Illusional Space   作:ジベた

12 / 57
12 交差する追憶 【前編】

 しとしとと雨が降っていた。傘を差さずに歩くには若干雨量が多く、冬の割にはどんよりとした重苦しい空気となっている。そんな灰色の空の帰り道を俺はひとり歩いていた。弾の家に遊びに行っていた帰りである。翌日からまた学校に行かねばならないと思うと低気圧なのも相俟って気分が沈みそうだった。

 ガードレールのある歩道を傘を差して歩く。弾の家である五反田食堂あたりは車も人も多いのだが、大通りを外れて俺の家へと向かうにつれて交通量が激減していく。こんな雨の日では人とすれ違うのも稀で、偶に通りかかる車が水たまりを弾き飛ばすのに注意して歩くだけだった。

 

 そんな帰り道だからこそ俺は気づけたのだと思う。

 

 反対側の歩道を俺とは逆方向に歩く人影があった。傘も差さずに出歩く場合は駆け足になるのが自然だが、その少女は濡れることを気にすることなく重い足取りで歩いている。冬にしては暖かい日であるが、上着もなしに出歩けるような気温ではない。にもかかわらず少女は部屋着を思わせる薄着であった。俺は車が来ないことを確認するとガードレールを越えて対面の歩道へと移動する。俺がそんな行動を取ったのは、少女が見知った顔だったからだ。

 

「鈴……だよな? 傘も差さずにどうしたんだ?」

 

 声をかけてから自分に自信がなくなった。鈴はいつもクラスの中心にいる太陽のような存在だ。だが今、俺の前にいる少女はいつもと様子が違い、自慢のツインテールが解け、雨水に濡れた髪は力なく背中のラインに張り付いている。鈴の象徴ともいうべきものが何も見られないため、別人のようにしか見えなかった。

 少女がゆっくりと振り向く。虚ろな眼差しはやはり俺の知ってる鈴とは違う。……いや、最近の鈴とは違うというべきだろうか。まるで初めて会ったときのような、暗い目つきをしていた。

 鈴と目が合う。ピントが合っていなかったように生気のない目で俺を見ていた鈴だが、少しだけ光を取り戻した。ようやく俺だとわかってくれたようで、俺は傘を持っていない左手を挙げて「よう」と話しかける。すると、鈴の顔がひきつった。そして――

 

 全速力で俺から逃げ出した。

 

 状況についていけていない俺だったが、考えるより先に走り始めていた。理由はただひとつ。鈴の様子が普通ではないというだけで、俺が彼女を放っておけるわけがない。鈴の逃げ足は思ったよりも速い。俺は邪魔な傘を投げ捨てて、未だ降り続ける冷たい雨の中を走った。距離が徐々に近づき、逃げる鈴に手を伸ばす。ここで掴めなければ二度と鈴に会えない気がしていた。俺の右手は鈴の左手を掴み取る。雨の中の鬼ごっこは俺が勝利したが、俺の気分は当然曇ったままだ。

 

「なんで逃げるんだ?」

 

 俺が追いつくことで鈴は逃げる足を止めた。俺の方を見ようとはせずにただ背中を向けているだけ。それでも言葉だけは返してくれた。

 

「……なんで、追ってきたの?」

 

 質問に質問で返された。普段の俺なら先に答えろと言うところだが、今はそんな場合ではないので俺から答える。と言っても、俺が言えることなど大したことではない。

 

「お前が、逃げるからだろうが」

 

 全力疾走で少し息が上がってしまっていたが、言いたいことは発音できた。俺の右手の中で鈴の左手は落ち着いている。でも俺の方を向いてはくれない。

 

「少しは察しなさいよ……」

「生憎だが俺は自他共に認めるバカだからな。物事の裏側を知らなくても突っ走る傾向がある」

 

 いつもなら『そうだったわね』と呆れ混じりの相槌を打ってくれる鈴だが、何も言ってくれなかった。俺が握る彼女の左手は、落ち着いているのではなく力が入っていないのだと思い直す。

 

「それでだ。このバカな俺に事情を教えてはくれないのか?」

 

 すると突然、鈴の左手に力が入り、俺の右手からするりと抜け出られてしまった。解放された鈴だったがすぐに走り去るような真似はせず、やはり俺とは反対側を向いたままで話を続ける。

 

「アンタに言うことなんて何も無いわ。正直に言って、今のアンタは迷惑よ」

 

 何も知らずに深入りしようとしている俺を(たしな)めてくる。ただ、事情を話さないにしても、今の鈴には少し活力が戻った気がした。それだけでも俺が追いかけてきた価値があったというものだ。最後に俺から確認しておく。

 

「大丈夫……なんだな?」

「うん……明日にはいつも通りのあたしに戻ってるから。だからアンタは何も心配しないでいいの」

 

 なんてことだ。鈴がいつも通りじゃないと自分で認めるくらいに参ってしまっている。でも、今の俺がこれ以上口出しできることはなかった。俺は自分が来ている防水のジャンバーを脱いで、鈴の肩にかける。

 

「じゃ、俺は帰る。鈴も風邪ひく前にさっさと帰れよ」

「ちょっと、一夏! これ――」

「明日、学校で返してくれればいい」

 

 鈴が突っ返してくる前に俺は雨を理由にして走って帰ることにした。少なくとも、これで明日は鈴に会えるはずだ。嫌な予感は消えなかったが、俺はとりあえずの安心を得て、この場は鈴と別れた。

 

 

***

 

 翌日。憂鬱な月曜日だ。しつこかった雨はすっかり止んでいて空気がスッキリしていたのだが、今度は冬らしい寒さが俺たち生徒を苦しめている。空は晴れ渡っていても寒さでテンションが上がらない。外に出ることなくコタツで寝ていたいと言えば、“彼女”は笑いながら『ダメ人間の象徴的な存在だな』と侮蔑してくれることだろう。今年も会えなかった“彼女”のことを思い出すくらいには、今の俺の気分は天気ほど晴れていない。

 

「おはよう」

 

 始業のベルにはまだまだ時間に余裕がある時間に俺は教室にやってきた。運動部の朝練もなしに朝早くから学校に来ているメンツなど知れている。要するに弾はまだ来ていない。

 

「おはよう、一夏。今日は珍しく早いんだね?」

「数馬は相変わらずだな。運動部でもやっていけるんじゃね?」

「俺は体を動かすのは好きだけど、体育会系の人間関係はどうも合わないから無理だよ」

 

 数馬は朝早くジョギングをしてから学校へと来ている。学校へも走ってきているとか。健全すぎる生活スタイルの数馬は眩しく感じられた。俺も師範に鍛えられてた頃は似たような生活してたんだけどなぁ。

 数馬との会話を続けながらも俺は自分の席に鞄を置きにいく。すると、俺の机の上には見慣れたジャンバーが置いてあった。それは昨日、鈴に貸したものである。だが教室には鈴の姿が見られない。

 

「なあ、数馬。鈴って来てる?」

「そりゃ来てるよ。一夏と違って鈴もいつも早い方だし」

「今どこにいるんだ?」

「さあ? そのうち戻って来るんじゃないの?」

 

 結局、鈴は始業ギリギリまで教室に現れず、朝のうちに話す機会は無かった。遠目からだと鈴はいつもどおり過ごせているように見えた。

 

 

 放課後。そう、放課後まで俺は鈴と話せていない。鈴と話せない日くらい前々からあったのだから別に不思議なことなど何もないはずだ。だが今日は特に話そうと思っていない日というわけでなく、俺から近寄ろうとしても鈴と話せていないのだ。もしかしなくても避けられている。

 

「鈴!」

 

 女子の輪の中にいる鈴を呼ぶ。いつもは気づいたら近くにいる鈴に話しかけるだけだったから、鈴を呼び出すのは新鮮だった。鈴はさして面倒そうでもなく俺の方へと来てくれる。

 

「どうしたの? 何か用?」

「風邪ひいてないか心配してたんだけど、大丈夫そうだな」

「アンタはあたしの親かっての。親でも過保護すぎるわよ、それ」

 

 昨日のことはクラスの皆の前では無かったことにしているようだ。いつもの鈴に戻るためには、雨に打たれていた鈴の存在を消さなければいけないということになる。

 

