「はい旭君、あーん」
「あーん」
楓が焼けたばかりのクッキーを摘み上げながら差し出して来たので俺は素直に口を開けて食べさせてもらう。
「どう?」
「うん、美味い」
「……ふふっ」
「ん?」
モグモグとココア味のそれを咀嚼していると、エプロンを外しながら突然楓が笑い出した。
「昔の私からしたら、こうして普通にお菓子を作ってる姿は想像出来なかったんだろうなって思って」
「……確かに」
「……そこは旦那様として『そんなことないだろ』って言うべきじゃない?」
「いやだって」
今でこそ禁酒しているが、それまでの楓からだったら正直酒の肴を作っているイメージしかない。学生の頃はどうか分からないが、見せてもらった昔の写真と基本的に物静かだったという情報から趣味でお菓子作りに勤しむなんて姿は想像出来なかった。
勿論一人暮らしをしていたわけだから自炊はしっかりと出来る。それでもアイドル『高垣楓』の姿からは結び付きそうになかった。やはりモデルの仕事のときに凛として立っている姿か……もしくは酔っぱらって笑っている姿の方が容易に想像できた。
「……どーせ私は、愛梨ちゃんみたいにお菓子作りは似合いませんよー」
ふんっとそっぽを向いてしまった楓。そこで十時の名前が出てきたのは……まぁそういう意味なんだろう。
こちらに背を向けてしまった楓を後ろから抱きしめる。所謂あすなろ抱きというやつで、楓のお腹が大きくなってきてからは彼女を抱きしめるときは大体これだった。
「ごめんって。俺も、ほにゃほにゃに酔って可愛くなった楓を長らく見てないから、寂しくて意地悪言っちゃったんだ」
段々と母親になっていく楓の姿もそれはそれで美しいのだが、やっぱり彼女のあらゆる姿に惚れた身としては、例えどんな一面であろうとも見れなくなるのは寂しいのだ。
ごめんよーと言いつつそのまま楓のうなじに軽く唇を押し当てると、彼女はくすぐったそうに身を捩った。
「もう……許してあげる。でも、あんまり意地悪しちゃ嫌よ?」
「んーでもやっぱり拗ねてる楓も可愛いしなぁ。時々だったら、意地悪してもいい?」
「こーら」
反省してないなーと鼻を摘ままれてしまった。
ピンポーン
しばらく二人でイチャコラしていると部屋の呼び鈴が鳴った。エントランスの呼び鈴ではなく部屋の前の呼び鈴が直接鳴らされたということは、どうやら本日の客人がやって来たようだ。
「私はお茶の用意しておくわね」
「ん」
夫婦二人の時間は一旦お休みして、俺はキッチンから玄関へと向かうと、合鍵を渡してある彼女は既にドアを開け、二人の連れと共に玄関の中へと入って来ていた。
「よっす兄貴」
「「お邪魔しまーす!」」
「三人ともいらっしゃい」
というわけで、本日の客人は奈緒と凛ちゃんと加蓮ちゃんの三人である。折角の休日に三人でオフなのだから何処かへ遊びに行けばいいのにとも思ったのだが、たまにはゆっくり俺たちと話したかったそうだ。……その対象は主に楓だろうが。
楓が突然クッキーを焼き始めたのも、三人のためにお茶菓子を用意するためである。今はまだお腹の中にいる子どもにも手作りでお菓子を作ってあげたいそうなので、その練習も兼ねていた。
「ほい兄貴、お土産。ジャムの詰め合わせ」
「サンキュ。お茶に入れるか」
「私は、芸がないかもしれないけど……お花、持ってきました」
「おぉ、ありがとう。いいよ、やっぱり生花があるとそれだけで気分が落ち着くから」
「私からはモクドナルドのフライドポテト! ……と言いたいんですけど、二人に怒られたのでやめました……代わりにコレ、アロマです」
「よくぞ思い止まってくれた」
三人からお土産を受け取り、共にリビングへ向かう。対面式キッチンの向こう側ではちょうど楓が上の棚からカフェインレスのハーブティーの茶葉を取り出そうとしていた。
「三人とも、いらっ――」
「何やってんだよ義姉さん!?」
「――しゃい……え?」
楓の姿を見るなり、奈緒が突然大声を上げた。楓は何のことか分からず目を白黒させており、かく言う俺や凛ちゃんと加蓮ちゃんも呆気に取られている。
奈緒はキッチンの向こう側へと走ると、楓に駆け寄って彼女の体を支えるようにガシッと肩を掴んだ。
「今の義姉さんの体は一人だけのものじゃないんだぞ!? もうちょっと気を付けてくれよ!」
