森の中を走って進んでいたガープが、ぴたりと止まった。
迷い無く逃げ出した海賊を追う道中。その様は見事。恐怖に支配されて惨めに後ろを向くのではなく、何か確固たる意志を持った撤退に思えて、心では彼らのことを褒めてさえいた。
そしてその答えを見る時がやってきたようだ。
他の場所より開けた場所、それでも周囲は木々に囲まれているが、道の先にキリとゾロが立っている。二人で肩を並べ、意志を持って棒立ちになり、ガープを待ち受けていた。
戦意は十分。どうやらやる気らしい。
若いながらに無鉄砲で無茶をするものだ。
二人がかりとはいえ英雄とまで呼ばれた老兵を相手に正面から挑もうとしている。
海賊として、正解か否か、その答えを見せてもらうには面白いと思う状況であった。
ガープはゆっくり歩いて進み、広場へ入ったところで足を止める。
二人は真剣な顔でその挙動をつぶさに観察している様子だ。
「なんじゃ、もう逃げるのはやめか。ならルフィがどこにおるか教えてくれるんじゃろうな」
「それは知らない。悪いとは思うけど」
「フン、海賊め。息をするように嘘を吐くか」
「なんせじっとできない人だからね。一度動き出したらどこに行くのかボクらもわからない」
「それは自分たちに聞いても無駄だと言いたいのか?」
「理解してもらえるんなら早いよ。できれば無駄な戦闘は避けたいんだ」
「あいにくそれはできそうにない」
ガープが拳を確かめて佇まいを直した。
「敵に立ちはだかられれば、逃げることができん性分でな」
「大体わかってたよ。似てる人をよく見てるから」
「白々しい野郎だ。自分から追って来やがった癖に」
呟いたゾロが腕から取った手拭いを頭に巻く。
三本の刀に腹巻、黒い手拭い。イーストブルー勤務でないガープにも聞き覚えがあった。
近頃噂に聞いた男。
その人物に間違いないと確信を得る。
「そういえばこの海には高名な賞金稼ぎが居たそうじゃな。三刀流を使う海賊狩りとやらが」
「どっかの誰かが言い出しただけだ。おれにとっちゃどうでもいい」
「一人は剣士と、おまえは何をする気じゃ」
「やってみればわかるさ」
そう言って互いに黙り込んで、しばし静寂の時が続いた。
辺りを風が薙いでいく。
奇妙なほどの静けさに包まれる中、誰も動こうとはせず、緊迫した睨み合いが続く。
敵は敵わぬほどの強者だと知っている。しかし逃げたところで逃がしてくれるほど甘い相手ではないだろう。どの道向き合わなければならなかった。
逃げるための時間稼ぎが必要だ。
命を賭けて戦うことになるが、そうするしかない。
ルフィを連れていかれては一味が崩壊する。それでは海に出た意味がない。
示された意志は徹底抗戦。そして撤退。
それは二人に限らず一味総員の意志だった。
「行くぞ小僧どもォ!」
地面を強く踏みつけてガープが駆け出す。
迫力は壮絶。今まで出会った敵があまりにも小さく思える。
それは一個の強大な脅威となって、真正面から二人へ迫った。
武器となるのは握られた拳。ただそれだけを信じて向かってくる。従って先にゾロが刀を抜いて前へ出て、両手に二本を持ち、自らも接近しながら攻撃の機会を伺う。
接近の最中もガープの笑みは崩れない。
ビリビリと肌を震わす威圧感を受けながら、ゾロは歯噛みして一気に前へ出た。
「二刀流、鷹波!」
滑るようにしてガープの傍を低く通り過ぎながら、無数の斬撃が放たれる。波状となって繰り出されたそれらは広範囲に渡って地面を駆けたが、ガープは跳んで回避していた。
見切りの速度が半端ではない。
攻撃の軌道から性質までを読み取り、どこから襲ってくるかを一瞬で判断された。
結果は無傷。着地したガープはすべての斬撃を避け切っている。
