ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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SWEET ESCAPE(4)

 海軍のかく乱作戦に奔走するキリとウソップだったが、一旦屋根の上へ逃げた時、ウソップがふと海を眺めて気付いた。メリー号が動き出しているのである。

 

 「おい、あれ見ろよキリ! メリー号が動いてるぞ!」

 「メリーが? なんで」

 

 続いてキリも海を見ると、やはり船が動いている。作戦にそんな展開はない。船に近付いているとすればヨサクとジョニーの二人だったはずだが、彼らが船を奪う理由もわからなかった。

 何か異変が起きたのだろうか。

 とにかく状況が変わっているのは明白。作戦通りに事が進んでいないらしい。

 わからないなりにキリが頭を働かせていると、何かに気付いたウソップが呟く。

 

 「ナミの野郎だ。あいつ、危ない時は自分だけ逃げるってはっきり言ってやがった。きっとあいつがメリーを奪って逃げたんだ」

 「ナミが? そんなはずは……いや、そうか。あり得ない話じゃないかもしれない」

 「くそっ! どうすんだよキリ、船がねぇんじゃ脱出なんてできないぞ。これじゃいくら相手が混乱してても意味ねぇって」

 

 焦り始めたウソップが言葉を重ね、受け取りつつもキリが真剣に考える。

 ナミの裏切り、可能性は高い。とはいえそれで全てが台無しになるかはまだわからないだろう。なぜメリー号が離れたのかを考えるより先、どうやって島から離れるかを考えなければならない。逃げることができれば島内での全ても無駄にはならないはずだ。

 

 周囲への警戒も怠らず、キリは港の周辺を見つめて考える。

 考えた末に答えを出した。

 

 「大丈夫だ。ナミのことはシルクに任せてある。ナミが持ち場を離れて船へ向かったなら、絶対シルクも後を追ったはず。メリー号にはシルクも居る」

 「もし、追ってなかったら?」

 「いいや、間違いなくいっしょに居る。そう信じてるよ」

 

 落ち着くよう促して、キリが屋根に座った。ウソップも同じく座るよう勧められる。仕方なくその場で尻をついた。次に双眼鏡を要求される。

 鞄から取り出したそれを、キリへ手渡そうとするのだが。異変は起こった。

 

 遠目に見ても海に大きな揺らぎが発生していたのだ。

 何かが海中から現れようとしている。

 

 ウソップの表情に変化があった瞬間にはキリも気付いていて、同じく海を眺める。

 かくして、それはやってきた。

 海から顔だけを出したのは海王類かと見紛うサイズの巨大なパンダ。海流を変化させるほどの体躯が海中にあり、顔だけを出して、つぶらな瞳でメリー号を見つけていた。

 

 「な、ななな、なんじゃありゃ~!? でっけぇ!?」

 「ウ、ウミパンダ? グランドラインの生物だ。しかもあんなサイズ存在するはずが――」

 

 メリー号を見つめて数秒。

 何を想ってか、突然機敏に動き出したウミパンダは、その巨大な手を持ち上げ、メリー号を抱え上げた。海中から水柱を立て、海流を荒れ狂わせて、あっという間に船底が海から離れる。

 普段滅多に見れない光景だ。

 ウソップは驚愕して大口を開け、キリもまた冷静ではいられない。

 

 「はっ!? も、持ち上げやがったぞ!」

 「嫌な予感がするけど……」

 

 ふんと鼻をひくつかせ、彼は全力でメリー号を投げ飛ばす。

 抵抗する暇どころか驚愕する時間もさほど与えられず、まさしく空飛ぶ船と化したメリー号は為す術もなく島から離れ、どこかへと飛んで行ってしまった。

 

 ほんの一瞬の、まさかの事態である。

 その巨体にかかれば投げ飛ばされた船が彼方まで行って見えなくなってしまうのも必然。

 呆気無く取り残された彼らは呆然としてしまい、しばし声を出すことさえできなくなった。

 

 「……飛んでった」

 「うん。凄い物見たって感じ……」

 

 しばらく経ってから呟けたのは一言。

 その後数秒もまた黙り、再び口を開いた時、今度こそウソップは驚愕から声を大きくした。

 

 「うわぁぁぁ~っ!? め、メリーがぶん投げられたァ! シルクは!? ナミは!? あいつら大丈夫なのかよ、おい! つーか何やっとんじゃあのパンダァ!」

 「最悪だ……こんな展開思いつく訳ないだろ」

 「ど、どどど、どうするキリッ! 向こうも心配だがおれたちも逃げられなくなった!」

 

 視線の先でウミパンダは再び海中へ戻っていく。何がしたいのかわからない。まだそこに留まるつもりか、それとも移動するのかも読めなかった。

 あの存在で不測の事態が起こったことは確かである。

 

