じりじりと降り注ぐ太陽の光が恨めしかった。
体が熱くなって汗が流れる。濡れたシャツが鬱陶しい。
ただ今はそれでさえ奇跡に思える。
まだ汗が出てくることが不思議で思わず笑ってしまった。
食事を絶って今日で九日目。必要最低限の水は与えられて、排泄が必要になれば係の者に連れられてトイレへ行けるが、それ以外はずっと磔にされて立ち尽くすのみ。
それは一つの賭け事であって、同時に一種の拷問であった。
普通の人間ならとっくに音を上げて死を望むほど辛い。
それでも彼は何も言おうとしなかった。
ただじっと立ち尽くすだけ。己の不幸を呪う訳でもなく、自らの行動に反省する訳でもない。
約束を守るために立ち続けていた。本当ならば今すぐその場へ倒れて眠ってしまいたいが、地面に突き刺さった十字の木材に両腕を縛られ、立つのを強制されてはそれもできない。
汗を掻いて疲労にまみれ、体を洗うどころか服を着替えることさえ許されていなかった。きっと今はひどい匂いがしただろう。しかしそれさえ気にならず、余計な思考が消えている。何も考えずにただ耐えて、来るべき時が来ればそれでいい。
そうしていると水を与える時間が来たらしかった。
小さな水筒を持った一人の海兵が近付いてきて、睨むような目つきの男へ話しかける。
「給水の時間だ」
ひどく事務的にそう言われ、感情を感じないかのような素振りでただ水筒の口を向けられる。もはや慣れた物だ。生きるために口をつけて抵抗もなく水を飲まされる。
ごくごくと音が鳴る。美味そうに飲む物だと海兵は静かに思った。
ずっとここに立ち続けているなど並大抵の精神力ではないだろう。むしろ正気の沙汰とは思えなかった。一体なぜそこまで生きようとするのか。否、生きたいと思っているのならなぜ命乞いをしないのだ。恥を捨てて頭を垂れれば助かるものを、敢えて辛い道を選ぶ気が知れない。
栄養がある訳でもない水を飲み終えて、生き返るような心地だった。
水分を得た肉体は疲労を覚えながらもまだ生きようとしている。
それだけでいい。今この瞬間はそれだけで十分だ。
深く息を吐いて水筒の水を飲み干した男は、俯いてまた動かなくなる。
役目を終えた海兵は何も考えないよう努めてその場を離れようと振り返った。しかしその背に対してようやく口が開かれる。少し掠れた、しかし妙な力を感じる声が鼓膜を揺らす。
「おい。昨日のガキはどうした」
思わず肩が震える威圧感。これほど弱ってまだそんな声が出せるのか。
多少の怯えを密かに隠し持ちつつ、平静を装って海兵が振り返る。
その男と目が合った。今度は震えることはなかったがやはり死にかけの人間とは思えない迫力を持っていて、あまりにも力強い眼差しに言葉を失いかけてしまう。
自分を奮い立たせて問いに答えようと口を開いた。
意外にも男は海兵の言葉をきちんと聞いていて、決して話し合いができない様子ではない。
「安心しろ、丁重にお帰り頂いただけだ。怪我の一つもない」
「へっ、どうだかな。あの七光りのバカ息子なら何しでかしてもおかしくねぇだろ」
「……口を慎め。あの御方は海軍大佐のご子息だ」
男は笑っていた。今すぐくたばってもおかしくない風体だろうに、口の端を釣り上げ、なんとも凶暴そうな笑顔を浮かべて余裕すら感じられる。
背筋に悪寒が走る。もはやそれを人間だとは思えなかった。
きっと噂は本当だったのだろう。
人の形を持った魔獣。異様な強さと精神力を持つそれを表すにはそれが一番適している。
今すぐにもこの場を離れたかったが、また男が口を開く。
「約束は覚えてるか。一ヵ月ここに突っ立ってりゃ釈放だ。男に二言はねぇな」
そう聞かれて海兵は息を呑んだ。
約束。それは男を釈放するための条件だ。
彼がその場に一か月間立ち続けていられたら、無罪放免で解放される。
