深夜に差し掛かる頃だった。
手錠をかけられ、甲板に座らされていたキリは海の向こうに大きな光源があるのを見た。
そちらを向いたウェンディは彼に背を見せ、静かに語り始める。
「今回の仕事はね、とある基地で裏帳簿の存在が疑われるってことで、その存在を明るみにして欲しいって頼まれたの。基地の責任者からね」
「へぇ、そう。それってボクに関係ある?」
「フフッ、ないわね。でもあなた海賊じゃない」
「そりゃそうだけど、タイミングは考えて欲しいなぁ」
「なんだか今日は愚痴っぽいわね。何かあった?」
「ついさっきね。それと今この状況」
「大変ね。つい同情しちゃうわ」
彼の怒気を受け流すような微笑みは全く淀みない。
振り返るウェンディはキリの仏頂面を確認して肩を揺らす。
現在、キリは足を広げて座ったドニーに抱えられており、股の間に座らされている。
背後から大事そうに抱きしめられ、腕にはきゅっと力が入っていた。
非常に愛らしい様子である。だが彼本人は納得していないのがありありと表れ、普段が見る影もないほど不機嫌そうな表情。溢れ出る敵意も抑えようとしなかった。
だからこそ楽しいのか、ウェンディがくすくす笑う声は止まらない。
「ハリネズミって知ってる?」
「動物の、じゃないよね」
少し肩をすくめる動きを目にして、キリは視線を逸らして溜息をついた。
「海軍の要塞なら知ってる。堅牢堅固の造りで難攻不落。世界中にその名が広まってる。でも確か辺境の地過ぎて誰も近付かないし、不要だって声も大きかったはずだけど」
「そう。どんな海賊団でも落とせなかった最強の砦。だけど島を丸ごと基地にしたからそもそも目指そうなんて考える人は居ない。だから不要だって言われてるの」
「別に興味はないけどね。近寄らなきゃ脅威じゃない」
「私もそう思うわ。だけど実際、あの基地が撤廃される動きは本格化されていない。調査して欲しいと依頼されれば断るわけにはいかないの」
やれやれといった顔のウェンディを見やり、難しい表情のキリは苦悩していたようだ。
話の方向性が上手く理解できない。
無理やり連れ去られてなぜ海軍の要塞について話しているのか。
海軍の要塞、ナバロン。
難攻不落と言われたその拠点には相応の歴史があり、数々の敵を討ち破った実績がある。しかし名が売れるにつれてその島を避ける海賊は増えていって、位置に関する情報も蔓延した結果、訪れる人間は同じ海軍の者ばかりとなった。
存在価値がない、と囁かれるようになったのはその頃からだろう。
一度戦えば敗北を知らない反面、あまりの危険性に誰も近寄らない寂しげな島。
それが海軍の“ハリネズミ”だった。
噂には聞いていたが来ることなどないと思っていた。
そのせいか、あまり情報は持っていない。集めようとしなかったし、時折耳にすることがあってもおそらく聞き流していた。これからその場所に向かうのだとしたらまずい事態だろう。
海の向こうの光源。どうやらその場所だと予想するのは難しくなかった。
しくじった、と考えるキリの表情は思わしくなく。
対照的な笑顔のウェンディは口調も軽く話す。
「監査役の仕事って大変なのよ。味方を疑わなきゃいけないし、時には存在を感じ取られてはいけない場面もある。一番いいのは誰にも気付かれずに終わらせることね」
「あっそう」
「聞いてる?」
「あんまり」
「そう。別にいいんだけどね」
動じた様子のない彼女はキリの前にしゃがんで視線を合わせた。
「でも今回は特に大変そうなの。なんせ島ごと基地でしょう? 隠し金庫があるかもしれないって言われて、手掛かりはないようだし、どこにあるか見つけるのは簡単じゃないわ。全部見て回るだけでも一日かかりそうだし、それに兵士の数も多いから」
「あのさ。さっきから何の話聞かされてるの?」
「これ見て」
ウェンディは懐から薄い紙を取り出した。しかし折り畳まれたそれはかなり大きい。
広げられてみると地図のようだった。
話の前後から、ナバロンの物だと思われる。内部の構造全てが載っているようで、気のないふりをしながらキリはざっと全体に目を走らせた。
「こんなに広いのよ。どう? 一日で回れると思う?」
「時間かければいいでしょ。別に一日で見て回らなくたって」
「だめよ、私だって忙しいんだし。他にもやることは山積みだわ」
「お気の毒様」
やれやれと顔を逸らし、目を閉じて首を振るウェンディは地図を掲げたまま。
目の前にあるそれをキリは素早く覚えていった。