 メリー号が消えたことで彼らが脱出する手立てが消えた。しかも船上にはおそらくナミとシルクを乗せ、振り落とされてさえいなければ彼女たちも一緒に飛んで行ったはず。

 何がどうあっても作戦の変更は必要となるだろう。

 

 ひとまず二人と船を心配している余裕はない。その前に、この島から上手く逃げ出さねばならないのだが、船が無くなった問題だけでなくウミパンダの存在もある。

 事態はより悪くなっていた様子。

 狼狽するウソップの横でキリは冷静に考えようと努めていた。

 

 「おれたちもう終わりなのかなぁ! 死んじまうのかなぁ!」

 「大丈夫だから落ち着いて。そこまでひどい結果にはならない」

 「うぐぐ、でも、あんなでかい奴居たんじゃ島から出られねぇって! ナミとシルクはやられちまったしよぉ、カヤからもらったメリーまで……!」

 「まだ死んだって決まった訳じゃないさ。きっと二人は生きてる。多分」

 「うっ、どっちだよ」

 

 口元に手を当てて必死に考え、屋根から島中を見渡す。

 まだ島から離れる方法はあるはず。そう信じて考えなければやっていられない。

 多少の時間は必要としたが、素早く視線を走らせ、一つ一つ要素を見つけていった。

 まだ終わらない。

 自分自身にそう言い聞かせて、キリは作戦の変更を決定しようとしていた。

 

 「船ならまだある」

 「は? いや、メリー号はもう見えねぇとこまで投げられて……」

 「メリー号じゃない。有難いことにボクらを追って現れてくれたからね」

 「海軍の船を奪う気か!?」

 

 港を指差して確認し、企みを聞いたウソップはまた狼狽した。

 仲間になってすぐだというのに、次から次に大事件を起こしてくれるらしい。海軍を相手に旗への宣戦布告だけでなく、軍艦まで奪ってしまうつもりなのか。

 顔色を真っ青にしてしまうウソップと違い、キリはいつも通り笑っている。

 胆力が違う。彼はウソップが想像していた海賊ではなかった。

 

 「英雄だかなんだか知らないけど、ボクらに喧嘩売ってきたんだ。これくらいの被害は覚悟しといてもらわないとね。ってことを教えるにはちょうどいいでしょ」

 「おれ、これ以上驚いたら死んでしまう気がする……」

 「ならとっとと島を離れよう。でもウミパンダを回避するためには陽動が必要そうだね」

 

 立ち上がったキリは決意を込めて呟き、慌ててウソップも立ち上がる。

 彼らは屋根伝いに港へ向かおうと決めた。

 

 敵を混乱させるために町中を駆け回っていて、現在地からは少し距離がある。だがそう遠い訳でもなくて素早く到達できるだろう。問題は敵に見つかるか否かだ。

 

 ここからは迅速な行動が必要となる。

 作戦は最終段階。船に乗って島を離れる時が来ていた。

 できるだけ海兵を町中に取り残し、船を奪う間と島から離れるまでの間は大人しくしていて欲しいものだ。そのためには姿を隠したままがいいだろう。

 そう思っている最中、どこかから屋根へ上ってきた海兵たちが二人を見つけた。

 

 「居たぞ! あいつらだァ!」

 「ひぃっ!? み、見つかった!」

 

 驚いたウソップが肩をびくつかせる頃、振り返ったキリは一足先に動いていた。向かう先は港の方向ではなく敵が上ってくる場所。迎撃するつもりのようだ。

 

 先頭に立っていた男へ接近すると、素早く紙の剣を作り、切り付ける。

 鮮血が舞った瞬間には蹴りを入れていて、彼の体が屋根から落ちた。

 

 ウソップがおぉっと呟く瞬間。先手を取ったキリが無慈悲に次々と敵を切りつけていく。あまりに容赦が無いと言うか、普段のやさしげな顔からは想像できない攻撃の数々だった。

 突然の攻撃に動揺が走っている。

 上手く反応できる者は一人も居なくて、あっという間に状況が変えられてしまった。

 十人以上居た敵が倒されるまでかかった時間は一分にも満たない。呆然と立ち尽くすウソップは言葉を失う。流石にここまで強いとは想像していなかった様子だ。

 

 「急いでるんだ。邪魔しないでくれるかな」

 「つ、強ぇ……」

 

 倒した敵が怯えるのを一瞥し、興味も持たずにキリが港へ振り返る。

 呆けるウソップを呼び、即座に屋根の上を走り始めた。

 

 「行くよウソップ。もう彼らと遊んでる暇ないよ」

 「お、おう。しかし遊ぶっておまえ」

 「ルフィの遊び相手に比べれば軽い軽い」

 「おれは正直、海軍よりおまえが怖くなってきた……」

 