そうなるはずで縛られているものの、海兵はすぐに頷くのを戸惑い、わずかに視線をあちこち動かすも、やがてゆっくり顔を動かした。
「ああ、わかっている。それが釈放の条件だからな」
「頼むぜ。はっきり言って今すぐにもぶっ倒れそうなんだ。おれァ、何がなんでも生き抜いて、ここを出る。約束を違えてくれるなよ」
「……ああ」
ほんの幾ばくかの間があったが、戸惑いがちに頷いた海兵はすぐに歩き去ってしまう。
話し相手を失った男はふと空を眺める。
恨めしいほどに晴れ渡っていた。今日は雲一つなく、混じり気のない澄んだ青。太陽の光が世界を明るく照らしていて、何物にも縛られない二羽の鳥が彼の頭上を通り過ぎて行った。
何を想うかは当人のみぞ知る。
男は再び俯き、ただ静かに立ち続けた。
*
食事を終えたルフィとコビーは海軍基地を目指して歩いていた。
何やら上機嫌なルフィと違い、厳しい表情を見せるコビーは俯きながら考える。
一見平和に見える町だが実情を目にした後ではどうしても違和感が感じられ、街並みや町民を見る目も疑念を表していた。辺りを見回すコビーは少し落ち着きがないように見える。
胸中にあるのは表現できない不安で、それだけは嫌だと思う気持ちがあった。
彼はルフィを相手に不安を言葉にして聞かせる。
「やっぱりおかしいですよ。犯罪者ならともかく海軍大佐の名前を聞いて怯えるなんて。もしかしたら何か良くないことが起こってるのかも」
「いいじゃねぇか、おもしろかったし。おれもっかいあの店行こうかな」
「良くないですよ。海軍が不正をしていたとしたら、それほど最悪なことはありません。市民を守る海兵が市民から恐れられているなんて……とても普通とは思えませんよ」
不安を口にするコビーの表情は冴えず、歩調も人知れず緩やかな物となっていた。
対して、ルフィに落ち込んだ様子はなく、間近に迫った基地に再び好奇心を露わにしている。
果たしてロロノア・ゾロとはいかなる人物だろうか。そればかりが気になって歩調は速くなり、思案するコビーを急かすように前へ出た。
「とりあえずゾロを見に行こうぜ。どんな奴なんだろうなぁ」
「そ、そうですね。でもあんまり期待しない方がいいと思います」
「なんで?」
「悪いことをしなきゃ捕まりませんよ。特にロロノア・ゾロは海賊じゃなくて賞金稼ぎですし、もし何の罪もないのに捕まってたら、海軍の過失ってことに――」
言いかけてまさかと思う。
もし、ロロノア・ゾロが何の罪もないのに捕まっていたとしたら。
この町の海軍大佐に対する怯えといい、嫌な想像が頭をよぎる。過失とは不注意から来る失敗を言うものだ。しかしもし、失敗ではなく故意に起こされたものだとしたらひどくまずい。
想像すれば徐々に海軍への不信感が生まれかけて、真相を知りたいと思う。
きっと捕まった本人に聞けばわかるはずだ。
表情を引き締め直したコビーは恐怖を捨ててルフィの隣に追いつく。
「行きましょうルフィさん。なんだか嫌な予感がして……」
「おう。やっとあの時みたいになったな」
表情を緩めるルフィと共に、数分と経たずに海軍基地の前に辿り着いた。
大きく、壮観な姿である。
基地は厳重な警備を敷いている様子。門番が基地の正面に立っており、当然侵入を許してくれる訳もない。ロロノア・ゾロはどこだと尋ねたところで答えてもくれないだろう。
通りに立ち尽くしてその建物を見上げた二人はしばし考える。
会いたいとは思うが簡単にできそうにもない。どうすべきかを早々に見失っていた。
「で、ゾロはどこなんだろうな。やっぱり中かな」
「普通、囚人は牢屋に入れられると思いますけど、そうなるとやっぱり基地の中なんじゃ」
「裏口探そうぜ。こっそり入ったら大丈夫だろ」
「ほ、本当にやるんですか? いい人である証拠は何もないんですよ。そんな危険なこと……」
