「来るべきものがついにきた。というわけですね」
富山城の西を流れる川、神通川。
少し前に雷源と玄仁が干戈を交えたその地にて、富山城代を任されていた高知四万は独語する。
熊野雷源と長尾景虎。
この両者は北陸の雄として、また因縁からいつかはぶつかると武家ならず民にも語られていた。
その両雄が遂に相見えるのだ。何らかの感慨を覚えない方が、無理というものである。
越軍が魚津に到着したと聞いてから、四万はこの古戦場に赴き、解体作業をしていた。玄仁の陣の遺構を対越軍の防塞に転用する腹づもりでいたのだ。最終的にはそれを神通川・常願寺川の間を流れる琵琶川の東岸にある尻垂坂に移設し、馬防柵を並べることになる。
手早く、なおかつ堅固。この条件を果たすにはそれが最善だったのだが、四万にとって不幸なことに越軍はそれを待つだけの時間を与えてはくれなかった。
米
遺構を尻垂坂に移設して、あと少し出直しすれば完成するといったところで四万は東方に蔦の葉の幟を目視した。
それは越軍の先鋒、椎名康胤のもので彼女が率いてきた兵の数は三千ほどである。とはいえ、康胤が尻垂坂まで出てきたのは哨戒が目的で当初は戦う予定はなかった。
「まだ、砦ができきっていないのに……!」
四万は歯噛みする。
此度の野戦築城の目的は越軍が得意とする野戦から簡易的なものであるが攻城戦へシフトさせることにあった。野戦ならば一日たりとも保たないが、守城戦ならばむしろこちらの得意とするところ。たとい景虎が自ら出陣しようとも、雷源ら本隊が到着するまで耐えられる公算が高い。
「どうするの?高知どの」
傍らにいた神保長職が四万に問い掛ける。四万の護衛として長職は千五百の兵を連れてきていた。
「できれば、砦は完成させたいですね。ここを盗られたら戦線は神通川まで押し込まれるでしょうから。ですが、長職どの。援軍が遠い状態で二倍の兵と戦えますか?」
「あら、気遣ってくれてるのね。ありがとう。……けれど、今回では逆効果ね」
見ると、口調こそ丁寧だが、長職はありありと怪気炎をあげている。
(ああ、やっぱり)
内心で四万は確信した。
「わかりました。言っても無駄だと思いますが、やりすぎないようにお願いします」
言われると返事すらせず、長職が兵を椎名勢に進めていく。士気はいきなり最高潮。越軍の後詰が遠くないうちに来援することはわかっているだろうにフルスロットル。
「死いいいいいいねえええッ!!殺せえええええええええッ!」
長職は兵の後方に立って声を荒げて督戦する。彼女の本心としては雷源のように単騎駆けして闘争に酔いたかったが、生憎それだけの武勇はない。あったとしても相手の椎名康胤も武勇を持たないため本懐を遂げることは出来そうになかった。
「やかましいわッ!ぶち殺されて静かになりなさいッ!」
されど、猛り具合では椎名康胤も負けてはいない。兵一人一人の士気は長職に比べると一歩劣るが、その分冷静さは確保されている。がっぷり乙に神保勢と組み合いつつも数の利を活かして少しでもその勢いを削ろうとしている。
(誰にだって、戦わずにはいられない相手はいるのですね)
苦笑しながら四万は築城部隊に命を下す。
神保長職が椎名康胤への異常な戦意を向ける理由は四万も知っている。
家柄、勢力、境遇……。
この両者はあらゆる点において相似の関係にあるが、ただ一つだけ対照関係にある。
それは、長尾景虎を受容したか否かである。
両者とも実の父を過去にあった戦……長尾為景と畠山義総が手を組んだ般若野の戦いで亡くしている。
当然、両者とも初めは自家の再興に努め、為景に復仇を果たそうと夢見た。
この時はまだ、両者は競争関係にありながら互いにシンパシーを感じていた。だが、それも生き残り戦略で康胤が為景死後に景虎と手を組むと終わる。
神保も椎名も一国を領するほどではなく、少し力がある豪族程度にすぎない。強きに靡くことも生き残りの戦略としては十分選択肢に入る。それが仕方がないことであることを長職も理屈では理解している。そうでなくては自ら熊野家の帷幕の中に入ることなどしない。が、それでも許せなかったのだ。
「仇の家に尻尾を振った親不孝者ッ!あんたなんかもう私は知らない!」