 キリが屋根の間を軽く跳んで先行し、時折ウソップに手を貸してやりながら港を目指す。海軍の追撃はそれ以上なかった。姿を見ていた彼らでさえ、動き出そうとしなかったためだ。

 

 そう時間もかからずに港へ到着する。

 屋根の上から周辺を確認すれば、港では海兵が数名倒れており、ずぶ濡れになったヨサクとジョニーの姿も見える。騒ぎは起こっていない様子だった。

 キリの能力を頼りに二人が地面へ降りる。

 素早くヨサクとジョニーへ駆け寄り、狼狽する彼らへ声をかけた。

 

 「ヨサク、ジョニー」

 「キリの兄貴! ウソップの兄貴!」

 「た、たたた大変ですぜ! ナミの姉貴が船を盗んで、その船が山くらいでけぇパンダに投げ飛ばされて、それで……!」

 「落ち着いて。大体のことは見てたよ」

 

 狼狽する二人は全て見ていたらしい。

 見たことがないほど巨大なパンダを目にして、動揺するのは当然だった。

 しかし戸惑っている場合はないと、キリが真剣に二人を見る。明らかに狼狽えていた彼らも雰囲気を感じ取ったようで、口を噤んで話を聞いた。

 

 「すぐにこの島から逃げる。ヨサクは町に居るゾロを探してきて。多分一人じゃ戻って来れないし、あとどこに居るのかもう予想もできないけど」

 「お、おし。探してきます」

 「ジョニーとウソップはボクと一緒に。船を手に入れる」

 「また戦うのか……」

 

 ウソップがげんなりするものの、決定は覆らず。

 ヨサクが駆け出していった後、ウソップとジョニーを連れてキリが歩き出し、港に停まっている軍艦へと歩み寄っていく。

 説明不足で二人が不安を抱えていても、キリは迷わず前へ進んでいた。

 

 「船を襲うんすか?」

 「そう。メリー号を追うにはこっちの方が速い。そういえばジョニーたちの船は?」

 「ええ、あります。あっちの方に」

 

 指で示した方向に小さなボートがある。あれで移動しているらしい。

 軍艦の位置からは離れていて、町民のボートとも見分けがつかない様子だった。

 

 「あれも使えそうだね」

 「どうやって逃げる気なんだ? 海にはパンダが居るんだぞ」

 「陽動するよ。上手く逃げられることを願うしかない」

 「そ、そんなレベルなのか? おれはますます嫌になったんだが」

 「あれはボクらでどうにかできるレベルじゃない。逃げるのが精一杯だ」

 

 軍艦の下まで辿り着き、三人で見上げる。

 そこでキリが紙を広げて、両腕に纏わせると大きな両腕を作り出した。何をするのかと見ていると、彼は何も言わずにウソップとジョニーを掴み、ぎゅっと握った。

 

 目を白黒させる中、まさかと気付く。

 まさかこのまま投げるつもりではないだろうか。

 

 「お、おいおいキリ、ちょっと待てよ。確かに急いじゃいるが時間はまだあるんだ」

 「キリの兄貴、せめて説明だけは……おれたち全部が全部いきなり過ぎて心の準備が」

 「さぁ行くよ二人とも。戦闘開始だ!」

 

 キリは全力で二人の体を天高く放り投げ、落下する軌道で二人を軍艦へ投げ込んだ。

 同時に自身は脚力で跳び上がり、悲鳴を上げて落ちてくる二人が到達する前に甲板へ到達する。そうして見つけた海兵たちを瞬時に剣で切り裂いた。

 鮮血が舞い、悲鳴さえ許さない。

 頭上の悲鳴に気を取られる彼らが反応できぬほど素早く、一方的に攻撃が始められた。

 

 突っ立って居た二人の海兵が切り裂かれた時、ようやく彼らが視線を下ろしてキリに気付く。すでに彼は動き出している最中で、剣を持って襲い掛かろうとしていた。

 たった数秒、ほんの刹那。

 数人の間を通り抜けただけで海兵たちが体を切り裂かれ、苦悶の声を発して倒れる。

 甲板に居るのは総勢で二十名ほど。敵はまだ残っている。

 

 さらに攻撃を加えようとして、表情を変えたキリはぴたりと足を止めた。

 無傷で立っている海兵たちの中にコビーとヘルメッポが居る。どうやら部隊と合流を果たし、彼らは彼らの判断で動いていたらしい。それが今、襲撃中のタイミングで発覚した。

 キリが背筋を伸ばして立ち、攻撃をやめる。

 ちょうどその頃に空からウソップとジョニーが落下してきた。甲板で大きな音が鳴るも彼らは気にせず、動揺する海兵たちは今になって武器を構え始める。

 

