「温泉に行きましょう」
それは夜に家でお酒を飲んでいるときの楓の言葉であり、温泉好きの彼女の口癖と言っても過言ではない言葉である。二人でいるとき、特にお酒を飲んでいるときや一緒にお風呂に入っているときにそれを言う頻度が高い。
ちなみに正式に交際する前は「飲みに行きましょう」という言葉を聞く頻度が高かったが、家で二人飲みする機会が増えてからはめっきり聞かなくなった。
俺も楓もアルコールが入るとボロが出やすいので関係がバレるリスクを減らしたいという理由での宅飲みだが、家でならば人目を気にせずにイチャつきながら飲めるからという理由が主だったりする。現に今も肩が触れ合うぐらいソファーに並んでお酒を飲みつつ、お互いに足をスリスリと擦り付けあっていた。
さて話を戻そう。
「そうだな。行きたいな、温泉」
カランカランと新しい氷をグラスに入れながら、楓の言葉に同意を示す。行けるのであれば俺だって行きたい。楓との温泉旅行なのだから二つ返事で了承したいに決まっている。美人の嫁さんとの温泉を拒む理由が何処にあろうか、いや無い。
しかしそこはお互いに社会人であり芸能人の身。特に俺と楓はつい先日の結婚報告で図らずとも(上の人間からしたら狙い通り)注目度や話題性が上がっているため、仕事が増えて余計に時間や予定を合わせづらくなった。
加えて今の楓は
「まぁ、式終わってしばらくして落ち着いてからだな」
それぐらいが現実的だろう。
しかし何故か楓はニコニコと笑っていた。
「旭君も行きたいんですよね?」
「そりゃあな」
「
……え、それが言いたかったわけじゃないよな?
「大丈夫ですよ、旭君」
「……何が?」
――夫婦になる前に、恋人として最後の温泉旅行に行きましょう。
などと楓と話していたのが、ほんの半月ほど前。
その日の仕事である新作映画の舞台挨拶と現在出演中の連続ドラマの撮影を終え、共演者やスタッフたちからの「飲みに行きましょう」という誘いを必殺の「嫁が待ってますんで」で切り抜け、現在俺は愛車で夕方の高速道路をひた走っていた。
なおその際「お前のことが憎かったんだあああぁぁぁ!」と怨嗟の声で飛びかかってくる楓ファンの俳優仲間(独り身)と「ここは任せてお前は行け!」と言ってくれた同じく楓ファンの俳優仲間(妻帯者)とのバトルが繰り広げられていたが、関係無いので割愛しよう。
最近陽が長くなってきたとはいえ、流石に薄暗くなってくる午後七時前。そんな時間に何処へ向かっているのかというと、半月前に楓が言った通り『恋人として最後の温泉旅行』である。
しかし本来ならば楓が座っているはずの助手席は空席。当然彼女を乗せ忘れたわけでもなければ、後部座席に座っているというオチでもない。では楓は一体何処にいるのか?
答えは『これから行く温泉宿で楓が旅番組の収録をしている』で、撮影終了後にそのまま二人で一泊する予定なのだ。
……いや、俺も最初楓からその提案を聞いた時は「マジかよ」って素で聞き返してしまった。しかし楓はその提案をしたときには既に『収録日翌日の午前中はお互いに予定が入ってないことを確認』『上の人間からの許可取得』『温泉宿の予約』を済ませていたのだ。近年稀に見る行動力の高さだった。
勿論「何をやっているんだ」と思わないでもないが、それでも楓と温泉に行けることに間違いはないのでそれを断る理由は無く、こうして喜々として車を走らせている訳である。
高速道路を走ること数時間。すっかりと日が暮れて夜の闇が空を覆った頃、ようやく某県某所の某温泉宿に到着した。
既に撮影スタッフは撤収したらしく、温泉宿は郊外特有の静けさに包まれていた。……地味に今日の撮影の共演者でありウチの妹と同じ名前の
受付に行き予約を確認すると、受付の若女将さんから「既に奥様は部屋でお待ちです」とにこやかに言われた。恐らく俺と楓の事を知っており、更に楓から何かしらを吹き込まれているのではないかと推測する。
とりあえず、楓が待つ客室へと向かうことにしよう。
「お帰りなさいませ、旦那様」
襖を開けて客室へ入ると、そこには二つの枕が置かれた一組の布団の上で三つ指を付いている浴衣姿の楓がいた。
「ベタだなオイ」
