ROMANCE DAWN STORY   作:ヘビとマングース

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トランス・トラップ(2)

 無人の通りを走り、頬に張り付く髪を払って、シルクは周囲の静けさを不安に思っていた。

 待ち伏せがないのは良い状況のはずなのに、ここまで敵が見えないと異質さが際立つ。敵は自分たちよりよほど数が多かったはずだ。それがなぜこれほど敵の姿が見えないのか。

 

 ただ単に広場へ集中し過ぎたという可能性もある。

 しかし別の可能性も捨てきれなくて、特に策謀家のキャプテン・クロを見た後なら尚更だった。

 

 「敵、居ないね」

 「つまらねぇな。せっかくならもう少し抵抗してもらった方がよかったが」

 

 後ろからついてくるゾロへ声をかければ、彼は戦闘がないことを退屈に思っている様子。ルフィを救出する時は焦りばかりが大きく集中する暇もなかった。だが今ならば思考も変わる。

 まだ刀の試し斬りが終わっていない。

 手に入れたばかりの刀を使ってみたかったが、敵が居なくてはそれもできなさそうだ。

 

 報復のために現れただろうに逃げ道さえ塞いでいないとは。

 呆れたゾロが嘆息するものの、シルクの意見は別だった。殴りつけるような雨を物ともせずに前方を見つめ、やがてその影を見つける。

 

 「うん……だけど、それもここまでみたい」

 「へぇ。ようやくお出ましか」

 

 走っていた二人は徐々に速度を落とし、完全に足を止めた。

 彼らの前にある道を塞いでいたのはキャプテン・クロが率いるクロネコ海賊団である。

 先頭にクロが立って背後に部下を背負っており、厳しい視線で二人の姿を見ていた。

 

 逃げると知って先回りしたらしい。

 先程も包囲したはずだが海軍の乱入を許してしまい、その結果、ウソップが煙幕を使ったことで屋上はさらに混乱。上手く敵に逃げられてしまった。

 今度は逃がしはしない。

 強い意志が伝わるようで、シルクとゾロは静かに剣を抜いた。

 

 「あの時の執事か。怖ぇ顔で睨んでやがる。シルク、おれにやらせろ。新しい刀を試したい」

 「いいの? あの人、かなり速いよ」

 「この程度で負けるようじゃ話にならねぇ。おれはもっと高みを目指してんだ」

 「そっか。でも、私もあんまり譲りたくないかな。休暇の間も練習してたもん」

 

 二人揃って得物を構えて対峙する。どちらも我が強く譲る気がない。

 そんな敵の姿を見てクロは癖を見せ、掌で眼鏡の位置を正した。

 

 「おれが何も考えずにここへ来たと思っているかね。君たちへの対抗策は考えてある。物量で押してもさほど意味がないことは知っているんだ。ならばおれが両方始末すれば早い」

 「対抗策、ねぇ。たったそれだけの策か?」

 「まずロロノア・ゾロ。君ではおれのスピードにはついて来れない。銃弾が放たれた後に動いても避けられるこのおれを捉えられるとでも思っているか? そしてもう一人、以前おれを斬ったそちらの少女は、おれが移動する際に生じる風を感知しているんだったな。今はどうだ?」

 

 クロに尋ねられたシルクは眉間に皺を寄せる。

 現在、嵐によって強い風が吹いている。悪魔の実を食べたことで彼女は常人以上に風の動きを察知できるようになったが、細かな識別はできず、この中からクロの移動で生じる風は判別できる訳ではない。今回ばかりは彼の動きを先読みすることはできないようだ。

 

 表情が変わったことでクロがほくそ笑む。

 海賊らしいとも言える凶悪な笑みが浮かび、勝ち誇った様子で猫の手を構えた。

 

 「この風の中ではおれを捉えることはできん。嵐は計画になかった物だが、どうやら天はおれに味方したようだ。即刻貴様らを排除してやろう」

 「言ってろ。口だけなら簡単だからな」

 

 ゾロの挑発に表情がぴくりと反応するも、冷静さは失っていない。

 背を丸めて膝を曲げ、全身にぐぐっと力が入った。

 

