ナバロンで起こった暴動が、ある時を以てぴたりと止まり、静けさを取り戻そうとしていた。
その理由を知る由もなかったとはいえ、今は考えている暇もない。
ウェンディの先導に従い、ジョナサンは岸壁の下へ降りて海の間近を歩いていた。
潮が満ちている時は海面の下にある場所。
そんな場所を訪れるのは基地長であるジョナサンさえずいぶん久しぶりだ。
淀みない歩調についていくと、しばらくして大きな洞窟を見つけた。すっかり忘れていた地下の牢獄とは別の空間、以前は軍艦を修繕していた場所である。まだ海賊が島の近くを通っていた頃、度重なる戦闘で傷ついた船を直すドックとして利用していた。
近付く海賊が減って戦闘が行われなくなって以来、長らく近付く者が居なかった。
言われてみれば確かに怪しい場所ではあり、思わずジョナサンも唸ってしまう。
「そういえばここがあったな。なるほど、確かにこの時間しか来ることはできない」
「とっくに気付かれていたのではないですか? 隠すならばここしかないと」
「いやぁ年を取ったせいかすっかり忘れていたよ。ここにはずいぶん来ていない。正直、君に案内されるまでどこへ向かっているのかもわからなかったくらいだ」
「本当でしょうか。私には敢えてそうしているように見えてしまいます」
おどけて言うようなジョナサンへ何気ない口調で言ってみる。
ウェンディには疑念があった。
彼は全て想像できた上で調査を依頼しているのではないか。海軍で指折りの策士だと言われていた男が部下の不正に気付けぬはずもない。何か理由があるのだろうと。
はっきりとは言わなかったがジョナサンには意図が伝わった様子である。
頭を振った彼は溜息を洩らし、やれやれといった顔で答えた。
「私をそう買い被ってくれるな。地上の様子を見ただろう? 捕らえた海賊の脱獄を許し、たった一人を相手に基地は滅茶苦茶。私も老いてしまったらしい。まさかここまで一方的にやられる日が来ようとは思ったこともなかった」
「そうですね……少し相手が悪かったのかもしれません」
「我ながら情けないことだよ。腕が鈍っているのかもしれん」
「ですが、やはりあなたならどうにかできそうだとは思うんですがね」
謙遜、或いは嘘と言ってもいい。
態度を変えないジョナサンへ振り返り、ウェンディは微笑みを見せた。
彼もにこりと笑ってその質問を受け流す。
「期待してくれるのは有難いがね、実際はこんなものさ。伝説とは事実より誇張されて伝えられるものだ。ハリネズミなどと呼ばれた要塞も今やこの有様。実情は大したことはない」
「人生、何があるかわかりませんね」
「だからこそ面白い。転落してみるのも案外気分が良い物だ」
洞窟の前に立って朗らかに笑う。今のジョナサンにはまるで邪気が感じられなかった。
本心から来る言葉に違いない。
無邪気な表情は子供に戻ったかのように見え、本来なら落ち込んで当然の状況を、彼は心から楽しんでいるらしい。海兵として異端と言わざるを得なかった。
肩をすくめるウェンディは苦笑する。
気落ちするどころか喜ぶとは。彼もずいぶんな変わり者のようだ。
しばらく待つと連絡を受けたドレイクとシェパードが駆けつけてきた。
どちらも慌てていて冷静さに欠け、所々に怪我をしてもいる。シェパードは頬に湿布を張り、顔を含めて至る所に包帯を巻いたドレイクは直前の戦闘を感じさせた。
疲弊した姿で余裕がない。
駆けつけた二人は狼狽した様子でジョナサンへ声をかける。
「ジョナサン中将ッ! 申し訳ありません、海賊たちが船を奪って海に……!」
「すぐに本部へ応援を要請しましょう! 奴らを逃がす訳にはいきません!」
ドレイクとシェパードが声も高らかに言うものの、不意に矛先が変わる。
意見の食い違いか、互いに顔を近付けて言い合いを始めてしまった。
「お待ちくださいシェパード中佐! 今本部に報告しては、このナバロンの名折れ! 我々の力だけで解決しなければなりません!」
「バカを言え、軍艦を奪われたんだ! 全てだぞ! 今更我々に何ができる!」
「しかしナバロンの有用性を示さなければ、このまま失態続きで終われますか!」
