高校時代の後輩、今は教師をしている女性から電話がかかってきた。
「相談したいことがあるのですが」
聞くと、彼女の生徒が人を殺したらしい。しかし、相談内容はその生徒の救済で……。

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真夏の血には幻

 人を殺してしまった。わたしの頭の中にあることは、それだけだった。

 黒さを含んだ赤色が広がるアスファルトの上で、その赤い液体を堪能しているかのようにうつ伏せになっている彼女を見た。わたしと彼女のまわりには大勢の人が集まってきて、それから、……それから記憶が途切れている。

 血は常に真紅というわけではない。外に出ている時間が長いほどに、黒へと近づく。そんなことが深く印象に残っていた。訊くと、酸素に触れた血はやがて黒くなると言われたが、わたしはそれを信じていない。

 血は、その主が死に近づくほどに黒くなるのだ。

 

 太陽が耐え難い熱を放つ真夏の日、今日は土曜日。この休日に珍しい相手から電話がかかってきた。

「はいもしもし、山田です」

冬馬(とうま)さん? 菅野(すがの)です」

 僕、山田冬馬は別に、人望があるわけではない。特に幅広い人脈があるわけでもない。しかし、それでも菅野という女性とは特殊な関係にある。奇妙な、と言った方が正確だろうか。

 高校の頃後輩だった女子が菅野だ。二つ学年が離れていた。委員会の活動だったか行事の準備だったか、詳しいことは忘れてしまったが、僕は彼女としばしの間共に学生としての仕事をしたことがあった。後に彼女は教師になったわけだが、現在に至るまで、なぜか僕と彼女の縁は切れずに続いている。

 大学に進学した彼女が思いだしたように僕に連絡(というよりは悩み相談だった)を寄越したのがきっかけということになるのだろうが、なぜそうなったのかはわからない。

「あぁ、お久しぶり」

「ちょっと相談があるんですけど、いいですか」

「いいとは?」

「あ、お時間をいただけるか、ということです。今この場でではなく、後日ゆっくりと」

 お時間いただけるか、と言うほどの大層な価値は、僕の所有する時間には有りはしないと思う。暇人の所有する時間は暇人にとっては価値ある物だが、世間はそうも見てくれない。彼女は教師というザ世間のような存在なのだから、「面倒なのでパス」とは言いづらい。

「まぁ、大丈夫だよ。いつがいいの」

「できれば明日に」

 予想よりも近い未来の話だった。確かに僕は今日も明日も、そして来週もさらにその先も暇だけれども。

「わかった。場所は?」

「何か食べたい物なんかありますか? 奢ります」

 ははぁ、これはまずいな。先に見返りを提示してくるとは、どんな代償が発生する相談をされるのかわかったものではない。

 だからって断るわけもないのだけれど。

「うーん……、暑いし、アイスクリームが食べたいかな」

 電話の向こうで、彼女が微妙な顔付きになった気がした。僕がそうだろうと想像したから、そう思えてしまうのだろう。

「冬馬さん、あなたは例えば友達と遊んでいる時、どこか食べ物の店に入りたいなーと思って、それでアイスクリーム屋に入ることがありますか」

「ないな。ファミレスか喫茶店あたりにすると思う」

 今度は本当にため息が聞こえてきた。ちょっとくらい聞こえないように気を遣ってほしい。

「私はですね、冬馬さんとお話しがしたいんです。相談というお話しを」

「だから、別に困ることはないだろう? 昨今のアイスクリーム屋といえば、屋台のように売っている方が珍しい。例えばほら駅前のサーティーワン、あそことか椅子もテーブルもあるじゃないか」

「あなたの最寄り駅付近のアイスや情報なんて知りませんよ。それにあれ、スーパーの地下にあるフードコートじゃないですか」

 ばっちり知っているじゃないか。ツッコミを入れてほしいのかと疑うが、今までに彼女がいわゆる「ボケ」を試みたことがなかったことを思いだした。

「それに何の問題が?」

「……あまり人に聞かれたくない話なんですよ」

 見返りを先に提示されると、代償がどんなものなのかと嫌な予感がする。それが今回の場合、嫌などころでは済まないかもしれない、と感じた。フードコートにいる見ず知らずの人にさえ聞かれたくない話とはなんなのだ。

「それなら電話にするか? まさか第三者に聞かれはしないだろうし、僕は別にアイスクリームが食べたくて仕方がないわけではないし」

 ベストなのは、彼女がアイスクリームを買ってうちまで来ることだ。と思ったが、道中で溶けそうなので却下。

「それでは困るんです。ちゃんと顔を見て、お話ししたいんです」

 ははは、おかしなことを言う。顔を見たって見なくたって相談すること自体に差し支えはないし、僕の出す受け答えも変わらないだろう。

 むしろ、さっきから言う通り僕は代償の大きさを恐れているので、顔を見て話したいだなんて言われたら、余計に身構えてしまう。

「……そうかい。じゃあわかった、僕がキミの家に行こう」

「え?」

「なんでもいい、アイスクリームを買っておけ」

「ちょ」

 彼女は冷静さを失う。まぁ女性の家にいきなりというのが、常識的にあり得ないことだというのはわかっている。しかし、僕は今相談をお願いされている立場なのだ。そういう意味でも年齢的な意味でも、僕の方が偉い。

 偉い者は権力を持ちあわせ、権力は常識を捻じ曲げるのだ。……もちろん、今の僕が持つ権力にそこまでの力はないけど。

「なにか問題でも?」

「いや、問題というか、私はいいんですけど……。冬馬さん、うちの場所知ってるんですか?」

 今度は僕の方がため息を吐いた。

「知っているわけがない。なんとか案内しろ」

 もう結構長い付き合いになるのに、僕が彼女の住所を把握していないことも知らないのか。ある種の失望を感じていると、受話器から、今までとは少し違うトーンで声が聞こえてきた。

「……冬馬さんって、なんというかその、相変わらずですよね」

 生気のこもっていない声でもって最後に、

「たまには常識的なこと言ってくださいよ」

 と聞こえ、通話は切られた。

 

 メールで送りつけられた地図と住所を頼りに、炎天下の中僕は見知らぬ土地を歩いていた。見知らぬと言っても最寄り駅から三駅くらいのところで、決して遠くはなれた地ではない。

 地図を読むのは得意でないし、住所で場所がすぐに把握できれば苦労はしない。人間はカーナビではなく、僕は人間なのだ。駅から徒歩十五分と聞かされていたが、もう三十分近く歩いている。あまりの日差しと気温にそろそろ心が折れてくる。いくら服の袖を短くしたところで、暑さが多少マシになるだけで涼しくはならない。

 ふと、人を見かける。はたして彼は地元の人なのだろうか。休日だというのにスーツを着て道行く若い男性を見て、僕は道を尋ねることに決めた。知らない人に話しかけることはあまり好きじゃないのに。

「すみません」

「はい?」

「ここの家に行きたいのですが、どのあたりかわかりますか」

 男性は「あー……」と言いながら僕から目を逸らす。なんとなく彼の視線を追うが、まさか偶然空を飛んでいたビニール袋を見ているわけでもあるまい。

「ええとですね、そこの道を左に曲がるとコンビニが見えるんですよ」

「はい」

「それで、そのコンビニを右に曲がって、しばらく進むと本屋が出てくるんですよ」

「はいはい」

 左に曲がって、コンビニが見えたら右。すると本屋が見える。ここまでは問題なく記憶した。

「で、……あとはその周辺のどこかなので、ニュアンスで」

「ニュアンスで」

 ……おかしい、僕は謎解きアトラクションを楽しみに来たのではないのに。

「すみません、あまり詳しくないんです」

「いえ、助かりました」

 あとは僕のニュアンス感が奇跡を起こします。心の中で確かに奇跡を信じ、男性に礼と別れを告げた。

 言われた通りにすぐそこの角を左に曲がり進む。すると確かにコンビニが見えたので、そこを右に曲がる。もう今、コンビニで飲み物なりアイスクリームなりを買おうかと思ったが、それではせっかくの楽しみがなくなってしまう。我慢して進むと、最後の手がかりである本屋が見えてきた。

「さて……」

 ここからが問題だ。ここからはニュアンスで、天然の謎解きアトラクションで遊ばなくてはならない。突然謎の密室に閉じ込められた人が「わぁい、脱出ゲームで遊べるぞ」と喜びはしないように、僕も軽い腹立ちと絶望感を感じていた。

 適当に歩きながら思う。脱出ゲームは、脱出するために必要な条件が必ず隠されているとわかっているから、面白いのだ。謎解きアトラクションも同じで、支給される情報で必ず正解に辿りつけるとわかっているから、楽しもうという気が湧くのである。別に僕は楽しみたいわけではなかったが、苦しみたいわけでももちろんなかった。

 もっと言うなら、脱出や謎解きはゲームやアトラクションだから面白いのだと思った。一つ一つの結果がダイレクトに自分の人生に繁栄される現実では、楽しんでいる余裕などない。……そんなことを考えながら歩いていたからだろうか、僕は気づくと、さっき背を向けたはずの本屋に出くわしていた。

 考え事をしながら歩くものではないな。そう教訓を刻みながら、ついに僕は携帯を取りだす。

「……菅野」

「冬馬さん、約束の時間五分過ぎましたよ。「爽」を買っておいたんで早く来てください」

 爽か、シンプルで悪くない。俄然やる気が湧いてくるが、やる気だけで問題が解決するとは思えなかった。

「なあ、菅野。僕は今からまわりの景色を伝えるから、その情報を頼りに道を教えてくれないか」

「はい?」

「今、そこそこ大きい本屋の前にいる。次はどう進めばいい」

 こんなに暑いというのに、まったくありがたみを感じないほどの冷たさを持った言葉が返ってきた。

「地図を見てください」

 僕は、もしも塾の講師が、勉強しに来た子供に「教科書を見てください」の一言しか言わなければ、そいつはクビになると思う。それで解決するような子は、そもそも塾なんか行かないのだ。僕だって、そうしたくて電話をかけたのではない。

「見たよ。見た瞬間に抱いた感想なんだが、帰ってもいいか?」

「感想でさえないですよね、それ。ダメです、来てください。ちゃんと掃除したんですから」

 来客相手に「掃除したんですよ」と言うやつがあるか。なぜわざわざ、掃除の必要性があったことを暴露していくのか。

「だったら道案内してくれ。でなければ、僕はコンビニで爽を買って帰る」

「……はぁ。わかりましたよ。駅から来たんですよね? まず本屋を、来た時の方向に通りすぎてください。方位で言った方がいいですか?」

 なんだ、一手目は合っていたじゃないか。そう思いながら、言われた通り本屋を通りすぎる。現時点で、このルートはさっきも考え事をしながら歩いた道だ。

「通りすぎたぞ」

「そうしたら、そのあとの角を曲がってください。左に曲がる角ですよ」

 おお、その角もさっき曲がった。僕のニュアンス力もなかなか捨てた物ではなかったわけだ。謎の自己肯定感を感じつつ、進む。

「曲がった」

「そこから真っ直ぐ進んで、最初に見えたアパートの一階一番奥が目的地です」

 ……自己肯定の気持ちはあっさりと崩れ去った。僕は携帯を持ち直し、できるだけ重々しい雰囲気を出しながら言った。

「ここ、さっきも通った……」

「いい加減にしてください」

 笑ってもくれない。なぜ人間的な冷たさは、暑さを紛らわす手段にならないのだろうか。そんなことを考えながら言われた部屋のチャイムを鳴らした。怪談は夏の風物詩として有名であるし、一体暑さを紛らわすことに必要な条件は何なのだろう。温度的な冷たさではないはずだ。

