悪運の女将校   作:えいとろーる

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黒猫と受難

 …最悪の気分だ。

 

 あのゴム小僧に負けてからの数日間、俺は陰鬱な日々をベッドの上で過ごしていた。

 頭突き…だったと思う。俺の両手足を拘束した状態で首をこれ以上無いと言うほどに伸ばし、その反動で返ってきて俺の頭を吹き飛ばす瞬間が今でも脳裏に焼きついている。

 

 あれを食らって気絶した俺は、クソほども役に立たなかった部下達によって船に運び込まれ、命からがらあの島を脱出したらしい。

 しかし、忌まわしき麦わらの攻撃によって船の全てを支える竜骨がもぎ取られたらしく、出港後船はすぐにバランスを欠いてあの村のある島から少しだけ離れた無人島に船は座礁し、完全に孤島に取り残されてしまった。

 

 …本当に、ついてねぇよ。

 本来の俺の計画ならば、今頃はカヤお嬢様の家や土地、財産の全てまで俺の物になっていた筈なのに、今や金も名声も、栄光すら失ってしまった。

 全てはあの麦わらのせいだ。

 

「あ…あの…C・クロ…お加減の方はどうですか?」

 

「…悪くない」

 

 思考の途中で船室の扉を叩く音が響き、少し遅れて部下の声が聞こえてきた。 一度は俺を裏切ったクソ共だが、気絶している間に俺を殺さず、こうしてキャプテンと呼んでいるのは、俺への恐怖で剣を握ることもできなかったか、それともまだ雀の涙ほどの忠誠心が残っていたのか、どちらかはわからないが、どちらにせよまだ俺の計画のために働く気があるのならどうでも良いことだ。

 

 とにかく、こうして生きながらえ、まだ海の真ん中にいる。しかし、これから先の人生は俺が求め続けた平穏な日々はもう望めないだろう。

 結局カヤお嬢様もあの羊も殺し損ねたようだし、麦わらの一味以外にも長鼻やガキどもにまで俺の正体を知られてしまった。おそらく海軍にも通報がすでに行っていることだろう。事実上身代わりがばれてしまった以上、今度また身代わりを使っても顔の照合によって確実にばれてしまう。

 もはや俺の計画は跡形もなく消し飛んでしまった。

 

 今の俺に残された選択肢は三つだ。一つ、おとなしく海軍に自首し、処刑を待つ。二つ、カヤお嬢様のお人好しにもう一度つけこんで通報を誤報としてもらう。三つ、再び海賊に戻って麦わらを追い、仕留める。おそらくはこの三つの選択肢しか無い。

 

 普通に考えて、選択肢の一つ目と二つ目はあり得ない。なんでこの俺がわざわざ海軍に捕まってやらなければならない、どうしてあの世間知らずの田舎娘に頭を垂れなければならない。そんな屈辱、文字通り死んでもごめんだ。ならばやることは一つしかない。

 

 あの忌まわしきゴム人間への復讐…!

 

 一度は辞めた海賊とはいえ、あんなクソガキになめられたまま残りの人生を過ごすことなど、この俺には到底できない。俺は百計のクロ。かつてはこの海に名を轟かせた海賊だ。あんなゴミに俺を否定されたままでは終われない。それに奴に敗北した理由もすでに分かっている。それは紛れもなく、平和ボケしたあの村でのほほんと暮らしたことによるブランクだ。あの時はニャーバンブラザーズのような雑魚で足の具合を図ったのが間違いだった。

 

 この島を出て奴らに追いつくまでに海賊船や海軍の船の五、六隻も落とせばそのうちブランクも抜けるだろう。そうしたら今度こそあのゴム人間をこの猫の手で八つ裂きにしてやる。

 

「晩飯…ここに置いておきますから…」

 

「待て」

 

 朝食を持ってきていたらしいさっきの部下を引き止め、一つの命令を出す。

 

「乗組員全員、浜辺に集合させろ。五分以内だ」

 

「へ…へいっ!!」

 

 扉の向こうから慌てて遠ざかる足音が聞こえた。

 まずは俺の『クロネコ海賊団』を復活させ、この辺りを通る船を襲わせて船を奪い、改めて帆を掲げてこの海に俺の名を轟かせるのだ。

 

「…五分だ」

 

 腰掛けていたベッドから身体を持ち上げ、傾いた船室から出て、船の甲板に向かう。五分以内に集合の命令はクズどもに伝わっただろうか、いや、伝わっていなくても構わない。遅れてきた奴は見せしめに殺してやろう。そうすればあの能無し共もまともに働く気になるだろう。

