「……はぁ」
口から漏れ出たのは、我ながら重いため息だった。『ため息をすると幸せが逃げる』とも言われるが、既に俺の中にそんなもの微塵も残されてはいない。
俺はきっと、今日という日を後悔し続けるだろう。
「どうしたの旭君、そんなため息吐いて」
……と思ったけど『高垣楓が恋人』という現状以上に幸福なことは何もなかったので、きっとそんなことはなかった。
「まぁ、ちょっとな」
とはいえ、それでも気が滅入ることがあったことには変わらない。しかしそれを楓へと愚痴るつもりはないので、そんな当たり障りもない返事をしておく。
「……なーんて、本当
「えっ」
カーペットの上に正座をして洗濯物を畳んでくれていた楓は、そんなことを言いながら微笑んでいた。最近ではこうして俺の服を洗濯したり掃除をしてくれたり、まるで通い妻のようになってきた楓。最近は部屋の合鍵の交換も済ませており、半同棲のような生活が始まりつつあった。
「……分かりやすかったか?」
「違うわ。
「っ」
自信満々にそう言い切る楓に、思わず彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。いや、別に自宅で二人きりなので抱きしめたところでなんら問題はないだろうが、こんな些細なことでイチイチ彼女を抱きしめていたら今後様々な場面で大変なことになるだろう。例えば外で楓と一緒になったとき、まだ俺たちの交際は公にしていないのでお互いにただの同僚として接しなければならない。そんなときに楓の些細な発言に思わず抱きしめてしまったらどうする? 俺たちの関係を知らない人からしてみたら確実にセクハラだと思われてしまう。それだけでもかなり致命的だというのに、俺の楓への想いがセクハラなんてものとして認識されてしまうこと自体が腹立たしい。そうならないためにも俺は今こうして衝動的に楓のことを抱きしめないようにならないといけないのだ。そう、これは俺のくだらない意地とかそういうものではなく、まだまだ慎重に行動をしなければいけない俺と楓の将来のことをしっかりと考え――。
「えいっ」
――たけど、楓に俺の頭を抱えるように抱きしめられたからどうでもよくなった。
世間的にはモデル体型だとかスレンダーだとか称されている楓だが、こうして触れ合うとしっかりと女性らしい体つきをしていることがちゃんと分かる。
「もう、そんなに無理しなくていいのに」
「別に無理してたわけじゃないんだけどな」
それが俺の最後の強がりだということを見抜いたらしい楓がクスリと微笑む。
そして楓は俺の両頬に自身の両手を添えると――。
「んー」
――目を瞑り、ちょこんと唇を突き出した。
「……えっと」
どうやら俺が悩んでいたことに関して全く把握できていなかったことだけは理解できた。ちょっとだけ寂しい気持ちになったが……それはそれとして。
「んっ」
結局、その甘美な誘惑に抗うことが出来ない俺であった。
「えっ……違うの?」
「申し訳ないが」
たっぷり十分かけて楓の唇を堪能した後で、正直に違うことを白状した。
「……私は、その……てっきり、今日まだ一回もキスしてなかったから……」
恥ずかしそうに楓がポッと頬を染める。
「……ううん、本当は、私がしたかっただけ」
「いや、俺もしたかったから間違いじゃない」
ちゅっと首筋に唇で触れると、楓はくすぐったそうに俺の腕の中で身じろぎをする。そんな彼女を逃がさないようにさらに強く抱きしめた。
「……はぁ、結局楓のことに関しちゃ、どうにも我慢出来そうにないな」
「? 我慢してたの?」
「しようとしたけどダメだった」
「……二人きりなのに?」
俺の顔を見上げるようにコテンと首を傾げる楓。このままだと休日を延々と楓とイチャつき続けることになりそうなので、そろそろ自重しよう。……頭の片隅では「それでも別に問題ないんじゃないか?」と言っている悪魔がいるが無視する。ついでに「恋人を愛することは大切なことです」とか言っている天使までいるが無視する。敵しかいないじゃないか!
