悪運の女将校   作:えいとろーる

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日常と訓練

『モルモルモルモル…』

 

陸にいる時の私の朝は、いつもこの形容しがたい声から始まる。まだ空に太陽は浮かばず、わずかに白み始めた頃、ベッドで眠る私の耳元でこの声が優しく目覚めを促すのだ。その声に応え、私はまだまどろみの中にいる意識を無理やり起こして右手を上げ、電気スタンドの台に居る声の主に振り下ろす。

 

『んがきゃっ!』

 

今日はだいぶ強めに振り下ろしてしまった私の手に、短い悲鳴とぬるっとしたような、むにゅっとしたような、声と同じく形容しがたい感触が伝わってくる。

 

「今日もごめんねエスカルさん…」

 

まだぼんやりする頭をベッドの上で軽く振って身体を起こし、先ほどの声の主を両手で持って謝罪する。しっかり下げた頭を上げると、目の前にはいつも通りのにやけ顏をむくれ顔にしたエスカルさんこと私の愛電伝虫がそっぽを向いて立っていた。いや、彼らの場合立っていたって表現はおかしいのかもしれないが、この際、気にする必要はないだろう。

 

「ごめんね、これあげるから許して」

 

むくれ顔のまま全く目を合わせてくれないエスカルさんに引き出しの中から干しリンゴが入った小瓶を取り出し、中身を一つ取り出してチラつかせると、片目だけこちらに向けて様子を伺っているようだ。

 

「はい、あーん」

 

その様子を確認し、口元に干しリンゴを近づけると偉そうな顔でこちらを見てからそれを咥え、満足そうに咀嚼した。うむ、今日も可愛い。ピンクの殻にオレンジの体というアンバランスが堪らない。

 

「許してくれる?」

 

機嫌が直ったところで尋ねるとエスカルさんはまるで上司か何かのような態度で大仰に頷き、目を閉じて眠り始めた。

眠ったエスカルさんを再び電気スタンドの台座に戻し、ふとベッド脇から視線を感じてそちらに目をやるとどうやら干しリンゴの匂いで起きたらしい子電伝虫のカルゴ君が物欲しそうにこちらを見ている。

 

ひたすらに私が手に持っている干しリンゴの小瓶に熱い視線を送るカルゴ君に一人苦笑し、リンゴの欠片を与えると、彼もまた満足そうに食べ、再び眠りについた。

 

 

私の一日はこのエスカルさんとカルゴ君のコンビによって起こしてもらうことで始まる。

いつも同じ早朝にカルゴ君はエスカルさんに電波を飛ばし、それに反応したエスカルさんが私の耳元で着信を知らせる。その声で私は目覚めるのだ。

 

エスカルさんとカルゴ君は私が元いた基地から連れてきた貴重な仲間だ。エスカルさんは私が九歳の誕生日にガープ中将がくれた。曰く彼らの年齢では私より少し年上らしく、なぜか妙に態度が大きいため、私は常にさん付けで呼んでいる。エスカルさんは主に私を起こすという任務に就いており、時々眠りが深く、寝ぼけた私にチョップされている。本当に申し訳ない。

 

そしてカルゴ君は入隊と同時に軍から支給された子電伝虫で、私の初めての部下のような存在だ。彼の任務はエスカルさんと同じ私を起こす事に加え、作戦行動中は私の胸元で現場指揮を出すための連絡役としての任務に就いている。体色は青みがかった灰色の殻に白黒の斑模様の体をしており、海軍の制服に自然と溶け込む体色をしている。

 

そんな彼らの朝食を済ませたところで長い髪を一つに結び、顔を洗って訓練用の運動着に着替える。それが終わると今度は鏡の前でいつもの仏頂面を少しでも柔らかくするため顔面にマッサージを施す。

 

うむ、変わらん。

 

