胸騒ぎがする。
いつもより早く目覚めてしまったカヤは自室のベッドの上、物憂げに膝を抱えていた。
昨日のウソップの姿が頭から離れない。今まで仲良くしていたのに、なぜ急に態度が変わってしまったのか。昨日だけは明らかにおかしかった。いつもの彼ではない。確かに彼は嘘つきだが決して他人を悪く言ったりしないはずなのに。
ある種の強い信頼を胸に秘めるからこそ、眠れない夜を過ごしてしまったようだ。
俯く彼女はふと顔を上げ、窓の外を眺めた。
徐々に朝日が昇ってくる。そのためいつも彼が座る木の根元もよく見えた。
やはりおかしい。
そんな想いがぐるぐる頭の中で回って溜息が出てしまう。
「はぁ……ウソップさん、どうしたんだろう。何かあったのかしら」
考えても考えても答えは出ず、彼に会いたいと思う。
こればかりは本人に聞かなければわからない。
居ても立っても居られなくなった彼女は、ベッドを降りてカーディガンを羽織り、部屋を出た。
今はまだ朝も早い。今すぐ会うことはできないだろう。
ウソップに会いに行くとしてもう少し日が出るのを待たなければ。
扉を抜けて廊下へ立ち、キッチンへ向かおうとする。ひとまず水が飲みたかった。すると玄関が騒がしい気がして、何人かが言い争う声が聞こえてきたのを機にそちらへと歩き出す。
確かめようと辿り着いてみれば大声を出しているのは子供たちだった。
ウソップ海賊団。にんじん、ピーマン、たまねぎの三人である。
顔見知りの彼らがやってきていることに驚き、カヤは何気なくそちらへ歩み寄る。
「みんなどうしたの? こんな朝早くに」
「あっ、カヤさん!」
「あぁ、お嬢様……申し訳ありません。こんな朝早くに」
声をかけたことで彼らが気付いた。
応対するメリーはほとほと困り果てた表情で、カヤが来たことでほっと一息つけたらしい。
何かあったようだ。
やってくる彼女が膝を折って視線を合わせ、彼らの話を聞いてやることにする。
ウソップを知る以上、彼らとの関係も知っていて、時には共にホラ話を聞いて楽しむこともあった。こうして正面から来るのは初めてのような気もするが、どうやら冗談を言っていられるほどの余裕はない様子。妙に切羽詰まっている顔つきが気になった。
三人は焦る様子で口々に話し始める。
「おれたちやっぱり昨日のキャプテン、おかしいと思ったんだ」
「だから今日の朝、家に行ってみたらキャプテンいないんだよ。どこにもいなかった」
「それにさ、北の海岸の方から煙が上がってるんだ。今までそんなことなかったよね?」
「北の海岸? ちょっと待って、どういうことなの……?」
冷静に聞こうと思っていた心がざわつく。
慌てる彼らの言葉ではわかりにくいが、それはつまり、ウソップの話が本当だったと言いたいのか。海賊が来るぞ。彼の必死の叫びが思い出される。
いつもとは様子が違うと思っていた。しかし本当に海賊が来るなど、想像もしていない。
傍らに立つメリーと顔を見合わせれば、彼も眉間に皺を寄せて困った顔。
まだ全貌が伺えず、それでも嫌な予感が胸の中に生まれた。
「それってどういうこと? ウソップさんが昨日叫んでた、海賊が来るぞって」
「それが本当なんだよきっと! うそじゃなかったんだ!」
「キャプテン、みんなに信じてもらえなかったからおれたちにうそだって言ったんだ。本当は海賊が来るのに、一人で戦うために」
「キャプテンはそういう水臭い人だ! 僕たちだって戦えるのに!」
三人はそう信じて疑わない顔つきで怒りさえ滲ませている。
よく見れば手に手にフライパンやバットやシャベルを持って、武器のつもりらしい。彼らはどうやら戦う気だ。もし本当に海賊が来ていたとして、立ち向かうつもりなのだろう。
意を決した様子でピーマンが言う。
右手に持つバットを掲げ、子供ながら威勢が良かった。
「やっぱりあのクラハドールって奴が海賊だったんだよ! そうじゃなきゃキャプテンがおれたちにうそつくはずがないっ!」
