天文廿二年 七月十四日
堺でやるべきことは終わった。そろそろ飛騨に帰る頃合いだろう。だが、その前に一つだけやっておきたいことがあった。
「宗久どの。畿内での知識人といえば、誰だろうか?」
「堺では、津田宗及はん。京なら山科言継はんに近衛前久はん、琴平宗方はんも忘れてはなりまへん。お武家はんなら細川藤孝はん、松永久秀はんでっしゃろな。他にも名の知れた方々はおられますが、真っ先に口の端に挙げられはるのはこれぐらいやろな」
「そうか、やはりその辺りになるよな……」
「雷源はん。急にどないしはったん?」
「いや、少しでも奴らに何かを残してやりたくてな……。とくに教養なんてそれの最たるものじゃねえか。できればザビエルどのにその役目を担って欲しかったが、無理だしな」
三日坊主という言葉があるが、三日経っても俺の教育熱が冷めることはなかった。むしろ熱くなって来ているような気がする。
「ふうむ。しっかりと親父やってはりますな、雷源はん。それがしならば、今挙げた全員に紹介状を送れますわ。しかし、飛騨まで来てくれはる方はおそらくは誰もいないでっしゃろな」
そうだろうと俺も思う。
昨今の公家はあまりに窮乏しており、地方へ疎開することもあるが、行き先は大内や武田などの家柄が確かなところばかりだ。……いや、そうか。
ここで俺は一つのことを思い出した。
「そういえば、三木直頼が政策として中央の文化を取り入れていた。直頼なら公家を賄う用意もあるだろうし、俺の名も多少は利く。これならば、来てくれる公家もいるのではないだろうか」
そう俺が言うと、宗久どのは少し考えたのち丁稚の為五郎に紙と筆を持って来させ、一筆したためた。
「ひとまず琴平宗方はんの紹介状を書きましたわ。それがしが知る限り飛騨に居着いてくれる可能性があるお公家さんは宗方はんだけですわ」
「忝い」
宗久どのの厚意に感服し、俺は頭を下げた。
本当にこの人に会えて良かったと思う。
天文廿二年 七月十六日
この日、宗久邸を出て京に向かう。目指すのは琴平宗方邸だ。
天文廿二年 七月十八日
京に着いた。
姫巫女様がおわす天下の都。堺に来る途中で立ち寄るまではどれだけ栄えているのかと思っていた。
いにしえの唐・長安を模した整然とした大都市。そんな印象を持っていた。
しかし、実際訪れればそれは崩れた。
右京はそもそも人が住むには向かず、放置されて左京を上京下京に分けて用いられ、内裏は修理されずに放置され今では都市に似つかわしくない野原になっている。
整然とした街並みは影も形もない。規則正しく瓦礫が積み上がっているばかりだ。
これが、日ノ本の都と言われると少し寂しい。堺や途中の井ノ口の方がそれにふさわしいんじゃないかとすら思えてくる。
さて、目的地の宗方邸だが上京に住む他の公家の邸宅よりもぼろぼろだった。
「公家は全体的に落ち目と聞いていたが、これは想像以上だな」
ともあれ、俺は邸宅の衛士に宗久どのからの紹介状を渡した。するとすぐに中に通され、茶室に案内された。
ほんの少しだけ待つと、戸が開かれ長烏帽子を被った青年が現れた。
「私が琴平民部宗方だ。高名な北陸無双が訪ねてくれてありがたく思う」
彼の姿を見た時、俺は思わず目を瞬いた。
これが、もしかすると老いというやつなのかもしれん。
なぜなら、俺は彼にとうに死んだはずの兄貴の姿を重ねてしまったのだから。
「……ああ、自分こそが源朝臣熊野越中守勝定にございます。今は出家して熊野雷源と号しております。北陸無双というのはいささか過分に思われますが、自分のことで相違ないしょう」
少し詰まってしまったが、なんとか俺は自己紹介できた。
「そんな畏まらなくとも良い。私はかねがねあなたからお話を伺いたかったのだ。いちいち敬わられ言葉を飾られては、本意が伝わらなくなるかもしれないからな」
「かたじけなきお言葉。実のところ自分も口元に違和感を感じておりました。お言葉に甘え、これよりは砕けた口調でお話をさせていただきたい」
口元の違和感を拭えた俺は続けて問うた。
なぜ、俺の様な一介の武士が紹介状があるとはいえ、こうも容易く謁見を許されるほど気にかけられているのか、と。
すると宗方卿は、
