ナバロンの牢屋へ入れられたキリは、朝方日が昇る前、不意に目を覚ました。
彼が入れられたのは地上にある建物内部の牢屋。本来ならば牢屋は地下にあり、そちらは大量のスペースがあるものの、現在は使う隙が無い様子。つい昨日のデッドエンドの敗北者たちだ。捕縛された彼らが牢屋を埋め尽くしてしまったため、彼は上部の牢屋へ入れられたのだという。
そう聞いたのは昨夜、彼を運んだ海兵に質問したため。
しばらく時間が経って、眠りから覚めた彼の傍には誰も居なかった。
数えられる程度の牢屋が並ぶ寂しげな一室で、小さな物音がある。
鍵を開ける音だ。
閉じられた扉を開けようと試みている音のようで、カチャカチャというそれが木霊している。
キリが入れられた牢屋の、二つは隣か。
体を起こした彼は鉄格子の傍まで移動し、そこを掴むと音のする方向を見ようとする。
それからすぐに鍵が開けられた。錠前が落ちる音がして、動いた扉が少し軋む音。誰かが外へ出てきたようだ。警戒心を感じる足音まで感じて、いよいよ音が近付いてきた。
覗き込もうとするキリの視界に入り込む人影。
一つだけのそれは警戒しつつ、だが堂々と、入り口へ向かおうと進んでくる。
「よぉし、誰も居ねぇようだな。ここまで待った甲斐があったぜ。あとは船をどうするか――」
「バギーじゃないか。何やってんの?」
「どおあっ!? だ、誰だっ……って牢の中じゃねぇか! しかもてめぇは!?」
「久しぶりだね。元気だった?」
横合いから聞こえた声に驚き、体をバラバラにして跳び上がったのは、見覚えのある顔だった。
海賊、道化のバギーである。
帽子とコートは奪われているが、真っ赤な鼻を始めとしたその姿はローグタウンで見た物。彼以外にあり得るはずのない鼻を見て間違えるはずもない。
キリが言い当てた通り、バギーは再び彼の前に現れたのだ。
「麦わらの手下の紙使いだなァ! なんでこんなとこに居やがる!」
「それはこっちのセリフだよ。ボクだけかと思ったら意外と近くに居たんだね」
「フン、ミスっちまったのか、ザマァねぇな。悪いがおれはこの通り自由の身だ。哀れなおまえを置いてさっさとトンズラさせてもらうぜ、ギャッハッハ!」
「待った待った。もうちょっとしゃべろうよ、せっかくだから」
ともすれば走り出そうとする彼を気楽な声で押し留め、寝起きに騒がしい様子であった。
まだ日が昇る前。辺りは薄暗く、人の気配はない。
それでも大声を出すのは戸惑われ、キリは意図して声を小さくしながら話しかける。
煩わしそうにするバギーは早く逃げ出したいらしく、振り返りはするも好意的な表情ではない。
「何の用だってんだ。おれはこれから忙しくなる。こんなとこでじっとしてられねぇんだよ」
「ねぇ、なんでここに居るの? 捕まった?」
「なぜっておまえ、そりゃあよ……あの胴元のせいに決まってんだろ! ゴールを指すはずのエターナルポースに従ってレースに参加したら、辿り着いた先はこの要塞! 噂も聞こえる海軍最強の基地だぞ! 誰が目指したくてこんなところに来る! おれはあいつに騙されたんだ……!」
「あーそうだろうね。ちなみにあれ用意したのガスパーデだよ」
「ガスパーデ!? あの野郎、よくもまぁのうのうと!」
「もう倒したんだけどさ。結局あいつも勝者ではないよ」
「倒したぁ? おまえがか。あいつもほとんど一億の首だぞ」
「細かく説明するとめんどくさいんだ。とにかくガスパーデの一人勝ちじゃない」
「よぉし、それを聞いてスカッとしたぜ。それじゃ」
「だから待ってってば」
またも走り出そうとするバギーを止め、尚もキリは話そうとする。
「まだバギーが居る理由聞いてないよ。で、ここに来て船は沈められた?」
「チッ、しつけぇ野郎だな。船はおそらく沈んじゃいねぇよ。後ろの方に居たんで、先頭集団が攻撃を受け始めた時もおれたちの船は無事だった。逃げ出せるタイミングだったんだよ」
「じゃあなんでここに」
「おれだって知るか! テンパってる内に突然わけのわからんシロクマに襲われて、海の中に引きずり込まれたんだ! おかげで仲間とは引き離されちまうわ、要塞に連れて来られるわ、もう散々だ! ちくしょうめ!」