「バカなことを言うもんじゃない。クラハドールさんは三年間もお嬢様の傍でお仕えしていたんだ。もし本当に海賊だったらどうしてそんなことをする? 憶測だけで人を悪く言うんじゃない」
やれやれとメリーが言いのけるのだが、カヤは思案する表情。
確かに一理ある。ウソップが誰かの悪評判を広げるような嘘をつくはずがない。ただそうすると、彼女にとって最悪な事実があるように思えて。
子供たちを嗜めるメリーへ、そちらを見ずにカヤが尋ねた。
「ねぇ、メリー……今日、クラハドールは?」
「はい? 以前から休みを取っていたので、今日は隣町に行くと――お嬢様、まさか」
「そんなことないって思いたい。だけど」
「お嬢様落ち着いてください。クラハドールさんが海賊などと、そんなことは」
「私だってそう思いたいよ。だってクラハドールは、ずっと私の傍に居てくれたんだから」
嫌な想像が頭をよぎる。
考えたくはない。考えている通りなら最悪の結末だ。
真実を訴えたウソップを信じず、裏切り、その代わり彼女たちへ嘘をついていた男を擁護したことになる。自分たちだけではない、村人全員の罪だ。
もしこれで本当に村に海賊が来て滅ぼされるようなことがあったら。
背筋がぞっとし、平静ではいられなくなった。
カヤの表情が変わったのを知りながら、子供たちは言う。顔には決意が表れていた。
「カヤさん、おれたちが確かめてくるよ」
「うん。キャプテンはきっと海岸にいるから、おれたちが見てくる」
「そしたらカヤさんには一番に教えるから。危ないかもしれないからここで待ってて」
「待って」
頭に手を当て、胸の苦しさを覚えながら深く息をする。
ゆっくり顔を上げた彼女は気丈に振舞っていて、冷や汗を掻いていた。しかし意志は揺るがず、強い声色で彼らへ伝える。
「私も行く。一緒に行きましょう」
「お嬢様!? いけません、そんな無理をしては」
「大丈夫。彼らが守ってくれるから」
「お、おう! おれたちウソップ海賊団にまかせてくれ! カヤさんには指一本触れさせないぞ!」
武器を掲げて威勢よく言う彼らに微笑んだ後、立ち上がったカヤは真っ直ぐにメリーを見る。
これほど強い眼差しは見た事が無い。
普段の儚げな空気もどこへやら、初めて見せる顔で迷いなく告げられた。
「自分の目で確かめたいの。今ここで何が起こっているか、知らないままでなんていられない」
「でしたら、私が確かめてきます。危険があるかもしれません。お嬢様はここで」
「それじゃだめ。私、ウソップさんを信じてあげられなかった……今までずっと助けてもらってたのに、肝心な時に何もできなかった」
自分自身に失望しているのかもしれない。弱々しくぽつりと呟かれる。
その一言にはメリーも二の句を告げられなくなった。
かつてここまで傷ついている彼女の顔を見たことがあっただろうか。否、おそらくはある。両親が亡くなった時、塞ぎ込んでしまった彼女は今と同じように寂しそうな顔をしていた。いつからか変化が起こって、そういえば傍には彼の姿があったのだ。
彼は嘘つきだが決して悪人ではない。
今になってそれを思い出し、苦心するようにメリーも表情を歪める。
「待ってなんていられない。私、ウソップさんに会ってくる」
「お嬢様……ハァ。仕方ありません。そこまで仰るのでしたら、私も行きます」
「メリー」
「お嬢様をお守りするのが、私の役目ですから」
笑顔でメリーが言った時、ようやくカヤにも笑顔が戻り、晴れやかな表情になる。
三人へ向き直った彼女は笑顔になって声をかけた。
「行きましょう。ウソップさんは北の海岸に居るのね?」
「間違いない! キャプテンは一人で戦ってる!」
「うん。急がなくちゃ」
五人は間も置かずに外へ出て、早足で海岸へと向かい始めた。
不思議と嫌な予感がする。三人の言葉が間違っているとは思えない。だがそうだとすればクラハドールの姿も嘘になってしまう訳で、苦悩せずにはいられなかった。