顔には笑顔があって、余裕を崩すことさえできていない。さらにゾロは悔しげに舌を鳴らした。
「いい腕しとるのう。その若さでこれか」
「チッ、たったあれだけの動きで」
「なぁに、どこから来るかがわかっておれば大抵の攻撃は避けれる。まだおまえらには早い話かもしれんがな。ふむ、じゃが鍛えれば中々の物になりそうな――」
呟く最中、表情を変えたガープが首を仰け反らせた。直後に頭があった空間を鋭利な紙の矢が飛んでいく。一目見ればわかるほど異質な武器で、それが能力による物だとわかる。
振り返ったガープがキリを見た。
手には紙で作られた弓を持ち、凛とした構えがその目に映る。
パラミシア。紙を操る能力だろう。
一瞬で判断し、面白いと思ってか自然と笑みが深められた。
「ほう、能力者か。変わった能力を使う」
キリは答えずに、冷静に弓を番えてさらに放つ。今度は同時に三本。卓越した技術を感じさせる手腕で、一斉にガープへと襲い掛かった。狙いは的確で肩と腹と脚。ぶれることなくそれぞれの目的へと殺到する。ガープはそれらもまた、軽やかな動作で避け切った。
まるで攻撃の軌道が最初からわかっているかのよう。奇妙な動きである。
だがそれさえも予測していたかのように、紙の矢がガープの傍を通り過ぎようとした時、キリの右手が開かれた。瞬時に指令を受けて、全ての紙の矢がバラける。
形を失い、ただの紙に。
その挙動を見ていたガープは感心した。
自身の能力をよく鍛えているらしい。流麗な動きだった。
キリが人差し指を伸ばしてくるりと回せば、紙は空中で旋回し、独りでに飛び始める。
再び標的をガープとして、それぞれが一斉に殺到した。
「んんっ?」
「一定の範囲内なら自由自在に動かせる。
攻撃力は無さそうだと判断したそれらは、やはり大した攻撃もせずただぶつかるだけ。
ガープの肌を撫でただけだった。が、そう思った直後に両目に紙が貼り付く。
当然視界を封じられてしまい、驚きの声を上げて、両手が顔へと運ばれた。
「むおっ!? なんじゃ、何も見えん!」
「目が見えないなら避けられないでしょ」
「虎狩りィ!」
好機と見てゾロが三刀流で襲い掛かった。爪痕を刻むような軌道で刀が振るわれる。
その攻撃を、両目が隠されたまま、ガープは後ろに跳ぶことで回避した。
攻撃は空を切り、キリとゾロが同時に愕然とする。
まぐれで避けた訳ではない。
完全に捉えられる位置にまで接近できていた。
驚愕したゾロは動きを止めず、さらに追い縋る。だがやはりガープは縦横無尽に繰り出される彼の斬撃を、次から次に回避していき、服の端にすら触れさせなかったのだ。
「くそっ、どうなってやがる!」
「目を塞がれたままで、あんなに……」
「甘い甘い。目が見えずとも戦える奴はおるぞ、この先の海にはな」
「これは無駄か」
舌打ちを一つ、キリがガープの目から紙を剥がした。
暗くなっていた状態から一気に視界が開け、目に太陽の光が飛び込んでくる。ちょうどその広場だけが木々によって光を隠されていない。これも一つの狙いであった。
強い光を受けてガープが一瞬目を細める。
視界が狭まっただけでなく、その行為は些細とはいえ怯んだ証拠だろう。
このチャンスしかないとゾロが全力で地面を蹴り、全身を躍動させて力を増し、突進するように攻撃へ出る。長期戦は不利。一撃で決める必要がると感じ、全身のバネを使って飛び出した後、己の筋力を十全に利用した攻撃が繰り出された。
「鬼斬り!」
「なんの!」
ガープはその場を動かず胸の前で腕を交差した。ゾロの刀はそこへ当たる。だが肉を斬るはずだった一撃は、硬い音を響かせて見事に止められ、不思議と防御されてしまった様相。白いスーツを傷つけることには成功したものの、体に傷をつけることはできなかったようだ。
