一行は斜面を登っていた。
先頭にドルトン。彼の案内に従い、ひとまず近くの村を目指している。
眠ったままのナミはサンジが背負っていた。いまだ呼吸は乱れ、油断を許さない状態。しかし島に到着した今は救いの手も期待できそうだった。
ある時、ドルトンが唐突に口を開く。
彼のすぐ後ろに麦わらの一味が続いて、さらに後ろを町民が歩いている。
やはり信用されていない状況下で彼がぽつりと呟いた。
「先に言っておくが、この島に居る医者は“魔女”が一人。あまり期待しないでくれ」
「魔女? あの、ここはドラム王国ですよね」
聞き慣れない言葉にビビが疑問を口にした。
ドラム王国。その名前を聞いたドルトンは表情を険しく、苦々しい顔で告げる。
「その名前は捨てたのだ、他でもない自分たちの意志で。今この国に名前はない」
「名前が、ない? それに捨てたって……」
「追々説明もしよう。君たちが来る前に様々なことがあった」
そう言うと口を閉ざしてしまう。
ひょっとしたら聞いてはいけないのかもしれない。
自然とビビも閉口し、しばしの間無言で歩き続ける。
幾ばくもせず巨大な動物が前方に現れた。
絶叫するウソップは目が飛び出さんばかりに驚いて皆に忠告する。
「ギャアアアッ!? クマだァ! 全員死んだふりしろぉ!」
「ハイキングベアだ。害はない。登山マナーの一礼を忘れるな」
前からやってきたのは白くもこもこした毛を持つ、体長二メートルはあろうかという熊だった。
二足歩行で飄々と歩き、左の前脚には一本の杖を持って、まるで人間のように頭を下げる。登山マナーの一礼らしい。先頭のドルトンが同じように一礼するため、ルフィたちも続いた。
ただ一人、ウソップだけは身の危険を感じて雪に飛び込み、死んだふりをしていたようだ。
危機がないと知るや戸惑いながら立ち上がり、平然とすれ違っていった熊の背を見送る。
「クマなのに登山マナーを気にするとは……なんて礼儀正しい奴」
「おいウソップ、置いてくぞ」
「あっ、待てって!」
ゾロが声をかけた瞬間、慌てるウソップが駆け出し、彼らへ追いついた。
それからまた無言で歩いて、空気の冷たさを感じながら村に到着する時を待った。
さほど時間もかからずその場所へ辿り着く。
森を抜け、視界が開けるとそこはこぢんまりとした村。
雪の降る村、ビッグホーン。
見たことの無い動物が人間と共に闊歩し、少し変わっているが和やかな風景であった。
ルフィはおぉっと声を漏らす。
雪に覆われた景色は美しく、町の雰囲気も穏やかであり、何より珍しい動物が数多く居る。冒険をする暇がないとはいえ、好奇心を刺激された彼は妙に楽しげだった。
「ここが我々の村、ビッグホーンだ」
「なんか変な動物が歩いてんな」
「さっすが雪国だぜ」
「ナミさん、村に着いたよ。もうすぐ助かるからね」
到着しても武装した町民の顔色は変わらず。
振り返ったドルトンは落ち着いた態度で彼らを見回した。
「じゃあ、みんなご苦労さん。見張りの者以外は仕事に戻ってくれ」
「しかしドルトンさん、一人で大丈夫かい?」
「あいつらは海賊だぞ」
訝しげな顔をする町民たちに笑みを見せ、ドルトンは平然と答える。
「おそらく彼らには害はない。長年の勘だ、信じてくれていい」
「どうする……?」
「まぁ、ドルトンさんがそう言うなら」
「あの様子だしな」
町民たちは徐々に納得していったようだ。
よほどの信頼があるのか。
口々に別れの挨拶をしながらその場を離れていく。様子の変化に驚きつつ、ビビは去っていく町民たちをきょろきょろ見回し、不思議そうな顔をしていた。
彼らのドルトンに対する信頼は絶大なものと言えるだろう。
この男、それほどすごい人物らしい。
そしてそれ以上に、武器を持っていたのがただの町民だったと気付いた瞬間である。
「国の警備隊じゃなかったんですか?」
「民間人だ。君たち、ひとまず家に来たまえ」
ドルトンが先頭となって再び歩き出し、一味も後ろに続く。
この時点でいくつもの疑問があった。
国に医者が一人しか居ない。ドラム王国という名を国民の意志で捨てた。どうやら警備隊は存在しておらず、海賊への警戒は民間人が行っている。
上陸してすぐだが良からぬ何かを感じずにはいられない。
雪を踏みしめ、彼の家へ向かう。
いつまでもナミを極寒の環境に置いておきたくはない。歩調は先程より急いでいた。
多くの町民たちとすれ違い、彼らはひどく親しげにドルトンへ話しかけてくる。やはり人々から彼に向けられる信頼感は言いようのないほど大きなものだ。