 

 掃除されたという部屋に興味はなかった。ただ目の前に出されたアイスとスプーンを見る。しかし、目的の品もさることながら、クーラーの効いた部屋はそれ以上にありがたいものだな。

「それで、相談とは?」

「どうぞ先に食べてください。終わったら話しますから」

 そう言う彼女は、何も手にしていなかった。アイスクリームは高級品でもないのだから、自分の分も買えばよかったのに。もしくは、買ってあるがすでに食べていたり、あとで食べたりするのだろうか。

「食べながらじゃあダメなのか?」

「真面目な話なので」

 真面目な話をするのにアイスクリームを食べていてはいけない、なんてルールないだろうに。真面目な場にアイスクリームを持ち込むのは非常識、という常識ならあるかもしれないが。

「急かされているようで落ち着かない」

「初めて来る人の家で落ち着けないのは当然です」

 そういう問題ではない。それに、彼女の家に来たって緊張するわけではない。

 しかしそこで思い至る。急かすような状況に重ねて、彼女は何も口にしていない。この場においては彼女だけが、だ。これは、そのことも含めて「急かす」という効果を発生させる目的なのかもしれない。

 仮に僕の推測が当たっていたとしたら。そんな策に乗ってやる気は微塵もない。

「お前、長袖で暑くないのか」

 ふと、彼女の服装を見て感じたことを口に出した。

「日焼けしたくないので。冬馬さんは夏になるといつも半袖ですよね」

 日焼けって、ここは屋内じゃないか。日焼けしたくないという理由を認めるとしても、家に居る時くらい涼しい恰好をすればいいのに。

「日焼けの防止は、日焼け止めを塗ればいい。わざわざ暑い思いをする必要はないよ」

「科学の過信ですね」

 日焼け止めクリームとか、あれは科学なのか? ……まぁ、そうか。科学だな。僕はそういうことに詳しくないので、医学と科学の違いがいまいちわかっていない。

 着々と容器から僕の中へと減っていくアイスクリームを見て、一応本題についても話しておこうかと思った。

「一応訊いておきたいんだけど、その相談とやらを聞いて、僕が困るということはあるの」

 見返りをすでに半分ほど平らげながら、今さら代償の内容を探る。知ってどうするということではないが、知らずにはいられない。それが人間というものだと思う。

「困る、かもしれません」

「命や生活に関わる?」

「それはほぼないと思います。命に関わる相談だったら、サーティーワンを大人買いしてきてましたよ」

 いや、僕は何も、アイスクリーム大好き人間というわけではないのだぞ。最後の晩餐になるかもしれない品がアイスクリームとは、それはさすがに嫌だ。

「なら、爽が一つでよかった」

 食べているうちに、ほどよく体も冷えてきた。残る三割ほどを一気に平らげ、準備完了のサインとばかりにスプーンを空になった容器に置いた。

 容器は置いたスプーンの重みで倒れ、スプーンの持ち手の部分がテーブルとぶつかって音を立てる。それが実際の、相談開始のサインとなった。

「では、いいですね?」

「僕はいつでも大丈夫だ。食べている時でもね」

「わかりましたよ。……話しますね」

 ここでようやく彼女は重苦しい雰囲気を出し始める。やはりそういう話し方になるような相談なのだなと、僕の方も身構える。

「冬馬さん。人を殺したことはありますか」

 身構えた体から、じわりと力が抜けていくのを感じた。彼女がなんと言ったのか。それを正しく理解して飲み込むほどに、それに平行して体の力は抜けていく。

 最終的に、僕は軽く笑った。

「ないよ」

「直接手を下してなくても、殺してしまったと感じたようなことは?」

 すっかり脱力してしまったので、座り直し姿勢を正す。それで元の緊張感を取り戻そうとした。

「さぁ、どうかな。仮にあったとしたら、なに? 僕は殺し屋にはならないよ」

 もちろん、殺される側にもならない。

「私の生徒が一人、登校拒否の状態なんです」

「話が飛ぶね」

 彼女は現在、中学校二年生の担任を担当していたはずだ。不登校という問題はさぞ苦労の絶えないことだろうけど。

「それで? 現時点で聞いた限りでは、僕が力になれることはないと思うけど」

「最後まで聞いてください。登校拒否の彼女は、そうなってから間もない頃に、理由を話してくれたんです」

 それはそれは。学校に来ない生徒から話を聞いたというなら、そこにはそれなりの苦労があっただろう。お疲れさまだ。

 そして今、「彼女」と言ったな。その生徒は女の子なのか。

「理由はなんと言っていたの」

「人を、殺してしまったと」

 今度は、脱力感に襲われることはなかった。しかし、なぜだか勝手に笑いが湧いてくる。

 ふふっ、と軽く音を出してから、僕は努めて真顔に戻った。

「まさか殺人事件、ってことはないのだろう?」

「その通りです。どちらかというと、それはまた別の人が事件の加害者として扱われています」

 意味が飲み込めなかった。事件があったことは、本当なのか。

「どういうこと」

「交通事故です。現在不登校の生徒がトラックに轢かれそうになったところを、彼女の友達が助けました。……自分の命と引き換えに」

加害者というのはそのトラックの運転手か。

 事故当時のシチュエーションがわからないので、誰が悪いとは僕には言えない。ただ、確実に人が一人死んでしまっているというのだから、それには心が痛む。

「友達というのは、同性の?」

「そうです」

 恋愛関係があったりとか、そういう話ではないのか。

 ……僕はもう、大体この話の着地点が予想できていた。

「まぁ……、悲しむくらいしか僕にはできないよ」

「だから、最後まで聞いてくださいって。彼女はその事件で、自分のせいで友達を死なせてしまった。自分が殺したんだと言って、ほとんど部屋から出てこなくなってしまったそうです」

 話を聞く限り、その女子生徒は友人が轢かれてしまったところを見たことになる。それはもう、たとえ轢かれたのが全然関係のない他人だったとしても、相当ショッキングなことだったろう。

「僕でもそうなるだろうな」

「私もです。でも、だからずっと閉じこもってていいよとは、私は言えません」

 教師という立場なら、なおのことそうだろう。そんな生徒を放っておけるくらいなら、何か別の職業を目指していても良かったのだから。

「なので、冬馬さん。彼女と話してあげてはくれませんか」

 そして、僕の想定していた点へと、話は着地した。

「どうして僕なんだ。僕はカウンセラーや、そういう心得のある人間ではない」

「知ってます。でも、私は冬馬さんにその素質があると思っています」

 素質か。そんなものが仮にあったとして、それだけでは役に立たない。試しに鉱石の原石でも売ってみたらどうだろうか。このことがよくわかるぞ。

「どうしてそう言える」

「私の時が、そうだったからです」

 今度こそ僕は笑う。

「はは、あれは関係ないだろう」

「いいえ。私は、それでずいぶん救われたものです」

 問題はそこではない。僕は別に彼女を救おうとしたわけではないのだから。

 彼女が話しているのは、例の大学に行った彼女が僕に相談してきたという話である。それがきっかけで今もこうして話す縁はあるが、だからどうしたということではない。

「キミが救われたのは、勝手にキミ自身が自分を救ったからだろう。それに、今聞いたような話を僕が解決しろというのは重すぎる。アイスクリームどころか、札束を積まれても引き受けない」

 目の前で友人が死ぬところを見た中学生を立ち直らせろとは、お願い事としては残酷すぎる。かわいい後輩のお願いだから、なんてもので受けられはしない。

「……お願いします」

 驚いた。彼女は、菅野はその場で僕に向かって頭を下げた。下げられた頭には指が添えられ、床に触れていた。

 それを見降ろして言う。何も、見降ろすことで僕が悪いことにはならないのに、少し言葉が喉に詰まった。

「……そういうのは、あまり好きじゃない。日本の土下座というのは、相手に言うことを聞かせるための圧力という感じがする」

「なら、どうすれば」

 頭を上げた彼女は、真っ直ぐ僕の目を見た。

反射的に目を逸らす。家の中にビニール袋は飛ばないので、見つめるべき場所を失った。そういえばあの男性に道を尋ねた時、僕は彼の目を直視して話しかけた気がする。

「どうしたって断る。札束でもダメだと言っただろう。もっと言えば、世界を手に入れられる権力でも断る」

 そうきっぱりと言ってやると、今度は彼女が視線を彷徨わせた。

「そうですか……。なら」

 彼女はふいに立ちあがると、台所へと向かった。何かと思い首を回し、目で追う。

 彼女は迷いなく包丁を手に取った。

「脅します」

「はっ」

 喉から出るような、乾いた笑いが飛んだ。あぁそういえばアイスも食べてしまったし、飲み物がほしい気もする。

「キミにそんなことができるのか? ……まぁどっちにしても、飲み物をもらっていいかな。生きるにしても死ぬにしても、喉が渇いた」

「冬馬さんは大丈夫ですよ」

 そう言うと彼女は、右手に持った包丁を自分の首元へと当てた。

「な、ばかっ……!」

 思わず立ち上がる。

「動かないでください!」

 突然大声を出されて、情けないことに反射的に筋肉が硬直する。一旦固まってしまえば、次に動くべき正しいタイミングがいつなのか、僕にはわからなくなってしまった。

「心の病も風邪みたいにうつるって言いますけど、あれって本当なんですね。私ももう、彼女を見ているとつらくなってくるんです」

 大した力も必要とせず、少し右手を引けば首から血が流れだす。そんな状態にある彼女を見るのは耐え難かった。しかし、耐え難いのに、僕は動けない。

「事件の原因は、信号を無視したトラックなんです。彼女もその友達も悪くないのに、どうして一人は死んで、一人は心に傷を負わなければならないのでしょう? もう、見てられないんですよ。一番つらいのはあの子なのに、私がこんなことを言うのもおかしいんですけどね。そうやってそんな私を見ていると、私は私がどんどん嫌いになっていく……」

 見ると、彼女の瞳からは涙が流れていた。頬を伝い、顎から落ちてその涙は包丁を濡らす。濡れた刃物は美しく光るものだけれど、今はその輝きが怖かった。

 僕は、ついに動いた。しかしそれは体ではなくその一部分だけ、口だった。

「わかった。キミの相談は受け入れる。力になれるかわからないが、とりあえずその子と話はしてみよう。だから、待て。死ぬな。死ぬなよ」

 震える声で、やっとのことでそう伝えた。

 彼女は包丁を台所のシンクの上に置いて、涙を拭った。

「お願いしますね……」

 全身から力が抜ける。人を殺したことはあるかと訊かれた時の比ではない脱力感だった。もう喉はカラカラだ。

 