驚愕したゾロの動きが止まる。
斬られたスーツのその下に、なぜか黒く染まっている腕が見え、鉄のような感触に注意が逸れた。明らかに普通の体ではない。攻撃が止められた理由はここにあったようだ。
反対にガープは笑顔で目を開け、反撃のチャンスが来たと知った。
「バカな……こいつも能力者か!?」
「ゾロ! 後退だ!」
数秒にも満たない一瞬の迷いは致命的なミスとなる。
ゾロが後ろへ跳ぼうとした時には、すでにガープの攻撃が迫っていた。
驚くべき速度である。能力など使っていない、ただ単に鍛え抜かれた筋力と長年の経験による動作。とてもではないが見切れぬ速度で拳が振り抜かれていた。
その刹那、圧倒的な威圧感が彼の拳を大きく見せ、時が止まったように体が動かなくなる。
気付いた時には腹へ触れられていて。
凄まじい衝撃を受けてゾロの体が殴り飛ばされた。
勢いよく宙を舞って受け身を取る暇もない。そんな程度の速度ではなかった。腹から響く痛みで意識が途切れそうになり、視界が高速で流れていく。
彼の体は広場を通り抜け、森の木々に激突し、勢いから木をへし折ってさらに飛ぶ。
結果三本の木を薙ぎ倒してから地面へ落ち、激しく転がった。
キリの立ち位置からは姿が見えなくなってしまう。しかしいつまでも心配しているのを許される状況ではない。牽制するよう、すぐにガープへ目が向けられた。
追撃はせず、彼はその場で腕組みをする。
「おまえたち中々筋がいいぞ。コンビネーションもいい。どうじゃ、わしの下で海兵やらんか? 今なら口利きしてやる。罪に関しても、まぁなんとかしてやろう」
「罪って?」
「監査船を破壊したのはおまえじゃろう。ウェンディから聞いておるわい」
「ボクらについて教えたのも彼女か」
「希望するなら奴の部隊へ配属してやってもいいぞ。ルフィはしばらくわしが預かるが」
ガープの言葉にキリが笑った。
油断なく身構えながら見つめ返す。一対一で戦って勝てる相手ではない。全力で戦ったとしても、どれだけ油断しなかったとしても、相手は確実に格上。逃げることさえ不可能だろう。
そんな状況でも頭を垂れるのは嫌だった。
たとえ虚勢だとしても恐怖心を表したくはない。
子供のような気持ちを胸に、キリは微笑み、ガープとの対峙をやめなかった。
「ルフィが頷くならボクらも頷くよ。ま、あり得ないけど」
「どうかな。わしが言えば奴とて海軍へ入るに決まっとる」
「実の孫のこと、わかってないね。そんな人間なら最初から海賊になんてならないさ」
言って地面に落ちた紙を舞い上げ、自身の周囲へ呼び寄せる。そのまま宙を旋回させ、自身の周りに浮かぶ紙に囲まれながら歩き出し、キリが前に進み始めた。
所持している紙の量は決まっている。それらをやりくりして戦わなければならない。
敵の力は甚大。勝てる見込みはほぼゼロに近い。それでもゼロとは言わず、可能性がないとは思わなかった。どれだけ高みに居ようと敵もまた人間なのだから。
(特別なことをしたようには見えなかった。能力者か、でもあの口ぶりからして能力を持っている風にも思えない。カラクリがあるのは確かだろうけど……)
先程の攻撃、ただ単なるパンチだった。異常なほど鍛え抜かれたせいで避けるのが難しくなっているだけ。体の動かし方からしても能力の類ではなく、一つの境地に達しただけだ。
戦闘においてはそれこそが最も恐ろしい物なのだが、能力があるとないでは大きく違う。
少なくとも攻撃が通じない相手ではないと予想できた。
一方、腕で刀を受け止めたのは説明できない。
理由がわからず、彼を普通の人間だと思えない理由はおそらくそこにある。先程の防御を見た後では、どんな攻撃が通用するのかはわからなくなった。