「嫌ならいいよ、おれ一人で行くから」
「それはだめですっ。ぼくだって一応キリさんに任されたんですから」
「じゃあ行こう」
「うぅ、いいのかな本当に……」
二人は正面の門を回避し、高い塀に沿って歩き始めた。どれだけ大きな基地であっても警備が薄い場所はあるはず。今やそこを頼りにするのが一番の近道だった。
正面からぐるりと回って数百メートル。
人気もなくなってきた場所に差し掛かると、奇妙な物を見つける。
基地の塀に梯子を立てかけ、上がっていく少女だ。歳の頃にして十歳前後。体は小柄で、そこにある梯子を運べそうな外見にも見えないが、行動力の賜物かするする塀の上まで上がっていってしまう。大人の目線でも相当の高さだというのに、どうやら向こう側へ飛び降りるつもりのようだ。
奇妙な光景に思えて呆気に取られる二人の前で、少女がパッと飛び降りる。
姿が消えてしまったせいでコビーが心配から悲鳴を上げるも、対照的にルフィは笑顔で面白そうだと思っている風体。すぐに駆け出して塀へ駆け寄った。
「ルフィさん! あの子基地の中に……しかもこの高さですよ! 怪我してるかも……!」
「あいつ度胸あるなぁ。向こうになんかあんのかな」
「あっ、ちょっと! だめですよ、海軍の敷地に入ったら!」
コビーの忠告を聞かず、塀の前に立ったルフィは梯子を使おうとしなかった。自らの脚力のみを頼りに強く地面を蹴って、高く跳び上がる。するとそれだけで高い塀の頂点にまで達し、両手で縁を掴み、腕の力で体を持ち上げればすぐに向こう側の景色が見えた。
敷地の中、広大な演習場らしき場所が広がっている。
そこに誰かの姿が見えた。磔にされてひどく疲弊した様子が伝わる。
その男のことも気になったが、ひとまずルフィの視線は真下に向かう。塀のすぐ傍で先程の少女が転んでいた。だが大した怪我はなかったようですぐに立ち上がる。
服をはたいて土を払った後、彼女は歩き出した。
向かう先には磔にされた男が居る。目的はあの男、ということか。
ずいぶん迫力のある人物だった。頭に黒い手拭いを巻いて、わずかに緑色の短い髪が見え、服装は白いシャツに緑の腹巻、黒いズボン。だらりと力が入らない姿勢で脚を投げ出しており、背後の木材にもたれかかっている。どうやら両腕が縄で木材に縛り付けられているらしかった。
男は目を閉じているようだ。だがその外見から鬼気迫る雰囲気が醸し出される。
まさかと思って見つめていると、梯子を上がって来たコビーがすぐ隣のルフィを見た。
「る、るるる、ルフィさん、いいんですかこんなことして」
「なぁコビー、あそこにいるのってさ」
「え? あぁ、あの子無事だったんだ――えっ?」
ルフィに促されて敷地内を見た途端、血相を変えてコビーが絶句した。
今にも気絶しかねないほどの衝撃を受けて、視線は挙動不審に動き出す。
何度見ても間違いない。磔にされている男は噂で聞いた姿と全く同じだった。
「て、手拭いに腹巻、間違いないっ……ほ、本物はなんて迫力なんだ。あの人ですよルフィさん。あの人が噂の賞金稼ぎ、海賊狩りのゾロですっ」
梯子から落ちそうになりながらも必死で指差し、ついにその名が呼ばれる。
じっと見つめるルフィは片時も目を離さなかった。
確かに危険な空気を纏っている。傍に居る者全てを傷つけそうな殺気はまさしく飢えた魔獣。見た目だけでも強そうだと判断できる。
ただ、剣士と聞いていたのに剣を持っていない。それが不満なのかルフィの表情は優れない。
一足先に基地の中へ入った少女は真っ直ぐゾロ目指して歩いていて、やがて彼の前へ辿り着くと足を止める。異様な空気を発する彼を見て微塵も恐れてはいなかった。
少女は手に持った小さな包みを差し出して言う。
「お兄ちゃん、ごはん持ってきたよ。お腹空いてるでしょ?」
