海を行く数隻の軍艦の内、一隻で高らかに叫ぶ声があった。
「ギャーッハッハッハ! ざまあみろナバロンめ! なぁにが最強の要塞! どうだ見たか、このバギー様の手にかかりゃこんなもんよ!」
「流石バギー船長!」
「おれたちの救世主!」
「やったぞ野郎ども! おれたちは見事最強の要塞を打ちのめし、脱獄を果たした!」
「ウオオオオッ!!」
ナバロンを離れる軍艦の姿がある。
その基地にあった船の全て、五隻ほどが並んでいた。
それら全てに海賊が乗り込み、海兵の姿は一人たりともなく、完全に奪われた形だ。
中央の一隻に乗るバギーが上機嫌で叫んでおり、彼らは大いに盛り上がっていた。
同じ船に乗る者たちだけでなく左右にある船まで。発する声は留まるところを知らなかった。
海軍との勝負は彼らの完全勝利。牢獄を抜け出し、船を奪い、結果を見れば一人も倒れることなく島を出ることができた。彼らが騒ぐ姿も不思議ではない。
脱獄の全てはバギーのおかげ。
そこに居る全員がそう考えていたらしく、今や誰一人としてバギーを疑う気がない。
彼と共に在ったから自由を手に入れた。
そう考えればバギーの部下になることがどれほど幸福かと思うのは当然だった。
船上は盛り上がり、進む先は海軍の居ない自由な海。
後方にあるはずの要塞も見えなくなって、気分は良くなる一方。
バギーの隣にあったはずの姿を思い出す暇もなく、彼らは宴の準備に急いでいた。
今や彼の部下と呼んでもいい海賊たちの姿を眺めながら、バギーはほくそ笑む。
(大金を棒に振ったのはもったいねぇが、命あっての物種だしな。まぁ今回は泣いといてやるとしよう。悪ぃなぁキリ、おまえの犠牲は無駄にしねぇ)
悪いとは思っていない顔で笑い、ひどく楽しげな様子のバギーにもジョッキが渡された。
酒を注がれたそれ。見れば部下たちも揃って持っている。どうやら号令を待っているようで、快く応じたバギーは船首の上に立ち、全ての軍艦を見渡してジョッキを掲げた。
「おめぇら準備はいいか! おれたちの勝利を祝い、ドハデに騒げェ!」
「おおおおおっ!」
号令と共に互いのジョッキをぶつけ、心からの歓喜に満ちた宴が始まった。
牢獄から一転して空の下。
自由を謳歌するこの瞬間が愛おしく、今なら以前どんな船に乗っていたかなど関係なく、隣に居る誰とも知らない人間とも酒を酌み交わし、ただ笑顔を浮かべて騒ぎ続けた。
改めて見れば凄い面子が並んでいる。
それぞれ乗る船は違おうと、ウィリー、ビガロ、ボビー&ポーゴ、とんでもない顔ぶれが同じ男に率いられている姿は圧巻だ。
一際有名な彼らだけでなくかつては船長だった男たちも、今やバギーの部下。
数多の海賊団を吸収して、一個の海賊団が完成されていたのだ。
かつてない一団ができたのだと誰もが自覚していた。
この一味に勝てる敵など居ない。
そんな考えすら浮かんで、有頂天だった彼らは思うがままに行動した。
「まずはおれ様の仲間と合流することにしよう。それで新生バギー海賊団、いやさ! バギー海賊艦隊の誕生だァ! これから忙しくなるぜてめぇら!」
「おおキャプテン! 我らがバギー船長!」
「ギャッハッハ! まずは食って飲んで騒げ! 話はそれからだ!」
彼らの航海はひどく上機嫌なまま。
どこに居るのか、どこかには居るだろう仲間たちを探し、気ままに進み始めた。
*
海賊が居なくなった島で、ジョナサンは海を眺めていた。
壮絶な状況である。
基地は半壊。捕らえた海賊は全員逃げてしまった。
怪我をした海兵は数え切れず、軍艦は全て奪われて、基地を存続させるための資金さえ全て奪われてしまった。不正をして貯めた金ではあるものの、あれがナバロンの肝だったのも事実。
たった数時間で多くを失ってしまった。
多くの海兵が項垂れ、ジョナサンの後ろで座り込んで動けなかった。
ドレイクが居た。シェパードも居た。
基地に居る全員ではないとはいえ数え切れないほどの海兵が途方に暮れている。
そんな彼らの前に立ち、ジョナサンはしばし口を開こうとしなかった。
「すみません……取返しのつかないことを、してしまいました」
深々と頭を下げ、土下座するような姿勢でドレイクが呟く。
自身が行っていたことは罪だと知っていた。その上で市民のため、ナバロンのため、仲間のために敢えて手を汚してきた。しかしそれも、全て無駄に終わる。
不正を働き、海賊に逃げられ、これではナバロンを不要だとする声に抗うことはできない。
これ以上の失態はないというほど、完璧に打ちのめされていた。
目の前が真っ暗になる。師匠とも言うべきジョナサンに向ける顔がない。
ドレイクは顔を上げることさえできず、頭を下げたまま動けなくなっていた。
隣に座り込むシェパードも同じ気持ちである。
不正か否か、そんな問題ではなく、ここまでの完敗を喫して何も思わぬはずがない。ドレイクの気持ちは痛いほどわかった。
ジョナサンはしばらく無言を貫いていたが、やがて口を開いて語り出す。
やけに静かな声で、明らかに普段とは様子が違った。
その背を見つめる者は誰もが縋るような面持ちである。
「過ぎたことだ。謝る必要はない」
「しかし、私は……」