「こうなればこちらのプライドなぞくだらん物だろう! 逃げた海賊を捕まえなければそれこそ海兵の名折れ! ナバロンがどうのと言っていられる場合ではないぞ!」
二人の言い合いは一瞬にしてヒートアップしていく。
ドレイクは自分たちで解決すべきだと主張し、シェパードは応援を呼ぶべきと主張する。
どちらも意見を引っ込めるつもりがないようで、言い合いが終わる気配は感じられなかった。
溜息をついたジョナサンは頭を抱え、ウェンディは苦笑して肩をすくめた。
「やめないか二人とも。今は仲間内で言い争っている場合ではない」
「しかし中将、落ち着いている場合でもありません!」
「わかっている。だがまずはこちらに集中してくれ。今は大事な話がある」
ぴしゃりと言われて自然と二人は押し黙った。
ジョナサンがここまで真剣な顔をするのは珍しい。尚且つ、隣には見知らぬ美女の姿があった。何かしら事情があるのだろうと理解するには十分な材料が揃っている。
再び歩き出すウェンディに導かれ、三人は洞窟へと入っていった。
人口の階段を上って少し上へ向かい、開けた場所に出る。
隔てる物がない広大な空間に巨大な金庫らしき物体が鎮座していた。
三者三様、反応はそれぞれ違っている。
ジョナサンはほうと頷き、ドレイクは押し黙って、シェパードは何やら焦りを感じさせる顔だ。事情を聞かされず、久方ぶりの場所であり、多少の違和感を抱かずにはいられない。
部屋の中央に立った彼らは何気なく辺りを見回した。
ウェンディが前方へ進んで立ち止まり、振り返って三人を見る。
やっと仕事を始める時が来た。
笑みを湛えたまま、真剣みを増した声で語り出す。
「改めまして、私は海軍本部より参りました、監査役のウェンディと申します。此度、ナバロンに見え隠れする不明瞭な資金の動きを調査しに来ました。その結果をご報告します」
「か、金だと? 横領か? なんでそんなことを――」
「まず見て頂いてわかると思いますが、こちらにある金庫、ここに帳簿に載らない資金が納められています。鍵は開けていませんが中身は確認しました。間違いありません」
淡々と迷いなくウェンディが続ける。
やはりその反応は三人ともそれぞれ違った。目視で確認しつつ、彼女の声は続く。
「別の場所でここに納められている資金の帳簿も見つけました。照らし合わせた結果、およそ七年で二億三千万ベリー。表沙汰になっていない資金の流れは確認できています」
「七年も……? そんなに長く不正が行われていたとは、とても信じられないが」
「しかし事実です。残されていた資料から、間違いない物と思われます」
狼狽するシェパードの一方、ウェンディは冷静な面持ちだった。
辺りの静けさが増して、そう遠くない場所で打ち寄せる波の音が木霊する。
いつの間にか重苦しい空気に包まれていた。
棒立ちになる三人が片時も目を離さずウェンディに集中する。
「当然、一兵卒にできる芸当ではありません。それなりの地位の者が、部下の協力を得て行ったものです。つまりこの基地でそれが可能だったのは――」
「ちょっと待て! 貴様ァ、私を疑っているなぁ!? 私は何も知らんぞ! こんな場所には来たこともないし、そんな金など使ったことどころか見たこともない!」
「あなたではありませんよシェパード中佐。ただ見届けて欲しかっただけです」
ふわりと笑って、ウェンディの視線は一人の男へ。
「なぜこんなことをしたのか、理由を教えてもらえますか? ドレイク少佐」
「何っ!?」
驚愕したシェパードが隣に立つ男の顔に目をやった。
帽子を被ったまま、表情が窺いにくい姿でウェンディを見つめ、微動だにしないドレイク。
まさかと思う人物の名前を聞き、シェパードは思わず質問せずにはいられなかった。
「バカなことを言うな! この男は口うるさいほど真面目な男で、決して不正をするような男ではない! これは、何かの間違いなのでは……!」
「本人は心当たりがあるみたいですよ。ここに来た時からずっと」
「ほ、本当なのか……!? なぜそんなことをっ」
ドレイクはしばしの間動かず、沈黙を守って視線を落とす。