「本当に大丈夫なのか?」

「ちょっと、待ちなさい。それ以上は皆に変な目で見られるけど、自覚して言ってる?」

 

 鈴に言われてようやく周囲の声が耳に入る。『織斑くんって鈴のこと……』とか『織斑、抜け駆けは許さねえ』とか聞こえてくる。だがそんなことは関係ない。周りが勘違いするのなら、それは俺よりもバカなだけだろう。

 

「大丈夫なんだな?」

「う……うん。何も心配はいらないわ」

 

 俺の執拗な問いかけに鈴は笑って答えてくれた。下手くそだ。鈴は役者には向いていない。そんな作り笑顔で安心できる男など一握りしかいないだろう。例えば、5年前の俺みたいな奴だ。今ならばわかる。“彼女”と約束を交わした1月3日。“彼女”は今の鈴と同じ顔をしていた。こんなわかりやすいサインを見逃していたのかと思うと、世間知らずで鈍感な昔の俺を殴りたくなってくる。

 

「そっか。悪かったな、変なこと聞いて」

 

 俺は鈴から離れる。結論は出ていた。鈴は隠し事をしているのだ。それも、近い内に俺たちの傍からいなくなるようなこと。ただひとつの経験から出た推測でしかないが、俺は半ば確信していた。

 

「おい、一夏! もう帰るのか!?」

「ああ。ちょっと今日はやることがあるんだ。また明日な!」

 

 俺は荷物をまとめ、弾と数馬を置いてさっさと教室を出る。まずは家に戻ろう。夜になったら行動開始。向かう先は――鈴の親父さんの店だ。

 

 

 千冬姉には友達の家で食べて帰ると連絡を入れておいた。普通の家庭ならば『夕飯はいらないから作らなくていいよ』という連絡になるのだが、うちの場合は『夕飯を作らないから外で食べてきて』になる。いつかは千冬姉も結婚して旦那さんに料理を振る舞うべきなのだが、千冬姉は何故か家事だけはダメだ。いや、能力が全く無いわけではないと思う。ただ、自分のためにする家事(特に部屋の掃除)だけは途端にずぼらになるのだ。俺が小さい頃は、まだ家事をしっかりやっていた。でも幼い俺から見ても無理をしてたのがわかったから代わりにやるようになった。その結果が現状だと思うと、俺は間違ったことをしたのかもしれないと思ってしまう。

 千冬姉への連絡を済ませた俺は早速鈴の親父さんの店へと入っていった。店内の活気は前に来たときと変わらない。常連の客がカウンターにいて、たまに来る家族連れや学生のグループがテーブル席の半分を占めている。個人経営にしては広めの店内を、俺はカウンター席へ向かっていった。

 

「おや? 一夏くんじゃないか。ひとりかい?」

「ええ、千冬姉が忙しいみたいなので、外で食べることになったんです。というわけで、回鍋肉定食をお願いします」

 

 鈴の親父さんもいつも通りだった。中学生ひとりだけで店に来ても、いつものことだから怒られない。だけど最近は来てなかったから、周りの客にとっては珍しい存在のはずだ。だからこそ、常連っぽいサラリーマン風の人の隣を狙ってカウンター席についた。

 

「君は高校生? それとも中学生?」

 

 釣れた。お酒も入っているとは都合がいい。あとはこのおじさんが鈴の親父さんとどれだけ親しいかが問題だ。これがダメなら親父さんに直接聞くしかなくなるが、できることならそれは避けたい。

 

「中学2年生です」

「鈴音ちゃんと同じじゃないか。あの子の友達なのかい?」

 

 当たりだな。この人は“中華料理屋”に来ているのではなく、“凰さんの店”に来ている人だ。でないと鈴の年齢まで把握しているわけがない。常連の中でも鈴の親父さんと良く話をしているのは間違いない。

 

「鈴はクラスメイトです。もう3年くらい一緒の腐れ縁って奴ですね。ここにも3年前から偶に来てます」

「そうかぁ。あの子に腐れ縁と言えるほどの友達がいるなんて知らなかったなぁ」

「え……? 鈴は友達100人いて当たり前みたいな性格してると思うんですけど」

「そうなのかい? 大人と子供では見えてるものが違うのかねぇ」

 

 俺が常連のおじさんと話している間にバイトの人が料理を持ってきてくれた。鈴の親父さんは奥で鍋を振るっていて今は忙しくなってきたようだ。親父さんに話を聞かれない内に聞けることは聞いておこう。回鍋肉を口に運びながらも隣のおじさんとの話を続ける。

 

「おじさんから見て鈴はどんな子ですか?」

「いや、私はあまりあの子を見たことはないよ。偶に店の方を手伝ってるのを見たくらいだし、そのときは物静かな子だなとしか思わなかったな」

「ハハハ。人見知りするような奴じゃないんで単なる猫かぶりですよ」

「それならばいいんだけどねぇ。凰さんが言うには家でもあんな感じらしいけど、学校では違うということか」

 

 鈴が家では物静か……? そうかもしれない。出会った頃の鈴は、今の明るさの欠片もなかった。仲良くなってからの鈴は太陽みたいに周りも巻き込んで明るくさせるような奴だった。どちらが本当の鈴かと聞かれれば、俺は後者だと思っている。てっきり昔は学校でだけ自分を押し殺していたと思っていたのだが、もしかしたら鈴は学校でだけ素の自分を出せているのか?

 

「鈴が家ではいい子ぶってるとか、話のネタになりそうです。もうちょっと聞かせてもらえますか?」

「私も凰さんから聞いてるだけだからね。ただ、いい子ぶってるわけじゃないと思うんだ。あまり大きな声では言えないけどね」

 

 俺は食事のペースを上げる。このおじさんは鈴の親父さんの前では言いにくいことを知っているんだ。ならば同時に外に出て、帰り道で聞くべきだろう。

 

「お? もう食べ終わったのかい? 若いっていいねぇ」

「いやぁ、料理が美味しいと箸が進むってもんですよ」

「よし。これも何かの縁だ。君の分は私が奢ろう」

「あ、ありがとうございます!」

 

 おじさんが俺の分の伝票も持ってレジへと向かう。俺はその後に付いていき、店も同時に出て行った。

 

「ん? まだ何かあるのかい?」

「はい。ちょっと聞きたいことがありまして……」

「まさか探偵ごっこか何かかな。面白そうだ、付き合おう」

 

 探偵……か。確かにやっていることは同じだ。俺は本人に知られずに、本人のことを調べているのだからな。おじさんが“ごっこ”として乗ってくれているうちに聞きたいことを聞いてしまおう。

 

「凰さんの家で、今何か問題があったりするんじゃないですか?」

 

 途端におじさんの目が丸くなった。それだけで今の鈴の問題が家庭にあることがわかる。さて、こんなプライベートな話をおじさんが漏らしてくれるだろうか?

 

「鈴音ちゃんから何か聞いたのかい?」

「いいえ。ただ、鈴の様子が最近変な気がするんです。気がする程度ですけど」

 

 本当はおかしいと確信しているのだが、勘で動いているだけなので気がするレベルとしておいた。おじさんは歩きながら話そうと歩道を指さす。俺はおじさんの隣を歩いた。

 

「君のような子供にまで悟られているようでは、本当に凰さんは参ってしまっているのかもしれない」

「何か、鈴の親父さんが困っていることでもあるんですか?」

「ああ。どうも奥さんと上手くいってないらしくてね。偶に私に愚痴を言ってくるんだ。愚痴だけで晴れるならと思って聞いていたけれど、悪い方にしか向かってないのかもしれないね」

 

 これが鈴の抱えている問題か。両親の不仲とは……確かに誰にも言えないわな。俺はただの部外者で、口出しする権利なんて一切ない。

 

「いつからなんですか?」

「私が知る限りだと、もう4、5年前になるんじゃないかな。何がきっかけなのかは私も聞いてない。もしかしたら凰さん自身も覚えてないのかも。それより前は仲が良くて、奥さんも店の方に来てたんだけどねぇ」

「もう戻らないのですか」

「それは当事者の問題だから、私たちが口出しできることではないよ。個人的にはあの店にはまだまだ通いたいから、離婚はして欲しくないけどね」

 

 離婚。行き着く先として当然考えられるものだ。もしそうなれば、鈴が今のままいられる保証などどこにもない。たしか鈴の母親は中国人だ。今は世界的に女性の権利が強いから、離婚して母親が中国に戻れば鈴は――俺の前からいなくなる?