「えっ……あ、うん、ありがとう奈緒ちゃん、心配してくれて。でもこれぐらいだったら、適度な運動にもなるし……」
「適度な運動と危険な行動は別物だよ! お茶だったらアタシが淹れるから、義姉さんは座っててくれ!」
「あぁいや、それなら俺が淹れるから――」
「兄貴は義姉さんの側にいて、何かあったら代わりにやるのが仕事っ!」
「――アッハイ」
結局、楓のついでに俺までキッチンから放り出されてしまった。俺が一人暮らしをしている頃から何度も来ているので、勝手知ったるなんとやら。奈緒は手慣れた様子でお茶の準備をし始めた。
「……張り切ってるなぁ」
「奈緒ってば、楓さんが妊娠してからずっとあんな感じだもんね」
「そーそー。普段も、何かある度に楓さんや赤ちゃんのこと考えてるみたいなんですよ」
凛ちゃんと加蓮ちゃんはそう言いつつクスクスと笑っていた。
多少過剰ではあるものの、楓やお腹の中の子どものことを全力で案じてくれていることに対しては、とても感謝している。関心を持たれないよりずっとマシだ。
「なんというか……そう、一緒に飼われている大型犬を守ろうとして周りに向かって必死に威嚇している小型犬……みたいな?」
加蓮ちゃんの例え話が的確すぎてぐうの音も出なかった。楓ワンコを背に必死にキャンキャン吠えている奈緒ワンコの姿が容易に想像できた。
「旭さんと楓さんが結婚するって知った直後は、ずっと余所余所しかったのにね」
「今では楓さん大好きを隠そうとしないもんね」
そう言えばそうだったなぁ。確か……夏にこの五人で事務所の保養所に行って、そこで打ち解けたんだっけ? 結局二人でどんな話をしたのかは教えてもらっていないが、あの日を境に楓と奈緒の距離がグッと近付いたのは間違いない。
ともあれ、奈緒がお茶を淹れてくれている間、俺たちはリビングのソファーに腰を下ろして大人しく待つことになった。
「……ねぇねぇ旭さん、奈緒が楓さんと初めて会ったときって、どんなでした?」
「ん? 奈緒と楓が初めて会ったとき? ……いや、それは俺も知らないけど」
「あ、えっとそうじゃなくて」
「加蓮が言いたいのは、多分楓さんを
「そう、それ!」
あぁ、成程そっちか。
確か……楓にプロポーズして、その二週間後ぐらいに楓を実家に連れて行った。そこが奈緒にとって『アイドルの先輩』としてではなく『兄の結婚相手』として楓に会った初めて会ったときのことになる。
「そうだな――」
「ごめんなさい、旭君。少しだけ撮影が押しちゃって」
「大丈夫、気にしてないよ」
サングラスに帽子という定番の変装姿の女性が車の助手席に乗り込んでくる。彼女は勿論楓で、仕事終わりに駅前で待っていてもらい車で迎えに来た次第である。
「………………」
「……緊張してる?」
そのまま車を走らせるのだが、隣の楓は窓の外を見つめながらずっと黙っていた。
「うん……旭君は平気?」
「まさか。すげぇ心臓バクバクいってる」
「本当だ」
「コラ運転中は止めろ」
さわさわと俺の胸元に手を当ててくる楓を咎める。クスクスと笑っているので、それほど深刻に緊張しているわけではなさそうだが……それでも、その綺麗な二色の瞳から不安の色は拭いきれていなかった。
……無理もない。何せ、今日は初めて
勿論、その目的は結婚の報告である。
お互いに芸能人という身の上なので、交際していたということは一部の人間を除いて隠されていた。その一部の人間というのはあくまでも事務所の人間や一番親しい仲間内のことを指すので、申し訳ないことにお互いの両親は含まれていなかった。なので、両親は俺と楓が交際しているという事実すら知らない状態なのだ。
「突然彼女を通り越して結婚相手を連れてきたんだから、二人とも驚くだろうな」
「……反対されたりしないかしら」
「寧ろ『よくこんな嫁さんを見つけてきた!』って褒められると思うけどな」
俺だったら、自分の息子が結婚相手として高垣楓を連れてきたら、それはもう「でかした!」と全力で褒めちぎると思う。
「それだったら嬉しいけど」
「大丈夫。あの二人なら分かってくれるさ」
「……うん」
東京から千葉にある実家まで車を走らせ、到着したのは夕方だった。
「……ここが、旭君の家なのね」