「あーなるほど、被害者がここにも……」
地団駄を踏むバギーに同情しつつ、思わずキリは遠い目をする。
シロクマと言うからにはおそらくドニーだろう。どこで何をしていたのか知らないが、逃げようとしたバギーだけは捕まえたらしい。彼ならばそれも可能に違いなかった。
同じ敵に負けた同志とも言える。少々、キリの態度は彼に対して甘くなりつつある。
しかしそれ以上に良い展開だ。
見知らぬ基地の中、捕縛された自分に脱獄を考える彼。協力すれば確率は高くなるはず。
微笑むキリは言葉だけで駆け出そうとするバギーの背を止めた。
「それじゃあな。おれは忙しいんだ、もう行くぞ」
「ちょっと待ってよ、せっかちだなぁ。なんでそんな急ぐんだよ」
「決まってんだろ。逃げるんだよ。まだ時間も早ぇから基地内の警備も甘いはずだ。可能だとすればタイミングはここしかねぇ」
「確かにねぇ。でも難しいと思うよ、実際」
「トーシローは黙ってろ。能力を隠し通せたおれならやれるはずだ」
「やっぱり一人じゃ難しいって。だからさ、手を組もうよ。ボクも協力する」
「おまえがぁ?」
キリを見るバギーの目が猜疑心を露わにする。
正直な男だ。感情を一切隠そうとしない。
そんな目をするからには出てくる言葉は想像できて、耳にしたキリはつい苦笑してしまう。
「ノーだ」
「なんで」
「てめぇは麦わらの手下だろ。忘れちゃいねぇか? おれは奴に恨みこそあれど仲良くする理由なんざねぇ。たとえ恩を売るとしてもごめんだね。ずっとそこに一人で居ろ」
「そんなひどいこと言わないで。今回を機に仲良くしようよ。肩並べてさぁ」
「するか。おれは一人で自由を謳歌するのさぁ~」
想像通りの言葉を吐かれて、上機嫌なバギーは背を向けると小走りで駆け出す。
その背へ、あらかじめ用意していた言葉をぶつけた。
「もったいないなぁ。それじゃ隠し金庫のお宝はいらないんだね」
バギーの背が、面白いほどぴたっと止まる。
駆け出す足は中途半端な形で止まり、右足は地に着いたまま、左足が上げられていた。
そんな奇妙な体勢のままで振り返るバギーの目は、動揺を露わにしながらこれでもかと好奇心を表に出し、どことなく輝いているように見える様子でキリを見つめる。
「か、隠し金庫? お宝?」
「そうらしいんだよ。ここに居る海兵が裏帳簿を作って金を貯めてたんだって。それがどこかにあるらしいんだけど、ボク一人じゃ探せないし、全部運び出せるかどうか……」
「一応聞いておくが、その金ってのはいくらぐらいある。いや、一人で逃げるんだが一応な」
「さぁ、想像もできないけど。でもかなりの額にはなるだろうね」
キリが語る言葉には虚実が入り混じる。
隠し金庫があるらしいというのは聞いた話だ。おそらく本当なのだろう。しかしその中にある金が莫大だとは誰も言っていない。彼の想像、或いはその場で考えたものである。
真実は如何なる物か。今はそんなことどうでもいい。
バギーの注意を惹ければ十分で、実際その考えは成功したようだった。
金と聞いてバギーは目の色を変えている。聞けば彼は財宝その他に並々ならぬ興味を示す海賊。冒険を求めるルフィとはタイプが違う。
求める物が隠されていると知って、興味はどんどん増していく様子。
その顔を見ながらキリはほくそ笑んだ。
一人で逃げ出すには少々厄介な環境だろう。ならば実力の如何に関わらず協力者が欲しい。
彼は、能力者であることも多分に含め、キリにとって救世主とも言うべき存在だった。
「それに一人で逃げるにはちょっと広過ぎると思うけどなぁ。いくらバギーが能力者だからってここは人も多いし、何より構造が入り組んでる。無事に逃げ出すのは難問だよ」
「ぐっ、だがてめぇが居たところで状況が変わるか?」
「もちろん。実はここに入れられる前、基地内の地図を見たんだ。急だったけど大体覚えた。実際見ながら確認するしかないけど案内できるよ」
「地図だと? そんなもんどこで」
「きれいなお姉さんに見せてもらったんでね」
肩をすくめるキリを見て数秒、バギーはいよいよ真剣になって考え始める。