毎日やってるのにほとんど変わらないこの顔に早々に見切りをつけて部屋を出る。

昨日割り当てられた部屋を出ると、まだ日も昇らない早朝だと言うのに何人かの海兵や文官が忙しなく廊下を歩いている姿がちらほらと見える。

 

その中を抜けて階段を降り、外にある訓練用のグラウンドに出ると訓練兵達が統率された動きで剣を振るっており、そのうちの何人かが私に気がつくと、こちらに向けて丁寧に頭を下げた。

その光景に懐かしさを感じつつ、自分も毎朝の訓練を兼ねたランニングに出るため、脚を軽く動かしながら軽く手を振って礼に答える。とりあえず今日は昨日通ってきた町を少し見て回り、その後は適当に人がこなそうな空き地を見つけて自己訓練を行う。そしていい感じにお腹がすいてきたら戻って朝ご飯を食べる。

 

昨日確信したのだが、この基地の給仕長さんは間違いなく遣り手だ。今まで遠征や会合などで幾つもの他の支部にお邪魔して宴会なども経験したが、昨日ご馳走になった料理は今までの軍の料理とは比較にならないほどの味だった。思わずついつい箸が進み食べ過ぎてしまった気もするが、ゆっくり食べたし、ちゃんときれいに食べれたから大丈夫のはずだ。

 

今朝の簡単な訓練プランを立て、昨日の料理と今日の朝食に想いを馳せる。

あ、やばい。すでに少しお腹すいてきた。

 

軽い伸脚で膝の裏を伸ばし、足首を回して寝起きで固まった関節を柔らかくほぐす。今回、この島に来るまでの航海では目立った戦闘も無く、運動することもなかったため、やはり若干いつもより筋肉が硬くなってしまっている。

 

十分に下半身と腰の筋肉を柔らかくほぐして準備ができたところでゆっくりと走り出す。長い船旅であまり激しく動かす事が出来なかった身体が徐々に目覚めていくのを感じる。

基地を抜け、町を走っていると漁から帰ってきたところの漁師さんや朝早くから水仕事を始めているお母さん達が笑顔で手を上げたり頭を下げたり多様な挨拶を向けてくれる。

 

中佐さん曰く、前大佐が捕まった後、悪化した市民のイメージを払拭するため、必死でメシ抜きでの慈善事業に勤しんだらしい。加えて彼らは私がここに着任する事を例によって噂付きで町の住民に話していたらしく、相変わらず過剰な期待を向けられてしまっているようだ。

 

しかし、当然そんな期待に満ちた眼差しに耐えられる私では無く、怪しまれないレベルで走る速度を上げ、何とか笑顔を浮かべて挨拶を返して駆け抜けた。ごめんよおっちゃん、おばちゃん。

 

住民達の熱い視線から半ば逃れるように走りながら町を抜けると、小さな森に出た。道の先を見ると、どうやらこの道の先は遠くに見える山に繋がっているらしい。

まだ、朝早い時間だし、少し全力で走っても大丈夫だろう。

 

ちなみに私の唯一の自慢は足が速い事だ。そのお陰で『最速の海兵』とか呼ばれてしまっている。

正直これに関しては、ネーミング的に恥ずかしい事には恥ずかしいのだが、他の二つ名と比べれば然程嫌に感じてはいない。

 

何故ならこの速さは、修行時代の私が実際に死ぬ思いで手に入れた私の唯一の強みであり、今まで誰にも負けた事が無いという、本当にたった一つ自慢できる事だからだ。

 

まぁ、実際には闘うためじゃなくて出来るだけ早く、遠くに逃げたいが為に必死で訓練した結果、身についたものなんだけどね。それでも実際に脚だけなら誰よりも早い自信はある。今まで実際に戦った海賊達は全て小物しかいなかったが、その中の誰も、私の動きについて来れるものはいなかった。

 

まぁ、私の船での戦闘は大砲での砲撃戦がメインであるため、乗り込んだり、乗り込まれたりして行うほぼ戦闘はないと言って良い。

 