ガープのことがよくわからない。目を閉じたまま攻撃を回避した件もある。
それでも今すぐ逃げるのは無理そうだ。
敵の姿が不明瞭なまま向かわなければならないというのは思いのほかしんどい。
キリの目は鋭くなり、いつ振りかで精神が研ぎ澄まされ、今なら能力の使用も制限しない気概になる。いつものやる気に欠けた彼ではなく、一人の海賊となっていた。
「まぁいい。とにかくやってみるか」
「ふむ、中々の覇気を感じる。だが自分で操れんようでは意味がないぞ」
気になる言葉を発したが、キリは意図的にそれを聞き流した。
考察するにも情報が少なく、考えるのをやめて、戦闘を始めようと周囲の紙を集めて武器を作り出したのである。
両手に紙の剣を持ち、使わなかった分は装飾として鍔や柄に回され、普段の無骨なデザインとは違っている。能力によって硬化され、刀身は鉄にも等しい硬度を得た。
刀で戦って勝てないのはゾロを見て知っている。
ただ彼との違いは、これが鉄でできた刀ではなく紙で出来ていること。
危険性を想像するのか、ガープも気を引き締め直して対峙した。
「来るか。こっちはいつでもいいぞ」
構えられると同時、キリが走り出す。
芸も無く真正面から。気合いの入った姿とは違い、あまりに愚か。
拍子抜けしたとばかりにガープが嘆息する。
向かってくる速度に合わせ、拳を構え、カウンターに備えた。
いよいよという瞬間に、前方へ跳んだキリは右手に持った剣を振るった。それはガープの左腕によって受け止められ、再び接触の際に硬い音を発する。これだ、これが理解できない。人体を斬ったはずが傷一つつけられず、あまつさえ鉄を斬った時のような音が発せられる。
反撃が来ない内にキリが左手の剣を振った。
こちらも防御されようとしたが、接触するより前に剣がバラける。
意図された動作で、顔の前で多量の紙がばら撒かれてしまい、またしても視界が阻害される。多少の驚きは隠しきれず、思わずガープが背をのけ反らせた。
「うおっ!? くそぅ、またか」
突然の行動にもガープはすぐに冷静さを取り戻す。
腕を振って紙を払おうとした。
その間にキリが着地し、右手の剣で突きを繰り出す。それもまた、視界が悪い中で見切られている。ただし先程と違ったのは攻撃の最中に剣先の形が変わったことだ。彼の意志によって剣としての形状を失くし、まるでハンコの如く、紙が壁となってガープの顔へ押し付けられた。
打撃にもならない、ただ押し付ける行為。
一見すれば無駄に思える行動は、しかしガープの顔を紙で覆ってしまい、確かな効果があった。
「むおっ!? んんっ!」
今度は目だけでなく鼻も口も、呼吸に必要な器官がすべて覆い隠されてしまった。これによりガープは息苦しさを感じて驚愕し、全身が強張ったのが見て取れる。
すかさずキリが回し蹴りを放った。
ガープの腹へ直撃して、鈍い音が発される。
隙を突かれて回避はない。攻撃は確かに当たるのだ。
この機を逃してはならないと、懐からさらに紙が取り出され、周囲に散らばった物も集めて、手に握られるのは長大な剣。刃渡りが長く、刀身が分厚くて、紙でなければ持つことさえ苦労しそうな大きさだ。すぐに硬化されて鉄の如き武器となり、眼下にガープを見下ろす。
いまだガープは苦しそうに顔の紙を剥がそうと躍起になっている。だが簡単には取れない。強く張り付いてしまったそれは腕力では取りにくい物のようだ。
どう見ても隙だらけ。無防備な胴体に向けて大剣が振るわれた。
その刹那、気付いたガープが反撃に転じる。
硬化された大剣と拳とが激突し、凄まじい衝撃が腕に伝わる。紙の大剣は打ち負け、一瞬で破壊されてしまい、大量の紙がばら撒かれた。
やはり並大抵の拳ではない。おそらく彼の拳骨は鉄さえ粉砕するのだろう。