 最近は、成人済みの男性が未成年の女の子に声をかければ通報される時代である。成人済み、年上か? まぁともかく、女の子に声をかけるというのが非常にデリケートでリスキーな行動なのだ。声をかけるという意味が変なものなら当然なのだが、道を尋ねただけでも危ないことがあるらしい。

 彼女の家の場所を尋ねる時も、僕は賢明にも男性に訪ねた。そんな僕がここで変にミスをするわけもない。いや、そもそもそんなミスは彼女が許さないのだけれど。

「私がなんとか彼女を学校に来させるので、冬馬さんはカウンセリングルームで彼女と話してください」

 あの日相談を引き受けて、飲み物ももらわずに帰った日の夜。彼女から電話がきて、そう言われた。

「カウンセリングルーム? 最近の中学校にはそんな部屋があるのか」

「ありますよ。防音です」

「それ逆にまずくないか」

 部外者である男と、女子生徒が防音の部屋に入るとは、他人の目という法が許すとは思えない。

「えぇ、部外者としてだと百パーセント捕まります。というわけで、冬馬さんにはカウンセラーとして来てもらいます」

「は?」

 さらりととんでもないことを言う後輩だ。そういう嘘は、エイプリルフールでも法が許してくれないというのに。

「大丈夫ですよ、私の友人ということで紹介するので」

「何も大丈夫じゃないだろう。それでバレない確証は?」

 というかそもそも、僕と彼女の関係って一体なんなのだろうか。友人と紹介するので、という言い方からは暗に、実際はそうではないけれどという印象を受けるが。

「大丈夫ですって。別に先生全員に紹介するわけじゃないんですから」

「そういう問題ではない」

「まぁ、もしまずいことになったら私が責任取りますよ」

 当たり前である。部外者を呼び込んだ者として存分に裁かれるべきだ。

 しかし同時に、侵入した部外者にも当然裁きが下る。彼女が責任を取ることは、僕にとって何も嬉しいことではない。

「責任というのは、満ち溢れる金の力で僕を救ってくれたりするのか?」

「無事に娑婆に帰ってきたら、私は冬馬さんの奴隷にでもなんでもなることを誓います」

 そういう責任の取り方は望んでいない。娑婆に残らせ続けてくれることを望んでいる。

 が、まぁ一応。

「そうか。なら当日、誓約書を作っておくからサインしてもらう」

「えぇ……、それはちょっと引きます」

 ははは、奇遇だな、僕もキミに引いている。犯罪者め。

 そうしてお互いがお互いに引いて、その日は通話を切った。

 

 三十日と少し、一か月だ。元々彼女からの連絡は、年に何回あるかという数え方をするような頻度なのだが、それにしたって一か月だ。相談を受けてから約一か月、それだけの時間が経ってから、僕の家に電話がかかってきた。

一か月前と同じく、今日の曜日は土曜だった。

「冬馬さん、予定が決まりました」

 勝手に決めてくれる。まぁ、その方が助かるのは事実だが。

「いつ?」

「明日です。場所は、女子生徒の家になりました」

「はぁ?」

久しぶりに、本当に久しぶりに僕は素っ頓狂な声をあげた。思えば、そもそも僕が大きな声を出したのは彼女に会った時以来かもしれない。一か月前かぁ。

「いろいろ策を練ったんですけど、やっぱり学校へ入るのは無理だという判断になりまして」

「当然だな」

 むしろ、事が常識的に処理されてよかった。彼女は僕のことを非常識者呼ばわりするけれど、時々向こうまで僕と同じになることがあるから困る。

 何が困るって、お互い非常識になってしまうと止める人がいなくなってしまうのだ。実際、僕は別に学校への不法侵入がバレても仕方ないと思っていた。

「それで、ということで彼女の家です」

「話が飛び過ぎてまったく納得できないが、まぁいい。何時だ」

「午後の三時頃になります」

「すばらしい」

 午前いっぱいと午後に少し、時間が取れるというのは実にありがたい。僕だって、いろいろと準備があるのだから。

「また迷子になられても困るので迎えに行きます」

「助かる」

 助かる、という言葉は心の底から出たものだった。

後輩に迎えに来られるとは、現役高校生の時なら、そのシチュエーションにロマンでも感じていたかもしれないな。今はといえば、多少の情けなさを感じるのみである。

「ちなみにここから、僕の家からどれくらいかかる」

 彼女の住んでいたのは最寄り駅から三駅のところだったが、記憶が正しければ彼女が勤める中学校は、二駅ほど行ったところだったはずだ。つまり近い。

「徒歩ですよね」

「もちろん。僕は自分で操る乗り物の類には」

「乗れないことは知っています、自転車さえね。一応バスは使わないのかという意味で訊いたんですけど、徒歩なら冬馬さんの家から駅まで十五分。電車での移動は待ち時間を除いて十分未満、そこから二十分ほど歩けば彼女の家に着きます。つまり……」

「徒歩だけで片道合計三十分以上。だったら一時間前に家を出る」

「わかりました」

 明日の予定は決まった。と言っても、僕はほとんどの時間を家で過ごしているので、特に気をつけることはない。身だしなみなどの支度は午前で十分すぎる。

「ところで、その女子生徒と話せる環境はどうなっている」

「部屋のドア越しです」

 顔はお互い見えない、と。彼女がこの相談を持ち掛けてきた一番初めの頃、顔を見て話がしたいと言っていたのを思いだした。やはり、その意図はわからないが。

「家族はいるのか? 家族に聞かれるような状態でまともに話は」

「父は仕事、母はしばらく外出してくれるそうです」

「教師のお前と、よくわからない僕だけを置いてか?」

 不用心だ。が、捉え方を変えれば、

「ずいぶんと信頼されているようだな」

「冬馬さんに言われるとなぜかイラっときます」

 なんでだ。今までで一二を争う理不尽を見舞われた気がする。気にはしないからいいけども。

「ははは、我慢してくれ。で、つまり今の話だと、お前は話を聞くということか」

 包丁を首元に当てる彼女の姿が思い起こされる。女子生徒と話すというのに、彼女がいるのではやりにくい。しかしさすがに彼女まで追いだせはしないし……。

「私は耳栓しときますよ。冬馬さんかのぞみちゃんがお望みなら、目隠しでも手足を縛るでもなんでもしますよ」

 お望み、という単語に似ているが間違いなく別物である名詞が出てきた。固有名詞だろう。

「女子生徒の名前は「のぞみ」というのか」

「あ、そうです。言い忘れてましたね」

 あとから訊くつもりだったから忘れていたのはどうでもいい。が、今聞いたからには憶えなくては。のぞみちゃんね。

「ちなみに上の名前は? いきなり下の名前で呼んでもおかしいだろう」

 かといって名前を呼ばないのでは、話をするのに支障が出るかもしれない。

「こやまです。小さい山で、こやま」

「こやまのぞみ、ね。せっかく漢字まで教えてもらったから訊くけど、のぞみは希望の望でいいのか」

「はい、その通りです」

 小山望。憶えた。

「あーそれとあれだ、一応もう一人の方も訊いておきたい」

「もう一人?」

「故人の方」

 あぁ、と少し間があった。心なしか、受話器を通して繋がれている空気が沈んだ気がする。

広田真奈(ひろたまな)です。広い田んぼに、真実の真と奈良の奈です」

 広田真奈ね。こっちも憶えた。憶えておいて、困ることはないだろう。

「憶えておく。ありがとう」

「そのありがとうっていうのも、冬馬さんに言われるとなんだか妙ですね」

 妙とはなんだ、妙とは。イラっとくるならまだしも、妙とは。具体性がなさすぎて全然言いたいことが伝わってこない。

「意味がわからない。僕はなんと言えばいいのだ」

「いつもはほら、さっき迎えに行くって言った時みたいに、助かる、とか言うじゃないですか」

「あぁ、なるほど」

 そう言われたらそんな気もする。僕がストレートにありがとうと言うのは、キャラじゃないというやつなのか。……ひどくないか?

 そうは思うが、言われた瞬間に納得してしまったのも事実である。僕はそういう人間として見られているということを、今心得た。

 そして、これで僕が知っておくべきことは、おそらく全て知った。最後の自分自身のキャラについては余計だったけど。

「わかった。じゃあ明日、迎え頼むぞ」

「念には念を、ということで一時半過ぎには行きますが、いいですか?」

「構わないよ。何なら朝からでもいい」

 軽口を叩いたのが失敗だった。受話器の向こうが途端に静かになったかと思うと、

「ふざけないでください」

 と言われ、通話は切れた。だからその冷たさは、暑さを紛らわしてはくれないというのに。

 受話器を置いて、僕はさっそく明日への準備をすることにした。まずは、奥底に眠った長袖の服を掘りださなければならない。その次は、洗面所だ。

 

 次の日、日曜日。相変わらず暑い。夏が終わる気配は依然として感じられない。

 時計を見ると一時半きっかし。そろそろ迎えが来てもおかしくない。最後に鏡を見るが、大丈夫、善良な人間に見えるはずだ。

 五分となかった。家のチャイムが鳴る。

「早いね」

「言った通り、一時半は過ぎたでしょう。行きましょう」

 回れ右とばかりに旋回し、歩きだす彼女の背中に声をかける。

「ちょっと待て。飲み物を持っていく」

「あぁ、そうですね。冬馬さんのようなモヤシはこの炎天下、砂漠を歩くようなものでしょうから」

 一か月前、僕が彼女の家を訪ねたことを忘れているのだろうか。ちゃんと辿り着けたじゃないか。彼女の助けを借りて、ちゃんと。

「よし、行こうか」

 午前のうちに買っておいたスポーツ飲料を装備して、家を出る。案内役らしく彼女は僕の前を歩くが、さすがに最寄り駅までは自力で行けるぞ。

 しばらく歩いて、彼女がずっと無言でいるものだから、僕はなにか話そうとした。しかし話題はしっかり決めて話さないと、知らず知らずに愚痴になることがある。

「気が重い」

「期待しています」

「気以外も重い」

 緊張しても仕方ないので考えないようにしているが、僕が今から試みようとしていることの責任は、かなり重い。潰されてもおかしくはないほどに。実際、彼女は潰されかけていた。

 それ以上喋ることもなく、駅に着いた。そこでようやく、

「あれ、冬馬さんどうしたんですか」

 と言われた。彼女の視線は、僕の腕へと注がれている。正確には、袖に。

「今さらか? 以前キミに科学を過信していると言われたからな」

 僕は、昨日のうちに掘りだしておいた長袖の服を着ている。正直暑い。半袖でも暑いのに、これは暑すぎる。

 そもそも日焼け止めの過信を科学の過信と言われたが、広い意味では袖が日焼けを防止することも、科学的なことではないのか? この世のものに、科学と関わらずにいられることなんてあるのだろうか。