だって実際に海賊と接近戦で殴り合うとかめちゃめちゃ怖いからね。こっちはか弱い十八の女の子なのに奴らは容赦なしに襲って来る。それに時々、性的に襲いかかって来る者がいるのがもう恐ろしすぎてその日の夜は部屋で布団にくるまって震えたものだ。当然、頭にガープ中将直伝の拳骨を纏めて十発ほどお見舞いしてやったが、何故か倒れる瞬間まで幸せそうな笑みを浮かべていたのは未だにトラウマになっている。

 

自ら掘り返してしまったトラウマで背筋を駆け下りる冷たいものを感じながら走っていると、疾走っていた道の先に開けた空間があるのを見つけた。

すぐにスライディングの様な姿勢で地面に右脚を叩きつけ、地面を数メートル抉りながら勢いを殺して停止すると、そこは山の頂上近くに開けた、基地のグラウンドの半分くらいの大きさの草原だった。森の木々から昇る朝靄が、ようやく顔を出しつつある太陽にきらきらと反射し、非常に綺麗な景観を作り出している。毎朝の鍛錬を行うには広さも立地も、全く申し分ない。

 

暫定的な訓練場をこの地に定め、早速朝の訓練を開始する。

 

まぁ、一人でやる訓練といってもそんな対したことはやらないんだけどね。普通に一つ一つの拳技の素振りや、そこら辺の木に向かって繰り出すだけの簡単なものだ。

だったら基地でやっても良いのでは、普通ならそう思うかも知れない。しかし私にはそうも行かない理由がある。万が一それが部下たちに見られでもしたら私の沽券に関わる。見られて爆笑されるだけならまだ『クソ真面目な少佐が見せた精一杯のユーモア』的なアピールをすればなんとか切り抜けられるかもしれないが、冷めた目で見られたら確実にその瞬間私の信用は地に落ちてもう二度と信頼を回復することはできないかもしれない。

というか部下たちにそんな目で見られたら情けないやら恥ずかしいやらで、絶対にもう二度と立ち直れない。その時点で夕日に向かって泣きながら走り出す自信がある。いや、まだ朝日なんだけどね。

 

…ふぅ、余計なことばかり考えすぎた。朝食に遅れるのはなんとしてでも避けないといけない。あの美味しいご飯を食べ損ねるわけにはいかないのだ。

 

ゆっくりと草原の端にある木のそばまで歩きながら頭の中を先ほどの浮ついたものから戦闘のそれに切り替え、拳を固く握る。

私の武器は剣でもなければ、銃でもない、ガープ中将直々に鍛えられたこの拳とひたすら逃げ足を磨いた結果手に入れた脚力だけだ。

正直言って私も本当なら銃や剣を使ってスマートに戦う、かっこいい将校になりたかった。しかし、私の生まれ持った悪運がそれを許してはくれず、銃を使えば暴発し、剣を握れば速攻で折れた挙句折れた先が自分に飛んで来た。

他にも大砲を暴発させたり、時には立て掛けてあるだけの槍や斧でさえ私に牙を剥き、もはや呪いの類ではないのかと思われるほど、武器というものに恵まれていなかったのだ。

 

ゆえに、私はこの拳に頼らざるを得なかったのだ。せめて悪魔の実の一つでも食べることができたなら、私の憧れである『黒檻のヒナ大佐』のように美しく華麗に戦うのかもできたのかもしれないが、辺境の基地の一海兵にそんな機会がくるはずもなく、こんなガープ中将よろしく泥臭さ100%の戦いか確か選ぶことができなかった。

 

でもまぁ、そんな私を哀れに思ったガープ中将の副官であるボガードさんが、本部海兵伝えられる『六式』という不思議体技を秘密裏に教えてくれるなど、普通の海兵ではあり得ない出来事が起こったりもしたから今ではさほど気にしてはいないのだが。何よりもう自分が素手で海賊達と戦うことに慣れつつあるし、実際生きるか死ぬかに戦いで綺麗だ華麗だなどとは言っていられないため、もはや受け入れている。

