ウォルターの病室を出たレイフォンは、ぼうっと廊下を歩いていた。
先程、一瞬だったが気づけた。ウォルターの眼が変わったことに。
それがどうしてか……レイフォンにはわからなかった。
―――――……戻ろう。せっかくいるんだから、聞かないと
そう思い、レイフォンは足を止めて踵を返そうとした。だが、そうする前に止められる。足を止めた理由は、声をかけられたからだ。
かけられた声はウォルターの主治医、ティアリスのものだった。彼はややくたびれた白衣の裾を直しながらポケットに手を突っ込む。
「またウォルターの見舞いか? 律儀だな」
「え?! ……っあ、いや、あの……」
「言い淀まなくても良い。前、あいつが寝込んでいた時もずっといただろう」
「あ、え……、えぇ…まぁ…。……あ…、あの…ウォルターは、大丈夫なんですか?」
「……まぁな。相変わらずあいつの怪我の多さには呆れるが、その治癒速度には感心させられる。入退院をさせるが、検査等のためだ。調子が悪い訳じゃない。安心しろ」
呆れ笑いをこぼし、ティアリスは口角を上げる。しかし、レイフォンはその楽観的なティアリスの表情に今日は乗れなかった。
その表情が暗いことに気づいたらしいティアリスは少し訝しげな顔つきでレイフォンを見る。
「なんだ? 何か気になってることでもあるのか」
「……いえ…あの……」
「なんだ、はっきりしないヤツだな。言いたいことがあるならばはっきり言えばいいだろう」
「す、すみません」
レイフォンはティアリスに軽く頭を下げた。しかしティアリスは、それを逆に苛立たしそうに舌打ちを一つすると、淡藤色の瞳を先程より鋭く細めレイフォンを睨む。
「謝って欲しい訳じゃない。ただ、はっきりしろと言っているんだ。おれには関係のないことだ、あいつとのことはお前の好きにすればいい。だが、聞いたことに対してははっきりと答えろ。曖昧な答えは誤解を招きやすい」
厳しい言葉に、レイフォンはほんの少し俯いて考えた。が、頷き、口を開く。
「はい。……ウォルターは…その。あなたが問診している時、何か変わった様子はありましたか?」
「変わった様子? とくには…なかったが。……何か、気になることでも?」
「ウォルターが…なんだか、僕を見ているようで…見ていなかったんです」
「……なんだ? 詩人か、お前は」
「ち、違いますよ」
ティアリスの言葉をレイフォンは慌てて否定する。やはりティアリスは口角をあげ、腕を組みながら「ふむ」と呟いた。
「見ているようで見ていない。遠くを見ていたということか。……あいつが考えに耽るのはいつものことだと思うが?」
「え、えぇ……そう、なんですけど。でも…考えに耽っている、という様子ではなかったんですよ。普通に話していて、いきなり……眼が、乾燥したんです」
「ふむ……。少し気にかけてみるが、おれに何とか出来ることかどうかはわからん」
「はい。なので、あの…出来る限り、というか」
そう言ったレイフォンに対しティアリスは、小さく息を吐く。それにはどこか、諦めにも似た感情が含まれていた。
「……いまは所詮、おれはただの医者だ。“お前らのような武芸者としての領域”でその眼をしたとすれば、おれにはどうもできんぞ」
眼を鋭く細め、ティアリスがそう言った。その鋭い瞳に、レイフォンは強い意味が込められていることに気付く。
彼は医者だ。医者であり、学生である。ただし、そこらにいる医者とは違う。
―――――これは……
かなり鈍く、濁った剄の煌きだ。レイフォンは一瞬、普段からかなり抑圧しているのだろうかと思ったが、そうでないとすぐに考えを変えた。
抑圧しているだけならば、剄の煌きは鈍くなるだけだ。
きちんとした訓練を積んでいない武芸者は、時としてそうのような淀んだ剄を発する時がある。だがそれは例外に近い。だからこそ、彼の剄の淀みが気になったのだ。
「……あなたは、もしかして」
「おれはいまに満足している。医者として動ける自分にな。…だが…だからこそ、その立ち位置で話せることはなにもない」
「……………………です、か」
ハーレイの同級生に、車椅子のダイトメカニックがいる。彼もまた、それによるものだ。
それでも口角をあげるティアリスに、レイフォンは疑問を投げたかった。
だがその問いはつぐまれた。彼に対して、そんな問いを投げるのは無意味だから。