弾むような少女の声に反応して、ゆっくりと両目が開かれた。
その迫力に再びコビーはぞっとする。開かれた目のなんと鋭いことか。眼差しだけで人を殺せそうな、睨みつけるような目つきはギラリと怪しく光り、見る者に圧倒的な恐怖を与える。
並大抵の人間ではない。
一体どれほど強くなればああなれるのだろうと理解が及ばなかった。
危険な眼差しは確かに少女に向けられていて、彼女を見つけても様子は変わらなかった。
「また来たのか、ガキ。メシはいらねぇっつっただろ。帰れ」
「あのね、おにぎり作ったの。私がにぎったんだよ。ちょっと形は変だけど、味はおいしいと思うんだ。お母さんにも手伝ってもらって――」
「蹴り殺されてぇのか。とっとと失せろ。おれは機嫌が悪ぃんだ」
取りつく島もないとはこのこと。包みを開いて中身を見せた少女が健気にもおにぎりを渡そうとするのに、ゾロは冷たい声で追い返そうとするのみ。
表情を微塵も変えようとせずに感情が感じられない声色だった。
本当に蹴り殺されてしまうのではないかとコビーが心配するのだが、止めることもできず。またルフィは無表情でじっと見つめるばかりだった。
手酷くあしらわれても少女は諦めない。
丸々した形ながら歪なおにぎりを一つ手に取って、自分より背が高いゾロへ差し出した。
「はい、どうぞ。食べないと死んじゃうよ」
「死なねぇ。おれにはまだやることがあるんだ」
「やることって何なの? 仕事?」
「おまえに話す必要はねぇ。帰れっつっただろクソガキ。いつまでもここに居たら、あのバカ息子に磔にされるぞ」
ゾロの言葉に、少女が俯いて悲しげな表情を浮かべた瞬間だった。
唐突に新たな声が聞こえて、全員の視線がそちらへ向かう。演習場への出入り口、そちらから三人の男たちが歩いてきて、声を発していたのは真ん中の人物だ。
「ロロノア・ゾロォ! 子供相手にそんな冷たい態度はいかんねぇ」
「チッ、バカ息子が来やがったか」
忌々しげに呟くゾロへ歩み寄ってくる人物。質の良い服を着て、高値のアクセサリーをいくつもぶら下げ、海兵二人を従える彼はどうやらそれなりの地位に居る人物だったようだ。
独特の髪型の金髪に、二つに割れた顎。あまり容姿がいい部類ではない。
意気地が悪そうないやらしい笑みを張り付けてゆっくり近づいて来る。
歯を剥き出しにするゾロはますます機嫌を悪くし、少女と相対した時とは違って殺気を醸し出していたようだ。それに気付かない男は馴れ馴れしくゾロの頬を叩いていた。
ぺちぺちと軽い音が鳴る程度。痛みはないが、侮辱と捉えるのも仕方ない様子である。
「君ぃ、子供の扱い方を知らんのか。それに今おれのことをなんて呼んだ? んん? 忘れるなよロロノア、おまえはおれによって生かされてるんだ。なんなら給水時間を廃止して枯れさせてやってもいいんだぞ? そしたら一か月も生きてられるかな?」
「うるせぇ野郎だ。ガキと何を話そうがおれの勝手だろ」
「ひえっひえっひえ~! そんな訳ねぇだろう、罪人が。おまえは刑を受けてる最中なんだ。無駄口を慎め。自分のしたことを反省しろ。それができなきゃ一生このままだぞ」
「チッ……」
ずいっと寄せられた顔に頭突きの一つでもかましてやろうかと思ったが、それでへそを曲げられては困るため断念する。だがゾロの様子ならいつ動いてもおかしくはなかった。
数歩後ろに下がって距離が離れる。
それから男は得意げに自分を指差した。
「よぉく思い出せよ。おれはモーガン大佐の息子、ヘルメッポだ。おれが白と言えば白となり、黒と言えば黒になる。それがわからねぇ奴は全員処刑だぞ」
そう言って金髪の男、ヘルメッポは独特な笑い声を発した。
背を反らしてひとしきり笑い飛ばした後、またにやけた笑みで言い始める。