 

「ありがとうございました。なんか、俺が聞いちゃいけない話だったような」

「それを言うなら私もだよ。君のような子供に話すようなことではなかったね。くれぐれも鈴音ちゃんにも凰さんにも余計なことは言わない方がいい。部外者が何を言っても話はこじれるだけだ。これは忠告だよ」

「はい、わかりました」

 

 おじさんを見送りながら、俺は今後についての考えを巡らせる。おじさんの言うとおり、俺が口出しできる問題じゃない。俺がすべきことは鈴との別れの時が来ても、明るく送り出す心構えをしておくことくらいだ。

 わかっている。わかってはいるんだ。でも、なんとかしてやりたいという自分も俺の中には居た。ただの中学生に何ができる? 今知ったばかりの俺が何を言ったところで鈴の親父さんの問題を解決できるはずがない。ましてや、鈴のお母さんのことを話でしか知らない俺では、上っ面の言葉しか出てこない。鈴に居て欲しいだけの俺なんかが何を言っても、何も解決なんてしないんだ。

 

 家に帰る。すると千冬姉も帰ってきていた。俺と千冬姉。それが俺の知ってる家庭の範囲。俺には親の記憶なんて全くない。そんな俺が親に持っているイメージなんて無いに等しかった。居間でくつろぎながら熱燗を口にする千冬姉におっさん臭さを感じつつ、俺は対面に座る。

 

「千冬姉。ちょっと聞きたいんだけどさ」

「どうした、一夏? 先に言っておくが、今飲んでる酒は1本目だからな。決して、外で飲んできて追加で飲んでるわけじゃないからな」

 

 別に飲み過ぎだと注意しようとしたわけじゃない。もし語るに落ちてるのだとしても今日のところはどうでも良かった。

 

「父さんと母さんってどんな感じだったのかなと思ってさ」

 

 親の話をすると千冬姉はいい顔をしない。それでも俺は知らないのだから聞かないとわからないんだ。今は千冬姉に嫌がられてでも聞きたい理由がある。その意志を千冬姉は察してくれたようで、普段なら話さない両親のことを教えてくれる。

 

「正義感だけ人一倍強い、良い意味で人間離れしてた人たちだったよ。客観的に見れば愚かだった」

 

 千冬姉が過去形で話すとおり、父さんも母さんもこの世にはいない。俺は今まで親は既に亡くなっているということだけ聞かされてきた。今まではどんな人たちだったのかも聞いてこなかったんだ。

 両親は愚かだったと口にする千冬姉だったが、俺の目から見れば誇らしげに見える。客観的に見ればと補足しているように、千冬姉の主観で見れば立派な人たちなのだろう。なぜ俺に隠そうとしているのかはわからないけれど。

 

「父さんと母さんはさ……仲が良かったのかな?」

「死ぬときまで一緒だった。少しでも仲が悪ければ、今頃どっちかは親としてこの家に居ただろうな」

 

 両親は事故で死んだと聞いている。いつも一緒だったからこそ、2人同時に死んでしまった。鈴の親とは全然違う人たちだったということになるのか。

 

「なあ、千冬姉。人はどうして結婚をするんだろう?」

「私に聞かれても大したことは言えないが、そうだな……結婚は人間社会に適合させたひとつの手段であって、本当に欲しいものは別にあるのかもしれない」

「欲しいものって?」

「それは愛だったり子供だったり金だったり色々あるだろう。私の最も身近な例では愛だったか。もっとも、当人同士が通じ合っていれば役所に届ける必要性を感じないとか言ってたが」

 

 そっか。好きだからってだけとは限らないのか。何か得だと思ったからこその結婚の可能性もあったり、最初の頃と今の自分が違っている可能性は十分にある。もう少し聞き込みを続けて、鈴の両親の状況となぜ険悪になったのかを知らないといけないな。

 それはそうと、千冬姉の身近な例って一体……? 確か千冬姉って恋愛話ができるほどの仲の人って数えるほどしかいないような。ぱっと出てくる人物は……束さん? いや、それは無いか。今は連絡も取れてないだろうし。

 

「どうしたんだ、一夏? 生意気な男子中学生らしく、結婚に興味がでてきたか?」

「そんなところ」

「気になる奴でもいるのか?」

 

 今は鈴と鈴の家族の問題が気になってしょうがない。

 

「おう」

「そうか…………」

 

 千冬姉が酒を呷った体勢で固まった。

 

「千冬姉、一気に飲むと体に悪いぞ。ってか熱燗なのに一気飲みとか大丈夫か?」

 

 俺が声をかけることで千冬姉はぶはっと息を吐きつつ熱燗をテーブルに置く。深呼吸を3回してからキリッとした目つきで俺を見てきた。

 

「よし、今度私にその娘を紹介しろ。場所は篠ノ之道場でどうだ?」

「紹介はいいとして、なんで道場なんだ!?」

「柳韻先生がいない今、あの道場は私が管理している。道場として門を開いていないが、仕合をするには打って付けだろう」

「鈴に何させる気だよ!?」

「ほう、鈴というのか。で、一夏はどこを気に入ったんだ?」

「い、言えるかっ!」

 

 人様の家庭の事情に首を突っ込もうとしてるとは言えない。そろそろ追求から逃げるために俺はさっさと自分の部屋にいくことにする。そんな俺の背中に千冬姉はまだ話しかけてくる。

 

「まだお前は中学生だ。無理に大人ぶろうとする必要はない。小学生、中学生の恋で後々まで引きずるような責任を感じる必要はないんだ」

 

 子供が気負うなと千冬姉は言う。これは今日に始まったことじゃなく、毎年の正月にも言われていることだ。千冬姉にはあの約束のことを言ってなかったが、気づかれているのだろう。大丈夫だ。“彼女”のことも鈴のことも責任感なんかで動いてるわけじゃない。ただ俺がそうしたいからやっている。それだけだ。

 

 

 次の日からも俺は弾たちと遊ぶことなく色々な人に話を聞いて回った。お店の常連を中心にして集まった情報では、離婚は秒読み段階であることと、3月にはお店自体が閉まる可能性が高いことなどがわかった。鈴が中国に帰るということも噂レベルであるが聞けた。

 このまま放置すれば鈴も転校する。本人が納得しているのならいい。だけど、雨の日に出会った鈴は泣いていた。だから俺は足を止めなかった。

 鈴の親父さんたちは最初から仲が悪かったわけではないらしい。最初に聞いたおじさんも言っていたとおり、あの中華料理屋も夫婦で営んでいたということだった。何かをきっかけにして夫婦の仲が壊れたのだ。それが4、5年前くらいの話だという。俺が鈴と出会う前の話だった。

 

 俺はある日の放課後。別のクラスの男子生徒を捕まえて話を聞くことにした。既に素性は調べてある。俺と出会う前の鈴のクラスメイトだった奴で……鈴をいじめていたことのある奴だった。

 

「ひぃっ!? 織斑が俺に何の用だよ!」

「別に喧嘩をしにきたわけじゃない。話を聞かせて欲しいんだ」

「話……?」

 

 俺とは根本的に気が合わない奴だが、今はコイツを頼らないといけなかった。出会った頃の鈴になるまでの過程を知りたかったのだ。

 小学生時代のトラブルのためか、俺の質問に素直に答えてくれて助かった。俺としても、鈴のいじめ現場に飛び込んだときのような大立ち回りは二度としたくない。最悪脅すしかないところまで俺は時間的に追いつめられていたのだが、互いに良い選択をしてくれた。

 彼の話は聞いていて気持ちの良いものではなかった。だがそれを彼も自覚しており、後悔も伝わってきていた。そこだけは良かったと思えることだった。

 