 「キ、キリさん……」

 「てめぇは、またっ」

 「どうも海兵さん。船、奪いに来ました」

 

 簡潔に告げて、宣戦布告を終えた後。紙を操った彼は右腕に纏って巨大な腕を作り出した。

 思い切り振って攻撃。ラリアットの要領で残る全員の体を捉える。

 感じるのは強い力と浮遊感。

 彼らは力ずくで無理やり船外へ弾き飛ばされ、宙へ放り投げられた。一瞬の出来事で何が起こったのかもわからない。気付けば海へ落ちようとしていて、いくつもの悲鳴が交わる。

 

 十数名分の水柱が立って、船はあっさり強奪される。

 場が落ち着いてから、冷静に動き出したキリは先に倒した海兵たちを運び、同じく海へ放り捨て始める。慈悲の心などない、冷淡な所業を笑顔で行っていた。

 

 痛みを堪えてやっと立ち上がったウソップとジョニーは、そんな彼に異論を唱え始める。怒る理由は当然、自分たちを思い切り投げ飛ばしたことだ。

 

 「おぉいキリ! おまえは血も涙もねぇのか! だから嫌だっつっただろ!」

 「あんた滅茶苦茶だ! 一時は本当に殺されるのかと……!」

 「まぁまぁ、こうして船は奪えたんだし、そんなに目くじら立てなくても」

 「笑い事じゃねぇよ!」

 

 怒る二人を諫めつつ、船上には三人だけとなる。

 キリは素早く軍艦の状態を見渡した。

 

 「急いで出航準備だ。落とした連中が来ない内にちょっと港から離れよう」

 「何? ルフィたちは」

 「ルフィが居れば飛んでこれる。それよりまず敵を近付けないことだ。沖まで出ないように気をつけつつ、多少は港から離れる。ほら、急いで急いで」

 

 指示を受けて先にジョニーが駆け出し、続いてウソップも慌て始める。キリ自身も大人数が必要な船の操船とあって、紙を操りながら作業を急いだ。

 本来は三人で動かせる船ではない。

 それだけに作業量は多く、また力も必要で、動かそうとするだけでも大変だった。

 

 船を動かすだけならばいい。まだ敵が残っているのだ。

 いつ襲われるともわからない状況では落ち着いている暇もなく、三人は迅速に行動する。

 やがて船がゆっくりと動き始めた。

 この時まで敵が船へやって来なかったのは奇跡に等しいだろう。軍艦から落とされた海兵たちは傷ついた仲間を助けるのに必死で、敵を倒そうとまで気を回せる者が居なかった。

 

 彼らは無事に海へ出て、それでいて港から離れ過ぎないよう、速度に気をつける。

 作業の手を止められるようになった頃、町を振り返りながらジョニーが口を開いた。

 

 「みんな戻って来れますかね。特にゾロの兄貴は危ねぇからなぁ」

 「ヨサクに賭けるしかないよ。正直に言えばルフィも同じだから」

 「そりゃあ、ますます不安なんですが」

 「なるようになるよ。それよりまずはこの船を守ることが先決――」

 

 言い終える前に不穏な気配を感じた。

 形相を変えて振り返ったキリが空を見上げれば、落下してくる人影が見える。

 正義のコートを肩にかけ、帽子を目深にかぶって、鞘に納めた刀を構えた状態でやって来る一人の人物。見間違えるはずもない。以前の戦いで見事な腕前を見せたボガードだ。

 

 言わばこの状況は再会である。

 鋭い目つきで、隠しもせずに殺気を放って接近してくる。

 咄嗟にキリが紙を放って臨戦態勢を取った。

 ウソップとジョニーは反応できていない。ただ一人応戦できたのは彼のみ。

 

 体の周囲を取り巻くように無数の紙きれが舞い、頭上から来る敵を迎え撃とうとしている。真っ先に考えるのは船に乗せないこと。海に叩き落すつもりでキリも跳び上がった。

 敵はすでに空中。移動はできないと推測する。

 集めた紙で大きな鎌を作り、両手で持つと体ごと回転して斬りかかる。

 確実に捉えた。そう思った挙動を、ボガードは宙を蹴ることで回避した。

 

 「なっ」

 

 ボンッ、ボンッと空気が破裂するような音が、彼の足の動きに合わせて連続する。聞いたこともない奇妙な音だ。それによって空中を移動している。

 異様な光景だった。だがグランドラインを航海中、噂だけは聞いたことがある。

 空を飛ぶ人間が居る、と。

 その多くの目撃情報が海軍だったとあって、何かの技だろうかと思っていたが、確信を得た。

 全員ではないだろう。しかし海兵の一部は奇妙な技を使うらしい。

 