「まぁそう心配するな。約束の件は忘れちゃいない。ここに突っ立って一ヵ月死なずにいれたら釈放してやろう。なぁに、約束は約束だ」
「本当だろうな」
「おいおい、疑うのか? おまえを処刑するならわざわざこんなめんどくせぇことするわけねぇだろ。すぐに処刑して終わりに決まってる。だからこれは本当の話だ」
にやにやしながらはっきり告げた後、続けてこうも言う。
「もっとも、本当に一ヵ月も生きてられればの話だけどなぁ」
悪意を顔面に張り付けたかのような嫌な顔だ。
上機嫌に笑うヘルメッポを睨みつけ、それでもゾロは何も言わなかった。
言う必要はない。ただ耐えればいいだけだ。そう思っている。
一ヵ月間、磔にされて死ななければ無罪放免で釈放される。
今はその時を待てばいい。
押し黙るゾロに興味を失ったか、今度は傍に居た少女に注意が移る。ヘルメッポは怯えた表情で固まる彼女へ歩み寄り、猫なで声で話しかけた。
「さぁて、問題はこっちだ。お嬢ちゃん、お名前は?」
「あ、あの……り、リカ」
「リカちゃんか。だめだろぉリカちゃん、勝手に基地内へ忍び込んでしかも罪人とお話なんてしちゃ。本当だったらすごく怒られるところだよ。んん? それはおにぎりかい?」
「あの、これ、私が作って……」
「へぇぇ、そうかい。最近の子供は偉いねぇ。自分でおにぎり作れるんだから」
膝を曲げてやさしく話しかけていたヘルメッポだが、少女、リカが手に持つおにぎりを見つけ、勝手に一つを手に取った。あっと声を出すが止まらず、それはヘルメッポに食べられてしまう。
一口かじられた。
途端にヘルメッポは驚愕して咳き込み、リカから顔を背けて米粒を吐き出した。口に合わなかったのか自ら吐き出そうとしており、瞬時に怒りの形相に変わる。
「ぶおえぇっ!? ぺっ、ぺっ! クソ、なんだこりゃ! 甘ぇじゃねぇか!」
「お塩の代わりにお砂糖を使ったの。私、甘い物好きだから」
「ふざけんな! こんなもん食えるかァ!」
「あっ!?」
怒りを露わにしたヘルメッポが腕を振り、リカの手を叩いておにぎりを地面に落とされる。同時に自分が持っていた一個も投げ捨て、地面を転がった二つを思い切り踏みつけた。
「クソまじぃもん食わせやがって! 甘ぇおにぎりなんざ美味いわけねぇだろうが! おにぎりっつったら塩! 普通は塩だろ! こんなもん、こんなもんっ!」
「ああっ!? やめてよ、やめてっ! 食べられなくなっちゃう!」
何度も何度も、米粒が潰れて土と同化するほどに踏みつける。慌てたリカがその場に跪き、潰れていくおにぎりを見つめて悲痛な声を上げるが、ヘルメッポは止まらない。怒りに任せて飽きるまで足を振り下ろした。傍に立つ海兵も、塀から見ていたコビーも表情を歪める。
その中でもルフィとゾロは一見すれば無表情で静かに見つめていた。
ひとしきり踏みつけるとヘルメッポは満足した表情。額に浮かんだ汗を拭いて深く息を吐いた。
足元ではリカが泣きじゃくっており、すっかり泥と化してしまったおにぎりを悔しげに見つめている。手を伸ばして触れようとするがもう食べられないと知って引っ込めた。
「ひどい……ひどいよ。一生懸命作ったのにっ」
「あーあー泣くな泣くな。大体おまえが悪いんだぞ。看板が読めねぇのか。こいつに肩入れした奴は同罪になる。おまえが大人なら処刑されてたっておかしくないんだぜ」
大粒の涙を流す彼女に顔を近付け、憮然とした顔でヘルメッポが告げる。
高圧的な態度は子供にも容赦はなく、怒りをぶつける口調だった。
「おれの親父の怖さは知ってんだろ? だったら余計なことしねぇで黙ってりゃいいんだよ。二度とここへ来るんじゃねぇぞ。もし来たら、ハハ、チクっちまうかもな」
リカは両手で涙を拭っていた。
立ち上がったヘルメッポはそんな彼女に舌打ちし、連れてきた海兵に声をかける。