 情報は不十分であるが、これ以上は当人でないとわからない。俺は少ない情報を元にある推論にたどり着いた。もしかしたらこの問題は、すれ違いなのかもしれない。

 もう1月が終わる。鈴にとって最悪の決断となるまえに、俺は劇薬を投下することに決めた。準備は着々と整っていく。弾が以前にイタズラで使用したボイスチェンジャーを借りる。凰家と千冬姉の予定を把握してタイムスケジュールを構築する。計画の実行は2月3日に決めた。ぜひとも凰家に福を招きたいものだ。失敗すれば、俺が鬼として社会の外に叩き出されるだろうけどな。

 

 

***

 

 勝負の2月3日。平日だったその日をいつものように過ごす。期末試験が近いだとかで周りは割と騒いでいたが、俺にはそんなことは心の底からどうでも良かった。

 

「おやおや、一夏くんにとってはテストは余裕そうで」

「当たり前だろ。どう足掻いても俺のバカは直らないっての」

「そこを開き直ると学校の意義を見失うぜ」

 

 放課後以降のことばかり考えつつ俺は弾といつも通りに話していた。少なくとも俺はそのつもりだった。だが弾にとっては違ったようで――

 

「何か別のことで余裕がなさそうだな。悩みなら話くらい聞くぜ?」

「ん? 一夏、元気無さそうじゃん。どしたん?」

 

 数馬もやってきて俺が変だと指摘する。まあ、この2人にはそう思われるだろう。俺は緊張している。この選択は文字通りのバカがすることであり、千冬姉にも多大な迷惑をかけることになるからだ。

 普通ならこんなことしない。仮にすべてが上手くいったとしても、俺には何のメリットもない。ハイリスクノーリターン。それでも俺が“この計画”を実行するのは、理想の俺で居続けたいからなのだろう。

 

『一夏はバカだ。だが私はそんな一夏を尊敬している』

 

 “彼女”が認めてくれた俺で居続けないと“彼女”と再会できないかもしれないと心のどこかで感じている。だから俺がすることはただの偽善。否定はしない。これが俺なのだ。

 

 俺は弾と数馬の肩を掴んで教室の外に引っ張り出す。コイツらには隠そうとしたところでずっと怪しまれる。それが鈴にまで伝わってしまうと計画が丸潰れだ。だからある程度は話して鈴に悟られないよう協力を得る必要がある。

 2人を屋上に連れ出した。うちの中学では屋上への立ち入りは禁止されているため、この時点でバレたら厳しい罰が待っている。逆に言えば、滅多に人が来ないと言える場所である。俺の行動から2人には俺の本気さが伝わってくれることだろう。2人は茶化すことなく俺の話に耳を傾けてくれたので、簡潔に鈴のことと俺がこれからやろうとしていることを説明する。

 

「――というわけなんだ。だから俺が変だとか鈴の前では言わないでくれよ?」

 

 説明を終える。ただ今日の間だけ俺が妙な態度を取ってしまってもフォローをいれてくれるだけでいい。それくらいなら付き合ってくれるのだと思っていたのだが、どうやら俺は思い違いをしていた。弾が近くの壁に拳を叩きつける。

 

「一夏。それは犯罪だぞ? それを俺に見過ごせだと?」

 

 弾の豹変に俺と数馬は驚きを隠せなかった。気のいいテキトー男の面影はなく、今にも殴りかかってきそうな危うさが見え隠れしている。

 

「おまけに人の噂ばかり集めた情報が根拠になってるじゃねえか。人の話ってのには尾ひれが付くもんなんだよ。真実とは限らない。てめぇはバカか?」

 

 ナイフのような鋭さを以て弾が俺に詰め寄ってくる。言いたいことはわかるし、俺もそう思っていたから反論はない。だから肯定する。

 

「そうだよ。俺はバカだよ。でもやるって決めた!」

「今まではお前のバカさを気に入ってたが、今日ばかりはそうはいかねえな。てめえの勘違いで問題だけ起こして、勝手にいなくなられてたまるかよ!」

 

 このまま言葉だけ交わしても互いに納得はしない。だから俺も弾も拳を作った。こうなってしまっては、俺が先へ行くには止める弾を倒さないといけない。しかし、一触即発の状況で待ったをかける声が入る。

 

「2人ともストップ。ここで2人が喧嘩しても意味がないよ」

「数馬。お前は一夏が何をしようとしてるのかわかってるのか?」

「わからないね。だからこそ、まだ一夏には話してもらわないと」

 

 数馬によって弾の好戦的だった姿勢が緩和し、俺も構えをといた。だが数馬は俺とも弾とも違う立ち位置にいるようだ。

 

「俺が言えることは言ったぞ? これ以上何を言えばいいんだ?」

 

 さっぱりわからない。そもそも理解されようというつもりはなかったのだが、まさか数馬の考えてることを俺もわからないとは思っていなかった。数馬の問いがくる。それは余りにも単純なもので、俺が話し損ねていたこと。

 

「鈴の家の状況とか鈴が雨の日に家を飛び出してたとかは聞いた。でも、一夏はどうして鈴をなんとかしたいって思ったん?」

 

 鈴が問題を抱えている。だから俺がなんとかしなくてはならない。この流れは何も論理的じゃない。俺の話だけではお人好しが無駄に首を突っ込もうとしているようにしか映らないのだということにやっと思い至る。

 ここで俺は思い悩む。“彼女”が望む俺であるために俺は鈴を助けたいと思っている。そうだと思ったのだが、果たしてそうだろうか。鈴以外だったら俺はそう思えたのだろうか。試しに適当なクラスメイトを当てはめてみたのだが、そもそもその場合は雨の日に追いかけるような真似もしていない。

 結局、うまく言葉にできない。ただひとつだけ言えることで答えるしかできなかった。

 

「鈴に傍に居て欲しいからだ! 文句あっか!」

 

 言葉にできないイライラもあってか弾と数馬に怒鳴りつけた。すると、2人とも腹を抱えて笑い出した。弾もすっかり睨む目つきが引っ込み、いつものテキトー男に戻っている。

 

「お前がそこまで言うなら止めねえよ。むしろ盛大に後押ししてやる」

「弾? どういうことだ?」

「お前を止めようとしたのも、お前を後押ししようとしているのも、俺がお前の友達だからってことさ。わかんねえなら気にするな。説明してわかるもんじゃねえ」

 

 こうして、俺は共犯を得た。正直なところ、ひとりでは心細かったので頼もしかった。弾は俺に今日までの準備を全て教えろといい、数馬もできることは手伝うと言ってくれた。失敗するかもという不安を、できるはずだという希望が塗りつぶしていく。そうして、放課後を迎えた。

 

 

***

 

 

「鈴、今日はひとりか?」

「ええ、そうよ。ちょっと思うところがあってね……」

 

 放課後、教室にひとりで残っていた鈴に声をかける。ここ1ヶ月ほどは俺たちと遊ぶことなくクラスの女子とつるんでいた鈴だったが、今日はたまたまひとりで帰るらしい。元々無理にでも鈴と2人きりの状況を作るつもりだったのだが、幸運なことに自然な形で鈴を誘えそうだった。

 

「久しぶりに一緒に帰らないか?」

「何よそれ。気を遣ってるつもり? あたしはもうアンタと会った頃とは違うの。今日はひとりで帰りたい気分なのよ」

「俺が気を遣う? ハハハ、何をバカなことを。弾も数馬も気づいたら帰ってて、ひとりポツンと残された俺が仲間を見つけただけじゃないか!」

「勝手に仲間にすんな! というかアンタって他に友達いないの?」

 

 ちょっとだけ鈴の言葉が胸に刺さった。小学生の頃から避けられてきてるんだよな。理由はなんとなくわかってるし、仕方がないと受け入れてることでもある。そんな俺に友人がいるのは、きっと鈴のおかげなんだろう。

 出会いを思い返せば、俺が鈴をいじめから助けに入って、その場で鈴を挑発して、いじめっ子の前で鈴に俺を殴らせたっけ。まさか顔面に来るとは思ってなかったし、わざとやられるつもりだったけど本当にぶっ倒された。あの衝撃は“彼女”のとき以来だった。

 それからしばらく経つと、なぜか俺の周りに鈴がいるようになった。わざと殴らせたのに殴られ損だった。いや、俺の思惑が外れただけで、損ではない。きっと拳で鈴との友情が芽生えたのだ。そうに違いない。

 