彼は今現在自らの目標を見つけ、医者になるという目標に向かって進んでいるのだ。質問は彼を見ればせずともわかる。
「……ウォルターは知っているんですか? ……その、こと」
「あいつには初対面で見破られた。学園都市に来たのは違うことをするためだったからな」
「あなた、も」
「…あぁ、そうか。お前もそうだったな」
ティアリスがそれを知っていたことに驚いて、レイフォンはティアリスを凝視する。そんなレイフォンの反応に肩を竦め、ティアリスは小さく呟いた。
「あいつが言っていたことを、小耳に挟んだだけだ。おれがどうということはない」
「……で…すか」
「あぁ。……おれはただ、何かをしたかっただけだ。お前もまた、何かをしたいだけだろう?」
レイフォンは小さく頷いて、ティアリスを見る。やや心配そうな眼をするレイフォンに小さく肩を竦め、ティアリスは息を吐いた。
「べつに、そのことは特に引きずっちゃいないんだがな。いきなり言われた時は何故わかった、よりも先に怒りが湧いてきた。……いまでも思うが、本当、あいつの顔面に拳を叩き込んでやりたかったよ」
「……躱されたんですね」
「あぁ、見事にだ。だがまぁ…そんなことがあってからあいつとはそれなりにそれなりの仲だ」
レイフォンは、目に浮かびますよ、と腕を組んだティアリスに苦笑交じりに言った。
彼はレイフォンが会った時もそうだったように相手の心情を配慮しなかったのだろう。殴られてもしょうがないのだろうが、天剣授受者でもあった彼からして、ティアリスの拳を避けるのは容易かっただろう。特に、剄を扱えないとなれば。
使えてもかすりもしない相手には、しても無駄だと正直思わなくもない、が、初対面の相手に対してそれを見抜くのは無理だったのだろう。
それなりにそれなり。うまくやっていけているということだ。
ティアリスはいま、この医者という役割を見つけ、この都市の中でも腕利きの存在だ。話によれば、ティアリスは何度もウォルターの怪我に対応しているそう。主治医と言われる程なのだから当然だろうが。
ウォルターの担当医が出来るのはきっと彼だけだろうな、と思いながらレイフォンも苦笑する。
だが、ティアリスはどちらかと言えば渋面を浮かべ、自嘲気味に言葉を紡ぐ。
「なにせ、あの頃はまだ自分に武芸が出来ないと受け入れたくなかった頃だ。やっていた頃はやりたくない、やれなくなったらやりたい。……実に矛盾しているとは思わないか?」
「……いえ……そんなこと」
レイフォンだって同じだ。武芸をやりたくない、グレンダンですでに失敗したのだから、そう言い聞かせている。
だが仕方のない状況だとはいえ、レイフォンはまた剣を持つことを決めた。自らの意志で。
グレンダンで剣を握ることが出来なかった分、レイフォンはツェルニで握れるとなって、心の奥底では喜んでいたのだろうと思う。幼いころからずっと触れてきた錬金鋼。それを、戦うための武器を握ることを、やはり武芸者としての自分が望んでいるのだ。
軽蔑してくれても構わんぞ、と小さくティアリスが言って、にやりと笑う。
「まぁ、そんなこと取り合わんがな。いまはそれ以上に役に立てていると実感しているし、そうだと信じている」
「それは、もちろんです。ウォルターにあんな風に対応できる人、そうそういないと思いますし」
「……はん、それはそうかもしれんな。……しかし話がずれた。とりあえず、あいつがここにいるあいだは少し気にかけてみよう」
「あ、はい。すみません、よろしくお願いします」
レイフォンは頭を下げて、ティアリスに礼を言う。しかしティアリスは「医者だから」と言って笑みを浮かべている。
「どんな患者だろうと、見るのは責務だ。きちんと果たす」
「……お願いします」
「何よりあいつは、自分のことを気にしない傾向があるからな。……放っておくと、何をするかわからん」
小さくティアリスが呟いた言葉は、咄嗟のことでレイフォンには聞こえなかった。だがそれでももう一度、レイフォンはティアリスに頭を下げ、踵を返した。
いま、ウォルターに聞くべきではないだろうと思ったのだ。
彼は大丈夫。きっと。彼のことは彼で何とかする。
ウォルターの事は気になる。だけど、まだ僕には何も出来ないだろうから。
だから、彼が自分でなんとかしてくれることを、信じるしかないのだ。