りづらいとするセシリアのぶつかり合いに当事者の俺はついていけなくなり、3mほど前をひとりで歩き始める。話し相手もいないので適当に景色を見て歩いていると、こちらに向かって手を挙げて走ってくる男がいた。

 

「ようやく見つけましたよ、名誉団長!」

 

 どこかで見たことのある男だと思ったら、蒼天騎士団のリーダーであるマシューだった。若干、背の高さがアバターよりも低いが外見は特にいじってない模様。この男はたしかセシリアのファンだったはず。俺は後ろを振り向いた。

 

「セシリア、お前に話があるってさ」

「わたくしですか? 一夏さん、その方はどちら様でしょう?」

 

 セシリアは鈴との論戦を中断してこちらに意識を向ける。そしてマシューはというとすぐにセシリアの元にいくことなく何故か俺に向かって頭を下げた。

 

「ありがたき幸せ! 名誉団長の懐の深さに不肖、この真島慎二、感謝の極みでございます!」

「おい……いきなり何なんだよ、お前は。というより、名誉団長って何? それは俺のことか?」

「はい! セシリア様より直々に騎士に任じられ、先の戦いでは敵の大将を討ち取り、チェルシー様を救った英雄であられる貴方を我々は尊敬しております!」

 

 俺は頭を抱えた。また変なのに捕まってしまったよ。

 

「マシュ……真島だっけ?」

「呼びやすい方でどうぞ、名誉団長」

「じゃあ、マシュー。お前の言ったことは大体合ってるかもしれんが、脚色しすぎだぞ」

「あら? そうでもありませんわよ」

 

 このタイミングでセシリアがマシューに同調し、俺は面食らう。ちなみに鈴は一歩引いたところで俺たちの様子を見守るだけで、顔には関わり合いになりたくないと書かれていた。

 

「一夏さんはわたくしが認めた人です。そしてチェルシーを助け出してくれた。世界中の皆さんが非難したとしても、一夏さんがわたくしの英雄であることは事実なのです!」

「そうですよね、セシリア様! くーっ! ボクらのような子供が武器を取って信じるもののために戦う。こんなシチュエーションにこの現代社会の中で巡り会えるなんて、ボクは今燃えている!」

「マシューさんといったかしら? 一夏さんに一定以上の理解を示していることは誉めて差し上げます。ですが、念のために言っておきましょう。遊びでわたくしたちに関わらないでくださいな」

「はっ! 承知しております! そして、だからこそボクは望んでここに来ました。自分でもわかっていたんです。ISVSでいくら勝ち続けてもそれは“ただのごっこ遊び”なのだと。歳と共に黒歴史となるだけのものなのだと。ですがもう過去の話です。戦うべき敵がいる。セシリア様が戦っている。よって、ボクたち蒼天騎士団は真にセシリア様をお慕いする騎士団として活動すると決めました。願わくばセシリア様の承認も得たいと考えています」

「いいでしょう。マシューさん。あなた方の力をわたくしに貸してください」

「ははっ!」

 

 まだ西の空が赤く染まる前のこと。歩道で金髪女子高生の前で跪く男子高校生の図はひどく間抜けなものに見えた。

 

「ねえ、一夏。他人のフリしてていいかな」

「気持ちは痛いほどわかるが俺がそれをやると後が怖い。主に執事が」

「頑張ってね、名誉団長さん」

「マシューに言って鈴にも称号をつけさせてやる」

「やめて。マジでやめて」

 

 鈴と共に俺は距離をとっていた。俺にとってマシューは幸村よりも理解し難い存在だった。できることなら関わりたくない。

 とりあえずもうそろそろ帰るべきだと思った俺はセシリアとマシューの間に割って入ることにした。

 

「悪い、マシュー。今日は早めに準備をしておきたいことがあるから、この辺で終わりにしてくれ」

「準備というのは今夜7時開始予定のミューレイと倉持技研の対決ミッションのことですね」

「知っていたのか?」

「もちろん。名誉団長はボクのことを過小評価してません? ボクは蒼天騎士団団長のマシューですよ? バレットから得られた情報だけでは不十分でしたが、先の戦いで我々が防衛していた対象が重要施設であることは推測できます。あとは同じ舞台のミッションが発せられるかどうかを監視しておけば、セシリア様の支援が行なえると判断した次第です」

 

 頭の痛くなる発言で忘れがちだが、このマシューは俺と弾を策で欺いて勝ったことのある男だった。

 マシューの言う先の戦いというのはイルミナントとの戦いのことであるが、あのとき蒼天騎士団は弾の誘いによって参戦してくれていた。俺から弾への説明は時間がなかったこともあって中途半端だったし、弾にはおそらく実感が伴っていない。そんな弾の話を聞いただけで、俺たちの考えを見通せるのは才能かそれとも……セシリアファンの意地というものか。

 

「そこまでわかってくれてるなら俺が言おうとしてることは言うだけ無駄かな」

「言われずともボクたちは倉持技研側で参戦する予定です」

「戦力はどれくらい?」

「今のところ20人ほど。ですが、セシリア様公認スフィアとなったので蒼天騎士団の規模は爆発的に大きくなります。今後は名誉団長も手が欲しいときはボクに声をかけてください。それでは失礼します」

 

 そういってマシューは連絡先を書いた紙を俺に手渡して去っていった。俺じゃなくてセシリアに渡すところじゃないのだろうかと思ったが、きっと彼はシャイなんだろう。

 

 

***

 

 

 帰宅後、俺たち3人はすぐにISVSへと入ってきた。初期位置が遠いと面倒だったところだが、その心配は杞憂に終わる。

 

「お? ラピスご一行の到着か。ようこそツムギへ」

 

 出現位置はツムギ内部のロビーにあたる広場だった。転送ゲート脇に突然現れたはずの俺たちを、たまたま近くにいたチャラそうな茶髪男が出迎えてくれる。

 

