ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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ゴール目前

 サラマンダー号がパルティアの全景を遠目に捉えた時、すでに日は落ちた後だった。

 波間は奇妙なほど穏やかで、辺りを走るのは一隻のみで、他の参加者の姿は見えない。

 

 甲板からゴールを見たガスパーデはつまらなそうに嘆息する。

 最短距離を全速で走ればもっと早く到着したかもしれない。この時間になったのは敢えて速度を落としていたため。勘のいい海賊が後を追ってくるかもしれないと思ったからだ。

 結果として、そんな海賊はおらず、戦闘は一度もないまま終わってしまう。

 これをつまらないと考える彼は残念がる様子だった。

 

 大規模なレースでありながら、ゴールへ辿り着けそうなのは一隻だけ。

 つまらないと思うし、だらしないとも思う。

 失望したとばかりに険しい表情のガスパーデはこの結果に満足していなかったようだ。

 

 「結局ついて来れる奴は居なかったな。海賊レースも大したことはねぇ」

 

 退屈そうに呟いてしばらく。

 近くにあった階段へ腰掛けて落ち着いた後、彼は傍らに居た男へ声をかけた。

 

 「どうだニードルス。暇潰しにおれとやり合ってみるか? 今ならおれを殺せるかもな」

 

 ニードルス、と呼ばれたのは長身の男だ。

 黒い服に身を包み、腰の裏には爪のような武器を提げ、筋肉質な腕が露わになっている。背筋を伸ばして立っているのだがまるで幽鬼に見え、存在感はどことなく希薄な気がする。肌は青白く、目には生気が感じられない。言わば暗殺者然とした風貌だ。

 

 彼はガスパーデの右腕として船に乗り込んでいた。しかしその眼差しに尊敬の念は感じられず、押し殺してはいるが目の奥には殺気すら感じる。

 ガスパーデもそれを当然としていた。

 見るからに信頼関係など築いていない関係だ。

 いつしか戦闘を感じさせる雰囲気が漂っていて、ガスパーデはにやりと口角を上げる。

 

 ニードルスの手が、腰に提げていた武器を装着しようとしていた。

 そんな折にメインマストの上から部下の声が聞こえてくる。ニードルスの手は止まり、ガスパーデの視線が上へ向かった。

 

 「船長! 前方に船が!」

 「何? 船だと」

 「海の中からです!」

 

 立ち上がったガスパーデが船の進行方向を眺めると、進路を塞ぐように船が現れていた。

 海中から水を押し上げ、顔を出したのは潜水艦。側面にはジョリーロジャーが描かれており、それが海賊船なのだと一目で理解できる。

 やっとガスパーデが嬉しそうに笑みを緩めた。

 

 それこそ望んでいた物だった。

 所詮レースはただのゲーム。自分が楽しむだけの余興に過ぎず、勝って当然。

 自身の勝利は当然として、それまでの過程でどれほど楽しめるかが興味の対象だった。

 

 身を乗り出す彼の視線の先、完全に浮上した船の扉が開いた。

 中から一人の男が現れる。

 

 甲板に立った顔には見覚えがあった。別段興味もなかったがレース参加者の手配書を確認し、その中でも特に話題性がある人物だと聞いている。

 ハートの海賊団船長、“死の外科医”トラファルガー・ロー。

 刀を肩に担ぎ、俯いた状態で船の先端まで歩いてくる。どことなくふてぶてしく、自身より懸賞金が上であるガスパーデを相手に恐れていない風だ。

 

 相手にとって不足なし、といったところか。

 驚きの声を発する部下たちへ振り返る彼はひどく上機嫌だ。

 やっと巡ってきたチャンス、楽しまないという選択はあり得ない。

 決して大きくはない声で命令を下し、耳にした部下たちが慌てて動き出した。

 

 「総員戦闘準備。相手をしてやれ」

 

 雄々しく吠えて準備を始める一同を見た後、視線は再び前方の船へ。

 すでに甲板にはロー以外の面子が立っていた。

 だがそれ以上に気になったのは、ゆっくりとローが左手を上げたこと。何でもない動きだが妙に気にかかる。ガスパーデは笑みを消してじっとその様を見ていた。

 