 攻撃が空振りに終わり、即座に鎌をバラケさせて紙をばら撒いた。

 空中にばら撒かれたそれらはぴたりと動きを止め、落下することなく宙に留まる。キリはその上へ立ち、常人より体重が軽いことも要因の一つだろう、空中に止まって敵を見る。

 予想外の姿に驚きつつも、ボガードもまた月歩で宙に留まる。

 二人は空で対峙した。

 

 「雲紙」

 「空を飛ぶ、か……奴が驚かない訳だ」

 「奴? そうか、ゾロのことだね」

 「おまえたちを見ていて、一つ決めたことがある」

 

 両足で空気を蹴って滞空しながら、器用な様子でボガードが語る。

 キリは両手に剣を持ち、いつでも反応できるよう待ち構えた。

 

 「おまえたちを見逃す訳にはいかない。ガープ中将がなんと言おうと、将来のため、できればここで始末しておきたいものだ」

 「あっそ。そう思うんならどうぞご自由に」

 

 会話は少なく、たったそれだけ。

 互いに胸の内では決意を固めていた。

 

 こいつはここで殺す。

 キリは一味のため、ボガードは今後の世界情勢を想い、すでに決めている。

 敵を認めるからこその思考。放っておけば必ず大きな壁となり、どこかでぶつかることになる。そうさせないためには今この場で決着を着けるべきだ。

 

 無言で睨み合い、やがて動き出す。

 前へ出たのはボガードだった。ボンッと空気を蹴って飛び、正面から接近する。

 それを迎え入れず、キリは足場を蹴ってさらに上へ跳び、跳んだ直後から足場とした紙を回収して周囲に漂わせた。ボガードも間を置かずに追い縋る。

 

 (奇妙な能力だ。ロギアではないようだがパラミシアとしても異様に感じる。だが身のこなしは普通ではない。かなりの修練を積んでいるな)

 

 最高点へ到達したキリの跳躍は終わり、後は落ちるのみという所。

 下からボガードが襲い掛かった。

 

 キリは両手に剣を持っている。接近戦は望むところという様子だった。しかし、移動方法は先程と全く同じ、にも拘らずボガードの速度があまりにも違っていて虚を衝かれた。

 冷静に見つめていたはずが、見えない。

 気付けばボガードはキリの間近を通り抜けており、頭上に居る。そしてその時には彼の体は縦横無尽に切り裂かれて、ほんの一瞬で、十を超える斬撃によって大量の鮮血が宙を舞った。何が起きたのかもわからぬまま、彼の体からがくんと力が抜ける。

 

 軍艦から見ていたウソップとジョニーが大口を開けて驚愕している。

 二人は咄嗟に声をかけるも、全身から力が抜けて落下してくるキリには聞こえていない様子だ。

 

 「キ……キリィ!?」

 「キリの兄貴ッ!」

 

 もしや死んだのか。そう思えるほどキリの様相はひどかった。

 全身が血に染まって全く力が入っていない。

 落下していく彼を見下ろし、ボガードはさらに空気を蹴って追いかけた。

 

 これで終わるはずがない。不思議とそう思う心があって、とどめを刺さなければと思う。

 彼の判断は間違っていなかったようだ。

 近付く最中、突如目を開いたキリはギロリとボガードを睨みつけ、全身に力を取り戻した。

 

 やはりそうだ。見逃してはいけない。

 些細な仕草からそう判断し、右手に持った刀を握り直す。

 

 「海賊を選んだのはおまえだ。許せ」

 

 冷徹に見据え、狙いは左胸の心臓。

 構えられた刀が銃弾の如き速度で突きを放ち、風さえ置き去りに迫った。一部始終を見ていたキリは咄嗟に左腕を掲げる。そして、狙っていたのか、ただの偶然か、ボガードの刃は彼の左腕を貫き、半ば無理やりに軌道を変えられて左肩を穿つ。

 反応されたことに驚いた。

 一瞬目を見開いて、些細ながらも様子が変化した時、キリがにやりと笑う。

 

 どうやらボガードという男、真面目な人間らしい。視線は嘘をついていなかった。

 どこを狙っているかがわかれば反応も決して難しくはなく、全身が熱く、死の境地に立った彼は普段以上の力を発揮し、見事に反応して攻撃を防いだ。

 そうして隙を与えず反撃に出るのである。

 

 共に落下しようとしていた無数の紙が頭上へ舞い上がり、ボガードを捕らえようとした。

 素早く全身に張り付いていき、行動を制限しようとしているらしいことがわかる。回避するべく咄嗟に離れようとした。だが腕を貫通して肩に刺さった刀が抜けず、ぐっと強い抵抗を感じ、再びボガードの表情が変わった。強く引っ張っても抜けないのである。

