ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

134 / 305
侵入者

 グランドフォールを乗り越え、ハンナバルを抜けた船は一心不乱にゴールを目指していた。

 一時に比べて戦況は穏やかになり、メリー号は先頭集団を離れ、敢えて後方に陣取っている。危険な戦闘をできるだけ避け、ゴール間近でスパートをかける算段だ。

 

 そのため以前に比べれば穏やかな航海が可能となる。レース中とはいえ船員たちの表情も明るくなっており、普段臆病なナミやウソップも意気揚々といった様子が強い。

 いずれはまた激しい戦闘争いに加わるとはいえ、今はまだ砲撃の音も遠く。

 やっと一息つけた面々は肩の力を抜いていた。

 

 「さて、この先が正念場ね。準備するなら今の内よ」

 「また戦闘にならねぇ内にメシと行くか。おまえら何が食いたい?」

 「肉ぅ~っ!!」

 「そればっかりだな、おまえ」

 

 食事の準備に入ろうとしたサンジにはルフィが叫び、いつもと変わらぬ様子に苦笑する。

 サンジは一人船室へ赴き、普段通り料理を始めた。

 

 レースの最中とは思えぬほどのどかな一時だ。

 波間も穏やかで景色も美しい。

 辺りの美しさに見惚れる余裕もあって、仲間たちも肩の力を抜いている。

 ようやく普段通りの航海ができそうな状態に戻っていたようだ。

 

 その中に一人だけ険しい表情がある。客人として乗り込んだシュライヤだった。

 彼だけは平和ボケする面々の中で、唯一現状に納得していない様子を見せており、思わずナミに声をかけるほど。客人とはいえ忠告を止める気はなかった。

 

 「おい、ガスパーデの件はどうなった? 奴から目を離すなと言ったはずだぞ」

 「大丈夫よ。これだけ離れてればあいつが何してきたって対処できるし、ミシェールさんにゴールまでの距離も確認したから、私の計算通りにルートを進めば一位は間違いない」

 「そういう意味で言ったんじゃねぇんだが……」

 「何よ、まだ文句あるの?」

 「おまえらはあいつを甘く見過ぎてる。何か、裏をかかれなきゃいいんだが」

 

 帽子を目深にかぶって独り言ち、シュライヤはそれでも胸の内を明かそうとしなかった。

 はっきりしない態度なのは間違いない。しかし決定的な意見がないならばいいかと考えて、深く尋ねはせずにナミは彼から視線を切った。

 ガスパーデの企みを知っているなら別だが、彼自身も何が待っているか理解していない様子。

 それならこの場で言い合っても仕方のないことだ。

 

 今は先に確認すべきことがある。

 キリの代わりにナミが指揮を執り、それぞれに指示を出し始めた。

 

 「とりあえず船の損傷を確認しましょう。それぞれ部屋の中を確認してきて。もしさっきのごたごたの間に誰かが密航してたらなんとか対処するように」

 「おまえは行かねぇのかよ」

 「うん。だって怖いじゃない」

 「そんな理由かっ。それならおれだって怖ぇよ」

 「男でしょ。しっかりしなさい、キャプテン・ウソップ」

 「くそぉ、こんな時だけ上手く使いやがって……」

 

 文句がない訳ではないのだが、仲間が動き出してナミは甲板に残る。

 歩き出しながら各自が確認する場所を決め、扉を潜って船の中へ消えていった。

 

 「ゾロは浴室の方を見てきて。私は女子部屋を確認してくる」

 「おう」

 

 シルクに言われ、ゾロは面倒そうにしながら言われた通り浴室へ向かう。

 風呂とトイレが兼用されるユニットバスだ。今は風呂に入る時間でもなく、誰もトイレに入っていないことは甲板で顔を見渡して確認済み。何気なく扉を開けた。

 損傷はない。それだけを確認してすぐに出ようとする。

 しかしその寸前、背を向けた瞬間に違和感を感じた。

 