「なぜならば、あなたは自らの意志で北陸を旅した武将だ。その数奇なる流離譚。京童だけではなく我ら公家衆、果ては姫巫女様まであらゆる方々があなたの旅に興味関心を持っている」
と、やや熱っぽく答えてくれた。
俺としてはあまり似つかわしくない表現だが、旅か。確かに越後から越中そして飛騨にと敗戦によらず自分の意志でここまで流れていった武将は我ながらそうはいないと思う。とはいえ、実際は旅なんて風情があるものではなく、どこならば心安らかに暮らせるのか。それを探すための逃避行だった。
若干意に沿わない解釈をされているが、こちらに興味関心を持ってくれているのはいいことだ。
宗方どのがせがんだため、俺はお望みどおりにこれまでの半生を語った。
「あの流離譚に、まさかそんな理由があったとは……」
「おい、なぜ泣く。月並みな話だろうに」
話を終えると、何故か宗方どのは涙を流していた。泣かせるほど劇的に話した覚えはないのだが……。
「いや、雷源どのの旅の理由は都では色々と議論になっていてな、曰く権力を握ろうとして失敗した、秩序を壊したのち巻き起こる混乱を遠くから見て楽しんでいるなど、どちらかと言えば梟雄のような碌でもない推測が多かった。ところが、それが実は全て養子のためと言われれば袖を濡らすほかないではないか」
俺すらも引くほどの勢いでまくし立てる。どうやらこの琴平宗方という男はやけに感受性が豊かなようだった。
今が機会かもしれない。
そう思い、俺は切り出した。
「宗方卿、唐突で悪いが飛騨まで来てはくれないだろうか。俺がようやく見出したところだ。このまま情勢が定まらない畿内にいるよりは、少しばかり遠いがいいかもしれない」
「うん?それは話が違うぞ。確かにあなたの半生に心動かされはした。が、私も家族を抱えている。あなたのように情動に任せて動けはしない」
だが、宗方卿の反応は先程の熱弁が考えられないほど淡白だった。
こうまで切り替えが早いとは。前評判はけして偽りではなかったようだ。
この日はこれ以上の勧誘は諦め、宗方卿と遊興をして終わった。
天文廿二年 七月十九日
昨日に引き続き、宗方卿の邸宅に俺はいる。が、今日は宗方卿は所用のようで、俺と朝餉を食べると外出してしまった。
したがって今宗方邸には俺と宗方卿の子供達、数少ない下女しかいない。
とりたててやることがないため、小規模ながら造営されていた庭園を縁側で眺める。
しかし、庭園は実に見事であるが、市中に邸宅があるために喧騒が届いてしまい、ましてや俺自身は越後や飛騨で本物の山水に親しんできた人間である。どうしても作り物だということがちらついて没入感を得ることはできなかった。
そこでふと、頭を中に向けると視界の端に男女二人組の童子が見えた。
この屋敷にいる童子なんて限られている。
まちがいなく宗方卿の子供達である、桜夜姫と
俺が怖いのか桜夜姫が小次郎君の背に隠れており、小次郎君の方はおそるおそる俺の挙動を見計らいながら近づいて来ている。
「怖がることはない。そうこそこそとせずに堂々とこちらに来るといい」
促すと小次郎君が俺の左隣に腰掛け、桜夜姫は小次郎君の左隣に座った。
「俺は今、無聊をかこっていてな。何か聞きたいことがあるならば、答えることも吝かではない」
どうにも京は俺の肌には合わないらしい。風流に浸るにしても喧騒がいやに耳につき、さりとて市中を歩けば、未だ復興がなされていない町家や神社仏閣がやるせなさを感じさせる。
ゆえに、なんでもいいから意識を傾けさせる何かを欲していた。
ならば、と小次郎君は舌足らずながらも口を開く。
「単刀直入に聞こうと思う。あなたは私たちをどうするつもりなんだ」
あまりに直裁過ぎて、思わず俺は苦笑してしまった。
もう少し公家というものは迂遠なもので、そうであるべきと教えられているという俺の偏見を彼は叩き潰した。
「どうするつもりって言われてもな、貴公の父に教えを請いたいだけなのだが。飛騨に来てもらうのは、回数を重ねる必要があるからだ。そして、わざわざ飛騨に来てもらう以上は生活の糧もいる。それは俺がどうにか渡りをつけるさ」
今の飛騨の国主は三木直頼だ。彼は政策として文化振興を掲げていて、それの実現に手っ取り早いのが、公家の飛騨国内への移住だ。それを俺は当てにしている。