 

 船室から甲板へ出る扉を開けると、夜霧が漂う中を松明の揺れる光が浜辺から船と我が旗印を照らしていた。どうやら全員が浜辺に揃って整列しているようだ。見せしめがいないのは少々残念だが、あいつらは命令を遵守した。わざわざ殺す必要もないだろう。

 

「…今宵は新月だ」

 

 浜辺から甲板に立つ俺を見上げる部下共を見下ろし、ゆっくりと話を始める。

 

「こんな夜は血が騒ぐ。月が隠れれば黒猫が通る…昔はよく言われたものだな」

 

「こいつに乗って夜霧と闇に紛れ、音も無く近づき、船に乗る敵全員を血に染めた海に浮かべる」

 

「それが俺達、クロネコ海賊団…だったな」

 

 ぽつり、ぽつりと紡ぐ俺の声に、何人かの部下が怪訝な顔を浮かべ、隣のやつと顔を見合わせている。ニャーバンブラザーズのシャムはなんとなく俺が言いたいことを察し始めたのか、ごくりと唾を飲むのが見えた。

 

「今日を持って、俺は再び海に戻る。新生クロネコ海賊団として、再びこの海に悪魔の黒猫を蘇らせるつもりだ」

 

 ここまで話して漸く部下たちの顔色が変わった。

 

「あの…それってつまり…」

 

「再起だ」

 

 聞き返してきた部下に答えると、部下共は一斉にざわつき、互いに顔を見合わせている。

 

『……ぉ』

 

 晩飯を運んで来た男が俯き、拳を握って呻いた。

 

『…おぉ…!』

 

 呻きは部下共の間に伝播し、徐々に力強くなっていく。

 

『おぉぉぉぉ…!!』

 

 一人、また一人と剣や銃など、己の獲物を抜き、天に突き上げて声を上げる。

 

『オォォォォォォォォ!!!』

 

 やがて呻きから始まった声はその場にいるクロネコ海賊団、総勢58名の巨大な鬨の声となって響いた。

 …こいつら、俺が海賊のこういうところが嫌いだってことを完全に忘れてやがる…。だが、今奴らが騒ぐ気持ちも分からんわけではない。今回は特例として許してやろう。

 

『おぉぉぉぉ…ん?なんの音だ?』

 

 やかましく続いていた鬨の声が収束し始めると、部下の数人が辺りを見回して何事か言い始めた。

 耳をすませてみると、確かに鬨の声に混じって何か、空気を裂くような音が微かに耳に入ってきた。

 

 …いつか聞いた事のある音だ。久しく聞かなかったが…これは…三年前はよく聞いた…。

 

『砲撃だァ!!!』

 

 出し抜けに放たれた声に弾かれて見上げると、鎖か何かで二つ繋がれた砲弾が、もう目と鼻の先に迫っていた。

 

「なっ!?」

 

 直後、浜辺に立つ部下達と我が船に、鋼鉄の砲弾が無慈悲に降り注いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ♦︎

 

「…全弾命中!敵海賊船のメインマスト、二番マストの破壊を確認!流石です少佐!」

 

「まだだ!前部甲板砲、後部甲板砲焼夷弾装填急げ!中央右舷砲はそのまま装填出来次第、同射角で砲撃!」

 

 メインマストの見張り台で敵船の損害を確認すると、エヴァ少佐の次弾装填の命令が下り、眼下の甲板は慌ただしく作業に追われている。

 

「ベルトルト!さっさと下りてこい!観測はもう必要ねぇだろ、装填手伝え!」

 

「いよいよ誰だよ!?俺の名はブレンダンだ!」

 

 甲板から相変わらず誤字だらけの名前を呼ばれ、キレながらマストから飛び降りて。なぜか一瞬巨人族のような体躯をした全身の皮膚が剥がれたような生物が頭に浮かんだが、多分疲れているせいだろう。

 

 …それにしてもリード少佐は相変わらず恐ろしい人だ。俺たちが153支部を出港してから今日で一週間だが、わずかそれだけの間に沈めた海賊船の数はなんと六隻。いくら東の海の有力な海賊達がひしめき合う海だとはいえ、僅か一週間の間の沈めたと考えれば、凄まじい戦果だ。

 どれもこれも、リード少佐が直々に改造案を提出したこの船と、少佐の直感によるものだ。

 