視覚、嗅覚に加えて、さらに聴覚まで封じられて、尚も的確に応戦してきた。
おそらく能力者ではない様子なのにその反応。疑念はまた深まった。
だが呼吸ができないのは相変わらずだ。彼は苦しそうにもがき始める。指先で引っ掻いて剥がそうとするのだが、一枚一枚がぴったり密着していて、妙に触りにくい。どれだけ確かめようとも切れ端さえ見つからず、力で破ろうにも硬く、殴って剥がれる形状でもないため混乱している。
この間にキリは余裕を取り戻し、笑顔で気楽に伝えた。
「剥がれないでしょ。どんな強い人間だって人体の構造は同じ。それこそ能力者じゃないなら逃れるのは難しい。そうなるように訓練したんだ」
落ちた紙を舞い上げ、集め、再び手の中で武器を作る。両手で握ったのは紙の槍だった。
巧みな様子でくるりと回して、構えた後にキリが駆け出す。
大きな穂先がガープの腹を狙い、きっと見えずともそれはバレているはずだった。
「そのまま窒息してもらえるなら楽だけど、それだけじゃ済まないよね。なら――」
ルフィの肉親と言うなら殺す気はない。しかし追ってくるなら容赦する気は皆無だ。
狙うのは無防備な胴体。動きを読んでいるというなら、おそらく回避なり防御はされるはず。それでいい。呼吸ができないまま、紙を剥がそうと躍起になる動きを一瞬でも止めることができるのだ。自分を助けようとする行動が、どちらを選んでも自身の危機につながる。
キリは油断なくガープへと接近する。
槍を突き出し、腹を貫くつもりで一撃を繰り出した時。
突如現れたボガードが割って入り、突き出された槍が刀で弾かれ、ガープの前に立ち塞がった。
表情が変わり、まずいと感じてキリは再度攻撃を行う。二度、三度と槍を突き出すが、力を受け流されて攻撃は無駄に終わり、それだけでなくわずかな合間でガープの顔に張り付いていた紙を切り裂かれた。彼は再び呼吸を取り戻し、大口を開けて息を吸う。
流石にまずいと感じて一旦後ろへ退いた。
思い切り跳んで宙返りをし、着地するとしゃがんだ状態で敵を見る。
ガープとボガード。二人が揃って状況はさらに最悪となった。
「ぶはぁっ!? ゴホッ、ハァ、危なかった。若造め、意外にやりおるわい」
「油断されるからです。気を抜かないでください」
「むぅ、確かに久々の戦闘で舞い上がっていたのは認めるが、あれも中々の腕じゃ。よく能力を理解しておる。相当鍛えられておるようじゃしな」
「それは認めますが、あまりテンションを上げ過ぎないで頂けますか」
「仕方ないじゃろう。おまえやセンゴクが口うるさく言うせいで機会が減ったんじゃ」
合間の一瞬で斬っただけだというのに、ガープの顔には傷一つない。紙は完璧に張り付いていた。薄さ数ミリの紙を切り裂いて無傷で済むとは、彼の手腕が伺える。
ガープ以上ではないとしても、明らかにイーストブルーに居ていいレベルではない。
彼らの前に立つキリが歯噛みする。
状況はさっき以上に悪い物となった。
もはや勝ち目はゼロとなったに違いないだろう。だが目的を勝利としないならば可能性はある。
思わず小さく嘆息した。
「もう少しだったんだけどな。また厄介な人が来た」
「君が監査船を壊した少年か。いい腕をしている。だが、ここまでだと理解しているはずだ。大人しくモンキー・D・ルフィの居場所を教えろ」
「嫌だね。勝負はまだ終わってない」
話していると状況に些細な変化が起こった。
荒々しく草を踏みつけ、広場へ人影が現れる。激怒した様子のゾロだ。
腹に受けた一撃で血を吐き出し、口の端が自らの血液で汚れている。ダメージは相当な物。しかし常人ならば意識を刈り取られる一撃を受けて尚立ち上がり、三刀流を持って現れた。ただそれだけでも感心してしまうほど、実力の差はあったはずだというのに。