「えと、アンタは?」

「ちゃんと言葉が通じるようになって嬉しいぜ。俺の名前はトモキ。ナナの片腕といったところだ。そういうお前は?」

 

 ツムギには何度か来たことがあるが基本的にナナかシズネさんと話してばかりだったから初対面の相手だった。フレンドリーに握手を求めてくるので俺は握り返して自己紹介する。

 

「俺はヤイバ――ぎゃああああ!」

 

 俺が名乗った瞬間、トモキの右腕にISが部分展開されて俺の右手は全力で握りつぶされた。俺は右腕を押さえてのたうち回る。

 

「いち――ヤイバ、大丈夫っ!?」

「ヤイバさん、ISを展開してください! おそらくはそれで回復しますわ!」

 

 ラピスの言うとおりに白式を展開することで右腕の激痛は治まった。今まで知らなかったけど、Ill関係なしにこの世界には痛覚があるんだな。ゲームとして来る場合はISを展開しないことはないし、通常のロビーではISの展開は禁止されてるんだっけ。その理由が良くわかった。

 

「ちょっとアンタ! いきなりなんてことすんのよ!」

「やばいと思ったが、嫉妬を抑えきれなかった」

「そこを自制すんのが理性ある人間ってもんでしょ! ってあたしが言えた義理じゃないかもしれないけどさ……」

「喧嘩っ早い性格なのは認めるぜ。そして後悔も反省もしていない。良くやった、俺!」

 

 ここまで面と向かって喧嘩を売られたのは逆に新鮮だった。俺の代わりに抗議してくれているリンの肩を掴んで後ろに下がらせる。

 

「トモキだったな。俺、お前に何か悪いことした?」

「気にするな。悪いのは俺だ。だから遠慮なく俺に消されてしまえ!」

「どういう開き直りだよっ!? ナナの仲間なんだろ?」

「そうさ! だからこそ、ここでお前を討つ!」

 

 トモキがISで殴りかかってくる。白式を展開している俺はその拳を真っ向から受け止めた。俺の言葉はこの男には届かない。かといって攻撃するわけにもいかないので、ラピスに助けを乞う視線を向ける。ラピスは笑顔で応えてくれた。

 

「わたくしとリンさんはナナさんのところに行っていますわ。ごゆっくりどうぞ」

 

 普通に見捨てられた。ラピスがリンに耳打ちをするとリンまで俺に手を振って去っていく。何が起きているんだ? さっぱりわからない。

 

「さて、邪魔はなくなった。ここからは男同士で語り合う時間の始まりというわけだ」

「ISの拳でか!? というか俺にはお前を殴る理由なんてないんだけど!?」

 

 ラピスとリンがいなくなって、広いロビーには俺とトモキだけが残されている。その状態になって、トモキは周りに誰もいないことを確認すると俺に押しつけていた拳を引っ込めて、ISも解除した。トモキの武装解除に合わせて、俺も白式を解除する。

 

「いったい何なんだよ。いきなり攻撃してきたかと思えば、急にその手を引っ込めるし」

「悪いな。全部が全部、理屈を付けて説明できることじゃない。だけど全部が全部、俺の本音で、これから話すことも俺の本音だ」

 

 トモキはまだ俺を睨んでいる。また殴りかかってこないとも限らないので、今の距離感を保ちつつ俺はトモキの言葉を待った。今日のことについてナナたちと確認することもあったが、あちらにはラピスが向かっているので任せておく。

 

「俺に用があるんなら、なるべく手短に頼む。お前もツムギのメンバーなら知ってると思うが、あと1時間もすれば敵が攻めてくるはずだからな。ナナとも話をしておきたいし」

「……ナナと何を話すつもりだ?」

「別に変なことは何もないって。今日の戦闘のブリーフィングみたいなのをするだけで他に話すことなんてないからな」

 

 先ほどトモキは“嫉妬”と口にした。俺がツムギで仲のよい女子だとナナとシズネさんの2人に絞られる。トモキの言動から鑑みるに、トモキはナナのことが好きなのだろう。だから別に俺はライバルでもなんでもないのだと諭すつもりで話した。これで簡単に衝突は避けられる、と思っていたんだ。

 

「ふざけんなよ……本当にそれだけなのか?」

「あ、ああ。何か問題でもあるのか?」

 

 またしても俺の思惑は外れたらしい。俺に暴力を振るってきたときとは異質な静かな怒りが彼の中にあると俺は直感した。俺の発言の何かがまずかったことは察しているのだが、何が気に入らないのかがわからない。トモキは1回深呼吸を入れてから口を開く。

 

「お前という人間の人となりはシズネから聞いていたが、予想通りというべきか。こんなのがナナとシズネの希望で、そして“俺の希望”になれる唯一の男とはな」

 

 落ち着いたトモキから発せられた言葉は、怒りではなく呆れだった。失望ともいえるかもしれない。失望されるのは今に始まったことではないのだが、俺の何が期待されていたのかが気になった。

 

「ナナとシズネさんとお前の希望って、現実に帰ることだよな? 俺は全身全霊を以て手助けをするつもりだ。それがおかしいのか?」

「おかしくはない。だがひとつだけ訂正しとくと“ナナとシズネの希望”と“俺の希望”は別物だ」

「お前の希望が別物……?」

「本当なら今ここでそれを言いたかったんだが、やめにする。俺はお前を認めない。ナナを助けてくれるのは大歓迎だが、俺の希望を託すことは絶対にしない」

 

 言いたいことを言い終えたのかトモキは俺とは反対方向へと振り向いて歩き始める。俺は即座に呼び止めた。ただの嫉妬で絡まれただけにしては、この男は何かが違う。嫌な予感がまとわりついていたんだ。

 

「待てよ! 俺にわかるように言ってくれないか? お前は何かを知っているのか?」

「残念だが、俺はお前を認めない。だからこれ以上は何も言えない」

「そうか……わかった」

 

 “言わない”のではなく“言えない”。そう返された俺はこれ以上追求できなかった。俺の中の何かが問題で、言いたくても言えないのだということだ。無理に聞き出そうとしてもこの男が話してくれることはない。