 「ROOM」

 

 甲板へ向けられた掌から異様な物が現れる。彼を起点に広がったのは巨大なサークルだ。

 青い半透明の膜で半月状。

 ローを中心におよそ半径百メートル。

 ハートの海賊団の船、潜水艦ポーラータング号とサラマンダー号を包み込み、全く未知の空間がその場に姿を現していた。

 

 おそらくは悪魔の実の能力なのだろう。

 冷静に辺りを窺ったガスパーデは対処しようとせず眺めていた。余裕の表れでもあったらしい。

 まだその意味を理解できていなかった様子だ。

 

 サークルを広げた後、緩慢な動作でローが刀を抜く。

 身の丈ほどもある規格外の長刀、“鬼哭(きこく)”である。

 

 抜き放たれた刀身は異様な雰囲気を纏っており、いわゆる妖刀と呼ばれる一品、見る者が見れば一目で気付く危険さがあった。

 抜きはしたが敵船までは距離があって、どれだけ長かろうが届くはずもない。

 それを理解した上でローは刀を振るった。

 

 そしてガスパーデが驚愕する。

 刃が届かない距離であったはずだが、スパンと軽々船体が両断されたのである。

 サラマンダー号は真っ二つに切り裂かれて、それどころか海まで割れていた。縦に割られた船体は凄まじい音を立てて海に呑み込まれていき、轟沈してしまう。

 辛うじて片側、ポーラータング号から見て左側はまだ沈んではいない。

 しかしそこもまた青いサークルの内側であった。

 

 刀を振り抜いた姿勢で静止し、船が壊れたことを確認してから鞘に納める。

 背筋を伸ばしたローは冷たい眼差しでサラマンダー号を見ていた。その隣にはキリの姿があり、後方にはハートの海賊団の仲間たちがずらりと並ぶ。

 

 「変な能力だね。ずいぶん派手にやったもんだ」

 「おまえも人のことは言えねぇだろ」

 

 へらりと笑うキリにローが答え、やけに気の無い声だった。

 その後キリが背後を振り返る。

 

 「シャチ、ペンギン、アレは?」

 「おう、持って来たぜ。小麦粉」

 「しっかしこんなもんで勝てるのかねぇ」

 「情報通りならね。試してみるさ」

 

 帽子を被った二人の青年、シャチとペンギンは大きな袋を運んで地面に置き、あらかじめ頼んで用意してもらった物のようだ。それを見たキリは満足そうに頷く。

 

 一方で沈みかけているサラマンダー号の上では、ガスパーデの怒号が響き渡っていた。

 辛くも海に落ちることを免れた彼だが、船が壊れては航海を続けるのは不可能。突然の事態が呑み込めない様子で喚いており、部下の大半が海へ落ちた甲板を見渡していた。

 

 「クソっ、何があったァ! 誰か報告しやがれ!」

 

 返ってくる声は一つもなく、代わりにそこら中で悲鳴が上がっている。

 海に落ちた者たちが多いようで、辛うじて船の各所に掴まっていた男たちも、傾きが増していけば耐えられなくなって落ちていった。

 かつてガスパーデの船にこれほどの危機があった経験はない。

 部下たちは当然、今や船長でさえ狼狽し、冷や汗を掻いて顔色が変わっていた。

 

 たった一瞬、訳が分からない間に終わってしまった。

 彼らのレースはここで終わりだろう。もう一歩も前に進めなくなったのだ。

 

 愕然として辺りを見回し、真横を向いてしまった船体でなんとか足場を見つけてよじ登り、冷静な思考を取り戻す前に気配を感じた。不意にそちらへ目を向ける。

 いつの間にか、彼を見下ろす位置にその二人が立っていた。

 ローとキリの二人が冷徹にガスパーデの姿を見据えていたのである。

 

 「やはりてめぇらか……!」

 「準備はいいか?」

 「いつでもどうぞ」

 

 憎らしげな叫びを受け流して、二人は互いに視線を交わした。

 直後、ほぼ同時に能力を使用する。

 

 「ROOM」

 「またこれかッ」

 