呼ばれた海兵は肩をびくつかせ、どこか疲弊した様子で返事をした。
「おい、こいつを摘まみ出せ。めんどくせぇから塀の上から投げ捨てとけ」
「は? し、しかしそれでは――」
「あぁ? おまえ、おれに逆らうつもりなのか」
意見しようとした海兵がギロリと睨まれた。その瞬間に体が硬直して何も言えなくなる。最悪の想像が頭の中に浮かび上がったせいだった。
一気に詰め寄られて、心臓を掴まれるような恐怖を味わう。
ヘルメッポを怖がっているのではない。恐怖の対象は彼の父親だ。
それを理解しているため、気軽に大口を叩く彼は傲慢な態度で、年上の男に偉そうに言う。
「おまえだって養わなきゃならねぇ家族がいるんだろ。いいのか? おれ様にそんな口叩いて。おれが親父に言えば、おまえの首を飛ばすのは簡単なんだぜ?」
「は、はい……」
「わかったら何も言わずに頷け。そして行動しろ。できねぇんならおまえも処刑だ」
言われて歯を食いしばった海兵は、歩き出して小さなリカの体を持ち上げる。
急ぐ様子で塀まで歩いていき、おもむろに両手に力を入れた。
近付いて来る海兵に見つかってはいけないと、慌ててコビーは梯子に掴まったまま隠れたが、ルフィはその様子をじっと見つめたまま。
リカの体が投げ飛ばされる光景をじっと見ていた。
「きゃあっ!?」
小さな体は軽々と投げられた。塀を越えて落下しようとする。
それを見たルフィが瞬時に動き出し、落下してくる彼女と地面の間に入ってリカを抱きとめる。体勢を変えることなく落下していくと背中から地面に激突した。
隠れて声を潜めたままだがコビーは小さな悲鳴を発する。
確実に死んだと、そう思ったらしい。
しかしゴム人間であるルフィの肉体は物理的な衝撃を吸収してしまう性質があり、背中から落ちようが激突しようがまるで痛くなかった。リカを抱えたままむくりと起き上がり、平気な顔でその場に座ると、驚いた表情の彼女を見る。
その様子にも驚くコビーは急いで梯子を下り、二人へ駆け寄る。
どちらも無傷。全く無事な姿だった。
「大丈夫か?」
「う、うん……ありがとう、お兄ちゃん」
「ルフィさん! 大丈夫ですか!」
駆けつけてきたコビーに目を向け、先にリカを立たせた後でルフィが立ち上がる。
すぐにコビーはリカを心配するものの、尋ねてみたところで彼女は気丈にも大丈夫と答えた。確かに怪我はなさそうだが相当怖かったはず。しかし涙は止まっていた。
二人の会話を見たルフィは静かに塀を見上げる。
見た事が無いほど真剣な表情で、何かを思案するようでもあった。
「コビー、こいつ頼む」
「え? ちょっと、何する気ですかルフィさん」
再び跳び上がって塀に上り、敷地内を見る。
すでにヘルメッポたちは去った後らしい。見えたのは磔にされたままのゾロ一人。
塀を越えたルフィはリカと同じように侵入を果たした。
当然、すぐにゾロも気付いて、鬼気迫る様子で睨みを利かせてくる。
「誰だ、おまえ」
「おれはルフィ。海賊王になる男だ」
「海賊? おまえバカか。ここは海軍の基地だぞ。自分から捕まりにでも来たかよ」
「違ぇよ、おまえを見に来たんだ。いい奴だったら仲間にしようと思って」
「あぁ?」
さらに迫力が増した気がした。彼の睨みには凄まじいものがあって、常人ならば震え上がって動けなくなるだろう。ただし、ルフィは楽しげに笑って気楽に受け流していたようだ。
腰に手を当てて堂々と立ち、逃げもせずにその視線を受け止めて会話する。
そんな変わった奴は初めてで、睨む目つきだがゾロは彼を見続けた。
「おまえなんで捕まってんだ?」
「関係ねぇだろ。失せろ」
「約束とか言ってたな。助かるのか」
「ああ、一ヵ月ここで突っ立ってるだけでな。だからおまえの助けはいらねぇ。とっととおれの前から消えろ。蹴り殺されたくなきゃな」