「あぁ。物心つく前からずっと住んでた……俺の家」
勿論普通の民家であるが、それでも今までの人生の半分以上は住んでいた家なだけあって、俺にとっては特別の家だ。一応正月にも帰省しているが、それでも約半年ぶりだった。
「予定よりも少し早く着いたけど、まぁ大丈夫だろ」
玄関の引き戸を開ける。
「ただいまー」
多分いつものように奥から母さんがパタパタとスリッパを鳴らして走ってくると思ったのだが、今回は何の反応も無かった。
「……誰もいない?」
いや、玄関の鍵は開いていたのでそれはないだろう。となる……。
「……お、お帰り」
そんなことを考えていると、ひょっこりと廊下の影から顔を出した一人の少女の姿が。
「ただいま、奈緒」
当然というか、この家の住人にして俺の妹、神谷奈緒だった。
「父さんと母さんは?」
「ちょっと用事で出かけてくるって。兄貴たちが帰ってくる前には帰るって言ってたけど……」
「俺たちが少し早く着きすぎたか」
やっぱり二人とも不在で奈緒しかいなかったようだ。
「……で、兄貴。結婚相手を連れてくるって言ってたよな?」
「あぁ」
元々奈緒を経由して両親に結婚相手を連れていくこととを伝えてもらっているので、勿論彼女もそれを知っている。
「……誰もいないじゃん」
「あれ!?」
振り返ると、確かにそこには誰もいなかった。
ビックリして外に出ると、何故か楓が入ることを躊躇していた。
「どうしたんだよ……」
「……や、やっぱり緊張しちゃって」
苦笑しつつ人差し指を合わせる楓。普段の彼女からは想像できない珍しい姿だった。
「大丈夫だって。今ちょっと父さんと母さんいないみたいだから、奈緒しかいないから」
背中を押しながら玄関に入る。
楓の姿を見た途端、奈緒の目が徐々に大きく見開かれていった。
「お、お邪魔します」
「………………」
「……え、えっと」
「……あ、兄貴が本当に楓さん連れてきたあああぁぁぁ!?」
……信じてなかったのかよ、コイツ。
さて、俺の家族という点では楓と奈緒を会わせることも当然目的と一つだったわけだが、当然主目的は両親に会わせることである。
というわけで、一先ず楓と共に客間へと移動。どうやら母さんが用意をしておいてくれたらしく、既に座布団が五つ並べられていた。二つと三つが机を挟んで対面する形になっており、どうやら奈緒も同席することが前提となっているようだった。
「まさかこの客間に、客人側として座る日が来るとはなぁ」
とりあえず二つ並んだ座布団の片方に腰を下ろすと、その隣に楓もスッと腰を下ろした。胡坐をかく俺に対し、楓は正座だった。いや、勿論両親が帰ってきたら俺も正座するけど。
「……お茶持ってきた」
やや遅れてやって来た奈緒は、右手に急須と人数分の湯呑を乗せたお盆を乗せ、左手に電気ポットを持っていた。
「サンキュ」
「ありがとう、奈緒ちゃん」
「……いえ」
(……うーむ)
奈緒は楓と何度か一緒に仕事をしたことがあるって聞いてたんだが……やっぱり、アイドルの先輩としてではなく実兄の結婚相手として会うのはわけが違うか。
そこでムクリと悪戯心が沸き上がった。楓に対してではなく、弄ると愉快なことで大変定評のある我が妹に対しての悪戯心である。
「んじゃ、ちょっと俺は用足しに行ってくるから」
「いってらっしゃい」
「ちょっ……!?」
見送ってくれる楓と、焦った様子でこちらに手を伸ばしくる奈緒。二人を客間に残したまま俺は廊下へと出て行った。勿論用足しは嘘であり、目的は俺がいない状況で、二人がどんな会話をするのかを聞くのが目的である。
(さてと)
トイレへと向かうフリをして廊下の影に隠れる。中の様子は見えないが、それでもここからなら二人の声を聞き取ることが出来た。
――こうしてお話するのは久しぶりね。
――え!? そ、そうですね……。
――この前のライブ以来になるのかしら。
――はい。……その節はお世話になりました。
――ふふっ、どうしたの、改まって。
――あ、いや、その……。
――やっぱり、驚いたかしら。私が旭君と結婚するって聞いて。
――……はい。その……兄貴なんかが、あの楓さんと結婚するとは思わなくて。
――あら、とても素敵なお兄さんよ。一目惚れしちゃうぐらい。
――えっ!? か、楓さんの方からなんですか!?
