ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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弱者の覚悟

 空に浮かぶ月が見下ろす海。

 そこにある一隻の船の甲板で騒ぐ声があった。

 甲高く、感情を隠そうとしない子供の声である。激情に駆られた誰かが傍に居る人物へ抗議しているらしい。その影は小さな物で、大人の男を相手に食って掛かっている態度だった。

 

 「頼むよ、じいちゃんに薬を買ってくれ! 最近ずっと病気で苦しんでるんだ!」

 「知るかよ、おれに言うな。どうしてもってんなら船長に言え。どうせ無駄だろうが」

 

 ズボンを掴んで、ウザがられようと子供は決して離そうとしない。

 その姿は見るからにみすぼらしい格好をしていた。

 

 ボロボロの作業着を身に着け、キャスケットの帽子をかぶり、肌まで薄汚れている。服と肌を汚しているのはどうやら石炭だろう。手には作業用のグローブもあった。

 どことなく疲れているような顔色で、しかしそれを隠すほど清潔さとはかけ離れていた。

 

 薄汚れた子供、アナグマに纏わりつかれて男は面倒そうな反応を繰り返すばかりだ。

 船の見張りをしていたようだが、普段滅多に甲板へ来ない存在に詰め寄られて、見るからに扱いに困っている。邪険にするのも問題があって、それで追い返すような物言いだった。

 明確に仲間という訳ではない。しかし同じ船に乗る一員だ。

 暴力を振るう気はないらしく、なんとか言葉で説得しようとしていた。

 

 ただ、何を言われようとやめる素振りがない。

 アナグマは必死な態度で訴える。薬をくれ、じいちゃんを助けてくれと。

 それが何を意味しているのかは男もわかっていた。

 ボイラー室を管理する老人、“モグラ”のことに違いない。

 

 「仕方ねぇだろ、みんな出払ってんだ。おれにはどうしようもねぇんだよ」

 「なぁ頼むよ。じいちゃんはずっとボイラーを守ってきたんだ。同じ船の仲間じゃないか」

 「バカ言え、あいつはただこの船について来ただけだろ。海賊になったわけでもあるまいし」

 「それでも仲間だろ! じいちゃんが居なきゃ、この船は進まなかったんだ!」

 「諦めろ。もう寿命だったってことだよ」

 「嫌だ! 病気さえ治ればじいちゃんはまだ生きれる! こんなことで諦めたくない!」

 「このっ、うるせぇガキだな。だから、おれに言ったところでどうしようも――」

 「何の騒ぎだ」

 

 唐突にかけられた声に背筋が震えた。

 男が振り返った時、町の方角からやってきたのは見るも巨体、ガスパーデの姿だった。

 大柄な肉体は鍛え抜かれ、筋肉という天然の鎧を纏い、素肌の上に白いコートを身に着けて、首元には紫色のスカーフを巻いている。顎が大きく突き出た顔で、その目つきは自身の部下でさえ震え上がらせるほど冷たい。

 

 船長であるガスパーデは、同じ船に乗る人間にすら恐れられていた。

 男は見るからに怯えた様子で後ずさりを始める。

 対照的に、アナグマはチャンスとばかりに彼の傍を離れた。

 

 ガスパーデの足元へ行って顔を見上げる。

 必死の形相で懇願するよう、子供ながらに頭を下げた。

 

 「お願いだ、じいちゃんの薬を買ってくれよ。病気で寝込んじまってるんだ。じいちゃんが居ないとこの船は動かない、そしたら困るのはあんたたちだろ?」

 「おいバカっ、船長に馴れ馴れしく話すんじゃねぇ」

 「じいちゃん? 何の話だ」

 

 言葉の意味が伝わらなかったらしい。浮かんだのは純粋な疑念だ。

 視線を向けられたのはアナグマではなく傍らの男。

 緊張しながら、彼は平身低頭して答える。

 

 「へぇ、ボイラー室で働いてるじじいのことです。船を奪った時から住み着いてるらしくて……滅多に見ねぇんで、おれたちゃモグラって呼んでるんですがね」

 「ほう。そのじじいが死にかけてると」

 「薬を買ってくれたらそれだけでいい。他のことは何も望まない! 医者に見せたいけど、金がかかるなら薬だけでもいいから! だからじいちゃんを助けてくれ!」

 「この船が動かねぇとなると、そりゃおれにとっても損害だな」

 「そ、そうだろ! それじゃあ――!」

 「だがだめだ。おれには関係のねぇ話だな」

 

 冷たく言った後、平然と歩き出したガスパーデは真っ直ぐ進み、アナグマにぶつかって後ろへ押しやり、自身の部屋へ向かおうとする。一切の慈悲を感じさせない動きだった。

 その事実に愕然とし、アナグマは咄嗟に叫んでいた。

 