 改めて室内に向き直ったゾロは表情を険しくする。

 視線の先には水の溜まっていない浴槽。

 自然に手が伸びて刀に触れていた。

 

 違和感の正体はおそらく殺気。そして何者かの気配だ。

 人が隠れるスペースは一つしかないため、もはや視線は動こうとしなかった。

 

 「潜り込む船を間違えたな。相手は選んだ方が身のためだぜ」

 

 もう遅いが、と付け加えて、顔も見えない誰かに話しかける。するともう逃げられないと悟ったようで、ゾロが動き出す前に浴槽から人影が飛び出してきた。

 コンマ数秒の動作で見えたのは両手に持ったピストル。

 ゾロは素早く刀を抜き、一連の動作の中でその武器を弾き飛ばした。

 

 右手の刀でピストルを弾いた直後、左手で敵の首を押さえ、壁へ押し付ける。

 勝敗はそれだけで決まった。

 

 しかし驚愕したのはその時だ。

 

 薄暗い一室で、捕まえた相手の姿をまじまじ見たゾロは表情を歪めて動揺する。

 首元を押さえられて呻いていたのは、まだ小さな子供。

 薄汚い服を身に着けた無力な存在だったのだ。

 

 「うっ、ゲホッ……!」

 「ガキ――!?」

 

 鍛えているとは言っても片腕で持ち上げられるほど軽い体。

 両手を彼の腕に持ってきて必死にもがくのだがあまりに無力。まるで影響はなく、そこから逃れることはできなさそうだった。

 

 呆然としたゾロは思わず自ら手を離す。子供の体は再び浴槽の中へ落ちた。

 激しく咳き込み、子供はへたり込んだまま動かない。

 

 「おまえ……」

 

 不意に呟けば子供はキッと睨んできた。

 気概は上等だが動きは明らかに素人。身なりからしても海賊の類ではないだろう。

 そうでなくとも子供を斬るほど人間を捨てたつもりはない。かつてウィスキーピークで子供の騙し討ちに会った時も、そのパートナーである女性も含めて峰打ちで勘弁してやった。

 

 ゾロは何も言わずに刀を納めた。

 その後すぐに子供の首根っこを掴み、暴れる様子を意にも介さず運び始める。

 

 判断を委ねるならば船長が良い。なんでも自分一人で決めていては一味の崩壊に繋がる。彼はそうして律儀に考える人物だった。

 子供を連れたゾロは甲板へ戻って、その際に生じた驚愕の声は仕方ない物だろう。

 

 

 *

 

 

 メリー号のラウンジに全員が集まっていた。

 サンジが隣接するキッチンで料理をする一方、皆が注目するのは先程の子供、アナグマ。

 部屋の隅で縮こまり、目を血走らせて睨んでくる姿を眺めていた。

 

 「子供相手にひどい男ねぇ。もう少し手加減ってものをできないのかしら」

 「仕方ねぇだろ。ケガさせなかっただけまだマシだ」

 「ゾロひど~い」

 「子供相手に暴力振るうなんて最低よね~」

 「てめぇら……!」

 

 重苦しい空気を切り裂き、口火を切ったナミに続いて皆が話し始める。

 ルフィとウソップはふざけ始めてゾロは少し困った様子。ただし二人に対しては厳しい視線を飛ばしており、決して怯んではいない。

 そんな平穏な空気が徐々に緊迫感を塗り替えようとしつつあった。

 

 だがアナグマは、全く安堵できそうになかった。

 体を小さくして座り込んで、彼らを見る目には敵意しかない。

 よほどのことがあったのだろうと想像させるには十分な外見だ。

 

 シルクやビビ、イガラムといった面々が心配する中、声をかけるのはナミである。

 自身の前にあるテーブルへピストルを置き、さながら尋問するようだった。

 