ご丁寧に枕元にはティッシュまで置かれており、ベタというか一昔前の下ネタに近かった。
「お疲れ様、旭君。晩御飯は?」
「流石に腹が減ったから途中で食って来た」
時間的にもう旅館で晩御飯は無理だろうと判断し、途中のサービスエリアで適当に済ませてきた。まぁ食べ損ねた分、明日の朝食に期待することにしよう。
「それで、そんな恰好をしてるってことはもう行って来たのか?」
「えぇ。と言っても、撮影で、だけれど。とてもいい温泉だったわ」
「そっか」
温泉宿を紹介する旅番組なのだから、当然楓の入浴シーンも存在するわけだ。水着を着た上からバスタオルを巻いているだろうが、楓が他のスタッフたちの前で素肌を晒したという事実に気付き一瞬だけイラッとした。しかしそんな俺の考えをお見通しらしい楓が優しい目になったので、誤魔化すようにとりえあず羽織っていた上着を
「それじゃあ俺も温泉に行ってくるから、ちょっと待っててくれ」
「あら、まさか本当に一人で行くつもり?」
「……はいすみません、下らない見栄を張りました」
まぁ元々
「一緒に入らないか、楓」
「ふふっ、一緒に入りましょう、旭君」
この温泉宿には混浴風呂というものは存在しないが、代わりに部屋によっては家族風呂が存在し、それは俺たちの部屋にもあった。
「っと」
それなりに広めの脱衣所で着ていた服を脱ぐ。背後では同じように楓も脱衣中であるが、背中合わせの状態なのでお互いの姿は見えていない。お互いの裸ならば既に何度も見ているが、それでも相手に脱衣をまじまじと見られるのは気恥ずかしいものがあるのだ。
「先に入ってるぞー」
入浴準備を先に終えたのは俺だった。一応手ぬぐいで前は隠しつつ、振り返り楓に一声かける。
「ちょっと待って、私もすぐに」
ちょうど楓も最後の一枚であるショーツから足を抜いている最中だった。これで楓の肌を遮るものは一切無い生まれたままの姿となったのだが、彼女も手ぬぐいで前を隠した。これは恥ずかしいからとかではなく、一応自らの恥部を隠すのは他人と入浴する際のマナーである。
しかしそこは所詮手ぬぐい。下半身のみを隠せばいい俺と違い、小さな手ぬぐい一枚では胸と下半身の両方を完全に隠し切れずにチラチラと楓の胸の頂が見え隠れしていた。更に手ぬぐいを持つ腕とは反対の右腕を俺の左腕に絡めてくるので、それが直接俺の肌に押し当てられている。モデル体型と称され彼女自身若干ボリュームが足りないなどと自嘲することもある彼女の身体だが、それでもその女性らしい膨らみは男の心を掻き乱す柔らかさだった。
「別にほんの数メートル歩くだけなのに腕組む必要ないだろ」
「ふふふっ、旭君、鼻の下が伸びてるわよ」
男なんだから勘弁してくれ。
カラカラと引き戸を開けると、モワッと湯気が脱衣所に流れ込んできた。家族風呂とは言えど、そこは流石に楓の出演する番組で紹介される温泉宿なだけあって立派なものだった。竹の柵で覆われており景色がいいとは言えないが、僅かに覗く夜空に浮かぶ月がなんとも風流だった。
「お背中流しまーす」
まずは身体を洗うかと洗い場の椅子に座ると、その後ろに楓が膝立ちで腰を下ろした。
「悪い、頼むな」
「頼まれました」
普段自宅で一緒に風呂に入る際もやっていることなので、楓のその提案に俺は二つ返事で頷く。
自身の手ぬぐいで石鹸を泡立てて、楓はほんの少し力を入れつつも優しく俺の背中を擦り始めた。
「今日の撮影はどうだった?」
「んー、特に問題はなかったかな。NGは……まぁ、何回かあったが」
芸歴が長くてもNGを出すときは出す。
「そうそう、今日久しぶりに撮影の現場で
年齢は奈緒よりも年下だが芸歴でいえば俺とほぼ同期の少女なのだが、以前は周りの期待に応え大人の目を気にして不自然な笑顔だった。それがアイドル部門に転向してからは割といい笑顔を浮かべるようになった。少し気になっていたのだが、今の仕事が楽しそうだったので何よりだ。
「……旭君?」
「あ、ヤベ」
本当に今日あったことを何も考えずに楓に話してしまったが、こういう恋人同士の時間に他の異性の話はNGというのが俺と楓の約束だった。
「ふーんだ。折角765プロの
一分前の俺の馬鹿野郎!