「……そうですか。影響されやすいんですね」

「そうでもない。なぜなら、五分ほど前にもう二度とやらないと心に誓ったからだ」

 定期を使って改札を通る。目的の方面に行く電車は、あと五分待つそうだ。

「……キミの口数が少ないとやりにくい」

 ホームのベンチに座って、本音を漏らしてみた。

「私は何もしないじゃないですか。冬馬さんに期待しているんです」

「のぞみちゃんとの話がじゃない。今現在のことだ」

 反対路線に電車が止まる。車両に出入りする人の気配を感じながら、話を続ける。

「五分間、無言はつらい。なにか話せ」

「そんなに口を動かしたいのなら、しりとりでもしますか」

 今、彼女は余裕がない。自分のクラスの生徒が、これからどうなるかが決まる日と言っても過言ではない……かもしれない日。その当日になって、余裕を失っている。昨日はそれなりに普通だったのに。

 昔から彼女はそういう人だったのかと思いだそうとすれば、全然記憶が出てこない。とにかく、前日までは元気だが当日で潰れてしまうタイプらしい。

……いや、やはりおかしい。僕と彼女は高校時代、何かしら学校の仕事を共にしたはずだ。それだから、こうして今でも続く縁があるのだから。その仕事に、「当日」という概念はなかったのか? あったはずだ。生徒会か何かの活動だったのか、行事の準備などだったのかは忘れたが、とにかく何かはあったはずだ。

それが、それなのに、印象に残っていない。ということは、彼女に特筆すべき点はなかったはずだ。前日も当日も、特別元気出もなければ、今のようになることもなかった。

「しりとりか、やろう。しりとりの「り」」

「本気でやるわけないでしょう。馬鹿なんですか?」

 ひどい言われようだ。馬鹿ではない、はず。

「馬鹿じゃない。ただ少し、冗談が通じづらいタイプの人間なんだ」

「……そうですか」

 そして、また無言……。男子学生数名がホームに現れた。非常に騒がしい。彼らの会話に耳を傾けて暇を潰そうかと思ったが、今はなんとなく、その騒音が不快だったので諦めた。

 そうしているうちに電車がやってくる。

「来ましたね」

「あぁ、行こう」

 二人で立ちあがって、ほとんど正面にあるドアから入る。二つ並んで空いてる席がなかったのでどうしようかと思えば、彼女は座る気がないらしい。僕も立つことにした。

 電車のドアが閉まる瞬間、彼女が言った。

「……ごめんなさい」

 危うく聞き逃しそうになるほどの小声だったので、そもそも僕に聞かせるつもりだったのか疑問に思った。なので、返答は頷くことで返した。

 

 何があってもいいようにということで、かなり早めに家を出た。念には念をという方針で動いた結果、何も問題は起こらなかったことでの問題が発生した。早く来すぎたのだ。

 わざわざ長袖を着て、この暑い中ただ時間を潰すだけというのはつらい。唯一の話し相手である彼女でさえあんな風では、いよいよ頼りになるものがない。

 目的の駅で下車して数分。前を歩く彼女は、一見するとただ道を示すだけの機械と錯覚しそうなほどに、生気が抜けていた。

「やはり二時に出て丁度くらいだったのかな」

 特に深い意味はなくそう言ってみたが、彼女から返答はなかった。いよいよ一言も返してくれなくなったか。

 暑さと重さに気が滅入ってきた僕は、無意識に探していたのだろう。彼女が歩いて行く先に、この状態からの逃げ場を発見した。

「なぁ、そこのコンビニ。寄っていっていいか」

 黙々と一定のペースで歩いていた彼女が足を止め、振り返った。

「もう飲み物が底を突きましたか」

「いや、まだある。でもなんだ、こんなに暑いのだし、アイスクリームくらい食べてもいいかなと思ってね」

 すぐには返事が返らなかった。僕をじっと見つめて、それから彼女は自分の持っていた飲み物を一口飲んだ。

「……時間も余っていますからね。そうしましょうか」

 たかだかコンビニにアイスクリームを買いに行くのに、これほどの緊張感を持ったのは初めてだった。

 店内に入ると、レジの後ろにかき氷の広告が出ていた。値段も書いているので、これはレジで頼んで買うタイプの品だろう。かき氷を食べるつもりはなかったが、とにかく暑さを紛らわせる物が食べたかった。僕はそれを頼むことにした。

 レジの後ろを指差しながら、彼女に訊く。

「僕はあれにするよ。キミは?」

「私はいいです」

 またか。以前だってそうだった。僕だけ食べていると、なにか急かされているような気分になってしまうのだ。それは遠慮したい。今の状況なら、特に。

「まぁそう言わずに」

「……では冬馬さんと同じ物を」

 了解して、店員に注文する。半ば僕が強制したのだから、支払いは全て僕持ちだ。

「はい」

 金と引き換えにもらってきたかき氷。一つを彼女に渡して、それで空いた片手で、レジの横を指差す。このコンビニにはイートインがあるから、そこで食べようという意味で。

 しかし、今日は日曜日。昼過ぎとはいえど客はそれなりに多く、席は空いていなかった。

「あれ、空いてないのか。これは想定外だな」

 まさか店内で立って食べるわけにもいかず、僕たちはかき氷片手に外に出た。外で食べては暑いし、氷が溶けてしまいそうだったが仕方ない。真夏の太陽の下でかき氷を食べる、ということに価値を感じる人もいるのだから、今はそういう人を見習おう。

「かき氷を一気に食べると頭がキーンと、痛くなるだろう? あれは、なぜそうなるかわかるか」

 そろそろダメ元の精神が身についてきて、返答がないことを恐れず話題を投じることができた。

「さあ。なぜなんですか」

 意外、普通の反応。しかし、せっかくの普通に対して、僕は大した答えを用意していなかった。

「僕も知らない。アイスクリームではならなくて、かき氷ではなる理屈がわからない」

 まぁ、ある意味今の僕の言ったことも、普通といえば普通である。彼女は至極つまらなさそうに。

「どうでもよくないですか」

 と言った。その時僕の頭が痛んだのは、本当に全てかき氷のせいだったのだろうか。

 食べ終えたので容器とスプーンをコンビニ前のゴミ箱に捨てる。捨ててから気づいたが、これで僕は彼女を急かす側に立ってしまったらしい。急かされる気持ちを知っている分、今のは良くなかったと反省する。

 しかし、思い返す。僕は今までに、一緒に食事をする相手に気を遣って、食べる速さを変えたことがあったか? 答えはノー。一度たりともないはずだ。とすると、今の僕は、彼女と同じように少しおかしくなっているのかもしれない。ただでさえ気が滅入る暑さに、今から対面する話の重さは、おかしくなるには十分なものなのかもしれない。

 それほど時間もかからず、彼女もかき氷の容器を空にした。

「行こうか。と言いたいが、まだ早いな」

 今目的地へ向かえば、指定時間の十分前くらいに着くだろう。余裕があって大変良いと個人的には思うが、相手のこともある。勝手に早く行くのはまずいかもしれない。

「そうですね……」

 たしか、小山望の父は今日仕事でいないのだったか。日曜だというのに大変だ。とはいえ、休日に仕事が入ることのある職種もあるだろう。ここ最近は、職種に限らずそういったことが多いまである。

 個人的に土曜ならまだしも、日曜に仕事が入るのはよろしくないと思っている。土曜が週休一日制に戻るならいいが、日曜までなくなるのはおかしい。そのあたりは、国がどうにかするべきなのではないか。

 そんなことを考えていると、今隣に居る教師のことが気になった。

「教師という職業に僕は詳しくないけれど、キミは今こうしていて、仕事的には大丈夫なのか?」

 部活動の顧問などになってしまえば、休日が休日の体を成さないと聞いたことがある。

「……まぁ、今も仕事をしているようのものですから」

「なるほど」

 たしかに、そういう捉え方も出来る。しかし、何も彼女は仕事だからという理由で、今に至っているのではない。それは確信できる。

 と、その時だった。何もおかしなことではないが、目の前の道路をトラックが通過していった。彼女は、僕の隣でそれを睨み付けるように見ていた。

「…………」

「……なにもキミは、現場を見たのではないのだろう?」

 頷く彼女に、少し興味が湧いた。もちろんそれを口にはしないが。

 事故現場を見たわけではないのだろう。では、見られるものなら見たかったのか。そんなことは、訊くものじゃない。

 

 一時は冷えた体も、すぐに元の熱を取り戻す。物を食べている間だけ少しは緩和されていた空気も、また元の重さを取り戻していた。

小銭で買える安らぎなら、せいぜいこんなものか。過度に何かを思うこともなく、僕は再び彼女に付いて歩く。五分程度なら、早く着いてもいいだろうという判断だった。

実際は、いよいよ五分が耐えられなくなった、という下での判断だったのだが。時間より早く着いてしまうことより、今の彼女には抑えられないものがあった。

「ところで僕は、初めの頃に言っていた通りカウンセラーを名乗ればいいのか?」

「そうです」

 洒落にならない嘘をつくことを、あっさりと即答される。まぁ、学校に忍び込むよりはマシか。

 それに僕の吐く嘘は、僕以外の人間から見れば、バレた瞬間に嘘になるのである。もしもバレずに事なきを得られたら、そこに嘘は発生しない。

「そういうのはなに、名刺などがなくても大丈夫なのか」

「相手の方も、そこまで疑うほど落ち着いてないですよ」

 結構ひどいことを言う。落ち着いてないのは、彼女も同じなのに。

 要するに、そういった心の隙に付け込もうというのだろう? ひどい話だ。

「なるほどね」

 そしてそれはついでに、小山望も同じことである。誰一人、僕がただの一般人かもしれないだなんて疑わない。言われてみれば、今道を案内してくれている彼女だって、用心深くものを疑う余裕はなさそうだ。

 そうして歩いているうちに、不意に彼女の歩みが遅くなる。

「どうした」

「いえ……。向こうも待っていたようです」

 言われて先を見ると、一軒家の前に一人の女性が立っているのが見えた。その女性はこちらを見ている。母親か、となんとなく察せた。

「こんにちは」

 今までの、自分を押し潰してしまいそうだった重さはどこへやら。教師としての菅野に戻った彼女は、さっきまで僕が見ていた人物とは違った。

「すみません、わざわざ来ていただいて……」

 頭を下げながら、母親は僕に不審な視線を寄越した。

「あぁ、こちらはカウンセラーの山田先生です。私の知り合いでして、何か助けになりたいと」

 おお、ぺらぺらと嘘八百を。事実と一致しているのは、知り合いだという点だけだ。

「あぁ、そうでしたか……」

 すみません、と。何がすまないのかわからないが、母親は僕にも頭を下げた。僕も同じようにしておく。下手なことを言わないよう、喋りはしない。

 しかし、本当に信じるものなんだなと、僕は感心していた。追い込まれた人間というのは脆い。

「それで、望ちゃんは……」

「部屋にいます。先生が話しに行きたいと言っていたと伝えましたが、特に何も……」

 何もということは、拒否はしていなかったわけだ。なら大丈夫だろう。

「そうですか」

「はい。……どうぞ」

 その家の住人の許しを得て、僕たちは玄関に上がる。母親の方はそのまま外にいた。

「何時頃になったら……」

 何時とは、僕たちと小山望の話が終わる時間のこと。そんなもの、何時になるのかわかったものではないが、返答は全て菅野がやってくれる。

「四時か、遅くても五時まではかかりません。もしよろしければ、連絡しますよ」

 はぁ、最近の教師は親の携帯番号まで知っているのか。と思ったが、この場合は特例か。

「わかりました。……では、よろしくお願いします」

 もう一度頭を下げて、母親はどこかへと去って行った。本当に不用心だ。

 ただそれは、母親が出ていく必要があったのだ、という情報として受け取れる。部屋のドア越しに話す時、母親は家に居てはならないのだ。離れた場所で話し声が聞こえないようにしていても、ダメだと。出ていってくれと言ったのは、それが直接言ったことなのかは知らないが、小山望が言ったのだろう。