 もう話すことがなくなった俺はラピスたちを追ってナナの元へ行こうとした。そのとき――

 

 建物中をけたたましく警報音が駆けめぐった。

 静かに去ろうとしていたトモキも足を止めたため、俺はすぐに確認をする。

 

「この音は何だ!」

「敵の攻撃だ。シズネの放送を待て」

 

 トモキの説明通り、シズネさんの声で連絡が入る。

 

『こちらに迫ってくる敵影を確認しました。ツムギの戦闘部隊も出撃準備をしてください』

 

 敵が来ている? 予告の時間までまだ1時間はあったはず。もしかすると別勢力なのだろうか。そう考えを巡らせている間にラピスから直接通信が来る。

 

『敵の奇襲ですわ。意図は不明ですが』

「奇襲? どういうことだ? ミッションはどうなってる?」

『ミューレイはミッションを取り下げました。同時に倉持技研のミッションも意味を成さなくなり、変更の手続きをしている最中です』

「取り下げた? じゃあここに向かってきている敵ってのは?」

『別勢力……と考えるのは難しいですわね。ただ、先ほども言ったとおり不可解です。せっかく集めたプレイヤーを捨ててまで、私兵だけで攻めてくるメリットがわかりません』

「でも攻められてるのは事実なんだろ? だったら打って出るしかない」

『そうなりますわ。現在は倉持技研のプレイヤーも少数ですので、ツムギの方々も出ることになります。ヤイバさんは敵を引きつけるためにも最前線をお任せします』

「了解」

 

 敵は大々的に宣伝していたミッションを取り消して1時間早い時間に攻めてきた。その意図をラピスはわからないと言う。俺も正確にはわからない。だが、なんとなく敵の狙いを察していた。おそらくは俺がこの場にいることこそが敵の狙い。それは俺だけでなく、ゲームとしてプレイする以外の思惑のある者たちだけを消すための作戦と思われる。

 白式を展開して俺は外に向かう。隣には打鉄に身を包むトモキが並んだ。

 

「さっきはああ言ったが、お前の働きには期待してるぜ」

「任せとけ。お前は無茶すんなよ」

 

 理解をしていないし、認めてなんていない。そんな相手でも利害は一致している。俺とトモキは共に戦う仲間として拳を合わせ、空へと飛び立った。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 同時刻。五反田弾はバレットとしてISVSに入っていた。倉持技研のミッションのことは全く気にかけておらず、別のことで頭がいっぱいだった。ロビーでミッションリストを確認するバレットが見ているものはミツルギ社によるミッションである。

 

「遺跡ステージの調査……ただ最深部に潜るだけなんていうミッションを虚さんが受けたってのか」

「そのようでござる。理由は拙者もわかっておらぬが」

 

 バレットの隣には藍越エンジョイ勢の仲間であるジョーメイの姿があった。何を隠そう、バレットはジョーメイの情報を頼りにここまでやってきていたりする。しかしバレットは肝心なことを何も聞けていないため、このタイミングで切り出すことにした。

 

「お前が虚さんのことを知っている理由くらいは説明できるだろ?」

「話すと長くなるでござる。今は何も聞かずに彼女を追うべきと申し上げよう」

 

 バレットは今日も学校を休んでひとりで街の中を走り回っていた。虚も学校に行っていないことを確認してからは、道行く人に写真を見せてはどこかで見ていないか聞いて回った。そんな彼の元にジョーメイはやってきた。ただ一言、『布仏虚に会いたいならついてくるでござる』と言われてついてきた先はいつものゲーセン。そしてジョーメイに言われるがままにISVSにログインして今に至る。

 

「長くなるとマズいってことは……虚さんが危ないってことか?」

「そう受け取ってもらって結構。参ろうか」

「ああ」

 

 ジョーメイに促されるままバレットはミッションを受けて転送ゲートをくぐる。事態をまだ把握していないバレットだったが、ジョーメイのただならぬ様子を見て、聞き出すのではなく実際に自分の目で確認してやろうと思っていた。

 

 2人は途中参加という形で舞台となる遺跡へと乗り込む。転送先は遺跡の内部であった。現実には存在しない謎の遺跡は古代文明という印象そのものの内装をしていて、正確に切りそろえられた石材が積まれたような壁が延々と続く。ISでなければ暗闇で何も見えないほど光源がどこにも存在していない。屋内戦闘は過去にも経験していたバレットでも、自分が初心者になったかのような新鮮さと怖さを感じていた。未知な領域へと踏み込もうとしているという感覚だった。

 

「ISVS……なんだよな? なんつーか、ファンタジーなRPGの世界にでも迷い込んだ気分だ」

 

 ジョーメイに話しかけたわけではないバレットの独り言だったが返事はあった。

 

「同感でござる。虚様はなぜここに来たのであろうか。そしてこのミッションはどういう意図で出されたものなのか……」

「ジョーメイ。お前が虚さんを様付けで呼んでることとかはこの際無視しておく。だけどこれだけは教えてくれ。虚さんは何に巻き込まれてる?」

 

 重苦しい雰囲気が漂う石の通路を低空に浮遊して滑るように移動しながらバレットは話を進めた。ジョーメイは簡潔に答える。

 

「ヤイバ殿が追ってる件と同じ。そして虚様はいささか冷静さを失っているでござるな」

「やっぱりか。妹が巻き込まれちまってて、虚さんはずっと敵を追いかけてたってわけか。俺に話してくれても良かったのに」

「それは無理というものでござる。我らには事情というものがあるのでな。それにバレット殿も我らと変わらないでござろう?」

「何のことだ?」

「先日、バレット殿が本音様の入院している病院へと向かったときより、拙者はバレット殿を監視していた。その間、バレット殿は誰の手を借りることもなくひとりで走り回っていた。ヤイバ殿にすら一言も声をかけることなく、でござる」