 

 異質な戦法であっても彼はパラミシア。紙の体を持っている。皮膚も肉も内臓も血管も細胞まで紙で作られており、それを操作することができるだけの鍛錬を行った。

 現在彼の体は、体の内側に刺さった刀身を捕らえるよう、腕と肩の紙がしっかり巻き付いて離れなくなっているのである。自ら肉を動かして凶器を捕まえているのだ。痛みは伴うが、敵の武器と行動を封じるのにこれほど役立つ状況もなく、むしろ喜々として受け入れる。

 さらに周囲の紙がボガードの全身へ巻き付いて、防御どころか空を飛ぶことさえ許さなかった。

 

 全ての紙を使って、左腕と両足を捕まえたその時。

 キリは右腕を構えた。

 

 紙を操る能力を手に入れて以来、彼はそれ以外を見せないようになった。敵がそればかりを気にして油断するからである。

 ここぞという時、手の内が全てバレていては決定打に欠ける。

 ならば奥の手は隠しておくべきだ。来るべき時、確実に相手を仕留められるように。

 

 ざわざわと奇妙に動き出したキリの右腕は白く変色し、棘を持つように内側から紙が突き出して、五指の先端も鋭く尖る。ボガードの目にはパラミシアの証明が映っていた。

 自身の能力で硬化され、硬さは鉄並み。

 鋭く突き出された一撃は必殺の凶器となっていた。

 

 「紙突(かみつ)き――」

 

 繰り出された攻撃が無慈悲にボガードの胸を貫く。体の中央に腕が突き刺さり、大量の鮮血が飛び出して、攻撃を与えたキリの顔にも降りかかった。

 思わず咳き込んで血を吐き出す。

 

 刹那の攻防で攻撃を読み切ることができなかった。

 やはり油断を誘われた要因が大きく、肉体の変化にまで気が回っていない。見る見るうちに変貌していった彼の腕に気を取られた結果であろう。

 攻撃を受けた後、ギシッと鳴るほど歯を食いしばったボガードは考える。

 

 左腕、両脚は紙が巻き付いて動かせない。完全に動きを封じられている。それでも状況を打開しようと思うならば、必然的に右手に持った刀を使わねばならない。

 湧き出してくる力に任せ、筋力を頼りに思い切り刀を振るった。すると今度は拘束に打ち勝ち、刀身が動いてキリの腕が奇妙に皮膚を切られ、肩の一部が抉り取られると同時、腕の半ばほどが歪に引き千切られる。前腕から手首にかけて斜めに肉が裂け、千切れかけてだらりと揺れる。

 さっき以上の血が雨のように降り注ぎ、痛みより先に驚愕が勝って、キリの顔が呆けた。

 

 ボガードが手の中で刀を回す。

 持ち方を変え、至近距離から突き刺そうと腕を振り上げ、切っ先が胸を狙っていた。

 不利を感じるもののまだ諦めずに、キリがぐっと腕を引っ張って胸から抜こうとする。しかし抜けない。彼も同じように筋肉で腕を捕まえているらしく、動きが封じられた。

 左腕はもう力が入らない。血に濡れているだけでなくダメージが大きい様子。

 

 そうして、今度は真逆の光景となった。

 

 「お返しだッ」

 

 勢いよく胸に刃が突き立てられる。

 すとんと軽い様子で刺さり、直後に背中から刀身が現れて、反応して口から血が漏れ出る。

 

 一分にも満たない、わずかな時間の中での攻防。

 ウソップとジョニーは言葉を失くしてただ見つめ、声一つ出せなかった。自分たちが敵うはずがない、と思っている。そのせいか、キリがやられる様をただ見ているしかなかった。

 そのまま援護することもできず、二人の体が海へ落ちるのを見送る。

 

 「キリィィィッ‼」

 「あ、あの野郎、化け物かっ。びっくりするくれぇ強いキリの兄貴を……!」

 

 急いで欄干へ駆け寄って海を見つめる。

 二人はすぐに上がってきた。

 ぐったりした様子のキリはボガードの左腕で抱えられている。すでに腕はボガードの体から抜けていた。血と海水で濡れたことにより力が抜け、今更抵抗はない。抱えられなければ自力で浮かぶこともできず沈んでいただろう。ボガードが信じられない物を見る目で彼を見やった。

 余裕がないのは彼も同じだがそうせずにはいられない様子である。

 

 怪我も厭わない決死の攻防。あの瞬間の覚悟が恐ろしい。まさに命懸けで殺しに来た。油断を誘われたとはいえ、ここまでの苦戦はここ数年でも覚えがないほど。

 咳き込むだけで血が逆流して堪えられなかった。胸の傷は決して浅くはない。

 ボガードは呆然と呟く。

 