 誰かと話すようになれば、自然と他の誰かとも話すようになる。そうして、中学で最初に会ったのが弾だった。奴とは特に何かあったわけじゃないのだが、気づけば一緒にいることが多くなった。数馬もいつの間にか友達になっていたんだ。

 

 元を辿れば鈴のおかげだと思う。他の人から見て少ないかもしれないけど、俺はいい友人を持ったと思っているからそれでいいんだよ。

 

「認めよう。俺は友達が少ない。だから鈴、一緒に帰ろうぜ!」

「あー、はいはい。あまりにも一夏が不憫だから付き合ってあげるわ」

 

 俺には下手なプライドより大事な物がある。ひとりになりたがってた鈴を連れ出すために必要ならば、いくらでも自分を卑下してやろうじゃないか。

 

 

 2人だけの帰り道。まだまだ日は短く、既に太陽は沈みかけて西の空が朱色に染まっている。隣にならんで歩く鈴は、歩道がガードレールから縁石に変わったところで、小学生のように縁石に飛び乗って歩いていた。

 

「車が来たら危ないぞ」

「ガキじゃないんだから、そのときはちゃんと降りるわよ」

 

 形だけの警告を鈴はなんでもないこととして受け流した。俺としても別に本当に危ないだなんて思って言ったわけじゃない。ただ、話すことを思いつかないだけだ。言いたいことはあるけれど、今は話すときではない。だからいつも話しているようにはいかなかった。

 一緒に歩くだけの帰り道が続く。口数が少ないため、少し気まずかった。このまま真っ直ぐ帰れば暗くなる前に鈴は帰宅するだろう。できれば自然な流れに持って行きたかったが、今日の俺ではそんなことは無理だった。だから唐突に提案するしかなくなる。

 

「鈴。どっか寄り道していかないか?」

「はぁ? それならそうと早く言いなさいよ」

 

 鈴の言うことは尤もである。もう帰り道は半分以上を過ぎていて、寄り道するためには道を引き返さなくてはならないからだ。これは流石に断られるかと思っていたが、意外なことに鈴は乗り気だった。

 

「で、どこ行くの?」

「鈴を連れて行きたい場所があるんだ。少し遠いけど、大丈夫か?」

「どれくらいかかるの?」

「行って帰ってくると8時くらいになるかな」

「それくらいならいいわよ。多分」

 

 帰りが遅くなることを鈴は了承してくれる。語尾に付いた“多分”の一言が推論だった俺の結論を確信へと近づけていた。鈴から隠していた“弾の携帯”を操作してコールする。合図は送った。しばらくは弾に任せることになる。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

 五反田弾と御手洗数馬は電柱の陰から中華料理屋の様子を窺っていた。鈴の父親が営む店だ。時刻は午後6時を回り、これから客を入れたい時間だろう。しかし、明かりは点いているが入り口には『本日休業』とかかっている。

 

「一夏の情報通りだな。アイツ、どれだけの人に聞いて回ればこんなことがわかるんだ!?」

「でも、そこから先の鈴の親さん2人がそこで話し合うっていうのは推測でしかないんじゃないの?」

 

 だが入り口を監視していると閉まっているはずの店に平然と入っていく女性がいた。仲にいる店の主人に追い返されないところから、一夏の推測どおりに物事が進んでいるように感じられた。

 

「今のって鈴の母さん?」

「そう考えたくなっちまうな。一夏に植え付けられた先入観じゃなきゃいいが」

 

 そこへ弾のポケットに入れていた携帯が震える。一夏からの連絡だった。鈴を家から離す作戦を開始した合図である。一夏に指定された時間が迫り、弾は“一夏の携帯”を操作し始める。口にはボイスチェンジャーが取り付けられていた。番号を入力し終えた弾は数馬を置いて鈴の家から離れる。場所を見計らって通話ボタンを押した。3回ほどのコール音。そして、

 

『はい。凰ですが――』

「あー、もしもし。ワタクシ、名乗るほどの者ではないのですが、お宅の鈴音ちゃんに関することでお話があります」

 

 受話器の向こう側では鈴の父親が応対している。機械的な声に変えて名乗らない不気味な電話に戸惑っていることが話している弾にも伝わってきていた。だが鈴の名前を出したことでイタズラ電話と切られる前にこちらの意図を知ろうと思うはずである。弾は単刀直入に要件を伝えた。

 

「鈴音ちゃんの身柄はワタクシどもが預かりました。返して欲しければ、ワタクシどもの要求に応えていただきたい。あ、警察に連絡したら……って言わなくてもわかりますよね?」

『おい! 貴様どういう――』

「5分後にかけ直します。その間に気分でも落ち着けてください。それでは」

 

 通話を切った弾はその場に座り込んだ。ぐったりしている弾の肩を数馬がポンと叩く。

 

「お疲れ。これぞ弾という感じだった」

「止せ。慣れないことの上に色々と心苦しいことしてんだから、冗談でもそういうこと言うな」

 

 5分後に弾は鈴の父親に要求をすることになる。その内容は『答えを示せ』の一言だけ。なんて愉快犯だ。答えなんて弾にすらない。一夏の作戦を手伝っているものの、ここから先の展開は一夏の頭の中にしかなかった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 

 時計を確認する。予定通りならば弾が1回目の電話を終えている頃だろう。2回目までの5分の間は、鈴の両親はまともに動けないはずだ。

 

「ねえ、一夏。ここなの? アンタが連れてきたかった場所って」

 

 俺が鈴を連れてきた場所は、何の変哲もない少し小高い丘だった。まだ開発の手が伸びていない郊外にあり、街灯も疎らで夜の光源は月明かりが主だった。

 

「駅周辺とかは割と行ってたけど、逆の方面には来たこと無いだろ? たまには静かなのもどうかなと思ってな」

「静か……か。さっき携帯の電源を切らせたのもそういうことなのね」

 

 身につけている光源すらも切って、俺は暗くなっていく空を見上げていた。そうしていると鈴も同じように上を見上げている。

 

「この街にも少しは星が見える場所があったのねぇ」

「だろ? いつもの行動範囲だと他の明かりが邪魔をして見られやしない。明かりだけの問題じゃなくて、冬だからこそスッキリした空が見えてるんだぜ?」

 

 望遠鏡も何も用意していない天体観測。いや、ただの星空の観察だな。この場所は篠ノ之神社の次に気に入っている場所だった。俺もこんな空があることを知らなかったのだが、教えてくれた人がいるからこうして鈴を連れてくることができている。

 

「ねぇ、一夏。あたしは星の名前って知らないんだけど、教えてくれないの?」

「生憎だが俺もよく知らない。この辺りでもハッキリ見えるのは大体1等星で見えても3等星までだ。オリオン座は知ってるか?」

「名前だけ」

「あそこに3つ並んだ星があるだろ? で、そこを中心に砂時計みたいに配置されているのがオリオン座だ。1等星と2等星ばかりだからこの変でもまともに見える星座だな」

 

 指をさしながら鈴ににわか知識を披露する。そんな中身の薄い語りでも鈴は目を輝かせていた。今まで夜空を見上げたことがなかったということなのか……。

 次々と「あれは? あれは?」と聞いてくる鈴ににわか知識の極みのような答えを返していく。とりあえず合ってる自信があるのが北斗七星とカシオペヤ、星ではシリウスくらいしかなかった。

 一通り聞いて満足したのか、鈴は満面の笑みだった。テキトーな内容ばかり話していたのだが、鈴が満足したのならそれは良かったことだと思う。

 

 時間を確認する。弾の方は既に要求を伝えたことだろう。そして、鈴の両親は警察に連絡を入れていないことは間違いない。何故ならば、警察の人間が“たまたま”あの店を訪れているはずだからだ。そう、千冬姉に鈴を紹介すると言ってあの店を指定してあったりする。

 千冬姉には俺も誘拐されている可能性が伝わるように仕組んである。もっとも、千冬姉を騙せるわけがないから、割とすぐにバレてるような気もしていた。それならそれでいい。千冬姉なら俺のやろうとしていることに気づいてくれるはずだと信じている。始まる前なら止められるだろうが、中途半端なところで止めたりはしないはずだ。

 

「一夏――」

「どうした、鈴? まだ何か話してほしいのか?」

 