 一度は消えたはずのサークルが再び広げられる。

 ローを中心として、傾いた船体の全てが包み込まれた。

 時間にして一秒足らず。凄まじい速度で逃げ出す暇もない。すでにガスパーデの身はローが支配する空間の中にあり、その場に居る危険性をまだ正しくは理解できずにいた。

 

 サークルが展開されると同じ瞬間、両手を広げたキリが空へ紙を飛ばしていた。

 数枚の紙片が絡み合いながら飛んでいく様はあまりに奇妙。それらは手を触れずとも独りでに形を変えていき、気付けば折り鶴になっている。

 空に浮かんだ折り鶴は数え切れぬほど。

 一つ一つは小さいが、辺りを取り囲んだ光景は恐怖するに値する物だ。

 

 「百式武装“千羽鶴”」

 

 辺りを取り囲む折り鶴を見てローがわずかに鼻を鳴らす。

 対照的にガスパーデは信じられない物を見たという表情となり、辺りをきょろきょろ見回す。見るからに動揺した姿であった。

 

 「なんだこりゃあ。一体何をおっぱじめようってんだ?」

 「もう想像はできてるでしょ」

 

 微笑むキリが右手の指を振ると、その動きに応じて滞空していた折り鶴が動き出した。

 翼を広げて空を飛ぶ様はまさしく鳥その物。

 その内三羽が速度を上げてガスパーデへ飛来した。

 

 たかが紙だ。避ける必要はないと判断する。

 ガスパーデの顔面と首筋、胸に三羽の折り鶴が強く激突する。しかし彼は呻きもせずに突っ立ったまま、まるでダメージを受けていなかった。衝突の影響で肉体が変化していたのである。

 肌もその下にある筋肉も、瞬時に緑色で粘度の高い液体に変化した。

 まるでスライムにも似た感触と外見。ぶつかった紙は硬度を失くしてひらりと落ちて、彼自身は勝ち誇る様子でにやりと笑っていた。

 物理的な衝撃は全て奇妙な肉体に受け流されてしまったらしい。

 

 ガスパーデもまた、悪魔の実を食べた男である。

 アメアメの実を食べた水飴人間。彼の肉体は全て水飴で出来ており、ただ物体がぶつかった程度では痛みを感じることもなく、受け流してしまう。打撃や斬撃もまた然り、だ。

 その特性を武器とするガスパーデは敢えて避けなかったのである。

 

 一時は動揺もしたが、よく考えれば自身に攻撃を当てられる人間など居ない。そう思い直した彼は即座に冷静さを取り戻した。浮かぶ笑みには余裕も戻ってくる。

 

 船は壊れてしまい、足場も悪く、敵は二人。しかしそれがどうしたというのか。

 佇まいを直したガスパーデは足元に落ちた折り鶴を踏みつける。

 奇妙ではあるがただの紙。恐れることはない。

 

 「フン、無駄だ。そんな攻撃じゃおれには通用しない」

 「どうかな」

 

 不敵に笑って意にも介さず、さらにキリが指を振る。

 再びいくつかの折り鶴がガスパーデへ殺到し、彼自身は冷めた目をしてそれを眺めた。

 

 腕に、脚に、背に当たるがやはりダメージはない様子。当たった部分が水飴に変化して、一時は抉れるもののすぐに元通りの形に直る。

 ガスパーデは勝ち誇り、次の折り鶴が迫っても動こうとはせず。

 しかし今度もまた全く同じという訳ではなかった。

 

 右手を掲げ、三本だけ指を伸ばしたローが小さく呟いたのである。

 

 「シャンブルズ」

 

 死角を狙ってガスパーデの脳天へ突進する折り鶴があった。奇妙な光景があったのはそこだ。

 衝突まであと数センチという距離、突如その折り鶴が消えてしまい、代わりにキリの足元に置かれていた大きな袋が現れる。まるで位置が入れ替わったかのように、気付けばキリの足元にはそこになかったはずの折り鶴があった。

 ガスパーデが気付き、見上げた時にはすでに遅く。

 別の折り鶴が袋を突き破り、中に詰まっていた小麦粉が辺りへばら撒かれた。

 