 「凄まじい戦いだった。私はおまえを見くびり過ぎていたようだ」

 「てめぇ……兄貴に軽々しく触れんじゃねぇ!」

 

 声が聞こえて顔を上げる。すぐ傍にある軍艦から、欄干を蹴ってジョニーが飛び出していた。右手には剣を振り上げ、食いしばった歯を剥き出しにして落下してくる。

 怒り心頭といった模様。手負いのボガードへ襲い掛かった。

 

 「命を賭けて戦った兄貴を、おれが殺させやしねぇよッ!」

 

 冷静にそれを見たボガードは海面から跳び上がり、素早く着地点から逃げ出した。入れ違いになるようにジョニーが水面へ落ち、水柱を上げて海中へ消える。

 傷は負ったがまだ動ける。体に纏わりついていた紙も濡れると剥がれた。

 キリの体を引き上げ、彼は再び月歩で空中へと出て、一息つこうと深く息を吐き出す。

 

 「悪いがこれは我々の勝負だ。仲間であっても邪魔はしないでもらいたい――」

 

 逃れたはずの空中で、強く腕を掴まれた。

 水面から自身の左腕へ視線を走らせた瞬間に気付く。

 血と海水に濡れて力が入らないはずの右手で腕を掴んで、キリが鋭い眼差しでボガードを睨んでいた。しかもその力は痛みを感じるほど強く、骨が奇妙な音を鳴らし始める。

 

 あれでまだ死んでいなかったのか。

 驚愕すると同時に伸ばされた彼の左腕が、先と同じように変色し、紙が突き出して、攻撃態勢に入った。千切れかけながら我が身を顧みずに、明確な脅威となり、凄まじい執念が見て取れる。

 それを見てボガードは歯噛みした。

 

 今ここで確実に仕留めなければ。

 彼が攻撃を繰り出すより先に右腕を振り、刀の柄で顎を殴りつけた。一撃、強かな殴打を喰らって頭が揺れ、わずかに体の力が抜ける。

 その一瞬で腹に膝蹴りを入れ、キリの体を飛ばした。

 

 距離が開いて約一メートル。

 落ちていく彼に狙いを定めて刀を構え、銃弾を撃ち出すが如く、突きを放つため息を整えた。

 

 (今度こそ仕留める。脳を破壊すれば流石に動けないはずだ。こいつは、こいつだけは、確実にここで仕留めておかなければ……!)

 

 意を決して右手に力を込めた。

 全く同じタイミング。軍艦から飛来した弾丸がボガードの顔に激突し、小さな爆発を起こした。

 ダメージを受けた状態で虚を衝かれた一撃。

 驚愕した彼は、体勢を立て直す余裕もなく海へ落下していった。

 

 「ジョニー! キリを早く船の上に!」

 「今すぐ!」

 

 狙撃を終えたウソップが耐え切れずに叫んだ。

 先に落ちたキリを拾い上げ、慌てて泳ぐジョニーが軍艦へ戻ってくる。

 ぐったりして動かないキリを運び、甲板へ引き上げてすぐ不安に苛まれた。一見すれば死んでいるようにも見えてしまう姿。目は閉じられて動く気配はない。

 

 ウソップがすぐに倒れたキリの呼吸を確認し、まだ死んでいないことを確認した。だが安心できる姿ではない。見ているだけでも流れた血が多過ぎる。

 切り傷は全身に作られており、肩には風穴が開けられて、左腕は歪に肉を抉り取られている。

 見たことの無い傷口に表情が歪み、見ることさえ躊躇われる様相だった。

 

 よくぞここまで戦った。一味のためを想い、二人を守ろうとして。

 自分がしっかりしなければと思い立って、頭を振ったウソップがジョニーを見る。ここに居る二人で、今度はキリを守らなければならないのだ。

 

 「ジョニー、キリはもう動かせねぇ! 船の中にある医療道具全部持ってきてくれ! 早くしねぇとこいつほんとに死んじまうかもしれねぇ!」

 「は、はい!」

 

 急ぐジョニーが荒々しく扉を開き、船内へと姿を消す。道具が無ければ応急処置もできない。短い時間とはいえ、しばし待たねばならなかった。

 この時間が辛い。

 痛ましい彼の姿を見ているだけでも胸がざわつき、居ても立っても居られなかった。

 

 まさかこのまま死んでしまうことはないだろうか。

 努めて考えないようにしているのに、嫌な想像が頭をよぎって涙が溢れそうになる。

 その時、うつ伏せに倒れたまま、キリが声を絞り出した。

 

 「ウソップ……」

 「な、なんだ? 大丈夫かキリ。痛ぇよな。もうちょっとだけ待ってくれよ」

 