 「確かに仕方ないかもね。こんな物振り回されちゃったわけだし。ねぇ、どういうつもりだったのかしら? こんな物持って海賊船に乗り込んできたら、殺されたって文句言えないのよ」

 

 叱るような、強い語調で諭すような言葉ではあるものの、アナグマの表情は優れない。視線の厳しさは増していく一方で敵意は揺らがなかった。

 それを見て溜息をつきつつ、ナミは続けて問いかける。

 

 「目的は何? 誰に指示されたの?」

 

 ぐっと拳を握りしめる様が見て取れた。

 気の毒に思ったのだろう、ビビが思わず助け舟を出そうとする。

 

 「ねぇナミさん、この子、体調が悪いみたい。せめて温かい食事を取ってからでも――」

 「殺すためだ……」

 「え?」

 「おまえたちを殺して金を作るためだ! だからここに来たんだ!」

 

 意を決した様子でそう叫ばれる。

 アナグマは気が逸ったのか息を切らし、肩を怒らせて主張していた。

 その目は誰一人として信用せずに、まるで抜き身の刃のよう。子供らしさは微塵も見られない。まじまじと観察していたビビは悲しそうな顔になってしまう。

 

 事情がありそうだ。しかし敵船の中でその反抗的な態度は問題であろう。

 ナミは敢えて厳しい表情を作って言った。

 

 「お金ね。ストレートで分かり易いけど、他にも船はあったでしょ。どうしてこの船に?」

 「そりゃおまえ、おれたちゃ天下を賑わせた麦わらの一味だぞ? いくら子供でもおれたちのことを知らないはずが――」

 「そんなもん知らないよ。ただこの船が一番弱そうだっただけだっ」

 「あぁ~そうですか。はい笑うとこ」

 「だっはっはっは」

 「笑うなァ! おれは真剣だぞ!」

 

 口を挟んできたウソップによってルフィが笑うが、アナグマが落ち着く様子はない。むしろ笑われたことでより一層険の強さが増した気すらする。

 呆れるナミはやれやれと首を振って、一方ビビは心配そうに見つめていた。

 さほど興味を持っていなかったルフィが進み出てきたのである。

 

 彼は椅子に座らず立っていた。

 アナグマへ数歩近寄り、幾分距離を取ったまま向き合う。

 

 至極楽しそうに笑っている。この場の空気にはそぐわないほどに。

 しかし改めてビビが周囲を窺ってみれば、仲間の空気も彼とそう変わりないことに気付いた。おどけて空気を和ませようとしたウソップも、努めて厳しい態度を取るナミも、腕を組んだまま語らないゾロも、微笑みを浮かべて料理に集中するサンジも、心配そうにしていたシルクでさえ。

 気付けば何とは言えない空気感が漂っていた。

 その最たる例がルフィだったというだけなのだろう。

 

 ルフィは腰に手を当て堂々と立ち、アナグマをじっと見つめて口を開いた。

 

 「海賊が命狙われるのなんか当たり前だ。理由なんてどうだっていいよ。おまえ、本気でおれを討ち取る気か?」

 「あ、当たり前だ!」

 「じゃあ試してみろ。ほら、これ使えよ」

 

 ルフィがテーブルに置かれたピストルを取って投げ渡す。

 アナグマは危なげな仕草でそれを受け取り、取り落としかけた銃を両手でしかと掴む。

 呆れたのはナミだ。取り上げた武器をわざわざ返すなんて、と言いたげな顔をしている。

 

 「ルフィ、いいの?」

 「心配いらねぇさ」

 「ハァ、もう……言っとくけど、こっちには向けさせないでよね」

 「わかってる」

 

 笑顔を浮かべているがいつになく真剣な姿だった。

 ルフィはアナグマへ言った。

 

 「おれの首を取れば3000万ベリーもらえるぞ。試しに取ってみろ」

 「さ、3000万? それだけあれば……」

 「その代わりおれとおまえの一騎討ちだ。いつでも来い」

 