 真下に居たのだからガスパーデが頭からかぶるのは当然。

 相当の量だったようで全身が白く染められてしまう。

 落ちてくる粉に器官をやられ、咳き込んでもいた。だが目立った変化はそれだけだ。相変わらずダメージはない。苛立ちを露わにする目は二人を捉える。

 

 「つまらねぇ真似を……てめぇらの能力か? これでやれる気だったのかよ」

 

 何も答えずキリが歩を進める。

 周囲の折り鶴は使わずに、懐から取り出した新たな紙で武器を作った。右手に持つのは何の変哲もない棒。槍ですらなく、刃を持たない殴打のための物質だ。

 くるりと手の中で回し、独りでに動く折り鶴の上に足を置き、足場とする。

 笑みを浮かべて余裕を感じさせていた。彼は悠々と歩いてくるのである。

 

 「多分刃物で切るより面を叩いた方がいいよね。特にその小麦粉が付着した部分」

 「あぁ?」

 「攻撃、効かないんだよね。試させてもらっていいかな」

 「ハッ、馬鹿馬鹿しい。まだ理解できちゃいねぇのか。殴れんもんなら殴ってみろ」

 

 折り鶴を蹴り、軽く跳んでキリがガスパーデへ襲い掛かる。

 紙製とはいえ振り上げられた棍棒は鉄のように硬い。それを知らぬだろうガスパーデは避ける素振りを見せず、勝ち誇った笑みで迎え撃つつもりだった。

 

 そして、強かに左頬が殴られた。

 高速で振り切られた棍棒が確実に彼の肉体を捉え、衝撃で体が浮いてしまう。

 想定外の状況だった。殴り飛ばされた体は為す術もなく甲板を滑り、鋭い痛みが顔にあって、しばし驚愕から動けなくなる。そのせいで海から落ちそうにもなったのだ。

 マストに激突したことでその体は止まった。

 海に落ちずに済んだのだが、そんなことさえどうでもいいのか、顔を上げたガスパーデは驚きを隠せぬ顔でキリを見やり、笑みを湛える彼に背筋を震わせた。

 

 何が起こったのか理解できない。その体は肉弾戦において絶対の強さを誇り、実を食べてから痛みを感じたことは一度もなかった。カナヅチになったことは弱点として認識しているものの、言わばそれだけ。戦闘における弱点は一つもないと認識していたというのに。

 

 なのに、彼は。

 出会ったばかりのキリは早くもガスパーデに痛みを感じさせていた。

 

 何年振りかに感じた痛みで心が荒れる。

 大した敵だと思わなかったキリの姿に恐怖してすらいた。

 長年最強であった彼は、敗北を知らない。それだけに自分を脅かす存在と対面した状況を知らぬままだったようで、今この時がまさにその瞬間であったらしい。

 

 ただ突っ立っているだけのキリが、なぜか恐ろしい存在に見えていた。

 

 「物によって違えど、悪魔の実の能力には弱点がある。カナヅチになること以外にもね。アメアメの実の場合、それが小麦粉だ。固めてしまえば攻撃を受け流せない」

 「なんだと……!?」

 「情報は命を握る物だよ。能力をひけらかすべきじゃなかったね」

 

 慢心が生んだ結果か、確かにガスパーデは自身の能力を隠すようなことはなかった。

 敵の攻撃を正面から受け、驚く顔を見て気分を良くする癖がある。

 勝ち誇り、力を誇示し、圧倒的な力で打ち負かす性質にあった。

 そのため自らの保身を考えず、勝利を求めながら自身が考えたゲームを行うことも少なくない。

 

 “将軍”ガスパーデの名が広がる度、無条件で彼らに降伏する敵も増えていった。その度に“将軍”の噂は世間を駆け巡り、その能力、異常性、強さは知れ渡ったのである。

 その結末がどうなるかを考えることもなく、ガスパーデの快進撃は続いたのだった。

 

 食べた実の名前がわかっていれば対策も立てやすい。

 今や敵に勝ち誇る隙も与えず、キリの目は冷徹にガスパーデを見つめていた。

 