 計画の進行を頭の中で考えていると、先ほどまで楽しげだった鈴が沈んだ声で話しかけてきた。

 

「あたしはさ。色々と見えてなかった。身近にこんな星空が見えてたことも、あたしがここに居たいって気持ちも」

「鈴……」

「どうせアンタのことだから、わかってて今日あたしを連れ出したんでしょ? だってタイミングが良すぎるじゃない。今日は家族全員でこれからのことを決定する日だった。あたしが中国に帰ることを決定する日だったの」

 

 集めた情報の中で、定休でない水曜日の夜に店が閉まるというものがあった。もうすぐ閉店するタイミングでやってきた臨時休業の日を、関係ないと思う方が難しかった俺は何かがあると予測した。鈴が放課後にひとりになっていたのも必然だったわけだ。

 

「ここからいなくなることは何でもないことだって言い聞かせようとしてきた。でも、あたしはやっぱりここに居たい! せっかくできた友達と離れたくない! アンタが広げてくれた世界をまだまだ見ていきたいの!」

 

 鈴がここに居たいと思ってくれている。それだけで今日の俺の行動には意味があった。俺の余計なお世話だけじゃなくて、鈴の願いに沿っていると信じている。

 

「俺も鈴に居てほしいと思うよ」

「でもあたしは中国に帰るしかない。お父さんとお母さんはもう上手く行かないって言ってる。お母さんはあたしを中国に連れて行かないとダメだの一点張りでお父さんとずっと喧嘩してるの。あたしももう見てられないの……」

 

 鈴の両親の現在の状況は遠回しには聞いていた。最早何が原因かもわからない罵倒のぶつかり合いにしかなっていないらしい。だけど、今の鈴の一言で俺の中の推論が確実なものに切り替わった。

 

「お父さんとお母さんが喧嘩してるのか。それで、鈴は何か言ったの?」

「え? あたし?」

「俺の知ってる鈴なら、両親の喧嘩に割って入って2人に『バカやってないで仲良くしろ』とでも言うと思うんだが」

「あたしを何だと思ってるわけ?」

「鈴だと思ってる。だからこそ鈴がそんな家庭環境に置かれてるのがわからない。まさかとは思うけど、家では猫かぶってたりするのか?」

「誰がそんなことするか!」

 

 しおらしかった鈴が急変して俺に掴みかかってくる。俺は襟首を捕まれながらも抵抗せずに受け入れて、ただ言葉をつなげていった。

 

「聞き方を変える。お父さんでもお母さんでもどっちでもいい。鈴はちゃんと学校でのことを話しているのか? 今、俺の知ってる鈴が学校でどんな生活をしてるのか、ちゃんと伝わってるのか?」

 

 鈴の手が俺の襟から離れて力なく下がっていく。

 

「両親の不仲が始まったのは、鈴にあったいじめ――」

「言わないで!」

 

 俺の言葉は大声で遮られる。言わなくても鈴自身にはわかっていたことだ。だが放っておくことはしない。耳をふさぐ鈴の手を俺は強引に引き剥がす。

 

「やめてよっ! 離して!」

「いいや、やめない! これは鈴が目をつむってはいけない問題なんだ!」

「勝手に決めないで! 人の家のことに口を出さないでよ!」

「決めたのは鈴だ! さっき自分でも言っただろ! 『ここに居たい』と! まだその気持ちを鈴は伝えてないじゃないか! 家のことが関わってるのは間違いないけど、俺が口出ししてるのは鈴のことだけだ!」

 

 声の大きさで相手を抑えようとして俺たちは叫び合う。次第に叫ぶ声も俺だけになっていった。

 

「鈴を理由にした離婚に対して鈴が黙ってたらダメだ! 鈴は昔と違って楽しく生活してる! 俺なんかよりもずっと充実してる! そのことを鈴が言わないでどうして鈴のためになる!」

 

 これもただの推論だったもの。希望的観測の類だったものだが、鈴と話しているうちにこれ以外には考えられないようになっていた。

 俺が叫び始めてから鈴は次第に俯いていった。でもそれは決して悪いことじゃないと思いたい。ポジティブなフリして足を止めていた今までよりもずっといいに決まってる。

 

「まだ間に合うのかな……?」

「当然だ。素直な気持ちをぶつけるんだ。その結果がどうなっても俺は支持する」

 

 弾に持たせた俺の携帯に2回目のコールをする。『今から鈴の声を聞かせてやる』とだけ親さんたちに伝えてもらって、鈴の携帯から直接かけさせるという流れだ。

 

「鈴、今すぐに電話をするんだ」

「う、うん! でも何て言えばいいの?」

「俺にはわからないよ。思うように言ってごらん」

 

 鈴が携帯を操作して耳に当てる。そして――

 

「あ、お父さん? あのね……」

 

 

***

 

 

「うちのバカな弟が大変なご迷惑をおかけしました。ほら、一夏! 頭を下げろ! 角度は90度を意識しろ!」

「すみませんでしたあああ!」

 

 俺は鈴の家の前にまで来ている。現在は店の前で千冬姉に頭を掴まれて強引に頭を下げさせられていた。後頭部に食い込むような指がものすごく痛い。

 

「い、いや、織斑さん。私どもは一夏くんを責めたりはしていないので、勘弁してやってください」

「いいえ、これは既に織斑家の問題です。結果はどうであれ、混乱を招くことをしでかしたことは事実ですので、織斑家なりに罰する必要があるのです」

「は、はあ……」

 

 わかってたさ。組織としての警察を巻き込まないために千冬姉個人を利用した時点でこうなることくらい。むしろ結果としては上々だとも言えた。ちなみに弾と数馬にはさっさと逃げるように伝えてあり、一応は単独犯ということにしている。携帯は既に受け渡し済みだ。

 千冬姉と鈴の親さん方が話している傍らで鈴が俺のところへとやってくる。ちゃんと鈴の意志は伝わり、鈴のお母さんも今の鈴を見て安心を覚えたよう。ついでに今までのことも振り返って考え直すことにしたらしい。離婚かどうかの決定は延長ということで、ひとまずは落ち着いたようだ。鈴の顔には学校でも見せないような無邪気な笑顔がこぼれている。

 

「ありがとう、一夏」

「俺は何もしてない。いや、違った。怒られるようなことしかしてないから礼なんて言うなよ」

「でもあたしが嬉しかったんだからそれでいいじゃない。ひねくれたこと言ってないで素直に感謝くらい受け取りなさい」

「ひねくれるなとか素直になれとか、鈴に言われても『お前が言うな』としか思えないんだが」

「はぁ……こういうときは『どういたしまして』とだけ言っておけばいいのよ。本当に変なところで察しが悪いんだから」

「悪かったな。色々とバカでよ」

 

 俺は自分のことをバカの一言で済ませる。大事なときに動けないような賢さは当の昔に捨てている。空気が読めない時があるのはその代償なのだと開き直ってやるさ。

 

 保護者同士の話が終わったようで鈴も親の元へと帰っていく。最後に俺に方へ振り返った鈴は手でメガホンを作って叫んだ。

 

「ありがとーっ!」

 

 俺も何か返そうと思ったが、手を振るだけにしておいた。しかししっくりと来なかったので小声で「どういたしまして」と呟いた。

 

 

 鈴が中国に帰らない。これからも俺たちと一緒に学校に通う。これがとても嬉しかった。“彼女”のときのように全く気づかないこともなかった。そうした自分の成長が一番嬉しかったのかもしれない。

 

『バイバイ……』

 

 ふと耳に聞こえてきた別れの言葉。鈴の声だが、このときの鈴は『バイバイ』などと言ってはいない。

 

 

 ――このときの鈴? じゃあ、今の鈴は?