空気を伝って感じる威圧感にガープが唸る。
最弱の海と揶揄されるイーストブルーにこれほどの逸材が居るとは。
ゾロの体から立ち昇る力に感心せずには居られず、同じくボガードも眉を動かす。
その時キリは体中に仕込んだすべての紙を表へ出し、何やら大事を始めようとしていた。
「勝負はそっちの勝ちでいい。だけどありがとう。頂点を見せてもらったおかげで、ボクらはまだまだ強くなれる」
「ボガード、奴らを逃がしてはならんぞ。あれは必ず伸びる」
「ええ……しかとこの身で感じました」
キリが勢いよく左手を上げた。それに応じて無数の紙が天へ舞い上がり、螺旋を描いて空を埋め尽くそうとする。数秒経ってキリも跳び上がった。紙の体は常人よりもよっぽど体重が軽く、それでいて跳躍力は常人以上、軽やかに数十メートルへ到達する。
離れた位置に立っていたゾロもそれを見て駆け出した。
これが最後の攻防となるだろう。彼らは決死の覚悟で向かってきている。
正面から応じるべくガープとボガードが言葉も無く身構えた。
この時の失敗を考えるに、てっきり彼ら二人だけが相手と思い込んでしまったことであろう。
突然、強風が吹き荒れた。
右手側の森の中から吹いて来た風はガープとボガードの体を通り過ぎ、驚愕している彼らの皮膚を裂いて、血を流させる。ほんの些細な軽傷だ。だが確実に彼らを負傷させた。
今の突風は何かがおかしかった。
わずかな痛みに気付いて不審に思うも、襲い掛かってくる敵を前に余計なことを考えている場合ではなく。駆けて迫ってきたゾロは、両腕を伸ばして二本の刀を回転させている。その姿を見て感じる気迫はまさに鬼。人ならざる物を連想させた。
強風のことさえ忘れて、思わずガープが前へ出る。
「三刀流奥義――!」
「下がれボガード、わしが止める!」
ゾロと対峙し、防御のために腕を交差させる。
腕で刀を受け止められるのは実践済み。今度も間違いなく受け止められるはずだ。
しかし先に見せてしまったせいか、再び風が吹く。
今度は全身を包む強風ではない。正確に、且つピンポイントに一点だけを狙った鋭利な風の刃が飛び、本体は森の中で身を潜めながら、見えない攻撃でガープの足が切り裂かれた。
軸足が揺れて、体勢が崩れる。
瞬時にボガードが二人の間に割り込もうとするが、同じく彼の右手も切り裂かれ、思わず刀を取り落とす。目で見える攻撃ではなかった。予測することもできただろうが、キリとゾロの存在がどうしても無視できず、彼らより遠い位置の彼女にまで気が回らなかったらしい。
思い切り地面を蹴り、撃ち出されるようにゾロが前へ跳んだ。
「三・千・世・界‼」
「うぬあぁっ!?」
素早く駆け抜け、ゾロは彼らの傍を通り過ぎた。
寸でのところで防御に成功する。狙われたガープの体は確かに斬られ、だがそこから金属を叩いたような音が聞こえた。切れてはいない。不思議にも防がれてしまったようだ。
それでも時間稼ぎは十分。
彼らの頭上には、紙で作られた巨大なドーム型の檻がある。
キリが両腕を振り下ろせば、それは凄まじい威圧感を放って落下してきた。
「
二人を包み込もうと落下してくる檻を見上げ、ガープは無傷とはいえ転んでいて、せめて自分だけはとボガードが回避しようとした。速度ならば自信はある。逃げること自体は難しくない。しかしその一瞬、奇妙な風が辺りを駆け抜けていることを知って、反射的に動くのをやめた。
ズズンと音を立てて地面に落ち、かくして二人は檻に入れられる。
無数の紙が折り重なり、十二の層で構成される頑丈な壁。ドーム状のそれはご丁寧にも硬質化されており、鉄にも等しい硬度を持って、二人を捕らえていた。
ボガードが手で触れて確認する。
なるほど、やはり硬い。手触りは紙であるだけに不思議な心境だった。