 

おっとと、また変な方向に思考が飛んでしまっていた。再び目の前の木に目線を定め、拳に意識を集中する。そして右足を後方に下げ、軽く曲げた右膝と肩のそばに持ってきた右拳に力を込めて脚から腰へ、腰から肩そして拳へと力を送り、目標に定めた木に向かって一撃を炸裂させる。

 

「拳・骨…破岩!!」

 

私の繰り出した拳の一撃が炸裂した木は、殆ど抵抗を拳に感じさせる間も無くへし折れ、複数の木片に別れながら遥か遠くへ飛んで行った。

これはガープ中将直伝の技である『拳骨』を私なりに改良し、自分の技にしてしまったものだ。ガープ中将の得意技をコピーしたものであるため、威力は見ての通り、脆い木なら粉々に、海賊に撃てばロリコンと変態以外なら一撃で大人しくなる。ただし、この技は力を溜めるのに結構な隙ができるという大きな弱点がある。戦闘中にいちいち振りかぶっていては、ほかの敵からすれば格好の的になってしまう。ガープ中将のようにバカげた肉体の強さがない私はこの技を使うには他の改良技達と組み合わせて使うか、ボガードさん直伝の『六式』と組み合わせて使うしかないのだ。

 

そして拳骨の改良技達の素振りを一通り虚空に向けて行った後は、ボガードさん直伝の『六式』の技である『剃』の練習に移る…のだが、正直私にとってこの技は必要無い。私の戦闘時の速度はボガードさんが教えてくれた『剃』の足運びよりもどうやら速いらしく、やろうと思えば一つの戦闘の中でずっと『剃』の速度を保つことも可能だ。めちゃめちゃ疲れるけど。

 

そんなわけで、『剃』を飛ばして『月歩』や『紙絵』に移りたい…のだが!こちらにも問題がある。

 

実は私…『一式使い』なんです…。

 

…何を言っているかわからねーとは思うが、実は私がボガードさんに『六式』を教えてもらったのは訓練兵時代の一回のみで、ざっくりとした技の概要程度しか教えてもらえてはいない。そのため、体得できたのは私に合う技であり、最も単純な『剃』だけなのだ。

 

だって他の技とか話を聞くだけでもう訳がわからないんだもん。指で大岩に穴を穿つとか、脚を凄まじい速度で振り抜いたことによって発生するかまいたちであらゆるものを切断するとか、一瞬で十回から数十回何もない空間を蹴って空を飛ぶとか、それができたらもう人間離れにもほどがある気がする。

 

いや、それでも毎日練習はしていたよ?前にいた基地の木に向かって泣きながら『指銃』を繰り出しては突き指して転げ回り、『月歩』を練習するために高いところから飛び降りては足首を挫き、木にぶら下げた木材の振り子を『鉄塊』で受け止めようとしては受けられるはずもない痛烈な腹への衝撃で一人泣いた事もある。

 

そんなわけで私は毎朝技を一つ一つ変えながら、終わりの見えない『六式』の訓練を行っている。

ちなみにこれが基地で訓練を行えない理由でもある。まさか上官が木に向かって指を突き立てては突き指して涙目になっている姿を見せるわけには行かない。だからこのような誰の目にもつかない場所で訓練を行っているのだ。

 

そして今日も残念ながら訓練は『指銃』の日だ。

呼吸を整え、覚悟を決めて最寄りの木に向かって指を構える。もしかしたら今回こそ長い訓練が身を結んで指が貫通するかもしれない。そんな淡い期待を込めて全力で木に向かって指撃を繰り出す。

 

「指銃ッ…!!」

 

今日こそ…貫通するといいなぁ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

◾︎

 

