オリ大名をブッこんでみた。   作:tacck

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雷源伝 最終話 雷源の平湯村開拓日記④

 天文廿二年 七月廿八日

 

 琴平家の方の準備が終わったので、彼らを伴って飛騨へ帰ることになった。

 三木家や内ヶ島家への書状もすでに出している。平湯村の通商が発達したとはいえど、流石に公家の生活を賄えるほどではない。彼らの支援は必至だった。

 

 天文廿二年 八月五日

 

 三木家、内ヶ島家からの返書が来た。

 どうやら概ね了承はもらえたようだ。だが、条件は付けられた。三木家、内ヶ島家の家臣の子息にも門戸を開けということだ。理由はわからないでもない、いつかは公家の下向に依らずして教養を身につけた人材を国内で賄いたいのだろう。

 こう書くと、宗方卿が使い捨てのように思われるが、俺も宗方卿も納得している。

 もともとよそ者はその土地に何らかの種を持ち込む存在であり、それが開花するまでは世話をする必要があるが、いざその花が咲いて実がなれば役割を終える。それ以上は各々の裁量に委ねられるべきだろう。

 そこに根付いて咲き誇る花畑を見れれば万々歳であるという人がいれば、遠くに在りて花の便りに耳を傾けるのも悪くはないという人もいる。

 そういえば、東山道を歩いている間に一人の御師と遭遇した。それも伊勢神宮や富士のような著名なものではなく、能登の頼幸寺、つまりは竜田派の寺の御師だったのだ。

 試しに教義を訪ねたところ、面白いように俺が考えていたことがちらほら出てくる。

 広幸とは彼が与力についていた間にかなり多くの言葉を交わした。彼は教団を内部にいながらにして二、三歩離れたところから見ている男だった。その視座から練り上げられた言葉は、俺もかなり考えさせられたものだ。

 そんな彼が加賀で反乱を起こしたと聞いた時は驚かされたが、結局は収まるところに収まったのだろう。

 

 天文廿二年 八月十日

 

 桜洞城に着いた。

 平湯村に直帰したいところではあるが、三木直頼との会談がある。この会談の成否は平湯村の将来に大きく影響することは間違いない。必ず成功させなくては。

 

 天文廿二年八月十一日

 

 桜洞城の謁見の間に、俺と宗方卿は参じた。

 謁見の間には俺たち二人と三木直頼とその近習の数人だけがいた。

 

「わざわざご足労ありがたく存じ上げまする。それがしは三木大和守直頼と申しまする。此度、博識で名高い琴平民部卿様に見えたこと、末代までの誇りと致しまする」

 

 上座に居ながら、直頼公は平伏する。いささか大仰な感じは否めないが、宗方卿は自らの政策に必要な存在だから伸びるのもやぶさかではないのかもしれない。

 

「直頼殿。私に対してそのように必要以上にかしこまらなくとも良い。言葉を飾ることに汲々として詮議に実を欠くことは当方は無論、其の方にとっても望ましいことではないだろう」

 

「お心遣い、ありがたく存じます」

 

 直頼公は再度頭を下げると、俺たちが送った書状を掲げて一つ一つ読み上げてゆく。

 

「一つ、此度の民部卿様のお下向にあたり、松倉の町に館を建てること。

 一つ、右の費用は三木家が七割、平湯村が二割、琴平家が一割の割合で負担すること。

 一つ、学び舎は松倉の町に置き、門戸は町人にまで拡大し、これにも三木家は月々一定の支援をすること。

 一つ、三木家は平湯村とその周辺を琴平家の荘園であることを認め、これに年貢、段銭、棟別銭を課してはならない。

 ……これで、合っているか雷源殿?」

 

「合っておりまする」

 

 相槌をうって直頼公を見返す。

 今の四つの条件は俺が三木家に要求することだ。

 前者三つは言わずもがな宗方卿を飛騨に住まわせる際に必要になるものだ。

 これには文句はないらしく、直頼公は呑んでくれた。

 しかし、最後の条件はそう容易く飲み込んではくれまい。それこそそれを詰めるために今回のこの謁見が組まれたようなものだ。宗方卿のお披露目は正直これのついでに過ぎない。

 

「しかし、雷源殿。これはいささか道理に反するのではないか?」

 

 やはり、直頼公は受け入れられないのか表情を歪めた。

 

「と、申されると?」

 

「惚けるでないわ。民部卿様の荘園として平湯村を認めてやるのはやぶさかではない。が、此度わしは平湯村の沿革を聞いた。……実に三年も税を免れおって。わしは飛騨守護代である。ゆえに飛騨国内はわが領地と同じ。荘園となる前の三年間の税、これを全て耳を揃えて払ってくれねば此度の件は承服しかねる」