 「悪いけど君を脅威とは感じない。さっさと終わらせよう」

 「たった一発で、もう勝ったつもりか! 舐めるなァ!」

 

 激昂したガスパーデが迷わず走り出した。

 アメアメの能力を使い、右腕は飴状に変質して鋭く尖り、硬化して槍のようになった。

 素早く近付いて刺し貫くだけ。今まで何度も繰り返してきた動作だ。決して負けるような相手ではないと考え直し、正面から真っ直ぐに接近する。

 

 キリはゆっくり歩いて迎え撃つ。

 足取りは穏やかで、全く緊張感のない姿だ。

 

 腕が届きそうになる距離になると、ガスパーデが腕に力を込めた瞬間、棍棒を右手に持ってキリが左手を振るった。指を伸ばし、何かを指揮するように。

 空を駆ける折り鶴がガスパーデへ殺到する。

 狙い澄ました様子で地面に着こうとした足に当たり、その後も肩、腰、側頭に激突して、横から来る衝撃で体勢が崩れたのだ。彼はそのまま転びかけ、その姿を見てから棍棒が振るわれる。

 

 転びかけたところに、顎への一撃。

 下から掬い上げる軌道の攻撃は的確に脳を揺らした。

 凄まじい衝撃を受けたガスパーデは受け身も取れずに転び、無様に地面を這いつくばる。

 

 「ぐおぉ、おおっ……!?」

 「寝てていいの?」

 

 素っ気なく告げてさらに追撃。

 倒れた彼の体を数度打ち、胸に、腹に、腰に、再び顎に激痛が走る。

 耐え切れずに自ら転がって逃げ出し、ガスパーデは慌てて彼の傍を離れた。

 

 久々に味わう激痛が体を驚かせている。当たった部位もそうだが体から力が抜け、視界が揺れて異様な景色を目の当たりにしている。今まで見たことのない世界だ。

 

 立ち上がろうとするが力が入らず、しゃがみ込んでしまう。

 攻撃は確実に当たっていた。もはや一撃たりとも受け流せていない。

 脂汗を流す彼は自身の体を操れなくなっているのか、しゃがみ込んだまましばし動けず、能力を使って体を水飴にすることさえ難しかった。

 

 尚もキリは歩を進め、膝をついて動かないガスパーデへ迫る。

 

 「能力に頼ってるからそうなるんだ。もっと自分を鍛えるべきだったね」

 「ぐっ……! ガキが、舐めた口を叩きやがって――」

 

 苛立つガスパーデの声も空しく、キリは表情を変えない。

 その姿に腹を立てて唐突に叫び出した。

 

 「ニードルスゥ! てめぇいつまで黙ってるつもりだ! さっさとこいつらを始末しろ!」

 

 ガスパーデが叫ぶと同時、どこに隠れていたのか、唐突に姿を現したニードルスが猛然とキリへ襲い掛かった。両手には武器を持ち、狙いは首。一瞬の決着を望んでいる。

 だが彼の実力が発揮されることは終ぞなく。

 宙へ躍り出たニードルスの体は、サラマンダー号と同じく真っ二つに両断された。

 

 「なにっ!?」

 

 声を出したのはガスパーデで、ニードルスの姿に呆然とする。

 上半身と下半身が分かたれていた。

 見ればローが刀を抜いており、彼が斬ったのだろうと予測する。それにしても異質な光景だ。体が分かれたのに血が出ていない。切断面を見ても彼の体内を窺うことはできず闇に包まれている。

 甲板へ落ちたニードルスはまだ生きていて、彼自身も驚愕していたようだ。

 

 何から何まで奇妙な能力だ。

 ローは再び刀を納め、あくまで手を出さずに傍観する姿勢。

 

 だがこの時ガスパーデは勝機を見出していた。

 ローがニードルスを斬る一瞬を見ていて、いつの間にかキリが背を向けている。ガスパーデに無防備な背を見せ、警戒していないのか身構えてすらいない。

 これ幸いと彼の顔に笑みが戻る。

 

 顎を打たれた影響でダメージは大きいが、なんとか腕を変化させることはできた。

 槍の穂先のように鋭く尖らせ、硬化し、突き刺すための武器を作る。

 彼は走り出し、今度こそ逃げられないよう全力でキリの背へと襲い掛かった。

 