 わかってはいたが、難しい問題だろうなと、僕は改めて気を重くする。

「彼女の部屋は二階です」

 そう言うと案内役は階段を上っていく。当然僕も続く。

 二階に入ってすぐ、一つのドアの前に立って彼女は、さっきまでより少し高い声を出した。

「望ちゃん、菅野です。お話ししたいなと思って来たんだけど、大丈夫?」

「……話し?」

 暗く重い声で、返事がきた。よかった。黙ってしまうタイプの子と話すとなると、相当厳しそうだったから。

「そう。それとね、私の知り合いの先生も来てくれてるの」

「先生? だれ」

 ああ、ついに僕も喋るべきだろう。嘘の素を吐く覚悟を決めて、声を出す。

 実践してなるほど、僕の声も無意識に高くなった。

「こんにちは小山さん。僕は山田冬馬っていいます。先生っていうのは、カウンセラーの仕事をしています」

「…………」

「小山さんが、今つらい思いをしているって聞いて、何か力になれないかなと思って来たんだけど、……まずはお話ししてみませんか?」

 僕は、ここ最近嘘を吐いたことがない。もちろん何年か前には嘘くらい何度か言っただろうが、それでも最近はない。そして、こんなに大きな嘘を吐いたことは、今までの人生を通して一度もない。

 同時に、中学生と喋る機会も、僕にはない。成人して以来、もしかしたら一度もそんな機会はなかったかもしれない。はたしてどちらを理由として、無意識に声が高くなってしまうのか。僕は僕が出している声に、ひどく違和感を受けていた。

 その違和感で気が散ると、嘘がバレてしまいそうで恐ろしかった。バレてしまえば、僕が出した嘘の素は、完全な嘘になる。

「……話すことなんてない」

「やっぱり初対面の相手じゃ嫌?」

 ドアのせいで、相手の表情が見えない。顔を見て話したいという気持ちが、初めて少しだけわかった気がする。

 表情が見えない状況でこんな話をすると、沈黙がこの上なく怖いのだ。

「……嫌、とかじゃないけど」

「よかった」

 まずは、いきなり終了ということはなくなった。正直ダメかもしれないなと思っていたところだ。

 隣を見ると、菅野が耳栓をしていた。

「じゃあさ、僕の話を先にしてもいいかな? それから、小山さんが何か話したいことが出てきたら聞かせて。……ほら、僕の自己紹介とかを兼ねてね」

 相手から何かを喋ってくれるとは、ここまでのやりとりでは到底思えなかった。なら僕から喋らなければならない。

「……わかった」

「ありがとう」

 特に意識せずそう言ってしまって、一瞬「しまった」と思った。が、すぐに落ち着く。ありがとうと言うのがキャラじゃないなんていうのは、今話している彼女に言われたことではない。

 話を続ける。

「僕の名前は山田冬馬っていうんだけどね、山田っていうのはよくある書き方をするんだ。山と谷の山に、田んぼの田だね。よくある名字の代表みたいな名前だけど、案外同じ名字の人に会うことは少ないんだ」

 よくあるという意味では、小山もそれなりには数が多いのではないだろうか。もっとも小山の場合、読み方が「こやま」と「おやま」に分かれたりするが。

「で、下の名前の冬馬はね、冬に馬って書くんだ。冬なんて字が入ってるからか、僕は暑いのが苦手でね。小山さんは暑いのどう?」

 一応、相手とコミュニケーションを取る意思表示のようなもののために、訊いてみる。

「……べつに」

 べつに、か。答えになっていないと思うが、まぁいい。初めから答えを必要としていたわけじゃない。

「そっかぁ。暑いのが大丈夫な人は尊敬するな。あぁそれで、名前の話なんだけどね、僕は初対面の人に今みたいな話をよくするんだ。名前に冬って字が入ってるから暑いの苦手なんですよーなんて、無難な話でしょ?」

「…………」

 こと現在に至っては、無難さはなんの役にも立たない。

「無難なんだけど、一度だけこの話をバッシングされたことがあってね。誰に言われたのかは忘れたけど、「冬の馬だから暑いのが苦手って、その話面白いと思ってるのか?」ってね。言われてしばらくしてから気づいたんだけど、その時の人は話がつまらない、つまり話が寒いってことと、冬とをかけて言っていたんじゃないかなと思ったんだ。もしそうだとしたら、本当に寒いのは相手の方なんだけど」

 我ながら長々と、死ぬほどどうでもいい話を続けている。そもそも、僕にそんなバッシングをした人は存在しない。一旦嘘を言ってしまえば、あとは次々出てくるものだ。

 ちなみに初対面の人にする話、という部分は本当である。バッシングを受けたことはないけれど、例えば菅野と初対面だった時にこの話をしたら、相手の顔に「その話つまらない」と書いてあったりはした。

「…………」

「……どうでもいいことばかり話してごめんね。意味があること話そうか」

 正直今の話は、僕が覚悟を決めるための時間稼ぎの意味が大きかった。僕はこれから、賭けに出る。

「僕もね、人を殺したことがあるんだ」

 ……あぁ、顔が見たいな。驚きでも蔑みでもいいから、リアクションがほしかった。視界の大半を占めるものが沈黙するドアとは、これでは話していて不安になる。ならないわけがない。

「……笑えない」

 幸い、返事をもらえた。

 不信感を抱かせないように、あくまで平静を装って、僕は話を続ける。

「笑えないと思う。冗談じゃないからね」

「なにそれ……」

 冗談じゃない、という言葉の意味を受け取ってもらえなかったらしい。冗談じゃないのだから、本気で言っているということなのに。

「僕が中学二年生の時だったんだ。あ、小山さんと同じだね。僕が小山さんと同じ歳だった頃、中学の体育祭準備があってね。前日の準備だったんだけど、あの日はなかなか暑かったね。体育祭は九月だったから、まだ夏と言って差し支えなかった」

「…………」

「準備っていうのは、僕とその他数名が任されたものだと、校庭の飾り付けだった。小さくていろいろな国旗が繋げられた紐を、木に登ってくくりつける仕事だったんだ。校庭にある木とか、校舎自体とか、そういう物にくくりつけていって、グラウンドの上を縦横無尽に旗が彩るようにする」

 なぜ国旗だったのか。それは未だにわからない。でも、お誕生日会とかで頭上を通るような飾り付けは、よく目にするだろう? そんな感じだった。

「何か飾り付けをしたいけど、外だし、運動するから邪魔になっても困る。その結果そういう、高い場所同士でくくって繋ぐ飾り付けになったのかな。とにかく、僕はその飾りを木にくくりつけて来ることを命じられたんだ。……でも僕は、高所恐怖症でね」

 高い所が怖い人は、高い所に登ろうなんて思わない。そんな発想がない。だから、怖い怖くない以前に、木登りなんかできやしない。

「木登りなんてできないし、一応脚立が貸し出されてたけど、高い所が怖いんだからそういう問題じゃない。困っていたら、仲の良かった友達が来てさ、「俺にまかせとけよ」って言って、木を登っていったんだ。かっこよかったよ。元々頻繁に遊ぶくらい仲がいい友達だったんだけど、その時初めて尊敬とかそういう、敬意を抱いたくらい。」

「…………」

 ここまで話して、何も反応は帰って来ない。ここまでの話なら、それでいい。返してほしい反応なんてない。ここまでならまだ、さっきと同じどうでもいい話だ。

 ドアの向こうで彼女が話を聞いてくれていると信じて、続ける。

「でも、なんでだろうね、彼は木から落ちたよ。諺でも猿や河童や弘法が失敗していたりするから、そういうことなのかな。彼は落ちた。落ちて、頭から血を流した。落ちた箇所に運悪く石でもあったのかな。木から落ちたくらいで、頭から血が出るような硬い地面じゃなかったのに」

 木が育つくらいだし、なにより校庭だ。地面は土でしかない。コンクリートや何かだったら、出血もわかるけど。でも、地面に石というか、そこそこ大きい岩でもあればどうなるか。

「それで僕、それを見てパニックになっちゃってさ。先生を呼びに行けばいいのに、家まで帰ったんだ。全力で走っても十分はかかる距離だったのに。お母さんに、友達が木から落ちて大変だって言いに行っちゃった。なんでそうしたのか、今でも全然わからない。そもそも家に帰った記憶がないから、走ってる間はほとんど意識がどこかへ行ってしまっていたんだと思う」

 暑くなってきた。部屋の前で話していては、涼しくなるはずもない。ドアの向こうの彼女は大丈夫なのだろうか。扇風機でもあったりするのかな。

「学校に帰ってきたら、救急隊員と、先生や生徒で人だかりができてた。友達は救急車に乗せられて病院へ行ったけど、それきりだ。それきり、誰も会えやしなかった。人だかりばかりが見えて、僕は最後に、彼の顔を見ることもできなかった」

 彼女は事故に遭った時、最後に友達の顔を見ただろうか。それが見るべきか見るべきでないかは、僕は知らないけれど。

「ねぇ、小山さん。僕は、友達を殺してしまったのかな。あの時僕が、脚立なり何なり使って、高いのが怖いのも我慢して、自分で自分の仕事を済ませていれば、彼は生きていたかな。僕が彼に仕事を任せたから、彼を殺してしまったのかな。木登りなんて危ないって、言うべきだったのかな。もし、地面にあった石をどかしていたら、彼は死にはしなかったんじゃないかな。僕は……」