 元はと言えばこの船は、少佐が十四歳で最初に部隊に配属された時から乗っている船であり、一年前に海賊達との戦いに不備を感じた少佐が直々に改造案を書き、工兵部に相談した上で作成されたものだ。具体的には使用する砲の改造と、砲門の増設だ。

 

 普通の砲弾しか撃てない砲身を、提案を承認した親バk…いや、部下思いの支部長がありとあらゆる弾を撃てるような砲身に変え、さらに普通なら右舷と左舷に三つずつしか搭載出来ない砲を、さらに両舷に四つ増設し、前部、後部甲板にも砲門を三門ずつ搭載、船首にはリード少佐の功績が認められ、本部基地からガープ中将を通して半年前に贈られた秘密兵器が一門設置されている。船の大きさは劣るものの、火力は本部軍艦にも劣らない立派なバケモノだ。

 

 これまでの戦闘も、今回同様、こいつの一斉射撃での決着だった。しかし、それ以上にこの船の戦闘を支えるのはリード少佐の驚異的な直感だ。

 

 少佐が何も見えない水平線に向かって突然『海賊の匂いがする』と言って、それに合わせて俺たちが砲撃準備を整えると、少佐の言った通りに海賊船が水平線上に現れるのだ。

 

 あとは既に準備を済ませている砲撃を海賊船の頭上に降らせるだけの簡単なお仕事。今回も、少佐の直感に従い、近郊の無人島に近づいてみると、今や船長の『百計のクロ』を失い、酷く落ちぶれた海賊として名を聞く『クロネコ海賊団』の旗印が浜からの篝火で煌々と照らされていた。

 

 少佐の海賊に対する直感は、本当に恐ろしさすら感じる。うちの船よりも島の近くで同じく砲撃を行っているリッパー中佐の一番船は、何もせず手に入れてしまう勝利に、肩身の狭い思いをしているに違いない。

 

「リード少佐!一番船のリッパー中佐から入電!一番船は砲撃を取りやめ、かの島に上陸、敵残存勢力を全て捕縛する。との事です!」

 

 船室から通信士が飛び出し、少佐に告げると、船内がたちまちざわついた。見れば少佐の表情も心なしか険しくなっているようだった。それもそのはず、少佐がいつも上陸戦の命令を下す時は、敵の勢力を砲撃で出来るだけ減らしてから初めて命令が下る。これは戦闘の被害をなるべく減らすためだ。

 

 しかし、今回はあまりにも早すぎる。今はまだ鎖弾と火炎弾をせいぜい三十発撃ち込んだ程度だ。これでも通常の海賊船であれば十分撃沈出来る火力ではあるが、今回のように逃げ場の多い島に陣を張った海賊の場合しっかりと狙って、確実に戦力を減らしてから行うのが定石だ。

 

「くそっ!あの間抜け、少佐に手柄を取られると思って焦りやがったな!」

 

「少佐!我々はいかがいたしましょう!?」

 

 口の悪い砲長が悪態を吐き、副官が酷く焦った様子で船尾楼に立つ少佐に指示を求めた。

 

「…面舵一杯!前部甲板砲にて一番船が島に着くまで援護しながら我々も島に接近!味方には当てるな!」

 

『了解!』

 

 険しい表情のまま下された命令に、前部砲兵以外の乗組員が武器を取り、戦闘準備を整える。今回の相手が、今や弱体化したとはいえかつてはこの海に名を馳せた『クロネコ海賊団』であるからか、少佐の表情はいつもより険しい。

 

 しかし、それは俺たちも同じ事。これから戦うクロネコ海賊団は今まで出会ってきたどの海賊よりも強いだろう。気を引き締めてかからねば死ぬのはこちらかもしれない。

 

 自分の獲物であるカトラスと、少量の爆薬を腰に携え、メインマストに登る。すると、一番船が着岸し、ボートに乗り換えた153支部の海兵達が鬨の声を上げながら飛び出して行くのが見えた。それに合わせてこの船の甲板からの砲撃も止み、速力が増していく。この速度ならさほどの遅れも無く島に到着するだろう。

 

 軽い緊張で乾き始めている唾液を喉奥に押し込む。

 戦闘開始を待ち、戦闘の様子を確認しようと、双眼鏡に手を伸ばしたところで先ほどの砲撃の火炎がまだ残る浜辺に異変が起こっていることに気がついた。

 

 戦闘音が…しない…?

