ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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アラバスタ編
Episode of Arabasta:Prologue


 そこは薄暗くひんやりとした空気が漂う一室だった。

 地下にある一室なのだが、そうとは気付けず、壁一面が水槽と隣接しており、その中に大量の水があって巨大なバナナワニが泳いでいる。

 わずかな光源となるのは水槽の上部から注ぎ込む光で、少しだけ室内が照らされていた。

 それでも薄暗さは感じられて、まるで日の光を嫌うかのよう。

 

 水槽の前に立ち、葉巻を吸う一人の男が居る。

 彼の背後、少し距離を置いてベッドがあり、座っている少年が居た。

 室内に存在したのはこの二人だけだ。

 

 少年はまだ子供だろうと思える幼い外見であって、しかしそうとは思えない雰囲気を纏う。それはなぜか、彼が生気のない目をぼんやりとシーツに向けているからに他ならない。

 真っ白い服に身を包んで、肩を落としてピクリとも動かなかった。

 しばらくこんな状態だ。

 

 何がきっかけであったか、唐突に男が口を開く。

 水槽の方を眺めたまま背後の少年へ語り掛けたようだが、その声は冷淡なものであった。

 

 「何も言わないのか?」

 

 先程からずっと黙ったまま。目覚めてから一度も声を発さない。

 男は待っていたという訳でもないとはいえ、その様子に興味を持ったのだろう。決して大人びているとは思わない子供が黙り込んだまま俯いているのだ。これが正常とは思わない。

 よほどの物を見た。或いは体験したということか。

 

 もしこれで目覚めてすぐ大泣きするようであれば興味は持たなかった。ならばなぜ興味を持ったかと言えば、泣きもしなければ怒りもせず、一切の感情を失ったかのような姿だから。

 生きる気力を失くした、まるで人形。今の彼を表現するならそんな言葉だろう。

 

 少年は問われた後もしばらく口を開かなかった。しかしある時、ぽつりと呟く。

 やはりその声も感情が抜け落ちたようなものだった。

 

 「どうして……助けたんだ?」

 「当然そう来るだろう。答えは簡単だ。お前の命令が気に入らなかった」

 

 男がゆっくりと振り返る。

 顔には笑み。シーツに目を向けて動かない少年を見て心配した様子など皆無である。

 彼は水槽を背にして立って答えた。

 

 「おれを誰だと思ってやがる。お前如きの裁量で動かせる人間じゃねぇんだ。つまりお前の言葉に従う必要はない」

 

 男の声が、静かに、重く室内に響いていた。

 

 「だから助けた。その結果、お前はそこで苦しんでるわけだ」

 

 少年は何も答えない。

 反論する気も無ければ聞こえているかさえ定かではなかった。ひょっとしたら聞こえていても理解しようとする意志がないのかもしれない。それほど彼は動かない。

 

 別に構わないと思っている。

 男は気分を害した様子もなく口を動かす。

 

 「そんなに死にたかったか?」

 

 まるでこの空気を楽しむかのように言われる。

 少年は何も答えず、視線は落とされたまま。室内には冷たい空気が漂っている。

 砂漠の国とは思えぬほどだ。そう思ったのはこの施設を作ったその男である。

 男は少年をじっと見つめていた。

 

 「そうか。だが残念ながら、今のお前はこのおれに助けられ、拾われた。生殺与奪は全ておれに握られている。今から勝手に死ぬことは許さん」

 

 怒るか、嘆くか、何かしらの反応はあるかと思った。

 少年は無言を貫くのみだった。

 

 「殺せとは言わん。どうせ今のお前じゃ不可能だ。だが一度でもおれに勝つことができれば自由を与えてやろう。どうだ? 少しはその気になったか?」

 

 少年は答えない。顔を上げようともしなかった。

 

 「それができないならおれに従え。この世の摂理だろう」

 

 男は再び背を向ける。水槽を眺めて少年から目を外した。

 怒った訳ではない。むしろ想像通りで上機嫌とすら言える。

 先程と同じく背を見せた状態で、感情を隠した平坦な声で静かに語った。

 

 「海賊に仲間を殺されたか」

 

 ピクリと、初めて少年の指が動く。

 表情は変わらず、その瞬間を見なければ変化には気付けない。だが男は気付いていた。

 

 「この海じゃそう珍しくねぇ話だ。この世の全てをクソみてぇに思ってるその目を見りゃ大体わかるぜ。何もできずにお前だけ生き残ったってとこだろう」

 

 少年が右手に拳を作る。しかし不思議と力は入らない。

 

 「なぜ死んだと思う?」

 「おれは……みんなに逃がされて……」

 「違うな」

 「敵が……あまりにも強過ぎて……」

 「それも違う。答えは一つだけはっきりしてる」

 

 男が振り返った時、少年の空虚な瞳を見て、初めて視線が合った。

 

 「お前が弱いからだ」

 

 あくまでも笑みを見せ、どことなく楽しそうに見える様子で告げられた。

 初めて、少年の表情が動く。

 