 「死ねェ!」

 

 その瞬間、キリの姿がパッと消え、代わりにその場には折り鶴が現れる。

 気付けばキリは背後に居て、すでに棍棒を構えていた。

 ガスパーデが振り返った時には頬を打たれる。凄まじい衝撃に歯が折れて口の中から飛び、鼻血が飛び出して地面へ倒れた。

 

 今度は動きを止めることはなく、即座に起き上がって敵へ向かう。

 立ち尽くして動かないキリを仕留めようと腕を伸ばした。

 

 今度こそ仕留める、そう決めていたが先程見た光景だ。

 伸ばされた右腕は折り鶴を一つ貫いただけで、またもキリの姿はなく。

 驚く暇も与えず右側から腹を殴られ、気付けば棍棒が振り抜かれた後だった。

 

 耐え切れずに背中から倒れ込む。もはや足が震え、体勢を立て直すことすら難しい。それでも死力を尽くすガスパーデは立ち上がって駆け出した。

 こうなれば意地だ。自身の生命や勝敗より、単純に負けたくないという意志が強くなっていた。

 腕を振るって体を両断してやろうとする。

 当たれば仕留められるはず。それでもやはりキリの姿は忽然と消えて折り鶴だけが残された。

 

 今度は背後から、脳天に棍棒が落とされて激突した。

 全身にビリビリと走る電撃のような衝撃。死すら近く感じる一瞬だった。

 力が抜けて意識せず膝から崩れ落ち、うつ伏せになって倒れる。

 命の危険を感じて、急所への攻撃は着実に彼の動きを封じているに違いない。

 

 倒れたままでガスパーデの目はキリを睨みつける。

 冷たい視線を向けられ、侮辱と感じてさらに怒りが燃え上がった。

 

 「て、めぇ……ふざけた、真似を」

 

 力のない声にも反応はない。キリは冷淡に見つめるのみ。

 必死に全身へ力を込め、腕を突っ張って起き上がった。

 立ち上がるのには相当の力が必要だったが、まだ諦めるつもりはない。船は壊れ、部下は海へ落ちていき、自身の右腕たる人物はあっさり両断された。それでもまだ負けは認めない。

 最後の力を振り絞ったガスパーデは全身の皮膚を水飴に変え、鋭利な棘を作り出した。

 

 「ガキどもに負けるおれじゃねぇんだ! 殴れるもんなら殴ってみろォ!」

 

 それは全身が武器となった姿。ただの体当たりに強い攻撃力を持つだろう。

 駆け出したガスパーデは最後の特攻を行おうとする。

 対するキリは棍棒を捨て、バラケた紙は彼の手を離れて辺りへ広がった。

 

 前方から向かってくる無数の紙に、視界が阻害されるがどうでもいい。

 ガスパーデは愚直にも一直線に走り続けた。

 

 「オオオオォッ!!」

 

 硬化した全身にダメージを与えられるものか。

 そんな自負から鉄のように硬い紙の棍棒にも耐えられる自信があった。今となっては誰も自身に傷をつけることはできず、痛みを与えることはできないと。

 妄信的な自信を頼りに速度を速め、彼は飛んでくる紙を跳ね除けてその先へ出た。

 

 視界が開け、人物が見える。しかし居たのはキリではない。

 前方に立っていたのはローであり、キリはさっきまでローが立っていた位置に居た。

 

 一瞬の驚愕が二人のやり取りを変える。

 素早く刀を抜いたローはおもむろに地面を蹴り、ガスパーデへ襲い掛かる。そして動揺と逡巡がこれに反応する動きを阻害し、回避の行動は奪われていた。

 

 「ラジオナイフ!」

 「ぐおおおおおぉっ!?」

 

 素早く数度の斬撃を繰り出し、硬化されたガスパーデの体がいくつかのパーツに切り裂かれた。

 切り取られた断面図は緑色の水飴。血は流れず、そこから水飴が流れ出すこともない。だが異様だったのは、本来流動体となるはずのその体が、己の意志で接合できないこと。

 バラバラになって地面を転がり、痛みを感じることなく動けなくなる。

 