シェパードはそんな彼の横顔を見つめ、不安そうな態度が隠せなかった。
一方でジョナサンは背面で手を組み、背筋を伸ばして、いつも通りの姿勢で無表情。全く動じた様子が感じられない。今この状況においては奇妙に見えるほど。
ウェンディはこの瞬間に確信を得る。
やはり知っていたのだ。初めから気付いた上で調査を依頼してきた。
なぜそうしたのかはわからないが、身近に居る者への配慮か、気遣いか、自ら尋ねることはしなかったのだろう。十年という長い時間だ。ずっと見過ごしていたのか、それともどこか途中で気付いたのかは計り知れない。しかしどちらにしろ、隠蔽も甚だしい。
混乱しているのはシェパードだけだったようで、彼だけは目を白黒させていた。
ジョナサンとドレイクが黙して語らず、重苦しい空気のままで時間が流れる。しかしいつまでもそうしてはいられず、やがて意を決したドレイクが大きく息を吐き出した。
顔を上げた彼の目に迷いはなく、観念した様子で話し始める。
「私は、裏切ったつもりなどない。ただこうしなければならないと思った」
「なぜそんなことをしたんだ、少佐! 中将の顔に泥を塗るつもりか!」
「全てはナバロンのためです。本部から不要だと言われているこの基地を存続させるためには金が必要だった。装備を整え、兵に食事を取らせ、遠征にも――数えだすときりがない。我々がこの基地を守るためには自分で動く必要があった。もう本部を頼ることはできません」
「ナバロンのため、だと……?」
呆然とするシェパードの呟きが妙に遠く聞こえる。
辺りが静か過ぎるせいで奇妙な状況だった。
今や逃げ出した海賊のことなど頭にない。それよりも大きな問題が目の前にあり、これを無視することはどうあってもできそうにない。
ドレイクの言葉を受け、ウェンディが真剣な顔で答えた。
「原因は資金難、ということですか。確かに近年、本部はナバロンの閉鎖を本格的に考え始めていますからね。トラブルがあっても不思議ではありませんけど」
「僻地と侮蔑されようと、ハリネズミと揶揄されようと、ここは我々が平和を勝ち取った場所。初めから平和だった訳ではない、ジョナサン中将の下で戦った結果、海賊たちを遠ざけることに成功した海域なのです。おいそれと手放すことなどできるはずもないでしょう」
「だからといって不正を働くなど! お前らしくもない!」
「大事の前の小事です! そうでもしなければナバロンは撤廃され、この海域に住む市民が危険に晒される。市民のためにこの身を焼く程度、大した問題ではありません」
きっぱり言い切った彼は強い意志を滲ませていた。
己が身を顧みず、市民のためだけにやったことなのか。それにしたって考えようもあったはずだと思うのだが、真面目過ぎる一面が悪く働いたらしく、彼は一人で決断してしまった。
今になって事実を知ったシェパードはぐったりと項垂れる。
ジョナサンは口を閉ざして何も言わない。彼の方も見ず前を向いたままだ。
そんな上司に頭を下げ、ドレイクは気落ちした声で呟いた。
「申し訳ありません。この一件であなたに多大な迷惑をかけると知りながら、それでも、私はこの基地を守りたかった。謝って許されることではありませんが……」
腰を曲げ、深々と頭を下げるドレイクにジョナサンが向き直る。
正面から向き合って、今まさに口を開こうとしたその時だ。
それより先に軋む音を奏で、巨大な金庫の扉が、ゆっくり押し開かれていった。
鍵は外れていない。ウェンディは自身の能力で内部へ潜入し、中身を確認したが、鍵を外す方法はドレイクしか知らないはずで、彼女さえ理解していない。
それではなぜ独りでに開くのか。
内側から押し広げられる扉は、彼らの目の前で完全に開き切った。
そして金庫の中に居た人物の姿を見つけたのである。
総額二億三千万ベリーだという金を持つ、海兵の制服を着たキリだった。
彼は外に居た四人を見やり、にこりと笑みを浮かべる。
「やぁ、どうも。ひょっとしてお邪魔かな?」
「あれは――」
「フッ、また会ったな紙使いくん。まさか、こんなところにまで来ているとは」
改めて笑みを浮かべたジョナサンが真っ先に彼と向き合った。