 

 これがあるから、俺は今日この時まで三木家とは接触を取らずにいた。いざ接触を取れば、間違いなくこちらを家臣団に組み込もうとするだろうから。それでは、越中での日々とあまり変わらない。

 しかし、今は違う。幸運にも琴平家という有力な隠れ蓑を得た。これからは確実に自由と独立が公に保証される。

 それを考えれば、三年間の税など手切れ金にしては安い。

 

「承知致した。では五日後、三年間の税を払ってご覧に入れよう」

 

 幸いなことにその備えはすでにしてあるのだ。

 

 天文廿二年 八月十六日

 

 松倉の町には葛籠を積んだ荷車が列をなしていた。葛籠の中身は全て平湯村に課せられていたはずだった三年間の税だ。

 松倉の町人は誰もが瞠目しているだろう。開拓したばかりの村がなぜこうも金子を持っているのか、と。

 その答えは簡単だ。今までの脱税分をある程度貯蓄として扱っていたことと、何より内ヶ島家臣の子息の学費を請求しないという条件で密約を結び、内ヶ島領の金を得たことだ。

 

「ようやく始まったな……」

 

 町内の神社で宗方卿と直頼公との合同で誓紙を認めたのち、俺は一人呟いた。

 これでようやく平湯村は公に認められた公界として完成したのだ。

 ……懐は凄まじく寂しくなったが。

 

 天文廿三年 三月九日

 

 ついに松倉の町に学び舎が完成した。建物は大きく街区の一つを占拠し、講師もそうそうたる面子を揃えている。

 

「実に見事。こうまでの学府となると、かの足利学校にも迫るのではないだろうか」

 

 直頼公もご満悦だ。

 彼は自らが養ってきた文化政策の精粋をこの学び舎に投じていた。建物はもちろん講師の招聘に関してもだ。

 俺自身はそんなに大きな規模にしても……と思っていたが、張り切っている直頼公を止められる気がしなかったのだ。

 講師陣は豪華で、まずは宗方卿。次に俺と長堯。それに明徳慶俊和尚がいる。

 明徳慶俊和尚は三木家の一門の出で、なんと駿河の宰相として名高い太原雪斎和尚の友人である。一時期共に今川家に仕えていたこともあるそうだ。

 そんな彼を講師として招聘できたことは大きい。

 生徒はほとんどが三木と内ヶ島の出だ。一度昭武たちも通わせようかと思ったが、変に武家とつながりを持たれても困るため諦めた。

 昭武たちには俺自身が宗方卿から教わったことを教えていく手法でいいだろう。

 

 弘治元年 十二月二十日

 

 今日もまた雪が激しい日だった。

 飛騨に来て早六年。学び舎ができてからは二年。

 忙しかったあの頃が過ぎた今、時の流れがやたらと早く感じている。

 だからだろうか、失念していた。

 俺に残された時間はすでにほとんど使い切っていたことを。

 それを思い出させたのは、雪上に散見できる赤い血だまりだった。

 

「ザビエルどのの言った通りか。流石に十年は生かしてくれないらしい」

 

 喀血が止まらず、ついに立っていられる気力さえ奪われた俺は雪上へと崩折れる。

 雪の冷たさと背筋を伝う悪寒が、意識を刈り取っていく。

 今、見事なまでに俺が死にゆく運命だということを如実に突きつけられていた。

 だが、受け入れてやるわけにはいかない。

 昨今、直頼公の病が日に日に厚くなってきていると聞いている。それが事実であるならば、遠からず彼は死ぬだろう。

 三木直頼の死はそれ即ち飛騨の平和の崩壊に繋がる。良頼どのは残念なことに志に資質が伴わないからこれを止められない。

 そんな状況が見えている状態で死ねるわけがない。

 生きねば、守らなくてはならない。

 そう、心が強く叫んでいる。

 俺は余力を振り絞って懐に腕を伸ばし、麻袋を取り出す。

 その麻袋の中にはいつかの霊薬、仙丹が入っていた。

 

「どうか、今一度の命を俺に。せめて、奴らが大人になるまでは生かしてくれ……!」

 

 仙丹で伸ばせる寿命は数年と定かではない。二年かもしれないしはたまた七年かもしれない。

 だから、神なんて信じちゃいない俺でもこの時ばかりは祈った。

 

 できる限り長く、昭武と優花を見守れるように。

 




読んでくださりありがとうございます。
これで、雷源伝というよりも平湯村開拓日記は終わりです。
厳密にはこの後もちらほら話題はあるのですが、わざわざ更新するほどのことじゃないので、ここでお開きとなります。

一応新連載始めたので、そちらもどうぞ。内容は西日本転生ものです。



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