 緊張感が飛躍的に増した一瞬。

 突如、近くの屋根から一人の人間が飛び降りてきた。

 

 地面に溜まっていた水が跳ねあがり、着地したのは黒い外套とフードで顔を隠した青年。クロと対峙するように現れ、ゾロとシルクには背を向けている。

 驚愕の雰囲気に包まれる状況下で、彼は何も告げずに駆け出した。

 

 真っ直ぐ向かってくる誰かを目にして、咄嗟にクロは抜き足で移動する。目にも止まらぬ無音の高速移動術によって一秒とかからず姿が掻き消えた。当然青年もクロを見失う。

 だがまるで意に介さず、彼は突っ立ったままの部下たちへと襲い掛かった。

 

 クロを挟むようにして立っていたニャーバンブラザーズの片割れ、ブチの顔面に鉄パイプが叩き込まれ、長いそれがバットのように振り切られる。常人以上の巨体はぐるりと回転した。

 

 「ブチィ!? て、てめぇ――!」

 

 相棒がやられたことに怒ったシャムも、油断した一瞬で脳天から鉄パイプを叩き込まれて、視界に火花が散る。体の自由はたった一撃で奪われて膝が笑った。

 直後に素早く蹴りつけられて二人の体が飛ぶ。

 地面を滑った二人はすでに意識を手放していて、受け身を取ることさえできていない。

 

 集団は一気に混乱する。

 幹部であるニャーバンブラザーズを一瞬で倒してしまい、その後も猛攻を続けて襲い掛かってくる青年から逃げ惑って、いくつもの悲鳴が重ねられた。

 その技量は常人ではなく、目にするだけで恐怖を覚えるほど。

 必要最低限の動きだけで敵を殴り飛ばし、投げ飛ばして、まるで木の葉のように人が飛ぶ。

 見ているだけとなったゾロとシルクは信じられない物を見る目つきとなっていた。

 

 次々やられていく部下たちを見て、当然クロが黙っているはずもない。

 顔に憤怒を貼り付けて抜き足で移動すると、猛然と青年へ襲い掛かった。

 

 「何をやっているんだ貴様はァ!」

 

 気付いた青年が振り返ろうとする。その挙動を見てまた素早くクロが移動した。

 振り向き様に左手で振り切られた鉄パイプが空を切り、目標を見失った様子で動きが止まる。

 青年の背後にクロの姿が現れた。

 今度こそ当てられる。猫の手が掲げられ、鋭い爪が怪しい輝きを放った。

 

 だが、それすらも見透かしていたかのように。

 視線を外したまま半身になり、伸ばされた右手だけがクロの首を掴む。

 その一瞬で驚愕したクロの全身が強張って動けなくなってしまったようだ。

 

 その手が異常だった。人差し指と中指、薬指と小指がくっ付く独特の形。

 何の変哲もない人間の手だが、竜の手を思わせるような形でクロを掴み、何より異常なのがその指の力。掴まれた首は一切の呼吸を許されず、苦しくなって精神が荒れる。

 

 指、或いは爪か。

 もがこうとしても上手く動けないため逃れることができない。

 掲げた腕を振り下ろすことさえ許されていないようで、振り返ることなく青年が呟く。

 

 「どれだけ速くても、どこから来るかわかっていれば反応は難しくない」

 「おぉっ、がっ、がぁ……!」

 「頼むからじっとしていてくれ。守れって言われてるんだ」

 

 ぐんと持ち上げられ、クロの体が頭上へ投げ飛ばされる。

 手が離されたことで呼吸が可能となった。途端に大きく息を吸って酸素を取り入れ、霞みかけていた思考を取り戻す。やっと生きた心地を取り戻せた気がした。

 しかし空中に居ては落下するのみ。得意の機動力は使用できない。

 理解した直後、クロは目を見開いた。

 

 「竜爪拳――“竜の鉤爪”」

 

 一瞬、姿が掻き消えたように見えた。

 眼下を見つめるクロだけでなく離れた位置に居たゾロとシルクにさえ見切れない。

 

 気付けば竜の爪を思わせる手がクロの腹を捉えており、強かに引き裂くかの如く、強烈な一撃を与えて落下中の体を突き飛ばす。

 吹き飛ばされたクロは石の壁すら破壊し、家屋の中へと姿を消した。

 