紙を操る能力により、金庫内部に置かれていた紙幣は一纏めに固められ、四角形となってキリの傍に浮かんでいる。まるでそれ自体が特殊な武器のように。
静かに剣を抜いて戦闘のため正面から見据える。
ジョナサンの様子にキリは涼しい顔で、状況を確かめるように辺りを見回した。
「もっと大勢居るのかと思ってたけど案外少ないね。みんな休憩中?」
「なぁに、私がここに居る。役者不足にはならないだろう」
「どうだろう。ボクとしては不足だった方が嬉しいけどね」
「悪いがこちらにも事情があってね。今君に逃げられるのは非常にまずい状況なんだ。というわけで、君を拘束させてもらおう」
「いやぁそれは勘弁。今から仲間と合流しなきゃいけないから」
そう言ってキリは懐から取り出した白い紙を手に持ち、同じく取り出したライターで火を点け、何も言わず天井へ飛ばした。ペラペラの能力によってそれは真っ直ぐ飛んでいく。
頭上には空ではなく天井。四人の視線がそちらへ向いた。
その結果、やっと気付いたのである。
数十メートル上にある天井には、紙で固定された大量のダイナマイトが見えたのだ。
「んなぁっ!? き、貴様、まさか――!?」
シェパードの驚愕をかき消すかのように轟音が響き渡った。
天井で起こった大爆発は分厚い岩盤を砕き、雨あられと巨大な岩を落として、真下に居た四人の海兵に命の危険をもたらす。
身の丈を超える岩が落下してきたことにより、四人は反射的に回避行動を取った。
ウェンディは能力を使って地面の中に姿を消し、ジョナサン、ドレイク、シェパードは咄嗟に後方へ跳んで、着地と同時に振り返って駆け出した。
ギリギリのタイミングだったが下敷きにはならず、なんとか事なきを得た様子。
その頃キリはすでに普通の紙で大きな鳥を作り出し、背に乗って空に飛び立っていた。
腕には紙幣の塊を抱いている。
落ちてくる岩を避けつつ、崩れたそこには外へ通じる大きな穴が開き、逃げ道ができた。予定通りの大穴である。キリは素早くその穴を目指して、眼下に見る三人を置き去りに、迷う素振りもなく洞窟内からの脱出を果たした。
全て計算した通りであった。
広範囲に落ちた岩を避けるのに必死で追手はない。彼は空高く飛んで島を見下ろす。
真っ先に港があるだろう位置を眺めた。
逃げるための軍艦は用意されているのか。唯一と言っていい心配事だったが、辺りを眺めたキリは小さく嘆息する。やはりこちらも予想した通りだ。
軍艦の姿は遥か遠く。すでに島から脱出を果たした後だった。
「ハァ、どうしようかな。流石に船がないと、このままじゃなぁ」
金を抱えたままで彼はううむと唸る。
使い方によっては空を飛べるペラペラの能力は、しかし万能ではない。
島から島への間を飛べるほどの持続力はないため、別の島へ逃げるには船が必要だ。
バサバサと翼をはためかせ、ナバロンの上空を旋回しながらキリは考える。
せっかく抜け出したのだから戻るという選択肢はない。だがいつまでも空に居続けることもできなくて、いずれは体力の限界が来て落ちてしまうだろう。その時海に落ちてしまったのでは一巻の終わりだ。島から遠く離れることすら難しかった。
「あのカラスって手懐けられないのかな。カラスの好物ってなんなんだろ」
ぶつぶつ文句を言いながら島中に目を向け、何かを見つけようと探す。
その最中にふと海を見た時、キリの表情は一変した。
見つめた先には一隻の船があった。
どれだけ距離があろうと一目でわかる帆のマーク。誰よりも見知った己の物だ。
心底嬉しそうな笑みを浮かべて、彼は即座にそちらへ向かい始める。
紙の鳥が海の上を飛び、遠くにある船を目指して進む。
驚くほど速い訳ではなかったが着実に距離は近付いていた。
そうして距離が近付くにつれ、その船から声が聞こえるようになった。甲板には複数の人間の姿が見えて、多くが手を振って近付いてくる鳥を見ている。
一人一人の顔が確認できるようになった頃にはキリの表情は緩んでいた。
「お~いっ、キリィ~!」
船首の上にはいつも通り船長が居て、バランスも取りにくいのに今日は立っていた。
笑顔で見上げて両手を振り、彼の到着を待っている。