 

 浜は全くの無音だった。つい先ほどまで雪崩れ込んだ一番船の部隊の猛ける声が響いてきていたというのに、いつの間にか浜からは一切の音が消え去り、辺りにはこの船が海を割る音だけがむなしく響いている。

 

 訳がわからなかった。まさかもう鎮圧してしまったのか、否、万が一そうだとしたら、必ず少佐に連絡が行くはずだ。今回はそれがない。

 

 ならば、一体どうして?

 

 そんな疑問が頭を埋めていた。甲板も、どうやらそのことに気がついたらしく、何やらざわついている。動じていないのは少佐だけらしい。こんな時でも腕を組んでただじっと島を見つめていた。

 

 果たしてその答えはすぐに分かった。

 双眼鏡のレンズの先、揺らぐ炎の奥に何かがいる。それは一つや二つではない。無数の何かが地面に落ちていた。

 

 裂かれた青と白で彩られた布の間から見える肌色と布に滲んだ緋色。落ちたコートに大きく描かれた『正義』の文字。

 

 言うまでもなく、倒れていたのは、先に突入した一番船の船員達だった。

 

「リ…リード少佐!!」

 

「ボート降ろせ!ギルス大尉、残って砲兵十名を率いて何時でも援護出来る態勢を整えていてくれ。残りは私と上陸して一番船を救出する!」

 

 報告し終える前に、少佐は動き出した。島の状況を察したのか、甲板で戦闘体制を整えた兵達に、指示を出していく。

 

 再び覗いた双眼鏡の先の島では、倒れた海兵たちの側を誰かが歩いていた。黒い燕尾服に異常に長い指…いや、指に装着した剥き出しの刀身。そして炎に照らされ、はっきりと見えた眼鏡の奥に冷たく光る、冷酷さを秘めた鋭い眼光。

 

「…まさか…」

 

 俺はこの男を知っている。三年前に発行された新聞には毎日のように名前が載り、基地のあちこちに貼られた手配書に映っているあの冷酷な横顔。

 

「…あいつは…」

 

 三年前、この海を荒らし回り、『ノコギリのアーロン』『海賊艦隊首領・クリーク』と並び恐れられた海賊。

 

「百計の…クロ…?」

 

 そんなはずがない、あいつは三年前に捕まったはずだ。その時のニュースは俺も同僚たちと一緒に新聞で読んで知っている。

 まさか脱獄…?いや、『百計のクロ』程の海賊が野放しになったのならば必ず周辺海域に情報が送られ、厳戒態勢になるはずだ。

 

「そんなはずがない…」

 

 そんなはずがない。ただ俺は自分にそう言い聞かせ、メインマストから降りてボートに飛び乗った。…あの男は一体、何者なのだろうか、あの惨状は、あの男がやったのか。

 

 進むボートの中で、胸の奥に何か黒いものが渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ♦︎

 

 懐かしい香りだ。

 

 パチパチとオレンジ色の炎を上げ、木が焼ける香り。足元に転がる肉塊から溢れ出し、砂に沁みた、むせ返る血の香り。落ちた砲弾が上げる、特徴的な鉄が焼けた香り。どの香りも、一呼吸で鼻腔に入れる度に三年前を思い出す好みの香りだ。

 

 浜の中心に倒れこんだマストに腰掛け、その香りに包まれながら、麦わらにへし折られた猫の手の爪を外して海兵から奪い取った刀の刀身を付け替える。

 

 よし、これでいい。

 

 久しぶりに元に戻った両手の猫の手を軽く振り、具合を確かめる。以前のものより少し重い気がするが、まぁ取り回しに支障は出ない程度だ。問題はない。

 

 さて、折角俺が建てた計画だが、どうやら始まる前に頓挫してしまったようだ。こちらの部下は最初の砲撃でほぼほぼ壊滅。生き残った部下も虫の息か、身体のどこかしら一部が爆風で吹き飛び、無くなっている。

 

 ニャーバンブラザーズは流石にいちはやく察知し、避けたものの降り注いだ全ての砲弾から逃げ切れたわけではなく、大小様々な傷を負って気絶している。意識が戻っても使い物になるかどうか分からない。

 

「随分と…舐めた真似をしてくれるじゃないか…」

 

「ぐ…が…!」

 

 立ち上がり、足元に這い蹲った海軍の指揮官と思しき髭面の男の頭を踏み付ける。

 