 「ど、どうしてっ!?」

 「なぜおれがそんなじじいを助けなきゃならねぇ。関わり合いのねぇ人間だろう」

 「じいちゃんはずっとこの船を動かしてたんだぞ! 誰よりもボイラーを大事にして、誰よりもボイラーのことわかって、ずっと守ってきたのはじいちゃんだ!」

 「代わりならいくらでも用意できる」

 

 感情がない声色にアナグマの態度が揺らいだ。

 恐ろしい。ぶつけられた直後、純粋にそう思っていた。彼には人の心がないのかとさえ思ってしまって、自身でも理解できない恐怖感に包まれていく。

 それでも退く訳にはいかない。助けるためには協力が必要なのだ。

 

 「そんな……そんなことない。じいちゃんだけだ。あのボイラーを動かせるのは、じいちゃんだけなんだ! 他のやつになんか動かせるもんか!」

 「試してみたのか? 腕の良い技師なんざそこら中に居る。若くて、病気にならねぇ奴もな」

 「そ、そんなっ」

 「死にかけのじじいに同情する奴は居ねぇよ。たとえ金を持っててもな」

 

 はっきりと告げられてしまい、アナグマは肩を震わせて俯いてしまった。

 どんな理由であれ、モグラはボイラーを管理して彼らに協力してきたのである。その仕打ちがこれではあんまりではないか。

 悔しくて、痛いほど拳を握るが、殴りかかっても勝てないのは知っている。

 そんなアナグマを見てにやりと笑い、振り返ったガスパーデが正面から向き直った。

 

 「じじいを助けたいか?」

 「助けたい。でも、おれには金もないし……」

 「だから他人に助けてもらうか? 甘えるな。助けたきゃてめぇで助けろ」

 

 わずかにアナグマの目つきが変わる。

 そうとは知らず、俯いたままの視線の先へピストルが投げ落とされた。

 

 「この島には賞金首が腐るほど居る。どれでもいい、一つ首を取って海軍にでも引き渡せ。そうすりゃ薬なんて山のように買えるほどの金が手に入るぞ」

 「おれが……海賊を?」

 「一応とはいえ海賊の船に乗ってるんだ。それに仲間とも言っていたな。仲間として認めて欲しけりゃ手柄の一つも立ててみろ。そうすりゃじじいを医者に連れてくくらいわけねぇよ」

 

 拳が震えた。膝を曲げてピストルを持ち上げ、両手で胸に抱える。

 

 「おれが賞金首を仕留めたら、じいちゃんは助けてもらえるんだな?」

 「ああ、約束する」

 

 やっと希望が見えた気がした。

 誰も助けてくれないのなら、自分でやり遂げる。それでいいと思った。

 与えられたピストルを抱きしめ、顔を上げたアナグマの目に迷いはない。自らの手でモグラを救うと決めて、証明するかのように言葉にした。

 

 「やってやる。じいちゃんはおれが助けるんだ」

 

 踵を返して走り出す。

 颯爽と船を降りて、小さな背は町へ向かい、夜の暗闇へと消えていった。

 

 一連の動きを見送ってからガスパーデがほくそ笑む。

 面白いことになった、程度の認識なのだろう。心配もしていないし、結末を予想するでもない。さほど興味を持っている姿には見えなかった。

 傍らに居た男は思わず尋ねてしまう。

 

 「い、いいんですか? あんなガキに賞金首がやれるとは思いませんが」

 「できなきゃじじいが死ぬだけだ。おれにとって損はねぇ」

 「しかし……」

 「これはゲームだ。敵に勝てねぇ海賊なんざ生きてる価値もねぇ。もしあのガキが本気で誰かを殺そうってんなら、寝込みを襲うでも体を売るでもなんでもして、隙をついて銃弾を叩き込んでやりゃいい。ナイフを渡すよりよっぽど楽だろう。これはおれのやさしさなんだ」

 「はぁ」

 「海賊になりてぇなら流儀を教えるまでだ。弱者に用はねぇ」

 

 気のない返事をしてしまう。男は呆然としている様子だ。

 船室に戻ろうとする直前、ガスパーデはそんな彼に睨みを利かせた。

 

 「それともおれのやることに異論でもあるのか?」

 「い、いえいえまさかそんな!? まったくもって同感です、はい!」

 

 しばし動きを止めて、結局は何も言わずにその場を後にする。

 男は一切その場を動けず、生きた心地さえしなかった。

 ようやく息を吐き出せたのは扉が閉まった音がしてからだったようだ。

 

 ガスパーデは仲間にさえ容赦がない。強者が絶対、弱者は死刑。

 そんなポリシーを知ってか知らずか、おそらく知らぬまま、アナグマは飛び出してしまった。

 

 船の近くにあった林道を抜け、息を切らしながら走り、目指すのは海賊しか存在しない町の中。誰に狙いをつけるでもなく、賞金首の顔など一つも知らない。それでもやる気だけが全身に力を与えていて、絶対にやれるという確信さえあったのだろう。