「知ったことか!むしろ、復仇に逸る余り御家を断絶させる方が質が悪いわ!」
かくして両者は訣別し、かえって互いを憎むようになった……。
米
このような具合でひどく偶発的に、後の世、諸将に「この戦いが北陸の趨勢を決した」と述懐される尻垂坂の戦いは始まった。
「運がないな。あと一日待ってくれたなら多少は楽になっただろうに」
遭遇戦の報を受け、富山城まで進軍していた雷源は嘆息する。
「相手が三千ならば、ちと危うい。ずっと行軍し続けているが致し方ない。足を速めるぞ」
だが、雷源の懸念とは裏腹に尻垂坂の戦線は膠着していた。
「少しでも休んでください。まだまだ戦いは最序盤に過ぎません」
接敵した当日こそ、血を血で洗う苛烈な消耗戦が行われていたが、翌日に四万が築城を終えてからは神保勢の兵の損耗率が下がり、戦況を五分と五分に引き戻したのである。
さらにその翌日からは、雷源が先行させていた輜重隊とその護衛兵千が到着し、兵力差も均されていた。
「よくぞ耐えてくれた。これでまだ勝ち筋を残せる」
四万をそう賞すと雷源は戦場を三つに分け、諸将を配置した。
砦の左右には雷源、一義、長堯。
砦には四万と長職、長近、井ノ口。
砦の向かい、琵琶川の西岸には昭武、桜夜、優花、左近を置いた。
この陣割には、何がなんでも越軍を通さないという雷源の意思が見てとれる。
越軍本隊八千は雷源が布陣して二日後に到着した。先にいた椎名勢二千余りと合わせて兵数は一万を超える。熊野軍は本隊が九千、遭遇戦の残兵が二千ほど。兵力でいえば、両者の差はさしてなかった。
「堅陣、だな。しかも、種子島の数が多い。正面から当たればこちらも相応の被害を受ける」
越軍の本陣にて、定満は呟いた。
「うむ。されど宇佐美、それは晴天だけのことだろう?雨ないしは雪が降れば、種子島は使えなくなる」
「ああ。だから待てばいいのさ。今は十二月だ。一週間も待てば、一日ぐらいは雪の日だってある」
冷静に熊野軍を分析する定満。定満自身は割り切っているつもりだが、景虎の目には、まだ惑っているように見えた。
(此度の戦は宇佐美にとっては、無二の親友を討ちに行く戦い。わたしにとっての川中島とほとんど意味合いは同じ。できれば、宇佐美には戦わせたくはなかった)
不意に景虎は川中島で、信玄の首に小豆長光を食い込ませたことを思い出す。
あの時の哀しみと虚無感は二度と経験したくないものだった。
しかし、景虎がそう言ったところで宇佐美は聞き入れてくれないだろう。
宇佐美はどうやら雷源の親友であると同時に彼の運命の見届け人たらんとすることを自らに課しているらしい。
(それに……)
もう一人、景虎に気にかかる人物がいる。
今、傍らに佇む直江大和である。
直江は第四次の川中島の戦い以降、体調は思わしくなかった。見かけは二十代後半を保っているが、髪には白髪が混じり、時折咳ごむことがある。
定満もそうであるが、直江も著しく老いてきた。義将として関東、信濃、京と日ノ本を飛び回る景虎の補佐は尋常なものではない。疲労が、身体を蝕んでいた。
(宇佐美も直江も老いてきている。今まで二人はわたしを守り、育ててくれた。だから今度はわたしが守らなければ)
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結局、景虎は宇佐美の案にのり、雪が降るまで待つことに決めた。
だが、それは十二月二十四日の朝に破綻する。
左近が長職を使って椎名勢を挑発。康胤こそ乗らなかったが、その分隊が乗って長職隊に襲いかかったのである。
「椎名勢が突出したか。どうする景虎?」
「わたしが味方を切り捨てられる訳がないのは知っているだろう?助けに行く」
言うと、景虎は命を下して前進をはじめる。他の越軍もそれに続いた。
「やはり、釣れたわね!全軍、斉射しなさい!」
策のため、前線に出てきていた左近が四万に指揮を飛ばし、前線に出てきた越軍に向かって種子島の一斉掃射をはじめる。
未だ嘗て経験したことがない鉛の雨が越軍を襲う。
(野戦においては明らかに越軍が上。種子島を動員すれば、こちらが上になるけどそうは甘くない)