「ずっと俺を見張ってたのか!? お前、本当に何者だよ。あと、ヤイバはヤイバでやることがある。俺が邪魔するわけにもいかないだろ」

「それは勘違いでござるな。とりあえず今回の件が片づいたらすぐにヤイバ殿と話すことを提案させていただく」

 

 話の時間は終わりだった。先行していたジョーメイが足を止めて左手でバレットに止まれと伝える。石の回廊が途切れて、広い空間につながるという場所だった。ジョーメイが少しずつ広間の入り口へと近づいていき、中の様子を窺い始める。バレットもジョーメイとは逆側の壁に張り付いて中を覗き見た。

 

 暗い空間だった。自由とはいかないまでもISが飛べる程度には高さも広さもある。障害物としては円柱状の柱が数本だけ天井まで伸びているくらいで、奥には地下につながるであろう階段が覗いている。

 

「何だ……あの光は……?」

 

 暗闇の中、一瞬だけ柱同士をつなぐ線のようなものが光って見えた。発光しているものが映ったわけではなく、ハイパーセンサーがかすかに捉えた振動を視覚化したものである。肉眼では見えないくらい細い糸状のものが揺れた。それは糸を揺らすものの存在を意味する。

 

「手遅れでござった。バレット殿、ログアウトができる場所まで逃げる準備を――行くな、バレットォっ!」

 

 バレットはジョーメイの言葉に全く耳を貸さなかった。そもそも言葉が届いていない。バレットの頭には無数の糸で雁字搦めになっているひとりの少女のことしかなかった。ISVSのアバターでも現実と変わらぬ容姿をしているためにすぐにわかった。ISVSをプレイしないと言っていたはずの“彼女”が張り付けとなってそこにいる。

 

「虚さんっ!」

 

 バレットは飛び出した。当然、周りに注意を払う余裕などなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 日の傾き始めた空を朱色に映す海上。水平線上に黒い点が浮かび始めていた。その点の一つ一つが俺の後ろにある建造物“ツムギ”を襲おうとしている敵のISである。数だけ見れば前回のイルミナント戦と比べて半分もない。問題は敵の質だった。

 

『マズいですわね。皆さんの視覚から得られる情報とわたくしの“星霜真理”で得られる情報とで敵ISの数が食い違っていますわ』

 

 ラピスが分析した情報を伝えてくれる。

 

「敵はIllってことか? それも複数」

『現状ではそう判断するしかありませんわね。ただわたくしたちのログアウトが封じられていないことから、イルミナントとは別種と考えた方が良いかもしれません』

「ラピスの推測を聞かせてくれ。それは俺たちにとって良い報せか悪い報せかどっちだ?」

『Illが人を食らうのが食事のようなものであるとすれば、プレイヤーのログアウトを封じないメリットは考えにくいです。ヤイバさんが遭遇した楯無の件を考えますとイルミナントだけの特殊能力ではないようですから“したくてもできない”のだと思われますわ』

「俺も同感。まだ絶望しなくて良さそうだな」

「絶望なんてアンタには似合わないわよ」

 

 俺とラピスの会話にリンが混ざってくる。彼女は得物である双天牙月を連結させて振り回しながら前へと飛び出していった。俺も後に続く。既に敵はこちらのスナイパー陣の射程内に入ったため、俺たちの後方から次々と弾丸が通り過ぎていった。

 

『皆さんの視覚情報の統合によるものですので断言はできませんが、敵には射程の長い装備は見受けられません。というよりも大多数が同じ装備で統一されていますわ』

「ああ、俺も見えてきた。妙に丸っこいフルスキンっぽい奴が同じ顔を並べてやがる」

 

 見たことのないフレームだった。球体に近い黒いボディから手足と頭が生えているような形状をしている。鈍重そうな外見とは裏腹にこちらの狙撃を軽快によけている姿は動けるデブというに相応しいだろう。所持している武器はISの装備であり俺も見覚えがあった。単発高火力で比較的低容量の人気武器であるアサルトカノン“ガルム”と3連装グレネードランチャー“ケルベロス”、背中には高誘導ミサイル“ネビュラ”という構成は火力重視の中距離射撃型である。

 

「どうやらあの丸いのがIllみたいだな。油断をしてるつもりはないけど、イルミナントみたいなヤバいイメージが湧かない。突撃をかけていいか?」

『いいえ。こちらが射程で勝っているのですから無理に攻める必要はありませんわ。ヤイバさんは敵が近づいてきてからの迎撃に専念してください』

「リンはどうするんだ?」

『戻るように伝えましたわ』

 

 ラピスの言うとおり、一度は前に出ようとしていたリンが後ろに下がってきた。以前にIllの被害になっている手前、こうした指示に従ってくれるのは俺の精神的に助かる。

 戦闘は遠距離射撃による牽制が主体となって進む。実弾射撃しか届かない現状では1機も撃墜できていない。相手はIllと予想されるがISで言うならば防御型ユニオンがのんびりと迫ってきているようなものだ。実弾では落とし辛くともENブラスターの射程に入れば一気に殲滅できるはず。残った奴らを俺やリンの前衛が片づければ終わりだ。そのときまで待機すればいい。

 

 ……本当にそうだろうか。いくらなんでも手ぬるすぎる。俺はラピスに確認をする。

 

「ラピス! 敵ISの反応は!? あの丸い奴ら以外にいるんだろ!?」

『確かにいますが後方で待機したまま動きませんわね。おそらくはIllを前面に押し出して乱戦に持ち込んでから攻めてくるつもりかと――』

「そいつらの装備と座標、特に高度の情報を送ってくれ!」

 

 俺が敵の立場にいたとしたら、ラピスの言うような戦術は取らない。そもそも攻める側が長射程武装を用意していないことが気がかりだ。中距離用防御重視の機体ばかりを全面に並べ立てて的当てをさせた場合、俺ならその間に敵の位置を特定して特大の一発をお見舞いする。

 ラピスから図面と敵ISの座標データが送られてきた。50機ほどが密集して海中に潜んでいることが確認でき、急速に浮上を始めているとデータは告げている。これが敵の切り札であると直感した。