確かに一人では難しい。彼が協力すると言うのならたとえその話が嘘であっても役立つだろう。
ただ、信用できないのである。
やはり憎きルフィの仲間であり、加えて言えば彼は一味の中で唯一、船長と共に賞金をかけられている。ローグタウンでの襲撃に際し、新聞も読んだ。噂も聞いた。なぜ彼らが世界中に名を広められたかと言えばキリの働きが大きかったからだという。
果たしてこの男、自らの力として傍に置くべきか、それともここに置いていくべきか。
逡巡するバギーは必死で考えた。しかしやはり、金と脱獄の両方が欲しい。
「てめぇが居れば隠し金庫は見つかるのか?」
「可能性は高くなるよ。必死で探すから」
「ふぅむ……確かに一人じゃ面倒か。それにどちらにしても時間はかかるな」
顎に手を当て、しばし真剣に思案する。
彼が居た状況での利点、不都合。自身が単独で移動した場合。
両方を考えた結果、苦心した彼は難しい顔で中空を睨んだ。
(地図を見たって話が本当なら使えるはずだ。それにもしも見つかるようなことがありゃ、こいつを囮にして脱出することも可能。最悪隠し金庫を諦めて逃げるにしても、一人よりかは海兵の注意をバラした方が得策だな。つーことはやっぱりこいつも連れていくべきか)
優先するのは自らの保身、そして金。キリの安全など二の次だ。
様々な考察から利用できると確信した彼はにんまり笑い、牢屋の中で座り込む姿を見下ろす。
その心中も知らず、キリはどこか緩い笑みを浮かべてバギーを見ていた。
やはり彼を連れていくことに決めたようだ。
「よし、いいぜ。それじゃおまえも連れてくことにしよう」
「サンキュ」
「その代わりこのおれ様が助けてやるんだ。しっかり役に立てよ」
「そりゃもうもちろん。有難きキャプテン・バギーに大きな感謝を」
「その感謝が形になりゃいいがな。むっふっふ、どんな大金が待ってるんだろうなァ」
上機嫌なバギーは口元を押さえ、今からすでに笑いが止まらない様子。来るべき時に出会う大金を想像して興奮しているらしい。海賊の鑑とも言うべき欲望にまみれた姿だった。
そうと決まれば早速キリを牢屋から出さねばならない。
バギーは腰の裏に手をやり、こっそり盗み出した鉤の束を持ち出す。
彼はバラバラの実の能力者だ。海楼石の錠をつけて能力を封じない限り、手錠をかけようが牢屋に入れようが簡単に抜け出せる。壁に掛けられていた鍵を盗み出すのも朝飯前で、その気になれば全身をバラバラにして鉄格子を抜けることも可能だが、今回は海兵の視線を恐れたらしい。
手錠の鍵は持っていないが扉を開けることはできる。
バギーはじゃらりと鳴らす鍵の束から目の前にある錠前に合う物を探そうとした。
それを言葉で押し留め、キリは必要ないと告げる。
「いいよ。鍵ならいらない」
「あ? これがなきゃおまえ出れねぇだろうが」
「違うよ、出れるからいらないんだ」
そう言った途端、カシャンと音を立てて手錠が床へ落ちる。
あんぐり口を開けるバギーの視線の先で、キリの両腕はひらひらと紙になっており、薄っぺらい様相で手錠の下から抜けていた。そして直後には厚みができて元通りになる。
能力者だとは知っていた。否、だからこそ驚いた様子だった。
「海楼石の錠じゃなかったのか?」
「何の因果かね」
苦笑するキリは前へ進み出て、今度は全身を紙のように薄っぺらくして尚も歩く。
鉄格子の間を通り、人間には通れぬ細い場所を難なく通り抜けた。そしてその後で再び元通りの厚みを取り戻し、本来の人間の姿となる。
感心した顔で声を漏らし、バギーは一瞬考え直す。
彼の能力を知ったことで疑問が生まれた。
「おまえも隠し通せたクチか。なら最初からここに居る必要はなかったんじゃねぇか。考えてみりゃおれに助けを求める必要もなかったってことだろ。一体どういう了見だ?」
「そっちと同じで、タイミングを見計らってたのさ。敵は多いし逃げ道もはっきりしてない。誰か海兵が来るようならそれとなく探ってみようかと思ってたんだけど」
「ふむ、まぁいい。とにかくこいつはもう必要ねぇってわけだ」
盗んだ鍵の束を捨て、地面で硬い音が鳴る。
その様にキリは苦笑した。