リード・エヴァ少佐とは実に不思議な海兵だ。

かつてはモーガン大佐が使用していた司令官の執務室で彼女の素性が書かれた書類を見ながら改めてそれを実感する。特例により十三歳の頃から海軍支部への勤務が認められてから五年。若干十八歳という若さで幾つもの海賊船を拿捕し、驚異的な速度で出世して来た。いわば海軍でのルーキーのような存在だ。

 

個人的に最も評価したいのは、ガープ中将に鍛えられたという彼女の実力でも、いちいち数えるのも馬鹿らしくなるほど書き連ねられた輝かしい功績でもなく、単純に彼女の人間性にある。

 

権力というものは恐ろしい。若いうちから実力があり、多大な功績を立てて波の海兵よりも早いペースで出世していく者というのは、自ら行使できる権力が増えていくにつれて大概傲慢になっていくものだが、彼女は決して自分の功績や偉業を自慢することも、驕ることもせず、もっと高みに昇ろうとする意思が、一切ブレることがない彼女の目からありありと伝わって来た。

 

彼女は自分の功績は、たまたま良い部下や上司の素晴らしい支援と偶然が重なって成り得たものだと語っているが、これはおそらく、つい先日までいた基地の同僚が素晴らしい、という事をストレートに言うのではなく、敢えて遠まわしに言ったのだろう。

自身の功績でもって前にいた基地の仲間の印象を高めるとは実ににくい事をする。彼女を育てた支部の方々はよほど彼女に愛を注いで育てたのだろう。

 

他の会話の中でも、絶対に自慢や驕りめいた事を口走る事はなく、まさに謙虚、勤勉の見本のような人物であることが分かった。その性格故にあれだけ部下にも慕われるのだろう。彼女の部下達はどれも須らく精強かつ意志の強い瞳をしている。

 

一週間後に予定している、東の海の島々をめぐっての遠洋パトロールでは、彼女と彼女の部下らにも二番艦として船ごと参加してもらう予定になっている。

 

この遠洋パトロールとは、東の海の各支部が毎月交代制で船を二隻ずつ出して各支部の目が届かない海域を中心に回って交流、およびパトロールを行うというものだ。

不謹慎極まりない事だが、私は今からその作戦が楽しみで仕方がない。なぜならその作戦では東の海随一とまで噂される彼女と彼女の指揮する砲戦部隊の実力を垣間見ることができるかもしれないのだ。私のその興奮は心の何処かでその航海の中で海賊船の一隻でも出ないか、などと海兵としてあるまじきことまで考えてしまうほどだ。全くもって自分の未熟さには呆れ返る。リード少佐なら作戦の前でも一切表情を崩すことなどしないだろう。おそらく心も凪いだ海にように静かなまま、至極冷静に作戦に当たるのだ。常に油断なく開かれた彼女の双眸が、それを可能だと言外に物語っている。

 

とにかく今は一緒に航海に連れて行く我が基地の精鋭を選抜しよう。我々の留守中は隣の島の支部がこちらに兵を送ってくれるらしく、兵員の心配はない。存分に楽しんで…あ、いや、仕事に励んでくるとしよう。

 

 

 

 

 

 

 

◾︎

 

…やっぱり山の木には勝てなかったよ…。

 

夕食後、私は昨日星を眺めた砲門のテラスで一人、両手の人差し指を交互に擦りながらコーヒーを啜っていた。

 

いや、やっぱり『六式』の訓練はしんどいわぁ…。

 

結局あの後、繰り出した『指銃』は、頑丈な木の幹に貫通を阻まれ、私の人差し指がいけない方向に曲がると言う目も当てられないほどの失敗だった。一縷の望みをかけた左手の方でも結果は同じで、結果は両人差し指の突き指、全治五日間という結果に落ち着いた。あぁ、情けない。

 