 

「リン! 突っ込むぞ! 敵の後方にヤバそうなのがいる!」

「え? でもラピスが下がれって――」

 

 ラピスからの指示が来ないまま“それ”は姿を現した。海を突き破って現れた異形はおよそISの大きさではなく、10倍でも足りない。正八面体の黒いクリスタルのような建造物には6本の巨大な機械腕が生えていた。

 

「何よ、あれ……?」

 

 リンが呆気にとられて動けずにいる。俺も想定以上の代物の登場に開いた口が塞がらなかった。

 正八面体の中心部が開く。そこから覗くものは巨大な砲身。まるでイルミナントの翼をもぎ取ったアカルギの主砲を思わせるものであった。

 

 俺は後方を振り返った。逃げろと叫んでいたかもしれない。でも無理だ。俺たちが避けれても、敵の射線上にはツムギがある。今の状況でアカルギクラスの砲撃を撃たれては範囲内から出られない連中もいる。その中にはツムギのメンバーもいた。

 油断するつもりはないと言いながらも、俺とラピスの頭の中にはISで戦うという前提条件が刷り込まれてしまっていた。イルミナントとの戦いで俺たちが使った手だというのに、敵が同じことをしてくる可能性を見いだせなかった。

 

 夕焼け空を引き裂くような光が放たれる。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 異形の大物の出現に、後方で控えていたナナは目を見開いた。今まで見たことのない未知の敵というだけではなく、ナナにある知識が非常事態だと訴えてきている。

 ツムギの本拠地である遺産(レガシー)はISの攻撃力でも破壊することが困難であるということはクーから聞いてわかっている。だからこそナナはいざというときに籠城できると踏んで拠点とすることに決めた。だが同時にクーはこうも言っていた。

 

 ――アカルギならば破壊は可能である、と。

 

 アカルギはISコアを複数個使用した戦艦である。船としての機能だけならば3個で起動するのであるが、主砲“アケヨイ”を全力で発射するにはツムギの大多数の人員を乗せなくてはならない。それはつまりISコア50個以上ものEN供給があって初めて撃てる兵器であることを意味し、その破壊力はIS単機が扱えるものとは比べものにならない。

 

 菱形の中央部が開き、砲口が見えたことでナナは確信する。敵にも“アケヨイ”がある。このままではマズい。

 

「ラピスっ! アレの詳細を!」

『敵ISコアがバラバラに情報を持っていて統合には時間がかかりますわ!』

 

 いつもは瞬時に敵の装備を把握するオペレーターも不意の事態が重なって対応が遅れていた。ラピスの指示は間に合わない。そもそもアカルギの主砲クラスの攻撃を防ぐ手段など事前に用意しなければ出てこないはずだ。

 クリスタルの中心部に強大なエネルギーが集中する。観測に特化していないナナのISですら認識できる時点でその威力は悪い方向に保証されたようなものだ。この攻撃を通してしまえば、今もツムギの中で戦いの勝利を祈っている仲間たちは間違いなく死んでしまう。シズネもツムギから狙撃をしているため、巻き込まれる可能性が高かった。ナナはシズネに通信を開く。

 

「シズネ。アレは見えているか?」

『はい』

「怖いか?」

『さっきまでは。でもナナちゃんの声を聞いて安心しました』

「そうか」

 

 通信を切る。シズネはナナを信じ、ナナはシズネに勇気づけられる。シズネと出会ってからずっとしてきた生き方を確認して、ナナは覚悟を決めた。今度はラピスに通信をつなぐ。

 

「ラピス。この1射は私がなんとかしてみせる。だから2射目を撃たれる前にアレをなんとかしてくれ」

『何をするつもりですの!? 予想される威力はアカルギの主砲と同等ですわよ!?』

「承知の上だ」

『無茶ですわ!』

「私もそう思う。だが、私が使っているこの“紅椿”を信じてみる。現実には存在しない世界最高のISなのだから、この程度の苦境、乗り越えてくれるはずだ」

『ですが――』

 

 策もないのに食い下がるラピスの声を無視してナナはイメージを形成し始めた。クーは言っていた。紅椿はナナの姉が用意したものであると。ナナの思いを形にしてくれる機体なのだと。

 

 紅椿は仲間たちを守る武士であり続けた。

 だが今は人の形すら要らず。

 ナナが欲するは災いを防ぐ盾。

 仲間に降りかかる狂気の雨を弾く傘。

 

 背中のユニットのみならず、ナナの体に密着している装甲すらも分離してナナの前方に集まり始める。一度は散った紅の花弁たちが再び一つに収束し、文字通りの一輪の花を形成する。

 

 黒のクリスタルから光が放たれた。夕暮れの朱い空を白く染め、空気を引き裂く轟音がぶちまけられる。射線上にいた両軍は素早くその場を離れていき、光の暴力はただひとりだけ残されていたナナへと迫る。

 ――大丈夫だ。

 ナナは紅椿を信じた。そして仲間を、シズネを守りきるという意志を信じた。自分がなりたかった自分ならば、なんとかしてみせるはず。幼き日に『俺がなんとかする』と言ってのけた“彼”ならば、自分と同じことをしたはずだ。ナナが信頼している思い出の中の2人が背を押してくれていた。

 

 花と光が激突する。その余波で眼下の海には歪な大波が発生していた。花に当たった光は次々と拡散して薄れていくが、怒濤のごとく押し寄せる奔流はすぐには治まらない。

 盾となっている花にひびが入る。強力なENシールドを展開している本体に強大な負荷がかかっているためだ。ENシールドを発生させるためのエネルギーは紅椿の単一仕様能力“絢爛舞踏”によって無制限に使用できるが、大出力の反動による装備へのダメージは抑えられない。花弁が一片落ちては出力が落ち、徐々にナナが押され始めた。

 

「負けるかああああ!」

 