 まだ死んではいない。痛くもない。

 一方で敗北が決まった瞬間だと自覚していた。

 悔しげなガスパーデの前で、これ見よがしにローが刀を振り上げた。

 

 「無駄だ。ラジオナイフは切断(アンピュテート)とは切り口が違う。たとえおまえが能力者でも、数分の間は如何なる処置でも接合することはできない」

 「ば、バカな……!」

 「こんなもんか。海賊の将軍とやらは」

 

 縦に真っ直ぐ振り下ろし、刀身は届いていないものの、そこはサークルの内部。ローの動きによりガスパーデの顔が真っ二つに切り裂かれた。それで死ぬことはないし、本人は痛みさえ感じていないが、口も舌も喉も二つに分けられてしまったため、それ以上はしゃべれなくなったらしい。

 死んでいないものの死体のような様相で、バラバラになったガスパーデが転がされたまま。

 今度こそローは刀を納めた。

 

 感慨はない。大した相手だと想わなかったからだ。

 事前にキリが情報を集め、弱点を知っていたからとも言える。

 今回はそれに加え、互いの能力による連携も効果があり、存外相性が良いことを知った。

 

 ローの能力はサークルを生み出し、内部にある物を操作することに強みがある。

 ガスパーデを翻弄した、位置の入れ替えはその一つに過ぎない。はっきり言って彼の能力の真価は別の部分にあるとはいえ、大量の紙を操り、如何なる場所にも移動できるようサポートするキリが居れば普段以上の有力性が発揮されるのだろう。

 

 恐るべきは、船内で語った折、ただそれだけで勝機を見出した部分にある。

 まだ彼を信用していないローは敢えて手の内を隠した。彼の能力が持つ特性はまだ他の部分にあると言っていい。だがキリはそれ以上を望まず、深追いしようとしなかった。

 位置の入れ替え自体は回避と奇襲にしか使えないため、最も秀でた力とは言えない。

 それでも彼のペラペラの実と連携した時、常に敵の死角を突くことができるのに感心した。おそらく話を聞いただけで理解したのだろう。自身が手を貸せば更なる強みになり得ると。

 

 表情こそ緩んでいるが頭は回るようだ。

 自身の力もあったとはいえ、少なくともローが見るキリの姿は些か変化していた。

 

 動けないガスパーデから目を離し、ローは先程まで自分が居た場所、キリを見上げる。

 何を見るのか、彼が居る方向は眺めず少し驚いた様子。

 ローに目をやった時、キリは沈みゆくサラマンダー号の足元を指差した。

 

 「ねぇロー、あれ」

 「あ?」

 

 示された方向に目を向ければ、海面を泳ぐ老人が居た。泳ぐ人間だけなら先に落ちた海賊たちも居るのだが、その中で明らかに異質。体中に浮き輪をつけて必死な形相をしている。

 船が破壊された折、ボイラー室から外へ放り出されたビエラだ。

 年齢や外見からしても海賊ではないだろう。それくらいは一目で理解できる。

 その異質さに注目したキリがローへ提案した。

 

 「海賊じゃなさそうだし、せっかくなら助けてあげようか」

 「本気か? 関係のねぇ人間だろう」

 「チャンスがあれば恩を売っといた方がいいよ。どこで恩返しがあるかわからないから」

 「フン……」

 

 そう言って彼は空に広がっていた折り鶴を能力で回収し、船の下部へ向かっていく。

 気付いたガスパーデの部下が慌てて逃げ出すも彼らには興味がない様子だ。

 自身が最も海を苦手としていながら、全く恐れずにビエラの下を目指す。

 その姿を見てローは嘆息した。

 

 正義や悪ではない。まだ彼を図り切れずにいた。

 少なくとも今すぐ理解した気になっていい相手でないことはわかる。

 

 用心しなければならない人間であることは理解した。今はそれだけでいい。

 彼が敵になる事態があれば、或いは最も警戒しなければならない人物かもしれない。

 帽子を押さえて俯いた彼は沈んでいく船の上、鋭い視線でキリの背を眺めていた。

 


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