「……違う」

 ずいぶん、久しぶりに彼女の声を聞いた気がした。

「違う。先生は殺してない。それは、事故だよ。残念だけど、誰も止められない……」

 ドアの向こうから聞こえる声は、今までよりも大きい。エネルギーが込められている。

「……そう思ってくれるの?」

「だってそうでしょう……。自分から木登りをする友達が、まさか落ちるだなんて思わない。落ちたところで、偶然あった石にぶつかって死ぬなんて……思わないよ」

「だったら……!」

 僕の方も、声を大きくする。ここ一番のエネルギーを込めて。

「小山さんも同じじゃないか。小山さんは、誰も殺してない。友達がいなくなってしまった悲しさは僕もわかるけど、どうしてそんなに閉じこもっているの」

「わたしは……。わたしは違うの。先生とは、違う……」

 声が小さくなっていく。最初に聞いた時よりも、もっと小さく。

「何が違うの。同じじゃないか」

「わたしは……! わたしが、わたしがよそ見をしていたからなんです……。信号が青だったから油断して、前だけ見てた。横からトラックが突っ込んでくるなんて夢にも思ってなかった」

 菅野と話していた時のように、妙な笑い声が出そうになる。気合で抑えて、言う。

「それはそうだよ。誰も、信号を無視してトラックが突っ込んでくるなんて思わない」

「でも真奈はそうじゃなかった!」

 真奈、広田真奈か。亡くなってしまった、彼女の友達。

「誰も前しか見ていなかったなら、わたしが轢かれていたはずなのに、真奈は……真奈はわたしを助けてくれた。真奈はちゃんとまわりを見ていたから、わたしが轢かれそうだったことに気づいたんだよ」

 いや、それは視界の角度の問題だ。おそらく広田真奈は小山望の後ろを歩いていたんだろう。真横から来る物には気づけなくても、斜め前に走っている物くらいは見えても不思議ではない。

「真奈の方がしっかりしてるのに、真奈は死んじゃった。わたしがぼけっとしてるから。だから、真奈が死んじゃった。わたしがもっと気をつけていれば、こんなことにはならなかったのに……。わたしが殺したの……。殺したようなものじゃない……!」

「違うよ」

 単なる怒りを通り越した、憤りを含んだ声に、できるだけ冷静に言ってあげる。

「殺したのは、トラックの運転手だ。小山さんじゃない。悪いのは、全部その運転手。……僕の場合はまさか、木が悪い石が悪いだなんて言えないけれど。小山さんの場合は、どう考えても悪いのはトラックだよ」

 だから、恨むなら自分じゃなくて、その運転手を恨め。そいつが罪を償いきるまで許すんじゃない。そう言おうとしたが、人を恨むことを勧めていいものだろうか。いや、もう手遅れかもしれないけれど。

 と、次に返ってきた言葉からは、一転して感情が抜け落ちているようだった。

「……ありがとう。みんな、そう言ってくれる。わたしは悪くないって。今では、……たしかにそうかもしれないって思い始めてる」

 朗報だった。彼女は、快復の方向に向かっているじゃないか。親や先生や、ましてや僕が、大げさにするべきことなんて何もなかったのかもしれない。

「でも先生……!」

 不意に、ドアが開いた。僕はそれが開かずの間だと思っていたから、ほとんど壁のような物だと思っていた。必然、どうしても露骨に驚いてしまう。

 それは隣にいた菅野も同じだった。二人して、部屋から出てきた彼女に視線を奪われる。同時に彼女も菅野の方を見て少し驚くが、それだけだった。僕とだけ話しているつもりだったのだろうが、その点は大丈夫だ。

 察しがいいのか、菅野はふと耳栓を外して見せた。それを見て彼女も納得したような顔をする。そして、菅野が耳栓を戻すのを見てから、

「……わたしが悪いかを決めるのは、わたしじゃない。親でも、先生でも、友達でも、大人でも子供でも、この世の誰でもない」

 小山望という人物は、まだ中学生だということを考慮しても、小柄でかわいらしい子だった。そんな子が、目を真っ赤にして、泣きながら言うことには、きっと僕が感じているより何倍もの重みがある。

「……真奈が決めるの。わたしは、真奈に許してもらえない」

 なにも泣いているのは、今日の今だけというわけではないのだろう。赤い目は、もう泣き疲れているようだった。目以外も、もう全てが、彼女自身の運命に疲れ果ててしまっているように見える。

 しかし、僕の目を一番引いたのは、彼女の服の袖だった。この暑い中、彼女もまた長袖なのだ。家から出なくなってしまった子が、日焼けを気にするか……?

「どうして許してもらえないって思うの」

 訊くと、彼女は僕から目を逸らした。ここがタイミングだろうと思い、僕は左腕の袖を捲る。

「小山さん、長袖暑くない?」

 長袖を着ている人にそんなことを言われたら、思わず見返す。僕の腕を見た彼女は目を見開いた。

「先生、それ……」

「ん、ああ。ちょっとね」

 僕の左腕には、五本の切り傷がある。嫌に生々しいその傷痕は、昨日の夜洗面所で付けたものだ。生々しいも何も、切り立て二十四時間未満である。

「……もし違ってたら失礼だけど、もしかして……小山さんも同じようなことしてたりしない……?」

 暑い日に日焼けもしない場所で、長袖を着ている人。どうしてそんなことをするのか、必ず理由がある。

「…………」

 彼女は、僕と同じように左腕の袖を捲って見せてくれた。僕も菅野も、再び彼女に視線を奪われることになる。

 彼女の腕にあった切り傷は、五本だとか十本だとか、そんなものではない。おびただしい数の切り傷は、数えきれないほどだった。その内のほとんどは、もう完全に血が固まって治っていくだけになっている。

「すごい、僕よりもあるね」

 なんとか、なんとか軽口を叩くようにそう言えた。引いてはいけない、という思いが僕の脳を支配している。菅野も同じようなものだろう。

「ねぇ、先生。血は、体の外に出て放っておかれると、黒くなるよね」

 唐突にそんなことを言われ、今度こそ僕は動揺してしまった。なにせ、科学とかそういう話には詳しくないもので。

「え、あぁ、そうなの?」

「うん。酸素に触れると黒くなるんだって。自分の目でも見たし、人から聞いた」

「へぇ」

 じゃあ、そうなのだろう。特に深く興味を持つこともないし、その通りなのだと思って聞いていた。

「でも、わたしはそれを信じてない」

「えっ」

 虚を突かれた。それはそもそも、信じる信じないの話なのか? なぜ自分で言っておいて否定する? 様々に疑問が浮かぶ。

「血が黒くなるのは、血の持ち主が、死んでいくからなの」

 急に、話がオカルトチックになる。僕は一度、この世に科学から逃れられるものなどあるのかと考えたが、オカルトは確かにそれだ。逃れられるというよりは、逃れようとしているものの代表だろう。

「持ち主が死に近づくほど、血も黒くなっていくの」

「じゃあ、それは?」

 彼女の左腕を指差して言う。当然、もうすっかり固まっている傷口は黒っぽい。

「違う、これは傷。傷じゃなくて、血の色の話」

 はぁ、なるほど。

 それでも、彼女が言っていることが明らかに間違っていることくらい、さすがの僕でもわかる。何も致死量の出血でなくとも、外に出た血はいずれ黒く固まるよ。原理は知らないけれど。

「……そう。それで、それがどうしたの。広田さん……真奈ちゃんが許してくれないっていうのと関係してるの?」

 訊くと、オカルトチックな話をしていた時には、少しだけ元気だった彼女の声が、また落ち込んでいく。

「……先生、わたしの血はね、黒いの。赤と黒を混ぜたような、気持ち悪い色なの」

 そう言って、彼女は一度部屋に引っ込んだ。すぐに戻ってくると、その右手にはカミソリが握られていた。

「見て」

 慣れた手つきで、彼女はそれを自分の左腕に当てる。僕の隣で、菅野が今にも飛びかかりそうになっていた。僕はといえば、そんな菅野を手で制していた。

 すっ、と。彼女の左腕に切り傷が一つ増えた。そこから、綺麗で真っ赤な、真っ赤な血が流れだす。

 彼女はカミソリを部屋の中、机かどこかに投げた。右手が空いた彼女は、流れ出す血を素手で拭い、まじまじとそれを見る。

 そして泣き叫んだ。

「ほら、黒いの! 血が黒くなるのは死んでしまうからなのに! わたしが生きてることが許せないって真奈が言ってるんだよ……!」

 右手の指を真っ赤に染めて、彼女は顔を覆った。当然、その顔にまで赤が広がる。

 僕には彼女の血が赤く見える。彼女には彼女の血が黒く見える。どちらかが、洒落にならない程度でおかしくなってしまっている。僕は、そこまで自分がおかしくなった憶えはない。目の前の彼女や、隣の菅野を見ていて、気の毒に思う程度の余裕はある。

 彼女、小山望は狂ってしまったのだ。そう悟った僕は、なぜだか落ち着きを得た。

「小山さん。それも違う」

 彼女は左腕と、右手と、顔をそれぞれまばらに赤くして、それに気づいてもいないような表情で僕を見る。

 僕は、しっかりと彼女の目を見据えた。

「亡くなってしまった真奈ちゃんは、まだ天国に行ってないんだ。せっかく助けた小山さんが、これからちゃんと幸せに生きていけるかが心配で、見守るために体に入り込んでる。真奈ちゃんの魂は小山さんの中に、どれだけかはわからないけど残っているんだよ」

「真奈が……?」

 彼女には、自分の身から流れ出る血が全て黒く見えている。それを改めて心得て、続ける。

「そう。そして、小山さんが家から出れなくなってしまったから、真奈ちゃんは心配で、いつまでもそうしているんだ。死んでしまうから血が黒くなると言ったね? 亡くなってしまった真奈ちゃんの魂が小山さんの中にあるから、血が黒くなるんだよ。許さないなんて意味じゃあ断じてない」

 しばらく、誰もが無言になった空間が訪れる。彼女の腕から落ちる血のみが、時間は流れているのだと教えてくれる。

 見かねた菅野が、治療でもしようとしたのか立ち上がりかけた時、ぽつりと聞こえた。

「……どうして、先生はそんなことがわかるの」

 ここぞとばかりに僕は胸を張る。同時に虚勢も。

「僕にはわかるのさ。疑わしいなら、とにかく前みたいに普通に暮らせるように頑張るといいよ。小山さんが立ち直れたのを見たら、真奈ちゃんは天国に行けるから。そうしたら、血は黒じゃなくなる」

 彼女は、自分の血を見て悩んでいるようだった。そして、その視線を僕へと送る。

「……わかった。先生の言うこと信じてみる」

「そうしてくれると嬉しい」

 ……これで、これで解決ではないだろうか。僕は菅野の腕にある時計を見て、四時を過ぎていることを確認した。

「じゃあ、僕たちはそろそろ帰るね」

 帰るぞ、立って耳栓を外せ。そう心の中で念じると、驚くことに菅野はその通りに行動してくれた。まぁ、状況的にそういう偶然もあるだろう。

「何かまた話したいことができたら、菅野先生に言ってね。もし僕に話したいことができれば、それも先生に言えばいい。その時はまたいつでも来るから」

 そう伝えると、彼女は静かに頷いた。じゃあね、と手を振ると、彼女も振り返してくれる。それを見て、今度は菅野が手を振った。きっとそれにも、彼女は振り返してくれただろう。

 