どちらが良いとも思えず、苦しい思考を放棄し、今はただ足を動かすことしかできなかった。
*
「面倒だ、まとめてかかって来い。頼むからあっさり倒れてくれるなよ」
三本目の刀を口に銜え、三刀流の威容を見せたゾロは好戦的に笑った。
炎の壁を傍目に、立ち向かうのは二人の男。
ニャーバンブラザーズ。彼らはそう呼ばれていた。猫を連想させる爪を持ったグローブに、身軽な動きは確認している。身のこなしからおそらく強いのだろう。問題は力量のほどが如何ほどか。二人がかりで来たとして、果たして自分を満足させてくれるのか。
できるだけ強い方がいいと思う。
自らを高めるならば、敵にも相応の実力を求めたい。
村を出て以来、今日まで一対一で戦って苦戦するほどの相手に出会ったことはなかった。それだけならばまだしも、つい先日海軍を相手に大敗を喫したばかり。あの時は組織としての戦闘だったが、自分がもっと強ければとは思っている。要するに鬱憤が溜まったままなのだ。
切り伏せる相手が一人であろうと二人であろうと大差ない。
この状況が問題だとは思えず、力は内から漲ってくるばかりであった。
「舐められたもんだぜ。おれたちを相手に本気で勝つ気だぞ」
「こいつ、噂の海賊狩りか? 刀三本持ってるぞ」
「あぁ、そんな賞金稼ぎが居たか」
「二人でやっていいんだとよ。ありがてぇ話だ」
二人はいつでも動ける体勢となって、余裕綽々に舌なめずりを始める。
負けるなどと微塵も思っていない。そんな顔だ。
対峙するゾロも自信が見えるようでどちらも退く気はなかった。
見つめ合って数秒。
突如ニャーバンブラザーズが駆け出し、二人同時にゾロへ襲い掛かった。
「ネコ柳大行進!」
「ズタズタにしてやる!」
鋭い爪を光らせ、真正面から突進してきた。
繰り出されるのは二人同時に来る無数の乱打。腕を振って引っ掻くような挙動はとても素早く、簡単に見切れる速度ではない。かなりの戦闘経験を伺わせた。
それを目にしてゾロは刀を構えただけ。
逃げ出す素振りも無く待ち受け、その場から動かずに彼らの攻撃を受け止める。
凄まじい様子で繰り出される連撃はとてつもなく素早い。だがゾロの動きは巧みで、一撃たりとも受けずにすべて防御する。爪は刀で弾かれ、受け流される。
彼の肌に触れる事さえ叶わなかった。
大きな動きも無くすべての攻撃がいなされる。確かに違和感は拭えなかったが、それでも一時の物だろうと二人は退かない。いずれ必ず隙が生まれる。或いは疲労を感じた瞬間、動けなくなって防御もできないはずだ。その時までこちらが隙を見せなければいい。
高速の乱打はしばし続いた。
それでもゾロの体には届かない。
疲労を感じるどころか、彼はつまらなそうに二人を見ている。両手と口で三本の刀を使い、一撃たりとも逃さず受け流している。
変わり映えの無い攻撃の数々。いい加減飽き飽きしたらしい。
ある時、唐突に、ゾロがぐっと腕に力を込めた。
刀がシャムの爪を受けて力ずくで払いのける。
無理やり体勢が崩された。今までの挙動と大差はないというのに、触れ合った刹那、あっと気付けば前のめりに転びそうになっていて、無防備な背中が晒される。
腕を振り上げたゾロは冷徹にその背を見つめていた。
慌てた様子でブチが割り込もうとするも、その一瞬でシャムは己の死を間近に感じる。
「シャムッ!?」
倒れ込むシャムの体を飛び越えつつ、ブチが急いで爪を突き出し、ゾロとの間に割って入った。その行動さえ冷静に見切られて受け流される。
勢いそのままにブチの体はゾロまで飛び越えてしまった。
ほんの一瞬とはいえ隙を見てシャムも慌てて飛び退き、二人に挟まれる構図となる。
攻撃は中断され、表情を険しくしたニャーバンブラザーズは強く歯噛みした。
想像以上の強さだ。その身からは疲労など一切感じず、むしろ眼光の鋭さは増すばかり。肌に感じる迫力からは怒気すら見出せそうなほど恐ろしい。
