朝、目が覚める。そこは俺の部屋であると同時に俺だけのものではない部屋、そしてまだ見慣れない部屋。この部屋に引っ越してきてからそれほど月日が経っていないからしょうがないと言えばしょうがない。
ムクリと身体を起こしてすぐ横を見るが、既にそこには誰もいない。寝坊したわけではないが、それでも
自分も起きようとベッドから降り――ようとしたら、何故か盛大に転んでしまった。それはもう派手に転んだ。いくらこのベッドで寝ることに未だ慣れていないとはいえ、それでもベッドから転げ落ちるほど運動神経が悪いわけでも目覚めが悪いわけでもない。しかし、まるで
「イタタタ……え?」
打ち付けた腕を摩りながら改めて身体を起こそうとして、自分の声にも違和感を覚えた。
「なんだコレ……昨日酒焼けするほど飲んだっけ……?」
そもそも酒焼けならばしゃがれて低くなるはずなのだが、何故かいつもよりも
違和感は続く。
「……え? ……あれっ!?」
なんだろうコレ、何処かで見覚えのあるような光景……。
「あっ、そうだ、『不思議の国のアリス』だ。赤だったか青だったかの薬を飲んだら、身体の大きさが変わって……」
……
ふと浮かんだ嫌な予感に、俺は慌てて部屋の片隅に置いてある姿見の前に走った。
「……っ!? な、なんじゃこりゃあああぁぁぁ!?」
その姿見に映った自分の姿を確認した俺は、思わず絶叫してしまった。
「ど、どうしたんですか!?」
俺の叫び声を聞きつけた彼女が慌てて部屋に飛び込んでくる。
「……え? ……あ、旭……君……?」
「か、楓……」
そしてしっかりと俺の姿を確認しつつも確信が持てないまま俺の名前を呼ぶ彼女に、とりあえず把握することが出来ている現状を簡潔に伝えるのだった。
「……なんか……か、身体が小さくなってるんだけど……」
神谷旭、二十五歳、新婚。
朝、目が覚めたら『十ニ歳の子ども』になっていた。
……と、いうのが
原作は『子どもになってしまった夫とその妻の日常』を描く小説だ。俺も原作を読んだことがあるのだが、とても面白くて読みやすい。子どもの夫と大人の妻という二人の関係に自分と楓さんを当てはめて色々と妄想してしまったものである。
……ただそれがドラマ化するにあたり、ピンポイントで俺と楓さんが主演にキャスティングされるとは流石に想像出来るわけがなかった。
なんでも制作を担当することになった監督が原作を読んで『子どもと大人の夫婦』という関係で真っ先に思い付いたのが、普段から『神谷旭』へのラブコールを憚らない『高垣楓』だったらしい。そして「いっそのこと本当に夫婦役をやらせるのも面白いかもしれない!」とオファーをかけた……というのが、俺と楓さんが抜擢された理由である。
一応俳優としての誇りのために言っておくが、俺は夫婦役の相手が楓さんだから出演を決めたわけではない。そもそも話が持ち込まれたときは妻役が誰なのか、誰にオファーを出したのかという話は聞かなかった。出演が決まってから相手が楓さんだと知らされたときは驚きすぎて本当に椅子から転げ落ちてしまったほどである。
そんなわけで、俺と楓さんは『夫婦役』としてドラマの撮影の真っ最中なのであった。
「お疲れ様です、旭君。はいどうぞ」
「楓さん、ありがとうございます」
カットがかかり、監督やスタッフたちが撮影していた映像を確認している間、主演である俺と楓さんは用意された椅子に座って小休憩。楓さんがペットボトルのお茶を貰ってきてくれたのでそれをありがたく受け取る。
今日の撮影場所は夫婦の住む部屋となるマンションの一室で、原作は殆どこの部屋でお話が進んでいく。事前に見せてもらった脚本では原作よりも外のシーンが増えていたが、それでもこの部屋とは長い付き合いになりそうだ。
「まさか本当に夫婦役でドラマに出演することになるとは思いませんでしたね」
「俺もですよ。というか誰も思わないですって」
ニコニコと上機嫌で話しかけてくる楓さんは、椅子に座ったときから距離が近い。わざわざ椅子を近付けてまで距離を詰めてきたので、殆ど腕と腕が触れ合っている。そんな恋人の距離感の俺と楓さんだが、周りのスタッフたちはまるで微笑ましいものを見るような目だった。
勿論、本当に恋人同士であることは公表していないが、俺と楓さんがお互いにお互いの大ファンだということは知れ渡っている。なのでコレは楓さんに対しては『お気に入りの子と一緒仕事が出来てよかったね~』という視線であり、俺に対しては『美人なお姉さんに可愛がってもらえてよかったね~』という視線でもあるのだ。
……一部の男性スタッフからの視線に嫉妬や羨望の感情が混ざっていることに関しては、見て見ないふりをする。
「撮影再開、遅れてますね」
どうやら監督は窓の外の天気に拘りたいらしく、厚い雲が切れて陽が差してくるのを待っているらしい。これはもう少し休憩が長引きそうだ。
「あっ、旭君、お菓子食べますか?」