左近は油断せずに冷徹に突出した椎名勢の盾になった越軍を攻め立てる。だが、左近の懸念通り、越軍の反応はかつて同種の攻撃を受けた他軍と比べると鈍かった。
戦場における種子島の最大の旨味は、威力や貫通力ではなく音である。これは、兵や馬を恐れさせ敵の士気を下げるのに役に立つのだ。軍の練度によっては一度斉射しただけで潰乱する分隊すらある。
越軍は足を止めず、動揺した騎馬は死兵と化している乗り手が太股を強く締めて言うことを聞かせた。被弾した乗り手が落馬したが、後続は容赦なく進軍の邪魔だと馬蹄で踏みしだき、前進する。
足軽も粘り強く、騎馬の進軍を妨げる槍衾を貫き通そうと前進する。
だが、倒される訳にはいかない。
左近はすぐにカードを切った。
「雷源様っ!」
「出番だな?者共行くぞ!」
左近の隣で虎視眈々と戦況を眺めていた雷源が頷く。麾下のそ騎馬二千はすでに全員騎乗を終えていた。
馬出から雷源らが飛び出し、越軍の足軽を乗り崩していく。
「北陸無双、熊野勝定はこの俺だ!心得があるやつはかかってくるがいい!」
段平を片手で振るい、足軽の首を二、三同時に飛ばしながら雷源は咆哮する。
越軍にとって雷源は怨敵である。すぐに雷源の挑発に乗る者が現れた。
「言ったな、熊野雷源!このボクが相手になるぞ!うおおおおおおおッ!」
本庄繁長。
揚北衆の最年少でありながら、最大の勢力を持つ、景虎に激しく懸想している武将の一人だった。
「この景虎様の仇め。突然父君を失われた景虎様がいかに気づいたか、思い知れ!」
繁長の一太刀が宙を斬る。
直情的で単純だが、威力は凄まじいものがある。
(おいおい、これ下手したら昭武でも苦戦するんじゃねーか)
だが、雷源には青臭くみえた。昭武ならば良い鍛錬になるだろうが、まだまだ稚拙なものに見える。
動作の終了時を狙って、雷源は繁長の胴に軽やかに強撃を叩きつける。繁長は耐え切れず、落馬した。
「これで、よし。一度離脱する」
「待て、熊野雷源……!まだ一騎討ちは終わっていないぞーー!!」
強かに身体を打ち付けて、立ち上がれない繁長が叫ぶが、雷源はどこ吹く風。騎兵をまとめ、乱戦から離脱した。
「おのれ、おのれ、熊野雷源!必ず、必ず、ボクが討ち取ってやるからなあーーーー!!」
「……そんな叫ぶなよ。戦はまだ始まったばかり。相見える機会がなくなったわけじゃねえだろうに」
やけに暑苦しい繁長に苦笑しながら、雷源は駆ける。
その背を繁長の熱が移ったのか、麾下の隊が目を血走らせて迫る。その目には雷源の首しか見えていない。
「ふう。骨折りだが、こうしてようやく越軍に綻びを生み出せる。四万、左近。それに虎三郎。任せた」
雷源の騎兵は再び馬出に戻る。
さしもの繁長隊といえど殺意の対象が砦の中に入ってしまえば、躊躇し、頭も冷えてくる。だが、越軍が冷やしたのは頭だけではなかった。
「敵騎馬隊に向けて、斉射せよ!」
(しまった……!)
その時、繁長は理解した。自分は釣られたのだと。雷源に対する殺意が増幅し過ぎて、冷静さを欠いていたことを。
弾幕が繁長隊に向かって放たれる。突出した部隊を多方向から貫かんとする銃弾の雨が、降り注いだ。
米
「見事に釣れたわね……」
繁長隊の引っかかりっぷりに左近は苦笑していた。
「越軍の各部隊を雷源が自ら煽ってまわり、将を討ち隊を機能不全にする。あるいは、突出させて種子島の砲火の的にする」
あまりにも無理矢理すぎると思っている策が一定の効果をあげている現状に。
「普通の将なら引っかからないわよ。途中で冷静になって引くわ」
「普通の将なら、な。だが、越軍は違う。越軍は余りにも景虎に盲目だ。それ故に為景の仇である俺に対しては戦意過多になる。つまり、煽りやすいということだ」
もっとも景虎が厳命すれば、なんとしてでも耐えようとするがな、と雷源は付け加える。
「そろそろ景虎もこの状況に気づくだろう。もう一つ何か考えなきゃな」
だが、雷源が新たな策を繰り出す前に戦況は変わる。
俄かに雲が発達し、ついに雪が降り始めた。
十二月二十四日。午後四時ごろのことである。
読んで下さり、ありがとうございました。
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