転んでいたガープも立ち上がり、上手くしてやられたことに腹を立てつつ、周囲を見る。
太陽の光が完全に遮断され、薄暗くなっていた。
「閉じ込められたか」
「そのようです。彼ら、意外にやりますね」
「さっきの風はなんじゃ。あれも能力者じゃろう」
「もう一人隠れていたんでしょう。まったく、やってくれるものだ。こんな怪我をするのはいつ以来でしょうね」
切り裂かれた右腕を見てボガードが呟く。
油断しすぎていたかもしれない。奇襲とはいえ、肌を切り裂かれるなどいつ以来だろうか。強くなるにつれて戦闘で怪我をする機会が少なくなり、最近はめっきり無くなっていた。久しぶりの感覚に感心してしまう。彼らはまだ若いのに、自分たちを傷つけるなどずいぶんな戦果だ。
そんなことはどうでもいいとばかり、ガープが肩を回す。
面白くなってきた。彼らの実力を見て怒るどころかむしろ嬉しさすらある。
将来が明るそうな逸材が一気に数名も見つかったのだ。
これは是非とも海軍に入隊してもらい、ルフィの部隊で大事な孫を支えてもらおうと思う。
笑みすら浮かべて上機嫌に、右の拳を握り直した。
「いつ以来でもいいわ。とにかく是が非でもあいつらが欲しくなった。ルフィを連れていくついでに連中も捕らえるぞ」
「さて、ここまで抵抗されて素直に頷くとは思えませんが」
「ルフィが頷けばあいつらも頷く。それで万事解決じゃろう」
「そう簡単ではないと思いますがね……」
「まずはここから出るぞ」
試しに壁を叩いてみる。簡単に抜けられる物ではなさそうだ。
それも二人にとって大した脅威ではない。
慌てることも無く冷静な態度は崩れなかった。
「どうやって出ますか」
「一発で吹き飛ばしてやるわい」
拳に息を吹きかけて、腕をぐるぐる回して準備する。
直後に高速で拳が振り抜かれた。
接触の瞬間、十二層から成る檻に凄まじい衝撃が駆け抜け、破壊力は紙の結合を壊して吹き飛ばす。周囲三百六十度を囲む壁の内、たった一面だが確かに道が開けた。
ただし、壁が一面破壊されたため、間を置かずに天井が落ちてきたのである。
脱出する前に紙の雪崩に呑み込まれた彼らの姿は消えてしまい、しばし静かになる。
数秒後に勢いよく顔が出された。
ただの紙でも数えきれないほど大量にあって、のしかかられては非常に重い。
抜け出してきた二人も一苦労といった様子だった。
「重いわァ!」
「なるほど、二重構造か。一度は閉じ込めて、壁を破壊すれば他が崩れて呑み込まれると」
「面倒なことしてくれるわ。紙がこんなに重いとは」
「生き残るために色々と考えているようですね。甘く見過ぎましたか」
立ち上がって半ばほど紙に埋もれながら、周囲を見る。
敵の姿が無くなっていた。視線を走らせても彼らの姿がどこにも見えない。
どうやら逃げられてしまったようだ。
自然とガープの表情が曇る。
せっかく楽しくなってきたところだったのに拍子抜けだ。
「あいつらはどこへ行った」
「逃げられたようですね」
「チィ、腹立たしいのう。怯えて逃げたわけではないのが厄介じゃわ」
「追いますか? まだ遠くへは行っていないと思いますが」
「無論。こっちは部下を取られたままじゃしのう」
ガサガサと紙を押しのけながら歩き出して、ガープの後にボガードが続く。
広場には彼らの姿もなければどこへ逃げたのかを示す痕跡もない。本来ならば後を追うのも一苦労といった状況だろう。しかしこの二人にとっては難しいことではない。
遠ざかっていく気配がこの場からでも読み取れる。
逃がさないと決定して、ガープは満足気にほくそ笑んだ。
「ルフィはいい部下を見つけたもんじゃ。これで海軍の将来も安泰じゃろうて」
「私はそうは思えませんがね……」