 これだけで場の空気が変わる。

 一味で最も強い男がやられた。誰も敵わぬほどと思っていた技量を持つのに、こうもあっさり。

 部下たちは臆病風に吹かれて怯み、もはや戦闘続行は不可能らしいと伝わる顔になっていた。青年はちらりと彼らの方を見やり、肩を震わす姿に苦笑して、思いのほかやさしく声をかける。

 

 「まだやるか?」

 「ひぃいいいっ!? い、いえいえ、滅相も無いっ!」

 

 敵うはずがないと知って海賊たちは逃げ出した。慌てた素振りでクロとニャーバンブラザーズの体を抱え上げ、足がもつれて転んでしまうほど急いでその場を離れていく。

 

 全てが終わった後、青年が振り返った。

 フードをかぶっているが顔はわずかに窺い見ることができる。

 ゾロとシルクにとって知らない顔だ。それも当然。あれほど強い人間ならば一度知れば忘れるはずがないだろう。今日初めて会った人間に間違いない。

 青年は二人に柔和な笑みを向け、自分たち以外誰も居なくなった通りで向かい合う。

 

 「大丈夫そうだな。これでおれの仕事は終わりだ」

 「あの、あなたは?」

 「心配するな、敵じゃない。かと言って今は、味方でもない」

 「ならおれたちともやる気か?」

 「いいや。そいつは命令に含まれてねぇからな。おれはおまえらを逃がしに来ただけさ」

 

 肩をすくめて笑う姿に毒気を抜かれる。

 それでもゾロは警戒心を消し切らず、戸惑うシルクの隣で彼に尋ねた。

 

 「目的が見えねぇな。おまえ何者だ?」

 「さて、教えてやりてぇが言えねぇんだ。こっちも札付きでね。ま、悪いようにはしねぇよ」

 「かなりの腕前らしいな……あいつのスピードをどうやって見切った?」

 「ははっ、こりゃすげぇ。魔獣みてぇな気迫だな」

 「答えろ。それとも一戦交えて確かめた方が無難か?」

 「悪いがその気はないんだ。ただ敵の動きが先読みできただけ。そう珍しい力じゃない」

 

 フードが風に吹かれて外れてしまい、その下にあった顔が露わになる。

 金色の髪に、左目の辺りには火傷の跡。誰かを思い出させる顔つきだった。

 容姿自体が似ている訳ではない。

 だがこの感覚には出会った覚えがある。

 

 「グランドラインに行けばわかる。この力は、鍛えさえすれば誰でも使える物だ」

 「へぇ……おれでもか?」

 「おまえはむしろ見込みがある方だ。おれが保証する。つっても、初対面じゃ信用できねぇか」

 

 にかっと笑った顔を見て、思い当たったシルクが小さく声を漏らした。

 

 ルフィに似ているのだ。

 なぜかルフィを思い出してしまう人物で、なぜだろうと首を捻った。しかし答えは出ない。謎なままで別れの時が来たようだった。

 

 二人の後方に目をやった青年が表情を変えたのである。

 少しばかり驚く素振りをして、同じ方向を見た二人へ言った。

 

 「お、海軍が来たか。あいつらに見つかるとまずいんだ。ここからは自分たちで頼む」

 「待て。まだおまえには聞きたいことが――」

 

 背後に目をやって追ってきた海軍を確認した後、再び青年を見るためゾロが顔を動かした。しかし振り返った時には青年の姿が消えていて、ゾロが眉間に皺を刻む。

 

 驚いている暇もない。海軍はすぐにやってくる。

 逃げようにも先頭の人間が気になってしまい、そのせいかゾロは海軍へ向き合った。

 走り出そうとしていたシルクはそんな彼に驚いて足を止め、動かぬ彼を動かそうとする。早く逃げなければならない。それなのに返ってきた言葉は予想外の物だった。

 

 「ゾロ、急ごう。このままじゃ追いつかれる」

 「先に行け。野暮用がある」

 「野暮用って、そんなっ」

 「すぐに終わる。どうやら言いてぇことがあるらしいからな」

 