「はい、これでお終い。代わって旭君」
どう謝ればその『胸で背中を流す』をやってもらえるのかを考えていたが、どうやら答えが出る前にタイムアップを迎えてしまったらしい。俺が座っていた椅子に今度は楓が座る。
「それじゃあお願い」
「はい、背中を流させていただきます」
楓から手ぬぐいを受け取り、今度は俺が楓の背中を流す。
ワシャワシャと再び泡立てた手ぬぐい越しに楓の背中に触れる。抜けるように白い肌の、俺がこの女性と結婚したいと決意するきっかけとなった愛おしい背中だった。
「楓の方はどうだったんだ、仕事」
「ふふ、楽しかったわよ。初めて奈緒ちゃんと一緒にお仕事したんだけど、面白い子だったわ。……あ、勿論横山奈緒ちゃんね?」
「分かってるよ」
こうして名前を呼ぶとウチの妹と若干紛らわしいのが玉に瑕だなぁ。
「背中流し終わったぞ。今度は頭か?」
「いいえ、まだ身体が洗い終わってないわよ」
「身体っつっても、あとは……」
「これは約束を破った旭君への罰なんだから」
などと言いつつ、その口調は楽しそうなもの。要するに
「……そっか、罰か。それじゃあ従わないとな」
スッと先ほどよりも身体を楓に近付けると、そのまま背後から楓の前面へと腕を伸ばした。
「……んっ」
まずはお腹と臍辺りに触れると、くすぐったかったらしく楓は身を捩じらせた。そのまま優しく撫でるように擦ると、そのまま腕の位置を上げていく。
「……えっち」
「何を今更」
後ろから抱き着くような形でふにふにと掬い上げるように楓の胸に触る。手にしていた手ぬぐいは楓の膝の上に落ちており、既に身体を洗うという行為そのものが彼方へと消え去っていた。
「次は何処洗えばいい?」
「ここ」
首だけ後ろに振り返った楓は、目を瞑って小さく舌を突き出してきた。
「デリケートなところだから、優しく洗わないとな」
そっと自身の舌を絡ませると、甘美な楓の誘惑に身を任せるのだった。
「「……ふぅ」」
お互いに身体を洗い終え、ようやくゆっくりと温泉に浸かる。当然のように寄り添うように並び、お湯の中ではお互いに指を絡ませあっていた。
「……それで、どうしたんだ?」
しばらくのんびりと心地よい沈黙に身を委ねていたが、そろそろ聞いておくかと口を開く。
「まぁ、どうせ
「……やっぱり、分かってたんだ」
「そりゃあ、こんなタイミングだしな」
アレとは、346プロアイドル部門の行事でありながら事務所を上げて行うビッグイベント――。
――『シンデレラガール総選挙』である。
要するに346所属のアイドルたちの人気投票を行うイベントであり、過去には十時や凛ちゃんが一位に輝き『シンデレラガール』の称号を手にしている。
そんな総選挙において、今まで二位や三位という順位に居続けて『無冠の女王』とも称されているのが楓なのだ。
「……愛梨ちゃんや凛ちゃんたちが一位になったことだって嬉しいのよ? 他の誰が一位になっても、私は心から嬉しいと思うし祝福も出来る」
それでも……と楓は絡めていた指を放し、自身の膝を抱えて顔を伏せる。
「私は、応援してくれている沢山のファンのみんなの期待に応えることが出来なくて、ファンのみんなに申し訳なくて……それにほら、今回は……色々とあったでしょ?」
色々というのはまぁ、間違いなく俺との結婚騒動だろうな。確かに、楓の順位が大きく変動する要因になりえるだろう。
「……もし今回も一位になれなかったら……もしいつも以上に大きく順位が落ちちゃったらって考えたら……その……」
「バーカ」
「……あ、旭君?」
「バーカバーカ、楓のバーカ」
「ちょ、ちょっと旭君……きゃっ」
突然の罵倒に対して流石にイラッと来たらしく抗議の声を上げようとした楓の頭を抱きかかえるようにして抱きしめる。
「期待に応える? なんでお前はそんなもの
「……あ」
「応援や期待に応えて頑張るんじゃねぇ、頑張った結果が応援や期待なんだよ。順番を間違えるな」