 

 

『ありがとう、一夏。あたしはアンタに会えて本当に良かった』

 

 耳に残っていた。聞きたくない感謝の言葉。目に焼き写っていたのは牙の並んだ口に消えていく鈴だった光……

 

 俺は叫んだ。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

「うわああああああ!」

 

 自分の叫びで意識が覚醒した。自分のベッドではなくリビングの床で眠っていたようだ。俺にかけられていた毛布をどかす。冬も近いというのに汗で濡れてしまっていた。ひどく気分が悪い。これは季節はずれの汗が原因ではなかった。

 

「そうだ、鈴は!?」

 

 昨日の記憶を必死にかき集める。昨日は鈴とISVSに入ってナナの手伝いをしていた。そのとき、鈴はリビングのソファを使っている。福音の口に消えていった光の映像が頭から離れない俺はすぐにソファを確認した。

 

「良かった……夢だったんだ」

 

 へなへなと力が抜けて床に座り込む。ソファには誰もいなかった。ついでと言ってはなんだが、台所から物音がしている。千冬姉はまだ出張から帰ってないだろうから、いつかの朝のように鈴が朝食でも作ってくれているのかもしれない。俺はすぐさま立ち上がり、台所に通じる扉を開けた。

 

「鈴、次からは勝手にやらないで、まずは俺を起こしてだな――」

「一夏さんっ!?」

 

 気怠く扉を開けた俺を待っていたのは、私服であろうフリフリな服のままエプロンも着けずに右往左往している金髪お嬢様だった。

 

「どうしてセシリアがここにいるんだ?」

「だ、大丈夫なのですか……?」

 

 質問に質問で返された。台所で何かをしようとしていたセシリアだったが、俺の姿を見てからは手を完全に止めて俺の方に向き直っている。彼女は俺の質問をはぐらかそうとしているようには見られず、俺の様子を見て何かに驚いている。なぜそのような見開いた目で見られねばならないのか。

 

「大丈夫って何のこと? ああ、蒼天騎士団に負けたことなら大丈夫だって。確かにセラフィムが遠のいたのは痛いけど、セシリアの言うとおりまだまだ終わってないから」

「そんなことはどうでも良いのです。……その後のことは覚えていますか?」

「後? そんな心配されるようなことは……そういえばセシリアには言ってなかったけど、鈴にも協力してもらうことになったんだ。勝手に決めちゃって悪いな」

 

 するとセシリアは額に手を当ててふらふらと後ろに下がっていく。壁にもたれ掛かり、何かに縋るような目で俺を見てきた。

 

「鈴さんと協力……ですか。その後のことは覚えていますか?」

「ナナたちの手伝いをして……そうそう、福音っぽいのに会ったよ。一度は倒せそうだったんだけど、急に変身して強くなってさ。正直ヤバイと思ったんだけど、とりあえず無事みたいだ。アイツは関係ないのかな」

 

 本当にもうダメだと思った。明らかに普通ではなかったから、現実に帰ってきて眠ったままの鈴を見て……俺は鈴まで失ってしまったのかと責めた。でも、今見てみればソファには誰もいない。鈴が被害者となったのなら()()()()()()()()()()()鈴は今もソファで寝ていないとおかしい。

 

 セシリアの顔がひきつる。

 口が震えながらゆっくりと開いて、何かを必死に俺に伝えようとしてくれている。

 セシリアの様子は明らかに普通ではない。

 心当たりは……あった。

 

「無事ではありません」

 

 やっとのことで紡がれた言葉は、俺の希望的観測の否定だった。

 そう、自分でもどこかおかしいと感じ始めていた。

 その答えは考えればすぐにわかるものなのに、自分から答えを出そうとしなかった。

 

「鈴さんは……一夏さんが気を失っている間に、わたくしが内密に病院へと運ばせていただきました。意識はありません。ただの睡眠でないことは明らかで、症状はチェルシーと全く同じでした」

「え? それって……?」

 

 鈴も箒と同じ状態になってしまった。

 また、俺のせいで。

 今度は俺の目の前で。

 今になって、福音の不気味な双眸を思い出した。

 

「鈴が……巻き込まれた……? いや、俺が巻き込んだ……」

 

 危険とわかっていた。それなのに、俺は鈴が関わることを止めなかった。福音を前にして、万全でもないにもかかわらず戦うことを選んで敗北した。結果的に鈴だけを犠牲にして俺はここにいる。

 

「大丈夫ですか?」

 

 状況を把握した俺をセシリアが心配してくれている。でも、俺が言えることなんてひとつだ。

 

「……鈴まで奪われた。それでもヘラヘラしてたら正気じゃないだろ」

 

 つまりはさっきの自分だ。現実を見ていなかったとはいえ、セシリアが見ていたのは狂った俺だったことだろう。

 

 しばらくの間、沈黙が場を支配する。秋にしては肌寒い朝の空気と共に無音が俺を責めてくる。俺の頭の中では、鈴がやられるところと、何もできなかった俺のことがフラッシュバックされ続けていた。

 

「一夏さん。ひとつ聞かせてくださいませ」

 

 沈黙を破ったのはセシリアの重い口調の問いかけだった。俺は何も言えずにただ頷くしかできない。

 

「どうして福音と戦ったのですか? どうしてわたくしを待ってくださらなかったのですか?」

 

 その通りだよ。セシリアが聞かなくても俺が一番自分に聞きたい。どうして俺は本当にやばくなる前に逃げなかったんだ? どうして俺と鈴だけで勝てるなんて結論を、良く知りもしない敵が相手で下せたんだ? 全部、俺の理由のない自信と、効率を考えた焦りが招いたことじゃないか。

 

「何か言ってください」

 

 俺に何を言えって言うんだ? 失敗した弁明か? 次からは気をつけるなんて言ったところで鈴が取り戻せるのか? 口にでることなんて悲観しかない。

 

「無理だ……」

 

 これを言えば全てが終わる。そうわかっていても俺は自分を抑えられなかった。

 

「アレはISなんかじゃない! ただの化け物だ! 俺たちがいくら足掻いても、一息で蹂躙される! ……最初から無謀だったんだよ」

 

 相対してわかった。今回のような不意打ちをされなくとも、俺では到底適わない相手だ。雪片弐型は受け止められ、イグニッションブーストすらも俺を遙かに上回っている。今までに俺はランカーの戦いも見てきたが、福音は別次元の強さを持っていて、勝てるイメージが全く湧かない。

 

「それは本心ですか?」

「今更嘘をつく必要がどこにある!?」

「では鈴さんはどうなります? シズネさんは? ナナさんは? あなたの助けたい人は?」

「助けたいさ! ……でも、いくら戦っても、助けたい人が増えていくだけじゃないか。もう、無理なんだよ……」

 

 福音には俺ではどう頑張っても勝てない。だからといって誰かに助けを求めれば鈴のように被害者の仲間入りとなる。もう雁字搦めだ。八方塞がりだ。俺はもうどこにも踏み出せそうにない。折れるということを思い出してしまったんだ。

 

「わかりましたわ。もうわたくしから言えることはありません」

 

 セシリアが尖った口調に変わった。それも無理もない。こんな俺では協力関係にある理由など皆無だ。もとより、彼女ならばひとりでも福音を追っていける。彼女は俺と違って強いから。

 

「わたくしの目は曇っていたようですわね。あなたのようなヘタレで無能な方は何もかも忘れて生きていきなさい。もう二度と会うこともないでしょう」

 

 セシリアが苛立っているのはわかる。でもそれ以上に俺自身が俺に対して苛立っていた。ここでセシリアに待ってくれと呼び止める手を出せない自分が腹立たしい。それでも、何もしないことを選ぶ自分の尻を叩くことはできなかった。

 俺の家を立ち去る前にセシリアは最後に1回だけ振り返った。その瞬間の目元の変化を何故か敏感に感じ取れた。最後に残された希望を俺自身が失望に切り替えた瞬間だった。

 

 

◆◇◆―――◆◇◆

 

 照明の行き届いた会議室でスーツを着た男女数名が顔をつき合わせていた。老人といえるような歳の厳かな雰囲気を持つ男性も居れば、胸元の開けた見目麗しい女性までいる。年齢も性別もまちまちな全員の視線は、ただひとり起立している20代前半と思われる男性に注がれていた。最も高齢である白髭の老人が口を開く。

 

「ではヴェーグマン博士。ILL(イル)計画の進捗を聞かせてもらおうか」

「ああ、そうさせてもらう」

 

 ヴェーグマン博士と呼ばれた若い男性は自らの頭上に映像を表示した。ISが現れる前の技術レベルでは暗い部屋でプロジェクターを使用したものだが、技術の進化はここ10年以内で加速し、空中に映像を映し出す技術が一般に普及するレベルに達していた。