 向き合ったことで海兵たちの足が止まった。

 中でも険しい顔をしているのが、先頭を務めて部下を率いるたしぎ。

 愛刀の時雨を強く握り締め、仇敵を見る目でゾロを捉えた。

 

 「ロロノア・ゾロッ!」

 「よう」

 「やっぱりあなただったんですね。凄い剣士に出会えたと思ったのにっ」

 

 直情的な性格なのだろう。表情は分かり易く感情を伝えてくる。

 今にして思えば、初めて彼女を見た時の自分も心が揺れて隙だらけだったに違いない。

 

 先程の男やキリを思い出す。

 彼らは冷静で心の底を見せない。それこそが肝心だと気付いていた。

 今、ゾロもまた驚くほど冷静な状態にあり、親友に似ている彼女が相手でも、二度目の対面で動揺することはなかった。

 

 「私を騙していたんでしょう。許せない!」

 「騙したつもりはねぇ。ただ聞かれなかったから答えなかった。それだけだ」

 「そんな屁理屈みたいに……!」

 「もう大体わかってる。前言撤回ってことだろ。奪わなきゃならなくなったな、こいつを」

 「ええ……そのために来ましたから」

 

 先に抜いていた和道一文字を右手で掲げて示し、左手では三代鬼徹を抜く。

 両手に刀を持つとたしぎも時雨を抜いた。

 美しい所作で中段に構え、凛とした雰囲気を湛えて言葉で伝える。

 

 「名刀“和道一文字”、回収します」

 「やってみな」

 「ゾロ!」

 

 自ら前に駆け出し、敵とぶつかってしまう彼にシルクが言葉を投げた。聞き入れてもらえない。一体どんな関係があるのか、ゾロはたしぎと戦い始めてしまった。

 刀を打ち合わせ、動きが止まるのは一瞬。

 ゾロが鋭く攻撃を繰り出して、驚愕したたしぎが半ば無意識的に後ろへ下がった。

 

 誰も手出しをしない。狙い合わせた訳ではないが、これは決闘だった。

 シルクと海兵が見守る前で、たった二人で戦っている。

 

 シルクの目から見てすぐにわかった。

 ゾロは本気だ。本気で彼女とぶつかっている。その証拠とでも言うべきか、たしぎは防戦一方で手が出せず、二刀流での連撃を受け続けるばかり。

 

 凄まじい気迫が込められた攻撃だった。真面目な性質から日々の訓練を欠かさず行い、常に自らの剣の腕を上達させようと努力してきた彼女を嘲笑うかのような、圧倒的な差。決して弱くはないたしぎに恐怖すらさせる。敵は、一人で挑んでいい相手ではなかったようだ。

 まるで、鬼。

 彼の背後に見えぬはずの何かさえ見えた一瞬、たしぎは全身を強張らせた。

 

 動揺すれば剣は乱れる。故に、強くなるための道筋の一つが、心を強く持つことだ。

 冷静に敵の隙を見つけたゾロは、その機を逃しはしない。

 力強くも的確な動きで彼女の手から時雨を跳ね上げ、金属音が鳴ると刀が宙を舞っていた。

 

 ただ呆然として力が抜けた。

 膝から崩れ落ちると同時、時雨が地面へ落ちて、和道一文字の切っ先が首へ突きつけられる。

 

 勝敗は決した。

 

 「はっ、はっ、はっ……」

 「悪ぃが、渡せねぇんだよ。こいつだけはどうあっても」

 

 笑みを浮かべてそう言い、ゾロは刀を納めて背を向け、歩き出してしまった。

 とどめを刺さなかったのである。

 こんな侮辱があっていいのか。決闘に負けた相手を見逃し、とどめさえ刺さない。これをこのまま見逃してしまっていいはずがないだろう。

 悔しげに歯噛みしたたしぎは思わず叫んだ。

 

 「なぜ斬らないッ!」

 

 ゾロの足が止まった。

 激情に任せて考える前に言葉を放つ。普段の彼女らしくない姿だが今だけは。この状況だけはそうせずにはいられなかった。

 

 「私が、女だからですか」

 

 振り返ったゾロと視線が合う。勝手に出てくる言葉は尚も止まらない。

 