このままで終わるつもりはない。確かに捕まってしまったのは自らのミスだがまだ死んだ訳ではないのだ。上手く逃げ出し、パルティアに戻る覚悟があった。
地図を見せられたのは不幸中の幸いだろう。
不意にウェンディが地図を仕舞う頃には、彼は基地内の大まかな構造を把握していた。
「隠し金庫なんて、一体どこにあるのかしら。ねぇ、あなたはどこにあると思う?」
「知らない」
「素っ気ないわね。少しは考えてくれてもいいのに」
「興味ないんだけど」
「そう言わずに。どうせこれから暇になるわよ」
フンと鼻を鳴らしてそっぽを向き、少ない情報でキリは思考を巡らせる。
如何にして逃げるか。重要なのはそれだけだ。
牢屋に入れられてからでは逃げるのが難しくなる。だが手錠をかけられて全身も濡れている今、逃げるどころか派手に暴れることさえ不可能な状態。本当に助かりたいのなら今は耐え、体と服が乾いた時を狙って動き出す他なさそうだ。
基地に入れば牢屋に入れられることだろう。
今よりずっと逃げにくくなるが、そこで状況を見るしかなさそうだと考えた。
ひとまず体から力を抜いてドニーへもたれかかる。
どちらにしても力は入らない。今は抵抗するだけ無駄、嬉しそうにしている彼の柔らかい体毛と肉を肌で感じ、しばし不服そうに辺りを眺める。
彼女が家族だと語る動物は他にも二匹いる。
傍の欄干にはカラスが停まり大人しくしていて、ワニは船の傍を泳いでいる。
想定外の襲撃を受けて、衝撃は今も尚大きい。
逃げ出す場合、彼らに見つからないことが大前提だろう。巧みな連携を警戒するのは当然だ。
彼の視線に気付いたのか、ウェンディが視線を動かす。
近くに居たカラスへ目をやり、腰に手を当てて笑顔で言った。
「そう言えば知らなかったかしら。紹介するわ。カラスの方がヒュー、ワニがスーン。二人とも私の家族よ。おじいちゃんが現役だった頃、一緒に仕事していたの」
「有難くない存在だね、海賊からすれば」
「大抵そう言われるわ。良い子たちなんだけど」
「さっき殺されかけたけどね」
「本気じゃなかったわよ。彼らの目的は海賊を捕縛することだから」
「ハァ、ほんと、めんどくさい……」
溜息をつくキリを眺め、ウェンディが呟く。
「もうすぐ着くわ。あなたは一度、あそこへ預けられる」
「一度?」
「あとで私が本部へ連れていくのよ。だけど以前船を壊されたし、逃げられないために用心して最強の砦に預けておくの。賢いでしょ?」
「あーそうですね。こりゃ逃げられなさそうだ」
「脱獄したい気持ちは山々でしょうけど、気をつけた方がいいわ。この要塞を指揮するのは海軍大将“赤犬”子飼いの将。そう簡単にはいかないでしょうね」
その一言を聞いてキリの眉が動いた。
目敏く観察するウェンディも様子の変化に気付く。
「耳にするだけでも厄介そうだね。赤犬の知り合いか」
「ええ。頭の良さじゃ中将の中でも群を抜いてる。でも上司よりよっぽどやさしいけどね」
「すぐに死刑はない?」
「大将に見つからない限りはね」
小さく嘆息。
ドニーに体重を預けたキリは天を仰ぎ、目を閉じた。
目的地が近くなっている。到着は時間の問題で、今更何をしようと結果は変わらない。ならば無駄な抵抗の一切をやめ、来るべき時に備えよう。
緊張感もなく、キリは眠ろうとさえしていたようだ。
その態度に驚いたウェンディは苦笑し、大した胆力だと判断する。
「寝る気? もうすぐ到着よ」
「別にいいでしょ。ボクは海兵じゃないんだから」
「確かにそうだけど、もう少し話に付き合ってくれてもいいじゃない」
「いやだね。海賊は自由なんだ。好きな時に好きなことをする」
ふてぶてしくそう言われれば、ウェンディは肩をすくめる。
「そう。残念」
視線を外し、前方を見る。
海軍要塞ナバロン。その威容は徐々に近付いていた。
誰も見ぬ間の一瞬に、迫力あるそこを目にしたウェンディは不敵に微笑む。
この後、彼女が乗る船はナバロンへと到着する。
秘密裏の着港であったが捕縛した海賊は受け渡し、彼女だけは基地長の部屋へ向かった。
*
ナバロンの基地は広大であった。
地上に設けた建物は四階ほど。普段海兵たちが過ごすのもここであり、大抵の物が揃っている。
広大と呼ぶべきなのは島の土壌を利用して穴を掘り、島中に要塞の設備を利用した、地下空間が存在しているからである。地下には何層もの空間が用意されており、そこもまた彼らの基地だ。
とはいえ、ウェンディが用があるのは基地長の部屋。