「…だから海軍は嫌なんだ。取るに足らない虫けらの分際で俺がせっかく建てた計画に土足で踏み込んで荒らし回りやがって!」

 

「…ぐっ!?」

 

 鉄板入りの爪先が海兵の歯をへし折り、口内を荒らす。靴越しに歯が口内をカリカリと回る感覚が伝わって来る。

 

「おばえは…一体…?」

 

 血を口から溢れさせ、くぐもった声が足下から聞こえ、それっきりそいつは動かなくなった。

 さて、これからどうしたものか。面倒なことに、海軍の軍船はもう一隻来ているらしい。急いでニャーバンブラザーズや動ける奴らをかき集めても、流石に砲撃で沈められてしまうだろう。

 

 ならばどうするか。

 

 決まっている。のこのこ仲間を救いに来た奴らをここで皆殺しにして船を奪い、計画を元の軌道に戻すのだ。

 海に浮かぶ残りの海兵は、そこらじゅうに転がっている海兵共の死骸を気にして、大砲を撃ち込んで来ることは無い。海兵には海兵の肉の盾を使い、この場で思う存分に暴れられるというわけだ。

 

 歯という歯がへし折れた口内から夥しい血を流し、気絶して動かない海兵に近づいて右の猫の手をゆっくりと振り上げる。

 取るに足らない雑魚など、もう用は無い。

 気を失った海兵は、己が命の終わりに気がつくことなど無く、虚ろな目を空へ向けていた。

 

 海兵の素首を斬り落とそうと右手に力を入れた瞬間、俺の目に不思議なものが映った。ふらふらと揺れていた炎が一瞬激しく揺らぎ、中から長い何かを吐き出したのだ。

 吐き出されたそれは、俺の頰を掠め、まっすぐ振り上げた猫の手に直撃し、小指と薬指の刀身を半ばから砕いた。

 

「…櫂…だと…?」

 

 凄まじい速度で飛来し、俺の頰を浅く抉り猫の手をへし折ったのは船の櫂だった。ボートに使われるそれは浜の端に突き刺さり、周囲に衝撃で上がった砂煙を纏っている。

 

 下手人はすぐに分かった。

 揺らぐ炎の壁の先。もう一つの船から来るボートの船団の先頭に、炎に照らされた一人立つ影が見える。やけに背が小さいが…女か?

 

 頰の血を拭ったところで船が浅瀬で止まり、そいつが一人、降りて水の中をこちらへ歩いてくる。

 

「…なんだ、貴様は?」

 

「海軍153支部少佐、エヴァ・リード」

 

 炎の間を抜け、そいつは俺の前に立った。

 炎が映る青い眼を俺に向けたその女、エヴァ・リード、そういえば聞いたことがある。執事をやっていた時、カヤお嬢様が興奮しながら持ってくる新聞には、必ずこいつの名前が中心に載っていた。

 

 確か、女将校でありながら、東の海で最強と評される海兵だ。幼くして海軍に入って以来、僅か数年の間に、この海で最も多くの功積を挙げた者だと聞いている。

 

「…俺に、何か用か?」

 

「この島、この浜の状況を見れば、私が何をしに来たかなど、聞くまでもないはずだが?」

 

 なるほど、噂に違わない堂々ぶりだ。俺を目の前にし、殺気を当てても表情に揺らぎは無く、もはや自然体といっても過言ではない立ち姿でありながら、その一挙手一投足には一切の油断を感じさせない。普通の海兵どもとは明らかに数段格が違う。こちらの油断が、一瞬の命取りとなりかねない、恐ろしい雰囲気を小さなエヴァ・リードは放っていた。

 

 しかし、あまりにも考えが短絡的すぎる。持て囃されても所詮はガキという事か、言うに事欠いて実力の差も介せず俺を捕らえるとは、よくもほざいたものだ。この浜の状態はもはや死屍累々。俺の部下と海兵が折り重なるようにして倒れている。それぞれこいつらの砲撃によるものと、俺が斬り捨てた者達だが、こいつは要するに俺の首を取ることで落とし前を付けようと言うのだろう。

 

「…なるほど、どいつもこいつも、舐められたものだ」

 

「舐めてなどいないさ。お前ほどの相手を前に、油断など、それこそ命取りだ」

 

 …やはり、俺の身代わりは既に海軍に伝わっていたか。大方話を聞いたあの島の住民が通報したのだろうが、どうにも先ほど始末した奴らは俺の事を知らなかった様に見えたが、目の前に立つこいつは俺の正体を知っているらしい。