「父上のことは分かった。が、僕たちはどうなんだ。ただ、父上の付属品としての扱いなのか、それに僕はともかくとして姉上をどうするつもりだ。無理やりあなたやあなたの子の妻にさせられるようなことはないのか?」
間違いなく、小次郎君はこちらの方を聞きたかったのだろう。公家を受け入れた家では、公家を扶養した見返りとして受け入れた家の子息とその公家の娘の婚姻を要求することがある。つまりは名家の血を金で買うのだ。
小次郎君は姉を強く案じていたのだ。
「そんなつもりは全くない。むしろ不要だ。俺たちは武家から帰農して民になり、村長の一族とそれ以外の二つだけに分けた。とはいえ、これはあくまで役割の話で決して身分を定めた訳ではない。今は熊野が務めているが、より適した者が現れれば変わるだろうよ。なにより、人に過剰に尊卑をつけては助け合いなどできるはずもないからな。だから、俺たちに血筋は不要だ」
もっとも、三木家の方は別だ。三木家は守護代ではあるが、まだ飛騨国内では国司であった姉小路家の名は健在で統治する名分に姉小路の名跡もしくは高位の公家の血を求めることもあるだろう。
こうまで言ったところで、小次郎君は納得し舌鋒を納めた。すると今度は桜夜姫が代わって俺に問いかけてくる。
その瞳はやはり真摯なものであった。
「わたし達をどうするかについては伺いました。ですから今度はあなたがたに問いたいのです。お父様の教えを請うてあなたたちはどうするおつもりですか? お父様の教えはそれこそ一介の農夫には不要なものです。どこか矛盾しているように思います」
宗方卿もそうだが、それ以上にこの姉弟は利発だった。思いのほか、ものを知っているし考えも深い。もしかすると下手な武家ではやり込められて沈黙させられるのではないかと思うほどだ。
こいつら本当に子供か? 実は元服してないだろうな?
いささか動揺しながらも、俺は答えた。
「まあ、農夫には確かに要らないだろう。だが、俺たちは民になったが、時勢は未だ乱世だ。いつ戦に巻き込まれるとも知れない。否応なしに武家として再び力を振るわなければならない時があるかもしれない。全てはその時のためだ。転ばぬ先の杖と言った方がわかりやすいか」
本当は役に立たないことを願いたいが、時勢を全く信用できないのだ。今の飛騨の安泰は三木直頼に依るものが大きい。彼が死ねば、乱が起こる可能性は充分にある。
だが、この説明では納得してはくれないだろうな。小次郎君に語った内容と矛盾する。実際、小次郎君は胡散臭そうに俺を見ているしな。
「今や教団は信じていないが、それでもにゃんこう宗の教義は尊いと思う。『身分血縁を問わず、お猫様の下で平等の公界を作る』これは本猫寺の八代当主れんにょ様の願いだ。平湯村の理念の根底にもある。重ねて言うが、血縁を誇ることはそれに反する。信じられないならば、誓紙でも認めようか?」
「いいえ、それには及びません。わたしはあなたを信じます」
どうにか桜夜姫は俺を信じてくれたらしい。そして、あることを俺に教えてくれた。
「実際に帳簿を見たわけではないですが、家宰が帳簿を睨んで頭を抱えている姿を見かけました。やはり、我が家の財政は危ういようです。今、わたしたちが都に居られるのは、比較的人品の優れた浪人たちを衛士として雇えているからですが、歳入に比して歳出が多い現状が続けば、それは長くは保たないでしょう」
それは厳しかろう、と思う。畿内の戦乱は間髪入れずに起きている。今の水準を維持できなければ、遠くない未来にこの邸宅は戦によって踏み荒らされることだろう。俺の心には響かなかったが、目の前の出来のいい庭園も台無しになる。それはいささか惜しいことだと思った。
俺が相槌を打つのを見てから、「ですから」と桜夜姫は続ける。
「わたしがお父様に催促してきます。これ以上の好機を逃すのはなんたることか、と。お父様はわたしたちの言葉はある程度は聞いてくれるので、きっと受け入れてくれると思います」
そう市井の悪戯っ子のように微笑んで、桜夜姫は小次郎君をつれて俺の前から去っていった。
その日の夜のことだ。
寝る前の俺の前に宗方卿が現れて「飛騨に下向する」と口に出したのは。
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