 ナナが叫ぶ。名前通りの花となっていた紅椿もナナの気合いに呼応するかのようにENシールドの出力を上げた。紅椿の自己崩壊が加速する代償にナナと紅椿は持ちこたえる。そして――

 

 ナナの視界に夕焼け空が帰ってきた。

 

『ナナさん! ご無事ですか!?』

「わかっていて聞くな、ラピス。私は生きている」

 

 見るも無惨な姿となった花は再びバラバラになってナナの体へと戻っていく。壊れた場所は壊れたままで、紅椿の戦闘能力は大幅に低下してしまっていた。ナナは戦えない。まだ敵のほとんどが健在だ。後は他の者に任せるしかなかった。

 

『ナナちゃん、大丈夫ですか!?』

「ナナ! 無事なんだな!?」

「お前たちは同じことしか言えんのか」

 

 シズネが通信で声をかけてきて、トモキがナナを守るように前に立つ。その後も続々と仲間たちからナナを心配する通信が届き、ナナは笑みをこぼした。

 どいつもこいつも自分より他人の心配ばかりだ。だからこそ守る価値があった。無茶をした代償は大きかったが、ナナは決して後悔はしない。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 手だてのなかった俺は見ていることしかできなかった。俺とラピスが不意を突かれてしまった尻拭いをナナにさせてしまった。俺が助けるべき立場なのに、結果的に助けられたも同然だ。不甲斐ないことこの上ない。

 

「ヤイバ! 呆けてる暇はないわよ! ナナが作ってくれた時間を無駄にするつもり?」

 

 リンに蹴り飛ばされてようやく俺は気持ちを切り替える。ナナはツムギを守り通したが、次がないのは明らかである。俺たちにできることは次の砲撃をさせないこと。つまりは、あの巨大な敵を打ち倒すことだ。となるとまずは情報が欲しい。

 

「ラピス。何でもいいからアイツを倒すための情報をくれ」

 

 敵主砲の発射直前ではテンパっていたラピスだが今は冷静さを取り戻している。相手が今まで通りではないとはいっても、彼女なりの推論を交えて状況を分析してくれると俺は信じた。

 

『わたくしの得た情報と花火師さんの知識により、大まかな情報が揃いましたわ』

「花火師さんが来てるのか? ミッションの変更手続きが済んだってこと?」

『はいな! まだ時間がかかりますが、援軍が駆けつけられることは間違いありません』

「それで、あのデカブツは一体何なんだ?」

『ヤイバさんもISコアが50個分密集していることは確認したと思いますが、アレはユニオンスタイルISの集合体です』

「ユニオンの集合体?」

『ええ。通常、ISコアひとつで行なえている機能を敢えてひとつに特化して構成し、それらをパーツとして組み上げた兵器ですわ。中央のクリスタルや6本の腕を構築している装甲部分だけで30個ほど。残りの20個で主砲やその他武装を運用しているようです』

 

 要するにISを部品扱いして作り上げた巨大ロボットみたいなものか。外郭部分となっているISは防御特化ユニオンであるため、打ち破るにはEN武器かミサイルなどの爆発系武器を使用する必要がある。だがライターの2倍イクリプスを持ってきたところで一部分を削ることしかできそうもない。簡単に手数を用意できるものはミサイルだが、20個分のISコアもあれば迎撃用にガトリングくらい積んでいそうなものだ。俺のようなENブレード使いもミサイルと同様に接近が難しい相手と思われる。まるでISを使った要塞だった。

 

『そしてこの敵の存在が、相手の正体を知る手がかりともなりました。花火師さんによると、ある人物が関わっていることは間違いないとのことですわ』

「ある人物?」

『はい。ISコアを使いながらも操縦者の素質に左右されない兵器の開発を訴え、“インフィニットストラトス”に対して“マザーアース”と名付けた構想を掲げた男がいるのです。ミューレイの技術者にしてリミテッドの開発者、ジョナス=ウォーロック博士という人ですわ』

 

 やはり敵はミューレイだった。そしてウォーロックなる人物が敵の中枢にいる可能性がある。しかし今はそのあたりの情報よりも目の前の問題が肝心だ。マザーアースという怪物を倒さなくては折角情報を得ても助けたい人を助けられない。

 

「そのマザーアースへの対処法は?」

『現状では何も断言できません。おそらくは外装甲を担当しているISコアを停止させたところで意味はなく、内部の砲塔を担当しているISコアを停止させなければなりません。ですが、そこに至るまでの道を提示することは難しいと言わざるを得ませんわ』

「それだけで十分だ。あとは現場でどうにかする。多分間に合わないと思うけど、一応アカルギにも攻撃用意をさせてくれ。他に何か思いついたらフォローを頼む」

 

 これ以上は事前に考えていられる時間はない。アカルギの主砲の仕様から敵マザーアースの主砲も次の発射まで時間がかかることが予想できるが、具体的な時間まではわからなかった。

 

「リン! 俺たちが先陣を切る! 行くぞ!」

「任せなさい! あと、間違えてあたしを斬るんじゃないわよ!」

「誰がするか! 根に持ちすぎだろ! 本当にすみませんでしたっ!」

 

 俺はリンと共に黒団子の集団の中に飛び込んでいった。俺やリンの射程はとても短く、黒団子から生えた手が握っているアサルトカノンの砲口が一斉に俺たちを狙う。正確な狙い。だからこそ、避けやすい。発射のタイミングもロックが完了した瞬間であり、弾道とタイミングを把握できれば白式が当てられるはずもない。この敵はIllだと思うが、体感的にはリミテッドを相手にしているのと同じだ。ならばザコに構わず本丸を叩くべきだろう。

 

「ちょっとヤイバ! ひとりで先に行くつもり!?」

「んあ? ああ、そっか。軽量機(フォス)じゃないと無視して進むのは難しいよな」

 

 少し引き返して近場にいる黒団子を斬り捨てる。ENブレードの刃は容易く通り、内部がハッキリ見える切り傷が出来上がっていた。中に人はいない。所詮は一定のアルゴリズムで動くだけの人形というわけだ。2、3回斬りつけることで簡単に機能を停止する。

