遠くの景色を眺めれば陽炎が見える。耳を澄ませば煩わしい蝉の鳴き声が聞える。殺人的な紫外線から避難しても尚茹だる体を縁側の柱に傾ける。
「夏だなぁ」
と、暢気に感想を口にすると喉が渇いた気がした。
手に持った硝子瓶を咥えると喉へしゅわしゅわとした甘い炭酸が通っていく。嚥下すればなんとも言えない爽快な刺激が駆け巡る。
あぁ、実に爽快感があるが、喉は潤うどころか更に渇きを増す。
炭酸では満たされないのはなんでなんだろうな。子供の頃からの疑問だ。
お替りの一口を欲して硝子瓶を更に上へ傾ける。
無情にも一滴を舌へ垂れるだけで終わった。残念。
「やっばり夏は麦茶の方がいいな」
炭酸系統の清涼飲料水は偶に飲むからいいのであって、常用は向かないなと個人的に思う。それに比べて麦茶は完璧だ。飽きが来ない。夏の飲み物を一年中飲んでいるから秋が来ない。
ふっ、いまいちだな。
仕様もない駄洒落を考えながらふと硝子瓶を日差しに翳す。
硝子瓶の底を覗けば透けて煌びやかな光が映り込む。虹色の玉模様が綺麗だ。本当に仕様もないのにこういったふとした光景に心奪われるのはなんでなんだろうね。
「御機嫌よう」
硝子瓶から目を離すと正面に彼女が立っていた。
風見さん。綺麗な美人だけど幼稚な悪戯する困った人。
「うっす、久し振りでっす」
「ええ、そうなるのかしら」
祖父から向日葵郷を受け継いでから三年。
今年は数多の実家から来る催促によりに年末には帰省していたから半年振りの再会であった。
背まで伸ばした翡翠色の豊かな髪を揺らし、紅玉の様な瞳は向日葵の方へ向けられている。まるで避暑地へ訪れに来た深窓の令嬢のようだ。
黙っていれば、と言葉がつくが。
彼女は差していた白い日傘を畳むと自然に隣へ座る。狭くはない縁側なのだが距離感が近い。女性経験が学生の頃で止まっている俺には危険な距離感だ。
何がやばいって仄かに香る女性の匂いがやばい。
そんな俺の状況を知っていて理性を試しているのか、より距離が近くなり触れるか触れないか微妙な距離感まで詰めて来る。
多分知っていて反応を楽しんでいるのだろう。その証拠に目元が緩んでいる気がする。
「なにしてたの?」
「え、ああ、硝子瓶の底を眺めて光の屈折を楽しんでたんですよ」
「なんだか暗い嗜好ね。あらあら根暗さんなのかしら」
「今年も毒舌が冴え渡ってますね」
口許に掌を当て、困った表情を作っている。
明らかに業とらしい。思わずむっとなってしまう。美人でも許されない事はあるんだよなぁ。
えーい、そっちがそうならばこっちはもう無視だ、無視。
「ふふっ、怒った?」
口を"へ"の字に曲げて、断固沈黙を守る。
「えい、えい」
頬を指で突かれても気にしない。俺は鉄の男だ。
何も反応を残さぬままつんつん突かれると風見さんは手を引っ込める。どうやら諦めたようだ。
「ねぇ?」
と、思ってたらまた呼ばれる。
反応しそうになるも我慢を突き通す。もう意地になっていた。
「こっちを向いて、太陽」
「……こういう時ばかり名前を呼ぶのはずるい」
「だから呼ぶの。女の子はいけずなのです」
女の子はいけず。俺、覚えた。
それから互いにくすりと笑ってから無言の時間が続く。ただ同じ風景を眺めて、蝉の鳴き声を聞いて、時折吹く風に涼やかさを感じるだけ。
「で、どうしたの」
唐突に風見さんが問う。その声は妙に優しげであった。
「どうしたも何もないですよ」
「本当かしら。いえ、嘘ね。何を隠してるの」
「だから何も……」
「太陽。本当の事を言ってごらんなさい」
「本当にずるいですよ。こういう時ばかり名前を」
「いけずですから」
観念した俺は胸の内に秘めていた事を語りだした。
それは帰省中の事。祖父の三回忌が過ぎていたのを両親に知らされたのが発端だった。
「ただそれだけの話なんですけど、なんとなくしんみりとした気持ちになったというか」
「ええ。そういう時もあるわ」
「なんとなく爺ちゃんが亡くなってから三年も経ってるんだなって」
「そう」
「不思議な話だけど今でも家の何処かに居る気がするんだ。ふとね居間とか縁側とか、あとはそうだな向日葵の世話してそうだなとか。本当に変な話だよ」
「……そうね」
「でも心の中じゃ分かってるんだ。此処ではもう会えないって、何処に行っても見付からないってさ」
会話が止まる。
こうなる事は分かっていた。分かっていたから話したくはなかった。
風見さんとの時間は俺にとって大切なものだからこんな雰囲気にしたくなかった。胸の内に秘めていればいいのに態々口にしなくともいいのに誰かに聞いて欲しいのはなんなんだろう。
きっと彼女には嫌な思いをさせてしまった。
そんな後悔に気持ちを沈ませていくと
「ねぇ、太陽」
風見さんが暗い沈んだ静寂を破る。
「優しいのね、あなた」
「へ?」
「居なくなった人をそういう風に想えるのは優しさの証拠よ。普通はね段々と想い出と共に消化して忘れていくのよ。風化するように少しずつ少しずつ記憶を奥底へ溶かしていくの。別れって辛い事だから」
そういう風見さん記憶にある別れを憂う様な表情をしていた。
「でもね太陽。忘れてあげないのも駄目よ。執着は死者に未練を残すわ。だからね――」
言葉を切ると彼女は右手を此方へ差し出し、指を鳴らす。
するといつの間にか手には一輪の花が握られていた。紫色の花弁をした花だ。
「変わらぬ心、途切れぬ記憶は投げ捨てるの!」
「えぇ~!!」
花を投げ捨てる風見さん。思わず驚きの声が漏れる。
全ての花をこよなく愛すと言っている彼女がこんな蛮行に及ぶとは。
「死者を偲ぶのは年に一度でいい。生者は生者と新たな思い出を作るのが一番ね」
そう言って彼女は微笑む。
慰めの言葉を頂いた俺はどこか吹っ切れた気分だった。というか珍しいものを見てどうでもよくなったというべきか。
先程までセンチメンタルになっていたのが馬鹿らしい。
「そうだ風見さん、写真撮ろうよ」
「写真ってお祖父さんと一緒に撮ったやつ?」
「うん、それそれ」
早速とばかりに風見さんの言葉を習う。
納屋から写真機を取り出してくる。細かい設定とかは前に祖父から聞き及んでいるから大丈夫だ。多分。
「じゃあ、撮るよ!」
風見さんはひらりと片手を上げる。準備は整っている合図だ。
写真機のスイッチを入れ小走りで彼女の横に並ぶ。
三年前と変わらない拡散した光が駆け巡った。
■
色彩鮮やかな花たちに囲まれた部屋の一室。その窓際には写真が飾られている。
小さい額縁の中心にはとても美しい少女と普通の男の写真があった。晴天の空の下に沢山の向日葵を背景にして彼らは幸福そうに微笑んでいた。
そしてこの写真には秘密がある。
額縁の下。写真の裏側に書かれた秘密の言葉。
『薔薇の花言葉を添えて』
紫色の花弁の花はスターチス
花言葉は風見さんが投げ捨ててます