ビビは、彼らの言葉を耳にして心底不思議そうにしている。
「あらドルトンさん、海賊が来たって聞いたわ。大丈夫なの?」
「ええ。異常ありません。ご心配なく」
「やぁドルトンさん、二日後の選挙が楽しみだね」
「みんなあんたに投票しようと決めてるんだ」
「と、とんでもない。私など……私は罪深い男です」
彼らの、この国の人々のやり取りが理解できない。
嫌な予感すらして安心できなくなっていた。
もう少し歩いて家に到着する。
別段特別ではない、周囲の建物とさほど違いのないこぢんまりとした一軒家だ。屋根は雪が積もらないよう工夫がされており、傾斜というより塔のように尖っていた。
扉をくぐって家の中へ入る。
ドルトンは背負っていた武器を下ろす一方、先にサンジへと振り返った。
「そこのベッドを使ってくれ。今部屋を暖める」
「ああ」
サンジがナミをベッドへ寝かせ、すぐに布団をかけてやる。
室内は冷え切っていた。外出してたため当然で、部屋を暖めるためドルトンが暖炉に近付く。
火を点け、ようやく一息つけそうだった。
「申し遅れたが、私の名はドルトン。この島の護衛隊長をしている。先程はすまなかった。我々の手荒な歓迎を許してくれ」
「護衛隊長、ねぇ……」
腕組みをしたゾロが呟く。
護衛隊、とは言うほどのクオリティはなかった。あれではただの有象無象だ。
まさかそれが分からぬ人物ではないだろうなと考え、彼の目は不信感を持ってドルトンを見る。だが彼は気にした様子もなくビビとイガラムに目を向けていた。
「一つ聞いておきたいのだが、私は、あなたたちに会ったことがある気がする」
「え? き、気のせいじゃありませんか?」
「それより魔女についてお聞かせ願いたい。彼女はここ数日、四十度を超える熱にうなされているのです。一刻も早く医者に診せたい」
突然の質問にビビが驚くと、咄嗟の判断を下したイガラムが尋ねる。
今は世間話より医者。そう言われてドルトンも顔色を変えた。
「四十度だと? なんという高熱だ」
「この三日間、熱が上がる一方でして」
「船を出る前に確認したら四十二度でした」
「そんなにもかっ。まだ上がるようなら死んでしまうぞ」
イガラムに続いてシルクが教えれば、ドルトンも事の緊急性を理解した様子。
そう聞いてからナミを見るとよく耐えているとさえ思ってしまう。
四十二度の高熱など、たとえ冬島であってもそう頻繁に聞くものではない。
「だけど熱が出た原因も対処法も、私たちにはわからないんです。専門的な知識を持つ人でないと彼女を助けることができない」
「君たちの船に船医は?」
「ああ、まだ見つけてねぇんだ」
「この島に医者がいっぱい居ると思ってたのに、まさか一人しか居ねぇなんて」
「むぅ、そうか……」
共に腕組みをして並ぶルフィとウソップがあっけらかんと告げ、ドルトンが苦々しい顔になる。
「この国にも様々な事情があった。医者が居ないのは我々にとっても良いことではない」
「まぁそりゃそうか」
「んなこたぁどうでもいいから、まず医者だ! その魔女ってのはどこに居んだよっ」
業を煮やした顔でサンジが語気を強くする。
呑気に世間話をしている暇ではない。悠長にしているのも我慢の限界だ。
いい加減にしろと言わんばかりの態度にドルトンが応じ、窓の外に目を向ける。
自然と彼らの注意もそちらへ向いた。
「この島で一番高い山が見えるだろう。ドラムロックだ」
「あれか。なんかでけぇ木みたいだな」
「垂直に伸びる山の標高はおよそ五千メートル。あの頂上に城がある。魔女が住むのはそこだ」
「あの上かっ」
全員の目がドラムロックと呼ばれる奇妙な形の山を見つめる。天へ向かって縦に伸びる様は木の幹にも等しく、通常の登山では登頂不可能なことは目視で理解できた。
道中厳しそうだが、あの上に魔女が居る。
一斉に唸ってしまうのも仕方なく、振り返るドルトンにサンジが詰め寄る。
「なんだってわざわざあんな遠いところに住んでんだ。じゃあとっとと呼んでくれ。こっちは急患なんだ、一分一秒を争うんだぞ」
「残念ながら通信手段はない。魔女は変わり者でな」
「なんだと!?」
「それじゃあ、この村の人たちは医者に診てもらうことはないんですか?」
「そういうことになる」
「なんだよそれ、それでも医者かよ! 一体どんな奴だ!」
ドルトンは暖炉の中にある火を見つめ、魔女と呼ばれた医者について話し出した。