 一方のリンはというと思いの外、苦戦していた。単純に相性が悪く、敵は双天牙月にも衝撃砲にも耐性があるために時間がかかっている。他の倉持技研の操縦者たちが駆けつけてきてようやく戦線を押し上げ始められた。

 俺だけなら先にマザーアースへと向かうことはできる。しかし、まだマザーアースの戦闘能力が不明だった。ラピスから追加で送られたマザーアースの情報の中にはガトリングの存在があるため、下手を打てば一瞬で俺は退場させられる。

 幸い、まだ敵の主砲は発射準備に入っていない。今は急がば回れの精神でこちらの軍勢を押し通すことが必要だった。

 

 敵の準備完了が先か、こちらが敵の防衛網を突破するのが先か。時間だけの勝負となっている中、ラピスから俺に通信が届く。前線では俺が主力となっているというのに、その報せは俺を前線から離れさせるのには十分だった。

 

『高々度より高速でツムギに接近する機体があります! この機体は……エアハルトですわ!』

 

 エアハルト。ランキング5位である“世界最強の男”。竜を模した戦闘機型(ユニオン・ファイタースタイル)で大型のENブレードを振り回すプレイヤーだ。このタイミングで前線を無視してツムギに向かっていくということは敵と見ていい。そして、ナナが動けない今、奴とやりあえるとしたら俺だけだ。

 

「リン! 俺は防衛に戻る! デカブツは任せた!」

「オッケー! アンタがまた戻ってくる前に決着をつけてやるわよ!」

 

 俺は引き返し始めた。早く戻るためにイグニッションブーストを使おうとしたところで気づく。俺は以前にエアハルトと交戦して引き分けているが、あのときは白式のサプライエネルギーが無制限に使える状態だった。今はそんなバグのような状態にはなっていない。俺が戻ったところで奴に勝てるのか?

 

 上空から落下していくエアハルトが確認できた。迎撃に向かっているISの姿もいくつか見える。今、ツムギの防衛に残っているプレイヤーは誰もいないはずだった。つまり、迎撃に向かったISはツムギのメンバー……

 

「ラピス! あいつらを呼び戻せ!」

『やってます! ですが、エアハルトはナナさんに向かっているようで、誰もわたくしの言うことを聞いてくれませんわ!』

 

 エアハルトがナナに向かっている? それはもしかしなくても、敵マザーアースの主砲を防いだISを排除しようとしているのだ。今のナナでは一般プレイヤーですらまともに相手にできないというのに、エアハルトが相手では一瞬でやられる。

 迎撃に向かったISが次々にエアハルトと交差する。その度にツムギのISが力なく墜落していくだけで、エアハルトの進撃は止まらない。斬り払われたツムギメンバーはISの絶対防御が守りきってくれていると信じて俺はナナの元へと急いだ。

 最後の一人がエアハルトの迎撃に当たる。その瞬間だけエアハルトの動きが止まった。良くは見えなかったが、その男が何をしたのかは理解できた。あのときの俺と同じように、その体で受け止めたんだ。俺と違って、その行動が死につながる可能性があるというのに……。

 

 まだ間に合う。だが連続でイグニッションブーストをしなければ間に合わず、それをすれば雪片弐型が刃を形成できない。状況に振り回された結果がこれだ。敵はマザーアースとエアハルトという2枚のカードがあり、こちらの戦力では対応しきれていない。

 声が聞こえる。どこからともなく聞こえる謎の声ではなく、誰かの肉声を白式が拾っていた。ナナの声だった。

 

「私に力があれば……」

 

 消え入りそうな声だったが正確にその音だけを捉えていた。同時に俺もナナの言葉に共感する。俺にあのときのような力があればナナもトモキも助け出せるのに、と。

 

「俺に、力があれば!」

 

 叫んだ。その言葉がスイッチであるかのように……白式が輝きだした。以前にも感じたことのある感覚。サプライエネルギーの表示が最大のまま減っていない。

 この現象が何かはわからない。だが、できる! 宍戸から教わったAICを使用して俺が通る道をイメージする。白式の翼を一気に点火。空気の壁を突き破り、音さえも置き去りにして、藍色に染まり始めた空を駆け抜ける。装甲のほとんどが砕け散っているトモキにとどめを繰りだそうとしている竜のISに向けて俺は雪片弐型を全力で叩きつけた。俺の奇襲はいとも簡単に受け止められるも、トモキへの攻撃を防ぐことには成功する。

 

「ヤイバ……か。デカいのはどうしたんだよ」

「あっちはリンに任せたから大丈夫だ。だからここは俺に任せとけ」

 

 トモキが海へと落下していく。その先には味方のISが待っていて彼を受け止めていた。トモキはもう大丈夫だ。俺は目の前の男とやりあわなければならず、集中を高める。

 エアハルトは再び距離を取った。奴の機体は特殊であり、EN管理はデリケートである。白式のようにイグニッションブーストとENブレードの両立をすることはできず、攻撃と加速は別々に行わなければならない。離れて加速をし、その“慣性を維持したまま”ENブレードを振るってくるのが奴の基本的な戦法だった。わかっていても、受けることも避けることも困難な一撃を見舞うのが奴の強さである。だが少なくとも俺は受ける条件を満たした男だ。勝てないまでも、ナナを守ることはできる。

 迫り来るエアハルト。雪片弐型の倍以上に長い刀身が俺を刈り取るために振り下ろされる。超音速で向かってくる剣戟に対して俺は真っ向から雪片弐型を叩きつけた。ENブレード同士の干渉が発生し、俺とエアハルトは動きを止める。出力の天秤はどちらに傾くこともなく膠着を続けた。

 

「また、貴様か」

 

 ENブレード同士のぶつかり合いにより火花や電撃が生じている向こう側でエアハルトが口を開いていた。といっても顔はバイザーで見えない。とても落ち着いた声色から年上の男だと感じさせるが、宍戸よりも若い印象があった。