 身構えようともせずにそう言われた。いつもと違って拳を握る素振りさえない。だがアナグマは彼の戦法を知らないため、深くを考えずに言われたままを受け取った。

 彼を殺せば大金が手に入る。薬を買っても有り余るほどの金だ。

 自らの意志でピストルを握り直し、両腕を持ち上げてゆっくり構えた。

 

 手が震える。

 想像より力が入り過ぎているのか、震えはいつまで経っても止まらない。

 

 見ていてみっともない姿だろう。

 それを自覚するため、心の中で止まれと想うのだが、体が言うことを利かない。

 心の中で焦りは大きくなるばかり。動揺は見る見るうちに大きくなり、汗を掻き始めた。

 

 室内にある緊迫した空気は再び重く、大きくなり、誰もが感じられるほど。

 その中でルフィはアナグマから片時も目を離さなかった。

 

 「半端な覚悟なら今すぐ捨てろ。それは脅しの道具じゃねぇんだ」

 「バッ……バカにするなァ!」

 

 挑発とも取れる言葉に、突発的に反応していた。

 

 「うわぁああああああっ!!」

 

 自分でも気付かぬ内に腕の震えが大きくなっていて、それでも引き金を引いていた。

 銃声が一度。銃弾は確かに発射され、室内に音を響かせて宙へ躍り出る。狙った通りか偶然か、放たれた銃弾はルフィの腹に突き刺さっていた。

 

 その瞬間、アナグマは顔色をさらに悪くする。

 ただでさえ青かったその顔が奇妙なほど変化し、表情が強張り、硬直する。

 

 そうなっていたのもほんの一瞬。直後には驚愕していた。

 ルフィが腹に受けた銃弾を跳ね返したのである。

 ゴムの体は受けた銃弾を倍程度の速度で送り返して、再び宙を駆けた銃弾はアナグマの間近を通り抜け、ラウンジの壁を突き破って外へ出ていった。

 もはや悲鳴すら出せずに硬直してしまい、その手からピストルが力なく落ちる。

 

 してやったりのルフィの笑顔。しかし後ろからウソップが頭をはたいた。

 

 「しっしっし、どうだ。効かねぇぞ」

 「おい。メリーに傷つけんじゃねぇよ」

 「な、なっ、なんだよそれぇ!?」

 

 彼らの言葉を受けてやっと反応できたらしい。

 アナグマの絶叫は室内に木霊して、いまだ動揺は止まらない様子。

 数秒経ってようやくその異常性に思い当たったようだった。

 

 「あ、悪魔の実……?」

 「そうよ。知ってる? 食べれば悪魔の力を手に入れられる不思議な木の実。ウチの船長はね、ゴムゴムの実を食べたゴム人間なの」 

 「ゴム、人間……」

 「おんもしれぇだろ。こんなに伸びるんだぞ」

 

 説明するナミの言葉に乗り、ルフィの両手が頬を引っ張って思い切り伸ばした。確かに常人ではあり得ないほど皮膚が伸びている。見ていていっそ気持ちが悪くなるほどに。

 足が震えて、今更になって恐怖心が沸き上がってきた。

 その勝負は初めから勝つ方法など与えられていなかったのだ。

 

 観念したのか、アナグマはその場に座り込んで胡坐をかく。

 頭を垂れて強い口調で話し、逃げる素振りもない。その場で死ぬつもりなのだろう。潔いとも言えるが違う言い方もできて、ナミの眉根が動いていた。

 

 「殺せよ……もう殺せ! こっちは覚悟だってしてるんだ! 今更命乞いはしねぇ! さっさとやれよ!」

 「いい覚悟してるわね。と言いたいところだけど、ずいぶん命を軽く見てるんじゃない?」

 「海賊になんて説教されたくねぇ! 構うもんか。希望もないのに生きてたって意味ねぇし、どうせおれなんて、生きてたところで無駄な存在なんだからよ」

 