地下には下りず、地上にある建物へ赴く彼女は早くもその一室を見つけていた。
扉をノックし、静かに待つ。すると室内から渋い声がやってきた。
「入ってくれ」
「失礼します」
ドアノブを捻り中へ入る。
正面に幅広の机。椅子に座る中年の男性が居る。
赤茶けた短髪にしっかりとした口髭を蓄え、無感情にウェンディへ目を向ける。
彼女は真剣な表情で敬礼をすると、自ら口を開いた。
「海軍本部より参りました、監査役のウェンディです」
「ああ、来てくれたか。わざわざ来てもらってすまない」
「いいえ、これも仕事ですから」
笑いかけてくる彼へ微笑み返し、ウェンディは肩の力を抜いた。
海軍G-8支部基地長、海軍中将のジョナサン。
大将“赤犬”の下で多くを学び、直属の部下として知られる彼はナバロンの司令官として知られ、その名を広く世間に知らしめている。優れた戦略眼と指揮能力を持つ厄介な人物であった。
その厄介さは敵に対してだけでなく、時に味方にも作用する。
ウェンディが注意深く観察するのも当然だった。
そんな彼女の様子を眺め、どう判断するのか、ジョナサンは微笑みを崩さない。
緊張感のある室内で呑気に座っているようにしか見えなかった。
「もう話は伝わっているかね。このナバロンを調査してもらいたい」
「心得ています。裏帳簿の存在と、隠し金庫でしたか」
「そうだ。前々から違和感があったが調査し辛い環境でな。私が動くのには無理があった」
「と言うと?」
「こう言ってはなんだが……おそらく私に近い人間の誰かだろう。地位から考えても資金の流れを変えられる人間は限られる」
「つまり疑いはすでにバレているのですか?」
「可能性はある」
ジョナサンは海軍きっての知将で知られる。少なくとも中将の中では頭一つ抜きんでていてもおかしくはない。その彼が依頼してくること自体、おかしいとは思っていた。自分で見つけられるのではないかと考えたのだがどうやら理由があったらしい。
ナバロンの中に潜む犯罪者は、ジョナサンに近く、それなりの地位にある。
近くに居るというからにはジョナサンが疑っているのにも気付いているかもしれない。自分で調べ始めれば間違いなく何かしらの動きがあり、秘匿する行為に走るだろう。
それでもやりようはあるかもしれないものの、あくまで平和的な解決を望んだのか。
ウェンディを頼ったのは、外部の人間がやるべきだと判断したからだ。
事情は理解した。だが知るべきことは他にもある。
彼は一体どこまで知っているのか。
頼りはするが焦ってはいない。のほほんと茶を飲む程度にはいつも通りの日常を過ごしている。
調べて欲しいとはいえ時間を気にする訳ではないのだろう。
多くの人間を見てきたウェンディはすでに判断していた。
おそらくジョナサンは、犯人に心当たりがある。気付いていながら黙っているのだ。
微笑を湛えて、優雅にティーカップを傾ける仕草。
心から落ち着いてそうしているのなら食えない相手だ。
口角を上げるウェンディは至って冷静に問いかける。
「ちなみに中将殿は誰だと予想しますか? 近くに居るなら尚更気付かないはずないでしょう」
「んん、難しい質問だ。こんな辺境の地で長く時間を共にしてきた仲でな。できれば疑いたくはないからかな、判断ができずにいるのだよ」
「お優しいんですね。部外者とはいえ尊敬しますわ」
「ありがとう。なに、君にも大事な部下は居るだろう。同じ気持ちだよ」
やはり食えない男だ。
心底嬉しそうに、と見せかけて笑うウェンディは面倒に想っていた。
「いきなり仕事の話ですまないね。本当ならユーモアのある話でもしたいのだが、いやはや、これが中々難しい。ここも閉鎖的で外部の人間と触れ合う機会がないのでね。もう少し色んな人間と話すべきなのだろうか。ふむ、演習でも企画してみるのもいいかもしれない」
「中将殿は十分ユーモアのある方ですよ。そんな必要はありません」
「そうかね? うむ、だとすれば嬉しいのだが」
一体どんな腹の内でそう言えるのか。一度その中を見てみたいものだ。
そうは言わず、笑みを絶やさずおざなりに答え。
本題に戻すべきかと考えるウェンディへジョナサンが続ける。
「近頃、と言うよりもうずいぶん長くか。海賊と会う機会がないせいでここもずいぶん気が緩んでしまっている。部下たちも頑張っているのだが中々上手くいかなくてな」
「辛抱強くやるしかありませんよ。突発的に変わることは難しいですから」
「ふむ、確かに」