ポンッと手を叩いた楓さん。近くに置いてあった手提げ鞄の中から取り出したのは、チョコが付いた棒状のスナック菓子。何の変哲もないポピュラーなお菓子だった。
撮影の始まりが早くお昼まで時間がある。少し小腹を満たすのも悪くない。
「はい、いただき――」
「あーんっ」
完全に小袋から一本貰う体勢になっていたのだが、目の前に突き出されたお菓子に動きを止める。
「……か、楓さん?」
「うふふっ、恥ずかしがらなくていいんですよー、私たちは『夫婦』なんですからー」
ニコニコと笑う楓さん。モデルやアイドルとして表舞台に立つ際の控えめな笑顔ではなく、プライベートでの、もっと言うならお酒を飲んでいるときに近い笑顔だった。
「………………」
他のスタッフたちに見られている状況でのアーンは、どれだけ取り繕ったところで恥ずかしいものは恥ずかしい。なんかわざわざこのやり取りを見たいがために動きを止めているスタッフがいるぐらいだし、なんだったら監督も窓の外を気にしつつチラチラこっちを見ていた。完全に注目されている状況でのアーンに怯まない奴はいないだろう。
「……あ、あーん」
しかし俺は「夫婦なのはドラマの設定でしょ」というツッコミの言葉と「流石に人前では」という遠慮の言葉を静かに飲み込むと、素直に口を開けた。スタッフの誰かの「おぉ……」という声が聞こえてきたが、俳優として必死に平静を装いつつお菓子を咥えた。
なんとなく想像はしていたが、俺がお菓子を咥えても楓さんは手を放してくれなかった。仕方がないので、そのままポリポリと食べ進める。
――カシャ
それは、あと少しで食べ終わるというタイミングで聞こえてきた明確なシャッター音だった。
「っ!?」
思わずお菓子を咥えたまま音が聞こえてきた方に首を向けると、そこにはこちらに向かってスマホを構えてニヤニヤと笑う女性スタッフの姿が。
「ちょっ、な、なにを……!?」
「楓さ~ん! いい写真撮れましたよ~!」
「ホントですか? 見せてください」
「楓さん!?」
女性スタッフの行動に苦言を呈そうとした矢先、アッサリと楓さんがそちらの味方に付いてしまった。それどころか他のスタッフも誰一人彼女の行動を咎めようとせず、楽しそうにスマホを覗き込む始末。
「わぁ……この旭君凄く可愛いです。私のスマホに送ってもらってもいいですか?」
「勿論ですよー!」
俺はまだ見ていない……というか色々な意味で怖くて見れない写真を、どうやら楓さんは気に入ったらしい。スタッフからその画像を送ってもらいご満悦な楓さん。不意打ちの盗撮紛いの産物なのが釈然としないが、楓さんが喜んでいるのであれば良しということにしよう。そう考えよう。
「マネージャーさん、これ、SNSに上げてもいいですか?」
「楓さん!?」
「「許可」」
「うそぉ!?」
「わーい」
流れるように俺と楓さんのマネージャーから許可を貰った楓さんが流れるようにSNSに画像を上げて流れるように俺のスマホに次々メッセージがあああぁぁぁ!?
「うわエグいことになってる……」
結局見ることになったその写真は楓さんが俺にお菓子を食べさせている様子を真横から撮ったものだった。楽しそうな楓さんに、表情は取り繕っても耳が真っ赤な俺のツーショット。ご丁寧に『今日から撮影開始。旦那様にあーんしちゃいました』なんてメッセージと共に公開されたそのSNSは瞬く間にネットの海で拡散されてしまった。
当然俺のスマホにもその余波が広がっており、友人やら知り合いやら先輩から『これはどういうことだ!』的な内容のメッセージが大量に届いていた。一応やっかみだけではなく純粋に羨ましいといった友好的な内容のもあるのが救いではあるが……おい『ちょっと籍入れたのは聞いてないわよ』とか『式場ならばお任せくださいまし』じゃねーんだよ梨沙に桃華。
「いやー本当に幸せもんだぞー旭君! こんな美人なお姉さんがお嫁さんになってくれるんだから!」
女性スタッフの一人がそんなことを言いながらグラグラと頭を揺すってくる。当然その発言は
(……でも)
チラリと楓さんに視線を向けると、何を思ったのか彼女は二本目のお菓子をこちらに向かって差し出して来た。あーんリターンズである。
「……あーん」
二本目を素直に受け入れると、再び周りの女性スタッフが色めき立つ。
いつかはするつもりではいるものの、今はまだ公表するには時期尚早な俺と楓さんの関係。
疑似的なものだと思われようとも。ドラマの関係の延長線上だと思われようとも。
今この瞬間、間違いなく『神谷旭と高垣楓が夫婦』だと認識されていることが。
この上なく幸せだった。
椛「ドラマの設定とはいえ、本当にお父さんとお母さんが夫婦になった!」
月「ちょっと考えると謎な文章ではあるけど、確かにそうだね」
椛「二人とも、周りに夫婦だって公言することが出来て嬉しそう」
月「そうだね……そういうところは、やっぱりお父さんとお母さんだって思う」
椛「……久しぶりに、『私たちのお父さんとお母さん』に会いたくなって来ちゃった」
月「……うん、私も」