もしバギーが頷かなかった場合について、彼本人が考えることはなかった。
キリは確かに捕まってはいたが、抜け出そうと思えばいつでも自力で抜け出せただろう。バギーに置いていかれた場合、そのまま黙っているはずもない。いずれは食事を運んでくる海兵もそこへ現れただろうし、キリから気軽に話しかけることもあったはずだ。
どうやら助かったのはキリだけではないらしい。
そこまで考えず、バギーは先頭となって歩き出そうとしていた。
キリも素知らぬ顔で後ろへ続こうとする。
彼らは決して仲間ではない。信用した上で協力関係を築いた訳ではない。
言わば仮初の友情。
何かが起こればどちらからともなく動き出し、状況が変化することは確約されていた。
二人はそれを告げぬまま、胸に秘めた状態で肩を並べる。
歩き出してからであったがキリが口を開き、バギーがそれに応じた。
脱獄の第一段階は終了した。一方でやるべきことはまだまだあり、隠し金庫を見つけて奪う、要塞の外へ脱出する、それらのためにも細々としたことが多い。
「まず何から始めよう。先に武器を手に入れないとね。多分バレるのは時間の問題だよ」
「戦う気か? 正面からやり合ってたんじゃ勝ち目なんざあるわけねぇぞ」
「だからこそ色々武器は必要でしょ。それにこの島を離れるには作戦も必要だ」
「具体的には」
「その辺決めてから動き出した方が良さそうだね。一旦止まろう」
足を止めた二人は牢屋が並ぶ一室から出る前に足を止め、向かい合う。
辺りには物が何もない。従ってメモを取ることもなく、言葉で脳裏に刻むしかなかった。
「地図があれば早いんだけどな。状況はかなり厄介だよ。敵の捜索を回避しつつ、道を確認しながら進まなきゃならない。今は武器もないし」
「金も探せよ。それがなきゃてめぇに用はねぇんだ」
「わかってるって。時間が必要かな……それと、外に出る可能性も高めたい」
顎に手を当てたキリはふむと頷く。
「デッドエンドの参加者ってみんなここに来たんだよね? 捕まってる人とか居ないかな」
「そうか、捕虜になってる連中を逃がせば大パニックになるぞ。海兵の連中、おれたちに構ってる暇も無くなる。そうすりゃこっそり船を盗むのも目じゃねぇな」
「ただリスクもある。逃がした連中がボクらに味方するとは限らないし、罪も重くなるよ」
「そんなもん今更だろ。一番はここから生きて出られるかどうかだ」
「まぁ確かにそうだけど」
「なんならそいつらに武器を渡して戦わせてやりゃいい。おれ様の負担も減るってもんよ」
悪い顔で企むバギーはひどく楽しそうである。やはり性に合っているのだろう。
彼の言っていることは間違っていない。脱獄の成功率を高めるには必要不可欠な展開で、地図を見せられた瞬間からキリはその考えを持ち、牢屋の位置も確認していた。
問題は順序だ。
いきなり逃がしてパニックを起こすのは果たして褒められた行為か。
先にするべきことがあるだろうと考えるキリは、今後の展開を冷静に組み立てようとしていた。
自分たちの動きだけではない。敵の動きを予測する必要もある。
その上で向かう場所、手に入れる物を決め、基地内に混乱をもたらす必要があった。
数秒黙った後、バギーを見るキリが口を開く。
作戦は決まったようだった。
「よし、順序良く行こう。多分脱獄自体はすぐバレる。でもよくよく考えればボクとバギーの能力は隠密行動に向いてるんだ。上手く進めればなんとかなるはず」
「隠密行動だァ?」
「ボクは紙になれるからどこにでも隠れられるし、バギーはバラバラになるから隠れやすい」
「そりゃそうだが、一度バレたら監視の目も多いぞ」
「時間をかければなんとかなるさ。長期戦を考慮してゆっくりやろう。一つずつ準備していけば後々有利になるのはきっとボクらの方だ」
「何を根拠に言ってやがるんだか……だがこうなったらやるしかねぇな」
溜息交じりではあるものの、観念したのかバギーも同意する。
そんな彼に今後の動きを丁寧に説明し、キリはいつしかこの時を楽しみ始めていて。
見知らぬ要塞の中、希望と絶望が入り混じり、そこを生きて抜け出すべく、二人は進み始めた。