「ただ、そうですね。ここが海賊に襲われて窮地に立たされれば、少しは兵士諸君の意識が変わる可能性もありますが」
にこやかに言うウェンディに対し、ジョナサンは肩を揺らして笑った。
「ハッハッハ、まさにその通り。だが今日のことだ。何やら海賊が大挙してこの基地へ集まり、その全てを打ち負かした。今頃は牢屋に大勢の海賊が収監されているよ。だから窮地に立たされるというのも狙ってできることではないのだ」
「そうですね。人生、上手くいかないものです」
「しかし、そうだな。もしもこの基地にかつてない混乱が起これば、皆の意識は変わることになるだろう。それがたとえどんな形であっても」
瞬間的に笑みが薄くなり、ジョナサンの表情は真剣みが増す。
やはり中将の地位。生半可な覚悟で基地長の椅子に座ってはいないようだ。
どうやら彼は不測の事態であり、海軍にとって恥ずべきこの一件を好意的に見ているらしい。
その勝率とは裏腹に閑職とも言われるその場所で、革命を起こそうとでも言うのか。確かに彼の目は本気で、のほほんとした様子は消え去り、迫力を感じる。
ようやく腹の内の片鱗を見せた。
それでも全てではないだろうものの、ウェンディも静かに笑みを消す。
「ここは広い。苦労することになるかもしれないが、よろしく頼む」
「わかりました。精一杯の努力はします」
「しかしもう夜だ。ここまでの航海で疲れているだろうし、何より睡眠不足はお肌の天敵になるだろう。ひとまず今日のところは休んではいかがかな?」
思わずホッとする笑みを浮かべ、ジョナサンはやさしく語り掛けた。
ころころ表情が変わる。だが子供と違って可愛げはない。
それらを全て武器として使える辺り、彼も立派に厄介な人間だ。
「そうですね。実を言うと少し休みたいと思っていたところでした。では、せっかくなのでお言葉に甘えさせていただきます」
「そうしてくれ。大変な仕事になるだろうからな」
「明日の朝から仕事を始めます。ですが、できれば私の存在は内密に」
「うむ、わかっている。監査役は大変だな」
「自分でもそう思いますわ。けれど祖父の背を見て育ちましたから、これが一番肌に合っているんです。大変ではありますが、その分やりがいもありますし」
「どうやら見習わなければならないのはこちらだな」
きっぱり言い切る姿に感嘆し、そう言ったジョナサンは心からそう思ったのだろう。短いが、それは自分より若い彼女へ対する称賛だった。
ウェンディはその言葉を受け取り、踵を返して扉の前へ立つ。
そこでもう一度振り返り、退室の前にジョナサンへ向けて敬礼を行った。
「それでは失礼します。報告はまた後日」
「こちらはゆっくりやってもらって構わない。良い結果を期待しているよ」
「了解しました。では」
部屋を出て廊下に立ち、扉を閉める。
その瞬間にウェンディは聞こえないよう溜息をついた。
歩き出してから頭を働かせ、思考の内で様々な言葉を並べ始める。
面倒な男だ。協力する気があるのかないのかわからない。
ジョナサンに対する信用はない。彼女が監査役として優れているのは、相手の人柄によって意見が左右されない部分に表れる。感情論を持ち出しては公平に判断できない場面もある。海軍を正す者として、可能な限り公平に見ようと心がけていた。
特にジョナサンなどは頭が回る。何を考えるかを悟らせないのが恐ろしい。
彼が悪事を働くのは想像できない反面、注意しなければならないと判断していた。
一人廊下を歩くウェンディは考える。
しかし、自分もまた清廉潔白ではない、と。
正しいか、そうでないか、それを決めるのは己の判断基準だ。広い世界で統一することなど決してできず、また決して自分が最も正しいと思い込んではいけない。かと言って他人を信用してばかりでもいけない、疑い過ぎてもいけない。祖父の教えは難しかった。
ウェンディは公正であろうとしながら、その実絶対に正しくあろうとはしていないのである。
無人の廊下を眺めて、小さな溜息を一つ。
今回もまた大変そうな任務だと思う。
下手を打てば時間がかかりそうなものの、考えようによってはチャンスでもあり、上手くいけば早く済む可能性もある。今は、ささやかな希望に縋るしかないらしい。
「あーあ、めんどくさいなぁ。でも今は叱ってくれる人も居ないし、私がやるしかないのね」
少し後悔も含みつつ呟き、やれやれと首を振って嫌がる感情をアピール。
しかし無人の廊下では誰も声をかけてくれなくて、彼女は不承不承に足を動かした。