 諦めている一方、他の意見を寄せ付けない口調だ。

 その発言を聞いてナミが唇をきゅっと結ぶ。

 突如席を立ち上がり、長椅子の上に乗ってしまい、隣に座っていたゾロの跨いで歩き出した。跨がれた彼は少し背を反らしつつも、呆れた表情で目を閉じる。

 

 「ゾロ、刀借りる」

 「……人を跨ぐな」

 

 腰から外して壁に立てかけていた和道一文字を手に取り、ナミがアナグマへ近寄った。

 何を想ってか、驚くビビの前で刀を抜くのである。

 

 「わかった風な口利くんじゃないよ。そこまで言うなら言う通りにしてやるわ」

 「ちょ、ちょっとナミさん!?」

 「まぁまぁナミ、落ち着いて」

 「邪魔しないで!」

 

 すぐにビビとシルクが割って入って止めようとするが、彼女は止まらず。怒りの形相で刀を振り上げ、抱き着いて止めようとする二人をそのままに怒鳴り始めた。

 あまりの剣幕にアナグマは動揺してしまい、座り込んだまま背を反らした。

 

 「こういうのが一番腹立つのよ! 生きていける状況があるなら四の五の言ってんじゃない! 辛い目に遭ったって、どんなことをしてでも生きようとする人間だって居る! それを覚悟って言うのよ! 全部わかった気でいるだけの奴が偉そうに言うなァ!」

 「ナミさん、相手は子供だから! ね? もう少し落ち着いて――」

 「その甘ったれた考え方をぶった切ってやる~!」

 「お、落ち着いてってば!? ねぇちょっと、ナミさんっ!」

 

 ついにはアナグマも後ずさりを始め、心底怯えている様子だった。否、どうやら怯えているだけではないらしい。彼女の言葉に動揺が大きくなって混乱している。

 瞳は狼狽し、反論する言葉を失ってしまった。

 ただそれだけでもアナグマにとっては苦しい状況だっただろう。

 

 あいにくこの場に助けはない。

 ビビとシルクは必死にナミを止めようとしているが、言い換えれば彼女たちだけだ。

 

 ルフィとウソップはいつの間にか呑気にお茶など飲み始めていて、普段は大人としての振る舞いを忘れないイガラムでさえも表情を歪めただけ、止めに入ろうとはしていない。ゾロは相変わらずだらしない姿勢で座ったまま、サンジは料理の仕上げに入っている。カルーは混乱しているが助けられるだけの余裕はなく、鳴き声を発して騒ぎ続けるだけ。

 そしてシュライヤは、壁に背を預けて腕を組み、俯いて表情を見せなかった。

 

 誰も助けに入らないまま女性陣だけが暴れ続けており、異様な空間である。

 それでいてシルクもまた、表情は心配するだけではなく、何か違和感を感じる物。不思議に思いながら止めなければいけないと焦るビビは皆へ振り返った。

 

 「みんなも止めて!」

 「メシできたぞ。ナミさんたちもほどほどにしといてね」

 「メシだァ~!」

 「腹減ったぁ~!」

 「ちょっとみんな! 本当にこのままでいいの!?」

 

 暴れるナミと狼狽するビビはそっちのけで、サンジがテーブルへ料理を運び、ルフィとウソップが純粋にその瞬間を喜ぶ。尚更ビビの動揺は強まるようだった。

 

 感情が高ぶったか、立ち上がったアナグマは出口へ向かって駆け出した。

 途中シュライヤの足にぶつかるも、転がるようにして甲板へ出る。

 息を切らしてラウンジから離れ、階段を降りたところで足がもつれて、今度こそ転ぶ。受け身を取るのに失敗して鼻をぶつけてしまった。その痛みには目に涙さえ浮かぶ。

 

 しばし転がったまま動かず、やがて時間をかけて起き上がる。

 膝立ちになって目の前にある光景を眺め、愕然とした。

 思えば、すでに海へ漕ぎ出したその船上には、どこにも居場所などなかったのである。

 

