少し暑さの残る九月の中頃。暑さの峠を越えたとはいえ、まだまだ体調管理は油断出来ない、そんな時節。
鉄筋コンクリート製の無骨な司令棟と呼ばれる、この鎮守府の中心となる建物から、中年男性の情けない悲鳴が響き渡った。
ここは日本本州の南南東に位置する周囲僅か3キロメートルの無人島。其処に東方及び北方・南方への海路を睨む内地近海鎮守府はあった。
指揮を執る提督の名をとって、麻守鎮守府とも呼称される此処は、日本本土の鎮守府と外地と呼ばれる国外の鎮守府とを繋ぐ役割を担う鎮守府である。
各海域へ資源の調達・運搬に向かう輸送船とそれを護衛する艦娘達への補給、国外鎮守府への物資の集積・輸送、果ては遠征中の他の鎮守府所属の艦娘の休息・宿泊などなど、戦闘よりもそうした雑務に忙殺されている。
深海棲艦と呼称される海からの脅威により、存亡の危機に追い詰められた人類であったが、かつての艦船の魂を身に宿したとされる艦娘という存在の力を借りて、現状はある程度前線を押し上げる事に成功。大規模反攻作戦を準備中ということもあり、戦況は小康状態と言える。
さりとて、平穏とは言い難い。
現にこうして、鎮守府を預かる彼──麻守 宇麿(あさもり うまろ)は苦痛に顔を歪ませては、その度に情けない叫び声をあげているのだから。
「うふふ、駄目ですよぅ。こんなにココを固くしたら」
どこか嬉しげな女性の声とともに、ピンと真っ直ぐに伸ばされ、そして重ねられた色白の左右の手、その細く美しい指先がググッと麻守のぽっこりお腹に押し込まれていく。
「あだだだ!痛い、苦し……!!」
「ほら、ちゃあんと息を吐いて力を抜かないからですよ~」
言いつつ、女性の両手は位置を変えながらもグイグイ押し込まれ、その度にオイルによってテラテラと怪しくテカる麻守のお腹は、ふにふにと形を変えていく。
やがて女性の両手は動きを変え、押し込まれた指先はそのまま、滑るように∞の字を描く。
勿論、お腹をプッシュプッシュ。
当然、麻守は痛みと苦しさとちょっとの恥じらいで、盛大にシャウトする。
それが約十分ほど続くと聞き苦しい中年男性の悲鳴はようやく止まった。
「ふーっ、やっと脂肪の塊が柔らかくなったわ」
満足そうな表情で手早く麻守のお腹を程良く冷ました蒸しタオルで拭き上げる。じんわりとした温かさがヌルヌルした感触を取り除いていく。
心なしか辺りにアロマオイルの良い香りが漂った。
「これで提督のお腹もぱんぱかぱーん♪」
最後に自身の両手に付着したベタつくオイルを拭き取って、重巡洋艦・愛宕は屈託ない笑みを零した。
「パンパカパーンて何かね……」
お腹丸出しで愛宕の目の前に力無く横たわる麻守は息も絶え絶えに呟いた。
若干白目を剥いていてキモイ。
「さぁてと、どれだけぷにぷにふよふよになったか、味見しないと」
そんな麻守の事など知らず、愛宕は両手の五指をワキワキ動かしながら、再び麻守のお腹に襲い掛かろうとしていた。
この悲劇……もとい、事の始まりは執務室での麻守の何気ないひとこと。
「最近、腹が出てきましてな……」
その哀愁漂う言葉に、秘書艦を務める愛宕が嬉々として「貴方の力になってあげるわ!」と一念発起したせいだった。
「お腹まわりが気になるなら、ひとまずオイルマッサージかしら」
そんな愛宕の準備は完璧だった。
一旦、執務室から退出した愛宕の服装は何時もの蒼い制服ではなく、紺色のタンクトップとホットパンツに替わっていた。
その両腕にはオイルマッサージに使用するものが抱えられている。
タオルが装填済みの蒸しタオル用の蒸し機にアロマオイルを希釈したマッサージ用オイル、さらにはヨガマットなるものまである。
それはちょっとした思いつきの為に、すぐに揃えられるものでも、ましてや安いものでもない。
訊いてみれば笑顔のまま、そっと視線を逸らしたので、深くは追求しない麻守だった。
(どうせ自分用に購入して直ぐに飽きたのでしょうな)