「今はいいさ。いざ外でそういうことがあったとき、我慢出来ないと周りにバレるだろ? ただでさえこの間、川島さんと片桐さんにバレたんだから」
楓のウッカリによりついに俺たちの関係がバレてしまったが、その相手が楓の友人である上にアイドルという俺たちの立場をしっかりと理解してくれる人だったのが幸いだった。
「こんな幸運が何回も続くとは思えないから、自分たちでしっかりとしないと」
「………………」
「お返事が聞こえないなー?」
プイッとそっぽを向いた楓の脇腹をくすぐる。
「ふ、くふふっ、もう、旭君のえっち」
「何をー? 本当にエッチっていうのはだな……って、違う違う」
また流されそうになった。見ると、楓はウインクをしながらペロッと舌を出していた。この……小悪魔め……可愛いなぁチクショウ。
「それで、結局どうして旭君はため息なんて吐いてたの?」
随分と遠回りをしてきたが、ようやく話がスタート地点に戻ってきた。
「……あーっとだな」
さて、改めて何があったのかを思い返してみたのだが……え、コレを楓に言うのか?
「………………」
俺の言葉を待ってくれている楓。きっと彼女は、純粋の俺のことを心配してくれていた。先ほどまでのやりとりも、それを紛らわす彼女なりの方法だったのだろう。
心配させてしまった以上、これ以上の黙秘は通用しないだろう。
だから俺は、それを正直に口にする。
「実はな……」
「……うん」
「……楓の新曲『Blessing』の初回限定盤が手に入らなかったんだ……」
「……うん?」
『こいかぜ』『月の華』に続き、ついに発売された楓の新曲『Blessing』がついに発売された。恋人としてだけでなくアイドル『高垣楓』のファンでもある俺は、当然それを手に入れようと試みた。しかし予約はものの一分で全滅し、当日発売分も店先に徹夜どころか三日前から人が列をなす始末。勿論俳優として多忙な生活を送っている俺に同じ真似が出来るはずもなく、希少な初回限定盤の購入という俺の望みは叶うことなく露と消えてしまった。
「……えっと、言ってくれればそれぐらい用意してあげたのに……」
「違うんだ……自分の力で手に入れてこそ、それに価値があるんだよ……!」
そして何より、まるで
それだけは、絶対に、絶対に負けたくなかった。
「だからそれがどうしようもなく悔しくてな……」
おまけに発売日に真っ先に楽しむつもりだったから、未だに新曲がどんな曲なのかも知らない状況だ。我ながらバカらしいと思いつつも、自己嫌悪に苛まれて仕方がなかった。
「……ふーん」
若干楓の声が冷たい。流石に理由が理由過ぎて呆れられてしまったのだろう。
「そーですかそーですか。旭君はそんなことでしか私に愛を示せないんですか」
「……えっ」
しかしどうやら呆れの方向性が違うようだ。
「私はさっきの口付けからたっぷり愛を感じてたのに、それは勘違いだったのかしら?」
「っ、それは」
勿論違うと否定しようとしたら、楓の人差し指が俺の唇を押さえた。
「だったら、そういうこと言っちゃダメ。……悲しくなっちゃうから」
「……ゴメン」
「またギュッてしてくれたら、許してあげる」
両手を広げる楓の身体を、再び抱き寄せる。
「……アイドルとしての愛は無理でも、高垣楓としての愛は貴方だけのものだから」
「……ありがとう、楓」
「私のこと、愛してる?」
「愛してる」
「私も」
お互いにギューッと強く抱き締める。
確かに、これだけは誰にも譲れない、俺だけの特別だった。
「それじゃあしっかりと反省してくれた旭君には、特別なご褒美があります」
「ご褒美?」
「えぇ。……ちゃんと聞いててね?」
そう言うと楓は俺の隣で背筋を伸ばして居住まいを正した。
そしてスゥッと息を吸い込むと――。
「――っ」
――楓の口から、旋律が紡がれ始めた。
マンション故に声量は抑えられ、しかしその歌声は力強く、そして
つまりこれが『高垣楓』の新曲『Blessing』なのだろう。
「――っ」
チラリと横目でこちらを見ながらクスリと笑いつつ、しかしその歌声は揺るがない。
(……ありがとう、楓)
歌の邪魔をしないように心の中で感謝の言葉を述べつつ、意識は楓の歌に集中する。
とある休日の昼下がり。
高垣楓による、俺のためだけに行われるワンマンライブ。
値千金なんて言葉ですら生ぬるい贅沢を噛みしめつつ。
俺は楓の
『Blessing』が収録されている『Sunshine see may』を危うく買い損ねたので、こういうネタになりました。
予約してなかった作者が悪いのは分かってるが、流石に発売日に買いに行って「前日に売り切れました」って言われたときはブチ切れ案件だったゾ……。
というわけで、みんな『Blessing』聞いてね! すごいよ!(語彙力喪失)