 逃げ場を絶たれ、居場所がない船で、自分はどうすればいいのか。その上で死ぬことさえも許されないのか。一つずつ状況を理解していく度、驚きが胸の内を占めていく。

 自分の覚悟とは何だったのだろう。何のためにここへ来たのだろう。

 ただ救いを求めてやってきただけだったのに、成果は何もなく、逃げ帰ることもできずにいる。ならばなぜ、ここへ来てしまったというのか。

 自分はなぜ生まれてきてしまったのだろうか。

 なぜあの時死ぬことができなかったのだろうか。

 そう考えた時、アナグマの目からはらりと涙が零れ落ちた。

 

 不意に体から力が抜けて、強い虚無感が身を包み、空虚感が沁みていく。

 床に手をつけば、もう堪えることはできなかった。

 

 「うっ、ふっ……うぐっ」

 

 歯を噛んで声を抑えようとするのだが、それでも漏れ出てしまう物があって。

 這うようにして移動したアナグマは階段の傍へ身を寄せ、小さくなって膝を抱える。

 膝に顔を埋め、それきり静かになってしまう。

 

 いつの間にか気候が変わって、厚い雲が空を埋め尽くし、雪が降り始めていた。

 

 「お、雪か。さっきまでいい陽気だったのになぁ。グランドラインってのはよくわからん」

 

 気楽な声が聞こえてくるが反応せず、アナグマは蹲ったまま。

 近寄ってきたのはサンジだった。

 膝を抱えるアナグマの前にいくつかの皿を置き、自身は階段へ腰掛けて、取り出した煙草を銜えると火を点ける。話しかけたのはそれからだ。

 

 「とりあえず食え。腹が減ってりゃ悪い考えばかり浮かぶもんさ」

 

 煙を吐いて空を眺める。曇天だが美観が損なわれる訳ではない。むしろちらほらと振り続ける雪は独特の空気を演出してすらいて、これもまた味のある景色だろう。

 雪を見たのはいつ振りだろうか。ふとそんなことを考えた。

 

 相変わらずアナグマは動かず、食事にも手を付けない。このままでは冷めてしまう。

 だからという訳でもないが、サンジは静かな声で話し始めた。

 

 「ナミさん――さっき刀ぶん回してた美女のことだが、悪く想わねぇでやってくれ。ついカッとなっちまったのさ。彼女もヘビーな過去を持っててな、海賊に親を殺されてる。しかもつい最近までその海賊に道具みてぇに扱われててよ。クソみてぇな八年間だったらしい」

 

 聞いているかいないかわからないアナグマへ向け、思いのほかやさしい声色。

 手に煙草を持って煙を吐き出し、今はこの場に居ない人間を思い浮かべる。

 

 「今この船には居ねぇ仲間も過去に辛いことがあったそうだ。まぁ、深く聞いたことはねぇが他の連中も似たようなもんだろ」

 

 再び煙草を銜えてわずかに口元を緩める。小さなそれは確かに笑みだった。

 

 「生きていこうと思うとよ、結構辛いことばかりだったりするんだよな。それこそ生きてんのが嫌になるくらいに。死にてぇって思うことだってきっと間違いじゃねぇさ」

 

 顔の向きを変えてアナグマを見る。

 膝を抱えたままだがきっと聞いているだろう。

 そう信じて、彼は穏やかな声で問いかけた。

 

 「それでも、生き抜けば見える明日ってのがあるんじゃねぇの?」

 

 にっと笑って子供のように。

 アナグマには見えていないだろうがそう言って笑いかけた。

 

 「ま、チビナスが言ったところでわかんねぇか。とにかく食えよ。冷めちまうぞ」

 

 その時、ほんのわずかにアナグマが反応する。

 顔が動いて、表情を見せようとはしないものの、少しだけ視線を上げたのだ。

 しばしの沈黙があったがサンジは待ち、聞かされる言葉を受け取ろうと耳を傾ける。

 待ち続けた結果、アナグマは彼に質問した。

 