大方、同室で姉の高雄には内緒で購入したのだろう。生真面目な高雄の事、この無駄遣いを知ったら愛宕へのお説教は確実である。
でもまあ、いいやと麻守は思う。
愛宕は好意でやってくれるのだろうし、これを無駄遣いが高雄にバレた時の言い逃れの材料にするつもりとか、そういう計算があったのだとしても、あの年末大掃除すら逃げ出す面倒嫌いの愛宕が麻守の為にオイルマッサージをやってくれるのである。
感謝こそすれ、何を咎める事があろうか。
(そう、それでいいじゃないか……
愛宕に促されるままに、上半身を晒しつつ執務室の床に敷かれたヨガマットの上に寝転びながら、感動の余りに不覚にも涙した麻守であった。
それが僅か数分後には愛宕流オイルマッサージの激痛に涙し、さらに何だか貞操の危機に匹敵するくらいの危険な状況に陥っていたのだから、人生というものはなかなかに数奇なものである。
じりじりと迫る愛宕の眼は完全に据わっている。
笑顔ではあるのだ。確かに眼が据わっていようと愛宕は何時もの愛らしい笑みを浮かべている。
だが、いつものゆるふわな雰囲気は消え去って、まるで戦艦棲姫でも相手にしているかのような鬼気迫る壮絶な空気を纏っていたのである。
勿論、愛宕には麻守を害する気などさらさら無い。
むしろそんな真似をすれば、姉の高雄のみならず、この鎮守府で特に規律にうるさい長門・陸奥を始め一航戦の二人にもお説教&制裁されてしまう。
そんな面倒は御免だと言うのが愛宕の本音である。
しかし、あえて愛宕を擁護するならば、麻守のお腹が悪かった。
始めは純粋に麻守のぽっこりお腹をどうにかして、力になってあげようという好意からだった。普段はなかなか示せない麻守への感謝の気持ちからの行動だった。
だけど、だけれどもマッサージをするうちに愛宕は気付いてしまった。麻守のお腹の感触がとてつもなく、正に世界水準を軽く超えて、超絶に気持ちいい事に。
(やだ、手に吸い付くようなこの感触……)
赤ちゃんのお尻もかくやという、もちもち感は極上と言えた。
アロマオイルの香りもあってか、マッサージでほぐれた麻守のお腹の柔らかさはまるでマシュマロを想起させた。実にマシュマロのようにふんわりした感触だった。
例えるなら、猫の肉球くらいの凶悪な触り心地。
(これはちょっと不味いかも……)
そんな考えも次の瞬間には霧散してしまっていた。
オイルのぬるぬる感がむしろ邪魔とさえ思えるほどの心地良い感触に愛宕はすっかりとろけてしまっていた。
悲鳴をあげるのに忙しい麻守はついぞ見ることは出来なかったが、頬を朱に染め上げたすんごい恍惚とした表情で、中年男性のお腹をこねくり回す艦娘の姿がそこにはあったのだ。
愛宕が悪い訳ではない。
全ては艦娘を駄目にする麻守のお腹のふよふよ具合が悪いのだ。
「これはもう、オイルなんて使わずに直接やるしかないわ!」
「な、何をだねっ!?」
慌てて起き上がろうとする麻守だが、気が動転している為か上手くいかない。
お腹を隠そうにも上着は執務室の机の上、シャツはその上着の上で丸まっていた。
致し方なしと机に向かって仰向けのまま、四肢をカサカサと動かしてゴキブリの様に床を這いながら、懸命に説得を試みる麻守。
愛宕を見上げるその目頭にはちょっぴり涙が光っていた。麻守の涙腺は決壊寸前である。
「ま、待て!早まるな、そういうのはちゃんと手順を踏んでから──」
「大丈夫よ~。始めは痛いかもだけど、すぐに気持ち良くなるから~」
なんだかもう、いかがわしい何かっぽい台詞を吐きつつ、愛宕は麻守を追い詰めていく。
「重巡洋艦・愛宕、抜錨しま~す!」
ついに麻守の背中が机に当たる。完全に進退極まった麻守のお腹に向かって、両手を突き出した愛宕がダイブする。
そして──
「ちょ、ま……、いやぁぁあぁ!!」
麻守の絹を裂くような悲鳴が、鎮守府のある島中に響き渡ったのであった。
なお、愛宕のマッサージは効果は、麻守のお腹がふんわりぷにぷにに改装されただけで、ウエストの数字は微動だにしなかったという……。