 落とさないようピストルをしっかり抱えて、目は以前より輝いていた。

 ただそれでも、そこに濁った光があるのは禁じえないままだ。

 

 誰かを殺せば、モグラを助けられる。その言葉に疑いを抱いていない。

 疑うこともなければ抵抗感を感じることもない。

 殺せば助けられる。

 ただそれだけを信じ、胸の中には希望だけが広がっていた。

 

 やがて町へ到着した時には、多少の疲労感を感じながらも輝かんばかりの笑顔があった。

 辺りを見回し、人の姿が多いことに気付く。活気は相当な物だった。しかしその中でどれが賞金首で、誰を殺せばガスパーデが満足するかはわからない。

 

 とりあえず情報を集める必要がある。

 どこかで誰かに聞いてみるしかなさそうだ。アナグマはまた走り出した。

 

 短く息を吐いてリズムよく足を動かして、曲がり角に差し掛かった時だった。

 向こう側からやってきた誰かにぶつかってしまい、アナグマの体は地面に打ち付けられる。

 栄養が足りていないのか、年齢の平均に比べて小柄な体が災いして、怪我すら負ってしまいそうな様子である。ぶつかった相手は反射的に傍へ膝をついて抱き起こした。

 

 「いっ、た……!?」

 「大丈夫か? 角には注意して走れよ」

 

 誰かの掌を感じて、ぶっきらぼうながら心配されて、久しく味わっていない他人の思いやりに動揺した。痛みに堪えて目を開けると、視界には目つきの鋭い青年の顔がある。

 シュライヤ・バスクードだ。

 見知らぬ人に抱きかかえられている状況に驚き、アナグマは動きを止める。

 なぜか、知らぬはずの人間に既視感を覚えてしまったのも驚きだった。

 

 一瞬とはいえ思考が停止し、ハッと我に返って気付く。

 首を動かして視線の先を変えれば、地面にピストルが転がっていた。ぶつかった衝撃で落としてしまったらしい。表情が変わって、気付いたシュライヤもそちらを見る。

 

 「……おまえのか」

 「ッ――!」

 

 咄嗟にシュライヤの腕から抜け出して、転がるようにしながらピストルを拾う。

 胸に抱え、彼には背を向けて、傍からは隠す素振りに見えた。

 

 子供が銃を持っている状況など普通ではないだろう。ボロボロの服と薄汚れた肌からしても、何かしらの事情があることは察することができて、小さく嘆息する。

 それを指摘するほど空気が読めない訳ではない。

 立ち上がったシュライヤは敢えて多くを語ろうとせず、放り投げた自分の鞄を拾った。

 

 海賊の島だ。自ら選んでそこへ来た。

 どんな光景を見ても驚かないと決めていたとはいえ、想像よりずっとひどいかもしれない。

 それでも無暗に手を差し伸べようとはしなかった。他ならぬアナグマのために。

 

 「見られたくねぇもんはしっかり隠しとけ。今回は見なかったことにしてやる」

 

 唇を噛んでぎゅっとピストルを抱きしめる。

 不思議と心細さが沸き上がっていた。一瞬とはいえ人の体温に触れた。思い出してしまった。まだモグラに出会う前、家族と共に暮らしていた頃のことを。

 自身が何をしようとしていたのか、改めて冷静に理解してしまい、ぞっとしてしまった。

 自分で決めたことなのに、ひどく恐ろしいと動揺せずにはいられなかった。

 

 シュライヤは肩を震わすアナグマに、見て見ぬふりをする。

 声をかける資格はない。

 自身もまた、同じ道を辿って今に至るのだから。

 

 ここはお互い何も知らずに別れるべきだ。

 

 荷物を肩に担いだシュライヤは歩き出そうとして、背中越しにアナグマへ声をかけた。

 振り向こうとはせず、まるで何かから目を逸らすかのように。

 

 「そこでじっとしてていいのか? 早く行け。知られたくない何かがあるならな」

 「うっ……くっ」

 

 よろける足で立ち上がり、先にアナグマが走り出す。その速度は先程までより速く、一秒でも早くその場から離れようとしているかのようだ。

 ついさっきまで座り込んでいた地面に、わずかな滴の跡があったことには、気付かぬ方がいい。

 振り向くことなくシュライヤも歩き出す。

 しかしやはり、脳裏にこびり付いた小さな姿は忘れようがなかった。

 

 「嫌な時代だ。海賊って奴に関わると、みんなあんな目になるのかね……」

 

 別れたばかりの子供を想って呟く。

 だがすぐに振り切らなければならないと考え、余計な思考の一切を消し去った。

 

 すでに慣れている。目を背けたくなる光景にも、余計な思考を消し飛ばすことにも。今までの経験が糧となり、すっかり大人になって、いつでも非情さを出せる人格になった。

 余計なことは考えていられない。明日には大事な仕事がある。

 

 何よりも大事な一瞬のため、しっかり休息を取るため宿を探す彼の姿は、夜の闇に消えた。

 


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