「殺されねぇよ。おれは強いからね」
「へっ、そうかよ。そりゃあ、教えてくれてありがとう」
口の端を上げてゾロが言う。初めて見る笑みにルフィが頬を釣り上げた。
「なんだ、笑えるんじゃねぇか。魔獣とか呼ばれてるからもっとおっかねぇ奴かと思ってた」
「別におれが言い出したわけじゃねぇよ。誰が何を言ってようが興味ねぇな」
「そっか。じゃあさ、海賊になる気あるか?」
「誰が好き好んでそんなもんになるってんだ。帰れ。おまえとしゃべることなんざねぇよ」
またも冷たい声で言われてしまい、ふむと頷いたルフィは背を向けて歩き出す。
今すぐ決める必要はないのかもしれない。この場にはキリもシルクもいないし、なんとなくは彼を知れた。ひとまず何もせずに帰るのも悪くなかった。
「まぁいいや。別に今すぐじゃなきゃいけねぇわけじゃねぇし、まだ仲間にするって決めたわけじゃねぇから。また来るよ。一ヵ月もちそうになかったら言ってくれな」
「ふざけんな。二度と来るんじゃねぇぞ」
ルフィは塀へ向かって歩き出した。
それから数秒とせずゾロが声をかける。
「おい、ちょっと待て」
「なんだ? 海賊やるか?」
「ちげぇよ。んなつもりはねぇ……それ、取ってくれねぇか」
「んん?」
くいっと顎で指し示された場所を見てみると、そこには泥となったおにぎりがある。
話はなんとなく理解できたが笑うより先に心配してしまう。
そちらへ向かいながらルフィは疑念を示した。
「おまえこれ食う気か? おにぎりじゃなくてもう泥だぞ、これ」
「いいから寄こせ。腹減ってんだ。残さず食わせろよ」
大口を開けて待ちながら、今度ははっきりそう言った。やはり食べる気なのだ。
一応念のためにと泥のようなそれを持ち上げ、さらにルフィは尋ねる。
「本気か? おまえ腹壊すぞ」
「うるせぇ。おまえにゃ関係ねぇだろ」
「あ、そうだ。だったらさっきの子にさ、もっかい作ってくれるように頼んでやろうか? 多分まだその辺にいるから言えばすぐに――」
「それを寄こせっつったんだ。さっさとしろ」
その外見を見ても気は変わらないらしい。
不思議とルフィは頬を緩めて、もう止めようとはしなかった。
口を開けて待つゾロにそれを食べさせてやり、地に落ちたすべてを渡してやる。
食事と呼ぶべき姿ではなかった。一噛みするごとに奇妙な音が鳴り、石や土が混ざっているのは当然で、どこかでは砂糖の甘さも感じられ、凄まじい味である。
口にした途端に体の反射で涙が込み上げてくるも、頬へ流れる前に耐えて、辛くとも必死で噛み潰した。睨みつける瞬間とは一味違い、食べ続ける間も凄まじい気迫を放っている。
そうして全てを食べ、呑み込む。
咳き込みながら荒い呼吸を繰り返すゾロは、息も絶え絶えに呟いた。
「ゲホッ、オェッ……さ、さっきのガキに、伝えちゃくれねぇか」
「なんだ?」
俯いてしまって目は見えない。しかし凄んでいた時が嘘のような声色だった。
「うまかった。ごちそうさまでした……ってよ」
予想もしていなかったセリフにルフィは笑った。
魔獣と聞いていたが人間の心を失くした訳ではないらしい。鍛えられた肉体から放たれる威圧感も理解するが、今の彼なら噂とは違った人物像に見えた。
軽く頷いたルフィだがそれだけでは終わらず、視線を下げたままのゾロへ言う。
「いいぞ。でもどうせなら自分で言った方がいいんじゃねぇか?」
「あぁ? おれはここから動けねぇんだ。何言って――」
もう一度睨もうとしたのだろう、ゾロが視線を上げた。
その時に気付く。ルフィよりずっと後方、塀の上には再び梯子を上って来たリカが顔を出して、輝く目で彼の姿を見ていた。
何も言えなくなって、眉間に皺を寄せながらまたうなだれる。
してやったりといった顔のルフィは楽しそうに笑い、しばしゾロの傍から離れなかった。