――んー、どうかしらね。ハッキリとはしてないけど。
――アタシはてっきり、兄貴が何か奇跡でも起こしたのかと……。
――ふふっ、奇跡と言えば奇跡かもしれないわ。こうして出会えたこと自体が、奇跡。
――……本当に、兄貴と結婚するん……ですよね。
――……奈緒ちゃんは、反対?
――そ、そんなことありません! ……ありませんけど……。
――けど?
――……その……アタシにも、よく分からなくて。
――……ごめんなさい、変なこと聞いちゃったかしら。
――いえ、大丈夫です……。
「……うーむ」
てっきり奈緒がテンパって何かしらをやらかすと思ってたのだが、意外とシリアス風味の会話になってしまった。というか、奇跡ってなんだよ。俺も同感だわ。
ついでに二人きりにすることで、将来義姉妹になる二人の仲が少しでも良くなればいいなと思ったのだが……これはもう少し時間がかかるかなぁ。元々楓も奈緒も人見知りする性格だし。
まぁなんとかなるかなとやや楽観的に考えながら、俺はトイレから戻って来たフリをしながら客間へと戻っていった。
「――っていう感じだったな」
「わぁ、やっぱり今と全然違うね」
「まさに借りてきた猫状態……ワンコが猫とはこれ如何に」
「兄貴アレ聞いてたのかよおおおぉぉぉ!?」
キッチンから奈緒の叫び声が聞こえてきた。まぁリビングと繋がってるし、聞こえない方がおかしい。というか寧ろ聞かせるつもりの音量で喋ってたし。
「ふふっ、あのときのそわそわした奈緒ちゃんも可愛かったわよー?」
「義姉さあああぁぁぁん!?」
楓にも裏切られてしまった奈緒。残念ながら、ここにいる全員『奈緒は弄ると可愛い』っていう共通認識だから。
「でも、今みたいに仲良くなったのは夏の旅行のときなんだよね」
「楓、結局あのとき何話したんだよ」
「これは私と奈緒ちゃんだけの秘密。はい、
「くっそぉ……」
顔を真っ赤にしながらお盆にハーブティーを淹れたポットとカップを乗せてキッチンからやってくる奈緒。お盆をテーブルに乗せると、そのまま自然に俺とは反対側の楓の隣に座った。
……まぁ、何はどうあれ。二人が仲良くなってくれてよかったよ。
「はい、それじゃあ……奈緒ちゃんが淹れてきてくれたお茶で、カンパ~イ!」
「違う違う」
○月○日
今日は奈緒ちゃんと凛ちゃんと加蓮ちゃんが遊びに来てくれることになった。
折角なので、三人と一緒に食べるためにクッキーを焼いてみることにした。元々お菓子作りは、バレンタインのチョコレート以外したことがなかったが、レシピ通りにやったので特に失敗することなく作ることが出来た。子どもが生まれて、大きくなったらこうして手作りのお菓子を作ってあげたい。
ちょうど焼きあがった直後ぐらいに三人はやって来たのだが、その際少しだけ高いところに置いてあった茶葉を取ろうとしていたら、お腹の子どものために危ないことはしないでほしいと奈緒ちゃんに怒られてしまった。
結局奈緒ちゃんがお茶を淹れてくれることになり、その間に話題は私が初めて神谷の実家に挨拶へと行ったときのものになった。
あのときはまだ奈緒ちゃんは今のように『義姉さん』とは呼んでくれず、そもそもまだまだ他人行儀だった。当時の日記を振り返ってみると『本当に奈緒ちゃんと仲良くなれるのか、少しだけ不安になってしまった』みたいなことが書いてあった。
大丈夫よ、昔の私。
今ではちゃんと、奈緒ちゃんと仲良くなっているから。
「……ふふっ」
「ん? どうした楓」
「ううん、少し前の日記を読み返してただけだから……っ!?」
「……楓? ……楓っ!?」
今回はツイッター上で行ったアンケートにて最も票が多かった『初めて実家に連れていった時の話』となっております。ちなみに他は『初めてシた翌朝の話』『付き合い初めの頃の話』でした。……まさかこれが一位になるとは思ってなかったゾ。
いよいよ次回の更新は楓さんの誕生日となります。ついにこの小説も二年になります。節目となるお話ですので、気合を入れたいと思います。
そして今日は第七回総選挙の結果発表の日です! 結果によっては短編をあげるかもしれませんので、もしよければツイッターのチェックをば。