 

 一体どういうことなんだ、政府が俺の存在を隠す必要性は考えられない。手配書の再発行でもなんでもすればいいだけだ、まさかこいつにのみ俺の存在を知らせていると言う訳ではないだろう。

 

 となると、俺が百計のクロだと気が付いたのは、こいつと、ボートに乗る雑魚共だけと言うことになる。

 

 ならば、こいつらを殺せば良いだけだ。

 

「まぁいい、お前は、今まで見たことがあるか?」

 

「…?」

 

 俺の問いに、奴が首を傾げる。そう、この海には、今までこの海の端で雑魚ばかりを相手にしてのぼせ上がったバカ女には、まだ見たことが無い世界がある。

 

「幾度となく死線を越えた、海賊の恐ろしさを」

 

 言い終え、奴の顔が強張った瞬間、脚に力を込め、浜を蹴る。

 

 いつしか『抜き脚』と呼ばれるようになったこの脚技を放つと、俺の目に映る世界は極端に遅くなる。

 空を舞う蜂が人間の手をすり抜ける時に見ているものは、おそらく俺が今見ている世界と似ているのだろう。あまりにも速過ぎる者が見る世界は、他全ての動きがもはや止まって見えるのだ。

 

 今目の前で間抜け面を晒す海軍の英雄も、俺から見れば他の有象無象と何も変わらない。一瞬合った奴の目を置き去りに奴の背後に回り込み、振り向きざまに折られた猫の手を首がある場所目掛けて振る。

 

 殺った。

 

 元々俺の速度についてこれる者など居るはずがない。

 

 どんな肩書きがあろうと、俺の足の前ではーーー。

 

 確信した勝利の味。猫の手から伝わる肉を裂く感触と、浴びる温かな女の血を持って味わうはずだったそれは、いつまで経っても訪れない。

 

 …?

 

 俺の世界、俺の目に映っているのは、振り切った俺の腕と、二本折れてしまった猫の手。

 

 

 エヴァ・リードは、居ない。

 

 何処に?

 

 消えた女の影を探す俺の目の前に、周囲を覆う炎の影とは明らかに異質な黒い何かが舞っていた。

 

 これは…髪?

 

 黒い何かの正体を知った瞬間、俺の背筋に冷たい刃を刺し入れられた様な気がした。

 

『拳・骨…』

 

 奴の声が、視界の遥か下から響く。

 

 咄嗟に下へ目を動かすと、奴はそこにいた。

 

 小さな身体を圧縮するかのように膝を折り、全身を巻き込むように身体を捻っている。それでいてあの青い瞳は、射殺さんばかりに俺へと向いている。そして奴の右腕は、まるで放たれるのを待つ矢の如く、背中まで引かれていた。

 

『…昇竜!!』

 

 空気を裂く様な声が響き、奴は再び俺の世界から消えた。

 

 奴が消えたと同時に、もう一つ不思議な事が起こった。地面が消えたのだ。何時の間にか上を向いていた俺の目は、飛び散る赤い液体と自分の身体が地面から離れ、天に昇って行くのを理解した。

 

 しかし、天へ昇っていたのは一瞬のことで、今度はそのままの姿勢で地面へと落ちていく。下を向いた目が、少し離れた地面に立つエヴァ・リードを捉えた。

 

 ようやく見つけた。右の猫の手で斬り裂くため、腕を動かそうとするが、何故か右腕は俺の身体ではないかのように、全く動かない。

 

 その間にもエヴァ・リードが立つ地面はどんどん近づいてくる。奴はまた妙な体勢になっていた。

 

 少し下がった右膝を軽く曲げ、赤く染まった右拳を肩のあたりまで引き絞っている。

 

『拳・骨…』

 

 再び聞こえた奴の声。聞こえると同時に俺の顎に激痛が走った。耐え難い激痛に顎を抑えようとしても、腕は全く動かない。顎の筋肉を動かすと、耳障りなじゃりじゃりという音が耳に響いた。

 

 全く動けないまま、ほとんど目の前にエヴァ・リードが現れる。既に拳は放たれ、俺の眼前にまで迫っている。

 

 よく見ればやはり幼い。小さい身長に、面白味の無い身体。これでは、生け捕りにしたとしても何も楽しめな……

 

『破岩!!』

 

 最期に見えたのは俺だけの世界を塗りつぶす綺麗な肌の拳。

 

 その光景を最期に、今度は世界を闇が覆った。


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