 息は絶え絶え、声に力はなく、いつもとの違いに声が詰まる。

 触れることさえ戸惑われる彼に伸ばした手が震え、その体に触れることさえできなかった。だからせめてその言葉を聞き逃さないように、ウソップは土下座するような体勢で顔を寄せる。

 キリは絞り出す声で、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

 「ボク、まだ、生きてるかな?」

 「あ、当たり前だろ! 今ジョニーが道具を取りに行ってんだ。いいか、絶対に死ぬなよ。おれたちが絶対に守ってやるから、絶対に死ぬな。すぐ助けてやるから」

 「ありがとう……頼むよ」

 

 胸に風穴を開けられたせいか、呼吸の音がおかしい。妙な音が聞こえていた。

 黙っている方が傷に障らないのか、眠ってしまえば危なくなるなら話し続けている方がいいのか、医療の知識も無くてはそんなことさえわからない。ウソップには彼がどうしていればいいかを指示することもできず、ただ傍で励まし続けるしかできない。

 

 熱くなる胸が、溢れ出す涙を止められなくなった。

 死なせたくない。今はただそう思う。

 周囲への警戒すらできずに、ずっとキリを見つめていた。

 

 「悔しいなぁ……」

 

 わずかに目が開いた状態で、どこを見ているとも分からぬおぼつかない眼差し。そんな状態でぽつりと呟かれる。

 

 「強くなった気でいたのに、また役に立てないや。ウソップ……ごめん。もっと、上手くやれればよかったのにね。迷惑、かけるよ」

 「な、何言ってんだよ。おまえが居なかったらおれたちあいつに殺されて終わりだったさ。おまえが居てくれたから助かったんだ。ありがとうってのはこっちのセリフだろ」

 「うん……そうかな」

 「そうだっての。だからよぉ……そんな寂しいこと言うな。おれたちにはおまえが必要なんだ」

 

 ゴツッ、と背後で音がした。今にも消えてしまいそうな呼吸をかき消すように。

 ウソップはゆっくり振り返る。

 欄干の上にはずぶ濡れになったボガードが立っており、冷淡な目で彼らを見つめていた。

 

 なぜ立っていられるのだろう。なぜ動けるというのか。

 キリが胸に風穴を開けたはずだ。それでも動けるというのは、どれだけの強者でも、能力者だとしてもおかしい。それでも事実ボガードは動き、しっかりと背筋を伸ばして立っている。

 恐怖を覚えるのも無理のない姿であった。

 

 だがウソップは、逃げなかった。

 背後にキリを庇い、パチンコ一つを持って立ち上がって対峙する。

 彼の戦闘は今しがた見たばかり。自分が勝てないことは誰よりも理解している。だけど自分だけ逃げ出すのはとても選べずに、これから自分がどうなるか知っていてもその場を動けなかった。恐怖からではない、これは使命感だ。

 

 キリを守る。自分より強い彼を背に、そう覚悟を決めていた。

 すでにボガードはしゃべれないのか、何も言わずに刀を構える。

 凄まじい執念。そして胆力だ。

 今すぐ気を失ってもおかしくない、或いは命を落としてもおかしくない傷を受けて、自らの体を顧みずにキリへのとどめを刺そうとしているようだった。

 

 「おれは、臆病だからよ。今にも気を失いそうなくらい怖くて仕方ねぇ……」

 

 ぽつりと呟いて弾を番える。

 視線を外し、俯いてしまって隙だらけの彼を、なぜか攻撃することができなかった。

 おそらくは確かに抱えた尊敬の念。敵わぬと知りながら逃げない彼の、愚かな胆力を目にしてしばし待つという愚行を決断した。

 ボガードは出会い頭にウソップを認めている。彼もまた強者の一人だと。

 

 「でもよぉ、おれらのために死にかけてまで戦ったこいつを、見捨ててなんて行けねぇじゃねぇか……おれがなりたかった海賊はそんな奴じゃねぇ! 命張って仲間を守れるような、勇敢なる海の戦士になりたかったんだ! そんな男になるためにおれは海へ出た!」

 

 意を決して顔を上げ、パチンコを構える。

 ウソップの動きに反応してボガードも刀を構えた。

 

 「このおれの存在を生涯忘れんなよ! おれの名は、キャプテ~ン・ウソップ! 未来の海賊王のクルーで、麦わらの一味の狙撃手だァ!」

 

 叫ぶと同時に、海が爆発するような轟音を立てて水柱を立てる。

 巨大なそれは雨のように海水を落とし、辺りに即席の豪雨を生み出した。

 

 驚愕の直後、気付く。

 一度見たはずのウミパンダが顔を出しており、つぶらな瞳で軍艦の上を見つめていた。

 


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