 前回は言葉を交わすことなく戦闘が終わっていたがエアハルトは俺のことを覚えていたらしい。これが日常であったならば有名人が自分を認識してくれていたことを喜ぶところだが、生憎そんな気分にはなれない。前回と違ってミューレイは正式なミッションを用意していないというのに、この場で敵として現れた。それが意味するところはひとつ。

 

「お前が“敵”かァ!」

「私を敵と断じるその姿勢。なるほど、貴様は倉持技研に従うだけの人形でなく、意志を持って私の前にたちはだかっているということか。アドルフィーネを殺したのも貴様なのか?」

 

 決定的な単語をエアハルトは言ってのけた。アドルフィーネ。福音を模したIllであるイルミナントの操縦者であった女性の名前。味方に事情を説明する際には伏せている情報であり、こちら側では俺とラピスしか知らない。

 

「お前が、Illを! 皆を!」

「彼女の名前を知っている。つまり、貴様が彼女を殺した……いや、殺せた男か。ブリュンヒルデ以上の障害だな」

 

 今ここでエアハルトを倒せば全てに片が付くかもしれない。だがこの膠着状態は下手に崩せなかった。前には出られないため、引くか受け流すしかできないのだが、どちらもエアハルトを自由にさせることにつながる。そうなれば、ナナが危ない。

 

「私はブリュンヒルデを誘き出す囮だったのだが、これは思わぬ収穫だった。あの女の手が加わっているであろうISに、アドルフィーネを殺した男。まだ我々には進化の余地がある」

 

 この男が囮? それもブリュンヒルデを誘き出すため? ランキング5位を囮にしてまでここに居ないランキング1位を足止めしたかったということは真の狙いはナナの他にある?

 

「少しばかり私の目的が増えた。今日のような無粋な真似は控えるべきだな。紅い花の娘を巻き添えに消してしまっては勿体ない」

「紅い花の娘……? ナナのことか!」

「ナナというのか。あの娘は興味深い。日を改めて迎えに来るとしよう」

「ナナをどうするつもりだ!」

「自分で想像したまえ。それを答えとするがいい」

 

 ナナも狙われている。殺さない意図は不明だが良い方向に傾いたとはとても思えなかった。

 

「今日はナナという娘に免じて退いてやろう。“ルドラ”は既に攻撃準備を終えているが、貴様の仲間はルドラの元にたどり着くことすらできていない。このまま続ければ貴様たちは全てを失うところだった。感謝をすることだな」

「誰がお前に感謝なんてっ!」

「おっと。ひとつ忘れていた。こちらが撤退する条件として“貴様が名乗ること”を加えておこう。貴様が名乗るだけで我々は全軍引き上げるのだ。さて、どうする?」

 

 エアハルトが一方的に条件を突きつけてくる。俺が名前を教えるだけで撤退するというふざけた提案だった。それだけでこの戦闘が終わる。まともに戦える体勢になっていない現状では俺たちに有利なだけのものだ。

 話を長引かせているというのにラピスたちから反応はない。俺とエアハルトが動きを止めているならば、狙撃なりBTなりでエアハルトを一方的に撃墜してくれるとも思っていたのだが何もなかった。それはこちらに手を出す余裕がないということと考えられる。俺が選ぶ道はひとつだった。

 

「ヤイバだ」

 

 俺が名乗るのと同時にエアハルトのENブレードは離れていった。即座に追撃すれば俺が勝てるくらいに隙だらけである。でも俺は手を出せない。ここでエアハルトを倒して全てが解決する保証があるわけでもなく、敵が撤退する機会を失ってツムギを破壊される危険性だけあった。

 

「私はエアハルト。ISによって狂ってしまったこの世界に元の秩序を戻さんとする者だ。また会おう、ヤイバ」

 

 そう言ってエアハルトは消えていった。それを合図にしたかのように攻めてきていた敵が全て消失した。奴がルドラと呼んでいたマザーアースも含めてだ。宣言通り、勝ち戦を捨てて撤退したのだった。

 

『ヤイバ! なんか敵が逃げてったわ!』

『ヤイバくん! 私たちの勝利ですね! ありがとうございます!』

 

 リンとシズネさんから喜びの報せが来る。だけど俺は何も答えることができなかった。手をダラリと力なく下げて、すっかり暗くなった星空を見上げる。点々としてるはずの光源が全てボヤケてしまっていた。

 

 ……俺は……敵に屈してしまった。

 今日の俺は、何も守れなかった……。

 

 誰とも言葉を交わさないまま、俺はISVSを去る。

 先に戻った家。チェルシーさんにも執事にも声をかけることなく眠りについた。

 今日のことを少しだけ忘れて、次を迎えるために。

 

 

***

 

 翌朝、夜明け前に目覚めてしまった俺は携帯を確認した。鈴かセシリアが昨日はどうなったのかメールを残しておいてくれたかもしれないと思ったためだ。しかし未読メールはない。特に問題はなかったのだと肯定的に受け取る。

 そこへ狙い澄ましたかのように着信があった。表示されている名前は五反田蘭。弾の妹であり、俺とは久しく関わりのなかった1つ年下の女の子だ。電話の相手が珍しいこともそうだったが、時間が早すぎることが異様である。すかさず俺は電話に出る。

 

『一夏さんですか? 朝早くにすみません……』

「大丈夫。ちょうど起きてたから起こされたわけじゃない。でもどうしたんだ? 突然電話なんてかけてきて」

 

 何の気なしに蘭の言葉を待った。そんな俺の気楽さを彼女の一言が切り裂くこととなる。

 

『お兄が帰ってきてないの。一夏さんの家に泊まってることになってるけど、本当なの?』

 

 悪いことには悪いことが重なるのかもしれない。

 昨日のことを忘れようとしたのに、もっと大きな問題が降りかかった。

 最近の弾が何をしているのか、俺は把握していない……

 俺は即座に部屋を取びだした。


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