 

「亡きプランナーが提唱したILL計画は人類の更なる発展を願い、活動の場を地球から宇宙へと移していくものだということは皆さんもご存じかと思う。ただし現状のままでは宇宙に進出する過程で再び人類は大きく争うであろうことをプランナーは予見した」

 

 ヴェーグマンの頭上のディスプレイに2項目の文字列が表示される。

 

「プランナーはいずれ宇宙に進出することを余儀なくされる人類に必要なものとして2つの事柄を定義した。人類自身の質の向上と支配体制の確立。前者は言わずもがな、宇宙という地球とは異なる環境にも対応できるだけの肉体的強度を生物として確保することが必要になってくるということ。後者は宇宙への進出後に人々の生活基盤が宇宙で安定するまでの期間、戦争を起こさせないための措置となる」

 

 未だ前置きと言える話をヴェーグマンは続ける。突拍子もない話が続くがこの場に集まっている人間は誰も怪訝な顔をしなかった。ディスプレイの内容が切り替わり、緑色の液体の中で体を丸めている裸の少女の写真と数値データが表示される。

 

「まずは新人類創生の方から話そうか。30年前からILL計画の一部として行われてきた遺伝子操作実験は15年前に数名の日本人によって世間に公表されることで壊滅的な打撃を受けた。ILL計画や我々のことにまで及ばなかったのは不幸中の幸いだったが、非人道的とされる実験を進めることが困難になったのは痛手だ。実験は6年前に“ISVS”というゲームが世に出るまで凍結せざるを得なかった」

「君の長い前置きはもういい。早く結果を話したまえ」

 

 この場の誰もが知っている話しかしないヴェーグマンに対して、痺れを切らすものが出始めた。ヴェーグマンはやれやれと肩をすくめて、話を飛ばすことにする。

 

「仮想世界で実験を開始して6年が経つ。2年前より仮想世界上での人類を生み出すことに成功し、現在に至るまで遺伝子操作を繰り返してきた。優秀な個体となる遺伝子配列を複数発見し、現在はそれら“遺伝子強化素体”を使って常人との戦闘データを集めている段階だ」

「遺伝子強化素体の“支配”のための兵隊としての価値はどうだ? 君の所見を述べてくれ」

「個体差が生まれているため、兵隊としてはまだ不安定といったところか。しかしながら、3体ほどヴァルキリーを凌駕するほどの性能を有しており、平均的に見てもISを手にしただけの常人では太刀打ちできないことは確実だろう」

 

 映像が切り替えられる。それはISVSでの戦闘の動画。弾丸やミサイル、光線が飛び交う戦場で一方的にISを打ち倒していく銀色の機体が映っていた。

 

「続いて“支配”のための力となるIll(イル)について話そう。IllとはISでもリミテッドでもないパワードスーツとでも思っておけばいい。篠ノ之束が開発したISコアを必要とせず、代わりに人の寿命を喰らう」

「それだけ聞くとISと比べて欠陥が目立つ代物に感じますね」

 

 Illのことを知らない男が口を挟むが、ヴェーグマンは表情を崩さずに淡々と答える。

 

「このコストは操縦者が払う必要はない。殺した者から奪えば良い。その様は人を捕食する怪物であり、抵抗する者の戦意を削ぐことにも繋がると考えている」

「なるほど。他に利点は量産の目処が立てられるということか?」

「そうだ。単機でもISを上回り、数でも圧倒する。そうして限られた数のISが支配するこの壊れた世界はようやく元の姿を思い出すことだろう」

 

 ヴェーグマンは全員の顔を見回して「話を続けても?」と問いかける。誰からも質問はこなかった。

 

「今映している映像は遺伝子強化素体“アドルフィーネ”が操縦するIll“Illuminant(イルミナント)”だ。Illの基本構造はISとは異なるが、装備など外装に関してはISの物を流用できるようになっている。イルミナントはISVSのトップランカーにもなっているFBI捜査官が使用する機体を模している」

「アメリカの2位の操縦者だな。なぜそのような装備に? あと、映像を見る限り、本物に遠く及ばないようだが」

 

 想定通りの質問にヴェーグマンは即答する。

 

「実験のため、と言いたいところだが、結局のところはただの嫌がらせだ。先ほど説明したようにIllは人の寿命、言い換えれば魂を喰らう。その結果、対象となったものは死に至るのだが、ISVS上でプレイヤーに対して行うと対象は死亡せず、魂だけ捕縛した状態となる。表向きは原因不明の昏睡状態となるわけだ。このことから実験を重ねる内に実験のことを嗅ぎつける輩が現れる可能性がある」

「つまりは囮にしたわけか。追っている者が大国の陰謀を疑うように仕向け、FBI捜査官本人の足止めも兼ねた、と」

「何度も言うが、ただの嫌がらせだ。効果はそれほどないだろう。ただ、少しでも時間が稼げれば、その間にIllの力はより強大となっていく」

「それで戦闘能力の方は?」

 

 2つの質問のもう片方の回答が急かされる。本物に遠く及ばないという指摘はヴェーグマンも理解していることだった。なぜならば、今見せている映像はイルミナントの本当の姿ではない。

 

「今見せている映像では私の目から見ても弱い。だが、イルミナントにとってISの装備は拘束具なのだ。その真の力はこんなものではない。もっとも、全力稼働の後は再びプレイヤーの魂を喰らう必要が出てくるため、現在は使用を控えさせている。現実での目処が立たないうちはリスクを抑えておきたいのは皆さんも同意できることだろう。映像の方は近い内にお見せできるかと思う」

 

 今はまだ見せない。Illの戦闘能力についてはヴェーグマンの口頭だけで報告が終了する。

 

 会議が終了。集まっていた者たちは次々と退席し、最後にヴェーグマンとスーツを扇情的に着こなしている女性だけが残される。女性が残っていた理由は個人的に聞きたいことがあったからだった。

 

「ぶっちゃけた話、現実で適用できるのはいつのことなのかしら?」

「15年前までの実験の成果として遺伝子強化素体にはもう世に出ている個体もある。設備はすぐに用意でき、既に人間生活に溶け込んでいるであろう個体よりも優秀な個体は1年もあれば量産に移れる。Illに関しては魂の調達が仮想世界と比べて容易となる。ただし、行動に移れば目立つことは間違いないため、量産から魂の収集、全世界の制圧を一息で行う必要がある。これで満足か? ミス・ミューゼル」

「ええ。正直者で嬉しい限りだわ」

 

 実直なヴェーグマンの回答に満足したスコール・ミューゼルはヒールを鳴らしながら会議室を後にした。ヴェーグマンは一人残される。既に彼の思考は計画をどう進めるかに絞られており、ぶつぶつと独り言を漏らしていた。すると、唐突にヴェーグマンのポケットから声が発された。

 

『博士ーっ! ちょっと聞いてよ!』

「どうした、アドルフィーネ?」

 

 携帯端末を取り出すと、ディスプレイには長い銀髪の美女が映し出されていた。服装はビキニの水着と変わらない布面積であったが、ヴェーグマンは少しも動揺しない。アドルフィーネと呼ばれた端末の中の女性はセクシーな外見とは裏腹に言葉遣いはどこか幼かった。

 

『なんかね、テキトーに遊ぼうとしてたら、ムカつく奴がいてさー。人間の分際でフィーの翼を切り取っちゃったんだよ!』

「それは驚いた。まさかとは思うがランカーと戦ったのか?」

『違うよー。フィーはそこまでバカじゃないもん。でもイラっとして、つい本気を出しちゃった。博士にダメって言われてたのに、お腹減ったから食べちゃった』

 

 画面の中で落ち込む銀髪の女性、アドルフィーネにヴェーグマンは優しく語りかける。

 

「元気を出すんだ、アドルフィーネ。ダメだなどと叱るはずもない。お前が無事であることの方が大切だ」

『博士……うん! ありがとう、博士! フィーね、これからも頑張るから!』

「そうか。ならば、アドルフィーネに頼みたいことがある」

 

 パーっと顔を明るくする画面上の女性はまるで少女だった。そんな彼女にヴェーグマンは次なる指示を下す。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。