「医者としての腕は確かだが、かなり変わっている。もう百四十近い高齢だ」
「ひゃ、百四十? むしろそっちが大丈夫かよ」
「あとはそうだな、梅干しが好きだ」
「んなもんどうでもいいわっ!? もっと重要なこと話せ!」
サンジの怒声が飛ぶものの怯えることもなければ慌てもしない。
あくまで冷静にドルトンが語る。
「この村について聞いたな。魔女は時折、気まぐれにどこかの村へ降りてくる。そして怪我や病気をしている人を治療しては、法外な報酬を要求し、半ば強引に分捕っていく」
「おいおい、性質の悪ぃ婆さんだな」
「まるで海賊じゃねぇか」
いつの間にかルフィとウソップが家の中にあった果物を食べていた。
誰よりもリラックスした姿で話に加わり、それでも一応真剣には聞いているらしい。
そちらは気にせず、ビビが尋ねる。
「だけどあんなに高い山、どうやって移動を? 降りたり登ったり簡単にはいかないでしょう」
「一応、各村にロープウェイが設定されているのだが、今は壊れて使えない。少なくともそれを使っているわけではないことだけはわかっている」
「魔法でも使ってんのかな」
「いや流石にねぇだろ、魔法は」
「そうとも言い切れん」
緊張感のない声で言うルフィとウソップの会話に、ドルトンが同意する。
彼はふと二人の方を向いた。
「妙な噂を聞いたことがある。月夜の晩に、彼女がソリに乗って空を駆け降りてくるところを数名が目撃したという話だ。それが魔女と呼ばれる所以でな」
「ほら、やっぱり魔法なんだ」
「それにしちゃ地味だろ。何かタネがあると見たね、おれは」
「魔法かどうかはどうでもいいんだよ。それで?」
「他にも奇妙な動物と一緒に居るところを見たと」
「ほらみろっ、やっぱりなんか居やがった! 雪男だ! 魔女と雪男のコンビなんて最悪じゃねぇか、そんな奴頼れるかァ!」
「黙ってろ長っ鼻! さっきからうるせぇぞてめぇ!」
ナミを心配するあまり、焦りを募らせたサンジがジタバタするウソップを一喝する。彼の臆病さは知っていたつもりだが今は相手にしている場合ではない。それよりも重要なことがあるのだ。
医者の場所はわかった。ならばあとはどうやって向かうかのみ。
すぐさま頭を働かせるサンジはドルトンではなく仲間たちに向き直る。
「それじゃおれたちはあの山の頂上を目指さなきゃならねぇってことだ。さて、どうするか」
「ロープウェイを直せないかな? それと、どこかの村に魔女が降りてきてるかもしれない」
「両方試してみた方が早い。一応キリに報告して意見を仰いどこう」
「あいつなら空を飛べる。直接向かった方が早いんじゃねぇか?」
「確かにそうだが、忘れたのかよ、あいつの弱点は水だ。ついでにここは雪だらけ。多少違っても触れれば濡れることに変わりはねぇんだ。期待はできねぇ」
「お、おい、君たち待ちたまえ」
サンジとシルク、それからゾロが中心となって考え始める。
そんな素振りにドルトンが焦った。
まだ話を終わらせたつもりはなかった。それなのに会議を始めるもので、先に渡せる情報を全て渡しておこうと考えたのだろう。でなければ何をするかわからない。
しかし振り向く彼らは態度を変える気が無さそうだ。
「こんなことは言いたくないが、はっきり言って厄介な婆さんだ。医者ではあるがこの島の者ですら関わりたくないと思っている」
「それがどうした。こっちは病人が居るっつってんだろ」
「そうだが、ドラムロックに向かうのは危険だぞ。とても病人を連れていける道ではない」
「ご忠告どうも。それに情報感謝する。だがこっから先はおれたちの問題だ。仲間を助けるためなら少々の危険、どうってことねぇよ」
素っ気なく言い、サンジはすぐに仲間と向かい合ってしまう。
ドルトンは半ば呆然と彼らのやり取りを見守るしかない。
「別れて行動するしかねぇな。いざ城に到着して誰も居ねぇなんてことになったら最悪だ。いくつか可能性を考慮して、下手な鉄砲でも当てに行った方が確実だろ」
「ロープウェイの修理と、他の町に来てないか確認。あとは?」
「徒歩で山に向かうって手はあるが危険らしいな」
「そうするくらいならキリに賭けた方がよっぽど可能性が高い。いちいち歩いてる時間ももったいねぇしな。とにかく一度あいつに連絡しよう」
「うん」
サンジの視線を受けてシルクが子電伝虫を取り出した。
数は限られている。別行動をするなら適切に振り分ける必要があるだろう。