背筋が凍り付いた一瞬。
二人を一瞥したゾロは退屈そうに言葉を吐いた。
「こんなもんか? だとすりゃあ期待したおれがバカだったぜ」
「な、なにィ……!」
「てめぇ、おれたちを舐めてんじゃねぇか? あぁ?」
「舐められたくなきゃ実力見せてみろよ。その程度ならもう斬っちまうぞ」
全身に力を漲らせて、笑みを浮かべてそう言われた。
まるで侮蔑するような態度。
二人が怒りを滲ませない訳も無く、前後から挟み込んだ状況を利用し、挟み撃ちが行われる。
どちらも思い切り駆け出し、感情のまま叫び声を上げた。
「てめぇ、言わせておけばァ!」
「キャプテン・クロが降りた後のクロネコ海賊団ナンバーワンはおれたちだ!」
「三刀流……」
刀を構え、迫り来る二人を見る事も無く迫力が増す。
ニャーバンブラザーズが跳び、襲い掛かってくる一瞬。それを間近に見ながらゾロは慌てず、逃げ出すこともなければ、その場でぐるりと回転しながら刀を振るった。
そうして起こるのは強烈な風。
シルクの修練に付き合う最中に見出した。能力が使えずとも、己の身体能力を極限まで高めて利用すれば、条件次第によっては風を巻き起こすことができる。
これこそがその技。
繰り出された竜巻は確かに斬撃の性質を持っていた。
「龍巻きッ‼」
強烈な斬撃により、腹を深々と斬られた二人は風に煽られて宙を舞い、ほんの一瞬で意識を刈り取られた。着地の体勢を整える暇もない。どすんと痛そうな音を立てて地に落ちる。
決着はあっという間であった。
勝利に余韻に浸ることもせず、早々に刀を仕舞い、手拭いを取ったゾロは息を吐き出した。
呆気ない。思うのはただそれだけ。
喜びもなければ悲しみ、怒りもないまま終わってしまった。
せっかくやる気になっていたのにやり切れない状態で、不満そうに倒れた二人へ目を向ける。
「なら大したことねぇな、クロネコ海賊団。おまえら全員おれ一人で十分だ」
端的に告げて左腕に手拭いを巻き、崖に歩み寄って見上げる。
そこには坂道を見つめるキリが立っていて、気付かない彼に声をかけると目が合った。
「おいキリ、終わったぞ。上げてくれ」
「もうちょっとで火が消えるから待っててよ。今こっちも状況が変わりそうでさ」
「どういうことだ?」
「それにめんどいし」
「叩き落とすぞ、おまえ」
普段と変わらない様子のキリだが、目を合わせたのも一瞬。すぐに坂の上へ見始めてしまう。
よっぽどの状況だろうと気付くのは必然だった。
弱り始めた炎の向こう側へ、同じくゾロも目を向ける。坂道の上に誰かが立っている。見覚えのない顔、両手には奇妙な武器を装備していた。
確かに、他とは違う雰囲気を感じる。
なぜかルフィは道の真ん中でのんきに寝ていて、男と対峙するのはシルク。キリとウソップは相変わらず崖の上から坂道を見下ろして立っている。知らぬ間に多少の変化があったらしい。
再びキリを見上げて言う。
今度は彼も目を合わせようとはしなかった。
「助太刀は?」
「いや、シルクに任せてみよう。しばらく練習ばっかりで実戦で使う機会もなかったでしょ」
「大丈夫なんだろうな。まだ完璧に扱えるわけじゃねぇだろ」
「伸びしろはすごいと思うよ。この短期間でずいぶん上達してるしさ」
「別におれは構わねぇが……」
「フォローのために気が抜けなくてね。そういうことなんで、しばらく休んでてよ」
「チッ、損な役回りだな」
腕組みをしたゾロは炎の前へ立ち、その向こうにあるシルクの背を見つめる。
能力を操り始めている節はある。だがそれはあくまで鍛錬の話。実戦で敵を前にしてどれほど使えるか、本気で試したことはない。言わばこれが彼女にとっての初陣。
背を見てみれば意外にも堂々としている。
自信があるのか、見てみるのも悪くないと思った。
炎が道を遮っていることを理由に、彼は最も強い敵をシルクに任せ、果たしてどこまでできるか、真剣な面持ちで静観することを決めたようである。