キリも軽く手を振り返してゆっくり降下を始めていった。
甲板に到着した時、着地する前から紙の鳥が分解されて無数の紙が舞い、その中からキリの姿が現れて甲板に足を着けた。
直後に仲間たちがわっと殺到するのである。
多少の驚きを含みながらも歓迎するムードで、どこかほっとした一瞬であった。
「みんな、久しぶり。あとただいま」
「キリィ! おまえ無事だったのかぁ!」
「心配かけやがって! 海軍に捕まって聞いてたのに、なんで自分で帰って来れんだよ! いやそっちの方がよかったけど!」
「ごめんごめん。色々あったんだよ」
肩をすくめて笑うキリはいつも通りの姿で、安堵した仲間たちがそれぞれ安堵する。
変わった様子はない。大した問題でもなかったのだろう。
いの一番に駆け寄ったルフィやウソップも肩を落として息を吐き出し、緊張感から解放されて脱力してしまって、不思議と虚無感のような物まで感じていた。
ともかく、要塞と一戦交えることがなくてよかったのだ。
特にウソップを筆頭に数名が喜び、対照的につまらなそうにしている者も居た。
歓迎するムードの一方、不可解なこともあって。
気付いたシルクがキリへ尋ねる。
彼が大事そうに抱えている物体が気になったらしい。
「でもどうやって逃げ出してきたの? あとそれって……」
「ああ、お土産。隠し金庫からちょろまかしてきたんだ」
「ちょっとキリ、凄いじゃないこれ! 全部お金?」
「うん」
抱えていた塊を床に置き、能力の使用をやめて無数の紙幣が辺りへ広がる。
あまりにも多過ぎて山となる金はナミの目の色を変えさせ、彼女の中にあった文句を殺した。
嬉しそうに膝をつく彼女はすでに金の亡者と化していたようだ。
「総額二億三千万ベリーって言ってたかな。ナミにあげるよ」
「素敵よキリ! 愛してる!」
「んなっ、ナミすわぁ~ん! おれは!?」
喜ぶルフィやウソップだけでなく、ナミやサンジまで騒がしくなり、船上の騒々しさはより一層大きな物となっていた。そちらに苦笑しながらシルクが聞く。
「こんな大金、どうしたの? 海軍のお金?」
「まぁね。でも不正で貯めた金だからまぁいいでしょ」
「不正? そういえばあのシロクマって、監査役の――」
「全部終わったことさ」
微笑むキリの言葉を受け、なんとなくシルクは自分の言葉を止める。
立ち入るな、という空気でもないが、何か含みを持たせる言葉だと感じた。
今度は尋ねる前にキリがルフィへ向き直ってしまい、彼女は不思議に思いながら口を噤む。
「とにかく今はここから離れよう。追手が来ないとも限らない。船長、迷惑かけてごめん」
「いいさ。みんな無事だったんだしな」
「そんじゃさっさと離れようぜ。キリが無事だったんだし、もう用はねぇだろ」
慌てるウソップに後押しされ、クルー全員が操船へ動き出す。
もうナバロンへ近付く必要はなくなった。ならばわざわざ危険なその島に上陸しようなどというつもりはなく、その場で踵を返してパルティアに戻ってしまえばいい。
今日ばかりは理由が理由で、冒険好きのルフィからも異論は出なかった。
普段と変わらずドタバタと騒がしくなる甲板で、ふと足を止めたキリは海を見る。
およそ百メートルの距離。
ぷかぷか浮いて海上に顔を出したシロクマ、ドニーがメリー号を見ていて、少しも動かずじっとしている。キリを捕まえようという素振りはまるで見られない。
視線が交わった気がした。
ドニーは海上まで右の前脚を上げ、軽く手を振る。バイバイ、とでも言いたげな姿だ。
それ見てキリはくすりと笑った。
なぜだろう、かつてとは心境が違う。不思議と敵意は沸かない。
彼もわずかに手を上げ、非常に小さくだが、同じように手を振った。
満足した様子でドニーが海中へ潜って姿を消す。
それと同時に背後からルフィに声をかけられ、気付かれない内に手を下ろした。
「どしたキリ? なんか居たのか?」
「いいや。なんでもない」
振り返った彼も仲間たちを手伝うため歩き出す。
後悔はなく、迷いはない。もう振り返る必要はないのだ。
こうして彼らは、無事にナバロン要塞を脱出して、パルティアへと戻っていった。