 「おまえも……」

 「んん?」

 「おまえも、死にたいって思ったこと、あるのかよ」

 「そうだなぁ……昔はあったかもしれねぇ。でも歯ァ食いしばって必死に生きてよ、今はもうどうでもよくなっちまった。楽しいんだ、あいつらと居ると」

 

 服を掴む手にぎゅっと力が入る。

 沁みる物はあったのかもしれない。はっきりした何かでなくていい。たとえ些細な物でも変わるきっかけにさえなればそれでいいのだろう。

 

 緩慢に動き出した手は、甲板に置かれた皿を持ち上げる。

 スープが入ったそれを持ち上げ、スプーンを手にせず両手で顔まで持ち上げた。

 

 すぐに食べ始めようとしなかったがそれもいい。

 サンジは肩をすくめて笑い、背を押すかのように声をかける。

 幸いまだ湯気は立っていた。気温が下がってきたところであり、ちょうどいい一品でもある。

 その魅力に取りつかれたのか、今度はアナグマも素直にサンジの言葉を受け取れたようだ。

 

 「まずはスープからだ。ゆっくり腹に入れろ」

 

 戸惑いを感じる手の震えがあった。しかし言われた通り、ゆっくり皿を傾け始める。

 皿の端に口をつけ、中身はアナグマの口へ運ばれていった。

 ごくごくと喉が鳴る。よほど腹が減っていたらしく、一度も口を離そうとしないまま、全て飲み干すまで傾けてしまった。スープはきれいに飲み干され、皿だけが床へ置かれる。

 

 サンジが目を伏せて、些細な物音を耳にする。

 

 アナグマは別の皿を持ち上げ、スプーンを手に取り、炒められて色づいた米を持ち上げた。

 ばくりと一口。強過ぎもせず、薄過ぎもしない、絶妙の塩加減が舌を喜ばせる。今まで食べた中で一番と言っていいほど美味い炒飯だった。

 

 ぼろぼろと大粒の涙が零れ落ちていく。

 しかしそんなのはどうでもいいとばかり、アナグマは食事に集中していた。

 

 泣きじゃくりながら炒飯を掻っ込む子供から顔を背け、再び視線は空へ。

 音もなく雪が降り続けて次第に甲板へ積もろうとしている。肌を刺すような寒さがあり、雪が音を吸い込むせいか、不思議な静寂が辺りを包み込んでいた。

 その中でカチャカチャと食器の音。

 食事時には決して良い天候ではなかったが、涙を隠すにはちょうどいいかもしれない。

 

 「う゛まい……!」

 「クソうめぇだろ?」

 

 してやったりの笑顔で告げてやる。

 嗚咽は聞こえないふりをしてやって、しばらくサンジはその場を離れようとしなかった。

 

 ビビとウソップ、それから少し後ろに居たルフィは、隠れてその様を眺めていた。

 寄り添うような姿ではないがそれも一つのやさしさだろう。アナグマの涙とサンジの態度に感じ入る物があって、ビビは人知れず感動していたらしい。

 だがなぜかウソップは納得できていない表情で疑問を口にしていた。

 

 「なんだぁ、サンジの奴。相手が女ならまだわかるけど、なんであんなにやさしいんだ?」

 「そんなの別にいいじゃない。サンジさんがやさしいのは変わらないでしょ」

 「ビビはあいつを知らねぇんだよ。男が相手だと悪魔みてぇになるんだぞ。ガキだからって態度を甘くするような奴じゃねぇんだ」

 「そうかしら。私は素晴らしいって思ったけど」

 

 話す二人の後ろで、ぶちっと肉が千切れる音がした。

 小さな物だが間近に居る二人にははっきりと聞き取れる。

 振り返った先でルフィは肉を頬張りながら笑っており、その顔は妙に嬉しそうだった。

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。