 玄関を出ると、小山望の母親が立っていた。

「すみません、お待たせしました」

 母親は菅野に縋りつくように言った。

「どうでしたか……」

 耳栓をしていた彼女に言わせるわけにもいかず、僕が答える。

「おそらく、大丈夫かと思います。もしかしたら明日にも学校に来てくれるかもしれません」

 母親の注目が僕に向く。縋られるように話されるのは、どちらかと言えば苦手と覚えた。

「本当ですか……!」

「はい。ただ、お母さんに一つ注意していただきたいことがあります」

「な、なんですか……?」

 注意点を伝えようとして、僕はとんでもない失態をしていたことに気づいた。慌てて左腕の袖を下ろす。母親の注目が腕に向いていなくてよかった。

「望ちゃんには、自分の血が黒色に見えています。もしそのような旨の発言をされても、変に反応しないであげてください」

 仕方ないといえばそうだが、案の定母親は眉をひそめた。何を言っているのかが分からない、と顔に書いてある。

「どういうことですか……?」

「そのままの意味です。……頼みますよ」

 大丈夫だとは思うけれど、不用意な発言で、再び彼女が閉じこもってしまうのは勘弁してもらいたい。僕の努力はタダではないのだ。

 母親は、一応言われたことそのものだけは理解してくれたようだった。表面だけでも心得ておいてくれれば心配はない。

「では、僕はこれで」

 なんとなく、この場は居心地が悪い。さっさとあとにすることにした。背後で菅野が一言二言話して、僕を追ってくるのを感じた。

「冬馬さん」

「なに?」

 振り返らずに返事をする。

「聞こえなかったのでよくわからなかったんですけど、何があったんですか」

 立ち止まる。会話が続くと思ったのか、菅野も立ち止まる。しばし沈黙。

「……あの?」

少しあったあと、僕は言う。

「道がわからない、案内しろ」

 菅野は、彼女は笑った。そうして僕の前を歩いてくれる。一度通ったくらいで道が憶えられるわけがないと思ったが、それで彼女が笑ってくれたなら幸運だ。

 迷子問題も解決したので、僕はさっきの答えを話しだす。

「何があったのかというと、どこの話だ? いろいろあったぞ」

 彼女は少し歩調を緩め、僕の前というよりは横に近いポジションに来た。

「そうですね。まずは、血が黒色だという話から」

 それは、小山望が今日一番の大声を上げた話題でもある。大声で、泣き叫んでいた。使ったことがないので詳しくないのだが、耳栓の性能は大したものなのだな。

「彼女、小山には血が黒色に見えるらしい」

「……幻覚?」

 それに近いだろう。察しがいいと言いたいところだが、僕も何か根拠があって確信しているわけではない。たぶん、幻覚の類だろうなと思うだけ。偽カウンセラーにはそれが限界である。

「たぶんそうだ。そして彼女の持論か何か知らないが、今日言っていた話では、血が黒くなる理由は死に近づくかららしい」

 首をかしげられる。端折りすぎたな。

「体内から外に出た血は、いずれ黒く固まるだろう? あれは酸素に触れることが原因らしいが、彼女はそうではないと言っていた。血の持ち主が死に近づくにつれ、血も黒くなっていくのだという」

「オカルトですね」

 同じ感想だ。

 と思ったが、彼女は続けた。

「もしくは、ロマンチスト」

「……まぁ、どちらなのかはわからない」

 ロマンチスト。そう言われれば、そのようにも捉えられる。オカルトを信じることとロマンチストであることに共通点があるとは、これは意外な発見だ。

「ともかくそれで、彼女は自分の血が黒く見えているのだそうだ。そして、それは広田真奈が自分のことを憎んでいるからだと思っている。自分は死ぬべきだと言われているから、血が黒いのだと言っていた」

 つまり、自分で自分を追い込んでいたということになる。自分がこうしていれば……、という結果論な後悔が、やがて罪の意識に近づいていくのだ。

「それは、相当苦しんでいたんでしょうね……」

「だろうな」

 僕は、菅野の方も相当だったと認識している。包丁を首元に当てるなんて、腕を切るのとはわけが違うからな。

「それで、どうやって立ち直らせたんですか。帰りには手を振ってくれたし、学校に行くとも言っていたんですよね?」

「それに近いことは言っていた。まぁ、絶対ではないから、仮にまた家から出れなくなっても責めてはやるなよ」

 当たり前だ、と頷かれる。それを当たり前と認識できる人が、はたしてあの女子生徒のまわりにどれだけいるか。それが問題だ。

「で、立ち直らせた方法か。聞いてどうする」

「参考までに。話したくないなら、それで構いませんけど」

 なくはない。が、話したいとも思わない。正直、ついさっき自分がした話を復唱するのは面倒だ。

 面倒で何かの参考になるかもしれない話を黙秘するわけにもいかないので、しぶしぶ話しはするが。

「血が黒いのは、広田真奈の魂が体の中にあるからだと言っておいた」

「さらなるオカルトですね」

 そりゃあそうだ。目には目を、歯には歯を、オカルトにはオカルトを、だ。もしくは彼女がロマンチストであった場合、ロマンのない話はやはり聞いてもらえないだろうから。

「それで解決したと見えたのだから、文句はないだろう」

「……えぇ、むしろ感謝しかありません」

 それはそれで早すぎる。明日彼女が登校してきたのを確認して、それから気が向いた時に礼は言ってくれ。

「質問は以上か」

「あ、いえいえ、まだ全然」

 だろうな。たったこれだけで終わるとは思っていない。終わってくれれば、非常にありがたいのだが。

「でも、……ちょっと訊くべきか迷います。もし黙っていた方が良さそうなら、そう言ってください。黙りますから」

「なんだ。とりあえず言ってみろ」

 今の前置きのおかげで、これから何を聞かれるのか把握した。今日のことで聞きにくいことなんて、一つだけだろう。

「その……左腕、どうしたんですか」

「昨日切った」

「えっ」

 何か重大な事情があるとでも思ったのだろうか。小山望が部屋から出てきた時ほどではないにしても、彼女は露骨に驚いた。

「先月会った時には傷なんてなかっただろう。よく見てなかったから気づかなかった、とかそういうことか?」

 未だに表情から驚きの色を消さずに、たどたどしく彼女は言う。

「いえ、それはわかってるんですけど……。この一か月で、もしかしたら冬馬さんを追い込んでしまったのかもしれないと、思ってですね」

「ははは」

 せわしなく視線を動かす彼女の目をしっかりと見て、言ってやる。

「キミに心配されるほど僕は弱くない」

 すると、ここまで来る時はあんなにもおとなしくなってしまっていたのに、彼女はそれを忘れたようだった。憎たらしい声で、

「あーそうですか。冬馬さんはさぞ、お強いのでしょうね」

 と言ってきた。そうとも、その通りだ。

「当たり前だ」

「はっ。……で、どうして腕を切ったりしたんですか」

 それについては、説明するのが少しだけ恥ずかしかった。結果だけで語れば、僕の行為はおそらく正しかっただろう。だが、なにも確信して腕に傷を付けたわけではない。それなのに偉そうに説明するというのは、恥の概念に当たるものだと思う。

「これは、僕の持論だが」

 彼女が相槌を打つのを見てから、言う。

「中学生くらいの、まだ未成熟な人間が精神を病んでしまった時、そういう人たちは理解者を求めると思う」

「それは、大人でも同じではないですか?」

 どうだろうな。どこかには自分を理解してくれる人がいるはず、と信じ続けられるのは、もしかしたら子供だけかもしれない。……今のも持論に過ぎないけれども。

「まぁ、それでもいいよ。とにかく僕は、小山望の理解者を演じようと思った。他人には自分の気持ちなんか絶対にわからない、と思われることを考えて、できるだけ彼女に近づこうとしたわけだね」

 昨日、そう自分で考えた時に、すでに僕はその矛盾に気づいていた。理解者がいることは信じるのに、他人が自分を理解できるとは思わない人が多いのだ。つまり、どこかに自分がもう一人いると信じている人間が、世の中には一定数いるのだ。

 そう考えると、やはりそういう人間には子供が多いのではないかと思える。大人になるにつれ、目が覚めている時には夢を見なくなるだろう。

あるいは彼女のように、精神を病んだ者にはロマンチストが多いのかもしれない。ロマンチストは子供らしいとも、もしかしたら言えるかもしれない。さすがにそれは偏見か。

「近づくって」

「彼女がリストカットをしているようなら、僕もしている風を装うことにした。実際していたし、それで心を許してくれたと言えそうな場面もあったし、成功と言えると思うけど」

「いや、そうではなくて」

 せっかく恥ずかしさを我慢して説明しているというのに、彼女は僕の語りを止めた。と真ってしまったのなら、もう動きだしたくはない。

「冬馬さんは、彼女が自傷行為に及んでいたことを知っていたんですか? 私、言いましたっけ」

 何を言っているのかと思ったが、その言い草だと彼女は、小山望が自傷行為に及んでいることを知っていたのか。

 本人が望んで打ち明けたのならいいのだが、もしバレてしまうという形で知られていたら、あの恰好が気の毒だ。夏場の長袖の暑さは、僕がよく知っている。隠そうとしている努力は評価されるべきだろう。

 そう、僕の努力も評価されるべきなのだ。と、それはともかく。

「言われてないし、知らなかった。だから保険のようなものだよ。彼女が何もしていないようなら、僕も袖を伸ばしたまま隠していたさ」

 だから、あの場の僕は運に恵まれていただけなのだ。言いようによっては「備えあれば憂いなし」を体現したとも言えるのだが、どうもそのような胸を張れることをした気にはならない。

 しかし、そんな僕の気持ちとは全然関係ないというように、彼女の顔からは血の気が引いていった。そんな顔をさせる話は一つもしていない。

「……冬馬さん、私は、今日のこと本当に感謝しています」

「それは聞いたよ。そして」

「でも……! どうして自傷行為なんて……」

 まるで自分のことのように落ち込む彼女を見て、僕は不思議に思う。何をそんなに落ち込んでいるのだろうか、と。

 そして思い当たった。彼女は、自分が僕の腕に傷を付けたようなものだ、とでも思って居るのだな。それでは小山望と同じだ。

「どうしてって、だからさっき言っただろう。保険だよ」

「それじゃあこれからどうするんですか。傷は簡単には消えないんですよ」

 その台詞、自分の生徒にだけは言うなよ。そう念じながら、僕は彼女の心配するところが、まったくの無問題であることを説明した。

「どうすることもない。別に誰も、僕の腕を見に来たりはしないだろう」

 と言って、思いだす。

「あ、キミがいるな。傷を見るのは嫌か?」

「そんなことではなくて……!」

 立ち止まって、僕の顔を見て彼女は言う。しかし、その目線はすぐに落ちていった。僕の左腕へ、そして地面へ。

「じゃあ、仕事とかどうするんですか。誰とも会わずに生きていくんですか? 誰にも腕を見せずに生きていくんですか? そんなことが可能だと」

「おいおい」

 仕事だと? 彼女は、僕がなぜ暇人なのかを知らないのか。僕がなぜ、いつでも彼女の相談を聞けるのかを、知らなかったのか……?