というか、そもそも指一本で木を貫通するのなんて普通の人間が出来ることじゃないでしょ?そんな事が出来たらそれはもう人間じゃないような気がする。ボガードさんは本部にいる海兵ならあれくらい出来ないといけないって言ってたけど、海軍の本部ってそんな化け物の巣窟なの?なにそれ怖い。

 

でも、これからは前に在籍してた家でもある基地の周辺にチョロチョロと現れていた弱小海賊達とは桁が違う本物の海賊たちとも出会う可能性もあるし、実情的には一刻も早く身につけておきたいところだ。だって数年前に捕まったっていうクロネコ海賊団の『百計のクロ』とか『海賊艦隊の首領・クリーク』とか『魚人海賊団のアーロン』とか、なんかもう懸賞金が一千万を優に超えてる奴らは手配書の写真から見るだけでヤバイ雰囲気がプンプン伝わってくるような奴らがこの先の海にはひしめいているのだ。冗談抜きで怖すぎる、もう既に持病の『危ない奴らに近づいてはいけない病』のせいで胃がキリキリと痛み始めている。そんな奴らに私が勝てるわけが無い。だから一刻も早く痛い訓練を泣きながらこなしてでも『六式』を習得しておきたいのだ。特に『月歩』と『鉄塊』ね。

 

しかし、一週間後には早くも、中佐さんに連れられての遠洋パトロールの任務が入ってしまっている。まさか持病の『海に出たら死んでしまう病』で逃げるわけにもいかないし、中佐さんはどうやら私と一緒に作戦に当たることをものすごく楽しみにしているらしく、酒宴の席で何度も何度も周辺海域に目撃情報が出ている海賊についての説明を聞かされた。その説明の間中あんな期待に満ち満ちた目をされたらいよいよ逃げることは不可能だ。

 

今度ばかりは私も腹を括って臨むしかないかもしれない。どうしよう、やっぱり遺書くらい残していくべきかな…。とりあえず明日になったら中佐さんに言って部下達と砲戦の訓練を始めさせてもらおう。こうなったら殺られる前に殺れだ。うちの部隊は砲戦ならかなりの腕利きが集まっている。私が率いてから白兵戦大嫌いな私がひたすら近づかれる前に沈めるという作戦を数年にわたって取り続けた結果だろう。だから今回もいつも通り近づかれる前に砲戦で沈める。白兵戦ダメ絶対。いのちだいじに。これを今回の作戦をにして行こう。

 

…でもなんか嫌な予感がするんだよなぁ…どうしても今回の航海が無事に行って帰ってくるだけで終わる気がしない。具体的には今手元にある海賊達の手配書の特に賞金が高い連中と片っ端から戦わなければならなくなる……ような気がする…。

 

……いやいや、流石にそんな都合のいいことが起こるはずがないよね。うん、ダメだ、今日はどうもいきなり作戦参加を告げられていつものネガティブが三割り増しで稼働しているらしい。

 

こういう時はさっさとお風呂に入って寝るに限る。本館のお風呂は女の人がほとんど使わないからすごく綺麗だし、男性の風呂と変わらない大きさだから一人で足を伸ばして満喫できるし、なにより背中にある大きめの傷を隠すことが出来る。

 

私の背中には、どうやら海軍に拾われるずっと前にできたらしい傷跡がある。基地の船医さんによれば古い火傷の跡らしいそれは、鏡で見る限りもうほとんど目立っていないのだが、それでもやはり女の子として体にある傷はどうしても隠しておきたいものなのだ。

 

 

 

そうと決まれば善は急げだ。早くお部屋に帰ってお風呂セットを取ってこよう。

嫌な事は一旦お風呂に入って汗と一緒に流してしまおう。具体的な作戦は明日になってから考えるのだ。

 

そう結論付けて私は手に持ったコーヒーの残りを飲み干し、息を吐いてテラスを出た。

 

直後、隠れていた針のような三日月が雲の切れ間から顔を出し、朧げに溢れた月光で私がいたテラスを照らした。

 


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