 「女が男より腕力がないからって、真剣勝負で手を抜かれるのは心外です。私は海兵になる時に覚悟を決めました。死ぬことだって怖くない」

 「へぇ。そうかい」

 「……いっそ男に生まれたかったなんて気持ち、あなたにはわからないでしょうけど。私は遊びで刀を持ってる訳じゃない!」

 

 冷静、というよりも冷徹に見つめ、ゾロはしばし答えなかった。

 地面を殴る雨が騒がしい音を発するものの、辺りは驚くほどの静寂に包まれている。

 やがてゾロが口を開き、たしぎへの返答を発した。

 

 「おまえが何を思ってようが勝手だが、自惚れるなよ」

 「なっ――」

 「おれが何度挑んでも勝てなかった相手は女だ」

 

 たしぎの表情が変わっても言葉は止めずに言い切る。

 いつになくゾロは真剣な顔つきだった。

 

 「鍛錬を積みさえすりゃ男に勝てる女なんざいくらでも居るだろ。ウチの剣士もそうだ。おまえがおれに勝てなかったのはただ実力の差があった。それだけだ」

 「くっ、そんなこと……!」

 「てめぇの腕の無さを性別のせいにするなよ。そういうのは弱い奴がするもんだ」

 

 ぐっと歯噛みして、ぐうの音も出ない。

 たしぎは言葉を返せなくなって彼を一心に見つめ、かつてないほどの悔しさに耐える。

 言いたいことを言い終え、ゾロは簡単に背を向けた。

 

 相手にするまでもない、ということか。

 敵に背を向けて去っていく様を見て平静でいられるほど、彼女は完成されていなかった。自らの無力を嘆き、悔しさに耐えかね、ついには涙まで浮かんでくる。

 

 「そんな程度の覚悟なら刀なんざ捨てろ。わざわざおれが斬るまでもねぇよ」

 「くそぉ、馬鹿にしてっ!」

 

 叫ぶものの立ち上がれないたしぎは彼を見送るしかなく、背中はどんどん離れていく。

 ゾロは見守っていたシルクへ駆け寄った。

 

 「おい、行くぞ」

 「うん。ねぇ……ゾロはやさしいね」

 「あ? 何言ってんだ」

 「ふふ、なんでもないよ」

 

 二人は走り出して遠ざかり、後悔もなくその場を離れる。

 その姿のなんとあっさりしたことか。敵を目の前にして背を見せ、戦うことなく去る。剣士としては間違っていると思わずにはいられない。

 しかしゾロはもう振り返ろうとはせず、シルクも剣を納めて行ってしまった。

 

 重苦しい空気に包まれ、海兵たちは緊張した面持ちで口が利けなくなる。それでも敵を見逃してはいけないだろうと判断するため、跪いたたしぎへ声をかけた。

 彼女は敗北に打ち震えていて冷静ではない。まず我に返す必要があったようだ。

 

 「曹長……たしぎ曹長!」

 「は、はい」

 「どうしますか。早く奴らを追わなければ」

 「え、ええ……そうですね」

 

 声をかけられてようやく平静を取り戻せたらしい。その頃には二人の姿は見えなくなっていた。

 肉体よりも精神的な影響か、ふらつく足でなんとか立ち上がる。

 たしぎは彼らが消えた道の先を見据えて唇を結んだ。

 

 逃がす訳にはいかない。

 処刑台での出来事を見ていた時点でそう思ったが、今はさらに想いが強くなった。

 

 たしぎの標的は決まった。海賊狩りのロロノア・ゾロただ一人。

 自らを負かした相手を、名刀を持たせたまま自由にさせておくつもりはない。今こそ覚悟を決める時だ。もう弱音を吐いたりはしない。

 強く自分に言い聞かせて時雨を拾う。

 鞘に納めず手に持ったまま、彼女は部下へ指示を出した。

 

 「麦わらの一味を追います! 急ぎましょう!」

 「はっ! 了解しました!」

 

 遅れて彼女も部下を連れて駆け出し、今度こそ覚悟を決めてゾロに対面すると決意した。

 ここまで海賊を捕まえたいと思ったのは初めての経験である。

 表情はすっかり変わってしまい、以前までとはまるで別人のようになっていた。

 


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