結婚騒動に関しては俺が当事者というか容疑者というか、張本人であるためなんとも言えないところがあるが、今こうして横にいる楓と『高垣楓』は別人に近いのだということを分かってもらいたい。
プライベートの楓は俺が貰う。けれど、アイドル『高垣楓』はいつまでもファン全員の『高垣楓』なのだ。
……尤も、俺がそれを言ったところで果たして何人が賛同してくれるか分からないが。
「お前はお前のままでいればいい。投票も終わって後は蓋を開けるだけの今の状況で、お前が気負ってどうするんだよ」
「旭君……」
「それに……俺の中では楓は永遠の一位だ。……それじゃ不満か?」
「今はそういうのいいかなって」
「テメエ」
「冗談よ」とクスクスと楓は笑う。どうやら俺を揶揄うだけの余裕は出来たようだが、もし冗談じゃなかったら先ほど以上に無茶苦茶にしてやるところだった。
「……ありがとう、旭君」
俺の胸に手を当ててしなだれかかってくる楓を、もう一度しっかりと抱きしめる。
「もし今回もダメだったら、ちょっと泣いちゃうかもしれないから……そのときは、慰めてね?」
「あぁ、任せろ」
「それでもし一位になれたら、欲しいものがあるの」
「何だ? やっぱりお酒か?」
楓の欲しいものと言われて真っ先に思いつくものがそれだったが、楓は「ううん」と首を横に振った。
それじゃあ一体何が欲しいのかと……と首を傾げていると、楓は口を耳元に寄せ――。
「……赤ちゃん」
――そんなトンデモナイコトを言われた。
「………………」
「……ダメ?」
いや、ダメじゃないし俺だっていつかは欲しいが。
「……もう少し落ち着いてからな?」
「でも今シちゃえば生まれてきてくれるのは来年の三月ぐらいだし」
「逆算するんじゃねーよ!」
「ケチ」
「ケチじゃない」
「イケズ」
「イケズじゃない」
「大好き」
「俺も大好き」
のんびりお湯に浸かりながら額を合わせる俺と楓を、ただただ月明りだけが照らしていた。
五月十四日
今日のお仕事は765プロの横山奈緒ちゃんと一緒に旅番組の収録だった。義妹になる奈緒ちゃんと同じ名前なので少々戸惑ってしまうところもあったが、とても明るく一緒に仕事をしていて楽しい子だった。
そして収録後はそのまま温泉宿に残り、仕事を終えてやって来た旭君と久しぶりに温泉旅行と相成った。
一人で食べる夕食は少しだけ寂しかったが、その後二人で家族風呂に入ることが出来たのでとても嬉しかった。広いお風呂というのはやっぱりいいものだ。
それだけで十分リフレッシュになったのだが、しかしどうやら旭君には私が総選挙のことを心配しているということを気付かれてしまった。いや、気付かれることを期待していた。
「もしかして今回も」と思ったことは何度もあったし、前回もそうだった。
けれど、一番聞きたかった旭君の「俺の中で永遠の一位」という言葉を聞いただけで、全部吹き飛んでしまった。我ながら単純なもので、こんなベタなセリフにも関わらず、好きな人の口から聞かされるそれは身悶えするぐらい嬉しかった。
期待は背負うものじゃないけれど。それでもファンのために、旭君のために、そして何よりも旭君に誇れる私のために。
願わくば――。
「あ、奈緒ちゃんお帰りー……って、どうしたの!?」
「
「し、しっかりして奈緒ちゃん!?」
今回ばかりは自分で精製した砂糖でタヒるところだったゾ……。
自分で書いてる癖に「もうやだこいつら」とか本気で思った。
さてプロデューサーの皆様はご存知でしょうが、本日(5/14)の21:00に第六回シンデレラガール総選挙の結果発表です。
その結果を受け、5/15 00:00に特別番外編の更新を予定しております。
内容は「楓さんがシンデレラガールになれたか否か」により変化します。
作者はただひたすら祈るだけです。
それでは皆さん、またお会いしましょう。