ひとまずはキリに連絡を取らねばならず、シルクが小さなダイアルを回し始めた。
一方でサンジがぐったりした姿のウソップへ声をかける。
彼にしかできないだろうと思うことがある。それを頼むのだ。
「おいウソップ、お前ロープウェイの修理に行ってくれねぇか? うちで一番手先が器用なのはお前だ。そいつが直れば一番手っ取り早く城に行けるしな」
「んん? 修理?」
「村の中に居るから安全だぞ」
「よぉしこのキャプテン・ウソップに任せとけ! 小手先のことならこの海で一番さ!」
「ああ、そうだと思ったよ」
元気よく立ち上がる彼に笑みが浮かび、サンジはあっさり視線を外す。
ウソップが復活したことにより、不意にイガラムが自ら口を開いた。物々しい雰囲気を感じながら見守るように黙っていた彼も協力するつもりである。
「では私もウソップ君を手伝いましょう。ビビ様は看病を続けてください」
「ええ、わかったわ」
「それでいいですかな?」
「もちろんだ。ビビちゃんになら任せられるしな。それにすぐナミさんを動かせねぇんなら誰かはここに残る必要がある。一番の適任だろ」
「責任重大ね」
「信頼してる証さ」
おそらくはビビを気遣った発言だった。危険な目に遭わせたくない、やはり女性であるため同性ならではの問題に対処できる、と色々な面を考慮しての決定だろう。
イガラムの提案にサンジが頷き、またビビも納得する。
今は全員の力を合わせる時。
わがままを言っていられる状況ではなく、またそんなつもりもなかった。
そうして話している間に電伝虫が繋がったようだ。
シルクが顔を上げてサンジを見た時、子電伝虫はすでに通話中の状態。目では相手を確認できないがおそらくキリと繋がっていて、手渡されたサンジは躊躇わずに声をかける。
子電伝虫の口から聞こえたのはやはりキリの声だった。
「キリ、こちらサンジだ。ちょっと相談がある」
《待ってたよ一流コック。状況は?》
普段通りの余裕を湛える声色。
彼の知恵と能力に関する状態を確認するため、サンジは真剣な顔で話し合いを始めた。
ドルトンは、そんな彼らを見ていて不思議に思う。
海賊らしくない海賊だ。略奪に興味はないらしく、やはりというか騙し討ちの類もないまま、仲間を救うために全力を尽くしている。その態度や姿勢は好意的に感じるものだ。
それだけに自分たちの行動に後悔してしまい、申し訳なく思う。
人命救助に海賊も市民も関係ないのではないか。
ふとそう思った彼は居ても立っても居られずに颯爽と歩き出した。
ちょうど出発しようとしていたウソップたちが気付き、彼らの傍を通り抜けて外へ出る。
「お、おいあんた、どこ行くんだ?」
「町のみんなと話してくる。ロープウェイを直すなら我々も手伝うのが筋だろう」
「いいよ別に。おれたちゃこの町からすりゃただのイレギュラーで――」
「この国の備品が壊れている。それを外から来た者に任せておくことが正義とは思えない」
歩き去ろうとしたが立ち止まり、わずかに振り返るドルトンがウソップとイガラムの顔を見る。
「手伝わせてくれ。せめてもの罪滅ぼしに」
「お、おう……」
何の罪かを、おそらくウソップは理解していないだろう。あまりピンと来ていない顔だ。
しかしイガラムは忘れようもなく強烈に覚えていて、ビビを傷つけた一件だろうと想像する。状況が状況とはいえ、一国の姫を傷つけたのだ。場合によっては国際問題にさえなりかねない。
そう思ってはたと気付いた。
彼は自分たちに会ったことがある気がすると言っていた。
まさか、自分たちの素性に気付いたのでは。
本人が何も言わないため知り様がないものの、可能性は高いと思う。
イガラムにもまたドルトンに見覚えがある。かつての
とすればこれは、お互いに気付いていながら黙っているだけなのかもしれない。
そちらの方がいいのかどうか、はっきりしていない。
とはいえ、敢えて明らかにするものでもないだろうと、イガラムはただ礼を言うだけに留めた。
「感謝します。ウソップ君、ここは有難く協力してもらった方が得策だろう」
「そうか? まぁ確かにそっちの方がいいけどさ」
「ではついてきてくれ。ロープウェイまで案内する」
再びドルトンが背を向けて歩き出し、仲間たちの下へ向かう。
その背を確認してからウソップとイガラムも歩き出した。
事情があるのはどちらも同じだ。
両者は同じ、国の在り方について憂う者。
互いの状況は違えど、ただ国民のためを想う姿は変わらなかった。