「正直に言おう。監査役を呼ぶ前から、私も大方の予想はついていた。知った上で敢えて気付かぬようにしていた。この基地に居たいがためにな」
予想だにしなかった言葉にドレイクとシェパードの顔が上がる。
驚愕する彼らに振り返りもせずジョナサンが続けた。
「自ら建造に関わった基地だ。愛着はある。それに長くここを任されていたのだ、数えきれないほど思い出があって、思い入れもある。上の命令でも早々簡単に手放したくはないさ」
「では、なぜ監査役を……」
「んん? なぜだったかな。まぁいいじゃないか」
やっと振り返ったジョナサンはにやりと笑っていた。
子供っぽいとも言うべき、悪戯に成功したような表情。その意味は理解できない。
ただ、いつも通りの彼であるのは間違いなかった。
さほど落ち込んでいる様子も見せずに笑うジョナサンは、半壊した基地を見上げた。
「皆、見てくれ。これが我々の実力だ。最強の要塞などとおだてられ、海賊を逃したことがないという実績に傷がつき、実績も信頼も失った」
海兵たちが揃って基地を見上げる。
彼の声を聞き逃さぬよう、誰もが集中して耳を傾けていた。
「だが、だからこそわかったことがある。今になって得られた物がある。我々はまだ成長することができるんだ。今回の一件で多くを失ったが、このナバロンまで失った訳ではない。今回の反省を受け、ここからやり直すことだってできるはずだろう」
皆の視線が、ジョナサンに集められていた。
「下を向いていては何も見えなくなる。前を見なさい。失った物ばかり見るのではなく、自分が守れた物を数えて確認し、今度こそ失わないためには何をすればいいか、それを考えろ」
ぐっと拳を握りしめ、歯噛みしたドレイクが再び俯いてしまう。
言葉にし切れないほどの感情がある。それを上手く伝えることができない。
それでも彼は弱々しい声で必死に言葉にした。
「しかし、中将……私はもうここには居れません」
「ん? なぜだ」
「なぜって、軍法会議にかけられるでしょうし、罰も逃れられません。罪を償わなければ」
「うーん、償うって言ってもなぁ」
「ひょっとしたら、二度とここには戻って来ないかもしれませんが」
気分が晴れず、思い悩むドレイクは悔しげにそう言った。
そんな彼に対しジョナサンは、困った顔になって自身の髭を撫で、わずかに言い淀む。
「しかしなドレイク、軍法会議も何も、証拠は何もないんだ。果たして議論になるかな?」
「は……?」
「怪しい金など一銭も残っていない。基地がこんな有様だから帳簿も全て燃えてしまった。燃えカスや灰なら提出してもいいが、果たしてそれで不正だと判断できるかどうか……」
顎に手を当て、ううむと思い悩む仕草を見せ、彼はしばし黙ってしまう。
その素振りでドレイクは理解した。
金を持って逃げたキリを、ジョナサンが追えないはずがなかった。空気を蹴って空さえ飛べるはずの彼が逃げに徹した事実を、今の今まで問題視していなかったのである。
そしてその事実に気付いた時、振り返ればジョナサンの様子が普段通りでなかったと考えた。
全て彼の計算通りだったとしたら。
海賊に逃げられ、基地の内部が以前の姿さえ見えないほど破壊されたことは、よくよく考えれば有数の策士として知られる彼らしくない結果だ。
だが、こうなることを予見できていたとしたら話が見えた気がする。
恐ろしい。ドレイクは畏怖の感情を込めてジョナサンを見た。
見つめ返す彼はそんな感情すらさらりと受け流して、朗らかな笑顔で皆の顔を見回す。
「一からやり直すとしよう。今回の経験を忘れることなく、海兵として更なる躍進を遂げよう。そうすれば今日の失態は無駄にはならない。大事なのはこれからだ」
ジョナサンは笑い、海兵たちは言葉を失う。
だがいつしか活力が湧いてくるようで、確かに表情は変わりつつあった。
長らく平和ボケしていた基地だが、絆は失ってはいなかったらしい。
ここはいずれ変わる。
本来ならば捕まえるべき人間である。しかしジョナサンが言った通り、不正の証拠はどこにも残されていない。無事な物を探す方が億劫な状況だ。
それ故、ドレイクを捕まえようとはしなかった。
遠目に見ていたウェンディは静かにその場を離れる。
仕事は終わった。このまま帰っても問題ない。
副官が居たなら多少お小言があったかもしれないものの、今はこの場におらず。
そういえば迎えに行ってやらなければいけないと今更になって気付いた。
「すっかり待たせちゃったわね。ヒュー、行きましょう。いい加減怒られちゃうかも」
近くで待機していた巨大なカラスのヒューに呼びかけ、地に足を着く彼の背に乗る。
翼を広げ、ヒューが飛び立った。
目的地はすでに理解していて、指示を受ける必要もなくどこかへ飛んでいく。
背に乗るウェンディはひどく上機嫌だった。
普段にはない笑顔で、心から溢れる喜びを表すかのよう。
ただし、少し考えると気落ちしてしまいそうにもなる。
迎えに行くと言った相手が待ち惚けているとしたら、後で聞かされるだろうお小言が怖くて仕方ない。それさえなければ最高の一日だったのだろうがこのままでは終われなさそうだ。
それでもやはり、ウェンディの笑みは揺らがなかった。