「仕事って、何を言っている? 僕は働いていないよ」

 今度こそ時間が止まった、と僕は確信した。なにせこの場には、滴る血のような、時の流れを証明するものがない。

 しばらくして、いや実際はそれほどの間はなかったのだろうが、珍しく涼し気な風が吹いた。それが、時間の流れを証明したらしい。

「……冬馬さんって、株で生活してたんですか」

 時間の流れの証明は、彼女から言葉を引き出した。しかし、引き出された言葉はどうしようもないものだな、これは。

「してない」

「じゃあ、なにかこう、ネット関係の、家でも出来るお仕事を……?」

「お仕事って、今自分で言ったな。キミの言う通りそれは仕事だ。僕は、働いていないと言ったぞ。仕事をしていないという意味で言った、とまで言わせるか?」

 気をつけないと、家で出来るタイプの仕事をしている人に怒られるぞ。教師として、そのあたりは正しい認識を持つべきだろうに。

「いえ、だったら、ええと……、どういうことですか」

「どうもこうも、僕は親の遺産で暮らしている。これからもそのつもりだ」

 間違っても褒められたことではない。なぜそんなことを、僕は偉そうに言っているのだろうか。それはもちろん、彼女がそうさせたからである。この場の二人、両者の罪は重い。

「…………遺産?」

「なにかおかしいか?」

「遺産……ということは、冬馬さんのご両親は」

「死んだよ。五年前に。知っているだろう?」

 そこで、再び時が止まった。

次に時の流れを示したのは、僕が流した冷や汗だ。驚きとも怒りとも取れない、微妙な表情をする彼女を見て、僕はある可能性に行き当たったのである。

「……まさか、知らなかったのか……?」

「……はい」

「もしかして…………言ってなかったか?」

 訊いておきながら、その場の空気で僕は察していた。察しという名の確信だ。どうやら僕は、かなり重要なことを彼女に伝えていなかったらしい。

「私が……私が間違っていたらすみません。でも私は……聞いていない……と思います」

「悪かった。なら、僕が言っていないと思う」

 これは不覚だ。これこそ恥だ。僕は誠心誠意頭を下げた。

「どうして謝るんですか。私は別に……」

「わかっている」

 結果だけを見れば、彼女は僕に「親は死んだよ」と言わせた形になる。そこに悪意がなかったことくらいわかっている。僕は、結果だけを見ているわけじゃない。

「そうか、言っていなかったか。それは本当に済まない。今言うが、両親は五年前に死んだ。これもキミが知っているかは定かではないが、親は相当の金持ちだ。どうやら贅沢しなければ、僕は遺産だけで生活していけそうなのだ。だからそうしている」

 自分が格差の上位に、それも相当な上位にいることは自覚している。自覚していてなお、それに甘えていることも。けれども、働くことは金を稼ぐためにすることなのに、その金が目の前にあったのでは、逃れられるわけがないじゃないか。僕は、汗水たらして働くことよりも、世間から愚痴と嫌味と皮肉と悪意を受ける方がマシだと判断した。

 もっとも、悪意を受けることなんて滅多にないが。残り三つは、相手の意図せぬ形で、それなりには経験している。然るべきことだと思う。

 しかし、そんなことは今どうでもいい。彼女に伝えるべきは、

「両親と別れた時は、もちろん人並みには落ち込んだ。だけど今になっても引きずるようなことはしていない。二人とも、寿命を終えただけだったからね。幸せそうだったよ」

 そこをいくと、小山望はかわいそうだった。僕は彼女の同類を装ったが、事実はこうも違うのだから。

「……ごめんなさい」

「おいおい、なぜ謝る。キミに謝らせないために今の説明をしたというのに」

「でも……ごめんなさい……」

 ……まぁ、これも僕が受けるべきものだろう。人より楽をして生きているのだ、文句は言えない。

 それにそれとは別に、僕はさらなる悪事を犯した。彼女との縁は長いから、僕の基本的な情報は全て知っているだろうと、勝手に思い込んでしまった。全て教えていただろうと、思い込んでしまった。報いは受ける。かわいそうなのは、僕に謝る彼女の方だ。

「……で、以上か?」

「え……?」

「今日の件について、質問は以上か?」

 話しながら歩くうち、駅が見えてきた。帰りの方が道を把握している分早く感じるはずだが、いろいろと喋りながら歩いてきたからだろう、ずいぶん長い道のりだった気がする。

 それでも、彼女からの答えはまだ僕を離さなかった。

「……いえ、まだあります。訊いてもいいですか……?」

「もちろん」

 そう言う他になかった。そうする他になかった。

 

 駅のホーム内、ベンチに座って質問を受ける。電車はまたしても五分待ちらしい。

「望ちゃんは、自分から部屋を出てきましたよね」

「そうだな」

「どうしてですか」

 それは、正確には答えられない。正確な答えは本人に聞いてくれ。

 さすがに彼女もそれはわかっているだろうから、あくまで僕の考えを話す。

「さっき話したことと同じだ。僕はあなたの理解者ですよ、ということを示した。そうしたら部屋から出てきてくれたな。正直予想外だったよ」

 説得する気はあったものの、まさかいきなり部屋から出てくるとは。喜ばしいことだが驚いた。

「示したって、どうやって。……私だっていろいろしたんですよ」

 あぁ、そうだ。そうだろうとも。申し訳ないことを言った。彼女だって苦労しているのだ。どれだけ苦労しているのかは、精神的な意味の方なら、見ていれば大体わかった。

 そして、小山望の両親だって苦労していただろう。その辺りへの敬意を忘れないようにと、改めて思いながら話す。

「僕も、人を殺したことがあると。そう言った」

 さすがにそろそろ慣れたのか、時間が止まるとまではいかなかった。彼女も学習している。

「……嘘ですよね?」

「当たり前だろう。彼女にはそう話したが、実際に殺しているわけがない」

 即答すると、彼女は安堵のため息を吐く。それに被せるように、電車が来ますよとアナウンスが入った。

「よかった。そうじゃなかったら、私もうどうしようかと」

「どうしようとは?」

「前に冬馬さんがうちに来てくれた時、私言ったじゃないですか。冬馬さんは人を殺したことがありますか、って。だから、今嘘だと言われてほっとしました」

 はぁ、そういえばそんなこともあったな。僕にとってあの日のイメージは、包丁を持って狂いかけていた彼女のイメージしかない。……強いて言えばあとは迷子か。

「それはよかった」

「えぇ、本当に。私あの時、なんであんなこと言ったのかよく憶えていないんです」

 ではあの問いは、ほとんど無意識だったのか。無意識に「人を殺したことはあるか」なんて問うとは、やはり彼女も相当危ないところまで来ていた。もう少ししていれば、彼女まで自分の血が黒く見えていたかもしれない。

「ま、そういうこともあるさ」

 適当にそんなことを言うと、電車が到着した。白状すればその時、僕は多少の達成感と共に車両に乗り込んだと思う。

 

 

 家に帰ってきて、今日一日のことを思い返す。まず、彼女からは別れ際にもう一度礼を言われた。中々に念入りな奴だが、それはもういい。

 僕が思いだすのは、小山望のこと。彼女の憐れさは、どうも頭から離れてくれないのだ。

 憐れとは、例えば僕と一緒にいた菅野の話。彼女は僕と小山望が、いっそプライベートとも言えるような会話をするために、耳栓をしていた。それはいい。だが、最終的に彼女の耳には、プライベートの内容が入っていった。僕の協力によってだ。

 それは仕方ない。本当にあの場での話を二人の秘密にして、担任教師である彼女に話さないなどあり得なかった。本物のカウンセラーがどうかは知らないが、僕のような偽物はそう考える。仕方ないとはいえ、かわいそうなことをしてしまったのは事実だ。彼女を欺いたと言われても、違うとは言いきれない。

 そして、それだけならまだいいものの、小山望が僕から受けた仕打ちはそればかりではない。告げ口は、上手く隠せばバレないかもしれない。そうすれば皆ハッピーだ。しかし、隠せば良いという意味では同じようなものだが、彼女はそれともう一つ、僕から嘘を吐かれている。

 僕に自傷趣味はない。左腕に今もある傷は、彼女の同類を装うためのものだ。これは立派な嘘だろう。もちろんこれも、必ずしも彼女が知る真実と決まったわけではない。知らない方がいい。今日の僕は、彼女の中での思い出となるべきなのだ。もし次にまた会うことがあっても、僕はその思い出を演じるべきなのだ。

 これだけの嘘に見舞われて、それで彼女は立ち直れるのだろうか。今日の様子を見る限りは、立ち直れてしまうのだろう。今すぐにとはいかなくても、いずれ。もちろん、ずっとあのまま家から出られずに狂ったまま、あるいはもっとひどい有り様になっていくのは、あまりのも惨すぎる。

 だからといって、嘘で彼女を立ち直らせて、それを正しいことと言えるだろうか。僕は菅野が死のうとしているのを止めるために動いたのだ。彼女の手から包丁を離させるために。彼女はそれを演技だと言っていたが、どうだか。

 どちらにせよ、僕は彼女を、小山望のために動いたのではない。それはもちろん良心はあったが、それだけだ。それが正しい行為だったのか、自信がない。

 暑苦しい長袖を脱ぎ捨て、僕は自宅の床に寝転がる。偶然、切り傷ある腕が視界に入った。

「……あぁ、これはよくないな」

 意外だった。本質は嘘でも、形だけでも繋ぎ止めれば、それは意味を成すらしい。

 僕は、友達を殺したつもりはない。彼は僕を助けようとしてくれたが、落ちたのは僕のせいではない。彼が勝手に落ちて、勝手に死んだ。なにも僕は彼に、木に登れと強制したりはしていない。全て彼が自主的に行ったことだ。

 だから心を病むこともなかった。今もこうして普通に生きている。……しかし、形だけでも当時のことを理由に、自傷行為に及んでしまえば、それは単なる装いではなくなるらしい。今初めて知った。

 傷を見ると、あの日のことが鮮明に思いだされる。まるでドラマや映画のように、はっきりと僕の頭の中で映像が流れる。彼の頭からどくどくと湧きだした血は、綺麗な赤だった。

 あの時菅野に嘘だと言ってよかった。彼女の家に言った時の、人を殺したことはあるかという質問の話を持ちだされた時は、嘘と言ったことで本当に安心した。こっちの方がほっとしたってものだ。あの時嘘と言わなければ、どうなっていたことか。

 そして、それで何かが許されるとは思わないけれど、一つだけでも彼女に、小山望に本当のことを話せてよかった。

 長袖は脱いだというのに、嫌に暑い。確認するが、クーラーはちゃんと起動している。しかしなぜか、暑いのは嫌いだというのに、暑くてたまらない。

 あの夏の日、体育祭準備の日。友達が一人死んだ日。あの日を思いだすから、僕は夏の暑さが大嫌いだ。

 



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