 「仲間を守る力がなかったからだ。そんなに大事ならなぜてめぇで守らねぇ。そいつらが死んだのは全てお前が弱かったせいだ。それ以外に理由はない」

 「お、れは、おれだって、戦おうとして……」

 「だが今ここに居る。仲間と共に死ぬこともなくな」

 

 涙は出ない。だが少年が動揺しているのは明らかだ。

 彼自身、気付いていたのだろう。もし自分が皆を守ることさえできれば、今になってこれほど落ち込むことはなかった。ならば恨むべきは他の誰かではなく己の力の無さに違いない。

 改めて言葉にして気付かされた。

 少年は項垂れ、男はそんな彼を見つめる。

 

 「お前に力があれば誰も死ぬことはなかった」

 「おれが、みんなを……殺したのか」

 「弱ェってのは罪なのさ」

 

 不意に少年が自分の手を握る。

 少しの間、室内はふと静かになり、耳が痛くなるほどの静寂に包まれた。

 男は彼を気遣うことなく再び声をかける。

 

 「今から強くなったところで死んだ人間は戻ってこない。お前は一人のままだ」

 

 間髪入れずに言葉を続ける。

 

 「さっき言った通り、おれに勝つまで死ぬことは許さない。自由が欲しいならおれに勝つことが条件だが、今のお前にそれほどの力はなさそうだ」

 「どうでもいい……」

 

 少年が口を開く。

 弱々しく、中身のない空虚な声。必死に絞り出しただろうそれは非常に小さなものだった。

 

 「おれにはあそこが全てだったんだ……みんなが居ないなら生きる理由なんてない。だから死にたかったのに。あのまま海に沈んでれば全部終わったのに」

 「クッハッハッハ。それであの発言か」

 「摂理とか、ルールとか、自由とか、そんなものどうでもいい。……殺してくれ」

 

 初めて会った時と同じ言葉。

 殺してくれと、彼は言う。

 だから男は笑顔で答えるのだ。

 

 「嫌だ」

 

 それは決して、命を粗末にしてはいけないだとか、彼を死なせるのが惜しいだとか、そんな理由があっての返答ではない。ただ単純に気に入らないのだ。頼むような口調で命令してくる彼の態度や言葉が素直に気に入らなかった。

 だから、嫌だと答えるのは彼のためではない。

 むしろ彼を苦しめる言葉だと知っているからこそ、敢えて口にしていた。

 

 少年がぎゅっと手を握る。

 それでも泣かないところを見ると、すでに心は壊れているのかもしれない。

 

 ふと考えた時、それもいいかもしれないと思った。

 空っぽの器。中身のない人間。新しく作るには都合がいいではないか。

 なぜ助けたかと問われればただの嫌がらせとも言える些細な理由。助けてどうするか、そんなこと助けた場面では考えていなかった。しかし彼の命を拾った今、せっかくなら有効活用するのもいいかもしれないと今になって思い付く。

 一度リセットされたからこそ、使えるか否かは彼次第。

 

 男は静かに歩を進める。それでも室内には小さな靴音が鳴った。

 俯く少年はそちらを見ようともせず音を聞く。

 ベッドの脇に立たれても顔を上げる気配はなかった。そして彼の傍で、男が言う。

 

 「言ったはずだぞ。おれを誰だと思ってやがる。お前の言葉に意味はない」

 「じゃあ、おれは、どうすればいい……」

 「生きる理由が必要か?」

 

 作ると決めたならば最高傑作を。

 最も使える優秀な武器を。価値のある頭脳を。集を作る個を。

 

 「おれに仲間はいらん。だがついてくれば何か見つかるかもな」

 

 少年がゆっくりと顔を上げる。

 男は笑って言った。

 

 「おれならお前を強くしてやれるぞ」

 「強くなったら……何か、変わるのかな……」

 「お前次第だ、と言っておこう」

 

 再び少年が項垂れる。

 それを肯定と受け取ったのだろう。どちらにせよ彼は大した反応は見せない。

 歩き出しながら男が勝手に説明を始める。

 

 「まずはその口調を変えろ。弱ェ奴が自分を強く見せることに意味はない。これからは自分を弱く見せることに努めろ。口調と態度で弱く見せ、油断した敵の隙を衝け」

 

 部屋の隅にあるテーブルへ向かいつつ、朗々と語られる。

 

 「それが弱者の戦い方だ。自分より強い奴を殺す方法ってのはいくらでもあることを覚えとけ」

 「それで、誰かを守れるのか……?」

 「どう使うかはお前次第だ。守る相手が居ればの話だがな」

 

 テーブルの上にあった一枚の紙を取る。

 振り返った彼は少年にそれを見せ、右手を掲げる。

 

 「お前は運が良い。おれに会えたことと、その能力だ」

 

 にやりと笑うその笑みに、その問いかけに、疑問など一片も見当たらない。

 

 「“覚醒”について教えてやろう――」

 

 その言葉が何を意味しているのか、今はまだわからない。

 だが少年にとっては救いとも、悪魔の囁きとも感じられて、聞き流せなかったのは確かだ。

 この日を境に、少年は変化していった。

 


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